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2015.08.31

『動乱』 森谷司郎監督作品

 朝分かった驚愕の事実。昨日書いた安藤輝三大尉は、静岡の私の実家と同じ町内の墓地に眠っていたのでした(!)。
 一昨日から昨日にかけての、ほとんど誰も信じてくれないような霊現象の結末は、そういうとんでもない事実でした。そして、さらなる事実が…それについては、いずれお話できると思います。
 さて、そのように急に私たち夫婦に近づいてきた安藤輝三ですが、彼をモデルにして高倉健が青年将校を演じたと言われる映画「動乱」。
 実は私、この映画まだ観ていないのです。というか、その存在すら忘れていました。ところが、今日映画などに詳しい友人が我が家を訪ねてきまして、彼女がこの映画のことを教えたくれたんですね。これもまた偶然ではないでしょう。
 彼女の話の中で面白かったのは、この映画で「陸軍省」とされているのは、旧山梨県庁舎だとのこと。
 なるほど、今はなくなってしまいましたが、けっこう最近まで使われていたあの旧庁舎はなかなかの風格がありましたね。
Th__20150901_93514 上掲の予告編では、5分20秒くらいから登場しています。たしかに…これは見覚えある建物だ(笑)。なにしろ、ここには教育委員会なんかが入っていましたので。だからと言って、日教組の巣窟が陸軍省に…なんて野暮なことは言いませんよ(笑)。そんな思想的なことより、高倉健が来る!っていう方が大事ですよね。
 昭和5年に建てられたこの歴史的建造物は、さすがに県庁としてのお役目を終え、今年「山梨近代人物館」となりました。とりあえず解体されなくて良かった。
 というわけで、明日あたりレンタルかなにかで観てみたいと思います。

Amazon 動乱

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2015.08.30

『憂國』 三島由紀夫監督作品

 夜より所用で静岡市の実家に来ているのですが、信じられないとんでもない「霊現象」が起きて驚いております。
 それによって知らされたこと、それは二・二六事件の首魁として処断された安藤輝三大尉の奥様は、静岡市の出身で、夫亡きあと静岡に戻って洋裁教室を営み、女手一つで二人の息子を育て上げたということです。
 安藤大尉と言えば、事件で鈴木貫太郎襲撃の際、鈴木の夫人の請願を聞き、とどめを刺さなかったことで知られています。
 のちに昭和天皇とともに終戦を導く首相となった鈴木は、安藤のことを「命の恩人」と言っていたとか。考えてみれば、結果的には安藤は日本国にとっても「命の恩人」となったとも言えますね。
 さて、不思議な現象にいろいろ教えられたあと、たまたまこの映画を観ることになりました。
 ご存知のように、この「憂國」は、三島由紀夫が自身の短編小説を映画化したものです。(巻物の)日本語版を観るのは、実は初めてです。
 三島自身の監督主演によるこの映画。二・二六事件決起に誘われなかった新婚の将校夫婦の自害が描かれています。
 憂國、至誠、大義、切腹、死、エロティシズム、能、映画、音楽…いかにも三島らしい要素が詰まっており、これを日本文化の総花と見ることもできますし、なんとなく三島らしい(いろいろな意味での)「痛さ」のデパートと見ることもできると思います。
 平成の世からすると、もう三島の精神性自体が「物語」「神話」となってしまっているのだなあと、私は感じてしまいました。
 特に、ここのところ、不思議な縁で二・二六事件の当事者たち(!)と関わることが多いので、ある意味三島の矛盾が鼻につくのも事実です。つまり、「憂國」と言いながら、どうにも自我が肥大しているという…まあ三島自身はそこに気づいて「カッコ悪い自害」をに至ってしまったのでしょうが…矛盾。
 この映画でも、やっぱり三島は自己に陶酔している。自分が日本であるという真正保守の信念は、そういう危ういバランスの上に成り立っているのです。
 西洋の個人主義を乗り越えるために想定された装置の限界ですね。戦後の私たちはそこをどう超克していくのか、それを試されているのかとも思います。
 武士道という言葉にも疑問を抱かざるを得ません。武士の歴史は、日本の歴史においては案外に短い。当然武士の文化も総体的な日本文化からすると実は浅薄であったりする。
 三島は当然、日本の悠久深淵なる文化をよく理解していたと思われますが、それでもやはり武士的世界にこだわったのは、自我が強すぎたからでしょうか。

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2015.08.29

「ど根性ガエル」の「ど」

20150830_205658 日のドラマ「ど根性ガエル」には、富士吉田の風景が登場しましたね。
 この作品、マンガ、アニメの実写化の難しさをストレートに表現してしまって、ちょっと観てて辛いのですが、今日は見慣れた風景がたくさん出てきて楽しめました。シナリオ的にも今日は今までで一番良かったかな。
20150830_210041 この作品の難しさは、やはりピョン吉だけがマンガやアニメと同じく「絵」であって、実写ではないというところでしょうね。かと言って、つぶれた蛙の実写というわけにもいかず…。
 同様の難しさはデスノートにも言えますよね。CGだからこそできてしまう不自然さ。
 まあ、それはいいとしまして、今日はその「ど根性」という言葉について考えてみたいと思います。
 今日のドラマにも出てきましたが、「根性、根性、ど根性」ということで、今ではいい意味で使われることの多い「ど根性」ですけれども、昔はどちらかというと悪い意味で使われていたようです。
20150830_210126 もともと「ど(どう)」という接頭語には、マイナスの意味がこもっていました。今でも、「どぎつい」「どしろうと」などと言う場合には嫌悪やののしりの感情がこめられていますよね。
 「どう」の用例も、調べてみますと、「どう乞食」とか「どう因果」など、やはり悪いイメージを感じます。
 「ど根性」も、もともとは「どしつこい」とか「どあつかましい」のように、相手の異様な粘りというか、想定外の根性、しつこさ、あつかましさに、ちょっと引いたり、ひるんだり、腹が立ったりしたときに使ったようです。
Th__20150830_202534 まあ、たしかにピョン吉は、人間にはない妙な根性がありますね。それは異様で恐るべきものなのかもしれません。
 「ど」の古い形「どう」の語源はよく分かりません。近世になって上方で使われだしたというのが通説ですが、日本中に方言として残っていますから、もしかすると話し言葉としてはずっと古い時代からあったものなのかもしれません。
 今では、「ど真ん中」とか「どあたま」とか「ど近眼」とか、ただただ強調の意味として使われることも多い。「ど根性ガエル」の「ど」も、決してマイナスのイメージではないですよね。そのように時代とともに変化してきたということでしょう。
 ちなみに今日のど根性ガエルで、「蛙神社」とされていたのは、そう、あの「いつもの丘」にある新倉浅間神社でした。
 

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2015.08.28

爆笑ファクトリーハウス『笑けずり』 (NHKBSプレミアム)

Th_pic_epi01 近、下の娘とハマっている番組。NHKBSプレミアムで放送されている「生き残りお笑い番組…笑けずり」。
 これが勉強になるんですよね。いちおうコント部の顧問なので(笑)。いや、冗談でなくお笑いの奥義の勉強になる。ダメな例がよく分かる。
 舞台が富士山麓本栖湖畔、そしてテーマ曲がレミオロメンのスタンドバイミー(懐かしい!)ということもあって、ことのほか感情移入して観ることになっております。
 実力派若手漫才コンビが合宿し、先輩芸人の厳しい指導のもと、お題による創作漫才などで競い合い、最も「面白くない」「笑えない」ユニットが即刻退場、帰宅となるという企画。
 まるで甲子園のような「背水の陣」と「意外性」の中に生まれるドラマをドキュメンタリー調に捉えながら、若手芸人たちが成長していく物語…なのかな(笑)。
 もちろん、番組としての演出(たとえばイケメンとブサメンのライバル関係や、ほのかな恋など…笑)もありますけれども、純粋にお笑いの創作過程を観る番組として興味深い。
 いろいろな分野に首を突っ込んでいるワタクシでありますが、いつかどこかに書いたように、最もやってみたい職業は、実は「お笑い芸人」なんです。いや、マジで。
 だから、学校のセンセーでありながら、毎日の授業は「どこで笑いをとるか」の一期一会の勝負。シナリオ2,アドリブ8の世界です。
 あるいは、この前の音楽祭での司会業や宴会業にも、基本そういうスタンスで臨んでおります(それでいいのか?)。
 そんな私の影響か…いや、カミさんの影響もかなり強いな…下の娘も「笑い」に妙に敏感でして、この番組のみならず、NHKのコント番組は欠かさず録画して観て(勉強して)おります。
 番組では、若手芸人の渾身の創作コントの一部しか放送されませんが、番組ホームページではほぼ全編観ることができますので、番組を観ていない皆さんもぜひお楽しみ下さい。そして、大いに批評してやってください。
 人を悲しませたり、怒らせたり、泣かせたり、感動させたりすることは、案外簡単な事です。授業中においても、そういうことは簡単にできます。
 しかし、「笑わせる」というのは難しい。「笑われる」のではなく「笑わせる」のです。これは本当に高度なこと。
 考えてみれば、動物でも悲しんだり、怒ったり、泣いたりします。しかし、笑うというのは人間にだけ与えられた高度な文化です。それをコントロールするのは難しいですよね。
 今回(第3回)の先輩講師は「笑い飯」でした。前回の「中川家」の「つかみ」も勉強になりましたが、今回の「独創的なアイデア」も、なるほど非常に勉強になりました。
 なんか、私も誰かをパートナーに、この合宿に参加したいような気さえしてきました。今まで人生であまり挑戦というものをしてこなかった私ですが、この最も厳しい世界には、なぜか挑戦したくてしかたがlないのです。たとえ無残に玉砕するにしても…。

