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2015.01.31

平常心(びょうじょうしん)

061 日は本校の一般入試でした。
 いつものように、国語の問題のために書きました文章を掲載いたします。今まさに問題を解いている小学生に語りかけるだけでなく、ネタ的にも「全豪オープン」とか…いったいいつ書いたんだ?!的な文章ですが(笑)、よろしかったらお読み下さい。
 今、日本に、そして日本人に要求されるのは、まさに「びょうじょうしん」であると思います。


    平常心

 みなさんは「本番」に強いですか? 
 今まさに入学試験の本番中ですよね。さすがにドキドキしているのではないでしょうか。
 テストでも、スポーツの試合でも、音楽の発表会でも、ふだんの勉強や練習の成果を発揮するのは難しいものです。
 私も時々コンサートに出たりするのですが、もう何十回も経験しているのに毎回緊張してしまいます。緊張して得することはないと分かっていても、なかなか緊張が解けません。
 そんな時はまず体に変化が表れます。手がブルブルふるえたり、指先からいつもは出ない汗が出てきたり…それに気づいて心も動揺してしまうともうダメです。練習で難なくできていたことさえもできなくなってしまう。
 しかし、面白いもので、そういう時にこそ、自分というものをはっきり意識できるのも事実です。ふだん、無意識に体や心を動かしていて、それでいてなんとかなってしまう。だから、今こうしている、ここにいるのが自分だなんて考えません。それが「本番」になって、思い通りにならない自分に出会って初めて「ああ、これって自分なんだ」と思うわけです。
 さて、自分の話はいいとしまして…テニスの錦織圭選手が、全豪オープンでもすばらしい戦いを見せてくれましたね。あのような大舞台で、あのように自分の実力を発揮できるというのは、本当にすごい。
 錦織選手自身も言っています。「技術や戦略はもちろん、それを本番で発揮できる精神力が大切です」と。
 たしかに、いくら技術や知識があっても、本番でそれが使えなければ、何も持っていないのと同じですよね。
 私たちは、ふだんの技術や知識を本番で使える心の状態のことを「平常心」と呼んでいます。みなさんも聞いたことがあるでしょう。
 一流のプロ選手は、平常心を保つことができるように、特別なトレーニングをしているそうです。特に多いのが、ある特別な呼吸法を身につける訓練。呼吸を整えると心も体も乱れないのです。
 実はこの呼吸法、仏教の座禅の呼吸法からヒントを得たものです。
 みなさんは座禅をしたことがありますか? 座禅とは仏教の修行の一つで、静かに座って心と体を整えようとするものです。
 富士学苑では毎週月曜日の一時間目に全校生徒で座禅をします。また、年に一回お寺に泊まって座禅をする機会もあります。
 みなさんはお坊さんになるわけではありませんから、たとえば「本番に強くなるため」という目的で座禅をするのでもかまいません。楽しみにしていてください。
 ところで、仏教の世界にも「平常心」ということばがあります。ただし、これは「へいじょうしん」とは読まずに「びょうじょうしん」と読むそうです。
 そして、意味も「へいじょうしん」とは違うようです。「へいじょうしん」の「平常」は「日常」「ふだん」「平時」「いつも」という意味ですが、「びょうじょうしん」の「平常」はその字のとおり、「常に平ら」と考えると分かりやすいようです。つまり「びょうじょうしん」とは、「何事にも動じない心」、または「何事も受け入れる心」なのです。
 そうしますと、私になくて錦織選手にあるのは、「へいじょうしん」と言うよりも「びょうじょうしん」なのかもしれませんね。
 緊張している自分とか、失敗してしまった自分をなんとか「へいじょう」の自分にしようとすると、よけいに不自然になることがあります。そんな自分を「へいじょう」にもどそうとするのではなく、そのまま受け入れること、そんな自分もまた自分自身であると認めることが大切なのかもしれません。
 なるほど、「動じない」「受け入れる」ことが「常に平ら」であるということなのか…とは言っても、私たちは立派なお坊さんでもプロのスポーツ選手でもありません。なかなか今の自分をそのまま受け入れることはできませんよね。自分は自分なのだからなんとかなる、なんとかできると思ってしまうのも当然です。
 しかし、緊張している自分、失敗してしまった自分、不安な自分を、一度「これも本当の自分だ」と思って受け入れてみると、案外緊張が解けたり、失敗をカバーできたり、安心したりすることがたしかにあります。
 「本番」とは晴れの舞台です。決して「へいじょう」な時間ではありません。晴れの舞台はそうそうあるものではないのです。だから、ドキドキしている時というのは、今まで知らなかった新しい自分に出会って、ちょっとびっくりしているだけなのです。そう思うと、無理に「へいじょう」にしようとしなくてもいいことが分かりますね。
 さあ、みなさんも今、さっそく「びょうじょうしん」に挑戦してみてはいかがでしょうか。

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2015.01.30

『憲法対論-転換期を生きぬく力』 奥平康弘・宮台真司 (平凡社新書)

Unknown_2 「条の会」呼びかけ人の一人であり、日本を代表する憲法学者であった奥平康弘さんがお亡くなりになりました。ショックです。
 昨年の今ごろでしたか、憲法記念日でしたね、山梨に講演にいらしたのですが、どうしてもその日は用事があって行けなかったんですよねえ。今思えば…。
 奥平先生の本はけっこう読んできたと思います。最初に出会ったのは、大学の「憲法学」。奥平先生のご著書がテキストでした。
 今考えると、私はそういう大学に通っていたわけですが、まあ、そんなことは抜きに先生の憲法論には「人間」を感じてひかれました。
 もちろん、私は単純な護憲派ではないですし、9条の会の会合には行きたくてもなぜか呼んでもらえない人間です(笑)。しかし、奥平先生の奥底に潜む、この本でいうところの「パトリオティズム」には感覚的に共鳴していました。
 私の「日本国憲法」に関する立場は、このブログでもちょっと小出しにしてきました。なかなか理解していただけないのですが、まあ、護憲派、改憲派双方から呼ばれないのは事実ですね(笑)。
 「憲法リテラシー」、宮台さんのこの言葉は、この本が出版されてから13年経った今、ますます重要性を帯びていると思います。
 ここのところの中東での事件も含めて、第3次安倍政権において、この「憲法リテラシー」はより一層、私たち国民に要求されてくることでしょう。
 昨日の記事の「グーミン」ほど下品な言葉ではありませんけれども、この本には「田吾作」という民度低い庶民を指す言葉が何度も出てきます。日本の近代とはまさに「田吾作による天皇利用」だったのでしょうか。
 もちろん、奥平さんと宮台さんでは、その思想体系や経験的な基礎があまりに違いますから、「天皇」に対する思い入れも全く違うと思います。
 ただ、かなり熱い、いや厚い、いや篤い「天皇への思い」があることはたしかです。ま、私もそうでなければ、お二人のお話なんか聞く耳持たないと思いますよ。
 そのへんの微妙な一致と、また不一致がこの本の面白さでしょう。
 やたらしゃべりまくる宮台さんと、それをウンウンと聞いてあげる奥平さん。そして、全体の90%が過ぎたあたりでようやく訥々とまとまった話を始める奥平さん。
 これぞ「国譲り」理論とも言うべき展開で、奥平さんの勝ち(笑)。奥平さんは宮台さんのお父様と同い年だそうです。まさに親子の「戦後史」の違いを感じさせるような対談ですね。
 途中まではなんだか、宮台教祖に対する奥平さんの霊言集のような感じで、こりゃ困ったなと思いましたけれど、結果としてはものすごくスッキリしました。
 やはり、日本国憲法は「人間」が作ったものなのだなと。アメリカ人であろうと日本人であろうと。地球人の一つの挑戦なのでしょう。日本だからこそ日本人だからこそ、与えられた試練。まさに「九(仏教的「苦」)」条ですね。
 蛇足になりますが、本家の大川隆法さんが近く「奥平康弘の霊言」を出しそうだなあ。「いやあ、本当は9条は改正すべきだと思っているのです」って(苦笑)。

Amazon 憲法対論

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2015.01.29

『99%の人が知らないこの世界の秘密 <彼ら>にだまされるな!』 内海聡 (イースト・プレス)

20150107_163640 ぜか我が家で「グーミン」という言葉が一時的にはやりました。
 その「グーミン」の生みの親と言ってもいいキチガイ医師(ご自身でそう言っています)内海聡さんの本を読む機会がありまして、まあ、なんというか、ため息が出てしまいましたよ。
 最初に申しておきますが、私も立派な「グーミン」の一人であり、また一方で「グーミン」を卑下まではせずとも憐れみの目で見てしまう(すなわち自分をも憐れむ)、ちょっとキチガイっぽいところもある人間であります。
 だからでしょうか、二重の意味で自家中毒的な症状を起こしてしまった。吐き気がする。
 まあここに書かれていることは、一般的な「陰謀論」の内容として、ある程度知っていたり、聞いたことがあることばかりでした。
 つまり、内海さんの情報収集能力というのが、私とそれほど違わないのであろうと推測されます。名前は明かせないがなんとなく特別な人脈を持っている感を出したり、肝心な主役を<彼ら>としてしまっているあたり、私のハッタリと似たり寄ったりな感じさえします(笑)。
 もちろん、内海さん自身は自分の持っている情報、あるいは解釈は正しいと信じているのでしょうから、それらを基本面白がってしまっている私と議論したとしても、ずっと平行線のままでしょうね。
 私の「陰謀論」に関する立場は、こちらこちらに書いたとおりです。
 きっと内海さんにもルサンチマンがあるのだろうなと、ある意味判官贔屓の目で見てしまう。ただ、この憐れみの目は、グーミンへのそれとは根本的に違いますよ。
 私の周辺には、たとえばこうした陰謀、いや内海さん流に言うと「策謀」が実際にあると信じて行動している方もたくさんいますし、逆に全て否定して一笑に付してしまう方もいます。
 それでも、(上記リンク先記事の繰り返しになりますが)私にとっては、その情報が本当であろうと嘘であろうと、それらがある人の未来への意思の原動力となり、実際の行動を喚起し、結果としてその人の「違った未来」を生むのであれば、やはり「歴史的な事実」ということになるのです。
 そういう私の立ち位置がはたしてメタの視点なのか、キチガイを上回るモノ狂いのような立場なのか(笑)、私本人にはよく分かりませんけれども、ただやはり、グーミンとキチガイは同じ地平にいるようにしか見えないのは事実です(先ほど書いたように、両者を同じ憐れみの目で見ているのでありませんが)。
 内海さんの上から目線の物言いも含めて、これはお笑いかなにかのエンターテインメントにしか、私には感じられませんでした。毒舌キャラ。それもお医者さんだし。
 ま、いちおう専門の日本語学的にいうと、「よく似た日本語とヘブライ語」なんていう話はまさに噴飯物。使い古されたネタです。そう、全体的に使い古されたネタの再利用という感じ。そういう意味では古典的だったりして(笑)。
 そういうギャップやドSや虚無主義な部分も含めた、総合的な面白さがたくさんの内海ファンを生み出しているのだと信じます。
 そうであってほしいと思います。ハッタリお笑い芸人という意味では、ある意味同業者だと思いますので(笑)。
 実は先日、カミさんが生内海センセイのお話を聞く機会があったんです。けっこう良かったと。この本に書いてあるような話はほとんどなく、まっとうな医療、食、教育の話だったようです。それだったら私も聞きたかったかも。
 正しいことを言っていても、やはり「言い方」というのは大事ですし、その他のアヤシイ情報と玉石混交になってしまうと、残念なことになりかねません。
 その点、(自分も含めて)反省すべき大人がたくさんいるような気がしてなりません。

Amazon 99%の人が知らないこの世界の秘密 <彼ら>にだまされるな!
 

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2015.01.28

『Kobo Aura H2O』 (防水電子ブックリーダー)

Th__20150129_90721 っちゃいました。気になってしかたなかったこのブックリーダー。
 初期型のKoboも持ってるし、Kindleも持ってるし、iphoneやMacでも読めるし、今さら買わなくてもと思って我慢していたんですが、受験生である娘が「お風呂で勉強したい!」と素晴らしいこと(笑)を言ってくれたので、それに乗じて購入。
 そう、私も「お風呂で読書」が大好きな人間。今までは紙の本を風呂場に持ち込んでいました。すなわち、それらの本はあっという間にブヨブヨ、フニャフニャ。
 防水のブックリーダーがあったらなあ…と思っていたところ昨年末とうとう発売になりました。
 いやはや、なんとも快適ですよ。お風呂が楽しい。一人で哲学的になれるのは風呂場かトイレしかないですからね。トイレはこの季節寒いし、なにしろ虚しい(笑)。
 風呂につかりながら、本読むとホント集中できるし、いろいろひらめいたりもする。
 つい眠くなってポチャンなんてことも過去ありましたが、この Kobo Aura H2O なら大丈夫(公称30分間)。
 娘も高校入試用の社会の参考書を購入してさっそく長湯しております。そう、長湯になってしまうのが問題と言えば問題ですかね。
 私の最近の読書はブックリーダーが7割、紙の本が3割という状況です。自分でもビックリするほど電子本に移行してしまいました。
 いや、2年半前はこちらに書いたような状況で、なんともアヤシイ状況だったのですが、今や出版業界も電子化の方に大きくシフトしていますからね、ほとんど不満もありません。
 もちろん、紙の本の良さ、リアル本屋さんの良さも知っていますから、そちらを完全に捨てるつもりはありませんが、用途や目的でしっかり使い分けていくと、読書生活がより活性化すると思います。
 初期型に比べると、いろいろ進化していますが、それでも電子インク独特のモッサリとした半アナログ感は相変わらず。私はそれがけっこう好きなんです。
 というわけで、こいつは大活躍しそうですよ。皆さんも思い切ってどうですか。お風呂で読書の夢を叶える画期的な製品だと思います。

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2015.01.27

「FM式マグマ抜き工法」で富士山の噴火を制御 (フジワラ産業)

Th_ll_img_56407_1 日は我が家で計測している大気中ラドン濃度が久しぶりに34まで上昇しました。富士山自身の地下でなんらかの動きがあるのか、あるいは遠方の大きな動きをとらえているのだと思います。どこまで上がるのかに注目です。
 ちなみにここ3年間の最高値は38。その時は近隣の道志川断層を震源とした中規模地震が発生しました。当地で震度5。
 そんなことから、40を超えたら大きな地震に注意、50超えたら富士山の噴火を疑おうと思っています。
 いずれ富士山は噴火します。それは100%。それが今日なのか明日なのか、10年後なのか100年後なのか、それが分からないのが地学の難しいところです。御嶽山の噴火も全く予想外でしたからね。せめて自分で自分の身を守ろうとラドン濃度の動きや電磁波異常を観察しているわけです。
 そんな富士山の噴火を、ある意味では人工的に促して、大難を小難にしようという面白いプロジェクトのプレスリリースを見ました。

