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2014.10.31

【討論!】世界はどうなっているのか?中東情勢とアメリカ

Th_img_3754 夜は下呂温泉に宿泊し、今日は高山にて研修。
 自由時間には高山城跡に登りました。いや実は高山城自体に興味があったのではなく、「福来博士記念館」に行ってみたかったのであります。
 福来友吉は、あの千里眼事件、貞子の念写などの実験で有名な(?)アヤシイ超心理学者さんですね。
 記念館は発見できましたが、電気もついていないので入館は断念いたしました。時間もなかったし。
 で、今日は全然関係ないことをおススメします。いや、ちょっと「トンデモ」世界に足を踏み入れるという意味では関係があるかもしれない。
 非常に面白い、かつ真面目な討論でありますが、陰謀論的な香りが随所にしていますし、そうでなくとも、私たちの知らない世界の裏事情が明かされるという面においては、ある意味虚実皮膜の間を行き来しているとも言えますね。
 昨日の偽史(古史古伝)の話もそうです。案外嘘やハッタリの中に真実が反映していたりするんですね。
 私なんか、先日書いたメソポタミアと日本(富士山)との関係にまで想像が広がってしまいました。それは行き過ぎでしょうか。
 とにかく全体をご覧いただきたいと思います。3時間は長すぎるという方、ヘッドホンをして「2倍速」で再生してみましょう(HTML5プレーヤーのみ対応)。
 慣れてくるとすぐに聞き取れるようになります(スピード・ラーニング?)。そうすれば1時間半ですみます。私はそうして時間を節約しました。

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2014.10.30

正眼寺と富士山

Th_img_3742 日明日と岐阜に出張。
 まずは美濃加茂市伊深の正眼寺を参拝。いろいろとご縁の深いお寺です。
 妙心寺開山、関山慧玄さんが9年間修行したお寺。専門道場としての佇まいは今も変わりません。
 今回久しぶりに参拝するにあたり、伊深付近の地図を眺めていましたら、「富士山」という文字を見つけてビックリしました。
 あれ〜、こんなところにも富士山が。
 富士山という地名や山名はたしかに全国にありますが、ここにもあったのかという驚き。いや、やはりここにもあったかという喜びでしょうか。
 というのは、関山慧玄(無相大師)さんのお墓がホンモノの富士山の麓、富士吉田市明見にあるのです。その場所を知っているのはおそらく全国に数人しかいないと思います(もしかすると私だけかも)。
 実は最近、そのお墓のある小山が荒れ放題になっていて、お地蔵さんのような石像もバラバラになってしまっており、このまま地方の歴史が消えてしまうのではないかと心配しているところでした。
 いわゆる宮下文書には、正史とは全く違う関山慧玄伝が載っています。それもかなり詳細かつ厖大な内容です。
Th__20141101_141851 そんなわけで、今回、正眼寺のすぐ近くに富士山があることは偶然ではなく必然、さらにこのたびその事実を知ることになったタイミングもまた必然であると、私は日本人で、いや人類でただ一人納得しているのであります。
 正眼寺のご住職、正眼短期大学の学長であり、また我が校の名誉校長である、尊敬する山川宗玄老大師さまと、ゆっくりお話をさせていただく機会がありましたので、思いきってその「富士山」のお話をさせていただきました。
 老師もその事実と物語については全くご存知ないということで、大変興味をお持ちになっておりました。ただでさえ、私の頭の形をご覧になって「生まれながらにして僧侶だ」とおっしゃっていた老師。「これは出家してしっかり研究すべきである」と盛んにワタクシをスカウト(?)してくださりました(笑)。
 今度我が校においでの際には、そのお墓の場所に案内させていただきましょう。
 そう考えると全く不思議なことですね。仏教とはなんの関わりもなかった私が、大学時代宮下文書に出会い、その文書に関わりの深い寺の学校に就職しただけでなく、そこから出口王仁三郎や無相大師に興味を持ち、しまいには出口家や山川老師ともお話できる仲になったわけですから。
 これまた偶然ではなく必然でありましょう。問題はその必然の意味、意義を私が分かるのかということですね。ただ驚いたり喜んだりしているだけでは無意味どころか、バチ当たりであります。
Th_imgres さて、美濃加茂の「富士山」、「山之上富士」とも呼ばれているとのこと。標高たった357メートル。ホンモノ10分の1にも満たない低山でありますが、山頂にはちゃんと「富士浅間神社」があるそうです。ますます「アヤシイ」ですね。
 実際、宮下文書にも美濃の伊深の地名が出てきます。帰宅しましたら、さっそく改めて読み返してみようと思います。
 このたび老師は大変重要なヒントを与えてくださりました。関山慧玄が言ったという「富士を見ず」との言葉。その意味が分かるかもしれません。これは大変なことになってきました。私が出家する日も近い?


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2014.10.29

坂本九 『心の瞳』

 日は地元富士吉田市の小中学校親善音楽会がありました。本校も出演して全校合唱を2曲披露いたしました。
 当地の中学校は伝統的に合唱教育が盛んです。あの志村正彦くんも「大地讃頌」をあそこで歌ったんですよね。
 中学生が歌う合唱曲というのは、ある種の「痛さ」があり、自分が中学校の教員になる前(すなわち高校の教員をやっていた5年前まで)は、正直あまり好きな世界ではありませんでした。
 しかし、実際に教え子たちが一生懸命歌ったいる様子を見るとやっぱり感動してしまうんですよね。
 昨日もちょっと書きましたが、日本のロック世界は実は「中二病」なので、中学の合唱曲の影響を受けているんですよね。コード進行とか、歌詞とか。
 感動する一方で、いろいろ悩みというか迷いも生まれます。先日、俳優座の俳優さんと話し、また昨日はプロのヴァイオリニストの方とも話し、今日も思ったんです。芸術と教育は案外相容れないなと。
 というのは、学校の先生が教育的効果を考えて指導する、音楽、美術、演劇、文学、体育もかな、それらってプロの方々が目指すものと当然違うわけですよね。
 だから、プロの方々をお呼びして指導してもらうと、いろいろ難しいことが起きてくる。
 合唱も何を求めて指導すればいいのか、私なんか迷っちゃうわけですよ。ウチの学校は比較的芸術性を求めているわけですが、他校のほとんどは「男子がいかに大きい声を出すか」という基準で選ばれてきているような気さえする(あえて言っちゃいますが)。
 この難しい問題について、我々教師はちゃんと考えないといけない。教育現場で行われている芸術指導に疑問を持ったりすべきなのに、中には「ここは学校だから」「教育だから」といって、芸術の本質から目を背けてしまう(自己満足に陥る)先生が多いことも事実です。
 と、まあ大人に対する愚痴はいいとして、子どもたちは純粋に頑張っていたから良しと。
 今日他校の演奏で心に残ったのは、「心の瞳」でした。楽曲として抜群に良かった。まあ、三木たかしさんの作曲ですからね(作詞は荒木とよひさ)。
 この曲、坂本九さんが歌っていたんですよね…そして、九さんが最後に歌った曲。ご存知でしたか。
 今から29年前の8月12日。日航ジャンボ機墜落事故によって亡くなった坂本九さん。彼がその日、東京で収録したラジオ番組で、「心の瞳」は歌われました。
 こちらに書きましたとおり、偶然私は、墜落の瞬間の数少ない目撃者の一人となってしまいました。
 あの閃光の中で、坂本九さんの歌は途切れてしまったのです。
 最後の歌「心の歌」をもう一度、楽譜歌詞つきで聴きましょう。あらためてご冥福をお祈りします。

Amazon 坂本九メモリアル・ベスト

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2014.10.28

告知! 有賀幹夫さんと『ストーンズを語る夕べ』 in 富士吉田

Photo

 本でただ一人の「ザ・ローリング・ストーンズ専属フォトグラファー」有賀幹夫さんをお迎えしてのステキなイベントを企画しました!
 いろいろ不思議なご縁でこの夏に初めてお会いすることになった有賀さん。その後も我が家や学校に遊びにいらしてくださりまして、そこでもまたまた不思議に話が盛り上がり、すっかり意気投合させていただいております。
 そんな有賀さん、富士山の山開きや吉田の火祭りに参加したり、下吉田近辺を散策したりする中で、このあたりの自然や風土、空気感を気に入ってくださったのです。
 で、私は勝手に「富士五湖地域をロックの(世界的)メッカにしよう!」と思い込みましてね、まあ、富士山も世界文化遺産になったことだし、ロックはもちろん人類の大切な文化、そして、いつも言っているように日本のロックというのは、古来の「和歌」の文化を正統的に継承しているのですから、これは実現せねばと意気込んでいるわけであります。
 そんな中、有賀さんが「富士山の麓の人たちとストーンズで交流したいな」とおっしゃってくださり、今回のイベントが実現することになったのです。
 まずは富士吉田でとなった時、会場としてまず頭に浮かんだのは、上吉田の吉祥寺さんであります。
 吉祥寺の住職さんとはもう長いおつきあい。それこそいろいろな意味でロックなおつきあいをさせていただいています(ま、私はそちらのお寺では「バロック」のライヴをさせていただきましたが…笑)。
 ご住職はかなりのストーンズ狂(教)でいらっしゃるので、二つ返事でOKしてくれました。ありがたや。お寺でロックっていいじゃないですか。本堂のスピーカーもBOSEだし(笑)。
 というわけで、ギリギリの告知になってしまいましたが、ぜひ地元のロック好きの方々、あるいは近郊にお住まいのストーンズファン、富士吉田ファンの方々にはぜひともおいでいただきたいイベントです。
 準備の関係もありますので、できるかぎり「行きますよ!」という御連絡をいただけると助かります。私にメールをください。
 有賀さんがどんな貴重な写真とお話を持ってきてくれるか。私も楽しみです!そして、今回のイベントが大きな動きの第一歩になると信じています!
 


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2014.10.27

告知!…11/16 ORANGE RANGEと富士学苑ジャズバンド部が共演!

Th__20141028_125751 知です。我が富士学苑中学・高等学校のジャズバンド部がORANGE RANGEさんと共演します!
 今や全国で最も有名な学生ビッグバンドとなったムーン・インレット・サウンズ・オーケストラ(MISO)。
 夏にはスカパラさんとの共演を果たしましたが、今度はORANGE RANGEさんであります。
 ワタクシ的にはもうすっかり大御所という感じの(ある意味懐かしい)彼らでありますが、日本のロック、ポップス、ヒップホップ、また沖縄独特の音楽シーンなど、多方面にわたって与え続けてきた影響は大きいと思います。
 そんな彼ら、今年は全国ツアー「ORANGE RANGE テブラ DE ゴメン TOUR 014」でしめくくるということで、各地の有名バンドと共演するのだそうです。面白い企画ですね。
 ツアーというと、ただ通りすぎるだけのことが多い。こうして地元の人々と音楽で交流するのは、彼らにとっても喜びでありましょう。
 ウチの娘もジャズ部員なのですが、残念ながらその日は私用で我が家は秋田におります。よって共演はできず、私ともどもガッカリです…が、きっと生徒たちはORANGE RANGEさんとともに熱く楽しいステージを繰り広げてくれることでしょう。
 地元の新聞にも紹介されていました。山梨の皆さん、ぜひ当日は会場で盛り上がってください!