笑けずり公式

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2015.08.27

富士川河口断層帯で地震発生

Th_2015082723025020150827230719larg 入りばなにドンと揺れました。当地では震度1程度でしたが、揺れ方からして、富士山南西麓のいつもの場所(すなわち2011.3.15の震源)かなと思いました。
 結論から言いますと、その場所ではなく、ある意味意外なところが震源でした。
 あれ?ここは富士川河口断層帯ではないか!
 富士川河口断層帯では、100年から300年の周期で1,2メートルの段差を生じる地震が起きています。マグニチュードにすると7〜8といったところ。震源直上での震度は7になる可能性がありますね。
 ただし、駿河湾の海溝型地震と連動する可能性も高く、その場合は広範囲で震度7になると考えられます。
 富士川河口断層帯付近で地震が発生したのは2009年10月20日以来です。その時はM2.2。その前は2004年、1998年などとなっています。
 今回は以前のものよりも震源がやや深い20キロとなっているのが少し気になりました。もちろん、これをもって、すぐに同断層帯が活動するとか、東海地震が発生するということではありません。しかし、そこに大規模な活断層帯があることは忘れないようにしなければなりません。
 東海地震の発生確率は30年で約90%であることからすれば、それと連動する可能性のある同断層帯での地震発生確率も同等であると考えるべきです。
Th_fujikawa 言うまでもなく、富士川河口断層帯を、国道1号線、東海道本線、東海道新幹線、東名高速道路、新東名高速道路が横切っています。もしそこで震度7クラスの地震が発生すれば、日本の大動脈は完全に寸断されます(リニア中央新幹線はそのこと想定しての計画です)。
 いちおう構造的には、フィリピン海プレートと陸のプレートのせめぎあいという形ですが、場所的には当然糸魚川静岡構造線との関係も無視できませんね。
 ちなみにこの断層帯のど真ん中に、福石神社があります。すなわち縄文の大鹿窪遺跡があって、大地の神である国常立を祀っていました。これもまた偶然ではないでしょう。
 近く、富士川河口断層帯が大きく動かないように、福石神社をお参りしたいと思います。

 
 

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2015.08.26

平成27年度 吉田の火祭り

 日は吉田の火祭り。諏訪神社の祭礼です(浅間神社ではありません)。
 今年は総理夫人の安倍昭恵さんや、古神道の研究家である黒川柚月さん、また気鋭の若手物理学者らと一緒に「国常立の火祭り」をテーマにいろいろ回ってみました。簡単に報告します。
Th_img_9266 まず、参拝したのが、下吉田の福地八幡宮(渡辺大明神)。ここの祭神には「寒川彦」が。社記によると、明見の福地八幡をここに移したとあります。
 半年ほど前に、「寒川」の謎(その1)「寒川」の謎(その2)という記事を書きましたが、さらに発展させますと、「サガ(シャガ)」という音は「シャグ」に通じる、つまり、「寒川」は「ミシャグジ」である可能性もあります。
 渡辺大明神もかつて「シャグチ大明神」と呼ばれていたことがあり、明見の社宮地神社(福地八幡と合祀されている)との関係もあることが分かっています。まさにミシャグジ(諏訪)ですね。
 そうそう、今日は諏訪方面の友人には、御射山祭の方へ行っていただきました。そちらの方は富士山山開き〜火祭りへ向けてに書いたように、国常立のお祭りです。
 そうしてみますと、この「寒川文化圏」においては、「ミシャグジ=寒川彦=大山祇=国常立」という等式が成り立ちそうな気もしてきますね。やや飛躍しすぎかもしれませんが、木花咲耶姫よりも「より古い」神格の象徴としての「何か」が意識されていて、それが様々な名前で呼ばれていたということはありえます。
 ところで、この下吉田仲町の福地八幡(渡辺大明神)ですが、驚くべきことに、鳥居の扁額の揮毫が「内閣総理大臣佐藤栄作」、本殿の扁額の揮毫が「内閣総理大臣岸信介」なのです。さすがに昭恵さんも驚き、「主人も参拝しなくちゃ」と言っていました。
 そのほかにも中曽根さんや細川さんの揮毫も奉納されています。どうも歴代総理が密かに参拝した形跡がある。この田舎の小さな神社に。
 私は、二・二六事件で亡くなり、また宮下文書の研究会「富士文庫」の顧問であった、斎藤実元総理大臣からの「裏の伝統」なのではないかと思っています。そのあたりについてこれからいろいろ調べてみたいと思っています(首相公邸から斉藤実さんが家内についてきているようですし…笑)。
Th_img_9268 さて、一行は続きまして、その福地八幡や社宮地を含む大宗廟であったという阿祖山太神宮(復興中)を参拝。ここの祭神も基本的に国常立に象徴される「より古い」神様なのであります。
 宮司さんとゆっくりお話したかったのですが、時間がなくなってしまい残念でした。今、復興中のこの神社を巡って大きなうねりが起きつつあります。昭恵さんも注目しているところです。
 さて、一行は一旦ここにて二手に分かれまして、それぞれが火祭りへ。私と昭恵さんは、北口本宮冨士浅間神社(諏訪神社)参拝はもう一つのグループにまかせ、すでに出発した神輿を追って吉田の本町通りに向かいました。
Th__20150828_6_42_01 祭りに関わる地元の方々と交流したり、大松明の点火式に参加したりしながら、ゆっくりゆっくり御師の町を歩きました。私もこういう形で火祭りに参加するのは初めてで、今までに感じることのできなかった祭中心部のエネルギーを体感でき感激しました。ファーストレディのおかげですね。なんという幸運でしょう。
 御師にまつわるご縁でスペシャルなお食事をいただいたのち、再び最初のグールプが合流しまして、夜中まで神様論議で盛り上がりました。皆さん、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。また集まりたいですね。


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2015.08.25

『日本のいちばん長い日』 岡本喜八監督作品

Th_51fuyzxpshl 戦の日に録画したものですが、ようやく観ることができました。
 比較的昭和の邦画をたくさん観てきた自分でありますが、どういうわけかこの作品はこのたびが初見。
 観終わった今、今年観てよかったとつくづく感じました。今まで取っておいてあったのだなと。
 宮城事件…簡単に「終戦」とか、「戦後」とか言いますが、本当に紙一重だったのだなあと思う反面、たとえ反乱が計画通り行ったとしても、結局は二・二六事件のような後味の悪い結末になっていただろうことは想像に難くありません。
 昭和天皇の怒り…日本国にとって実に不幸なことです。怒りを発動する前に、あまりにも多様だった国民の感情を一気に祭り上げた天皇という存在は、やはりすごい。天皇がいなかったら、はたしてどうなっていたのでしょう。
 ある意味では、あのように戦争を終わらせたことで、一部の人の言う「責任」を充分に取っているとも言えましょう。
 この夏、リメイク版が公開になっていますが、この昭和版を観てからの方がいいかもしれませんね。はたして平成の役者たちが昭和の役者たちを凌駕できるのか。
 どちらが史実に近いかというのは難しい問題ですね。時間的な近さという意味もありますから。そう、歴史学の難しさは、「その時」から時間が経てば経つほど新たな情報が増えていくような錯覚があることです。
 実際は、時が経つことによって、「その時」からの距離は開いていきます。いくら新情報によって新たな物語が構築されたとしても、「その時」の空気や残り香は明らかに希薄になっていく。その矛盾が難しい。 
 たとえばこの旧版は、「その時」から22年で公開されています。新板は70年。この約50年の差はあまりにも大きい。
 私の少年時代に吸った、あの「戦後」の空気と、今の私が思い出そうする(歴史として認識する)「戦後」とは、やはり大きく違います。どちらにリアリズムがあるかは言うまでもありません。
 そういう意味で、こちら岡本版の空気はかなり体感的ですね。役者のほとんどが体験者ですから当然と言えば当然です。
 平成版の役者さんたちのプレッシャーはいかほどであったか。それをどういう方法で乗り越えているのか、さっそく来週辺り観にいってみようと思います。


 
Amazon 日本のいちばん長い日

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2015.08.24

第29回都留音楽祭クロージングパーティーより宴会芸!

 日のことになりますが、都留音楽祭恒例のクロージングパーティーが行われました。毎年すごい出し物(宴会芸)が並ぶ影のメインイベント(笑)。
 今年もワタクシは「マトリョミン・シスターズ」と「歌謡曲バンド山口組」でおバカぶりを披露させていただきました。
20150827_122233 まずはマトリョミン兄弟の演奏をお聴きいただきましょう。
 私以外、そうそうたる古楽界の名手たちですね。この珠玉の通奏低音の上で繰り広げられる迷演奏というか、酩演奏というか(笑)。
 ワタクシのオバカにおつきあいくださった先生方、本当にありがとうございました…いや、スミマセン。

 バッハ作曲 二つのマトリョミンのためのトリオ・ソナタより第1楽章

1stマトリョミン 武澤秀平 
2ndマトリョミン 山口隆之
ヴィオラ・ダ・ガンバ 福澤宏
チェンバロ 岡田龍之介

 では、こちらからお聴きください。
Th__20150827_122306 続きまして、歌謡曲バンド。昨年の反省に基づき今年はコテコテに振り切った演奏をこころがけました。

 松村和子 「帰ってこいよ」

ヴォーカル 山口陽子
フォルテピアノ 吉野洋美
チェロ 武澤秀平
トランペット 大矢裕子
ささら 渡辺敏晴
掛け声 つのだたかし
(なんちゃって)三味線 山口隆之

 覚悟の上こちらをクリックしてお聴きください。
 皆さん、本当にありがとうございました。楽しかった!


