高松宮妃喜久子さまの「二・二六事件」観
いよいよ明日は二・二六事件から80年目の日となります。実際には2月26日の早朝での出来事でしたから、準備などを含めると25日から事件はほとんど始まっていたと言えますし、逆に26日朝には一通りのことは終ってしまっていた…結局それ以上の進展はなかったわけです。
昨年の夏から突然、この事件に関する加害者、被害者両方とご縁ができてしまった我が家。ほとんど一緒に住んでいるようなものです(マジです)。
最近、大変な能力をお持ちの方に言われてハッとしました。なぜ「今ここ」に彼らがいるのか…それは、一緒に勉強がしたいからなのだそうです。決して恨みつらみではなく、また加害被害といった対立関係ではなく、純粋に日本の平和、地球の平和を望んでいたからこそ、事件には「未来的」な意味があるのです。そこをしっかり見極めなければならない。
一つの大切なヒントとして、今日は高松宮妃喜久子さまの二・二六事件に関する発言を復習してみたいと思います。先日紹介した菊と葵のものがたりに載っている文章です。
昭和天皇と秩父宮の両方を、ある意味客観的に見ていたであろう三男の高松宮。実は最もよく事件の「未来的意味」を知る人だったのかもしれません。
ちなみに、昭和11年の2月26日は、高松宮さまが強い影響を受けた歴史哲学者の仲小路彰の35歳の誕生日、その日でした。
では、お読みください。
…お兄さまを語るとすれば、やはりどうしても避けて通れないのは、昭和十一年の二・二六事件ではないでしょうか。
殿下が事件渦中の人物であったかのような風説が、今も根強く残っています。それにはそれなりの事情があると思いますが、事件について私は、お兄さまからも宮さまからも、説明らしい詳しい説明を殆ど聞かされておりません。軍の御公務や国の重大事に女性が口をはさんだり、余計な質問をしたりするのは、慎むべきこととされておりました。お姉さまなんか、殿下が連隊から御帰邸になってガチャガチャお外しになる軍刀ですら、素手ではお受け取りにならなかった。お着物の袖でお受けになるんです。海軍は短剣を神聖視したりしないから、うちではそんなことしませんでしたけどね。とにかく御公務の関係は、直接触れてはならない別格の分野で、宮さま方も、私たちには何もおっしゃいません。
それでも、各種の風説は目や耳に入って参ります。秩父宮は北一輝の国家改造案をよく読んでおられて、革新派将校たちに極めて同情的、彼らの景仰のまとだったとか、青年将校の一人は、宮さまが、決起の際一箇中隊引率して迎えに来いとおっしゃったのを聞いている、叛乱軍は秩父宮と相談の上で立ち上がったのだとか、事件直後の秩父宮の御上京に陛下が激怒されたとか、もっとひどいのでは、昭和維新成就のあかつき、今の陛下に代わって秩父宮が天皇になられる予定だったとか、そういうものまでございました。先ほど申しました通り、憶説の生まれる原因はあるんでして、当時弘前の歩兵第三十一連隊の大隊長だったお兄さまが、事件勃発の日の晩、すぐ列車で東京へ向かわれたのも事実ですけど、それに想像の尾ひれがついて伝わると、隊務を差し置いて休暇を取って、何しに上京されるのか。翌日雪の中を水上駅まで、皇国史観超国家主義の東大教授平泉澄博士がお迎えに行って、拝謁を願い出、車中殿下と懇談しているが、あの歴史学者は一体何を申し上げたのか。叛乱軍の中心人物、「安藤立てば歩三立つ」と言われた東京の歩兵三連隊の安藤輝三大尉は、秩父宮があの連隊の軍事教官だった時の教え子、こよなく目をかけて戴いた部下、殿下の方も革新派の安藤大尉から思想上相当大きな影響を受けておられたにちがいないー。
私よくわかりませんけど、真偽取りまぜてのこういう風説が憶測を呼んで、湯浅内大臣のような人にまで疑惑を持たれ、秩父宮はやはり大分あちら側へ傾いていらしたというのが、だんだん定説化していったのではないでしょうか。そんなのちがうと、私は思う。昭和十一年二月二十六日の朝、弘前へ一番に電話をお掛けになったのは、うちの宮さまですよ。第一師団の革新派将校たとが、相当な部隊を動員して重臣を襲撃したらしい、多くの人が殺されてしまって陛下のおそばに頼りになる者だれもいないようだという弟宮の第一報をお受け遊ばして、やがて上京の決心なさるのは、自分たちの手で陛下をお助けしなくてはと、はっきりそのお考えからでした。二十七日の夕方上野へ着くと、そのまま参内していらっしゃいます。陛下はそれをお喜びになったと伺っております。叛乱軍の意を体して天皇説得に行かれたのではありません。まして、君に二心をお抱きになるなんて、そんな順逆を誤ったことあり得ない。かつて御自分のいらした歩兵三連隊の将校団に対する懐かしいお気持ち、部下だった純真な若手将校たちとの日常的な御友情とそれとは別です。お兄さまはこの件に関し生涯、弁明も、通説への論駁もなさいませんでしたけれど、お姉さまが例の晩年の御著書の中で、「国家の軍隊を自分たちの考えで勝手に動かし、陛下の御信頼篤い重臣たちを殺してしまった彼らを、お許しになるはずありません。お怒りは大きかった」という意味のことを言っていらっしゃいますよ。
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