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ORANGE RANGE テブラ DE ゴメン TOUR 014 山梨

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2014.10.26

追悼 赤瀬川原平さん

20141027_71006 ても哀しい知らせ。
 心の師匠とも言える赤瀬川原平さんがお亡くなりになりました。
 「トマソン」「老人力」「新解さんの謎」…このブログでもいろいろ紹介してきました。世界の見方、人生の読み方を変えるという意味においては、そういった発想や活動こそ「芸術」であり「超芸術」でした。
 もちろん、本来の美術的、文学的活動においても歴史に残る作品を残しましたが、そうした社会的認知、名誉さえもまた自ら解体、再構築してしまうような力があったと思います。それこそが芸術を超越するパワーの象徴でした。
 「art」とは自然に対置された人間の「わざ」を表します。ちょうど昨日の記事に書いたように、日本語の「わざ」は悪い可能性を秘めている。それが「栄える」と「わざはひ(災い)」になります。
 ですから、自然(神)のもとにある芸術家(宗教者)は、わざを重ねながら、どこかでそれを超越して「もの(自然・神)」に帰らねばならないのです。
 それが昨日の記事の「他者性への到達」という境地です。そういう意味で、赤瀬川さんは早い時期から「超える」ことへの予感をもって活動されていたと感じます。
 そこに「ユーモア(諧謔)」が関わってくるのが面白いですね。
 今日、マラソンの瀬古利彦さんと2020東京オリンピックについていろいろお話をさせていただきました。瀬古さんも「超えた」人です。自分をすでに超えている。だから、めちゃくちゃ面白い。芸人もたじたじのユーモアセンス、言霊を持った方でした。
 最近、いろいろな分野の一流の方とお話する機会に恵まれています。皆さん、とにかくユーモアにあふれている。自我を超えている。ある種の自虐ネタを持っている。昨日の記事の山寺さんとコロッケさんもそうですね。
 赤瀬川原平さん、病気療養中に「赤瀬川原平をやめようかな」と言っていたとのこと。この言葉、単なる弱音ではなく、それ自体が「超芸術」性を帯びていると思います。
 今日、たまたま庭のこぶしの枯れ葉が落ちるの見ながら歌を作りました(二つの結社に入っているので月に10首ほど作らねばならないのです)。
 「落ち葉は落ちるから落ち葉と呼ばれるのだろう。だったら、自分はなんという名前を与えられるのか」というような意味の歌ができました(実際の歌は「未来」の1月号で)。
 短歌でも「超えていた」寺山修司は、「職業は寺山修司」と言っていたといいます。かっこいいですね。赤瀬川さんもそういう意味で「赤瀬川原平をやめようかな」と語ったのでしょう。
 落ち葉が「落ち葉をやめようかな」と言っても実際にはやめられないように、赤瀬川さんも死ぬまで「赤瀬川原平」であり続けた…。
 近年すっかり老人力を身につけたなと自覚しているワタクシ。「職業は山口隆之」と言えるように、そして晩年「山口隆之をやめようかな」と言えるような人生を歩んでいきたいと思います。
 赤瀬川さん、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。あちらでお仲間たちとますます楽しんで下さいね。


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2014.10.25

俳優(わざをき)=物真似(ものまね)

Th__20141026_120020 先に見逃したSWITCHインタビュー達人達「コロッケ×山寺宏一」のアンコール放送を観ました。
 声優とものまね、似ているようで違う職業。しかし、ともに超一流どうしの話となると、どの分野でもそうですが、共通点の方が際立ってくるんですよね。
 逆に言うと、二流以下どうしは噛み合わないどころか、敵対しあう。お互いの世界を受け入れられない。自分の優位を主張しだしたりする。
 もちろん、山寺さんもコロッケさんもそんなことありません。お互いに尊敬しあっている様子がよく見て取れましたね。
 お二人の最終結論は、「自我を捨てる」ではなかったでしょうか。「謙虚だけれどプラス思考」という言葉が良かったですねえ。分かります。超一流はみんな「謙虚」。しかし、前向きなプラス思考。
 先日、あるところで渡辺謙さんとお会いしたんですが、まあ驚くほどに腰が低く、誰彼なく周囲に対して丁寧すぎるほどの気遣いをされていました。ああ、なるほど、こういう人でないと世界的な俳優さんにはなれないんだなと。
 また、数日前、学校に俳優座の俳優さんをお招きして、生徒に演技指導などをしてもらいました。そこでも全く
同じ話になりましてね、結果、芸能界もなかなか捨てもんじゃないと。なるほど、いい人が残っていく世界という意味では、他の業界よりもシビアかもしれませんね。
 その俳優さんが、「俳優と声優は180度違うことをしている」とおっしゃっていました。たしかに技術的にはそういうことが言えるでしょうね。ただ仕事の根本としては同じでしょう。そして、ものまねも。
 ここで、私の「ものまね論」を思い出してみましょう。こちらの記事に書いたものです。
 昨日の記事にも書いたように、「もの」という日本語は本来「他者(性)」を表す言葉です。それを自分に「招く」のが「ものまね」。世阿弥の言う「物学(ものまね)」もそういう意味と解しています。
 ここでもう一つ面白い気づきがあるんです。そう、これも私の専門分野である「萌え=をかし論」で紹介したように、「をかし」という形容詞の語源は「まねく」という意味の「招(を)く」であると考えられます。
 皆さんは「俳優」をなんと読みますか?当然「はいゆう」ですよね。しかし、それは漢語。和語ではなんと訓じていたかといいますと、「わざおぎ」です。歴史的仮名遣いですと「わざをぎ」。さらに古くは「わざをき」と濁らなかったことが分かっています。
 もうお分かりと思いますが、これは「わざ+招き」なんですね。ワザを招く人だということです。「わざ」という言葉については書き出すと長くなるので、手短かにまとめますが、これは「誰かの意図的な行為」ということです。
 この「わざ」、「しわざ」や「わざわい」から想像できるように、悪い意味で使われる、すなわち自分の意図に反するという意味において、もともとは他者性の高い言葉です。
 すなわち、「もの」と「わざ」とは他者性(非自己性)という点においては、非常に近いイメージを持った語なのです。
 そして、「まね(真似)」も「招く」が語源で、「をき」も「招き」だとするならば、そう「俳優(わざをき)=物真似(ものまね)」ということになりますね。
 今日、山寺さんとコロッケさんのお話を聴いていて、なるほどやっぱりそうなんだと思った次第です。ある種の「憑依」ということですね。「媒体(メディア)」ということです。あるいは「つなぐ」という本来の意味での「エンターテインメント」。
 そして、ともにもとは「神事」であったということ。山寺さんにしてもコロッケさんにしても、たしかに世界に平和と幸福を与えているじゃないですか。
 まさに神の領域ですね。尊敬します。私も早く自我を捨てなければ。そして「器(うつわ=空っぽな丸)」になって他者を受け入れたいと思います。
 期せずして「禅」と全く同じになるところでまた世阿弥ともつながるという…うん、深いがシンプルな真理ですなあ。

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2014.10.24

秋も深まる…

Th_img_3671 ローさんは毎朝窓から木々の色づきをチェックしております。
 去年の今頃は外で自由に生きていたっけなあ…と思っているのでしょうか。
 富士山麓の秋は長い。だからこそ「深まる」秋をじっくり体感できるというものです。
 ところで、この「深まる」という動詞、季節でいうと「秋」にしか使われませんよね。春が深まる、夏が深まる、冬が深まるとは言いません。なんでなんでしょうね。
 やはり、そこには「色」の変化が関係していますよね。だんだん明度が下がってくる。最後は彩度も下がる。
 気温も下がっていきますからね。やはり底に向かっている感じがして「深く」なっていくと言える。
 「深まる」という動詞は比較的新しい。「深む(深める)」という他動詞は古い用例がありますが、自動詞「深まる」は近代になってからの用例しか見当たりません。
 夜が深まる、理解が深まる、疑念が深まる、というような用法ですね。
 他動詞「〜む(める)」と自動詞「〜まる」の組み合わせはたくさんあります。
あつむ(あつめる)・あつまる
あたたむ(あたためる)・あたたまる
はむ(はめる)・はまる
まるむ(まるめる)・まるまる
 などなど、いくらでも挙げることができます。
 自動詞の語尾の「る」は、おそらく自発の助動詞「る」と同源でしょう。考え方によっては、たとえば「あつむ」には下二段活用の他動詞と四段活用の自動詞とがあって、四段活用の未然形に自発の助動詞「る」がついたものとも言えます(一般的ではありませんが、潜在的にはそういう感覚はあったと思います)。
 ワタクシ独自の日本語研究においては、「る」と同様に、「も」も「自分の意志ではない」という他者性の強い音です。ですから「秋も深まってまいりました」と言う時、私たちの無意識の感覚の中には、「ああ、私の意志とは関係なく季節は移ろっていくなあ」という、それこそ「もののあはれ」があるわけです。
 ちなみに、ワタクシの「もののあはれ」観については、こちらをお読み下さい。
 秋が古来、歌の題材となってきたのには、このような基本的な感覚があるからです。秋の歌には「もの」という言葉が多く使われています。そこには「不随意」への詠嘆が表現されているのです。
 冬は「死」の季節。モノクロームな世界。春には再生し、(映画「時をかける少女」の冒頭のように)世界はカラー化しますが、とりあえず私たちは毎年冬という死に近づくことを体感します。それへ向けてのある種の寂しさや諦念が、「深まる」という言葉によって表現されているわけです。
 昨年、ウチのカミさんはNHKののど自慢に出て、真夏なのに「思秋期」を歌って合格しました(笑)。思えば、あの歌の歌詞は、日本の和歌の世界そのものですね。さすが阿久悠さんです。
 「もの」や「も」もちゃっと出てきますし。
 

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2014.10.23

『希望の牧場』 森絵都 (著), 吉田尚令 (イラスト) (岩崎書店)

Unknown 術の先生にいただきました。
 福島の原発事故後、立ち入り禁止区域の牧場にとどまり、売り物にならない牛たちの世話を続ける牛飼いの話。
 「希望の牧場 ふくしま」という浪江町に実在する牧場。
 代表者の吉澤さんの行動に関しては、それが正しいかどうか、あるいは意味のあることなのかは、いろいろな意見のあるところでしょう。
 ただ、それによって牛の命が保たれていること、すなわち人間の都合によって奪われるはずだった牛の生きる権利が(とりあえずは)奪われずにすんだということは、同じ生物として嬉しいことです。
 まずはそういう視点で感動していいのではないでしょうか。
 吉澤さんは、ある種政治的な活動家と見えないこともありませんが、そんな解釈も実に人間の都合に基づいたものです。牛にとっては単に餌をくれる優しい牛飼いさんなのですから。
 森さんの言葉もシンプルだからこそ強い。人の思いよりも牛の思いが伝わってくる。そこに吉田さんのイラストがまた素直でいいですね。やはりストレートな力強さを感じる。
 私がいろいろ言ってもしかたありません。ぜひお読みください。
 ウチのカミさんの実家では、長く肉牛を飼っていました。だからこそ分かることがあるようです。牛の気持ちとでも言いましょうか。この絵本を読んで号泣しておりました。
 なるほど。エサくってクソたれる。牛のリアリズムなのでありましょう。
 近く読み聞かせのイベントがあるので、私なりの表現で語ってみたいと思います。
 ちなみに、YouTubeに「希望の牧場」の動画がたくさんありますが、なぜか私にとっては絵本の方がリアルな感じがしました。先に絵本をお読みになることをおススメします。

Amazon 希望の牧場

希望の牧場ブログ

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2014.10.22

トム・ケネディ 『Just Play』

51qrth8kfel_sy355_ 京JAZZでのランディ・ブレッカー、マイク・スターン、小曽根真の共演「OUT OF THE BLUE」 を観ました。いやあ、カッコ良かったですね。
 ちょっと意外なランディ・ブレッカーとマイク・スターンの共演も面白かったけれども、小曽根真とトム・ケネディとライオネル・コーデューのリズム・セクションがなんだかすごかった。
 特に映像としては初めて観たトム・ケネディのベースにはやられましたね。巧いのは当たり前として、独特の「軽み」があるので驚きました。ベースで軽みを出すのは案外難しい。
 ちょっとその「軽み」を味わっていただくためにこれを観てみてください。

 ちょっとジャコ的な粒立ちですよね。ここでもマイク・スターンと共演していますが、二人はその「軽み」において共通しているようですね。フュージョン的な感覚とでも言いましょうか。今となっては懐かしいセンスです。
 いちおうジャズ・ベーシストを目指している娘にぜひ見せたい動画があります。英語はよく分かりませんが、後半のデモンストレーション演奏は勉強になります。

 演奏後のインタビューで「トムはウッドベースがすごい」と共演者の誰かが言ってましたね。私は彼のウッドベース演奏を聴いたり観たりしたことがないので、さっそく検索。ありました。うむ、たしかにうまい。

 そんなトム・ケネディがメインとなった最近のアルバムが「Just Play」。彼の最高のベース・プレイをたっぷり聴くことができます。
 ソロもいいけれども、やはりリズム担当の際の動き方も絶妙ですね。そのあたりをじっくりお聴きください。

