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2015.03.11

祈り…こころを平和にする

Th_img_6170 日本大震災から4年。
 14時46分、有志の皆さん、生徒たちと一緒に鹽竈神社にて「大地讃頌」を歌いました。
 「大地讃頌」の内容と震災を結びつけるのには、私は実はあまり賛成ではありませんが(「大地讃頌」(カンタータ「土の歌」より)と封印された最終楽章参照)、そんな私情を超えて、一つの祈りの表現にはなったと思います。
 富士山を仰ぐ丘、いわゆる忠霊塔の登り口に鹽竈神社があります。新倉浅間神社の社地になぜか、鹽竈神社の分社があるんですね。言うまでもなく鹽竈神社は陸奥国一宮。どういう事情でここに鎮座しているのか、正直分かりません。
 大地讃頌を奉納したのち、生徒たちは学校へ帰り、今回の奉納の発案者でもあり、広島の原爆被爆者でもある方から、被曝講話をいただきました。3年生は再来週、修学旅行で広島を訪れるので、ちょうどいいタイミングです。
 しかし、私の中では、地震や津波、原発事故と、戦争、原水爆をごっちゃにしてしまうのは危険だなという気持ちもありました。中学生の頭の中では一緒くたになってしまうでしょうね。
 もちろん、日本人は、たとえば戦争や原発事故のような「人災」すらも、天災のようにとらえて、ある種の諦念をもって乗り越えるところがありますよね。それがいいか悪いかも難しい問題ですが、たしかにそういう文化もあります。
Th_img_6168 一方で、そういうごっちゃになった「不幸」に対して、ただ祈る、あるいはただただ反対するというような姿勢を持ちがちなのも日本人の特性だと思います。
 「祈り」と「反対」に共通する危険は、自己満足と現実逃避です。違う言い方をしますと、「祈り」も「反対」も他者にしか向かない危うさがあるんですね。
 はたして、私たちは、自分に対して祈ったり、反対したりできるのか。私はそこが人類にとっての大きな課題であると思っています。
 そういう意味では、高次元で祈り続ける天皇という存在はすごいなと改めて思った次第です。
 さて、「祈り」や「反対」を自分にも向ける方法として、一つのヒントになることがありました。
 講話の中で、被爆者の方が生徒たちに配ったプリント。そこには、谷川俊太郎の言葉が印刷されていました。これは私がいつも心がけていることですし、生徒たちに伝えていることでしたので、ここに紹介しておきます。皆さんもぜお読みください。

  こころを平和にする  谷川俊太郎
 理由もなく、戦争をするのはいいことだ、どんどん戦争をしようと考えている人はいないと思う。でも、正しい理由があれば戦争をしてもいいと考えている人は多い。相手をやっつけなければ、こっちがやっつけられてしまうから、したくないけど戦争をしているというわけだ。ぼくら人間はおおむかしからそうやって戦争をしてきた。戦争はいやだ、戦争はしたくないと思いながら。
 どうしてだろう? それは人のこころのなかに、平和がないからだとぼくは思う。平和をじぶんの外につくるものだと考えると、平和をめざして戦争をするということにもなる。じぶんのこころを平和にするのはむずかしい。でも、まず始めにこう考えてみたらどうだろう? 戦争はじぶんのこころのなかから始まると。戦争をひとのせいにしないで、じぶんのせいだと考えてみる。
 ひとをにくんだり、さべつしたり、むりに言うことをきかせようとしたり、じぶ んのこころに戦争につながる気持ちがないかどうか。じぶんの気持ちと戦争はかんけいないと考えるかもしれないが、それでは戦争はなくならない。
 まずじぶんのこころのなかで戦争をなくすこと、ぼくはそこから始めたいと思う。


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