 


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2015.08.23

野村四郎が舞う〜能とバロックの邂逅

Th_img_9234 留音楽祭の東洋古楽コンサート。能楽界の大家、野村四郎師を招聘して「能とバロックの邂逅」という舞台が実現しました。
 本当に素晴らしい舞台でした。私としても非常に感激的なものとなりました。私の不躾なお願い(お手紙を書きました)をご快諾くださった野村四郎師に心から感謝いたします。
 このたびの演目は、舞囃子「菊慈童」。畏れ多くもワタクシめが冒頭の解説をさせていただきました。私なりに能とバロックの相似点、そして鑑賞のコツをお伝えしたつもりです。
 本当に素晴らしい、素晴らしすぎる舞台でした。野村四郎師の舞は、どうしてあのように空間をコントロールできてしまうのでしょうか。
 美少年のことほぎの舞。80歳とは思えない瑞々しさ。神の領域ですね。まさに「ものまね=物を招く」世界です。
 また、今回地謡で参加した渡辺瑞子先生は、私が担任した教え子であるとともに、スタッフとして、また合唱コースの受講者として都留音楽祭に参加したことがきっかけで、野村四郎先生門下に入り、東京芸大を卒業して、プロの能楽師になった人物です。
 都留音楽祭に参加し、まさにこのステージでバロック音楽を歌っていた彼女が、今度は能楽師として都留音楽祭に帰ってきたわけで、それは実に感慨深いものがありました。都留市出身でもある彼女は、故郷に錦を飾ったとも言えますね。
 さらに、私の下の娘は現在能楽部に所属し、渡辺先生にご指導いただいています。終演後、野村四郎師と握手をした娘は、感激のあまり号泣しておりました。
 そう、野村先生は2007年に北とぴあ国際音楽祭において、モンテヴェルディのオルフェーオを演出し、自ら主演されているんですね。そんなところにもバロックとのご縁があったわけで、今回の公演の実現は、そういう意味でも偶然ではなかったのだと感じます。まさに「邂逅」ですね。
 野村先生、渡辺先生はじめ、おいでくださった能楽師の皆さま、本当にありがとうございました。

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2015.08.22

ルーファス・ミュラー テノール・リサイタル

Th_rufus 年の都留音楽祭の海外講師はテノールのルーファス・ミュラーさん。
 今日はその特別リサイタルがありました。
 いやぁ、本当に「神」コンサートでした!すごい。素晴らしい。まるで霊界での出来事のようでした。これほど現実を忘れさせる音楽というのは珍しい。空間自体が神がかっていました。時間は存在しない感覚。
 前回3年前の時にもこんなふうに書いていますが、正直、今回の方がさらに数ランク上の演奏だったと思います。
 実は前回の時は体調が万全ではなかったようなのですね。それであのレベルですから、その時はその時で充分に感動したわけですが、今回を体験してしまうと、その記憶はやや霞んでしまいましたね。
 技術はもちろん、そう、魂の部分ですね、すごかったのは。歌魂。完全にミューズとつながっていました。特に静寂の中の弱音。こちらも耳を澄ますという感覚。
 ダウランド、ブロウ、パーセル、ザロモン、ハイドン、モーツァルト、そしてアンコールのシューベルトまで、200年にわたるヨーロッパ音楽の歴史を俯瞰できるようなプログラム。
 ルーファスの歌唱の多様性から「歌」の歴史をも追体験できたような気もします。
 音楽的な複雑化に表れているであろう、200年間の人間の意識や文化の変化、これははたして進化なのだろうか…昨日のカリッシミでも感じたことです。
 音楽理論的には、この200年間の基本的な素材とルールは変わっていないわけで、その中での発見が積み重なって「複雑化」になったわけですよね。発見が進化なのかどうかは議論の余地があります。もちろん、そのことは音楽に限らす、歴史全般に言えるわけですが。
 さあ、そんなルーファスの歌声を、本当に表面的ではありますが体験していただくために、次の動画を貼っておきます。今日の私たちの体験を予感(?)することはできると思います。

 実は、前回も今回も、彼の奇跡の歌声を生んだのには、裏側である方の「見立て」と「施術」があったからです。その現場を見た私は、本当に感動しましたし、ルーファス自身もその方に大感謝しておりました。
 その方については、また日を改めて紹介させていただきます。

 

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2015.08.21

カリッシミ オラトリオ「イェフテ」

 楽の祭典「都留音楽祭」、今年の全体アンサンブルはカリッシミの「イェフテ」全曲。
 以前、一度耳にしているはずなのですが、今回はなぜかとても新鮮に感じられました。ある意味非常に現代的な響き。
 指揮者である有村祐輔音楽監督に、50年前(!)の日本初演の時のパンフレットを見せてもらいました。半世紀前にこの曲を日本で演奏していたとは。
 当時は音楽ファンと言うよりも、バロック期の文学や絵画、あるいは建築の研究家などが聴きにきたとのこと。面白いですね。
 かのフランスの作曲家シャルパンティエは、このイタリア人作曲家カリッシミの音楽(おそらくこの曲)に感動して、画家になるのをやめて作曲家になったというような伝説があるようですね。たしかに、衝撃を受けるでしょう。
 先ほど「現代的」と書いたのは、非近代的という意味でもあります。和声の展開などが、私たち現代人にとって新鮮、つまり聞き慣れていないということです。
 スコアを見ながらレッスンを見ていましたが、後期バロック以降の音楽に浸ってきた私からすると、かなり衝撃的な和声展開がありました。それが実にドラマチックに感じられた。
 ちょっとした発見でもありました。現代音楽のような突拍子もないことをしなくても、こんなに新鮮で衝撃的な表現ができるのだと。
 皆さんも上の動画で鑑賞してみてください。
 この曲、50年前にはたして理解されたのか。気になります。ちなみに当時の演奏家で、私が名前を知っていたのは、有村先生とチェンバロの山田貢さんだけ。あとは解説の服部幸三さんかな。
 戦前に続いての、第二次古楽ブームのはしりの時代ですね。

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2015.08.20

情報=情状の報知

Th__20150822_64815 日は山梨県私学の研修会。私は情報部会の運営に携わりました。正直、本業の国語よりこっちの方が楽しい(笑)。自分が国語の教師であることを忘れてしまう毎日。というか、自分が何者なのか…(笑)。
 ま、それはいいとしまして、今回直感的に講師をお願いいたしました丸山高弘さんの講演が、実に興味深く勉強になりました。
 丸山さんは山中湖村の情報創造館(図書館)の館長さん。とってもユニークな経歴とアイデアの持ち主でして、私もずいぶん前から注目をしておりましたが、今回講師をお願いするにあたって初めてお会いし、知り合うことができました。突撃して良かった(笑)。
 山中湖情報創造館は小さな図書館ではありますが、そのオリジナリティーあふれる活動は全国的にも有名です。ホームページでご確認ください。
 今回の講演のテーマは「情状の報知〜情報社会を生きるための基礎知識」。丸山さんがプレゼンをアップしてくださったのでご覧ください。

情状の報知(プレゼンテーション)

 う〜む、完全に私のツボにはまりまくっています。私も私なりに考えてきたこと、特に「モノ・コト論」として展開してきたことと重なる部分が多く、非常に勉強になりました。
 また、丸山さん、さすがTEDに参加したこともあるだけあって、プレゼンがとってもお上手でした。これこそ私たち教師が学ばねばならない部分です。無駄を省いたプレゼン画面、ハンドアウト、リズムの良い語り。授業もこうあるべきですね。
 情報という言葉がもともと軍事用語であることは知っていましたが、ここまで詳しくその語源を知ることができたのは丸山さんのおかげです。
 紹介のあった小野厚夫さんの「情報という言葉を尋ねて」は必読ですね。

情報という言葉を尋ねて(1)
情報という言葉を尋ねて(2)
情報という言葉を尋ねて(3)

 世界を「可編集化」したいと思うのは人間の本能でしょうか。私の言う「コト化」ですね。そして「コトを窮めてモノに至る」は情報学的にはどういう説明になるのか…気になるところです。また改めて丸山さんとお話したいと思います。
 そうそう、講演を聴きながら思ったこと。日本人は「状報」よりも「情報」を取ったんだなあと。日本人は「感情的、感覚的インフォメーション」に生きる民族だなあと。もちろん、そこには長短両面があるわけですが。
 丸山さん、本当にありがとうございました。今回のプレゼンを発展させて、ぜひ書籍化よろしくお願いします。