Amazon Just Play

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2014.10.21

ネコ柄ネクタイ

Th_as4bn 日は軽めのネタです。
 ウチには3匹の猫がおります。私も基本的に猫好きです(世話はあんまりしませんが)。
 そんなわけで、我が家では猫グッズがどんどん増えていきます。ホンモノの猫がいるのに、なんででしょうね(笑)。
 私はいい歳したオジサンなので、可愛くなってしまう傾向のある猫グッズはそんなに持っていませんが、最近ちょっとファッションに気を遣うようになりまして、いくつか身に付ける猫グッズを購入しました。
 そのうちの一つが「ネクタイ」。
 一見気づかないけれども、近くで見ると分かる…ネクタイというのはそういうデザインができるモノですね。
 一つは可愛い足跡をデザインにしたネクタイ。これいいですよ。
 猫好きにとって、あの肉球ハンコはたまりませんよね(笑)。猫嫌いの人には、たとえば自分の車にあの跡がついていたら、もう怒り心頭に発しちゃいますが、猫好きにとっては全く逆で、それを嬉しそうな眼差しでついつい鑑賞してしまったりする。
 消すのさえもったいない。そこを歩いたであろう猫の姿を想像して、さらにニヤニヤするということになります(ほとんど病気ですね)。
Th_ct8a もう一つは、猫自身の姿をデサイン化したもの。
 実は猫のデザインというのは難しい。というのは、猫自身が完璧なデザインをしているからです。動きや表情も含めての完全なるデザイン。それを意匠化して固定するのは難しい。
 その点、このネクタイのデザインはなかなかうまい。リアルさをある程度消していて、単体ではイマイチに見えますが、全体(群れ)としてはいい感じに仕上がっています。
 いろいろな色を楽しむのもいいでしょう。
 こちらのお店、安くてデザイン性の高いネクタイがたくさんあります。ついついたくさん注文してしまいました。皆さんもいろいろ覗いてみてください。

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2014.10.20

『山口組概論―最強組織はなぜ成立したのか』 猪野健治 (ちくま新書)

Th__20141021_70123 教家出口王仁三郎は「宗教がなくなる世」を理想としました。
 山口組三代目田岡一雄は「暴力団がなくなる世」を理想としました。
 私は、宗教界も暴力団も好きではありませんが、なぜかこの二人には強く惹かれてきました。
 二人の共通点は、弱者への愛に満ちていることでしょう。自身も貧しく被差別的な生活を強いられてきた中で、その愛は育ちました。
 田岡組長の愛を最も感じることができるのが、この本にも何回か引用されている「『お父さんの石けん箱−愛される事を忘れている人へ。』ですね。娘さんが父田岡一雄に書いた作品です。
 上記の記事にも私は「田岡さんはみろくの世を目指したのかもしれない」と書いていますね。その他、いろいろと熱く語っているワタクシですが、今でもその気持ちは変わっていません。ぜひ皆さんにもお読みいただきたい。
 さて、三代目亡き後、世の中は「みろくの世」に近づいたのでしょうか。残念ながらそうとは言い難いですよね。
 この本に書かれているように、ますます「暴力団」への圧力は強まり、結果として山口組が「最強組織」になりつつあります。ある意味皮肉なことです。
 そして、抗争禁止、薬物禁止、不良外国人とのつきあい禁止など、いわゆる暴力団らしさを消していく方向に変化してきています。それは田岡さんの考えにも一致しています。
 つまり、山口組自体は、外圧によって、一面においては田岡さんの理想に近づきつつあるということです。
 山口組が最大最強の組織として、そういう方に向かうということは、他の組もまた同様の選択を迫られているということになります。
 ということは、まさに非暴力の平和な世の中に向かっているのかというと、先ほども言ったように決してそのようには思えない。
 ここが問題。私のよく言う「荒魂」の大切さと難しさです。
 皆さんもよくご存知のとおり、やくざ組織の弱体化によって、今度は半グレや不良外国人、あるいは海外マフィアの力が増してしまっています。
 同じ荒っぽさでも、日本古来の「荒魂」を継承し(形の上だけでも)「任侠」を標榜してきた日本のやくざと、ただカネ目的の外来種とは大違い。
 極論すれば、どちらか残っていただくとすれば、さあどちらにしますかという問題なのです。
 半世紀前の東京オリンピックにおいて、実は「やくざ」の活躍はすさまじいものがありました。彼らは陰に日なたに「日本のため」に「荒魂」を発動させました。
 それからしばらくの経済成長や、安心安全な国の確立にも、彼らは大きな役割を果たしたと言えます。
 ものすごく分かりやすい例だけ申しますと、「防波堤」の役割をしたと。外国から「日本にはヤクザがいるから、そう簡単には踏み込めない」という認識(ある種の神話)を形成してくれたのですね。
 実はだからこそ私たち庶民は半鎖国状態の中でぬくぬくと生活できたのです。
 それが、そう、おそらくはアメリカからの圧力でしょうかね。暴対法などが整備され、どんどん彼らが弱体化してしまった。その結果は考えずとも分かるというものです。現状そのものですね。
 さあ、そうしてみますと、ワタクシ個人の願いとしてはですね、6年後の東京五輪において、再び彼らの力を借りたいわけです。
 何を言っているのだ!とお叱りを受けるでしょうか。しかし、もともと祭における「やくざ」の役割というのは、ほとんど御神業に近いものがあります。いや、近いではなく、そのものでした。
 まさに国を挙げての国際的祭祀であるオリンピックには、彼らの力、魂が必要でありましょう。
 もちろん、昔のように戻ることは不可能です。しかし、ある意味で(期せずして)三代目の理想に近づいた今の山口組には、50年前よりもさらに高次元な「荒魂」を発動していただきたい。
 こんなことを思うのは私だけでしょうか。いや、そうでもないようですよ。その話はまたいつかします。

Amazon 山口組概論 お父さんの石けん箱

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2014.10.19

ミャンマーの寺子屋

Th_img_3531 夜、今朝と安倍昭恵さんからメールをいただきました。家内の事故の件などいろいろ心配させてしまい申し訳なく思っています。共通の知り合いでもあった江本勝さんのことや、シリアの件などの話をする中で、明日もミャンマー祭りがあるのでどうぞとお誘いをいただきました。
 昭恵さんはミャンマー祭りの実行委員会の名誉会長です。そして、以前からミャンマーに寺子屋を作る活動をされています。午後行われるシンポジウムのテーマも「寺子屋」。仏教系の学校で教員をやっている私は行かねば、ですね。
 祭の会場は東京芝増上寺。ヒマそうにしていた下の娘を「ポケモンセンター行こう」と誘い、さっそく出かけることにいたしました。
 途中道が事故で混んでしまったこともあって、シンポジウム途中からの参加でしたが、いろいろと考えさせられることがありました。
 考えてみると、私の学校も寺子屋が前身です。2年ほど前に、地元の古い公文書を手に入れて読んでいたところ、その寺子屋に関する記述を発見しました。
 ミャンマーにも古くから寺子屋があります。公教育は基本無料ですが、教材費や制服代、給食費など、なんだかんだお金がかかるため、貧困層は学校に通わせることができないそうです。そういう家庭の子どもたちが通うのが寺子屋。お寺の一角で僧侶を中心にお勉強を教える姿は、まさに江戸時代日本の寺子屋と同じだそうです。
 仏教と教育の関係はこうあったのでしょうし、今もこれからも基本的にはこうあるべきなのでしょう。
 ウチの学校では、僧侶であった前理事長が昨年末に亡くなってのちに、僧籍を持っている教員が全くいなくなってしまいました(私はニセ坊主です)。
 そういう意味では本来の建学の精神、教員が持つべき魂が危機にさらされているのです。
Th_img_3535 ミャンマーではある意味逆の問題が起きているそうです。僧侶を中心とした教員たちは、仏教の精神はしっかり理解し実践しているものの、一般的な教育に関しては素人であるケースが多く、結果として現場の教育レベルが保証されないとのこと。
 一方でミャンマーの急速な近代化が、「古き良き」ものを消し去りつつあるという問題も。これは難しいですね。日本もよく言われるように、豊かになった一方、家庭、社会、学校、それぞれの教育現場で何かが失われてしまった。
 ミャンマーに行くと、まさに「古き良き日本」を感じることができると、昭恵さんもおっしゃっていました。しかし、それは「みんなが貧しい」ということでもあります。
 言い古された言葉になってしまいますが…経済的な豊かさと心の豊かさは両立できないのでしょうか。人類の大きな課題ですね。
 ミャンマー(ビルマ)では旧日本兵19万人が亡くなったといいます。現地にも大きな被害があったことでしょう。戦争という悲劇的な関係を乗り越えて、ミャンマーは日本と未来的な関係を結んでいこうと考えてくれているそうです。
 日本が上から目線でミャンマーに何かをしてあげるという感覚ではなく、両国が対等の関係で未来を切り拓いてくことが大切だという結論に、私も賛成です。
 ウチの学校でも、寺子屋精神を教員が再共有しなければならないと思いました。まず私自身が学ぼうと思います。いつか近いうちに昭恵さんと一緒にミャンマーに行くことになるかもしれません。

NPO法人メコン総合研究所


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2014.10.18

『江戸しぐさの正体–教育をむしばむ偽りの伝統』 原田実 (星海社新書)

Th__20141019_185246 せずして昨日の記事の続きとなります。
 ニセ科学ならぬニセ歴史。まあ歴史学も社会科学ですから、ニセ「科学」と言ってもよいでしょう。
 そしてTOSS批判。さらにはワタクシに対する批判の書ともなりそうです(笑)。
 著者の原田さんとはお会いしたことはありませんが、私にとっては非常に大切な人物です。
 先日お会いした八幡書店の社主武田崇元さんのもとで働き、ある意味私のように古史古伝の世界に惹かれていた原田さんは、ある時から全く逆の立場に立つことになりました。
 そのいきさつについてはここでは詳しく書きません。まあ捏造の現場を見てしまったのでしょうね。
 というわけで、現在の原田さんは、私がつきあっている宮下文書や出口王仁三郎の世界については、表面的には完全なるアンチです。
 とは言え、と学会の皆さんによく見られるように、皆さん、その対象にある種の愛情を持っているんですよね。屈折した愛情(笑)。たいがいアンチというのは、そういうものです。嫉妬の構造と似ている。
 で、原田さん、今度はまた面白いところに目をつけましたね。「江戸しぐさ」。
 実は私も「アヤシいな」と思っていたところでしたので、この本を読んだ時には、本当に「我が意を得たり」「よくぞ言ってくれた」「さすが原田さん」と思いました。
 ただ、宮下文書を地元の現実の中で「感じている」私としてはですね、そういう捏造された歴史もまた「真実」であるとも思うのであります。
 それは「全ての歴史は捏造されている」とか「勝者の歴史・敗者の歴史」といったようなレベルの話ではなく、いやそういうレベルでの話ですが、もっと卑近というか、生活に根ざしているというか、「嘘」をつかざるをえない状況こそが、その人物にとっては「真実」であり「歴史」であるということです。
 結局そうなると「歴史的事実」よりも「人物的事実」、すなわちその人がどんな人生を歩んだのか、特にどんな苦しみを味わって「嘘」をつかなければならなくなったのかの方が気になってきます。
 原田さんらも、当然そこのところへの予感を持っていると思いますが、あえてそこまで踏み込まないで、「批判」という態度をとるところにとどまっています。
 その予感というのは、ある種のトラジディーへの悪い予感でもあるわけですね。ものすごく簡単に言ってしまうと「注目されたい」「主人公になりたい」「尊敬されたい」…すなわち「愛に飢えている」状況に至らしめた、ある種のコンプレックスであったりスティグマであったりを白日のもとにさらさなければならなくなる。それはその対象本人にとっては、最も隠蔽したいことであったはず…。
 というわけで原田さん、この「江戸しぐさ」の発案者についても、そこまでは踏み込んでいません。ただ、犯人としてのスティグマをあらためて貼るくらいのところでやめていますね。
 おそらくはそこに、私の向山洋一に対する私怨のようなものはないからでしょう。つまり、他人だからです(深い関わりのあった武田崇元さんには私怨ありかな…苦笑)。
 昨日の左巻さんも同様の姿勢だなと感じました。批判、攻撃はしたいけれども、いい人ではいたい…なんて言うと失礼でしょうか。
 私も基本そういう人間です。人に批判されたり、嫌われたりするのはいやですからね。
 それにしても、「江戸しぐさ」とはまた、面白いものを作り上げましたね。感心です。そして、それを受け入れるだけの腐敗が現実にはあると。昨日の水の話もそうです。そういう世の中の間違いに敏感な人たちが「嘘つき」になるのかもしれません。
 それにしても、学校のセンセーというのは騙されやすい人種ですね(苦笑)。それだけ「世間知らず」なのでしょう。
 ちょっと複雑な気持ちになった昨日、今日でありました。

