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2014.06.30

モーツァルト編曲によるバッハのフーガ

 日づけの記事に登場した「脳ミソの悦楽」、バッハの音楽。
 「コト」音楽もここまで窮めれば「モノ」に無限に漸近します。コトを窮めてモノに至るというやつですね。
 そんな「コト」音楽にはまるには、ある程度の加齢が必要です。言語脳を使うからです。
 モーツァルトはある時期から、そんな「コト」音楽にはまりはじめます。すなわち、大バッハのフーガにはまるんですね。
 おそらくはバッハの息子たちの影響もあったのでしょう。一昔前にはやった…いや、大バッハの音楽はそんなにはやってなかったな…古臭い音楽にはまるというのは、また別の意味でもちょっと分かる気がする。
 私がビートルズや美空ひばりにはまるようなものでしょうかね。近過去音楽。最先端の音楽になんか違和感を抱き、「昔は良かった、すごかった」的な思考になる。一種の中二病でしょう(笑)。
 私も高校の頃からバッハの対位法にずいぶんのめり込んで、授業中、教科書に平均律のミニスコアを挟んで「読んで」いたりしましたっけ。
 で、自分は鍵盤楽器が弾けないので、弦楽用に編曲したりしていた。楽しかったなあ。
 それと同じことをかのモーツァルトもやっています。今日はそれを聴いてみましょう。
 最近では「偽作」とも言われていますが、フーガを弦楽三重奏や四重奏に編曲して研究し、のちの自作のフーガ創造に活かしたのは事実でしょう。
 ここで編曲されているのはバッハの平均律第1巻8番のフーガ。私の最も好きなフーガです。私も実はこれを弦楽三重奏に編曲したことがあります(モーツァルトもやっていたとは知らなかった)。とは言え、私もモーツァルトも全く同じくニ短調に移調して、ただヴァイオリンとヴィオラとチェロに3声を振り分けただけですが。
 それにしても、このモーツァルトが作ったと伝えられる前奏曲はひどいですね(笑)。というわけで、いきなりフーガの部分をどうぞ。
 

 実はつい最近、これを演奏しました。練習2回で人前で弾いたら、途中止まってしまいました。もちろん原因はヴィオラのワタクシにあります。最も好きで研究しつくしたくせに落ちました(苦笑)。ダメダメでした。

