仲小路彰と坂倉準三と丹下健三
昨日行った神宮外苑にも関係する話です。ふと思いついたので書いておきます。
今日は山中湖にて仲小路彰に関する勉強会がありました。ふう、あまりに広くて深くて高くて、本当につかみどころがない人物と思想ですね。「群盲象を撫づ」状態。本当に群れをなしてやらねば全体像に到達できませんな。その第一歩が今日。
その大きさはある意味危険でもあります。特に戦前、戦中の仲小路はほとんど「トンデモ」領域まで行ってしまっています。
またいつか書きますが、かのチャーチワードの「ムー大陸」についても昭和17年発行の『上代太平洋圏』で言及しております。それも白人ではなく原日本人の文化圏だったという…(笑)。
そんな感じですから、伊藤隆先生のおっしゃるとおり「扱い方に気をつけなければならない」部分もたしかにありますね。
さて、そんな仲小路彰が小島威彦と一緒に作った「スメラ学塾」に出入りしていたのが、昭和12年のパリ万国博覧会の日本館(右の写真)の設計で華々しい世界デビューをはたした、建築家坂倉準三です。坂倉は言うまでもなく、コルビュジェに学び「日本的モダニズム」を追求した建築家ですが、帰国後の活動には仲小路彰の影響がかなり色濃くあるようです。
そこで思い出したのが、坂倉準三の弟子でもあった丹下健三のこと。丹下健三のデビュー作にも仲小路彰の影響があるのではないかと。
そう、そのデビュー作とは、以前紹介した丹下健三の『大東亜建設忠霊神域計画』ですね。富士山麓、山中湖畔にそびえる忠霊神殿。
その記事にもいちおう仲小路の名前を記してありますが、その時はまだ仲小路と坂倉準三との関係を知らなかったのです。また、坂倉と丹下との関係も。
というわけで、スメラ学塾が始まったのが昭和15年。仲小路の影響を受けた坂倉が、事実上の弟子でまだ学生だった丹下に、その思想を伝えたとしても全く不思議ではありません。コンペは17年ですから、タイミングもぴったりです。丹下自身が仲小路に会っていた可能性もあります。そしてこの忠霊神殿を富士山麓にというアイデアを授かったとか…ありえますね。
戦後、丹下のこのデビュー作は「ナショナリズム」「ファシズム」に加担したとしてずいぶん非難されました。そうした流れはもちろん現代の靖国問題などにつながっていますね。
ちなみに同時期に全国に作られた「忠霊塔」は今ではある意味その機能を忘れられています。富士吉田の忠霊塔なんか観光名所ですし、「いつもの丘」としてフジファブリックの志村正彦くん巡礼の聖地になったりしてますね。
そうそう、昨日通った聖徳記念絵画館前の道ですが、この前書いたようにほぼ正確に富士山の方向に傾いています。これは丹下の考えた皇居と富士山を直線でつなぐという発想とある意味同じです。もちろん、絵画館は大正時代に作られていますから、こっちの方が先なんですけれど。
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