Amazon 江戸しぐさの正体

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2014.10.17

『水はなんにも知らないよ』 左巻健男 (ディスカヴァー携書)

Th__20141019_85555 「からの伝言」の江本勝さんがお亡くなりになりました。とても楽しい方でした。なんとなく寂しくなってしまいますね。
 最初にお会いしたのは5年くらい前でしょうか。ある会である方とお話しているところにヌーっと乱入してきました。このおっちゃんおもろいなあと思ったら、「江本勝さんだよ」と教えられびっくりしたのを思い出します。
 昨日付の記事でちょうど耀わんのお水の話を書きました。平和への祈り、王仁三郎の言霊が水を通じてシリア本国へ伝わってほしい…。
 もちろん私は「科学的」な意味をそこに見出しているわけではありません。かと言って「宗教的」な意味でもありません。
 「科学」と「宗教」を対立的にとらえるつもりもありませんし、どちらが正しいとかにもこだわりません。
 ですから、私は江本さんの「水の物語(ポエム)」に対しても、それほど抵抗はありませんでした。
 しかし一方では、この本の著者の左巻さんのような科学的な視点も忘れていないつもりです。もともと理科の教員になりたかった私ですから、この本で指摘されているような教育へのニセ科学の侵入には、人一倍敏感でもあります。
 このブログの読者の皆さんの中には、山口のような考え方、あるいは人脈を持った人間が教師をやっているのは危険だと思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、ある意味では心配ご無用。ここに書いているような話は、教室ではほとんどしません。あえてしないというよりは、する必要がないと思うからです。
 ウチの学校は私学ですし、禅宗のお寺を母体としていますから、ある程度の宗教教育、つまりは「非科学的」な話もできる環境ですけれども、まずは「科学的」な思考、「論理的」な思考、そしてリテラシーを身につけることが大切と思っています。
 その上で、これだけでは世の中生きていけないよ、もっと深淵なる世界があるよ、ということだけは伝えます。それは大人になりながら自分で追究しなさいと。
 ですから、この本で批判されているTOSSについても左巻さんに同意します。というか、何度か書いてきたように、私のTOSSに対する嫌悪感は、向山洋一に対する少年期の私怨によるものなので(笑)、しょうがないですね。そう、私にとってはTOSSこそが科学を装った宗教に見えてなりません。
 しかし、最近の私にとっては、「科学」も「宗教」も「思想」も「商売」も「政治」も、みんな比喩(物語)にしか見えません。その向こう側にある「本質」へのアプローチの方法の違いにしか感じられないのです。
 一番いけないのは、それぞれの方法において、筋が通っていないことでしょう。
 私の尊敬する知り合いの科学者や教育者や事業家や政治家たちは、皆その点をよく理解しているというか、自然体として持っている。だからそれぞれの専門分野で筋を通しながら、実は自分の専門以外の存在をも理解し尊重している。
 そういう意味で、私も「水」にはいろいろなことを学んでいます。水はなんでも知っているとも言えるし、なんにも知らないよとも言える。それでいいと思います。逃げではなく本気でそう思っています。
 江本さんのご冥福をお祈りいたします。

Amazon 水はなんにも知らないよ


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2014.10.16

シリアの大使さまに…

Th_4f2f36d6f10322ed0421f3fdf8a01e4e 日、某所でたまたまシリア・アラブ共和国の駐日代理大使さまとお隣の席になりました。
 つたない英語でのコミュニケーションでしたので、あまり深いお話はしませんでしたが、やはり最近のシリア情勢については、お心を傷めておられました。それはそうですよね。
 人命に関わることはもちろんのこと、世界的な聖地が破壊されていることに関しても大変辛いとおっしゃっていました。
 あとで調べて分かりました。聖地とはシリアではなくイラク国内の「預言者ヨナの墓」のことのようですね。
 あなたはシリアのあたりに来たことがありますか?と聞かれました。もちろんいったことはありません(最初なぜかYESと答えてしまったのですが…)。
 しかし、気持ちはあの地域に親しみを感じています。
 というのは、最近何度も話題に出てくる宮下文書も出口王仁三郎の霊界物語も、あのあたり、すなわちメソポタミアを舞台とするような記述が見られるからです。
 メソポタミアと言えば、世界最古の文明と称されています。たしかに世界史的にはそうとも言えましょう。
 一方で、日本とあのあたりとの関係についても、いろいろと奇説、珍説が展開されてきました。
 冷徹な目で見ますと、まあ、「世界最古」どうし、どっちの方が古いのか、あるいは両方くっつけてしまえ的なノリだと思いますが、たしかにロマンのある妄想ですね。
 もちろん、太古とは言え、西アジア、中央アジアと極東の島国に全く交流がなかったとは言えないでしょう。のちのシルクロードを考えても、ある意味では現代よりも自由な交流、交易が行われていた可能性がある。
 ですから、先ほどの「妄想」たちについても、私にとっては史実かどうかというのは別として、比喩としてとらえているので、頭ごなしに信じたり否定したりはしません。
 メソポタミアと言えば、シュメールに関する日本独特の伝説も面白いですね。天皇家との関係です。学術的にはトンデモでありますが、仲小路彰や出口王仁三郎の「グローバリズム思想」からすれば、全ては一つ、ノーボーダーであります。やはり否定できませんね。
 王仁三郎は「宗教のない世がみろくの世」と語ったといいますが、このたびの「イスラム国」問題は、ある意味象徴的ですね。「イスラム国」という呼び方にはいろいろな問題があります。
 イスラムの中にも多数の派があるのは当たり前。しかし、彼らは彼らこそが「イスラム」であるという自負があるので、「Islamic State」と名乗るのでしょう。
 王仁三郎は宗教自身を否定しているわけではありません。どちらかというと、宗派による争いを否定しているように思います。宗教をなくすとは、分派した各宗教がもとの一つの神に帰ることなのでしょう。
 そんな願いもこめまして、シリアの大使さんには、王仁三郎の耀わんでお水を飲んでいただきました。たまたま持っていたんです。というか、そういう予感がして持参していたんですよね。
 王仁三郎さんの言霊の波動が水を通じて大使さんの魂に染み入り、そして、本国へ伝わってくれることを祈ります。

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2014.10.15

踏み切り・割り切り・思い切り

Th__20141016_84818 日は、元全日本女子バレー監督柳本晶一さんのお話を聴く機会を得ました。
 さすが世界のトップレベルでお仕事をされてきた方、大変説得力のある内容でした。
 不器用な選手ほど一流になる可能性がある、目標設定とキャスティングの重要性、扱いにくい変わり者を活かす方法…いろいろ参考になるお話がありましたが、中でも心に残ったのは「三つのキリ」。
 すなわち「踏み切り」「割り切り」「思い切り」です。
 この三つのキリ、経営の世界では時々聞きますよね。どこかの社長さんのお言葉だったような記憶があります。
 企業の世界での「経営哲学」がそのまま「人生哲学」になることは多い。と言いますか、「人生哲学」が先で、それが経済にもスポーツにも芸術にも当てはまるということですね。
 特に資本主義市場経済やスポーツのような「勝負」の世界は結果がはっきり分かりますからね。
 ちなみに今日の演題は「人生、負け勝ち」。負けなければ最終的な勝ちは得られないということでありましょう。
 失敗から学ぶということもよく言われますが、結局はその「負け」の気分からいかに立ち上がるか、それが大切だということです。そこではたしかに「踏み切り」「割り切り」「思い切り」が大切でしょう。
 その三つのキリの順番というのも、その時々によって、あるいは分野によって違うような気もしました。
 パブリックにせよプライベートにせよ、私の仕事においても三つのキリは重要です。私は「割り切り」は得意ですね。「踏み切り」はちょっと苦手。「思い切り」は不得意です(苦笑)。
 「思い切り」というのは、二つの意味がありますね。勇気という意味の「思い切り」と、めいっぱいやるという「思い切り」。柳本さんは後者の話をされていました。私が苦手なのも後者です。
 今調べてみたら、「三きり」はダイキン工業の創設者山田晃さんの言葉だそうです。そして、「三きり」のほかに「二きゅう」ということをおっしゃっていたらしい。
 それは「研究」と「普及」。日々の研究が大切なのはもちろんですが、せっかくいいものを作ってもそれを普及させなければ意味がないと。
 なるほど、それもまた全てに通じることでしょう。教育界でもそう。しっかり学力や人間力をつけてやっても、実際の社会で活躍できるかどうかは別問題。
 今日の柳本さんの話で言うなら「キャスティング」ですね。柳本さんの言う「キャスティング」とは、単なる配置、配役ではなく、「プロデュース」に近い。
 作るだけでなく、それを活かすということは本当に難しい。その「キャスティング」にこそ「踏み切り」「割り切り」「思い切り」が必要なのでしょう。
 私はまず、めいっぱい努力をするという「思い切り」ができるようにならねば…。

 

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2014.10.14

御来光の道〜レイライン〜

Th_140923_0535 日の富士山でのイベントでお会いした方から、左の写真をお送りいただきました。
 上総一宮である玉前神社の釣ヶ先海岸祭典場から、今年の秋分の日の撮影された日の出の写真です。
 その方からうかがった「御来光の道〜レイライン〜」のお話に、大きなひらめきと言いますか、予感がいたしました。
 私もある程度レイラインのことは知っていましたが、今までは「だからなに?」というようなちょっとさめた目で見てきたことをここで告白します。
 しかしこのたびは、なんでしょうね、ものすごい霊感がした。あっ!という感じ。だいたいこういう時は何かあるものです。
 で、その「御来光の道〜レイライン〜」というのは何かといいますと…いただいたメールから引用させていただきます。

…この日の日の出の位置と玉前神社を結んだ延長線上には、寒川神社、富士山頂、七面山(山梨県)、竹生島(琵琶湖)、伊勢神宮の元伊勢・皇大神宮(京都)、大山の大神山神社(鳥取県)、そして出雲大社が並び、「御来光の道〜レイライン〜」と呼ばれています…

Daisenfuji
 私は全くの不勉強で、富士山と出雲大社がほぼ完璧に東西に並んでいることくらいしか知りませんでした。
 今回、このようなお話をうかがう中で、特にあっ!と思ったのは寒川神社と元伊勢です。
 というのは、このたびの富士山でのイベントにも大きく関わっており、私のライフワークの一つでもある宮下文書の内容とリンクするところがあったからです。
 宮下文書を研究(というほどでもありませんが)してきた中で、大きな謎というか疑問になっていたことがいくつかあったのですが、そのうちの一つが、「寒川神社」と「丹波」という富士山以外の場所に関わる伝承でした。
 遠く遠く離れた「丹波」の伝承が書かれているのはもちろん、比較的近くとは言えどほとんど社会的、文化的に交流のない「寒川神社」がなぜここまで重要視されているのか。
 私には30年間それがよく分からないできた。もちろん、今でもはっきり分かったわけではありませんが、正東西にわたる太陽の道の上にそれらがつながること、さらには宮下文書や出雲と霊的に強く結ばれている出口王仁三郎のことを想起すると、これは偶然ではないなと直観せざるを得ないわけです。
 大本関係に詳しい方はご存知と思いますが、大江山の元伊勢皇大神宮は「水の御用」の聖地です。そして、その2ヶ月後、出雲において「火の御用」が行われました。この二つの御用は、大本においては、立替え立直しの「型」の御用として非常に重要なものとされています。
 ちなみに宮下文書による富士高天原の中心地には「お伊勢山」という聖地があります。ここはここで「元伊勢」であるという伝承を持っているのです。不思議ですね。
 私にとってはこのたびの「御来光の道〜レイライン〜」との出会いは、何かのスタートになる予感がします。研究はこれからです。これがいったい何の比喩(型)なのか…。
 とりあえずは、玉前神社から出雲大社まで、ゆっくり太陽の道を旅してみたいなあと思いました。
 いただいたメールによれば、このラインは日本を飛び出して世界にもつながっているとのこと。多くの世界遺産を通ってグランド・キャニオンまで行き着くのだそうです。面白いですね。
 宮下文書、出口王仁三郎、そして仲小路彰という、私の中での太い霊統があるわけですけれども、その仲小路彰が「日本は光の国」、「21世紀は太陽の時代」と言っていた意味がよく分かってくるような気がしますね。
 私にとって、この三つの研究対象は、光によって統一され、しっかり未来を照らしてくれるような気がします。そして、その光は富士山から発するように予感するのです。
 なんかワクワクドキドキします(中二病極まれり!という声が聞こえてきますね…笑)。


