『日本会議の研究』 菅野完 (扶桑社新書)
なるほどよくできた「物語」ではありますな。どうせなら、タイトルは「日本会議物語」とかにした方が良かった。「〜の研究」なんていうと学術論文のようです。
いや、これは論文の体を装ったエンターテインメントなのかもしれませんね。ストーリー展開はなかなか秀逸なので、ぐいぐい引き込まれてあっという間に読み終えてしまう。
たしかによく調べていますが、その技法は学者のそれというよりも、オタクのそれですね。ま、今や学者もオタクも区別がつかないような感じですけど(苦笑)。
こういう本を読んで「そうだったのか!」と感心してしまう人、洗脳されてしまう人がいると思うと、なんだかウンザリしてしまいます。特に反安倍の方々。
いや、いつも書いているように、私はウヨクでもないし、保守派でもないし、単純な安倍シンパでもないし、日本会議に入りたいと思っているわけでもない。どちらかというと、それらを否定しないがかなり大胆に修正したい立場の人間です(どんだけ上から目線なんだよ!w)。
歴史はそんなに単純じゃないですよ。残っている資料が語るコト、関わった人が語るコトだけでは、その本質は分かりません。語られたコトだけをつないでいくと、どうしてもストーリーになってしまう。ヒストリーは難しいですね。
モノ+カタリ=コトなんですよ。モノをコト化する行為を日本語では「カタル」と言ったのです。だから「かたり」は「騙り」ともなる。
そういう意味では、この本も「騙り」になってしまっていると思います。冒頭で、陰謀論にはくみしないと書きながら、結局、世の「陰謀」がそうであるように、全然「陰」ではなくて明らかなストーリーになってしまう。結果として、ある特定の「悪玉」の存在を想定することになる。そこで思考停止。
実際の世の中はそんなに単純ではありません。コトの補集合たるモノ世界が、無限に茫漠と広がっているのです。
たとえば、私だけが(!)知っているモノとしては、谷口雅春の上に存在する出口王仁三郎の霊的影響力、そして、生長の家、あるいは日本教文社、日本青年協議会の創立や発展に、裏側で深く関わっていた仲小路彰が挙げられます。
私は、それらをたまたま「研究」している、いや単に二人の巨人のファンであるだけですが、ある意味で彼らのあまりに巨大なモノ性を知っている(感じている)者としては、とても「カタル」気になれません。恐ろしい。
日本会議がこうして厳然たる存在感をもって存続している理由、それは、まさにそうした「モノ」に依拠したエネルギーを保持しているからです。それが「まつりごと」である政治に深く関わっているのはもちろんですし、ここまで言っていいか分かりませんが、その中心核の一歩手前には「天皇」の存在があることを忘れてはいけません。
世の中がなぜか「日本会議」ブームです。こうして「とりあえず」明らかにされていく、コト化されていくことによって、結局その本質はますます分からないモノになっていくという面白さ。
この本で分かったような気がして、そこを批判、攻撃して満足する人たちが増える…これこそ、我が国の作法である「国譲り」による高度な戦略、無意識的必勝法ということになるのでしょうか。神々は強いですよ、本当に。
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