 フジワラ産業、「FM式マグマ抜き工法」の開発を検討  ―日本の象徴、美しい富士山の噴火予防対策としてー

 面白いですね。小出しにして破滅的大噴火を防ぐという方法。
 まあ、たしかに噴火を抑えることはできませんから、こうしてストレスを解消させるしか方法はないかなあ。
 地震についてもこのような「小出し法」が有効だという考え方もあります。そう、ある意味での「人工地震」ですね。
 私、こういうのって、古来の「祭」の機能に近いと思うのです。コントローラブルな「荒魂」を使って「和魂」を招来するわけです。
 人間もストレスを小出しにしないと大爆発してしまいますよね(笑)。
 たとえば河川の氾濫を防ぐために、人工的に流路を作ることは古くから行われてきました。それと同じような考え方をするなら、この地下にマグマの流路を作る方法もありだと思います。
 ただどうでしょうね、駿河湾に大量のマグマが流れこむ、というか形としては湧出するわけですよね、そうするとどういう問題が生じるか。天文学的な量になる可能性があるわけですからね。
 あるいは人工的な流路では誘導できるマグマの量が全く足りないかもしれません。焼け石に水というか。
 また、地下には自然の流路(亀裂など)が多数ありますから、結果として人工的な方が選ばれないかもしれない。
 しかし、一つの「和し(やわし)」としてはありではないでしょうか。
 富士山の神様は「浅間大神」。すなわち「あさましき(人智を超えた)大きな神」ということになります(国常立神もその分霊です)。
 あくまでも私たちは自然の大いなる力に対して謙虚になり、また畏れ、そして感謝しつつ、丁重にお祀りするという気持ちで、このようなプロジェクトに取り組んでいかねばなりませんね。
 それにしても、このフジワラ産業さん、なかなか面白い会社ですね。ちょっと気に入りました。

フジワラ産業株式会社 公式サイト

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2015.01.26

『恥』 太宰治

 スラム国による人質事件、政府としてはなかなか難しい対応を迫られておりますが、一連の経過を見るに、日本にはまだ「恥」の文化が残っているのだなと感じずにはいられません。
 クソコラ、2ちゃんでのコメント、世間の冷めた目、親の会見やインタビューでの謝罪…この前、「人命(生存権)という人間による近代的産物を軽く超越した何か、それはとってもプリミティヴなモノなわけですが、それがこの国では重視されるようですね」と書きましたが、その何か(モノ)とは端的に言えば「恥」ということになるでしょう。
 私たち日本人の、人様(不特定多数の他人に「様」をつけるところがミソ)に迷惑をかけるのだったら「死んだほうがまし」という感覚は、たしかにプリミティヴなモノです。
 「死んだほうがまし」という表現、諸外国にあるのでしょうか。ないような気もしますね。「穴があったら入りたい」というのも隠れるという意味ではなく、「死ぬ」といういう意味かもしれません。
 日本で「自殺」が多いのも、実はこういう「恥」の文化の延長線上にあるものです。他人さまにお世話になれば生きる道はいくらでもあるのに、そちらを選ばないで穴に入るわけです。
 「旅の恥はかきすて」というのは、旅における「他人」が流動的であったからでしょう。結果、縁起する自分も流動的(情報化された現代ではそうもいきませんが)。
Th_4137526pimg 中には「恥」を知らない人もいます。自称「恥の多い人生」を送った人物太宰治は、たしかに人に迷惑をかけて平気な人でした。いや、平気ではなかったけれども(何度も自殺未遂をしたけれども)、それを文学に昇華してしまうずるい才能を持っていた。
 しかし、やはり最後は死んでしまいましたね。日本の神は「恥知らず」を許さなかったわけですね。
 ま、この芥川のまねをする若き太宰も充分恥ずかしいですけど(笑)。
 そんな太宰に「恥」という彼らしい面白い小品があります。今日はそれを読んでみましょう。
 これって、自分の「恥」の翻案なのか、それとも他人の「恥」の公開処刑なのか(つまり実話なのか)。後者だとしたら、とんでもないヤツですね、太宰は。ネタにされたファンの女の子、間違いなく死んでますな。残酷すぎます。
 「灰をかぶる」という表現が出てきますが、これも「死」を想像させますね。


 菊子さん。はじをかいちゃったわよ。ひどい恥をかきました。顔から火が出る、などの形容はなまぬるい。草原をころげ廻って、わあっと叫びたい、と言っても未だ足りない。サムエル後書にありました。「タマル、灰をこうべかむり、着たる振袖ふりそでを裂き、手をこうべにのせて、よばわりつつさりゆけり」可愛そうな妹タマル。わかい女は、恥ずかしくてどうにもならなくなった時には、本当に頭から灰でもかぶって泣いてみたい気持になるわねえ。タマルの気持がわかります。

 菊子さん。やっぱり、あなたのおっしゃったとおりだったわ。小説家なんて、人のくずよ。いいえ、鬼です。ひどいんです。私は、大恥かいちゃった。菊子さん。私は今まであなたに秘密にしていたけれど、小説家の戸田さんに、こっそり手紙を出していたのよ。そうしてとうとう一度お目にかかって大恥かいてしまいました。つまらない。

 はじめから、ぜんぶお話申しましょう。九月のはじめ、私は戸田さんへ、こんな手紙を差し上げました。たいへん気取って書いたのです。

「ごめん下さい。非常識と知りつつ、お手紙をしたためます。おそらく貴下の小説には、女の読者がひとりも無かった事と存じます。女は、広告のさかんな本ばかりを読むのです。女には、自分の好みがありません。人が読むから、私も読もうという虚栄みたいなもので読んでいるのです。物知り振っている人を、矢鱈やたらに尊敬いたします。つまらぬ理窟りくつを買いかぶります。貴下は、失礼ながら、理窟をちっとも知らない。学問も無いようです。貴下の小説を私は、去年の夏から読みはじめて、ほとんど全部を読んでしまったつもりでございます。それで、貴下にお逢いするまでもなく、貴下の身辺の事情、容貌、風采ふうさい、ことごとくを存じて居ります。貴下に女の読者がひとりも無いのは、確定的の事だと思いました。貴下は御自分の貧寒の事や、吝嗇りんしょくの事や、さもしい夫婦喧嘩げんか、下品な御病気、それから容貌のずいぶん醜い事や、身なりの汚い事、たこの脚なんかをかじって焼酎しょうちゅうを飲んで、あばれて、地べたに寝る事、借金だらけ、その他たくさん不名誉な、きたならしい事ばかり、少しも飾らずに告白なさいます。あれでは、いけません。女は、本能として、清潔を尊びます。貴下の小説を読んで、ちょっと貴下をお気の毒とは思っても、頭のてっぺんが禿げて来たとか、歯がぼろぼろに欠けて来たとか書いてあるのを読みますと、やっぱり、余りひどくて、苦笑してしまいます。ごめんなさい。軽蔑したくなるのです。それに、貴下は、とても口で言えない不潔な場所の女のところへも出掛けて行くようではありませんか。あれでもう、決定的です。私でさえ、鼻をつまんで読んだ事があります。女のひとは、ひとりのこらず、貴下を軽蔑し、顰蹙ひんしゅくするのも当然です。私は、貴下の小説をお友だちに隠れて読んでいました。私が貴下のものを読んでいるという事が、もしお友達にわかったら、私は嘲笑せられ、人格を疑われ、絶交される事でしょう。どうか、貴下に於いても、ちょっと反省をして下さい。私は、貴下の無学あるいは文章の拙劣、あるいは人格の卑しさ、思慮の不足、頭の悪さ等、無数の欠点をみとめながらも、底に一すじの哀愁感のあるのを見つけたのです。私は、あの哀愁感を惜しみます。他の女の人には、わかりません。女のひとは、前にも申しましたように虚栄ばかりで読むのですから、やたらに上品ぶった避暑地の恋や、あるいは思想的な小説などを好みますが、私は、そればかりでなく、貴下の小説の底にある一種の哀愁感というものも尊いのだと信じました。どうか、貴下は、御自身の容貌の醜さや、過去の汚行や、または文章の悪さ等に絶望なさらず、貴下独特の哀愁感を大事になさって、同時に健康に留意し、哲学や語学をいま少し勉強なさって、もっと思想を深めて下さい。貴下の哀愁感が、もし将来に於いて哲学的に整理できたならば、貴下の小説も今日の如く嘲笑せられず、貴下の人格も完成される事と存じます。その完成の日には、私も覆面ふくめんをとって私の住所姓名を明らかにして、貴下とお逢いしたいと思いますが、ただ今は、はるかに声援をお送りするだけで止そうと思います。お断りして置きますが、これはファン・レタアではございませぬ。奥様なぞにお見せして、おれにも女のファンが出来たなんて下品にふざけ合うのは、やめていただきます。私はプライドを持っています。」

 菊子さん。だいたい、こんな手紙を書いたのよ。貴下、貴下とお呼びするのは、何だか具合が悪かったけど「あなた」なんて呼ぶには、戸田さんと私とでは、としが違いすぎて、それに、なんだか親し過ぎて、いやだわ。戸田さんが年甲斐としがいも無く自惚うぬぼれて、へんな気を起したら困るとも思ったの。「先生」とお呼びするほど尊敬もしてないし、それに戸田さんには何も学問がないんだから「先生」と呼ぶのは、とても不自然だと思ったの。だから貴下とお呼びする事にしたんだけど、「貴下」も、やっぱり少しへんね。でも私は、この手紙を投函しても、良心の呵責かしゃくは無かった。よい事をしたと思った。お気の毒な人に、わずかでも力をかしてあげるのは、気持のよいものです。けれども私はの手紙には、住所も名前も書かなかった。だって、こわいもの。汚い身なりで酔って私のお家へ訪ねて来たら、ママは、どんなに驚くでしょう。お金を貸せ、なんて脅迫するかも知れないし、とにかく癖の悪いおかただから、どんなこわい事をなさるかわからない。私は永遠に覆面の女性でいたかった。けれども、菊子さん、だめだった。とっても、ひどい事になりました。それから、ひとつき経たぬうちに、私は、もう一度戸田さんへ、どうしても手紙を書かなければならぬ事情が起りました。しかも今度は、住所も名前も、はっきり知らせて。

 菊子さん、私は可哀想な子だわ。その時の私の手紙の内容をお知らせすると、事情もだいたいおわかりの筈ですから、次に御紹介いたしますが、笑わないで下さい。

「戸田様。私は、おどろきました。どうして私の正体を捜し出す事が出来たのでしょう。そうです、本当に、私の名前は和子です。そうして教授の娘で、二十三歳です。あざやかに素破抜すっぱぬかれてしまいました。今月の『文学世界』の新作を拝見して、私は呆然としてしまいました。本当に、本当に、小説家というものは油断のならぬものだと思いました。どうして、お知りになったのでしょう。しかも、私の気持まで、すっかり見抜いて、『みだらな空想をするようにさえなりました。』などと辛辣しんらつな一矢を放っているあたり、たしかに貴下の驚異的な進歩だと思いました。私のあの覆面の手紙が、ただちに貴下の製作慾をかき起したという事は、私にとってもよろこばしい事でした。女性の一支持が、作家をかく迄も、いちじるしく奮起させるとは、思いも及ばなかった事でした。人の話にりますと、ユーゴー、バルザックほどの大家でも、すべて女性の保護と慰藉いしゃのおかげで、数多い傑作をものしたのだそうです。私も貴下を、及ばずながらお助けする事に覚悟をきめました。どうか、しっかりやって下さい。時々お手紙を差し上げます。貴下の此の度の小説に於いて、わずかながら女性心理の解剖を行っているのはたしかに一進歩にて、ところどころ、あざやかであって感心も致しましたが、まだまだ到らないところもあるのです。私は若い女性ですから、これからいろいろ女性の心を教えてあげます。貴下は、将来有望の士だと思います。だんだん作品も、よくなって行くように思います。どうか、もっと御本を読んで哲学的教養も身につけるようにして下さい。教養が不足だと、どうしても大小説家にはなれません。お苦しい事が起ったら、遠慮なくお手紙を下さい。もう見破られましたから、覆面はやめましょう。私の住所と名前は表記のとおりです。偽名ではございませんから、御安心下さいませ。貴下が、他日、貴下の人格を完成なさったあかつきには、かならずお逢いしたいと思いますが、それまでは、文通のみにて、かんにんして下さいませ。本当に、このたびは、おどろきました。ちゃんと私の名前まで、お知りになっているのですもの。きっと、貴下は、あの私の手紙に興奮して大騒ぎしてお友達みんなに見せて、そうして手紙の消印などを手がかりに、新聞社のお友達あたりにたのんで、とうとう、私の名前を突きとめたというようなところだろうと思っていますが、違いますか? 男のかたは、女からの手紙だと直ぐ大騒ぎをするんだから、いやだわ。どうして私の名前や、それから二十三歳だという事まで知ったか、手紙でお知らせ下さい。末永く文通いたしましょう。この次からは、もっと優しい手紙を差し上げましょうね。御自重下さい。」

 菊子さん、私はいま此の手紙を書き写しながら何度も何度も泣きべそをかきました。全身に油汗がにじみ出る感じ。お察し下さい。私、間違っていたのよ。私の事なんか書いたんじゃ無かったのよ。てんで問題にされていなかったのよ。ああ恥ずかしい、恥ずかしい。菊子さん、同情してね。おしまいまでお話するわ。

 戸田さんが今月の『文学世界』に発表した『七草』という短篇小説、お読みになりましたか。二十三の娘が、あんまり恋を恐れ、恍惚こうこつを憎んで、とうとうお金持ちの六十の爺さんと結婚してしまって、それでもやっぱり、いやになり、自殺するという筋の小説。すこし露骨で暗いけれど、戸田さんの持味は出ていました。私はその小説を読んで、てっきり私をモデルにして書いたのだと思い込んでしまったの。なぜだか、二、三行読んだとたんにそう思い込んで、さっとあおざめました。だって、その女の子の名前は私と同じ、和子じゃないの。としも同じ、二十三じゃないの。父が大学の先生をしているところまで、そっくりじゃないの。あとは私の身の上と、てんで違うけれど、でも、これは私の手紙からヒントを得て創作したのにちがいないと、なぜだかそう思い込んでしまったのよ。それが大恥のもとでした。