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2014.10.13

新日本プロレス 『KING OF PRO-WRESTLING』 (両国国技館)

Th_img_3434 く予定外に急遽参戦。参戦と言っても、昨日のように実際にステージ(リング)に上がったわけではありませんよ(笑)。
 台風が近づいているのに東京に行くとは!と怒られそうですが、実は台風が来ていたから急遽参戦ということになったのであります。
 というのは、上の娘の所属するジャズバンド部が国文祭で秋田に行っていまして、カミさんは実家への帰省もかねて下の娘を連れて応援に行ったわけです。
 で、帰りが今日の遅くになるということで、台風が直撃する時間帯となると、風雨に弱い中央線や中央道が使えなくなってしまい、山梨に帰ってこれなくなるかもしれないなと。
 そこで、やや早い時間帯に私が車中泊用の車で東京入りをしてレスキューしましょうということです。
 というわけで、先方の到着時間より5時間くらい早く東京入りしてしまったので、さあ、どうやって時間を潰そうかと考えたのですが…そうだ!今日は新日の両国大会だった!ネットで観戦しようかと思っていたけれども、せっかく東京にいるのだから生で…。
 さっそく両国のパーキングに車を駐めまして、当日券を買いに走りました。そして、全く期せずしての参戦と相成りました、ハイ(笑)。
 新日の生観戦、実は実は大変久しぶりでございます。もしかして30年ぶり?
 そう、毎年何回かはプロレスの生観戦してきましたけれども、ほとんどが非新日だったのです。いや、特別に新日が嫌いとかそういうわけではありません。実際、ネット観戦やテレビ観戦は圧倒的に新日が多かった。しかし、どういうわけか生で観ようと思わなかったのですね。
 その理由が今日、ちょっと分かったような気もしないでもありません。
 ということで、感想を一言で言います。お腹いっぱい。ちょっと飽きたかも…です。
 今、新日本が人気であり、ある意味一人勝ち、ファンの数も熱さもたしかにハイレベルだなと思いました。
 経営的にある程度安定しているからこそ、所属選手も多くなります(最近ではDDTのケニー・オメガ選手も入団しましたね)。そのせいもあって、第1試合からメイン級の選手がジャカジャカ登場します。
 ちなみに第1試合は次のようなカードと結果でした。

真壁刀義、永田裕志、本間朋晃、○飯伏幸太

7分48秒 フェニックススプラッシュ→片エビ固め

カール・アンダーソン、ドク・ギャローズ、バッドラック・ファレ、●タマ・トンガ

 もう私はけっこうこのメンバーだけでもお腹いっぱい(笑)。その後、タイトルマッチ級の試合が7試合も続きました。第2試合から選手権ですからね。ゴージャスすぎます。
 まあ、それを5000円でたっぷり堪能できるのですから、満足と言えば満足です。しかし、なんというかなあ、昭和のプロレスの残影に囚われ続けているオジサンとしては、全体のリズムが早すぎるし、変化が少なすぎる。
 興行全体としてもそうですし、試合もそう。ハイスパートの連続で疲れちゃった(苦笑)。
 そういう意味では、イマイチ盛り上がらなかったメインのAJスタイルズと棚橋弘至のIWGP戦は悪くなかった。AJの試合巧者ぶり、あるいは受け身のうまさには、なんか懐かしい感じがしましたね。
 あとは、ちゃんと人生を見せられるか。煽りV抜きでも、試合内容で人生を表現し、感情移入を誘えるか。そういう意味では、やはり石井智宏選手が圧倒的に良かったですね。
 しかし、それもあれだけゴージャスな中だからこそ逆に目立っていたのであって、案外普通のレベルなのかなとも思いました。
 ま、その他にもいろいろ言いたいことはありますが、それは私が時代についていけてないだけのことで、今の選手やファンには責任はありませんよね。
 ただなあ、若手のシンプルな試合とか、ベテランの脱力した試合とか、ちょっとしたお笑いの試合とか、プロレスってもっと多様性があったような気がするのですが…。

KING OF PRO-WRESTLING 結果など

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2014.10.12

『日本の世明け』 瀬戸龍介

10177247_688833247870511_5237699494 れは本当に素晴らしいアルバムに違いありません。
 ありがたいことに私は、このアルバムの中の数曲を瀬戸さんのスタジオにて拝聴する機会を得ました。一聴しただけで、日本人としての魂を揺さぶられる素晴らしい音楽でした。
 そこには神(宇宙・地球・自然・人)に対する畏敬の念、いや、もっとストレートに言うなら「愛」が満ちています。そして、「音楽」という「宇宙の振動の比喩」によって、その「愛」は神(宇宙・地球・自然・人)に鳴り響き、私たちにも大きな「愛」を与えてくれます。
 本来、音楽、特に「歌」というものはそういうものなのでしょう。
 今日、本当にありえないことなのですが、瀬戸さんの「不二 高天原」の生演奏に私も参加させていただきました。
 昨夜、懇親会で偶然(必然的に)お会いし、突然「明日やらない?」とお誘いを受けまして、怖いもの知らずの私は「いいですよ!」と快諾してしまいました。オープニングアクトという大役。
 私が演奏した楽器は八雲琴。まさに日本の「歌」の原点となった琴です。
Th_10420385_693921540699458_5144033 他に、ギターの高谷秀司さん(大学の先輩だった!)、笛の森田和美も演奏に参加されました。私は本来最初の即興の部分だけの参加の予定でしたが、ステージからはけるタイミングを逸し、「不二 高天原」の演奏にまで参加することに。
 まったくの想定外でしたが、一度スタジオで聴かせていただいた曲だったことと、もうああいう状況になると、ある種のトランス状態で、音楽は未来からどんどん流れてくるのです。案外、気持よく演奏させていただきました。
 お耳汚しになってしまったかと心配しましたが、演奏後、瀬戸さんにも高谷さんにも「良かったよ!」と言っていただき一安心。なんとも貴重な体験をさせていただきました。
 今までいろいろな楽器をやってきましたが、どうも私の天命の楽器は八雲琴のようですね。なんとも不思議な感じがします。
 さあ、ここ富士山麓で披露された「不二 高天原」はもちろん、私の聴かせていただいた「蘇る!出雲」、「はるかなる伊勢」も本当に日本人の心、魂の源泉に湧き出すような素晴らしい曲です。
 ビルボードで日本人としては初めてTOP10に入り、その後はユーミンの音楽作りにも深く関わったり、洋楽や邦楽、そして世界中の音楽で常に一流のお仕事をされてきた瀬戸さん。彼がいよいよ到達したのは、まさに世界中の音楽を総合した、いや世界中の音楽のルーツである「大和の音」だったわけです。
 その壮大な音楽の旅の終着点という意味でも、本当に素晴らしいアルバムとなっていることでしょう。
 音楽のジャンル分け、あるいは優劣など、本当につまらないコトであると再認識させられます。
 「大和の音」は「もののね」です。無限の大宇宙からやってくるのが「モノ」です。人間の小さな脳みそな中で構築された「コト」とは、そのスケールもエネルギーも違います。
 皆さんもぜひ先行予約されんことを。

瀬戸龍介公式

「日本の世明け」先行予約


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2014.10.11

『富士王朝の謎と宮下文書』 伊集院卿 (ムー・スーパーミステリー・ブックス)

20141013_74221 の人生を変えてしまった稀代の偽書「宮下文書」。富士吉田市明見地区に残る膨大な古文書群。出口王仁三郎にも大きな影響を与えている謎の文書(そのへんに関してはこちらの私のインタビュー記事をご覧ください)。
 先ほど「偽書」と言ったのは、全ての歴史書は「偽書」だという皮肉であります。まあ、単純に「物語」と言った方がいいのかもしれません。「富士高天原物語」。それでいいような気もします。
 なんだかんだこのアヤシい文書に関わって30年経ちました。こういう文書に興味も持つ人たちは、我こそ真実を知っている!と思い込みがちですが、実は私もご多分にもれずそういう中二病的な者でして、誰よりもこの物語の本質を知っているつもりになっています。
 そんな中二病な私を形成するのに大変大きな力を発揮したのが、「学研ムー」と「八幡書店」であります。
 今日、とうとうそれらの両巨頭とお会いしました。ムーの編集長三上丈晴さんと八幡書店社主武田崇元さんです。
 実は今日からFUJISAN地球フェスタ”WA”2014という大きなイベントが開催されるのですが、なんだか知らないうちに(いや、なんにもしていないのに…笑)私が副実行委員長になっていまして、まあこれもご縁ですからね、お招きいただいたイベントには本業の合間を縫ってできるかぎり参加することにいたしました。
 夜にはホテルマウント富士という、私には特に因縁の深い場所で懇親会があるということで、行ってまいりました。知り合いも多くみかけましたが、新たなご縁もたくさん。名刺の山ができました。
 そんな中に三上さんと武田さんも。いろいろ楽しくお話いたしました。
 このイベントの中心になっているのが、不二阿祖山太神宮です。宮下文書に書かれている浅間神社以前の神社。日本の、世界の中心だったとされる神社です。それを再興せんとしている渡邊さんとその周辺の方々が、なかなか面白い人物でして、いろいろ意見交換をさせていただいています。
 もちろん私は私の考えや経験、そして立場がありますから、意見の全てが一致しているわけではありません。そういう点ではある意味私は面倒臭い人間なので(笑)、今までいろいろ意見交換した方は、最終的には私を避けるようになる方が多かった中、彼らはそんなことは全くなく、私の意見もよく聞いてくださるし、アドバイスにも応えてくれるのです。
 特に地元と人たちとの関係は非常に難しいので、私がある程度間に入ってクッションの役になれればいいと思っています。お互い誤解が多いので。
 と、そんなこともあって、世間で再び(三度?)宮下文書ブームが起きつつある今、素晴らしい本が出ました。三上さんにお聞きすると、ムーに宮下文書の記事を書いた方がまとめたものだとのこと。
 今までの研究の成果が詳細にわたって、また偏りもなくまとめられていて、非常に感心しました。入門書としては最高のものでしょう。
 この本が出た春先には、「伊集院卿って山口さんでしょ?!」と何人かに疑われましたが(笑)、違いますよ。私じゃこんなに上手にまとめられませんし、もっと偏った内容になってしまいます。
 もう私は、この「宮下文書」がホンモノかニセモノかなんていう論議には興味はありません。出口王仁三郎の霊界物語や仲小路彰の書物と同じように、そこに未来的な意味を見出したいのです。最も古いことが書かれているというのは、実は最も未来的なことが書かれているのと同じ意味があるのです。
 そういう意味でこのアヤシい偽書(物語)に興味を持った方は、ぜひこの本を読んでいただき、その上でご連絡ください。現地を巡りながらいろいろお話をしましょう。

Amazon 富士王朝の謎と宮下文書

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2014.10.10

『1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち』 (NHK BS1)

