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2015.06.07

フィクサー

 日の「そこまで言って委員会」もなかなか面白かった。
 特に「フィクサー飯島」さんの発言は興味深い。こうして表に出ていろいろ言ってしまうあたりが、すでにホンモノのフィクサーではないことの証明ですが。つまり、「ここまで言って委員です」ということですね。
 私も一部の人から「フィクサー」とか言われていますが、もちろんニセモノです(笑)。
 このブログにも散々書いていますし、実生活でもペラペラしゃべっています。それを大変心配してくださる方もいるのですが、私は出口王仁三郎を師と仰いでおりますので、あえて余計なことまでしゃべっているというところもあります。
 すなわち、これも戦略であるということです。世の中には足を引っ張る人たちがたくさんいまして、私のごとき小人の戯言を真に受けて、わざわざ足を引っ張ってくれる方もいらっしゃいます。ま、それは全て想定済みのことであり、また、先方にとっては無駄なこと、こちらにとっては実は有用なことであったりするので、私は喜んでその妨害を受けることにしています。
 ま、そんなところもまた、王仁三郎に似ているかもしれません。ま、スケールは違いすぎますけど(向こうは国家に大量のダイナマイトでドカンとされていますから)。
 ホンモノのフィクサーと言えば、昭和の吉田松陰とも称される仲小路彰もまたすごいスケールの人でした。彼は王仁三郎とはある意味逆に余計なことは全く語らず、自分の名前も出さず、いや姿すら出さず、それこそ裏側から日本を動かしていました。王仁三郎は陽なら仲小路は陰です。
 私は仲小路彰も大尊敬しています。実は王仁三郎と仲小路は同じことを考え語り、そして行動しているのです。まさに陰陽の関係。一見まったく関係がない、あるいは似ても似つかないように見えますが、次元を上げて彼らを見ると同じ志を持っているんですね。
 そこを見落としてはいけない。彼らの時代はたしかにすでに終っているように見えますが、実際にはちゃんと生きている。それどころか今まさに彼らの思想や行動が価値を持ってきているのです。
 世の中をフィックスするには、一人の手で数十年でできるものではない。結局のところ、それぞれの時代にあった形で継承され、その目的達成の日まで営々と生き続けなければならないのです。
 最近、ようやく幕末明治初期の人物に興味を持ち始めて、いろいろ読んだりするようになったのですが、彼らもやはりそういう視点で見ると、同様な霊脈の中にいることに気づきます。
 途中で暗殺されたり、事業が頓挫したり、いわゆる歴史上は未完成、未成就に解釈されますが、いやいやどうして必要な時に、彼らの志はしっかり生まれ変わって世に出てくるものです。
 昔はよかった、昔の人はすごかった、ではなく、彼らのフィックスしたコトをどう今に活かすのか、あるいはその固める事業をどう継承していくのか、そういう過去・現在・未来を俯瞰するような立場で、しっかり地層を固めて積み上げていかねばなりません。
 それこそがフィクサーの役割でしょう。そういう意味で現代のフィクサーは本当にいるのか。少し心配にもなりますね。
 私なんか unfixer ですから(笑)、どちらかというと足を引っ張る方なのかな…なんて、それは冗談ですが、我欲や利己心から物事を unfix しようとする輩がいるのはたしか。しかし、これからの時代は、そういう輩さえも利用するような度量の大きさが必要でしょうね。
 王仁三郎も弾圧され逮捕され収監されることによって、自らを戦争に関わらせなかったわけですからね。国家に感謝こそすれ、恨みはしなかった。だから、国家賠償もいらんと言えたのでしょう。

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