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2015.08.19

黒川ひとし弦楽四重奏団ライヴ

Th_img_9207 日からイベント目白押しで、ブログを更新する時間がほとんど取れません。
 しばらくメモ書き程度の記事になってしまいます。あしからず。
 思うことはいつもよりも多いはずですので、心に残ったことは後日整理して書こうと思っています。
 さて、今日は「阿佐ヶ谷天」という渋いジャズバーでライヴを楽しんできました。
Th_img_9204 私の人生に大きな影響を与えた、そして今でも与えているジャズ・ピアニスト、ヴァイオリニスト、編曲家黒川均さんが率いる弦楽四重奏団によるモダン・ジャズとピアソラのライヴです。
 弦楽四重奏でジャズというのは珍しいですよね。そういうスタイルも含めて、いかにも黒川さんらしい個性的な音楽を堪能することができました。
 黒川さんのカルテットとその音楽性についてはこちらに比較的詳しく書いたことがあります。あっ、この時はファースト・ヴァイオリンの石川さんの名前を冠していたんだ。
 あの頃よりもまたさらに編曲術に磨きがかかったと感じましたね。なんだか独特の小宇宙が大宇宙になった感じ。
 今回もまた、編曲者直筆の楽譜を手元に置きながらのぜいたくな鑑賞。スコア自体が独特のデザインの宇宙になっていました。しっかし、よく弾けるなあ、皆さん。目の前で音が鳴っていても楽譜を追うのが大変なくらい複雑なリズムと和声!
Th_img_9206 今回はヴォーカルのMiwaさんがゲスト参加。複雑な弦楽四重奏の伴奏でスタンダードを歌うという、非常に珍しい世界でしたが、これがまた良かった。Miwaさんの歌がそれこそスタンダードにお上手なので、対比が実に面白かった。よくあのアブノーマルな(笑)バックの上で余裕で歌えるなあ。
 とにかく今まで聴いたことのないライヴでして、心から楽しむことができました。黒川さん、個性を極めていてカッコイイ男ですなぁ。もっと多くの人たちに聴いてもらいたい大宇宙ですね。

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2015.08.18

言葉は多様性を奪う暴力である

Th_imgres の季節は、戦争に関する言葉が乱舞します。そこでいつも思うこと。言葉は基本的に暴力だなと。
 現代日本人は「言霊」という言葉が大好きですよね。しかし、歴史的に見ると「言霊」とはそんな甘っちょろいものではありません。
 どちらかというと、相手を呪い殺したり、相手を陥れたりするために使われたことが多い。そういう意味でも、言葉は基本的に暴力であると言えます。
 もともと言葉というものは、「モノ」という未分化の自然に境界線を入れて、無理やり人間の都合でグループ化する(コト化する)ための道具です。
 たとえば「木」という言葉で考えてみてください。一言で「木」と言っても無数の種類があるはずです。それを暴力性を持って十把一絡げにしてしまう。
 少し優しくなって(?)、広葉樹、針葉樹とか、落葉樹、常緑樹とか、もっと優しくなって「松」とか「杉」とか言ったとしても、まだまだ多様性を無視していますよね。
 では…と、「アカマツ」と言ったところで、このアカマツと隣のアカマツの違いは無視されています。
 さすがに自分の子どもに対してはもっと優しくて、ずいぶん考えて名づけしますけれども、それでも最後にはある種の暴力性を持たねば永遠に決められません。
 言葉というのはそういうものなのです。名づけた「モノ」が自分の中で「コト」となる、すなわち他者の奴隷化とも言えるわけです。
 言葉は「コトの刃」でもあるのです。
 さて、そういう前提の話はこのくらいにして、過去の戦争に関する言葉に、いかなる暴力性が感じられるかといいますと、たとえば「英霊」という言葉、これなど最も暴力的です。
 どういうことか。以前、こちらにもちょっと書きました。
 今日靖国神社に参拝したと安倍昭恵さんから報告がありました。その前にも知覧を訪れたと。昭恵さんにもお話したことがありますが、「英霊」が約250万祀られているとするならば、その250万とおりの人生、考えがあるわけです。
 もし、今その英霊の方々が現代日本を見渡して意見するとするならば、間違いなく多様な意見が出ることでしょう。この平和が素晴らしいとする方もいれば、日本人は骨抜きになったと嘆く方もいる。自ら戦ったあの戦争が間違っていたとする人もいれば、正しかったとする人もいる。そんな単純化さえも許されないほどに多様な言葉が発せられるでしょう。
 それを、私たちは最大の優しさという暴力性をもって「英霊」と一括りにし、やれ靖国が好きだ嫌いだなどと言っている。前掲の過去記事に言葉を引用します。
Th_pic01 「一口に英霊とは申しますが、本当に多様な思いがあるのです。現代の靖国論議はあまりに矮小化されている。それを論じる個人個人の主体というとんでもなく小さな世界観の衝突によって、大きなモノが危うい方向に動くことを、英霊は正直苦々しく思っておられます。様々な思いは御柱の数だけあるとしても、その不満と危惧は共通しているのです」
 まあ、このようにワタクシの言葉で断ずるのも暴力と言えば暴力でありますが、ここはあえて「荒魂」を発動させていただきます。
 今日何かで、保阪正康さんが「特攻隊は最大の恥」と言っているのを読みましたが、ずいぶん乱暴だなぁと思いました。
 「特攻隊」と一絡げ言いますが、中には本当に大義と誇りを持って今でも「正しかった」と言う隊員もいるでしょうし、いやいや飛び立った隊員もいるでしょう。当時の思いと(もしあるならば)今の思いが違う人もいることでしょう。
 恥と言い切ってしまうのも、美化してしまうのも、こちら側の勝手な暴力ですね。
 そういう多様性を無視した論議は、私はしたくありません。同じ発言をするにしても、そうした言葉(思考)の暴力性を意識した上なのか、そうでないのかでは、大きな違いがあると思います。
 特に、何か自分と違う言葉(暴力)を発している者に対抗しようとする時、私たちはその相手に対する暴力性を帯びた私情の方が優先されてしまい、その議論の対象となっているところの他者(の多様性)への思いやりを失ってしまいます。
 気をつけたいですね。だから最近はなるべく「英霊」の一人一人の人生をできうる限り共有することにしているのです。

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2015.08.17

ひでこ節(秋田民謡)

Th_p1070981 のたびの秋田訪問では、義祖母の米寿のお祝いがありました。小安峡温泉の多郎兵衛旅館に宿泊しての宴。
 カミさんの一族は、さすが旅芸人の血が流れているだけあって(まじです…笑)、一人一芸状態でとても楽しかった。すごい。
 我が家も負けじと、カミさんは総合司会(笑)、上の娘は歌、下の娘は謡、私はヴィオラ演奏をいたしまた。
 私のヴィオラ演奏は、秋田民謡や童謡の楽譜をいくつか用意しまして、主賓であるおばあちゃんのリクエストに答える形での披露。
 民謡は、実はちょっと想定外だったのですが、「ひでこ節」にリクエストをいただきました。私、この曲全く知らず初見での演奏でしたが、気持ちを込めて弾かせていただきましたところ、ありがたいことに大変好評でありました。
 いや、実際演奏しながら、これはいい曲だなぁと感動してしまったのですよ。なんとも素朴ですが、メロディアスでもあり、ちょっとした意外性もあって、いったいこういう曲を誰が作ったのだろう、名もない地方の大作曲家がいたのだなあと。
 ちなみに「ひでこ」というのは、人の名前ではなくて、シオデという山菜のことだそうです。東北では名詞のあとに愛情をこめて「こ」をつけますよね。ショデコがシデコになって、のちにヒデコになったと想像されます。

 歌詞を載せておきます。訳してもらわないとなんだか分かりませんが(苦笑)。

十七、八 ナ 今朝のナァ
若草どこで刈ったナァ このひでこナア
アラヒデコナァ

どこで刈った ナ
干ぼしナァ
長根の 其の下でナァ
アラヒデコナァ

その下でナ 葛のナァ
若もえ 葉広草ナァ
アラヒデコナァ

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2015.08.16

渡辺錠太郎と秋田

Th_200pxjotaro_watababe_posing 日、首相公邸にお招きいただいてからというもの、まあ、いろいろ大変なことが起きております。
 特に二・二六事件に関係した人々のことを思うと、歴史の重さというか、辛さというようなモノを感じますね。歴史を創った一人ひとりの気持ちまで含めると、なんだか「歴史認識」とか軽々しく言えないなあとも思うのでした。
 実際いろいろメッセージを送ってきた故人がいるわけですが、今日はそのうちの一人、渡辺錠太郎陸軍大将について書きましょうか。せっかく秋田に来ていますので。
 と、言っても、ほとんどの方が、渡辺錠太郎と秋田になんの関係があるのかと思われるでしょう。私もつい最近まで知らなかったんですよ。本人から聞くまでは…(?)。
 渡辺錠太郎大将は、二・二六事件で青年将校に銃殺されてしまいました。当時の陸軍では珍しくリベラルな感覚を持ち、あらぬ方向に暴走を始めてしまった陸軍全体の軌道修正を図るために、教育総監に抜擢された人物です。
 結果として、それが皇道派の青年将校たちに「勘違い」される原因となってしまったわけです。もし、渡辺錠太郎が生きていたら、日本の歴史はそれこそ変わっていたでしょうね。
 そんな偉大な渡辺錠太郎が、我が子、我が孫のように可愛がった子どもたちが秋田県にいました。
 それが六郷小学校の児童たちです。おとといちょうど旧六郷町(現美郷町)を通りかかったので、渡辺大将のお気持ちを連れて、六郷小学校に立ち寄りました。そう、六郷小学校に行きたかったんですね。
 実際には一度も六郷小学校には行っていませんし、子どもたちにも会っていませんが、両者にはとてもとても深い関係ができていたのです。以下の記事を参照してください。秋田の方もあまりご存知ない事実だと思います。