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 1964東京オリンピック開会式から50年。素晴らしい番組を観ることができました。
 う〜ん、なんだか涙が出てしまった。見逃さなくて良かった。
 今日夕方、絵本作家の仁科幸子さんからお電話をいただき、番組のあることを知りました。
 仁科さんは、この番組にもご登場になった永井一正さんのお弟子さんというか、お仕事仲間でいらっしゃいます。
 永井さんはこのたび2020東京五輪のシンボルマークの審査委員となられました。そして、今日のこの番組で紹介されていたとおり、半世紀前の東京五輪の際にはコンペに出品されていました。私はその作品を今日初めて見ました。折り紙と聖火トーチ…なるほどと思わせる斬新かつ普遍的なデザイン。
Th_100218_08477x700 しかし、その素晴らしい永井さんのデザインを、ある意味軽く凌駕してしまったのが、この亀倉雄策さんのあまりに強力なデザインでした。
 勝見勝さんと亀倉さんを中心とする「デザイン室」の仕事があれほど多岐にわたっていたとは…驚きでした。それを若い力で見事に乗り切ったのですね。横尾忠則さん、田中一光さんなどなど…2020年のオリンピックもまた、若い力の「爆発」が見られることでしょうね。
 亀倉さんが衝撃を受けたというカッサンドルの「強盗」の話も出てきました。以前私が永井一正 ポスター・ライフ 1957-2014に紹介した話です。そして、世界に追いつこうとした亀倉さんが到達した「日本的なるもの」。感動的でしたね。
 私もたまたま亀倉さんについて書いた記事に「国際的なイベントであるオリンピックにおいては、その開催国らしさ、すなわち『日本らしさ』とともに、それぞれの参加国らしさ、さらには全てを抱合したある種の『地球らしさ』をも要求されます」と書きました。
 次なる東京五輪において、永井さんを中心とする日本のデザイナーの皆さんが、はたしてそれをどういう形で実現してくれるのか、非常に楽しみであります。
 そして、それは必ずや実現し、その瞬間、再び世界に大きな衝撃を与え、新たな文化の形が示されるにちがいありません。
 「日本的なるもの」が「地球的なるもの」と同義になる…こんなことを言うと、自国中心主義的にとらえられてしまうかもしれませんが、もともと「日本的なるもの」は「地球的なるもの」であったと信じる私としては、ようやく本来の姿に戻るということであると考えているのでした。
 ピクトグラム…これもまた、非常に日本的であり、かつグローバルな発明でした。再発見とでも言いましょうか。
 日本は「言霊」の国と称され、まるで「ことば」に特別な力を認めているように解釈されていますが、これは実は大きな間違いです。
 日本語学的な見地に基づく、私の「モノ・コト論」においては、言語に限らず人間の脳内でイメージ化、記号化されたものは全て「コト」です。
 ですから、「コトタマ」には「事霊」という漢字が当てられることの方が多かったのです。江戸の国学者の言葉に騙されてはいけません。
 そうしますと、実は「言語」「地域」「時代」を超えたピクトグラムこそが、本来の「コトタマ(表象のエネルギー)」を持ったものであることが分かりますよね。
 実際、日本発の世界的(地球的)文化となって定着し、あるいは変化成長しているわけですから。
 おそらくは、6年後の五輪においては、ピクトグラムを超えた「コト」が発明されると予感しています。マルチメディアの時代、日本ならではの自由な発想で、それは実現するでありましょう。それも非常に楽しみです。
 デザインとは「未来を描く」ものです。人々の心に未来へのモチベーションを喚起するのがデザインの力です。すなわち命のあり方を最もシンプルに見せるのがデザインのあるべき姿なのです。
 永井一正さんという、それを世界で最もよく理解しておられる方が2020年に向けて、デザインの中心人物になられたことは本当に喜ばしいことです。
 先ほども紹介したこちらの記事には、半世紀前のデザイン室の素晴らしいお仕事の一部を紹介してあります。私は生まれてまだ3ヶ月くらい。私の父が大切に残しておいてくれた当時のホンモノたちです。
 父の思いもまた、デザインという命の力に乗って、50年後こうして私に継承されているのかもしれませんね。
 涙、涙です。私も微力ながら6年後へ向けて頑張ります。
 


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2014.10.09

『スサノヲの到来–いのち、いかり、いのり』 (足利市立美術館)

20141010_104742

 知です。実に面白そう。私もぜひとも行きたい企画展。東京にも巡回するようですが、待ちきれないので近々足利に出かけようと思っています。
 ノーベル賞の中村さんが、研究開発の原動力は「怒り」だとおっしゃっていました。これはまさにスサノヲ的な力ですね。
 公式HPからコピペさせていただきます。

 大地を揺るがし草木を枯らす荒ぶる魂と和歌の始祖としての繊細な美意識を兼ねもつスサノヲ。スサノヲは、天災として想起されますが、漂泊の神であり、既存のものを原点にもどし、新しい世界を開くはたらきをもっています。見落としてはならない点は、何かを気づかせる喚起力と、事態を反転する起爆力、そして何よりも芸術家に霊感をあたえるその力です。
 本展は、縄文時代から現代にいたるおよそ5000年にわたり現れたスサノヲ的な表象をたどることによって日本人の深層に迫るものです。いのちの与奪を司る縄文の神のすがたは、現代の作品にも共鳴し、スサノヲの到来を予感させます。また、和歌の始祖としてのスサノヲのはたらきにもとづく文学や芸能、西行や芭蕉、円空らを通して、うたとさすらいにより成就される祈りや表現を探ります。それとともに、異界を探求した平田篤胤によって提唱された幽冥界を訪ね、その根底に介在するスサノヲと篤胤の危機意識を考察します。さらには、いのちの文脈から鋭い文明批判を実践した田中正造、南方熊楠、時代と自身の危機をスサノヲにより乗り越えた折口信夫の生きざまを紹介し、彼らを突き動かした清らかな怒りのみなもとを探求します。 
 スサノヲは危機的状況下や時代の変換期にその都度、想起されてきました。時代の大きな曲りかどを迎えた現代にあって、私たちの深層からスサノヲは再び語りかけてくることでしょう。


出展者:ヨルク・シュマイサー/棟方志功/狩野時信/八雲華溪/月岡芳年/平沢定/古澤岩美/谷本蘇牛/手錢官三郎/松本喜三郎/大野明山/中山琴主/出口王仁三郎/出口ナオ/木食知足/高野山法印大圓老師/鵬海/秋山知徳/円空/川柳金蔵/貞秀兼次郎/西行/松尾芭蕉/本居宣長/平田篤胤/田中正造/南方熊楠/折口信夫/岡本天明/金井南龍/成瀬杏子/牧島如鳩/長谷川沼田居/岡本太郎/藤山ハン/恵藤求/古西律 /若林奮/清水晃/多和圭三/黒川弘毅/岡田真宏/橋本倫/黒須信雄/佐々木誠/竹内啓/赤木仁/タカユキオバナ/栃木美保/藤白尊

 どうですか。なかなか素晴らしい紹介文ですね。スサノヲ的なモノが必要とされている時代。スサノヲ的な何かが復活する時代。
 この前の御嶽山と富士山にもそのヒントを書いておいたつもりです。
 そういえば、以前「怒り」=「生かり」という記事も書きましたね。「怒り」とは「自然と生きる力が湧いてくる」こと(ちなみに「おこる」=「起こる」です)。
 出展者がすごいですね(笑)。いちいち挙げるまでもなく、とんでもない人たちです。
 今のワタクシ的には、平田篤胤、出口ナオ、王仁三郎や岡本天明といった霊統はもちろん、中山琴主にも興味がありますね。鎌田さんの記念講演も聴きたいなあ。
 皆さんもぜひ!

足利市立美術館公式

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2014.10.08

ICTと農業

 張メッセで CEATEC JAPAN 2014 が開かれています。行きたいけれど平日なので無理です。
 私の職場、つまり教育現場でもICT(情報通信技術)の導入が叫ばれていますが、正直言って今の方向性は間違っていると感じています。教材のICT化にはあまり興味がありませんし、実効も期待していません。それについてはまたいつか書きます。
 ICT活用分野として私が期待しているのは、昨日のノーベル賞関連記事にも書いたように、農業分野です。
 なんでお前が農業について語るのだ!と言われそうですね。なにしろ農業とは全く縁のない生活をしているからです。
 いや、実はそれこそが私の「新」農業へのモチベーションになっているのです。そう、正直言ってしまうと、私は「今の」農業には全く関心がありませんし、絶対にやりたくない職業です。
 土まみれで腰を曲げての重労働なんて絶対いやです。天候や病害虫などに左右されるような仕事はいやです。
 だからこそ、一方では農業に従事している方を心から尊敬しています。
 しかし、私はダメなのです。もう本能的にダメ。なんでここまでイヤなのかというくらいイヤ。ほとんど異常なくらいの嫌悪感。
 なのに、いや、だからこそ「未来の」農業にはとても興味があるのです。ここまで「今の(今までの)」農業を忌避するということは、何か自分には天命があるのではないか…。
 ということで、私の一つのイメージは「農業の工業化」です。そこにICTが深く関わってきます。
 よく分からないという方もいらっしゃると思いますので、今年のCEATECでも紹介されている富士通さんの「会津若松Akisaiやさい工場」での「低カリウムレタス栽培」を紹介する動画をご覧いただきましょう。
 三つ目の動画の最後の方には、昨日少し書いた光の波長の調整実験も出てきます。
 こういう農業だったら私は大いにやりたい。仲小路彰は原子力農業にまで想像の翼を広げていました。なるほど、地上の太陽である核融合炉発電による農業は一つの理想ですね。
 そにれしても、CEATECでは原子力関連の展示がすっかりなくなってしまいましたね。残念です(ちなみにワシは原発には反対の賛成なのだ!)。

富士通がレタスを作っている?その最新の野菜生産方法とは

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2014.10.07

青色LEDの未来は…

Th_nbj001jpp017987184 色LEDの開発に貢献した赤崎さん、天野さん、中村さんの3名のノーベル物理学賞受賞のニュースが飛び込んできました。
 世界に与えた良きインパクトを考えれば当然の受賞とも言えましょうが、いわゆる「発明」が物理学賞を獲るというのは、ちょっと意外な感じもしますね。
 いずれにせよ、日本の技術力や研究力を示す良い機会となり嬉しいかぎりです。
 しかし一方で、中村さんが古巣の日亜との間に繰り広げた争い、そしてその結末としてのアメリカ移住を考えると、単純に喜んでばかりはいられません。
 中村さん自身もおっしゃっていましたが、これは単純に日米の文化的相違です。特に教育環境の違いは大きい。
 日本は、みんなが平均的な力をつけ、集団で何かをやり遂げることを目指す教育をしている。アメリカは、個性を伸ばし、各自が能力のある分野で一人でなんでもやってしまうことを目指す教育をしている。中村さんはインタビューでそう答えていました。
 たしかにそういう傾向はありますね。そして、中村さんの言うとおり、一概にどちらがいいというわけではない。
 ただ中村さんのような個性を持ってると、たしかに日本では生きにくいかもしれない。しかし、青色LEDを日本の会社にいる時に開発したことは事実であって、これが自由な研究開発の場であったらはたして成し得たことなのかは微妙です。
 ある意味、抑圧され、恵まれない環境の中だったからこそ成し得た、いや意図を超えて起こった奇跡とも言えましょう。開発というより発明、発明というより発見。
 ちなみに今日は、この朗報の前に、早稲田大学が小保方さんの学位を取り消すというニュースが流れました。これもまた、日本的集団の中で起きた事件でしたね。なんとも象徴的な日となりました。
 さて、私たちの生活になくてはならなくなった青色LED。身近なところにも随所で使われていますが、私として期待しているのは農業分野への活用です。
 意外に思われるかもしれませんが、私は農業の工業化に大賛成の立場です。5月に「農業の工業化」という記事を書いていますね。あの時お話をした方は、まさにLEDの開発製造をしている会社の社長さんでした。
 皆さんご存知のとおり、青色LEDが発明(発見とも言える)されたおかげで、光の三原色がようやく揃い、その結果、たとえば白色LEDの製造が可能になりました。つまり、三原色の配合具合によって、いろいろな波長の光を作り出すことが可能になったわけです。
 植物の光合成と言えば太陽光というイメージがあると思います。当然です。しかし、実は植物というのは、それぞれの種によって得意とする波長が違っていたり、それぞれがいろいろな波長に対して特殊な反応をしたり、個性があるんです。
 それをうまく調整してやると、味や大きさや収量や成長スピードを変えることができます。安全性を高めることもできるし、保存期間を伸ばすこともできる。
 太陽光線は非常に多くの波長の光を含んでいます。その一部を人工的に作って、選択的に使うことは、それほど自然の原理からは外れていないと私は思います。
 なんでも原始的自然が良いという考えもまあ理解できなくはありませんが、科学的な産物さえも原始的自然の領域を出ることはありえないという意味では、大きな自然という範疇に収まると考えてもいいのではないでしょうか。
 広く科学という分野は、ほとんど偶然的に確率論的に我々に与えられた「自然の一部」を拡張して理想的な自然を目指すという、本能的な営みと言ってもいいのかもしれません。
 とにかく青色LEDに関わったお三人に祝意と敬意を表したいと思います。これからのマーケティングの方向性においても、日本が世界をリードしていってほしいと心から願います。