 四、五日して戸田さんから葉書をいただきましたが、それにはこう書かれて居りました。

「拝復。お手紙をいただきました。御支持をありがたく存じます。また、この前のお手紙も、たしかに拝誦いたしました。私は今日まで人のお手紙を家の者に見せて笑うなどという失礼な事は一度も致しませんでした。また友達に見せて騒いだ事もございません。その点は、御放念下さい。なおまた、私の人格が完成してから逢って下さるのだそうですが、いったい人間は、自分で自分を完成できるものでしょうか。不一。」

 やっぱり小説家というものは、うまい事を言うものだと思いました。一本やられたと、くやしく思いました。私は一日ぼんやりして、あくる朝、急に戸田さんに逢いたくなったのです。逢ってあげなければいけない。あの人は、いまきっとお苦しいのだ。私がいま逢ってあげなければ、あの人は堕落してしまうかも知れない。あの人は私の行くのを待っているのだ。お逢い致しましょう。私は早速、身仕度をはじめました。菊子さん、長屋の貧乏作家を訪問するのに、ぜいたくな身なりで行けると思って? とても出来ない。或る婦人団体の幹事さんたちがきつね襟巻えりまきをして、貧民窟の視察に行って問題を起した事があったでしょう? 気を附けなければいけません。小説に依ると戸田さんは、着る着物さえ無くて綿のはみ出たドテラ一枚きりなのです。そうして家の畳は破れて、新聞紙を部屋一ぱいに敷き詰めてその上に坐って居られるのです。そんなにお困りの家へ、私がこないだ新調したピンクのドレスなど着て行ったら、いたずらに戸田さんの御家族をさびしがらせ、恐縮させるばかりで失礼な事だと思ったのです。私は女学校時代のつぎはぎだらけのスカートに、それからやはり昔スキーの時に着た黄色いジャケツ。此のジャケツは、もうすっかり小さくなって、両腕がひじちかく迄にょっきり出るのです。袖口そでぐちはほころびて、毛糸が垂れさがって、まず申し分のない代物しろものなのです。戸田さんは毎年、秋になると脚気かっけが起って苦しむという事も小説で知っていましたので、私のベッドの毛布を一枚、風呂敷に包んで持って行く事に致しました。毛布で脚をくるんで仕事をなさるように忠告したかったのです。私は、ママにかくれて裏口から、こっそり出ました。菊子さんもご存じでしょうが、私の前歯が一枚だけ義歯で取りはずし出来るので、私は電車の中でそれをそっと取りはずして、わざと醜い顔に作りました。戸田さんは、たしか歯がぼろぼろに欠けている筈ですから、戸田さんに恥をかかせないように、安心させるように、私も歯の悪いところを見せてあげるつもりだったのです。髪もくしゃくしゃに乱して、ずいぶん醜いまずしい女になりました。弱い無智な貧乏人を慰めるのには、たいへんこまかい心使いがなければいけないものです。

 戸田さんの家は郊外です。省線電車から降りて、交番で聞いて、わりに簡単に戸田さんの家を見つけました。菊子さん、戸田さんのお家は、長屋ではありませんでした。小さいけれども、清潔な感じの、ちゃんとした一戸構えの家でした。お庭も綺麗に手入れされて、秋の薔薇ばらが咲きそろっていました。すべて意外の事ばかりでした。玄関をあけると、下駄箱の上に菊の花を活けた水盤が置かれていました。落ちついて、とても上品な奥様が出て来られて、私にお辞儀を致しました。私は家を間違ったのではないかと思いました。

「あの、小説を書いて居られる戸田さんは、こちらさまでございますか。」と、恐る恐るたずねてみました。

「はあ。」と優しく答える奥様の笑顔は、私にはまぶしかった。

「先生は、」思わず先生という言葉が出ました。「先生は、おいででしょうか。」

 私は先生の書斎にとおされました。まじめな顔の男が、きちんと机の前に坐っていました。ドテラでは、ありませんでした。なんという布地か、私にはわかりませんけれど、濃い青色の厚い布地のあわせに、黒地に白い縞が一本はいっている角帯をしめていました。書斎は、お茶室の感じがしました。床の間には、漢詩の軸。私には、一字も読めませんでした。竹の籠には、つたが美しく活けられていました。机の傍には、とてもたくさんの本がうず高く積まれていました。

 まるで違うのです。歯も欠けていません。頭も禿げていません。きりっとした顔をしていました。不潔な感じは、どこにもありません。この人が焼酎を飲んで地べたに寝るのかと不思議でなりませんでした。

「小説の感じと、お逢いした感じとまるでちがいます。」私は気を取り直して言いました。

「そうですか。」軽く答えました。あまり私に関心を持っていない様子です。

「どうして私の事をご存じになったのでしょう。それを伺いにまいりましたの。」私は、そんな事を言って、体裁を取りつくろってみました。

「なんですか?」ちっとも反応がありません。

「私が名前も住所もかくしていたのに、先生は、見破ったじゃありませんか。先日お手紙を差し上げて、その事を第一におたずねした筈ですけど。」

「僕はあなたの事なんか知っていませんよ。へんですね。」澄んだ眼で私の顔を、まっすぐに見て薄く笑いました。

「まあ!」私は狼狽ろうばいしはじめました。「だって、そんなら、私のあの手紙の意味が、まるでわからなかったでしょうに、それを、黙っているなんて、ひどいわ。私を馬鹿だと思ったでしょうね。」

 私は泣きたくなりました。私は何というひどい独り合点をしていたのでしょう。滅っ茶、滅茶。菊子さん。顔から火が出る、なんて形容はなまぬるい。草原をころげ廻って、わあっと叫びたい、と言っても未だ足りない。

「それでは、あの手紙を返して下さい。恥ずかしくていけません。返して下さい。」

 戸田さんは、まじめな顔をしてうなずきました。怒ったのかも知れません。ひどい奴だ、とあきれたのでしょう。

「捜してみましょう。毎日の手紙をいちいち保存して置くわけにもいきませんから、もう、なくなっているかも知れませんが、あとで、家の者に捜させてみます。もし、見つかったら、お送りしましょう。二通でしたか?」

「二通です。」みじめな気持。

「何だか、僕の小説が、あなたの身の上に似ていたそうですが、僕は小説には絶対にモデルを使いません。全部フィクションです。だいいち、あなたの最初のお手紙なんか。」ふっと口をつぐんで、うつむきました。

「失礼いたしました。」私は歯の欠けた、見すぼらしい乞食娘だ。小さすぎるジャケツの袖口は、ほころびている。こんのスカートは、つぎはぎだらけだ。私は頭のてっぺんから足の爪先まで、軽蔑されている。小説家は悪魔だ! 嘘つきだ! 貧乏でもないのに極貧の振りをしている。立派な顔をしている癖に、醜貌だなんて言って同情を集めている。うんと勉強している癖に、無学だなんて言ってとぼけている。奥様を愛している癖に、毎日、夫婦喧嘩だと吹聴している。くるしくもないのに、つらいような身振りをしてみせる。私は、だまされた。だまってお辞儀して、立ち上り、

「御病気は、いかがですか? 脚気だとか。」

「僕は健康です。」

 私は此の人のために毛布を持って来たのだ。また、持って帰ろう。菊子さん、あまりの恥ずかしさに、私は毛布の包みを抱いて帰る途々、泣いたわよ。毛布の包みに顔を押しつけて泣いたわよ。自動車の運転手に、馬鹿野郎! 気をつけて歩けって怒鳴られた。

 二、三日経ってから、私のあの二通の手紙が大きい封筒にいれられて書留郵便でとどけられました。私には、まだ、かすかに一縷いちるの望みがあったのでした。もしかしたら、私の恥を救ってくれるようない言葉を、先生から書き送られて来るのではあるまいか。此の大きい封筒には、私の二通の手紙の他に、先生の優しい慰めの手紙もはいっているのではあるまいか。私は封筒を抱きしめて、それから祈って、それから開封したのですが、からっぽ。私の二通の手紙の他には、何もはいっていませんでした。もしや、私の手紙のレターペーパーの裏にでも、いたずら書きのようにして、何か感想でもお書きになっていないかしらと、いちまい、いちまい、私は私の手紙のレターペーパーの裏も表も、ていねいに調べてみましたが、何も書いていなかった。この恥ずかしさ。おわかりでしょうか。頭から灰でもかぶりたい。私は十年も、としをとりました。小説家なんて、つまらない。人の屑だわ。うそばっかり書いている。ちっともロマンチックではないんだもの。普通の家庭に落ち附いて、そうして薄汚い身なりの、前歯の欠けた娘を、冷く軽蔑して見送りもせず、永遠に他人の顔をして澄ましていようというんだから、すさまじいや。あんなの、インチキというんじゃないかしら。



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2015.01.25

『原智恵子 伝説のピアニスト』 石川康子 (ベスト新書)

Th_30907109 日はある神社の宮司さんとゆっくりお話をしました。いろいろといいお話を聞かせていただいたのですが、中でも心に残ったのは、「物を大切にする。物に感謝する。物を拝む。すると物がいろいろ教えてくれる」というエピソード。教科書や筆記用具を大切にすると勉強ができるようになる…学校のセンセイなのにそんなことすら忘れていました。
 たしかに楽器も大切にして、いつもお願いしますとか、ありがとうとか言っていると上手になったりしますよね。
 「物から学ぶ」「物が教えてくれる」…実は日本人の大切な人生哲学であるような気がします。
 この本にも、チェロの巨匠カサドと再婚した智恵子が、カサドのコレクションの楽譜を厨子のようなケースに大切に入れて拝むことを勧めるシーンがあります。カサドはある意味カルチャーショックを受けたようですね。
 ま、そのコレクションの中には、なななんとバッハの結婚カンタータの自筆譜があったりしたのですが(今それらは日本にあります)。そりゃ大切にしなきゃ(笑)。
 というわけで、この本10年ぶりくらいに読みました。以前読んだ時は、正直原智恵子のことはほとんど知らず、特に縁があったわけでもなく、たしか伝説のヴァイオリニストの諏訪根自子の関係で興味を持っただけでした。
 その後、全く不思議なご縁で、急に原智恵子を身近に感じることとなりました。そう、かの仲小路彰の関係です。
 仲小路と原智恵子と三浦環は、戦中、山中湖で幸せな音楽生活を送っていたのでした。実際に原智恵子の弾いたピアノも残っています。そのあたりのことはこちら仲小路彰と原智恵子でお読みください。
 そんな智恵子の波乱に富んだ(富みすぎた?)人生の全体像を知るのに、この本は非常に重要です。執筆当時存命だった本人はもとより、多くの縁故者から直接証言を得ています。
 それぞれの昔語りがなんとも味わい深い。まさに伝説を語る語り部ですね。決して言葉は多くありませんが、それぞれの人生の重みを感じないではいられません。
 原智恵子という天才ピアニストの存在もそうですが、同時代の音楽家、芸術家、批評家、哲学者など、いわゆる文化人のパワーはすごいですね。
 西洋に触れて間もない時期に、もうすでに本場と伍す実力と自信を持っていたことが伝わってくる。日本人の外来文化受容のスピードと、それを自家薬籠中の物にしていく大胆さは、やはり特筆すべきですね。
 原智恵子を称して「デモーニッシュ」という言葉が何度も出てきます。よく分かります。デモーニッシュな女性。天才タイプ。男どもは翻弄されたでしょうね(笑)。
 そんな彼女も様々な人生経験を経て成長していきます。変化していきます。自らも運命に翻弄されながらも、ちゃんと前を向いて成熟していく。それが感動的です。そして、最晩年、郊外の病院で静かに涙を流す智恵子…。
 エネルギッシュな人生がそのまま音楽となっている。それでいいと思います。
 そうしたパワフルな草創期からすると、今のクラシック界(古楽界も含む)は、なんともスケールが小さくなってしまったような…。
 古楽と言えば、原智恵子はチェンバロも所有していたんですね。どうりでピアノのバロック音楽演奏も素晴らしいはずです。
 そして、今回、私は自分にとっては非常に重要なことに気づいてしまいました。というか、なんで気づかなっかというか、頭の中で一致しなかったのか…ちょっと恥ずかしいんですが、25年来の謎が解けました。
 いきなり俗っぽい、いやいや実相寺昭雄だから、大正、昭和初期の日本人にも負けないか…以前紹介した彼のAVの名作「アリエッタ」のエンディングにかかる曲、リュリの「優しいアリア(Air Tendre)」でした!
 なんと、前も紹介した原智恵子の「パリの原智恵子」の1曲目がこの曲じゃないですか(こちらで試聴できます)。
 この曲、あまり演奏されないようですね。もしかして偽作なんでしょうか。と思ったら、どうもリュリじゃなくてルイエの作品かもしれないとのこと。同じJean Baptiste だから混同してしまったのでしょうか(楽譜はこちら)。
 う〜ん、さすが実相寺昭雄の選曲。たぶん彼は原智恵子の演奏を聞いていたんじゃないですかね。レコードで。たぶんそうです。マニアですからね。
 というわけで、今日は25年ぶりにスッキリ!さっそく楽譜を印刷して我が家のチェンバロで弾いてみました。
 原智恵子さん、ありがとう!これもご縁ですね。
 Youtubeに彼女の音源がけっこうあります。皆さんもこちらからぜひ聴いてみてください。

Amazon 原智恵子 伝説のピアニスト

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2015.01.24

防災クロックラジオ BCR-01 (ELPA)