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2014.06.29

フジファブリック& Salyu 『フジフレンドパーク2014』

Th_img_0773 ロレス観戦に続き、夜はお台場のZeppにてフジファブリックのライヴ。途中、靖国神社やら東京大神宮に参拝しつつ、人身事故やら焼身自殺未遂に遭遇し、ゲリラ豪雨に襲われ、まあ様々な「東京」を体験しながらのZepp DiverCity Tokyo到着。
 新生フジファブリックのライヴは実は初めて。あれから4年半。ずいぶん時間がかかりました。
 Zeppと言えば、私のフジファブリック初生体験は、お台場Zepp Tokyoでした。もう7年も前なのかあ。ちょうど同じ季節ですね。その日の記事はこちらです。
 今、久しぶりにその記事を読んでみましたが、う〜ん、なんとも複雑な気持ちになってしまいました…。
 「志村くん、ぜひ富士吉田でぜひ凱旋ライヴをよろしくお願いします」という部分は実現し、そして、さらにその日は終演後、生志村くんと会話することになったのでしたね。
 実は今日ライヴに一緒に参戦したのは、7年前のお台場にも6年前の市民会館楽屋にも連れて行った教え子です。彼ももう大学を卒業して立派な社会人です。時は流れる。
 そんな感慨も含め、いろいろなことを感じたライヴでした。更に今回は、このブログでも何回か紹介してきたSalyuとの対バン、というかコラボレーションですからね。特別な体験となりました。
 まず結論から書いてしまうとしましょう。しかし、実はその内容はすでにSalyuの『TERMINAL』の記事にちゃんと書いてあったのでした。かなり核心に迫る内容(今、読み返して気づいた)。やばいですね(笑)。
 つまり、志村正彦というモノノケと小林武史というシゴト人の音楽の対比。どちらがいいとかいうことではなく、いや、両方あるからこそ私(私たち)は幸せになれるのだろうと思うのですが、音楽には、魂の苦悩と脳みその悦楽があるのだなあと。つまり、ワタクシ流に言えば「モノ」と「コト」。
 前半はSalyuのステージでした。彼女の生歌は二回目かな。コバタケ節も含めて、彼女の声と姿は、私の大の好みの世界を現出させてくれていました。それを私は私の頭で聴く。バッハを聴くように。
 一方、後半の初っぱなはまさかの「ダンス2000」。もうそこで私の脳は解析不能に陥ってしまった。そしてそれが不思議な快感となっていく。正直、総くんが歌っていることを忘れてしまうほどに、そのモノノケな音楽にすっかり取り憑かれてしまいました。
 あっそうだった、総くんが歌ってるんだ!と頭が気づいたのはずいぶん時間が経ってからでした。
 それと同時に私の頭をかすめた言葉は「これはコバタケは作れない音楽だ」。というか、これは他の誰にも作れない。志村正彦にしかできない技、いや業。もちろん歌詞も。
 それはある種のノスタルジーでもありましたが、逆にこうして今も彼の遺した音楽はしっかり生き続け、これからも私たちを虜にしてくれるのだと思うと、不思議と最初にこみ上げてきた涙も乾いてしまいました。
 新生フジファブリック、正直良かった。とても良かった。心配することはなかった。安心した。特に山内総一郎くんの努力の成果は驚きでした。あの弾き歌いはすごいですよ。すさまじい困難を乗り越えているという、その迫力に圧倒されたほどでした。
 そして、もともと彼は作曲も上手でしたから、そう、今回初めて披露された新曲(タイトル未定?)も、彼らしく面白い作品。
51t0v9htkgl_sl500_aa300_ 来月末発売になるという「ブルー」も素晴らしい名曲です。よく「できて」います。グッときました。
 先ほどの話的に言うと、総くんの作る曲は「コト」です。それは志村くんがいた頃からです。たとえば「TEENAGER」における、モノの海にポッカリ浮いたコトの島が私は好きでした。全体の風景として素晴らしかったのですね。
 しかし、なんというかなあ、それこそ「ないものねだり」なわけですけれども、今日のライヴはその逆だった。近代化の波に消えていく原生林。そう、夜明けのBEATもやりましたが、Salyuのステージも含めて、全体の中で結局すさまじい生命力を見せつけたのは、志村節だったわけです。
 これはおそらく、志村くんに肩入れする私という視点(聴点)からの風景という特殊性もあるのでしょうね。
 何度も繰り返しますが、私はコト音楽も好きなのです。演奏するのも構築されたタイプの音楽が多い。
 一方で、年をとったからでしょうか、不思議とモノ音楽にひかれているのも事実なのです。
 志村くんは亡くなる寸前、恐ろしいほど多く降り注ぐ音楽と言葉を取り逃がさないように懸命でした。
 つまり、彼自身は発信器ではなく受信器になっていたのです。
 私にとっての最近の音楽テーマはこの「受信器」です。というわけで、あさって命がけで受信器になってみます。
 そうそう、面白い発見。小林武史さんはぜったい「胸キュン進行」やりませんね。それからペンタトニックのメロディーもほとんど使いません。彼にとっては「俗」なんでしょう(ちなみにビートルズもほとんどやっていない。というか、ヨーロッパ芸術音楽では露骨に連発しない)。
 それに比べて、志村くんも総くんもほぼ必ず使います(笑)。日本人はホント好きなんです、両方とも。