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2014.10.06

『じんじん』 大地康雄 企画・主演 山田大樹 監督作品

 い先日、某所で遭遇した大地康雄さんの作品を偶然観る機会を得ました。
 お会いした大地さんはとても物静かで、どちらかというと目立たない感じの方でしたが、さすがは役者さん、この作品での存在感は素晴らしい。役者としてだけではなく、この作品の企画もしたということで、まさに大地さんの集大成のような作品に仕上がっていました。
 どこか寅さんを思わせる古き良き日本のおやじが、不器用ながら悲しくも美しい親子愛の物語を紡ぐ…父娘の偶然の再会も含めて、いかにもなストーリーではありますが、そこに実際の「絵本の里」北海道は剣淵町のリアル性が絡むことによって、けっこううるさい(笑)ワタクシも自然に銀幕世界に入り込んでゆけました。
 私も「父親による読み聞かせ」グループに所属しております。最近はサボリ気味でありますが、やる時はそれなりにやっております。家内は定期的にいろいろなところで「読み聞かせ」をしているようです。
 「読み聞かせ」と言えば、この前書いたばかりの「読み」と「語り」と「話し」と…という記事を思い出しますね。「読み」に「聞かせ」がくっつくとどうなるのか。朗読や語りとはどう違うのか。
 この映画の冒頭の「おばあちゃんの昔語り」に答えは全てあるような気がしましたね。決してテキストの暗誦ではない「語り」。「読み聞かせ」も最後はこの「語り」を目指すべきでしょう。
 あえてここで私の「時間は未来から過去へと流れている」理論を持ち出しますとですね、「読み」は記録の再生なので、過去から未来へ向けて時間が流れるのです。音楽で言えば楽譜を1小節目から右に向けて読んでいくように。
 一方、「語り」は発信者の方もまるで未来から物語が流れてくるように感じているんですね。たとえそれが何度も何度も語ったことのあるストーリーであっても。まるで初めて聴く人が、「次はどうなるんだろう…」とドキドキするように。
 これは音楽で言えば即興演奏…というよりも「降ろしてくる」タイプの演奏ですね。いや、すでにある曲の演奏でもそれは可能ですよ。一流の演奏家は、たとえば楽譜を暗譜していたとしても、頭の働き方は決して音符をたどる形ではない。あくまで音楽が向こうから来るのをしっかりキャッチして、楽器などを通して人に聞こえるように変換しているのです。
 聴く側と反対方向の意識の流れで再生している話者や演奏家の言葉や音は、いくら完璧なテクニックをもっていたとしても、全く心に響かない。やるなら初音ミクレベルの完璧さが必要…いや、彼女はシーケンサーなので、本当に純粋に「向こうから来た」データを再現しているにすぎない。つまり、未来の記憶なんかないんです。だから感動を与えられる(と思う)。
Th_url おっと、映画から話がそれまくってますね。スミマセン。なにしろ、向こうから来るモノをタイピングしているだけなので(笑)。
 役者さんのお仕事も全く同じですね。決まりきったセリフですが、そこに命を吹き込むのは、単なる暗記、復唱ではありません。当たり前ですね。
 そういう意味で、発案、企画から全てを知り尽くしているはずの主演者大地康雄さんの、お芝居は本当にお見事でありました。さすがとしか言いようがありません(逆に他の役者さんには不満も残る)。
 さて、私は、この映画を富士河口湖町のさくやホールで観ました。一日に4回も上映され、それぞれ満員だったようです。
 この地方発の映画、その公開方法も実に地方的。ある意味手弁当ロードショーです。じっくり時間をかけて地方の公民館など、生活に根ざしたコミュニティーの中で感動を共有していこうという試み。スローシネマと言うそうです。
 今では、日本全国どこへ行っても似たようなシネコンが並び、まあそれはそれで映画文化の復興に寄与したのも分かりますが、それでもやっぱりちょっとした寂しさがある。映画の「匂い」「臭い」がしないというか。日常生活に映画が食い込んでこないというか。
 昔のように16ミリをガラガラ音を立てて上映するわけではありません。Blu-rayディスクと大きめのプロジェクターがあれば、日本中どこでも映画館を作ることができる。もちろんフィルム、映写機、映写技師さんの味はないけれども、それでもああやって上映終了後、鼻をすすりながら知り合いと「よかったね~」と語り合い、そしていつもの見慣れた風景に帰っていく時間と空間というのは大切だなあと思いました。
 テレビからネットへ…より個人性の高まる方向に進むメディアと世の中にあって、今こそ「映画的」時間、あるいは「絵本」的時間というのは重要さを増していくのではないでしょうか。
 皆さんもぜひ、この作品を、地元の公民館や体育館でご覧ください。大切なモノと再会できることと思います。

映画「じんじん」公式

剣淵町公式

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2014.10.05

野口健×藤巻亮太『TALK & LIVE in Mt.FUJI』

Th_main_title 巻亮太1年ぶりのふじさんホール。ちょうど1年前、本校の50周年記念にコンサートをしていただいたご縁で、生徒ともどもご招待いただきました。ありがとうございます。
 あの日、初めて藤巻くんとお話をさせていただきました。私はあえて志村正彦くんの凱旋ライヴのことも話題にしました。「ああ、ここだったんだ…頑張らなきゃ」と言ってくれました。
 同郷、同世代ミュージシャンとして、きっと感じるところがあったのでしょう。そして「Your Song」にこめられた深い思い。
 今日のライヴでも、志村くんが「茜色の夕日」を歌ったあのステージで藤巻くんが「3月9日」を歌った瞬間、なんとも言葉にならない感動が押し寄せました。
 私にとっても激動の10年間だったなあ…音楽には自分史を振り返らせる力がありますね。
 今日は懐かしい友人たちとの再会もありました。大切な時間を共有した友人たちです。音楽と、そして「場」のおかげで再会できました。感動ですね。
 さてさて、今日のトーク&ライヴは、第一部が野口健さんのトークショー。まあ、面白い人ですね。やってらっしゃることの重さ(高さ)と、トークの軽さ(低さ?)のギャップがなんとも魅力的です(笑)。
 トークは、先日紹介した『世界遺産にされて富士山は泣いている』をなぞるような内容。軽いけれど鋭いトークでした。観光、行政、静岡と山梨の関係…いろいろ同感です。
61q9x7zzghl_sl500_aa280_ 第二部は藤巻くんのライヴ。レミオロメン時代の曲も「南風」「3月9日」「永遠と一瞬」「ありがとう」と聞かせてくれました。そして新曲も含めたソロ曲の数々。
 懐かしい友人たちとの再会もあったし、また、キーボードが皆川さんだったこともあり、なんとも言えない不思議な感慨に浸ってしまいました。
 皮肉なことですが、それはある種の物足りなさをも喚起してしまいました。そう、昨年はギター1本の弾き語りライヴでしたが、今回はキーボードにサポートエレキギターという編成でしたからね。どうしても、ベースとドラムの音が欲しくなってしまう。ここにリズム隊が入ればもっと表現に力が加わるのになと。
 ヴォーカル力はレミオロメン時代よりもアップしているし、楽曲の深さも増しているからこそ、それをバンド・サウンドの中で聴きたい。正直な感想です。アルバムに期待しましょう。
 第三部は二人によるトークバトル(?)。なんだか男としてちょっと分かったような気がしますね。お二人もほとんどネタにしてましたけど、男同士にはああいう「恋愛」のような関係ってあるんですよ。周りから見るとほとんどアヤシいという(笑)。
 二人はある意味全然違うタイプですし、お互いの専門分野について興味はあるけれども、それほど踏み込んでくるわけではない。どちらかというとお互いの畑については尊敬しあっているのでしょう。同業者だと二人っきりで世界中を旅したりできませんよ。
 なんとなくそれで納得しちゃったんですよね。ああ、藤巻くんは運命の人と出会ってしまったのだなと。それで逆にいろいろ冷めちゃったのかなって。もちろん、志村くんのことも含めて、いろいろタイミングというのがあったと思います。でも、それこそが運命的だったのではないかと。
 もちろんレミオロメンの他の二人についてもそうです。それぞれ運命的な出会いがあったわけでしょう。
 ファンとしては残念だったり、心配だったり、不満だったり、いろいろありますよね。でも、まあしかたないかな。藤巻くん自身の人生だし。健さんはそういう細かいこと(?)に頓着しないし(笑)。
 男ってそういうわがままな生き物なんですよ。
 そんな思い通りにならない息子に、ハラハラドキドキして母性をくすぐられる女性ファンという構図もありかなと思いました(笑)。
 さて、今日のノリですと、来年もまたふじさんホールでやってくれそうですね。次はぜひバンドサウンドを聴かせてほしい。
 旅と一緒で、ぐるっと回ってまたホームグラウンドに帰ってくるかもしれませんし。レーベルも戻りましたし。期待していいでしょう。

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2014.10.04

『BUMP OF CHICKEN クリエイターたちとの創造』 (NHK)

Th_by_nhyscaaaaons NHKによるBUMP特番。ある意味NHKらしくBUMPだけでなく、その周辺のクリエイターにも焦点を当てた番組でした。
 BUMPのWILLPOLISツアーについてはこちらに感想など書きました。そうそう、その記事でオーディエンスの「1拍目、3拍目」という「表打ち」について苦言を呈しましたが、JAPANの10月号のインタビューで、藤原くんがそのことについて語っていましたね。感覚を共有できてちょっと嬉しかった(笑)。
 さて、そのツアーのエンディングにあたるとも言える彼ら初の東京ドーム公演。私は行けませんでしたが、しっかり参戦した姉から感動の様子を伝え聞いておりました。
 その舞台裏を紹介した番組…いや、けっこう舞台表?も充実していましたね。フルで放映された曲がいくつかありましたし。
 それにしてもBUMPは本当に大きくなったなあと思いました。それは感動であるとともに、ある意味大きくなりすぎたのかもなあとも感じました。
 亀田音楽専門学校で校長が「J-POPは総合芸術」と言っていましたが、そういう音楽の総合デパート的な意味を超えて、総合アートとしてのBUMP OF CHICKEN。
 藤原基央という天才とそれを支える普通の3人(失礼…いや、実はここが大切)という絶妙のバランスが醸す魅力が、我々凡人一般人はもちろん、多くの天才アーティストたちの心を引きつけてきたというのは事実です。
 そう、今回の番組で再確認したのは、藤原基央という「神」に集う人間(凡人から天才まで)たちが、皆幸せになって、そしてやる気になっているということです。
 これは私の勝手な考えかもしれませんが、私たちはもちろん、バンドのメンバーもクリエイターたちも、みんな藤くんのファンであり信奉者であって、彼の「愛」のもとにあると、皆いい人になってしまい、また純粋にやる気になってしまうのではないか…そんなふうに見えたんですね。
 実際クリエイターの方々は、BUMPをビジネスパートナーやコラボレイターではなく、大好きなバンドとして見ている、感じているようでした。いちファンとして、自分たちがもらった感動や勇気や幸福感に対して、彼らに何を返せるか、それが仕事ぶりに表れていたように思いました。あるいは単純に協働できるミーハー的な気持ち(笑)。
Th__20141005_113545 それほどに藤原くんの才能と魅力というのは特異なものなのでしょう。理屈を超えた、あるいは極論すれば音楽や言葉さえも超えしてしまう、彼の「神性」のなせる業と言えます。
 そういう意味で私は、BUMPを取り囲む「場」にある種の宗教性を感じざるを得ません。そしてそこに一つの危惧の生まれるのも事実です。
 というのは、そうした「神性」を中心とする人間界の集合には必ず対抗勢力が現れるのと、また内側においても焦点がぼけていくという必然があるからです。
 静岡公演の記事にも少し書いたように、彼らの…というより、彼らを取り巻く人たちの飽くなき挑戦が、もしかすると彼らの「音楽」「言葉」の根源を希釈してしまうようにも思えるのです。
 今回の東京ドームはそういう「凝縮」と「拡散」の一つの極点だったのではないでしょうか。
 よく、武道館や東京ドームという大目標を達成したあとが難しいと言われますが、BUMPにとっては特にここからが難しくなるように予感します。
 個人的にはミクとの共演はとても嬉しかった。生き神がネ申と共演したわけですからね(笑)。さて次はどうしようか。
 よくあるように「原点」「根源」に戻るのか。それともさらに外に開くという奇跡を起こすのか。これからの彼らの生き様に注目です。