20150124_205615 ットとテレビばかりだった娘が、あることをきっかけにラジオに目覚めました。私もカミさんも思いっきりラジオ世代なので、ちょっと嬉しかったりします。
 ウチにはバリコン(!)のバリバリラジオしかないので、娘、朝鮮語や中国語に悩まされながら頑張って東京の放送を受信しております(笑)。
 いやあ、いいですよね。見えないモノをつかむ、あの感覚。デジタルでは味わえない快感と恐怖です(笑)。
 で、そんな娘に刺激されたのか、私も寝室でラジオを聴きたくなり、防災のことも考えてコイツを買いました。
 これがなかなか良いのであります。生産終了の製品ですので、皆さんもぜひ早目にお買い求めください。
 なにしろ機能満載で2000円しないというのがすごい!
 そして感度もいいし、音もそこそこいい。まさにラジオという感じ。
 電波時計ですし、タイマーでラジオを鳴らすこともできるし、ダイナモでも長時間使える。もちろんLEDライトつき。ウチにころがっていた4.5VのACアダプターでも普通に使えました。
 ガラケー専用なので今となってはあまり実用的ではありませんが、いちおうケータイの充電もできます。
 ボリュームのつまみだけはちょっと使いにくいけれども、あとは操作性も良いし、付属のロッドアンテナも本格的。
 これで2000円しないなんて。一家に一台あるといいですよ、ホント。
 時計の液晶も大きくて見やすいですし、もちろんバックライトもついています。まさに枕元に置いて使うにはもってこいですね。
 まあ、ご覧のとおりのデザインで、全くオシャレではありませんが、それもまたある意味昭和っぽくて私は気に入りましたよ。
 非常時に自分の居場所を知らせるためと思われるブザーもついています。どうせ枕元に置くなら、ただのクロックラジオではなく、たしかにこういう災害時機能もついているといいですよね。
  ふだんはACアダプターを使うことにすれば、内蔵する電池は電波時計用の単三2本でOK。それで数年は持つでしょう。非常時はダイナモ使えばよし。
 ちなみに目覚ましはラジオの音のほかに電子音も選べますし、スヌーズもちゃんとついています。
 さて、私も久しぶりにAMやFMを楽しんでみようかな。不思議とラジオって落ち着きますよね。

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2015.01.23

『現代アラブの社会思想〜終末論とイスラーム主義』 池内恵 (講談社現代新書)

Unknown イムリミットの72時間が経過しましたが…その間、クソコラ大会になったり、謎の会見があったり、まあ日本という国のある意味での恐ろしさは世界に充分伝わったことでしょう。
 もちろん人質の二人の無事を祈りますが、なんというか、人命(生存権)という人間による近代的産物を軽く超越した何か、それはとってもプリミティヴなモノなわけですが、それがこの国では重視されるようですね。
 ちなみに日本における笑いというのは和魂であるととも荒魂でもあります。今回のバカッターの情熱や2ちゃんねるの大喜利は荒魂ですね。
 結果がどうであれ、彼の国の異教徒たちがいろいろな意味でドン引きしてしまったのは確かでしょう。ああ、おそるべし日本。
 彼らがそんな私たちを理解できないように、私たちもイスラムについてほとんど無知、無理解です。私ももちろんそうです。今回初めて何冊かの本を読んでようやくほんのちょっと分かったような気がしました。
 おおとい少し紹介した東大の池内恵さんの素晴らしいデビュー作であるこの本。たしかに面白かったし、本当に勉強になりました。いろいろ分かりました。
 いや、やはり分からないということが分かった。これはキリスト教を理解するよりずっと難しいかなと。
 コーランやハディースの内容が難しいということではなく、現代のアラブの置かれている状況が非常に難しいと。
 やはり経済(カネ)という悪魔にキリスト教、ユダヤ教はもちろんイスラム教もやられている。そうした市場というリングの上で、3wayマッチが展開されている。3wayによくあるように、とりあえず序盤は一人を排除するために別の二人が組む。もちろん、今はキリスト教とユダヤ教がアメリカというマネージャーをバックに共闘しているわけですね。
 そうした圧倒的不利の中で、さらに自分の陣地への侵攻を許している状況で、イスラムはある種反則攻撃に出るしかなくなっている。
 その一つがテロであり、そこまで行かない大多数は(私は知りませんでしたが)終末論、陰謀論、オカルトにはまってしまっている。
 これは非常に大変な状況だと思いました。根が深いなと。
 「偽救世主ダッジャール=ユダヤorアメリカ」という図式は、そう、実は日本にもかなり古くからあります。
 たとえば、私の尊敬し研究している歴史哲学者仲小路彰も、やはりイスラムに詳しかったからか、戦前はかなり強い調子で似たような主張をしています(反面、日ユ同祖論や皇室シュメール説に近いことも言っている)。
 それこそこれほど離れた日本でもそうなのですから、当地では私たちの想像以上に強く、ある種の「物語」がすさまじい生命力を持って成長、増殖しているに違いありません。
 今回の人質事件もそうした流れの延長にあるのであって、単に「話せば分かる」「仲良くしよう」ではとてもとても解決するような話ではないことが分かります。
 彼らは非常にまじめなのであって、まじめすぎるからこそ、私たちからすると極度な教条主義に陥っている、あるいは非人道的に見えるのです。私たちの常識や人道なとどいう概念は、まさに近代的な人工物にすぎない。
 話を戻しますと、彼らがくそまじめだからこそ、また教条的だからこそ、そうした「コト」を超えた、日本的な「モノ」が有効かもしれないなとも思うわけです。コトにコトで対抗してもダメです。
 フランスの風刺はやはり「コト」的なんですね。その点、クソコラや謎の会見は、メディアでありながら、近現代的な「意味」を喪失、いや超越したモノノケであったわけで、もしかすると、イスラム国の皆さんが守り続けようとしている古典的な神世界と相通ずるところがあるかもしれないと、ちょっと期待してしまうのですね。
 そんなに甘いものではないとは分かっています。しかし、アメリカやフランスと同じことをしてもダメでしょう。これを機会に、「(いろんな意味で)日本はアブナイ」と思わせるのも一つの手でありましょう。

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2015.01.22

『Pocket Coffee』 (FERRERO)

Images1 イツに留学していた教え子がお土産として買ってきてくれました。ドイツでは普通にスーパーで売っているとのこと。
 フェレロ社はご存知のとおり有名なイタリアのチョコ屋さん。ロシェはだれでも一度は食べたことがあるでしょう。
 ところがこのポケット・コーヒーは日本ではなかなか手に入らない。
 私も数年前にイタリアのお土産としていただき、そのおいしさに仰天してしまったクチです。
 とにかく中身のエスプレッソ・コーヒーが本格的においしいのです。いわばコーヒーボンボンということですね。一口で食べないとダメ。
 中が液体ということもあって、ヨーロッパでも冬季限定というイメージがあるのだとか。夏じゃ外側のチョコが溶けちゃうらしい。
 たしかにウイスキーボンボンも冬というイメージですな。このエスプレッソコーヒーボンボンも、基本的には砂糖の殻の中にコーヒーリキッドが注入されていて、そのまわりをチョコレートでコーティングした作りになっています。
Images でも、これは夏にキンキンに冷やして食べてもおいしいと思いますよ。とにかくエスプレッソの苦さが、周囲の甘さとうまくマッチングしていてクセになる。
 ただですねえ、これを日本で買おうとすると、けっこう高いんですよ。一粒100円から150円くらい。本場だとけっこう大衆的な存在らしい。日本にも大量に入ってくれば、ロシェのように一粒50円くらいになるのでは。
 といいますか、日本のメーカーでなんで真似しないんでしょうか。ぜったい売れますよ。コンビニで一杯100円のコーヒーを飲むんだったら、これを二粒食べた方がずっと得した感がある…と思います。
 それから、甘すぎない、苦味ばしっているところなんか、大人の男性にぴったり。そして冬限定ですから、そう、バレンタイン用に売り出したら、ぜったい大ブームになりますって。
 まずはどこかのコンビニさんでキャンペーン的に展開してみてはいかがでしょう。それに乗っかって日本のメーカーさんにも参入していただくと。
 ボンボンと言えば、日本では丸赤製菓糸田川商店さん。日本酒ボンボン、コーラボンボンまであるんだから、ぜひコーヒーボンボンを開発してもらいたいですね。

Amazon ポケットコーヒー18個入り

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2015.01.21

さくさくわかる「パレスチナ問題」

 スラム国による日本人拘束殺害警告のニュースがありましたので、中学1年、2年生に中東問題、宗教問題について授業で話しました。
 日本の立場、日本の宗教についても、私なりに偏りなく話をしたつもりです(ちょっとマニアックだったかも)。
 そして、いわゆるパレスチナ問題については、この動画を見せました。中学生にはちょうどいいレベルの内容ではないでしょうか。正直私にも分かりやすい(笑)。
 日本人は、実は大人でもこのあたりの問題はあまり理解していませんよね。
 もちろん、こんなふうに「戯画化」してよいかどうかは別問題ですが、入門としてはなかなか良く出来ているのではないでしょうか。かなり現実に近いと思いますよ。

 911や今回のイスラム国問題などで、生徒たちの間にもイスラム教への偏見が生まれつつあります。そのあたりもしっかり大人は説明していかねばなりません。
 また、テロが生まれる背景、すなわちテロの標的になる国家や民族、宗教の問題点についても、あくまで「慎重に」ですが、ある程度話さなければならないでしょう。
 なぜ今回日本がターゲットになったのか…これもまた難しい問題です。
 そうそう、今ちょうど池内恵さんの本「現代アラブの社会思想 終末論とイスラーム主義」を読んでいたところだったのですが、今回の事件に関する彼の見解はなかなか説得力があります。賛成か反対かは別として、一度は読んで自分の頭で考えてみる価値があるでしょう。

 「イスラーム国」による日本人人質殺害予告について:メディアの皆様へ

 ちょうど昨日発売になった池内さんの「イスラーム国の衝撃」も読んでみよう。
 これはテロとの戦い、つまり武力では解決できないなあ。根が深い。終末論、陰謀論まで関わってくるとなると理屈では説得できないし。
 日本の近過去の歴史(戦争)もそんな感じだったのでしょうね。ある意味人ごとではないということでもあります。

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2015.01.20

レイラインのその先に…

 倍総理がイスラエルを訪問しているさなか、「イスラム国」による邦人殺害警告(身代金要求)のニュースが入ってきました。
 今回の外遊に際し、「なにかありそう」と、実際に現地に入っているある方と話していたのですが、まさかこういうことだとは。
 しかし、これはただ単に日本が困った事態に陥ったという話ではありません。いずれその意味が分かる時が来るでしょう。
 ところで、10月に書いた御来光の道〜レイライン〜という記事の続きの話。
Th__20150120_205216 続きということは延長ということ。つまり、あの北緯35.2度ラインを西に伸ばしていくと、どこに到達するかと言いますと。なんと、そこにはイラク、イラン、シリア、レバノンといった国々があるのです。
 まさに中東。現代においては紛争のメッカ…なんて言うのは不謹慎でしょうか。古くはペルシャ、メソポタミア、シュメール…そういう地域です。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、富士北麓(富士吉田)の明見に残る宮下文書と中東との関係もまことしやかに語られていますし、そこに影響を受けたのか(はたまたその逆の関係か)出口王仁三郎の霊界物語でも中東は神話の一つの舞台になっています。
 それこそ中二病的な妄想世界の話になってしまいますが、私にはやはりこの「レイライン」には何か意味があると思われるのです。
 私は、単純な日ユ同祖論や天皇家とシュメールを結びつけるようなトンデモ説には決して飛びつかない人間です。しかし、ある意味そういうトンデモをも超えてしまう「実感」があるんですよね。困ったものです(笑)。
 そういう意味で、「なにかありそう」と言ったわけですが、このような事件になろうとは。
 総理としては、裏の交渉力にある程度の自信を持っているようですから、今回は日本にとって大きなマイナスにならないと思います。それどころかプラスに転じる可能性もあります。
 いずれにせよ、日本はユダヤ教ともキリスト教ともイスラム教とも、またその他の宗教とも決して敵対関係にはならないはずです。安倍さんもそういう意図を持って、今回の外遊を行っているのです。
 「中庸が最善」…はたして我々日本人は、諸外国の人々を「言向け和す」ことができるのでしょうか。
 とりあえず、私は「レイライン」の意味を信じて、西方に向かい祈りたいと思います。


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2015.01.19

「みちのくの仏像」展 (東京国立博物館)

Th_img_5430 日、東京で少し時間があったので、上野の国立博物館へ。
 朝、ちょっと願かけの必要ができて、どこにお参りしようかなあと思っていたところ、ちょうど日曜美術館で「みちのくの仏像~木に託した人々の祈り~」をやってまして、ああ、宗教というより願かけならやっぱり東北の仏像だな、現地には行けないけれど、ちょうど皆さんで大挙して上野に上京してきているなら、行ってみようということになったのであります。
 ウチのカミさんは秋田の山奥の出身。いまだ仏教は純粋な形では伝来していないという秘境であります。
 仏教は来ていないけれども、古神道は今でも脈々と生きており、また、どうもキリスト教(ロシア正教?)は伝来した形跡がある…という、まあ都会に育ったワタクシにとっては、信じられないようなところです。
 そして、驚くべきは、つい最近まで(というか今でも)、病気になったりすると病院に行くのではなく、お宮に行ったり、あるいは石仏、いや石像を拝んだりするんですね。
 そういう話をリアルに聞いていたので、「願かけなら東北の仏像だ」と思ったわけです。
 テレビで紹介されたからでしょうか、狭い会場は大変な混雑ぶりでした。
 いきなり岩手の天台寺の古仏が並んでいました。あらら、お久しぶり。そう、私、もうずいぶん前になりますが、そうですね、ちょうど瀬戸内寂聴さんが入られたころでしょうか、天台寺にある長慶天皇の陵墓を見に行ったことがあったんです。
 そのころは、まだお寺もあまり整備されておらず、平安の古仏と思われる仏像がなんとも大胆に転がされていたりしまして、ちょっと興ざめした覚えがあったんですね(いや、今思えば、それらはそんな古い仏像ではなかったのかもしれませんが…)。
 まあ、そんなところも含めて、東北には古いモノがそのままというか、いろいろな事情も含めて残されているんだなと。ある意味、やたらと宝蔵されてきたわけではないので、リアリズムがあるというかなんというか。
 そういう意味では、今回おのぼりしていた仏像(神像)たちは、なんとも居心地の悪そうな表情をしておりました。
 ものすごくしっかり展示されているのは当たり前、洒落たライトに照らされ、さまざまな解説を加えられている。そして、なにより、都会人にしげしげと観察されている。美術品として。
Th__20150119_191341 そう、いつも「仏像展」に行って不思議に思うのは、仏像の前で手を合わせる人がほとんどいないということです。
 私は今回は「願かけ」という目的で行きましたし、まあなんちゃって僧形ですので、一人脱帽合掌して坊主頭を垂れていても、ある意味変ではなかったのかもしれませんが、皆さんはどうなんでしょうね。
 素晴らしい仏像や神像に出会うと、私は自然と手を合わせないではいられない。修学旅行でももちろんそうでした。私の影響で生徒もちゃんと合掌礼拝してましたっけ。
 博物館、美術館での宗教的展示というのは難しいですね。宗教画は別として、もともと拝む対象のものに対しては、やはりちゃんと「拝む」ことが必要なのではないでしょうか。
 ちゃんと拝んでから、凝視したいところですが、皆さんはいかがお思いでしょうか。
 ま、キリスト教をちゃんと理解せず、祈る気持ちもないままバッハのカンタータなんかを演奏しているワタクシに言われたくないですよね(苦笑)。
 それはいいとして、今回の展示の中で、特に私の「拝む」気持ちを喚起したのは、秋田の小沼神社の謎多き二体の像でした。いちおう仏像のなりをしておりましたが、感じられる空気はもっと古い信仰のエネルギーでしたね。なにしろ神社蔵ですし。
 それから青森の恵光院の女神像。こちらはお寺の神像。コノハナサクヤヒメを思わせる何かを発していました。
 いずれも京都や奈良や、あるいは山梨などの仏像のような洗練された感じはなく、より自然体というか、人間らしさを感じさせるお姿でありました。
 そういう意味では、やはり彼ら彼女ら、あの東北の空気の中で、じっくり拝ませていただきたいと思いましたね。
 なにより、みんな大集合させられて、お互いに向かい合ったりして、なんとも居心地悪そうにしていらしたのが気になりました。いや、それもまた、上野のお上りさんの相部屋状態で面白かったかも。
 それから、震災と文化財の関係についてもいろいろ考えさせられました…貞観期に作られたと思われるあの仏さまは、二度大地震大津波を体験なさったのですね。やはり東北の神仏はたくましいなあとも感じるのでありました。
 ぜひ皆さんもどうぞ。そして、次は東北に行きましょう。