六郷町の小学校児童と交流を深めた陸軍大将

 まさに両者の不思議な交流が深まり、お互いにいつか会いたいと思っていた時に、二・二六事件は起きてしまいました。上の記事にあるとおり、渡辺錠太郎大将死去の報はいち早く六郷小学校関係者に伝えられました。
 そんなことは考え過ぎだよと言われそうですが、このたびそのような事情を知って、約80年経ったこの夏に、お気持ちだけですが六郷小学校にお連れすることができ、なんとなく私は心が落ち着いたのであります。


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2015.08.15

もう一つの唐松神社 (羽後町上到米)

Th_img_8998 仙市協和の唐松神社は、最近ではパワースポットとして大変有名になっていますね。
 地元秋田では古くから安産祈願の神社として人気で、つい先日も義弟夫婦がお参りしたとのこと。
 私たちマニアックな人々にとっては(笑)、物部氏にまつわる独特な伝説を持っている神社、また唯一のニギハヤヒ像(二次元)を持つ神社として強烈な存在感を持っています。
Th_img_8992 私も毎年秋田に来た時には足を伸ばして参拝しており、今年は自在屋のご主人さまに神主の物部さんをご紹介いただいたり(お忙しくてご挨拶のみでしたが)、またまた深く関わることになってきたわけであります。
 今日はまた個人的大発見がありましたので、ここに記しておきます。
 実は、先ほど登場した義弟のお嫁さんの出身は羽後町の上到米という地域です。ウチのカミさんの実家の近くでもありますし、昨日紹介した「鎌鼬の里〜田代」の隣町です。ちょっと調べ物をしていましたら、なんとその上到米に唐松という部落があり、そこに唐松神社という神社があるというではありませんか。
 たまたま同じ名前なのかなと思いきや、なななんと、地域の伝承によればその唐松神社は、協和町境の唐松神社の本社であると!
 これには本当に驚きました。これまたあまりにピンポイントすぎる…思わず鳥肌が立ちました。そして、これはすぐにでも行かねば!と思い、探しに行ってきました。
Th_img_9135 上到米の唐松という地域は分かりましたが、神社自体がどこにあるのかはなかなか分かりませんでした。地図で見ると山の中なんですよね。
いろいろな鳥居をくぐって歩いてみて、ようやく見つけました。長い長い山道の参道が続きます。コンクリートで階段も作ってあり、草刈りなどもしっかりしてあって、信仰の強さを感じました。
 ちょっとした登山を終えたところに、集落を見下ろす形で立派な社殿が建っていました。集落の規模からするとかなり立派だと言えます。
Th_img_9134 創建や祭神などの解説板などはありませんが、ネット上の秋田県神社庁の説明では次のようになっています。

鎮座地…〒012-1242 雄勝郡羽後町上到米字上ノ山7-4
祭神…宇迦能御魂神・息長足姫命
例祭…7月21日
 社記によれば、仙北郡境庄唐松神社の本社と伝えられている。
 天正年中より白鳥丹後十郎崇敬すと伝う。
 白鳥氏の古跡がある。

Th_img_9122 なるほど!白鳥氏ですか。ここでピンと来ましたね。
 たしかにこの地域では白鳥十郎長久の館跡と言われる遺構が発見されています。白鳥十郎と言えば今ではそば屋さんが有名ですね(笑)。長久はたしかに出羽国にも影響力を持っていたようですが、正直この山の中の寒村(失礼)に館を設ける必要があったどうか微妙です。
 よくあるように、白鳥氏の末裔や縁戚が住んでいたのを、有名な十郎に仮託してしまったのかもしれませんね。
Th_img_9123 まあ、いずれにせよ、白鳥氏が関わっていることは確かなようです。白鳥氏と言えばこちらで紹介した谷川健一さんの「白鳥伝説」にもあるように、物部氏、ニギハヤヒとも深く関わっています。
 ちなみに上到米にはあまりいないようですが、その周辺地域は「安倍」や「阿部」がたくさん住んでいます。私の家内は「安倍」。ただし「あべ」とは読まないのですが(!)。
Th_img_9130 物部と安倍の関係、そこに見え隠れするニギハヤヒの存在…そして唐松神社。なんとも面白い予感がします。
 そうそう、ウチのカミさんの「イスキリ(石切)」信仰もここでつながってきますね(これについては後日書きます)。
 おそらく有名な方の唐松神社でも、こちら「本家」の唐松神社の存在を知らないのではないでしょうか。もちろん、有名な方に参拝する方々も。
Th_img_9128 義弟夫婦もまさに「灯台下暗し」、協和の方にはお参りしたけれども、地元の唐松神社には行ったことがないとのこと。たしかにマニアックすぎますね(笑)。
 こんなことに偶然気づかされるのもまた、私のお役目の一つなのかもしれません。さっそくいろいろ調べてみたいと思います。
 ちなみに、上到米の唐松神社の社殿は鳥海山の方を向いていました。協和町の唐松神社に伝わる物部文書によれば、鳥海山はニギハヤヒが降臨した山です。


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2015.08.14

かやぶき山荘「格山」 (羽後町田代)

Th_img_9022 日紹介した田舎暮らし「自在屋」の次にうかがったのは、羽後町田代にあるかやぶき山荘「格山(かくざん)」です。
 これもまた全く不思議なご縁での出会い。神様の図らいというのは本当に見事です。タイミングが絶妙ですね。
 羽後町田代は私の家内の母方の実家のある所。そして、そこが、本当に私にとっては全く信じられないような偶然、いや必然だったのですが、こちらに紹介したとおり、なんとあの土方巽&細江英公による写真集「鎌鼬」の「現場」であったわけです。
 もうこの時点で「神がかっている」、すなわち低すぎる確率のご縁なわけですが、このたび、web2.0であるこのブログの記事がきっかけとなって、格山の誕生に大きく関わった地元町議会議員である阿部久夫さんともつながることができました。そして、今日初めて実際にお会いし、これまたいきなりの意気投合となりました。
 昨日紹介した「自在屋」さんも「田舎暮らし体験」がテーマであり、こちらの「格山」さんもまた、表面上のコンセプトは「田舎暮らしを体験する」ですが、両者ともにその「田舎暮らし」はあくまでも入り口に過ぎません。
 こちら「格山」さんは、「鎌鼬の里」を世界に発信することによって、日本古来の「モノ」の復活を図ろうとしています。そう、これはもう一地域や秋田県の復興とかいう次元を超えていますね。
 もともと、土方巽の舞踏や細江英公さんの写真は、インターナショナルな存在です。実際、この日本人はほとんど知らないような小さな村に、時々バスで外国人たちが訪れるそうです。聖地として。
 浮世絵などがそうであったように、私たちは自らの文化に対してあまりに謙虚すぎるところがあります。私はそれをあえて「国譲り理論」と命名して、無意識化、忘却による最強の保存方法だと解釈しているわけですが、そうした「埋蔵遺産」は、誰も発掘、再評価しなければ、それこそ永遠に忘れ去られてしまう危険性もあるわけですね。
 それが神の図らいによって世に出るタイミングというのがある。それをしっかり掴む(ある意味神に近い)人間がいなければならないのです。
 私は阿部久夫さんとお話して、ああこの方はそういうお役目のある方であり、若い頃からそういう力を発揮されてきた方なのだなと感じました。
 このたびは、「鎌鼬」に関する私の記事がそうした大業のちょっとしたきっかけになったということで、非常に嬉しく思っています。本当にありがとうございます。
 私はどこでもそうですが、いろいろ思いついたことを語るだけで、実際の行動は人まかせな部分が多い(苦笑)。しかし、まあ考えようによっては、私にはそのようなお役目があるということで…ぜひ、皆さまよろしくお願い致します。
 今後、「格山」さんでの「鎌鼬の里」プロジェクトは、とても面白いことになりそうです。実際、細江英公さんもお喜びにならなれているようですし、慶応大学の土方巽アーカイヴとのコラボレーションも決まっているようです。すごいですね。
 今日もちょっとお話しましたが、土方は生活(田舎暮らし)をアートに昇華して世界に発信しましたが、今度は、そのアートを再び生活(日本文化の基層)に帰してやることも大切だと思います。
 ただの再発掘では、再び忘れ去られてしまうでしょう。再び世界に発信する時に、一つ次元を上げてやらねばならないわけですから、これは大変な事業でもあります。
 しかし、しっかり「秋(とき)」を掴んたこのたびのプロジェクトは、その難業をしっかり実現してくれるものと期待しています。もちろん、私たち夫婦もお手伝いさせていただきます。

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2015.08.13

田舎暮らし「自在屋」 (大仙市協和荒川)

