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2016.06.21

無縁の慈悲(大慈悲)

Th_img_4356 山向嶽寺にて生徒たちと宿泊座禅体験。私も6度目となります。本当に素晴らしすぎる環境の中、本物の修行僧の皆さんと座禅させていただける幸せは、なかなか言葉で表現できるものではありません。本当に感謝いたします。
 また、毎年うかがう管長さまのご法話のありがたさ。これも実に貴重な体験です。
 今年は「慈悲喜捨」のお話でした。龍樹の四無量心。
 このお話は実にタイムリーだったのですよ。
 というのは…昨日、向嶽寺に向かう寸前に、近所のおばさんが学校を訪ねてきました。なんでも、校舎の裏で子猫が鳴いているとか。猫好きの私が行ってみると、なんと防鳥網に子猫が絡まって動けなくなっているではないですか。
Th_img_4357 さっそくハサミを持ってきてもらい、網を切断して子猫を助けました。どうも昨日からずっと雨の中もがいていたようです。近くで母猫ニャーニャー鳴いて心配していました。もがけばもがくほどますます網は絡まっていきます。もう少し発見が遅かったら、首に絡まった網が締まって死んでしまったかもしれません。
 私は猫好きですから、当然「かわいそう」だと思って当然の行為として救出をしたわけですが、どこか「助けてあげた」「いいことをした」と思っていたのも事実です。「猫の恩返し」とかあるかもな…と(笑)。
 そんなことで、ある意味自らの「慈悲」に自信をもって修行道場に入門したわけです。今思えば実に浅はかですね(笑)。
 管長さまのお話によって、私の「慈悲」は実に小さな慈悲であることが分かりました。龍樹の言葉を使えば「衆生縁慈悲」。「小慈悲」であります。
 私たち凡夫はそれを「慈悲」そのものだと勘違いしてしまうのです。お釈迦様の説いた「慈悲」はもっと大きくて深い。
Th_img_4358 ちなみに「中慈悲」は「法縁の慈悲」。仏法を学んだ末に湧いてくる慈悲です。無常、縁起などの、お釈迦様の教えを知った上での慈悲。私はここまでも行っていない。
 そして、私たちが目指すべきは「大慈悲」。すなわち「無縁の慈悲」です。今日の管長さまのお言葉にもあったとおり、これは「対象のない慈悲」です。
 「対象がない」とは、たとえば私が「子猫を助けてあげた」というように、自己と対象という関係性があるのではなく、いわゆる自他不二の状態になるということです。まあ、簡単に言えば「〜してやる」というような感覚がないということですね(これは教師業には絶対必要なことだなあとも思いました)。
 「無縁」すなわち「対象がない」状態にするためには、その関係性を捨てなければならない。それが「捨」であると。難しいですよね、「捨」は。
 宿泊座禅終了時の感想発表で、この猫の話をさせていただきました。そして、お釈迦様の教えは広くて深い、そのゴールは果てしなく遠い、しかしだからこそ頑張ろうと思えると言いました。素直にそう思ったのです。
 管長さまは、「うまくまとめてくれた」とおっしゃってくださいました(笑)。ホント、まだまだだなあ、自分。


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