みちのくの仏像

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2015.01.18

2015 センター試験国語(その2…古典)

20150119_130040 て、昨日に続きセンター試験国語談義。
 昨日書いたように、現代文はやたら「ぬるい」感じで、本校の生徒もけっこう点を取れたようです。センター利用で現代文を使う諸君にとってはラッキーでしょう。ま、全国みんなができていると思われるので、実はこういう時は要注意なんですが(昨年は逆のパターンでした)。
 今日は「古典」。すなわち「古文」と「漢文」について簡単に書きましょう。
 古文については去年かなり詳しく書いちゃいましたからね。その部分を再掲します。

2014 センター試験国語(その2…古文問1)
2014 センター試験国語(その3…古文問2・3・4)

 今年も基本同じ解き方で始めました。そして、今回は現代文と漢文が楽ちんだったので、残った時間でじっくり解き直しました。
 『夢の通ひ路物語』というマニアックな作品。ということは(題名を知らないということは)擬古文ですね。よって昨年の源氏ほどの読みにくさはないだろうと判断(平安の宮中というクローズド文学ではないということ)。
 リード文を読むといかにも源氏物語の影響を受けたよくあるストーリーであることが分かります。ある意味取り組みやすい予感。
 とはいえ、本文を読み始めるのではなく、私はいつものとおり7分間で、基本本文を読まずにできる問題をやる方法をとりました。
 問1は単語の問題なので、本文を読む必要はなし。読むと逆に迷います。問2はbのところだけ傍線部の前の2行を読めばOK。問3は傍線部の前1行だけをしっかり逐語訳すればよし。問4も歌のあとを逐語訳してみると分かる。問5は傍線部の前1文の逐語訳…という感じで、結局は正確な逐語訳をする単語力(助動詞・助詞の訳を含む)ができれば本文読まなくても、最後の問6以外(43点分)は解けてしまうのです。
 そして、今回のように余裕がある時は、全体を読んで問6に挑む。それまでの問いを断片的にやっているおかげで、それがヒントとなって全体のストーリーも取りやすくなります。
 私はいつもこうしてやっているんですが、これを生徒にやらせようとすると意外にうまく行かない。それが悩みどころです。
 さてさて、続いて漢文ですが、これがまた今年は簡単だった。あまりに基本的な句法、文法、単語の問題が続いているので、逆に「ひっかけか?」と思ってしまうほど。
 問1もあえて本文を読まないで漢字の意味だけでやった方がいい。小説分野の問1も実はそうです。「本文での意味」と言われても、結局辞書の意味を超えることはできないからです。
 問2も基本中の基本。1年生でもできる。問3も。ただ、正解が「4・4・4」と続くので心配になった生徒もいるのでは(笑)。
 問4,5,6は本文を読めば全く問題なし。本文が分かりやすいので時間もそうかからないでしょう。
 このように、古典に関しては、全文を読まないで解く問題と、読んでから解く問題とを、まずは峻別する能力が要求されますね。そして、時間を節約しつつ確実に点を稼ぐ。つまり、知識(暗記事項)問題なのか、文脈(内容理解)問題なのかを見抜く訓練(それほど難しくありません)をするのです。
 現状のセンター試験では、このような方法が一番いいと思います。
 いずれにせよ、今年は平均点高そうですね。それがすなわち良問ということではありませんが。
 まあ、客観テスト(マーク式)で国語力を測るということ、そして、評論、小説、古文、漢文の全てが同じ配点(各50点)ということに無理があるんですよね。
 そのへんのグチについては、こちらからいろいろとお読みください。
 昨年、全国の国語科の教員は「針のむしろ」を味わいました。今年は今のところほっとしていることでしょう(逆に数学の教員が大変?)。別に何かが大きく変わったわけではありませんが、やっぱり平均点に関わらず、生徒が取った点数でセンセイは評価されるんですね。


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2015.01.17

2015 センター試験国語(その1…現代文)

20150119_111436_2 とんど毎年の恒例となっております、ワタクシのセンター試験国語の分析。
 分析というか、以前はほとんど文句ばっかりでしたよね。
 まあ、私のライフワークの一つですな。まともな国語教育のため。子どもたちが国語嫌い(特に古文嫌い)にならないためです。結局は「国のため」。
 ちなみに昨年のセンター国語についてもいろいろ言ってます。去年は平均点が100点を大きく下回る、そして満点者なしという「悪問」でした。

2014 センター試験国語(その1)
2014 センター試験国語(その2…古文問1)
2014 センター試験国語(その3…古文問2・3・4)

 ほとんど言いたいこと書いてありますし、解答テクニックもけっこう披露しちゃってますね(書いたこと完全に忘れている)。
 ということで、今年もまず全体的な印象について。
 まず驚いたのが、現代文が評論、小説ともに「随想(随筆)」だったということです。それも現代的な随想。
 えっ?あれが「随想」なのかと思われる方もいらっしゃるでしょうけれども、今までの出典からすれば、あれらは間違いなく「ぬるい」。
 「ぬるい」ので高校生には取り組みやすかったことでしょう。私も「ぬるい」センセイなので、楽しく読んで楽しく解くことができました(特に「小説」の「随想」?は名文だと思いましたね)。
 問いもそれほど難解ではなく、本文とのつき合わせの必要すらなかった(すなわち脳内の記憶で充分対応できた)ので、時間もそれほどかからなかったのでは。現代文満点の人、たくさんいるでしょう。逆に言えば9割超えでもそれほど喜べないかも。
 昨年に比べると、ある意味「良心的」な問題だったと思いますが、一方でちょっと意地悪く解釈すると、「はたしてこの問題で大学で必要な国語力を測れるのか」という気もしますね。
 大学とは、学術論文を読んで書く場所です。それに相応しい国語力があるのかを測るべきなのに、「ぬるい」随想が二つも出題された。それはそれで問題です。
 「評論」という名の随想、佐々木敦さんの『未知との遭遇』ですが、なかなか面白い内容ではありました。「教えて君」と「教えてあげる君」か(笑)。ツッコミどころもありますけどね。
 「小説」という名の随想、小池昌代『石を愛でる人』はですね、とにかく文章がうまかったですねえ。私の好きなタイプです(笑)。軽みとリズム感。内容も嫌いではない。
 そうそう、私がギャーギャー騒いできたからかどうかは分かりませんが、今年も「短編小説の全文」が出題されました(4年連続かな)。少しは生徒のためになれたかなと思っています。
 というわけで、ぜひ皆さんもこちらから両「随想」をお読みください。
 なんだか今年の現代文はいろいろな意味で拍子抜け。昨年と比べると…なんだかなあ。子どもたち、やっぱり可哀想ですよ。
 大の大人、というか、大学のセンセイたちが寄ってたかって作ってるはずなのに、なんでこうも「加減」が下手なんでしょうか。「いい(良い)加減」って難しいんですね。
 明日は古典について書きます。
 


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2015.01.16

東風(こち)の謎

Th_img_5401 日は上の娘の誕生日。そして私の母の誕生日。ちなみに昨日は実父の誕生日。ということで誕生日ラッシュです。
 ここのところ恒例となりましたが、今回も山中湖のタルトカフェさんに特製ケーキを注文。
 娘の大好きな東方Projectのキャラ「東風谷早苗」をデザインしていただきました。相変わらずクオリティ高すぎ!
 そしてめっちゃくちゃおいしいんですよ。つい食べ過ぎてしまう。甘くなさが絶妙なんです。
 皆さんもぜひ注文してみてください!どんな絵でもオーケー。
Th_img_2232 ちなみに私の誕生日には私の似顔絵でした。似てるでしょ(笑)。
 ところで、この「東風谷早苗(こちやさなえ)」ですが、守矢神社の風祝(かぜはふり)という設定。八坂神奈子、洩矢諏訪子とともに守矢神社を守る存在だそうです。
 ちなみに「早苗」というのは、実在の人物が元ネタだとか。それも洩矢神の子孫として代々諏訪神社上社の神長官をつとめてきた守矢家の第七十八代現当主(!)。本格的だなあ。
 で、今日は「東風谷」の「東風」について書こうと思ったんですが…いろいろ調べても、なんで「ひがしかぜ」のことを「こち」と言うのか、なかなか分かりません。
 皆さんもよくご存知、菅原道真の歌にも「こち吹かばにほひおこせよ梅花あるじなしとて春を忘るな」とありますよね。学校で習うので「こち」が「(氷をとかす)東風」ということはよく知られています。
Th_195032 しかし、その語源はよく分かっていなんですね。比較的西の地方でよく使われるようなので、もしかすると古代の朝鮮半島の言葉、あるいは南洋の言葉なのかもしれません。
 「小さな風」という意味だという説もありますが、「ち」が「風」を表すかどうかは確定できません。「東風」のほかに「疾風(はやち)」ぐらいしか例がないのです。
 また、「こち風」と言ったり、「こち吹く風」という表現があることからも、「ち」は「風」ではないように思われます。
 単純に「こち(こっち)」という意味だと言う説もありますが、それも納得いきませんね。
 「東風」に対する「西風」や「北風」「南風」の異名があればヒントになるのですが、それらも明確なものは見つかりませんでした。
 結局、謎のままということになってしまいましたね。残念。 

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2015.01.15

「自ら」より「自ずから」

14e04a 「」という漢字。これは「鼻」の象形文字です。
 「鼻」という漢字は「自」の下に、「ひ」という音を表す文字がくっついたものと考えられています。
 一方、日本では「自」という漢字を「みづから」「おのづから」と訓じてきました。
 この「みづから」と「おのづから」、いずれも「み+づから」「おの+づから」の形をとっていますね。
 「み」は「身」、「おの」は「己」。「身」は「身共(みども)」などというように、「私」を表します。「己」は「自身」。「自身」なので、「私」のことであることも、「あなた」のことであることも、「彼」のことであることもあります。
 「づから」は、「つ」に「から」がくっついたもの。「つ」は「沖つ白波」「目つ毛(まつげ)」のように、今では「の」にあたる助詞です。「から」は現代語の「から」とほぼ同じ意味です。
 つまり、もともとは「みづから」=「自分自身で」、「おのづから」=「〜自身で」という意味だったと想像されます。そういう意味では「おのづから」の中に「みづから」が含まれているような感じ。
 私たちの感覚では「みずから」と「おのずから」は、かなり違うイメージがありますよね。
 そう、「みずから」は「自分自身で」で、「おのずから」は「自然に」という感じです。
 昨日も登場した出口王仁三郎は、この「自ら」と「自ずから」の違いを強調しています。
 「自ら」だと我が強いが、「自ずから」は神にまかせる感じがする。
 なるほど、そのとおりですね。王仁三郎は神道家でしたから、当然「自ずから」の方を重視しました。すなわち「惟神(かんながら)」=「かみのまにまに」ということですね。
 ワタクシの「モノ・コト論」的に言うならば、「自ずから」は「モノ(他者性)」、「自ら」は「コト(自己性)」ということになります。
 前にも書いたとおり、「まにまに」の「マニ」と「モノ」が同源と考えられるのも偶然ではありません。
 「コト」が重視される近代文明のもとにおいては、「自ら」の方が大事だとされます。人まかせはいけない。自らの意志で未来を切り拓け!と。
 しかし、本来、古来の日本は「モノ」を大切にしました。すなわち「惟神」。自己より他者。
 それが仏教の「無我」と親和性があって、聖徳太子以降の神仏共存の日本文化を生んだと言えましょう。
 そうしますと、もともと中国語の「自」の意味をそのまま受けて「みづから」(=自分自身で)が優勢であったものが、次第に日本的な哲学、思想の洗礼を受けて、「おのづから」(=自然と)の勢力が強くなってきたのだと推測されます。
 そして、また明治以降の近代化、西欧化によって、「自分自身で」の意味が強くなってきたと言えるかもしれません。
 日本語には古語と現代語で意味の違う単語がたくさんありますが、このような文化的な影響をそこに読み取ると面白いことが見えてきます。
 さあ、皆さんは「自ら」と「自ずから」、どちらを重視して生きますか。今の私は、明らかに「自ら」よりも「自ずから」ですね。ただ、私の場合はちょっとずるいかもしれない。人まかせというか、努力が苦手というか…(苦笑)。
 

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2015.01.14

指輪型端末

Th_01 白いニュース。空中に文字を書いて入力か…ようやくここまで来たかという感じです。
 というのは、前にもウェアラブル革命という記事で紹介しましたが、大正時代に出口王仁三郎が「21世紀の初期から」と時期も特定して予言していたんですよね。
 もう一度、その霊界物語の第15巻の部分を転載してみます。