Th_img_8990 日よりカミさんの実家のある秋田に来ております。
 そんなわけで、不定期の更新となりますので、日にちにこだわらず、この秋田訪問でゲットしたおいしいネタを一日一つずつ紹介していきましょう。
 今日紹介するのは、これはホントに不思議すぎるご縁で訪問させていただいた「自在屋」さんです。
 この「自在屋」さんを一言で紹介するのは難しいのですが、簡単に言いますと、農家であるご自宅を開放して、主に都会の方々に秋田の田舎暮らしを体験してもらい、日本人古来の知恵や技術を学んでもらおうという「場」であります。
 よくある田舎生活体験施設とは明らかに違うコンセプトと実践であることは、自在屋さんのホームページをご覧いただければお分かりになると思います。

田舎暮らし「自在屋」ホームページ

 私は田舎暮らしを体験しにうかがったわけではありませんので、あまり偉そうなことは言えないのですが、知り合ったきっかけが「神がかっている」ので、川井さんご夫妻はとても大きなお役目を持っており、また実践をされていると直観している次第です。
 その「神がかっている」出会いは、あえて言うならば「富士山の神様」のお導きでした。川井さんご夫婦の息子さんと、昨年の今頃、本当にひょんなことから富士山麓で出会い、すっかり意気投合させていただきまして、それからの1年間というのは、本当に素晴らしいコラボレーションができたと思います。
 実は自在屋さんには昨年もおじゃましています。というか、昨年は本当に突然の訪問でした。
 昨年こちらに書きましたように、旧協和町には、すでに私にとって非常に重要なポイントが二カ所ありました。ニギハヤヒを祀る唐松神社と白井晟一作品である奥田酒造店です。
 ですから、昨年はついでに寄らせていただくというような形だったわけですね。しかし、今年は息子さんからご両親への伝言と言いますか、私たちに課せられたミッションもありましたので、また違った心構えで訪問させていただきました。
 短い時間でしたが、今回は特に「和食」についてのお話をさせていただきました。自在屋さんは今年4月に和食会議の正式会員になられたとのこと。ちょうど私も今月末にある強力なメンバーと和食についてお話する機会がありますので、これまた不思議なタイミングでお話がうかがえたことは、まさに神がかったタイミングでした。
 ご主人といろいろお話をさせていただいた中で、いろいろとインスピレーションが湧いてきました。やはり、このような交流、自分の意志を超えた大きな力の上での、人と人との交流をすることは、とても大切ですし、楽しいことですね。
 おそらく自在屋さんとは、今後なんらかの形でコラボレーションしていくに違いありません。まさに神々のネットワークのおかげであります。web0.0を活かすためのweb1.0や2.0なのだなあと、あらためて実感させていただきました。
 皆さんもぜひ、自在屋さんを訪問し、田舎暮らしというキーワードを通じて、私たち日本人の魂の奥底にあって、今こそ表に出るべき「モノ」を感じ取ってみてください。


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2015.08.12

日航ジャンボ機墜落事故から30年…あの瞬間を忘れません

Th_tky201008100280 航ジャンボ機墜落事故から30年。
 もしかすると私は、墜落の瞬間を見た数少ない人間の一人かもしれません。
 5年前に思い切って詳細を記しましたので、今日はその記事を再掲させていただきます。

 あの日から25年(2010.8.12)

 あらためて123便がたどった航路を見てみると、まさに私たちの上空で乗客乗員の皆さんの戦いが繰り広げられていたことが分かります。
 あらためて亡くなった方々の御霊を慰め、このような惨事が再発しないことを祈りたいと思います。


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2015.08.11

『キャンティ物語』 野地秩嘉 (幻冬舎文庫)

Th_41qfnmg9el_sx327_bo1204203200_ 日紹介した高松宮さまもこの本の主人公のお一人です。
 三島由紀夫、安部公房、黒沢明、岡本太郎、小沢征爾、篠山紀信、加賀まりこ、かまやつひろし、ビートたけし、坂本龍一、村上龍、松任谷由実…昭和の文化を創り出してきた彼らが集った「サロン」としてのレストラン「キャンティ」。
 その創設者が高松宮さまの特別秘書であった川添浩史と妻の梶子です。
 川添浩史(紫郎)の前妻は以前紹介した天才ピアニスト原智恵子です。そして、彼の裏のブレーンだったのが仲小路彰。この本にも数回仲小路彰の名前が出てきます。
 戦前、戦中、戦後と、裏と表からこの日本を動かし、創ってきたこの不思議な人脈に、私は妙に興味があります。
 そして、そのエネルギーはこの平成の世にもまだ生き残っている、いや、ある意味そのエネルギーが再び必要とされる時が来ているように感じてしかたがありません。
 そうそう先日横浜のシルク博物館を訪れて初めて知った、高松宮妃の「シルクロード・ソサエティー」のことも、この本に記されていました。
 そして、いずれもがなんとなく富士山に関わっているところに不思議な運命を感じます。
 それにしても、この時代の、この「サロン」の空気には、本当に憧れますね。私もギリギリ少年時代にこういう空気を吸っていたわけですが、さすがにその意味や価値を理解しているはずもなく、今思うともう少し早く生まれたかったような気さえするのでした。
 川添自身もそうですが、やはりスケールが大きい男がたくさんいた。聖俗の距離も今より近くて、両者が混在、融合していたような気もします。
 ふと思ったんですが、定年後にでもサロンのオーナーになってみようかなと。誰も来ないか(笑)。いや、富士山にそういうところを作ってみたいような気もします。
 私はキャンティに行ったことがありません。山中湖にある姉妹店のキャンティ・コモにも行ったことがありません。そういうオシャレなお店が似合わない男…そう、まずは自分がサロンが似合う人間にならなくてはいせませんね(苦笑)。

Amazon キャンティ物語

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2015.08.10

高松宮の和平・終戦・国体護持工作

 の戦後70年のこの時期に、ぜひこの番組をご覧いただきたい。昭和天皇の弟君である高松宮さまが果たされた歴史的なお働き。
 そして、これはほとんど知られていないことですが…高松宮の和平、終戦、国体護持工作の裏に、山中湖の仲小路彰あり。
 さらに有栖川宮熾仁親王あり。すなわち出口王仁三郎もまたあり。
 その霊統や今いづくにあらむ。
 今、私はその研究をしているところです。地球平和のために。

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2015.08.09

抑止力としての被爆&特攻隊

20150809oyt1i50009n 日は長崎の原爆忌。祈りを捧げたいと思います。
 核兵器が抑止力として働いているという意味において、やはり、広島長崎の被爆は、この70年間の世界の平和に貢献した…いや、地球の滅亡の危機を救った存在であったと言えると思います。
 そういった評価をすることには異論もあると思いますが、亡くなった方々をはじめ被爆された方々のご苦労が決して無意味ではなく、そのような未来に向けての大きな意味のあることであったと考えることは、失礼にはならないでしょう。
 また、そういう意味付けにおいては、かの特攻隊で散華した方々の行為もまた、ここ70年間の世界において立派な抑止力になっている解釈することもできます。
 特に諸外国から見た日本という国の、ある種恐ろしさ、個人主義を軽く超えた崇高さは、この国と戦うことをためらわせるに充分な、見えない力を持っていたことと思われます。
 今の安保法案に関する議論も、我が国が丸腰では外国に攻められるという危機感から生まれたものです。抜かぬ刀は持つべきだし、常にその刀は研いでおかなければならないという発想もよく理解できます。
 しかし、ある意味では、そのような実効的な兵器や兵力を持たずとも、私たちは潜在的な刀を、ほとんど無意識的に持ち備えているということも知っておきたい。
 もちろん、被爆と特攻隊だけではありません。決して諦めず、最後まで戦い通したそれぞれの戦地での皆さんのご苦労、痛み、哀しみ、あるいは怒りというものは、全てそうした抑止力を持っていると信じます。
 時々私が言う「荒魂をもって和魂を召喚する」という、その最も端的で強力な例が、先の大戦での日本人の戦いざまとその未来的結末であったと思います。
 そうした先人の遺訓をしっかり評価し、感謝し、継承して、私たちはこれからも平和を積極的に構築していかなければなりませんね。

 