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2014.06.28

DDTプロレスリング『KING OF DDT 2014 後楽園ホール大会』

Th_img_0763 際には29日に行われた興行でありますが、当日は別のイベントもあったので、変則的に28日づけの記事に書かせていただきます。
 久しぶりにDDTの興行を観戦いたしました。
 実は日曜日の朝、前日の向嶽寺での座禅研修明けの上に、続いて文化部発表行事があったりしたせいで、非常に体がダルく微熱もあったのですが、いろいろ事情がありまして、早朝から東京に行かねばなりませんでした。
 そして夜に控えるフジファブリックのライヴまでの間、どのようにして過ごそうかと熟慮した結果、ゆっくり3時間くらい椅子に座って体と心を休めようという結論に至り、それで後楽園ホールへ向かったのであります。
 休息のためにプロレス観戦なんていう過激なものを選ぶとは…と呆れられそうですね。それが実はそうではないんですよ(笑)。
 DDTはこちらに書いたように「文化系プロレス」。もちろんかなりハードな試合もありますが、それらも含めていわば「安心して観ていられる」内容なのです。
 そう、極上のエンターテインメントであり、私にとってはかなり高度な「神事」「祭」と感じられます。
 今日も後楽園ホールは超満員。そして第2試合ではすでに会場の盛り上がりは最高潮。まるで昭和プロレス黄金期のような雰囲気でした(もちろん内容は当時とは全く違いますが、エネルギー量としては匹敵していました)。
 私は自由席の当日券を買い、あえて一番後方の席からゆるりと観戦。後楽園ホールは最後尾席でも充分に迫力ある距離感で観戦できますからね。
 カード、結果については公式ページに譲るとしまして、まあ、本当に変化にとび、またドラマ性にとんだ素晴らしい興行であったと思います。満足度97%という感じでしょうかね。
 もちろん、プロレスを、特にこういうタイプのプロレスを「茶番」「八百長」などと評する方がいるのも分かりますし、自分の趣味を人様に押し付けるつもりはありません。しかし、日本古来の「荒魂を祀る」という文化、あるいは「大人がバカになりきる」ことができるという場として、こういう世界がしっかり今の日本に息づいていることに、私は純粋に感動を覚えます。
 皆さん、選手も観客も、非日常の中で「バカになりきる」場が、この世の中のどこにどれだけあるでしょうか。今や、会社も学校も規則や常識でがんじがらめ。お酒の席が激減していることもあって、特に大人の男がバカになるチャンスはありません。
 いやあ、この前、諏訪大社の御柱祭のご神事に参加させていただいて真剣に思ったんですよね。ああ、これは縄文時代以来の大馬鹿だ!って。
 もちろん褒め言葉です。祭で死ぬんですよ。柱の下敷きになったり、柱の上から落ちて死ぬんです。現代的な論理からすれば、本当の「バカ」です。
 しかし、それが4千年も続いている。これは理屈ではないのです。論理性もないし、もちろん損得勘定なんかない。
 プロレスでもリング上で死んだりするんです。そこまで命がけで「バカ」をするのです。実はそれこそが最高の神事であり、祭事であるのです。
 命を懸けるということは、近代的価値観の中で最も大切で、地球よりも重いと言われる命を無駄にする覚悟があるということです。
 これは、昨日の老師のお話ではありませんが、究極の「無我」、「利他」の境地です。
 今のプロレスもお祭りも(すなわちヤクザ稼業も)、それほどお金になりません。昭和の時代とは違います。しかし、そこに命を懸ける人たちがまだいる。それは感動に値します。
 今日の大会の一体感は、まさに祭のそれでありました。素晴らしいと思います。
 さらに言えば、DDTはちゃんと経営的にもうまくやっている。現代企業としてもしっかり機能しているし、成長している。
Th_img_0766 今日も新日本の棚橋選手や大物鈴木みのる選手をリングに上げていました。今や、メジャー団体さえも一目置き、いや対等のビジネスパートナーとみなすほどに、DDTは進化しました。
 もちろん企業努力もあるでしょう。しかし、ある意味それ以上にしっかり働いている力というのは、実は「祭にかける心意気」なのです。それは、アイデアであったり、気合であったり、遊び心であったり、いろいろな形で現れています。そして、それらは、現代の企業や学校に欠けているものそのものなのです。
 私は趣味で観戦しているのと同時に、DDTを大真面目な日本宗教史(特に神道史)の継承者としても見ているし、またビジネスの師としても見ているのでした。
 ひとまとめに言えば、やっぱり「学園祭のノリ」っていうやつですかね(笑)。
 DDT…これからも応援しつつ、勉強させていただこうと思っています。
 おっと最後に、木高イサミ選手、おめでとう!あなたも素晴らしい大馬鹿者です!