「昔のように今日の時代は、毛筆や、鉛筆や、万年筆などの必要はありませぬ。ただ指先をもって空中に七十五声の文字を記せば、配達夫はただちに配達してくれますよ。私がひとつ手本を見せましょう。この交通機関は二十一世紀の初期から開始されたのですよ…さあ、これで手紙を書きました。文字が音声を発する時代となってきました」

 空中に文字を書いてメール(郵便)を送るのはもちろん、それをちゃんと発音してくれるというシーンなんですよね。今ならたしかに全て可能になりました。
 この霊界物語の文章が口述されたのが大正11年(1922年)ですから、今から93年前。まあ、約1世紀前の日本人の夢、妄想としてはそれほど馬鹿げたものではありませんが、やはり王仁三郎が言ったとなると、本当に未来に旅行して見てきたのではないかと思ってしまいますね(笑)。
 そういえば、バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2では、2015年へのタイムスリップが描かれていますが、まあ当たったものもあれば外れたものもあるという感じで今観ると面白いですよね。
 そうそう、そのBTF2の中に「フジツウ」さんが出てきますよね。今回の指輪型端末を開発したのが富士通さんだというのは、ちょっとした面白い符合ではあります…なんて、全然関係ないか(予言を信じる人は、こういうレベルでのこじつけもしちゃいますが)。
 いずれにせよ、私の基本的な考え方「時間は未来から過去へと流れている」によると、全て人間の未来への意思(夢・妄想)が今の行動の原因になっているで、1922年や1985年のそれぞれの人たちが原因を作ってくれたおかげで、今こうして新たな発明がなされているわけです。
 やっぱり「原因は過去ではなく未来にある」と。私たちもいろいろ妄想しなくちゃ。
 
 

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2015.01.13

『評伝 笹川良一』 伊藤隆 (中央公論新社)

Th__20150113_160301 年時代の私にとっては、「世界は一家、人類は皆兄弟」「一日一善」と叫んでいた目のギョロッとしたおじいさん。
 その後、大人になってからは、右翼、A級戦犯、日本のドン、裏のボス、偽善者、フィクサー、色好み…どちらかと言うと悪いイメージを植え付けられました。
 大概、大きなことを成し遂げた男は、同時代には悪評されるものです。そこには、ある種の妬み、ジェラシーが絡んできますよね。男の嫉妬は怖いですよ(笑)。
 しかし、昭和も遠くなり、いよいよ彼ら「悪人」の名誉回復の時が来ているように感じます。すなわち、歴史の研究対象になって初めて、偉人は報われる。
 逆の言い方をすれば、生前の評価なんか気にしないどころか、批判、非難されるくらいでなければダメだと開き直るくらいの大人物でないと、歴史には名を残せないということですね。
 歴史学界のドン…なんていうと怒られちゃいますかね、いや実際に保守系の歴史学の世界では圧倒的な業績と力を誇る伊藤隆さんによる重厚な評伝。
 淡々と資料を紹介していく学問的姿勢から生まれるのは説得力。読み物としては面白くないし、特に豪傑伝と期待して読むとガッカリするかもしれません。
 しかし、逆にそこに浮かび上がる人間笹川良一の細やかさや優しさ、純粋さに、不思議と圧倒されてしまいました。
 空への夢、国への憂い、戦犯者への異様なまでの思いやり、核兵器廃絶に始まる軍備全廃、衣食住の分配、一日一善、世界家族主義…たしかに目立つ行動も多かったけれども、その根底にあるのは徹底した利他主義のように感じました。
 そのすさまじいエネルギーは、あえて言うなら「義侠心」でしょうか。
 正直、私が外から植え付けられたイメージとは正反対の印象。実に面白い読書体験でした。
 つまり、両面持っていたんでしょうね。聖人君子ではないある意味普通の人間だったからこそ、同時代には悪い部分しか見えなかったし、実際、笹川さん自身が良い部分を強調して表現することがなかった。
 学問として、歴史として、濾過されて、たとえば文献や書簡として残るのは、こうして案外に良い部分であるわけです。
 その時代に作られた、ある種ウソの人物像は、どんどん化けの皮を剥がされ、どちらかと言うとマイナス方向に落ちていきます。その時代にはごまかしが効いても、所詮メッキはメッキ。
 その点、ホンモノは時の流れとともに、どんどん輝きを増す。笹川良一さんも、やはりホンモノだなあと思いました。
 いろいろ心に残る記述がありましたが、凡人の私としては、次の「水六訓」に感銘を受けましたね。なるほど、後半生で船舶に関わった意味はここにあったのでしょう。空から海へ。ある意味、生き物としての基本に立ち返ったのかもしれません。

一、あらゆる生物に生命力を与えるは水なり。
一、常に自己の進路を求めてやまざるは水なり。
一、如何なる障害をも克服する勇猛心と、よく方円の器に従う和合性とを兼ね備えるは水なり。
一、自から清く他の汚を洗い清濁併せ容るの量あるは水なり。
一、動力となり光となり、生産と生活に無限の奉仕を行い何等報いを求めざるは水なり。
一、大洋を充し、発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪と変じ、霰と化してもその性を失わざるは水なり。

 哲学を超えて、ある種の宗教のようなスケールの大きさですね。
 「世界は一家、人類は皆兄弟」という発想は、私が唱える「Global Familism」と通底します。
 期せずして、まさに期せずして笹川さんと同じような発想に至ったのには、不思議な因縁を感じます。
 と言いますか、実は両者とも神武天皇の「八紘為宇(八紘一宇)」につながっているのではないでしょうか。つくづく日本人なんだなあと思う次第であります。
 そんな笹川良一さんの歴史的な姿と、今の自分につながる歴史の重みを知った上で、少年時代いやというほど目に耳にしたこのCMをもう一度体験してみましょうか。

Amazon 評伝 笹川良一

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2015.01.12

三嶋大社

Th_img_5332 方、急に家族で三嶋大社をお参りすることにしました。全く予定外の参拝。
 というのは、お正月に静岡でレンタカーを借りたんですが、その時上の娘が車内に帽子を忘れてしまったんですね。その車がもう次の日には三島に乗り捨てられていて、帽子も一緒に三島まで旅をしてしまったのです。
 それをいつか取りに行こうと思っていまして、それが突然今日になったというわけです。
 いや、もう一つきっかけがありました。今日、下の娘の中学入試の発表がありまして、まあウチの学校なわけですが一応なんとか合格したんですね。
 で、その下の娘の名前が「コト」にちなんだ神様の神社にお礼参りに行こうと。なら、事代主かな。事代主と言えば三嶋大社ですよね。
 ついでに、ウチの大人気猫の「シロー」さん、それから数年前に亡くなった黒猫「ヤエ」モンのことも思い出しちゃいました。三嶋大社のご祭神は大山祇命と積羽八重事代主神なんですよね。「ツミハヤエコトシロヌシ」。ヤエとコトとシローが入っているぞ(笑)。
 ま、私たちの行動なんて、いつもこんなノリなんです。スミマセン。
Th_img_5330 無事帽子とも再会し、かなり暗くなった三嶋大社境内へ。まだお正月シーズンなのか、はたまた三連休だからか、屋台も出ていましたし、大仰な賽銭箱もありましたが、それぞれちょうど店じまい。賽銭箱もカバーがかけられ、屋台では片づけが始まっていました。
 祭神がオオヤマツミなのかコトシロヌシなのか、それはまあどうでもいいとは言いませんが、それほど重要な問題ではありません。
 コトシロヌシは平田篤胤が言い出したことらしいので、それほど古い伝承ではありませんね。オオヤマツミというのも、おそらくは富士山(浅間神社)との関係で登場してきたのでしょう。
 「ミシマ」の神はもっと古い神様でしょう。富士山の「アサマ」の神よりも古い。
 というのは、「ミシマ」というのは今でこそ「三島」「三嶋」と表記されますが、もともとは「御島」であったと思われます。つまり「島の神」が祀られていたと考えられるわけです。
 では、その「島」とはなんぞやということになると、一般的には「伊豆諸島」のどれかか、全体ということになっています。
 しかし、私はそうは考えていません。だいたい、伊豆諸島だとすると、なんでそれらが見えないあの地に鎮座しているか。
 そうしますと、「島」とはずばり「伊豆半島」ということになります。
 えっ?「半島」でもいいの?と思いますよね。
Th_2 それがですね、実は、古くは伊豆半島は「島」だったのです。ご存知の方も多いと思いますが、ちょうどインド半島が大昔は島で、どんぶらこどんぶらこと北上してユーラシア大陸に衝突し、そのしわ寄せがヒマラヤ山脈になったように、伊豆半島も南洋からどんぶらこと北上してきて、本州にドカンとぶつかったわけです。そして、しわ寄せは箱根あたりになったと。それが100万年くらい前のこと。
 そのため、伊豆の植物相は本州とは違います。なんとなく人種も違うような気がします。
 そのような記憶もあって、伊豆半島は「古い島の神様が漂着した」ととらえられるようになったのではないかというのが私の推測です。
 ちなみに「いづ」という名称も「出づ」ではないかと思われます。出っ張りですね。すなわち、「島」から「伊豆」になったということです。
 富士吉田の明見に残る宮下文書(富士古文献)には、伊豆はもともと島で、それが地震を伴って本州とつながり「出張嶋」になったという記述があります。
 超古代文書と言っても今残っているものは明治期に書かれたものですから、もしかするとウェゲナーの大陸移動説に影響を受けたのかもしれませんね。伊豆半島の成り立ちがいつの時代に明らかにされたかも調べなければなりません。
 ま、それはいいとして、とにかく半島とは言え、「島」は「島」だったわけで、そう言えば、源頼朝も伊豆に「島」流しになりましたね。やっぱり「島」だったわけです(そんなこと言ったら、甲斐の国も流刑地でしたね…こちら参照)。
 今日はそんな太古の「島の神様」を感じながらの参拝。私のトンデモな「勘」は当たらずとも遠からずのようでしたよ。

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2015.01.11

『右翼と左翼はどうちがう?』 雨宮処凛 (河出文庫)

Unknown 倍総理がこちら(富士山)にいらしています。この寒い時期にいらっしゃるのは珍しい。
 今日は富士霊園の岸家のお墓をお参りしたようです。これはワタクシ的には大変意味のあるできごとです。ほとんどの方には分からないでしょうけれども。5年後に分かるかも…です。
 ちなみに富士霊園は静岡県の小山町ですが、実はあそこは山梨県の山中湖村平野の飛び地でもあります。山ひとつ越えると明神峠ですから(これがヒント)。
 それこそ、安倍総理の一挙手一投足は、右翼にも左翼にも気になって仕方ないでしょう。久しぶりにそういう総理大臣が登場しましたね。いいことだと思います。
 両方が気になるということは、実はその両方を超えたところ、あるいはその間の中空で物事が動いているということなのです。それが日本文化、歴史の特徴だったりします。
 おとといでしたか、総理夫人の昭恵さんとちょっとメールで話しました。その結論は「右も左もないですよね(昭恵さん)」「右とか左とか、それこそ戦後レジームですよね(ワタクシ)」…こんな感じでした。
 左右を弁証法的に超えるのではなく、その間の「無意識領域」、そうこの前の「100分 de 日本人論」でも斎藤環さんによって取り上げられていましたが、河合隼雄さんの「中空構造日本の深層」で明らかにされた「うつ」「うつほ」「うつわ」の領域です。
 私の「国譲り理論」にもつながりますね。私や昭恵さんに言わせれば、右、左の方々は、あまりに「意識的」すぎるのです。
 ま、それもまた人類、特に日本の進化の一過程として非常に重要だと思います。それをしっかり復習しながら確認できる良書が雨宮処凛さんのこの本です。
 本当にわかりやすく腑に落ちる本ですよ。右翼と左翼といえば、以前、その名も「右翼と左翼」という本を紹介しましたけれども、あの時は、正直全然面白く読めなかった。真面目すぎたんですよね、あの本だと私には。
 その点、この本はとにかく面白かった。目の前にリアルな映像が浮かぶ感じ。
 この本は、基本14歳のために書かれているのですが、私のような世代、つまり左右以後の世代にとって非常に良い参考書です。
 雨宮さんは私より10歳も年下ですが、左右以降世代としては同じ感覚を持っていると思います。同じ無意識を基底として、右翼、左翼を「追体験」しているという意味でも、けっこう近いのでは。
 もちろん、私は雨宮さんのように具体的に右翼や左翼の組織に属して、具体的な行動(デモや街宣やバンド活動や執筆活動やボランティア活動)をしているわけではありませんが、どこかで、右に行ったり左に行ったり、ある意味では両方に共感があって、物分りの良い、そしてちょっとずるい感性を持っているということでは、やはり似ているのではないでしょうか。
 ビートルズ解散後にビートルズにはまりつつ、ローリング・ストーンズも好きみたいな(笑)。
 また、この本には、世代的にもホンモノの(?)活動家の方々の言葉が載っているのがよい。それもいちおう今の14歳向けの言葉ですから、私にもちょうどいい(笑)。
 結論として、右翼も左翼も、とにかく現状に問題意識があり、人の命や幸せな生活を真剣に考え、また国や世界のことを真剣に心配している、そして、本気で行動しているという意味では非常に似ている。これには思いっきり共感、同意しましたね。
 その他大勢の「中空層」も、ワタクシ的には非常に重要なのですが、その無意識層はあくまで相対的に存在できるのであって、そういう意味では、非常に意識的な右翼も左翼もなくてはならない存在です。
 今、以前とは明らかに違う形であるとはいえ、こうして左右が元気になりつつあるということは悪いことではないのです。
 ずいぶん前に、我々が左右の手で大事に抱えているものとは…「エロ」という記事を書きましたが(笑)、実はこれって本質をついているかもしれませんね。左翼も右翼も「愛(エロス)」が人一倍強いですから。
 「右も左もない」…この意味はこれからますます深くなっていくでしょう。右と左を乗り越えるのではなく、実は根本で統合していくことこそ大切なのかもしれません。

Amazon 右翼と左翼はどうちがう?