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2015.08.08

平和ボケから覚醒すべきか

Th_e55a6_648_6695083f の季節はやはりこの話題が多くなりますね。70年前の今日はソ連が参戦ですか。
 よく考えてみると、いや単純に考えると、安倍総理も大変な季節に安保法案の勝負に出ましたね。
 これだけ日本国民全員が70年前の戦争について想像力をたくましくする時期にモロにぶつけてきた。これがたとえば戦後71年の冬だったら、これほどの物議を醸すことはなかったでしょう。
 つまり、安倍さんはそういうことも想定済みであり、いや無意識の中ででしょうかね、国民の平和ボケに火をつける役割を果たしているとも言えます。
 この平和ボケは重層的構造を持っていますので、話は単純ではありません。戦後の平和ボケでさえも、左右両方のパターンがある上に、これは誰も指摘しませんが、日本には数千年、いや1万年以上続く非常に強力かつ無意識的な平和ボケというのがあるのです。
 そちらの平和ボケを「平和ボケ」と言っていいのかどうかは問題がありますが、まあ、実際のところ平和が無意識化しているので、あえて今日はその表現を取りましょう。
 実は戦後の平和ボケも、あるいはこのたびの安保の論議の特徴にしても、この根本的な平和ボケの上にあるということを忘れてはいけません。
 この時期になると保守の方々から戦後の日本人はGHQのWGIPによって骨抜きにされた的な主張がなされますが、私は実は全く逆な視点を持っています。これを言うといつも怒られるますけれど(笑)、それこそ自虐史観だと思うのです。そんな日本人って、日本文化って弱いものなのですかと。
 昨日私も「武士道」という言葉を使い、それを良しとしていながら、ちょっと矛盾してしまいますが、その武士道なるものも、日本の数万年の歴史の中で言えば、つい最近生まれたものであって、実は表層的な(ある意味対外的な)近代文化にすぎないとも言えてしまうのです。
 縄文時代、ほとんど争いをした形跡が残っていないという事実、ある時期に大陸半島方面から弥生系の渡来人がたくさん来た際、多くが戦わず融和していったという事実。
 (これまた怒られちゃうでしょうけれども)今の状況で言えば、中国が日本本土にガンガン侵出して来たとして、戦うのではなく受け入れてしまい融合していってしまうわけです。それでも日本は中国にならなかった。それどころか日本的なる日本が強化されていってしまったという歴史をもっとちゃんと見るべきでしょう。
 そうしてみると、今「お花畑」などと揶揄される左翼的理想論的感情的平和主義、すなわち「戦後の平和ボケ」と言われる状況から、私たちは覚醒すべきなのか、よく考えてみるべきだということに気づくでしょう。
 はたして安倍総理の果敢なる挑戦と挑発が、日本という国の歴史の中でどのような意味を持つのか、これからの政局に注目ですね。「日本を取り戻す」と言う時の「日本」が、もしかすると、私がさっき言ったような近代的な、すわなち表層的な「日本」である可能性もあるわけですから。

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2015.08.07

鈴木貫太郎の武士道

Th_suzuki_kantaro 70年前の今頃、まさに終戦に向けての正念場を迎えていた、ときの首相鈴木貫太郎。最も大変な時に首相になった人物ですね。
 昭和20年4月、77歳で総理大臣になった鈴木貫太郎は、戦争を終わらせるという強い意志を持っていたようです。軍人としても優秀でしたし、昭和天皇からの信頼も厚かったと言われます。江戸生まれ、そして非国会議員で首相になった最後の人物でもあります。
 日本を救った人物の一人であったとも言えましょう。今日はその鈴木貫太郎の人物像を伝える一つのエピソードを紹介します。
 仇敵アメリカのルーズベルト大統領が亡くなった時の弔文です。これぞ武士道ですね。ヒトラーとは大違い。トーマス・マンも感動したというエピソードです。次の動画をご覧ください。
 

 玉音放送阻止のため鈴木を暗殺する計画もありました。それ以前に、二・二六事件の際、鈴木は太腿、左胸、そして頭に3発の銃弾を受けています。しかし、奥様の毅然とした行動に反乱軍はとどめを刺すことができず、結果、鈴木は生き残り、8年後戦争を終わらせる大仕事をすることになりました。そう考えると、夫人こそが日本を救った人物であるとも言えますね。
 鈴木貫太郎のように、軍部、特に陸軍の抵抗にも関わらず終戦工作を進めた人物が何人かいます。もちろん裏側での動きもあります。
 高松宮殿下、仲小路彰らは言うまでもなく、ある意味出口王仁三郎も霊的にそのような仕事をしたとも言えますね。
 そうそう、その王仁三郎は鈴木貫太郎内閣が誕生してすぐに、彼らしい駄洒落を駆使して予言めいたことを言っています。

「日本は鈴木野(すすきの)になる」
「日本はなごうは(=長くは)鈴木貫太郎(つづかんだろう)」

 面白いですね。

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2015.08.06

70年目の広島原爆忌に思う

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 島に人類史上初めての原爆が投下されて70年。あらためて亡くなられた方々、大きな痛手を負った方々のためにお祈りいたします。
 昨年の今日、こちらに書いたように、「私たち」は高い次元から本質を見つめ、二度と過ちを繰り返してはなりませんね。
 さて、今日「原爆投下に対するアメリカ人の見方に変化が」というニュースが流れました。
 原爆投下は戦争を終わらせるためだったという考え方(私も子どものころそのように教わりました)が、アメリカの詭弁や言い訳であったことが、ようやく本人たちによって認められ始めたということでしょうか。70年かかって。
 日本は世界で唯一の核兵器被爆国であり、これを最初で最後としなければならない使命を追っています。それは裏返せば、アメリカが世界で唯一の核兵器投下国であり、これを最初で最後としなければならない使命を負っているのだとも言えます。
 そういう意味では、ようやく「私たち」の中にアメリカも入ってきたとも言えます。素直にこれは喜ばしいことです。
 玉音放送にも述べられているように、無辜の民を無差別に大量殺戮した原爆投下は、明らかに国際法違反であり、それ以前に人道的に許されるべきものではありません。
 もちろん、そうした悪を誘発してしまった、当時の日本の過ちも糾弾されるべきですけれども、やはり人類史上超えてはいけない一線をアメリカが超えてしまったことは事実です。70年経ってようやくアメリカ自身がその恥ずべき事実と向かい合うようになってきたのでしょう。
 広島に原爆が投下された翌日、トルーマンは次のように言いました。

(原子爆弾は)宇宙に存在する基本的な力を利用したものである。太陽のエネルギー源になっている力が、極東に戦争をもたらした者たちに対して放たれたのである。

 太陽のエネルギー源は「核融合」であり、原爆の「核分裂」とは一緒にしてはいけませんが、結果としてのちの原発事故も含めて、私たち日本人が、宇宙に存在する基本的な力を「荒魂」の形で受けてしまったことはたしかです。
 私たち日本人はその力の受け手として、神に選ばれてしまったのでしょうか。日本人でなければ、たしかに受け止めることができなかったかもしれません。
 事実として、その力を受けてしまった私たちが、これからどうしていけばよいのか。まさに天から与えられた使命であると観じていかなくてはなりません。ただただ核エネルギーを地上から抹殺すればいいのではないと、私は思うのですが…。

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2015.08.05

シルク博物館(横浜)

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 日、横浜で少し時間がありましたので、かねてより行かねばと思いつつ横目で通り過ぎていた「シルク博物館」に行ってまいりました。
 ここのところ、絹に深く関わることになった私。一昨日の首相公邸訪問も富士吉田の絹織物屋さんと一緒でした。
 数年前までの私でしたら、このシルク博物館も全く楽しめなかったと思いますよ。ホント全然興味なかったんで。
 それがまあ不思議ですよね。諏訪に興味を持ってからというもの、いろいろなことを考える時のベースにシルクありというところまで来てしまいました。
 考えてみると、私の先祖、山口家は、諏訪→小川町→横浜と移り住み、途中静岡を挟んで私が富士北麓(郡内)に住むことになったわけですから、まあ、ある意味「絹の道」を歩んできたとも言えます。
 そして今、私はシルクサミットを画策するまでになった。なんとも不思議な因縁であります。
 そんな私ですから、この横浜シルク博物館も大いに楽しめました。楽しむというか勉強させていただきました。
 特に最後の最後に驚いたのは、高松宮妃の揮毫による「シルク・ギャラリー」の看板があったことです。
 「日本の絹を世界の女性に」というコンセプトで、高松宮妃が光輪閣に「シルク・ギャラリー」なるものを創設していたことを初めて知りました。前回の東京五輪の前後のことです。
 さらにその光輪閣の支配人は川添紫郎、シルク・ギャラリーの代表は井上清一だったようで、この二人は仲小路彰との交流が深かったことが知られています。
 やはり、高松宮と仲小路彰は裏で深く関わり、地球平和をともに推進すべく動いていたようですね。そして、そこに「絹」が関わってきている。これは、ここ数年の私の動きとも重なってきます。正直、鳥肌ものでした。
 高松宮家は有栖川宮家の祭祀を継いでいます。そして、有栖川と言えば、ご落胤出口王仁三郎。有栖川宮家も高松宮家も断絶してしまった現在、その系統の祭祀を継いでいるのは、実は大本なのではないかとも推察されます。
 と、話が飛んでしまいましたが、あの高松宮妃による「絹の道」の揮毫の美しさは、本当に天下一品。それを観るだけでも、このシルク博物館に行く意味があると思います。皆さんも、ぜひ。

