『河口湖』 伊藤左千夫
富士北麓にまつわる文学作品は多数あります。その中でも特に私の心をとらえた作品がいくつかあります。
そのうちの一つ、「野菊の墓」で有名な伊藤左千夫の短編随想「河口湖」は、美しい日本語が紡がれる中に、はかなげに美しい光景、旅心に恋心、さらには当地の古伝説が織り込まれ、なんとも魅力的な小品となっています。
今日はその全文を紹介しましょう。ぜひお読み下さい。
河口湖 伊藤左千夫
段ばしごがギチギチ音がする。まもなくふすまがあく。茶盆をふすまの
娘は茶をついで
娘は、お
富士のすそ野を見るものはだれもおなじであろう、かならずみょうに
予はふかくこの夢幻の感じに酔うて、河口湖畔の
家なみから北のすみがすこしく湖水へはりだした木立ちのなかに、古い寺と古い神社とが地つづきに立っている。木立ちはいまさかんに
予の口がおもいせいか、娘はますますかたい。予はことばをおしだすようにして、夏になればずいぶん東京あたりから人がきますか、夏は涼しいでしょう。鵜島には紅葉がありますか。鵜島まではなん里くらいありますなど話しかけてみたが、娘はただ、ハイハイというばかり、声を聞きながら形は見えないような心持ちだ。段ばしごの下から、
「舟がきてるからお客さまに申しあげておくれ」
というのは、主人らしい人の声である。
鵜島は、湖水の沖のちょうどまんなかごろにある離れ小島との話で、なんだかひじょうに遠いところででもあるように思われる。いまからでかけてきょうじゅうに帰ってこられるかしらなどと考える。外のようすは霧がおりてぼんやりとしてきた。娘はふたたびあがってきて、
「どうでしょう、雨になりはしますまいか、遠くへのりだしてから降られちゃ、たいへんですからな」
といえば、
「ハイ……雨になるようなことはなかろうと申しておりますが」
という。予は一種の力に引きおこされるような思いに二階をおりる。
宿をでる。五、六歩で左へおりる。でこぼこした石をつたって二
ちょっとずきんをはずし、にこにこ笑って予におじぎをした。四方の山々にとっぷりと霧がかかって、うさぎの毛のさきを動かすほどな風もない。重みのあるような、ねばりのあるような黒ずんだ水面に
ふりかえってみると、いまでた予の宿の周囲がじつにおもしろい。黒石でつつまれた高みの上に、りっぱな
「じいさん、ここから見ると舟津はじつにえい景色だね!」
「ヘイ、お富士山はあれ、あっこに
「じいさん、どうだろう雨にはなるまいか」
「ヘイ晴れるとえいけしきでござります、残念じゃなあ、お富士山がちょっとでもめいるとえいが」
「じいさん、雨はだいじょぶだろうか」
「ヘイヘイ、耳がすこし遠いのでござります。ヘイあの西山の上がすこし明るうござりますで、たいていだいじょうぶでござりましょう。ヘイ、わしこの
「鵜島へは何里あるかい」
「ヘイ、この海がはば一里、長さ三里でござります。そのちょうどまんなかに島があります。舟津から一里あまりでござります」
人里を離れてキィーキィーの
「ヘイあの奥が河口でございます。つまらないところで、ヘイ。晴れてればよう見えますがヘイ」
舟のゆくはるかのさき湖水の北側に二、三軒の家が見えてきた。霧がほとんど山のすそまでおりてきて、わずかにつつみのこした
「あそこはなんという所かい」
「ヘイ、あっこはお
いよいよ霧がふかくなってきた。舟津も木立ちも消えそうになってきた。キィーキィーの櫓声となめらかな水面に尾を引く舟足と、立ってる老爺と座しておる予とが、わずかに消しのこされている。
湖水の水は手にすくってみると玉のごとく透明であるが、打見た色は黒い。浅いか深いかわからぬが深いには相違ない。
「じいさん、この湖水の水は黒いねー、どうもほかの水とちがうじゃないか」
「ヘイ、この海は澄んでも底がめいませんでござります。ヘイ、鯉も鮒もおります」
老爺はこの湖水についての案内がおおかたつきたので、しばらく無言にキィーキィーをやっとる。予もただ舟足の尾をかえりみ、水の色を注意して、頭を
「先生さまなどにゃおかしゅうござりましょうが、いま先生が水が黒いとおっしゃりますから、わし子どものときから聞いてることを、お笑いぐさに
かれはなおにこにこ笑ってる。
「そりゃ聞きたい、早く聞かしてくれ」
「へい、そりゃ大むかしのことだったそうでござります。なんでもなん千年というむかし、
爺さんはにこにこ笑いながら、予がなんというかと思ってか、予のほうを見ている。
「おもしろい、おもしろい、もっとさきを話して聞かせろ。爺さん、ほんとにおもしろいよ」
「そいからあなた、十里四方もあった甲斐の海が原になっていました。それで富士川もできました。それから富士山のまわりところどころへ湖水がのこりました。お富士さまのあれで出口がふさがったもんだから、むかしの甲斐の海の水がのこったのでござります。ここの湖水はみんな、はいる水はあってもでる口はないのでござります。だからこの水は大むかしからの水で甲斐の海のままに変わらない水でござります。先生さまにこんなうそっこばなしを申しあげてすみませんが……」
「どうして、ほんとにおもしろかったよ。それがほんとの話だよ」
老爺はまじめにかえって、
「もう鵜島がめえてきました。松が青くめいましょう。ごろうじろ、
高さ四、五
松はとうていこの世のものではない。
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