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2015.01.10

眼横鼻直(がんのうびちょく)…ありのまま

Th_normal 日は我が中学の推薦入試でした。新たな出会いというのは本当にワクワクするものです。
 毎年書いているように、本校の国語の入試問題の本文は、受験生へのメッセージをこめて私が書かせていただいています。
 今年もまた、その文章を公開いたします。今年のテーマは「ありのまま」。そこに禅語をからめて書いてみました。よろしかったらお読み下さい。

     「ありのまま」

  「ありのままで」…去年私たちは、このことばをいったい何度聞き、口にしたことでしょう。
 映画も歌も大ヒット。流行語大賞にもノミネートされました。
 あの映画を見た人も見ていない人も、なぜ「ありのままで」ということばに、ここまで親しみを感じたのでしょうか。
 それはおそらく、私たちにとって「ありのまま」がとても難しいことだからでしょう。私たちは、そうした実現困難なことにあこがれをいだきます。あるいは、それを目標としてがんばろうと思います。
 あの映画で「ありのままの自分になるの」と歌った主人公の一人エルサは、幼いころからずっと「ありのままではない自分」を演じてくることに苦痛を感じてきました。そして、いよいよがまんできなくなって、勇気をふりしぼって自分を解放することにしました。
 そんな物語や歌に接することによって、私たちも忘れかけていた「ありのままの自分」を思い出したのでしょうね。
 あの映画が大人気を得たのには、そういう理由もあったのです。
 私たちが「ありのままの自分」を忘れてしまうのは、実は「ありのままではない自分」でいるほうが楽だからです。
 私たちはふだんの生活の中では、何かを演じていることのほうが多くて、自分自身をそのまま出すことはあまりありません。
 なんでも自分の思うままに行動し、発言していたら、人とけんかになってしまうのではないか。だれかに怒られてしまうのではないか。そんなふうに予感すると、私たちはほとんど無意識に「ありのままではない自分」でいようとします。
 また、そのように「ありのままではない自分」を演じているうちに、いつのまにかそちらのほうが「本当の自分」のような気がしてきてしまう。そんなこともあります。
 そして「ありのままの自分」というのはどういうものだったか分からなくなってしまう。いつのまにか「ありのまま」にもどろうとも思わなくなってしまうのです。
 そういう意味でも、「ありのまま」でいることは難しいことなのですね。
 ところで、仏教にも「ありのまま」のすばらしさを表すことばがあります。
 「眼横鼻直(がんのうびちょく)」
 みなさんにとっては、全く聞いたことのないことばでしょうね。でも、よくその漢字を見てみてください。
 「眼」「横」「鼻」「直」…どれも小学校で習う漢字ですし、その意味もよく分かります。「め」「よこ」「はな」「まっすぐ」。
 そうです。なんとこのことばは「眼は横にならんでいて鼻は正面を向いている」という意味なのです。
 このことばを残したのは、道元さんというとてもえらいお坊さんなのですが、そんな人がなんでわざわざこんな当たり前なことを言ったのか、気になりますね。
 実は、道元さん、仏教を深く学ぶために中国で数年間勉強をし、ようやく日本に帰ってきたその時に、このことばを残しているのです。
 つまり、難しい勉強をしに行ったのに、学んできたことは当たり前のことだったのです。
 人間ならだれでも当たり前だと思っている「眼は横、鼻はまっすぐ」という顔のつくりを一度見直して、そして最後にはまた当たり前として受け入れる。そうすると、前の「当たり前」とあとの「当たり前」とでは、同じ当たり前でも全然違ったものになる。
 道元さんは、「ありのまま」を「ありのまま」として受け入れるということを学んで帰ってきたのです。
 仏教では、今こうして生きているという当たり前のすばらしさを大切にします。いろいろあるけれども、いいことも悪いことも、まず素直に受け入れる。まず自分自身や世の中の「ありのまま」の姿をそのまま受け入れるのです。
 そうすると、心が解放されて自分も楽になりますし、結果として他人にも優しくできるようになる。
 映画の主人公エルサもまた、自分の「ありのまま」の姿をしっかり見つめ直し、そしてやっぱり「ありのまま」でいいと思ったのですね。そして、みんなが幸せになりました(それこそいろいろ大変なことはありましたが)。
 もちろん、世の中にはたくさんの人がいますから、それぞれの「ありのまま」を尊重しなければなりません。みんながみんな自分の「ありのまま」を出しきってしまったら、きっとめちゃくちゃになってしまうでしょう。
 道元さんが言いたかったことは、たぶん自分の「ありのまま」を大切にするように、他人の「ありのまま」も大切にしなさいということだったのでしょう。
 さあ、みなさん、「ありのまま」の自分とはどんな自分でしょうか。今日のこの試験を機会に、自分という最も「当たり前」なものを見つめ直してみるのもいいのではないでしょうか。


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2015.01.09

サキ報道官

Th_a708cdc7 試シーズンということで、ちょっと忙しくしております。そんなわけで、ふと気になったことを。
 安倍総理の戦後70年にあたっての談話について、アメリカのサキ報道官からコメントがありました。
 こういう流れ。

安倍総理(5日) 「村山談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいく。安倍政権として、先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、今後アジア太平洋地域や世界のためにさらにどのような貢献を果たしていくのか、世界に発信できるようなものを考え、新たな談話に書き込んでいく」

サキ報道官(5日) 「村山談話、河野談話が示した謝罪は、日本が近隣諸国との関係改善に努力をする中で重要な一章を刻んだというのがわれわれの見方だ」

記者団(6日) 「(前日の会見で)村山談話と河野談話に言及したことを、日本政府への圧力と見る人々がいる」

サキ報道官(6日) 「(圧力は)意図していなかった。言い直させてほしい。(安倍氏の発言は)歴史問題と戦後日本の平和への貢献に前向きなメッセージを含んでおり、歓迎する」

 このやりとりの裏に、どちらからのどういう圧力があったのか、なかったのかはよく分かりませんが、今のアメリカが、日本および中韓との関係について、ある種の迷いを持っているということだけは確かですね。
 中韓寄りの発言から日本寄りの発言に変わったのか。それともやはりアメリカ的には、日中韓が争っていてくれた方が都合がいいのか。
 いずれにせよ、アメリカの発言はアメリカの利益のためでしかありません。
 ところで、今日なんでサキ報道官というタイトルにしたかというとですね、ウチの上の娘の名前が「サキ」だからです。もちろん漢字ですが。
 で、気になったんですよ。サキ報道官の「サキ」って「Saki」じゃないよなあって。英語で「Saki」というと、「Sake」のこと、すなわち「日本酒」じゃないですか。
 で、調べてみたら、ななななんと、こういうスペルでした。これは意外すぎ。

「Psaki」

 わ〜お、psychologyとかと一緒で「p」は発音しないんですね。やはりギリシャ系だとのこと。なるほどなあ。
 娘にこのことを教えたら、「じゃ、私もPsakiって書こう」だって(笑)。ま、アメリカに住むことにでもなったら、その方がいいかもね。「日本酒」ってのも覚えやすいけど(笑)。


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2015.01.08

一月一日(いちげついちじつ)

 うにもしつこいモンストのCM。いろいろな意味でしつこい(笑)。
 昨日で松の内も終わりまして、さすがに世間では正月気分も抜けきっていると思うのですが、いまだに「一月一日」が流れる中、おせちは食い散らかしっぱなし(笑)、さらに福笑い、かるたにすごろくが放置されて、家族はこたつで黙々とスマホに向かう…まあ、現代を象徴するような映像かもしれませんがね。
 私としては音楽がどうも許せん。いや、最初、つまり昨年末は良かったんですよ。おお、面白いアレンジじゃん!って感じです。
 しかし、さすがにここまでしつこく、さらに時節ハズレに聞かされるとイライラしてきませんか?
 だいたいですね、この「年の始めのためしとて…」の歌詞はどなたが作詞されたものかご存知であるのか?
 そう、昨年、高円宮憲仁親王の第二女子典子女王さまとご結婚された出雲大社権宮司千家国麿さまのひいひいおじいさま、千家尊福さまであらせられるぞ!
 これはホントの話です。モンストCMはもちろん、私たちもなんとなく一番しか知りませんが、実際には二番まであります。

年の始めの 例(ためし)とて
終りなき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ

初日の光 さし出でて
四方(よも)に輝く 今朝の空
君がみかげに 比(たぐ)えつつ
仰ぎ見るこそ 尊とけれ

Th__20150108_181224 ちなみに二番の冒頭は、当初は「初日の光 明(あきら)けく 治まる御代の 今朝の空」でありました。つまり、「明治」という年号にちなんだ歌詞でした。大正になったところで現在のように書きかえられたとのことです。
 「君」という語が「君が代」同様に「天皇」を思わせるということで、今ではほとんど歌われなくなってしまっているのでしょう。
 だったら、一番の「終わりなき世」はいいのでしょうかね…とも思いますが。ま、「SEKAI NO OWARI」なんて言う若者たちよりはずっといいのは間違いありません(苦笑)。
 千家尊福さまは、出雲大社の宮司であるとともに、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事、司法大臣、東京鉄道株式会社(現都電)社長などを務めました。すごいですね。
 出雲大社宮司としては当然とはいえ、平田篤胤の「地・幽中心論」を継承し、スサノヲからオオクニヌシの系譜を重視し(出雲派)、ある意味「天・顕中心論」(アマテラス系)の天皇家(伊勢派)と対立したという意味では、今の私のポジションにもつながっています。
 そんな千家尊福の言霊がこうして鳴り響いているのだから、まあいいのか…。
 さて、何日までこのCMは流れるのでしょう。


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2015.01.07

無病息災

Th_img_5247_2 日の夕飯は七草粥と鮭のあら汁。
 なんとも雅な夕食ですねえ。平安貴族か?
 そして、七草粥と鮭を合体させましたところ、これがおいしいのなんのって。
 山の幸と海の幸の合流は、日本の「結び」の発想の原点です。陰陽の出会い。
 神饌も必ず、米と山幸、海幸、そして酒ですね。
 この七草粥、説明書?にもありましたように、中国がルーツです。無病息災を祈念するまじないとのこと。
 七草粥は、正月の宴会続きで酷使された胃を休める効果もあるとのこと。ある意味では、ハレから日常への橋渡し役とも言えますね。
 ところで、無病息災という言葉、無病はよく分かりますが、「息災」ってどういう意味なのでしょうか。
 もともと「息災」は仏教用語。サンスクリット語シャーンティカ(santika)の漢訳語です。シャーンティカは扇底迦(せんていきや)と音写されましたが、もともとは「災いを消滅させる」という意味です。
 仏教徒にとっての最大の「災い」は「煩悩」ですから、「煩悩を消す」という意味だとも言えます。
 ではなぜ「息」という漢字なのか。これは「息」にstopという意味があるからです。
 「終息」という時の「息」は「終」と同じ意味ですね。
 「息災」という言葉は日本でも9世紀から使われています。かの枕草子にも「いみじう易きそくさいの祈ななり」という会話文が出てきます。「ずいぶん簡単な息災の祈りに聞こえる」というような意味です。
Th_img_5245_2 「無病息災」という使い方は案外最近、16世紀くらいからで、それまでは「息災延命」とか「延命息災」という熟語表現が多く見られます。
 また「そくさい」は方言では「苦労がない」というような意味で使われることもあり、そこから「安産」や「のんき」という意味に発展したり、あるいは「ひょうきんもの」という意味で使われている例も見つけることが出来ます。
 いずれにしても縁起のよい言葉だということですね。
 今日は七草粥セットでおかゆを作りましたから、典型的な七草、すなわちセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロが入っていました。
 本来、この地方では、セリ、ダイコン、ニンジン、昆布、ゴボウ、小豆など、手に入る山幸海幸を入れたようです。皆さんお住まいの地方ではいかがでしょうか。
 また、具を刻む時に歌を歌いますが、これもそれぞれの地方でいろいろヴァリエーションがあるようですね。調べてみると面白いかもしれません。

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2015.01.06

二股ライトニングケーブル

20150106_171118 ょっと重い話が続いたので、今日は軽いネタで。
 夫婦でiphone5を使っています。私はそうでもないのですが、カミさんはなぜかすぐに充電を切らします。というか、気づくと2%とか1%とか(笑)。なぜか0にはならない。
 てか、私なんか性格なんでしょうか、50%切ると不安というか、不安でもないけれども、なんかイヤなんですよね。
 人間って面白いもので、たとえば車のガソリンなんかも、あと少しとなるとなんか気持ち悪くなってくる。経験上、あと100キロは走れると分かっていても、そろそろ満タンにしたくなる。
 で、満タンになると安心というか、気持ちいい。実際は重くなった分、燃費も悪くなっているだろうに(笑)。
 その点、カミさんはすごいですね。何回も路上でガス欠したことがあります。なんで、そこまで粘るかなと(笑)。
 お金もそうじゃないですか。財布の中身とか、Suicaの残金とか。私、かなりズボラでいい加減な性格なんですが、この「残量」に関してはなんか妙に神経質(この言葉はホントは自分に使いたくない)。
 あっ、そうそう実はウチの職場は今日から仕事だったんですが、昨日なんかすごく特別な感じがしました。なぜなら、年末年始休暇最後の日だし、ほとんどの社会人は昨日が仕事始めだったろうから。
 同じ一日なのに、残量によってその価値が変わっているような気がするのは、きっと私だけではないでしょう。
 そう言えばカミさんは、予定の時間ギリギリまでダラダラしているタイプ。私は約束の時間10分前にはその場にいなければ気が済まないタイプ。面白いですね。カミさんB型だからかな(笑)。
 おっと、話がそれて難しい方向に行きそうなので、まあ心理学や哲学の話はあとにしまして、スマホの充電の話です。
 ウチにも何本かLightningケーブルがあるのですが、付属品のものは車の中や寝室で使ったりしてるので、やはり足りなくなります。そこで買ったのがこれ。
 実は今まで夫婦のiphoneは、居間においてはこちらの高速給電USBつきテーブルタップで充電していたんですが、通常出力の方は上の記事に書いてあるとおり、ハブとして使っているので、500mA出力になっていますので、どうしても高アンペア出力の方の取り合いになっていたんですね。
 そこで、高アンペアであることを活かしまして、この二股ケーブルを使って二人同時に充電できる、すなわち二股を許すことで「三角関係」で乗りきれるようにしたわけです(笑)。
 ま、どうせ二股ですからね、愛の総量は変わらないわけで、結果として半分ずつしか愛してもらえない(笑)。それでも、どちらかが溺愛されているのを指をくわえて見ているよりはいいだろうと。
 もちろん、もう一人がいない時は、愛を独占できるわけですから、こういう解決方法も悪くないですよ。
 と、書いていて気づいたのですが、もしかして、これって両方とも愛を満額いただいているのですかね。説明書きにはそのように(2台とも急速充電可能)書いてあるぞよ。ええと、並列で電流だから…分配されるんじゃなかったっけ?いや、直列なのか?
 まあ、いいや、とりあえず充電できてるから(笑)。
 iphoneとiPadの2台持ちの方なども、高速充電対応のUSBプラグをお持ちなら、便利に使えるのではないでしょうか。
 ありそうでなかった製品だと思います。そんなに高くありませんし、Apple認証のようです(アラートは出ない)。