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2014.06.27

自他不二の法悦

Th_img_0749 ほど、向嶽寺より帰ってまいりました。
 中学2年生の「接心」という宿泊座禅研修です。向嶽寺さんをお借りしての接心も今年で4年目となりました。
 臨済宗向嶽寺派大本山塩山向嶽寺は、非常に厳しい僧堂(修行道場)であります。そこには今はなくなりつつある本物の修行の空気が残っています。
 今年は自分にとっても非常に意義深い研修となりました。
Th_img_0753 国の名勝にも指定されている素晴らしいお庭の空気を吸いながらの座禅の気持ちよさは、今さら言うまでもありません。
 今年はいろいろ期するところがありまして、思い切って管長猊下に「ちょっとお話を…」とお声掛けさせていただき、(ちょっとどころか)たっぷり2時間以上にわたって問答をさせていただきました。
 いや、問答と言っても、こちらの質問にお答えいただくという形ですので、禅問答ではありませんよ。
 いやいや、結果として「不二」についての深い深いお話をいただきましたから、これもまあ禅問答の一つと言えるのかもしれません。
 その一つ一つの内容をここに書くのは難しい。なるほど禅問答とは、それ自体が体験そのものであり、言葉や理屈ではなく、まさに「行い」「修行」であるのだなと思いました。
 畏れ多くも、私は私の野狐禅の成果を遠慮せず猊下に投げかけていったのですが、猊下はその一つ一つをしっかり噛みしめるようにお聞きになり、そして、それを否定するのではなく、もっと高い次元で深めてくださりました。
Th_img_0751 本当に得難い時間を体験させていただきました。ありがとうございます。
 「自他不二(ふに)」を理屈で分かりかけている私と、実際に体験し、それを悦びとして知っている、いや行なっている老師とは、あまりに次元が違いますが、しかし、言葉の力によって歩み寄っていただけたことに感激です。
 おかげさまで、私の信じて生きる道がまたはっきりいたしました。
 その後、すっかり顔見知りになった最ベテランの(と言っても若いのですが)雲水さんとも話しましたが、そうして体感、体験したことをいかに体現し、利他の「行い」にするかということが問題です。
 私はさっそく行おうと思います。
 管長さまの法話にもこうありました。
 「知っていることと行うこととは全く違う」

 