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2014.10.03

物語としての歴史

Th_2009100411290211e 日10月3日は中川昭一さんの命日。彼の死とそこに至る過程もまた物語化されているように、全ての歴史は意図的解釈による「物語」であると言えます。historyとstoryは同語源ですし。
 私の「モノ・コト論」に基づく物語観の話を持ち出すと混沌とするので、今日はそこは我慢(笑)。一般的な「物語論」に従います。
 今日、高校3年生の教材として某大学の過去問を扱ったのですが、それがちょうど「物語としての歴史」に関する文章でした。
 鹿島徹さんの「可能性としての歴史−越境する物語り理論」の一部。
 最近それのある部分が「騙り」であったと分かった「慰安婦問題」や「南京大虐殺」という物語に関する内戦(!)に関する考察はなかなか面白かった。
 なるほど、そうした意図的な記憶と忘却(抹殺)の選択こそが、「歴史」という「物語」が創られる原理そのものであり、それが目的的にも結果的にも「共同体」を強化する方に働くというのはよく分かります。
 そういう意味において、教科書問題(歴史に限らず)というのは、まさに「意図」と「意図」の葛藤であって、物語対物語という新たな次元での戦い(それは案外不毛だったりする)を生み続ける「場」であることに気づきます。
 そう、この前、Toshlさんの「洗脳」の記事に書きましたとおり、これは教育という名の「洗脳」の場における異教どうしのせめぎ合いみたいなものですね。どちらが論破するか。折伏するか。しかし、その主体も客体は生徒ではないという矛盾(苦笑)。
 考えてみれば、中川さんの死というのも、もともとが誰かの意図によるものであったことはたしかです。もちろん、それが自殺か他殺か病死かというような議論ではなく、その事実の根底にあったモノが本人以外の意図だったということです。
 私の専門、未来学で言うとですね、歴史というのは過去を記述するのではなく、実は「こうあってほしい」という未来を描いているものです。このような「歴史」を後世の人に知ってほしいという情報であって、その情報が未来人にある意図的な影響を与えることを目的として記述されるのです。
 もし物語としての「歴史」ではなく、事実としての「歴史」というものがあるとしましょう。それもまた未来学的には、未来を意図して創られていくものです。中川さんの死もそうですし、たとえは先の大戦も、意図された未来どうしの衝突であったとも言えます。
 私たちの日常は、そうした無数の「未来への意図」が複雑に絡み合って現象しています。ですから、未来というのは運命論的に、あるいは自然科学的な因果律によって決定されているのではなく、意図のタイミングや強さによってどんどん変化していくものです。
 極論してしまうと、現在起きていることの原因は未来にあるということになるのですが、お分かりになりますか。
 私たちは未来意図的な存在なのです。そした未来の不決定性こそが「モノ」であり、過去は決定した「コト」ということになります。そうすると「モノガタリ」と「フルコト・カタリゴト」の違いも明らかになってきますし、「コト」が「モノ」に影響を与えるという意味での「コトタマ」の存在も実感できることになりましょう。
 …と、結局私的「モノ・コト論」になってしまいそうなので、このへんでやめておきます。
 中川さんは歴史教科書問題に力を入れていました。中川さんが意図した未来は、今実現しているのでしょうか。それともそれを阻む力によって意図された未来の方が優勢なのでしょうか。
 中川さんの意図した未来への物語と、未来に投げかけられた言霊について思いを巡らせてみようと思います。


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2014.10.02

御嶽山と富士山

Th_pk2014100302100006_size0 嶽山の噴火によって命を落とされた方に心よりの哀悼の意を表したいと思います。
 本来、山、特に火山は信仰の対象であり、一般人は遥拝こそすれ登るべきものではなかったのも事実ですが、一方で近代になって山がレジャーやスポーツの対象として開かれたことの意義も大きく、今回のようなことがあると、非常に複雑な気持ちになります。
 私など、日本一の高さの火山である富士山の中腹に家を建てて住んでいるわけですし…。
 ちなみに御嶽山は日本で二番目に高い火山ということになります。
 御嶽山ももちろん信仰の山。教派神道の一つである御嶽教はこの山自体を御神体としています。
 御嶽神社の祭神の第一は、あの時期の教派神道の一つのパターンに則り「国常立」ということになっています。
 かの出口王仁三郎も、一時期大本の中で迫害されて御嶽教に出入りしていました。その時のことが霊界物語にこう記されています。喜楽というのは王仁三郎自身のことです。

『喜楽が御嶽教へは入いつたのは、御祭神が国常立命であるのと、将来神の道を布教するに付ついて見学のために、無報酬でつとめてゐたのである。(霊界物語38巻25章)』

Th_by1y3ipccaagxhw 今回、その御嶽教の建立したと思われる頂上近くの国常立命の石像の頭部が、噴石の衝突によるものか落下してしまったとのことです。
 たしかにかなり衝撃的な映像ですよね。国祖の「みかしら」が落ちるとは…。
 これがどのような意味を持つのか、人それぞれの感じ方、考え方があると思います。私はと言いますと、単純な凶兆としてはとらえていないのです。
 私は先ほどの霊界物語や、その元ネタの一つである(と思われる)宮下文書(富士古文献)を読んできましたので、国祖国常立が「ノダチヒコ」と名を変えて富士山に降臨し世を統治するという流れを知っているからです。ちなみにそのような特殊な神話はその二つの文書にしか出てきません。
 私としては、このたびの御嶽山の噴火と御頭落ちは、国常立の神威が富士山へ遷ることを意味していると感じているのです。
 また、先ほど紹介した霊界物語の38巻というのは、ちょっと面白い意味があります。いわば長大な霊界物語の前半と後半を分けるような巻なのです。前半までは国常立命が主役、後半は神素盞嗚命(スサノオ)と、大きな転換点になっているんですね。
 これはある意味では、大本の中心点がなおから王仁三郎へ移ることにも照応しています。
 いずれにしても、御嶽山と国常立と富士山の物語は、大きな転換点を象徴しているのです。
Th__20140928_83912 御嶽山を北東方面から眺めると継子岳が正面に位置し、まるで富士山のような姿になります。地元では日和田富士と呼ばれているそうです。
 もちろん地学的にも御嶽山と富士山には深い関係があります。御嶽山が噴火したからと言って、次は富士山というのはあまりに短絡的ですが、富士山も同様に生きている山、神山であることを忘れるなという警告であることもたしかでしょう。
 富士山も登るのではなく遥拝する山に戻すべきなのかもしれませんね。そんな山の懐に棲みついてしまった私としては、富士山さまのご機嫌をうかがいながら(ラドン濃度などを計測しながら)、常に感謝と畏敬の念を忘れることなく、野立彦(農立比古)の御神意にかなう生き方をしていこうと思っています。
 

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2014.10.01

『洗脳 地獄の12年からの生還』 Toshl (講談社)

20141002_85600 日、横浜アリーナでX JAPANの4年ぶりの国内単独ライブが行われました。すさまじい盛り上がりだったそうです。
 私、実はX時代の初めての東京ドーム公演に行ってるんです。1990年でしょうか。私もまだ26歳になったばかりでした(笑)。大昔のような気がします。
 その後のXの激動については語るまでもありません。その激動の末の今日の単独ライヴですから、それは本人たちはもとより、ファンの方々、また天国のHIDEさんも感慨深いものがあったことでしょう。
 その激動の中心にいたのはヴォーカルのToshlさんでした。私たちの知らなかった、そのまさに激動の内容が白日のもとにさらされたのは、つい最近のことです。
 私もこの本を読んでみましたが、正直、今まで読んだノンフィクション系の本の中で、最も衝撃的でしたし、ある意味勉強になったと言っていいでしょう。全く他人事という感じがしませんでした。個人的にどうとかではなく、弱さや強さ、あるいは愛や憎しみ、善悪といった人間の本質を抉りだすような真実味というか迫力というようなものを感じて戦慄しました。
 「洗脳」…自分は関係ないだろうと思いがちなこの言葉。しかし実際には、Toshlさんが語るように、誰でもそこにはまる可能性がある。
 そう、私たちの日常には、「洗脳される」だけでなく「洗脳する」可能性も存在しているのです。被害者にもなれば加害者にもなる。
 私なんかよく「先生に洗脳された」と笑いながら言われますし、それに対してちょっと気分がよくなったりします。たしかに教育とはある部分「洗脳」であるべきですし、「洗脳」できる先生は実力のある先生だと言われがちです。
 そこに潜む危険性については現場ではあまり議論されませんね。たしかに周りの先生たちを見ても、優れた結果を出している先生は、ある種の洗脳術を持っています。
 それが、純粋に相手(生徒)のためのものであればいいのかもしれませんが、場合によっては先生自身の自己実現のためという場合もあるかもしれません。それは悪しき「洗脳」なのかもしれない。
 人は、人の心を動かし行動させているという自覚があると気持ちよくなるものです。私が気分よくなったのもそれでしょう。そして、それは「自己洗脳」とも言える状態です。これは危険だなと今回この本を読んで気づかされました。
20141002_90047 Toshlさんの場合、名声とお金という悪魔がそこに関わってきていたので、「洗脳」のスケールも浮世離れしたものになってしまいました。しかし、私たち一般人もスケールこそ違えど本質的には同じようなことを起こしながら生きているのではないでしょうか。
 今、私はとにかくこの本を多くの方に読んでいただきたい。なんでそんなことが起きるのか、自分には関係ないと思った方にこそ読んでいただきたい。読んでいただければ、私たち自身の中に、「洗脳する」側と「洗脳される」側の両方が必ず存在することに気づくでしょう。
 そして、それに気づくことによって、明日からの生き方が変わってくると思います。私はずいぶん変わりましたよ。
 皆さんもなんとなくお気づきのとおり、私は特にそういう危険性のある環境の中で生きていると思います。教育、宗教、政治、哲学、セミナー(研修)などに深く関わることが多いからです。そこを再確認させられました。そして、いろいろと反省したり対策を立てたりしました。
 今の私はまず「お金」には全く執着しないようにしています。カネは悪魔です。いや、悪魔の食べ物です。悪魔につけいられないようにするには、まず無駄にお金を持たないことです。まあ、幸いなことにウチには本当にお金がないのですが(苦笑)。
 先日、Toshlさんの生の歌声を聴く機会がありました。四半世紀前と同じ伸びやかな高音に魅せられるとともに、そこに「洗脳」と「脱洗脳」を経てきた深み、重みを感じることができました。本当に代償が大きすぎたと思いますが、それさえももしかするとToshlさんには必要なことだったのかとも思いました。
 神はその試練に耐えうるものにのみ試練を与える。きっと、Toshlさんには壮大な天命があるのでしょう。応援していきたいと思います。
 先日行われたToshlさんの赤裸々な記者会見の動画を貼っておきます。ご覧ください。

Amazon 洗脳 地獄の12年からの生還

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