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2015.08.04

BUMP OF CHICKEN 『Special Live 2015 in 横浜アリーナ』

Th_img_8871 年の「WILLPOLIS 2014」以来のBUMPライヴ。
 今回は座って鑑賞できる席を用意していただいたので、今まで以上にゆったりと(ちょっと評論家的に)聴き、観ることができました。
 まず全体として、非常に素晴らしいライヴであったと思います。BUMPらしい、愛に溢れた時間と空間がそこにありました。
 過度な演出もなく、MCも少なめで、淡々と自ら噛みしめるように曲を奏でる姿勢に感動しました。新曲4曲が単なる新曲ではなく、一つの大きな物語の中のそれぞれのシーンなのだなと感じることができました。
 今回のテーマというかアイコンが「79」であることからわかるように、彼らは今年36歳になります。厳しい音楽業界の中で、BUMPは独自の世界観を確立し、さまざまなチャレンジをしながらもその中心軸は全くブレない存在です。
 おそらくはこれから40歳になっても、50歳になっても、変わらず活躍することでしょう。同級生バンドであることはもちろん、前の記事にも書いたとおり、藤原くんが突出した存在であって、他のメンバーはそれを支えるという構造が、実は芯のぶれない長続きする条件であったりします。一般的にはそういうバンドはお金のことなどでもめてバラバラになるんですけれど、やはり、お互いの「愛」が深いので、特殊なケースになっているんですね。
 それがメンバー同士の安心、そしてファンの安心につながっている。結果としてブレない世界観を時とともに積み上げていける要因となっているのだと感じました。
Th__20150807_120424 ま、そんな細かいことはぬきにして、中盤のファイター、太陽、ギルドの流れはたまりませんでした。バンドとしての成熟度、成長の跡が聞き取れました。特に、太陽での増川くんの丁寧なギターのオブリガート。そこに込められた歌への思いには感動しましたね。なるほど、このバンドはバンドとしても魅力的だなと。
 あと、藤原くんのギルドの歌い方にも成熟が感じられましたね。前半は比較的淡々と。間奏後はやや激しく感情的に。ここでもデレツンぶり発揮か(笑)。「愛」や「優しさ」の中に「お前ら!」みたいなSっぽいところがあったり、そんなところも藤原くんの魅力でしょうかね。
 さてさて、オーディエンスの「表打ち」「裏打ち」の話は、昨年の記事に書いたので、ここでは繰り返しませんが…ただ、面白かったのは、アンコール2曲目、すなわちラストの曲「メーデー」で、チャマが裏打ちコールをしたので、ライヴ全体で初めてオーディエンスの腕の振りが「裏打ち」になりました。
 しかし、それも1番のサビ前までで、そのあとはいつの間にか会場全体が「表打ち」に戻っていました。そして、曲の最後に再びチャマが裏打ちでコールしたので、表と裏が混在し、グチャグチャになった感じで終わりました(笑)。
 う〜ん、これはパンプに限らないことなので、もう完全に日本の文化ですね。私はそれを否定するつもりはありません。まさに和洋折衷のハイブリッド文化だなあと痛感した次第です。
 ちょっと意地悪な言い方をすると、BUMPファンは特に「日本的」なのかもしれないなと思いました。藤原くんの音楽の根底にあるブルース的なもの、あるいはカントリー的なものが、受け取る側の文化によって、全く新しい「ノリ」を生んでいるのかなと(その点、面白いのは、たとえばアニソンのライヴなんかだと、ヲタクの方々は見事な裏打ちで統一されていることですね)。
 冒頭に書いたように、今回は失礼ながら着座したまま鑑賞させていただきました。さらに会場前の宿まで取っていただき、おじさんファンとしては大変助かりました。これからきっとファンの年齢層ももっと広がってくることでしょうから、「座って鑑賞席」というのを作ってもいいかもしれませんね(笑)。
 

■セットリスト
1.パレード
2. Hello,world!
3. ハンマーソングと痛みの塔
4. 才悩人応援歌
5. morning glow
6.ファイター
7.太陽
8.ギルド
9.ハルジオン
10.embrace
11.虹を待つ人
12.乗車券
13.supernova
14.ガラスのブルース
15.ray

【アンコール】
コロニー
メーデー

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2015.08.03

首相公邸訪問

Th_img_8853 日は首相公邸にお招きいただき、三つの仕事をしてきました。
 現段階では詳細は書けませんが、いずれも日本の未来のための仕事であることは間違いありません。
 と同時に、過去の重さを感じました。首相公邸と言えば、たとえば五・一五事件や二・二六事件の現場となった旧官邸ですよね。
 このたびは、公邸を訪問する前に武蔵陵墓地を参拝しましたし、両事件や天皇家とも因縁の深いあるモノを携えておりましたから、なおさらそうした歴史の重さを感じないではいられませんでした。
Th_img_8856 安倍昭恵総理夫人との対談の機会もありました。昭恵夫人とはいつも地球平和について壮大かつ身近な話をさせていただいています。今回もずばりテーマは「和」でした。
 未来の「和」を語る時、避けて通れないのが、過去の「不和」です。今日は官邸前にはデモ隊もおらず、聞こえてくるシュプレヒコールは、なぜか右翼の皆さんのものでしたけれども、そうした現在の「不和」も、結局のところ過去の不和によって縁起しているものです。
 歴史として記述されて固定化された(それはすなわち放置されたとも言える)過去の「不和」を現在的、未来的な意味で和合させるのが、「祈り」の機能であり、たとえば天皇家や宗教家のお仕事であると思います。
Th_img_8856_2 私は一庶民でありますが、不思議なご縁を多々頂いているので、自分にできることとして、ほんの少しでも、そうした過去を和すお役目ができればと思っています。
 昭恵さんも全く同じ考えをお持ちです。今日の対談の中でも、昭恵さんのスケールの大きさ、飾り気のない純粋さ、愛の深さを再認識させていただきました。本当に素晴らしい。いつかも書いたように、本当に皇室に近いお働きをされていますね。
 夜の二次会にもお誘いしましたが、今日はイタリア首相との夕食会があるとのことで、当然のことながらそちらを優先されました(笑)。続きは今月末のある機会にということで。
Th_img_8865 そうそう、二次会ではこれまた不思議なご縁で、偶然長州力さんの娘さんと同席することになり、大いに盛り上がりました。なんとも楽しい夜となりました。感謝です。
 このタイミングでの首相公邸訪問。自分としましては、大変大きな意味があったと思っています。必ずや未来の「和合」「止揚」のために役立てさせていただきます。ありがとうございました。

追伸 同行した家内は何か持って帰ってきたようで、翌日から背中や左腕の原因不明の痛みに襲われ悶絶しております。斎藤春子さん(殺害された斎藤実大臣の奥様)の背中や腕の痛みからすれば、どってことないと言っておりますが。
 


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2015.08.02

玉音放送の原盤公開

 日のことになりますが、皆さまニュースでご存知のとおり、玉音放送の原盤が公開されました。
 あらためて、この「終戦の詔勅」をしっかり味わってみたいと思います。
 この詔勅にまつわることについては、5月に「大東亜戦争終結ノ詔書」と「平和に寄す」(と王仁三郎)という記事を書きましたが、今回はその最後の部分を確認しておきましょう。

宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

 戦後の私たちは、昭和天皇陛下の「御意」をしっかり「体現」してきたでしょうか。たしかに世界の進展に後れをとることはなかったと思いますが、それはあくまでも経済の面においてです。はたして「道義を篤くし」「志を確固たるものとし」「国体の精華を発揚し」てきたでしょうか。
 「国体の精華」とは何なのか、これを表現するのは難しいところですが、基本的には日本の国柄である「和」の精神であると、私は考えます。
 陛下は、日本人がたとえ戦争に負けたとしても、そうした人間としての魂の部分で誇りを失わず、目に見えない部分で世界をリードせよとおっしゃっているのでしょう。
 その御意を私たちは戦後70年になる今こそ、もう一度しっかり確認し、日本国民として「任の重さ」と「道のりの遠さ」を思うべきでしょう。そして、地球平和という未来創造に尽力しなければなりません。
 私もとりあえず明日から具体的行動に出ます。

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2015.08.01

第37回富士吉田梅若薪能

Th__20150802_75416 は久しぶりの鑑賞。6年ぶりです(こちらの記事参照)。これだけ間が空いたのにはいろいろ事情がありました。
 その間、不思議なご縁で日・ASEANサミットにおいて梅若さんには大変お世話になりました。
 ここ富士吉田の絹織物と能との関係(そこには京都が深く関わってくるのですが)については、こちらをお読み下さい。
 ま、そんなこんなご縁もあった上に、中1の娘が突然「能楽師になる!」とか言い出して能楽部に入部しちゃいまして、このたびも薪能をお手伝いするとのことなので、これはいよいよ行かねばということになりました。
 で、その娘に「一番安い2500円のチケットを2枚買ってきて」と頼んだところ、なぜか7000円のSSのチケットを1枚買って来ました(笑)。それも、自分のお小遣いから2000円出して!w
 お使いとしては最悪ですが、自分でもなんでそうなったのかよく分からないということなので、これは運命、神の思し召しだなと思い、あたがたくSS席で鑑賞いたしました。
Th__20150801_17_27_21 今日の番組。

放下僧
茶壺
杜若

 一言、全て素晴らしかった(お客様の一部、大学生とおぼしき一団と私の後ろの地元のおばちゃんたちのマナーの悪さを除いて)。
 能って、自分のコンディションというか、こちらの「器」の純粋さが問われますね。
 そう、世阿弥の言う「ものまね」というのは、「物を招く」という意味であり、演者はもちろん、鑑賞者もまた「モノ」を受け入れる、フィルターのかかっていない器になる必要があるのです。
Th__20150801_20_40_52 たとえば、単純な例で言いますと、今日の放下僧の、あの最後の仇討ちのシーンにおいて、敵役は途中降壇して笠のみが舞台に残されますよね。つまり、殺害シーンは笠に象徴されるわけです。
 それをどのようにリアリズムに落としこむかは、これは演ずる者と観る者との共同作業になるわけですよね(プロレスに似ている)。
 このたびの杜若の舞いや作り物にもそういう象徴性がふんだんに見て取れました。
 というわけで、今日私も上手に器になれたようでして、いろいろ直観を得ることができました。明日からそれをしっかり現実に活かしていこうと思っています。

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