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2014.06.26

出身地鑑定 方言チャート

Th__20140627_63703 は全く方言を持っていません。すなわち「母語」がないんですね。その寂しさについては、このブログでも何回か書いてきました。
 静岡県の焼津出身ではありますが、それは当時親が住んでいた東京都(品川区)が水不足で、しかたなく急きょ里帰り出産をすることになったからです。
 その後すぐに東京に戻り、この「方言チャート」でも言及されている3歳から14歳の言語習得期を大田区の「非下町地区」で過ごしました。
 その後静岡市に引っ越し、大学は山梨県の都留市へ。そのまま山梨の郡内地方(富士北麓地方)に永住することになりました。
 両親とも静岡県出身ですし、大学も山梨ですから、影響があるとすれば「中部方言(ナヤシ方言)」ということになりましょう。しかし、大学でアクセント史を研究したせいか、語彙はもちろんのこと、微妙なアクセントまで客観的にとらえるようになり、ほんの少し残っていたであろう方言語彙や方言アクセントも自ら駆逐してしまったのです。
 ですから、私の話す日本語はまるでNHKのアナウンサーのような完全な標準語(共通語)となってしまっています。
 とはいえ、日常生活においては当然、郡内方言に従うこともあります。生徒と話す時なんかは、頑張って演技しているわけですね。だいいち、生徒の名前を呼ぶ時、方言アクセントを採用しないと違和感ありますし(たとえば、女子の「◯◯み」という名前は頭高アクセントで、男子の4拍の名前は平板アクセントで)。
 しかし、それがいまだにけっこうきつい。もう30年もこの地に住んでいるのに…とても残念なことです。
 と、まあ私の特殊な言語事情に関してはいいとして、皆さんもこの出身地鑑定 方言チャートをやってみてください。その県独特の言い回しによる出身県特定ですから、アキネーターほどの感動と驚きはありませんが、それなりに面白いと思います。
 たとえば狭い山梨県と言っても、国中と郡内ではかなり方言体系は違っています。郡内は文化圏が関東に近いこともあって、関東方言の影響も濃い。たとえば「べー」を使うところなど。
 だから東京女子大の皆さんは、その県のあらゆる地方で共通している方言をピックアップしているわけですね。その結果、いわゆる「学校方言」というものが注目されることにもなる。
 このチャートには出てきませんが、たとえば山梨県だと、昔はジャージのことを「ジャッシー」と呼んでいました(笑)。学校からの公式保護者宛文書にも「ジャッシー」と書いてあったりした(笑)。外から来た私は最初なんのことかさっぱり分からなかった。
 あと、最近知ったのですが、ずいぶん昔には、夏場などに下着を着ないで直接ワイシャツやブラウスを着用することを「キャラメル」と言ったそうです。これは見事な比喩ですよね(笑)。
 まあ、両方とも今では死語になってしまっていますが…。
 ここ山梨県でも、本当に方言が減ったなあと感じます。こうした方言チャートもいずれ正解率が下がってくるようになるのでしょうか。
 そうそう、大昔のウチの学校の校則には「学校内では(方言を使わず)標準語で話すこと」というのがありました(笑)。
 今では、逆にしたいくらいですよ。方言という素晴らしい地方文化を残すためにも。

出身地鑑定 方言チャート
 

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2014.06.25

『カメダ式J-POP評論 ヒットの理由』 亀田誠治 (オリコン・エンタテインメント)