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2015.01.05

『日本的霊性』 鈴木大拙 (岩波文庫)

Th__20150105_193858 正月はくだらない番組もあって、それはそれで良かったのですが、NHKさんを中心になかなか見応えのある番組もいくつかありました。
 今年、特に面白かったのは、Eテレで2日に放送した「100分 de 名著」新春SP企画の「100分 de 日本人論」でした。
 松岡正剛さんが九鬼周造の「『いき』の構造」を、赤坂真理さんが折口信夫の「死者の書」を、斎藤環さんが河合隼雄の「中空構造日本の深層」を、中沢新一さんが鈴木大拙の「日本的霊性」を紹介、解説しながら、MCの伊集院光さん、武内陶子さんを交えて「日本人論」を展開する番組でした。
 「あいまい」「死者」「うつほ(中空)」「無分別智」…全体として、私もこのブログでずっと言い続けてきたことと似た内容になっていましたね。すなわち、言語以前(未分節、未分化)の「モノ」が無意識のもとで非常に重要な役割を果たしているということですね。
 今年こそは「モノ・コト・トキ」論で1冊本を書こうと決意しているわけですが、おかげでだいぶ自信がつきました。なんとなくぼんやりしていたモノがはっきりしたコトになりました。これで言語化できる(笑)。
 実は昨年の秋から、鈴木大拙の「日本的霊性」をお風呂で(!)読みなおしていたところでした。湯船につかりながら、眠い目をこすりこすり「日本的霊性」を読む。これがまたなんともヲツなのであります。
 もともと岩波文庫はウスウスの紙ですので、どんどん湯気を吸ってブヨブヨになっていく。油断すると眠りこけて湯船に落としそうになる(笑)。
 そんなんで理解できるような内容ではないのですが、まあ、禅なんて実はそんな半分無意識下での認識の問題なので(と勝手に思っている)、案外いいんですよ。修行している方には怒られちゃいそうですが。
Th__20150105_201305 この番組で、中沢新一さんがうまくまとめてくれてましたね。鎌倉時代になって、私たちは「日本的霊性」を自覚したと。発見したと。
 その特徴は、「大地性」「莫妄想」「無分別智」。禅や浄土信仰は、言語を捨てる、削ぎ落とすところにその本質がありますから、おそらくは、そうした特徴として挙げた言語もまた、自覚、意識化したのちに、再び無意識化されるべきなのでしょうね。
 私の言うところの「コトを窮めてモノに至る」というやつです。
 中沢さんも言っていましたが、鈴木大拙は英訳の天才でしたよね。彼が日本的霊性について英語で書いたものは、のちにアメリカのビートニクに多大な影響を与え、それがまた日本に逆輸入されて「日本的無意識的サブカルチャー」の誕生を促すという、まさに「モノ→コト→モノ」というダイナミクスを実現したわけです。面白いですよね。
 そんなふうな意味でも、この本は書斎でまじめな顔して読むのではなく、湯船で裸で眠気と闘いながら読むのがふさわしいのです(ホンマか?)。
 実は私は若い時にこの本をまじめな顔して読んだのですが、それこそホントに眠くなってしまって、全く身にならなかった。ところが、今は妙に腑に落ちるんですよ。やっぱり頭で考えるだけでなく、裸で一体化しなきゃダメなんでしょうか。コトよりモノ。
 ぜひ、皆さまも、お風呂に常備してみてください(笑)。

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2015.01.04

『資本主義の終焉と歴史の危機』 水野和夫 (集英社新書)

Th__20150105_91554 覧になった方もいらっしゃると思いますが、元日のNHKスペシャル「戦後70年 ニッポンの肖像」でタモリさんがいろいろ面白い発言をなさっていましたね。
 特に最後、「どでかいことをぶちかましていいですか?」と前置きして「資本主義が行き詰まっている。でも共産主義もだめ。資本主義に手を加えてより良いものを作らねばならない。それができるのは日本」という言葉には、思わず大きくうなづいてしまいました。
 さらには「ボランティアに興味がある」という言葉も挟まれていましたから、さすが鋭いなと思いました。私がこのブログで何度か書いている、福祉経済、仏教経済、家族経済というのがそれに当たるのではないでしょうか。
 資本主義は蒐集の原理のための錬金術みたいなものです。完全に実現不可能な永久機関です。
 私も日本こそが新しい経済システムの先導者であると信じる者です。本当の意味での「グローバリズム(地球家族主義)」を実現できる国民であると思っています。
 この私の「勘」はあくまでも「勘」であって、なんら論理性はありません。だから説得力もほとんどないわけですが、この本はそんな私の「勘」を理論的に補強してくれる良書であったと思います。
 低金利、ゼロ金利、デフレは資本主義の卒業証書…面白い発想ですね。まあたしかに錬金術が働かなくなり、永久機関のまやかしも露見しつつあるということは、たしかに資本主義の終焉を象徴していると言えましょう。
 私も基本それと同じ考え方であり、たとえばアベノミクスについても完全に賛成はしていない立場をとっています。
 ただ、ここでまた「勘」を披露するとすれば、このアベノミクスは未来的には非常に意味のあるものだと思います。ある意味、資本主義の最後のあがきのような政策であるアベノミクスが、まさに資本主義という恒星の最後の爆発的輝きを現出するかもしれないからです。
 恒星の最後の爆発とは、そう「超新星爆発」です。新しい星を生むための「荒魂」の発現です。
 いや、それ以前に、日本は「相対的」に経済的な勝ち組になるでしょう。ほとんど唯一の勝ち組です。というのは、今年あたりから、アメリカ、ヨーロッパ、中国を中心として、さらなる資本主義の末期的症状が現れると予感しているからです。
 そうなりますと、結局、戦後日本人が蓄えてきた実際のお金、そして技術、精神性が大きな価値を持つようになるのです。
 今、アベノミクスの恩恵はなかなか地方まで波及してこないというのが実情ですが、それでも現状維持ができていることにも「有り難み」を感じるほどに、世界経済の情勢は急変することでしょう。
 結果としてアベノミクスのおかげであったという感覚が残ると予想します。皮肉なことですが、そのあたりもある意味神がかった、国としての「勘」が働いたということになりそうです。
 そうしますと、アベノミクス推進派も反対派も、なんとなく「自分が正しかった」で現状は通過することになります。そして、みんなで未来の新しい経済的パラダイムの構築に向かえるということになる。
 なんだかずいぶん楽観的な未来予測ですが、おそらくそれほど大きくはずれないと思いますよ。
 さあ、タモリさんとワタクシの「勘」は当たりますでしょうか(笑)。

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2015.01.03

福石神社(富士宮市大鹿窪)

 年の初詣も1月3日。
 富士宮(旧芝川町)にある福石神社をお参りしてきました。

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 今年も直観に導かれましての初参拝。実は静岡の実家から富士山の鳴沢に戻る際、この道はもう何十回と通っていたのに、その道から少し入ったところにこんな神社があること知りませんでした。
 この神社の祭神はなんと国常立!そしてすぐ横には縄文草創期の遺跡が(国指定の史跡「大鹿窪遺跡」)。

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 昨年は王仁三郎にも非常にゆかりの深い月見里神社にお参りいたしました。
 今年もまた偶然なのか必然なのか、王仁三郎に縁の深い神社が選ばれました。ちなみに今年もまた王仁三郎作の耀わんを背負っての初詣。
 あとで思い出したのですが、一昨年のNHKの番組『富士山と日本人 ~中沢新一が探る1万年の精神史~』で大鹿窪遺跡が紹介されてましたね。恥ずかしながら、ああここだったんだという感じ。

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 あの番組では、1万年以上前の縄文人が、溶岩流が到達したギリギリのところにあえて集落が形成され、さらに富士山に向って配石遺構が発見されているところから、すでに富士山に対する信仰が
あったと推察していました。
 たしかに神社のすぐ横に小高い丘がありました。あれが溶岩流の先端なんですね。

Img_5127

 今ではその丘も公園として整備されていましたが、縄文人にとっては「恐ろしい」存在だったことでしょう。その「恐ろしさ」の象徴が「クニトコタチ」であったと。そして、それを祀るためにこの福石神社の原型が造られたのではないか。
 クニトコタチは宇宙創造神です。富士山という火山の噴火、そして溶岩流という、恐ろしいけれども一方で「創造のダイナミズム」を感じるエネルギーの存在を「神」としたのでしょう。まさに人智を超えた「モノ」です。
 今ではとてものどかな田園風景でして、娘たちも縄文遺跡の上で「ここに住みたい!」と言っていました。たしかに。

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 神社自体は新しく建てなおされており、また神社の裏側には「富士山縄文の里大鹿館」という施設や立派な駐車場が作られています。それらからはあまり縄文の空気は伝わってきませんが、その遺跡跡から富士山を眺めたり、溶岩流の小山に登ったりすると、なんとなく1万年前の人々の暮らしと信仰を感じることができると思います。
 帰ろうとした時、犬の散歩のおじさんに出会いました。それこそ縄文的な雰囲気の優しさと荒々しさを感じさせるおじさんと柴犬ちゃん。素敵な出会いでした。

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 もう少し暖かくなったらもう一度ゆっくり行ってみようと思います。皆さんもぜひお参りしてみてください。
 ちなみに富士宮の浅間大社にも福石神社が勧請されています。より古いモノとしてしっかり存在感を示していますね。


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2015.01.02

彌榮(いやさか)と荒魂(あらみたま)

Th_img_5111 日は静岡(焼津、藤枝)の親戚が集まりまして、恒例の新年会。今年も0歳から101歳(今月102歳)まで、総勢40名近くが集まって盛大に催されました。
 0歳から101歳…これってホントにすごいことですね。1世紀以上ですから。大正、昭和、平成と、あらゆる世代が集まって飲めや歌えや笑えやの大宴会でありました。
 こうした家族、親戚のつながりこそ、まさに日本の彌榮の象徴であります。私が唱えている「global familism」はこうした「和」「輪」の敷衍であります。地球上の全てがこうした「笑い」の中にあれば、きっと争いのない素晴らしい世の中になるにちがいないと信じております。
 まずは日本全体がそのような「日本的家族主義」の国にならねばなりません。
Th__20150103_194052 それを祈るのが天皇陛下の役割です。そう、皆さんご存知のとおり、天皇陛下はこの年末年始、祈りのためのご公務(神事)を、それこそ睡眠時間を削ってなさってらっしゃいます。
 私たちがこうしてゆるりと家族の絆を確認している間に、陛下は私たち民の幸福と国の彌榮を祈っておられるのです。ありがたいことですね。
 ところで、この「いやさか」という言葉、どういう意味なのでしょうか。
 これは分かりやすい現代の言葉で言うなら、「いよいよ栄える」というニュアンスですね。ますますそれぞれの家族、地方、国、世界の各国、各地域、そして地球が平和に豊かに栄えていく。
 ちなみに祇園祭で有名な八坂神社の「やさか」も「いやさか」のことです。その八坂神社の祭神がスサノヲであるというのも面白いですね。
 昨年の私のテーマであった「荒魂」の、そのルーツとも言えるスサノヲ。やはりそうした破壊をも恐れぬ推進力が、未来的な繁栄には必要なのでありましょう。きれいごとだけではダメ。
 そう言えば、昨日の天皇陛下の年頭にあたってのご感想にも、そういう要素が含まれていましたね。
 以下その全文です。

 昨年は大雪や大雨、さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ、家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。
 また、東日本大震災からは四度目の冬になり、放射能汚染により、かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時、それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ、地域を守っていくことが、いかに重要かということを感じています。
 本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。この一年が、我が国の人々、そして世界の人々にとり、幸せな年となることを心より祈ります。
 (引用終わり)

 大雪、大雨、噴火、地震、放射能汚染、戦争、原爆、爆撃、満州事変…これら「荒魂」に学ぶこと、なぜその「荒魂」が発動したのか考えること、そしてそれら否定するだけでなくどのように祀るのか。
 天皇陛下はそういうことをおっしゃっているのだと思います。それが「彌榮」への唯一の道であることをご存知だからです。
 きれいごとではないのです。それらを単純に否定したり、拒否したり、なければいいなあと願ったりするだけではないのです。
 家族、親戚の中も、もちろん全てが平安平穏であったわけではありませんよね(今日も飲み過ぎで迷惑をかけたスサノヲが数人…笑)。時間をかけてでも、様々な出来事の前向きなプラスの意味を読み取っていかなければなりません。
 日本とはそういう国であり、それこそが「いやさか」への唯一の道なのです。

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2015.01.01

謹賀新年2015(年賀状公開)

 けましておめでとうございます。
 1年経つのは早いですねえ。2014年もあっという間に過ぎてしまいました。
 2014年は「反省」の年でした。いろいろ自分の悪いところが発現しまして、後悔すること多数。
 そう、昨年の年賀状はこんな感じでした。そこに書いてありますが、自分の邪鬼に打ち克とうと意気込んでいたのに…逆に邪鬼にやられまくりました(笑)。
 ま、邪鬼が発現しただけでも良しとしますか。病気も潜伏している方が厄介ですし。
 というわけで(って全然関係ないんですが)、今年の年賀状はこんな感じです。
 ズバリ、今年の目標は「見えないもモノを観る」。常識や既成概念、あるいは我執から自由になって、今までとは違う風景を見出していきたい(?)。

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2015

 まずは、NHKさん、勝手にニュース7の画像使ってスミマセン。特に武田真一アナ、大変失礼いたしました。
 「人面岩」は、テロップにあるように四つあります(すなわち家族四人分)。いわゆる「隠し絵」風にしてあります。二人は簡単に見つかりますよね。あとの二人は…(笑)。
 毎年年賀状作成のコンセプトはですね、「日本で一番じっくり見られる年賀状」です(全く我執から解放されていない!)。
 以前は立体視なんかもやりましたが、この隠し絵も面白いんじゃないでしょうか(迷惑か)。
 リアル賀状は明日以降届くと思います。横から見たり、逆さから見たりすると、見てはいけないモノが見えてくるかも(初笑)。
 というわけで、本年も我が家は「地球平和」、いや「宇宙平和」のために頑張りますので、よろしくおつきあいくださいませ。

 以前のおバカな年賀状をご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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