Th_2014022800018394exp0001view 校生の授業でやっている「1日1曲J-POP」がなかなか楽しい。
 生徒一人ひとりが選んだおススメ曲を、歌詞をじっくり読みながら聴くというコーナーなのですが、当然のことながら普段聴かないようなジャンル、アーティストを聴くことになり、それがとても勉強になっております。いろいろ発見あり。
 ちょっと前には、世界の終わりの「天使と悪魔」を取り上げました。その生徒は「セカオワがいい。でも曲は先生が選んで」ということだったので、あえての「天使と悪魔」をチョイス。この歌詞は面白いですよね。まあいかにも中二病かなと思わせておいて、最後の二行で一気に文学の領域に持って行ってしまうパワーがすごい。
 たとえばこの曲もこの本で紹介、分析されています。亀田さんは歌詞についてはそれほど深く掘り下げていませんが、さすが名プロデューサーですし、優れたベーシストですよね、先輩プロミュージシャンから見た彼らの魅力を上手に表現しています。
 ほかにも、フジファブリックの「TEENAGER」を紹介したところなどにもついつい注目してしまいます。なるほど「鍵盤的コード感とギター的コード感」か。そのとおりですな。
 全部読んだわけではないのですが、とにかく亀田さんの愛情を感じる文章たちです。すなわち彼のお人柄がよく分かる。謙虚だし、勉強熱心だし、とにかく優しいし。
 実は、亀田さんとは一度挨拶を交わしたことがあるんです。それは…志村正彦くんのお通夜のことでした。本当にたまたまのタイミングで一緒に焼香させていただくことになりました。
 ある意味、志村くんが作ってくれたご縁ということにもなります。
 亀田さんは格別志村くんのことを評価していましたし、可愛がっていました。お通夜、告別式には、本当にたくさんの偉大なアーティストたちがいらしていましたが、亀田さんも忙しい中、東京から車を飛ばしてきたという感じでした。
 この本のコラムを書いた時には、もちろん志村くんが亡くなるなんて夢にも思っていなかったでしょう。
 「ひとりでも多くの人を幸せにすること。それがヒットの本懐」
 箭内道彦さんがこの本の帯に寄せた言葉です。志村くんが志半ばで亡くなってしまったのは残念ですが、彼の残した言葉と音楽たちはこれからも多くの人たちを幸せにしてくれることでしょう。
 さてさて、この本、これから授業に役立ちそうですね。生徒たちって少し古い音楽を選んでくることが多いので。
 とりあえず現時点では、第1章「亀田誠治10年史」が勉強になりました。クインシー・ジョーンズは偉大ですよね。

Amazon カメダ式J-POP評論 ヒットの理由

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2014.06.24

ジャリ

Imgres ょいと忙しいので軽めのネタで。
 今日一番感動したのは、ふとネットで読んだ「ポケモンのサトシが『砂利ボーイ』って呼ばれる理由わかったったwwwwwwwww」です(笑)。
 なるほど、「砂利」は「サ・トシ」と読めますな。この発見はすごい。そのスレにもありましたが、よくぞ10年以上見つからなかったなと(笑)。
 まあ、もちろんこれはネタというか、偶然の一致でして(ですよね?)、子どものことを「ジャリ」と呼ぶ習慣は昔からありましたよね。
Url アニメ作品の中でも、「じゃりン子チエ」なんていうそのまんまなタイトルのものもありましたし、「うる星やつら」の中で、あたるがテンちゃんのことを「ジャリテン」と呼ぶことがありましたでしょう。
 なんで子どもが「ジャリ」なのかというと、子どものイガグリ頭が砂利みたいに見えるからなんですよね。昔、芝居小屋などで、客席にいるイガグリ頭の子どもたちを見た舞台上の役者さんたちが、「まるで砂利みたいだ」と思ったからなんです。
 たしかに坊主頭はそんな風に見えなくもない。もちろんそこには、「小さい」「つまらない(価値の低い)」というような比喩的な意味も入っていたことでしょう。「なんだ、今日はジャリばっかりじゃねえか」みたいな。
Images ちなみに「砂利」という字は当て字ですね。「ジャリ」は、たとえば「ジャリジャリ」とか、「ジャリっとした」のように、ある種の擬態語(擬音語ではないですよね)から生まれたものです。
 考えてみると「泥(ドロ)」も「ドロドロ」とか「ドロっと」から生まれたものです(その逆ではないと思います)。
 それから、昔「ざ」という文字は「ジャ」と発音しましたから、「砂利」は「ざり」という読み仮名を振る場合もあります。「ザラザラ」とか「ザラッとしている」のような「ザラ」系と同源であると考えられます。
Imgres1 昔「ひ」は「ピ」だったので、ピヨピヨ鳴く鳥の子どもを「ひよこ」と呼ぶのと逆の現象でしょうか。つまり、「砂利」は音が残って、「ひよこ」は字が残った。
 もし「母」が音を残していたら、お母さんは「パパ」だったかもしれないんですよね。
 ま、こんな話を授業中の雑談の中でいたしました。
 テストには出ませんが、なんだかこういう雑談の方が生徒たちは覚えてるものなんですよね。何十年も前の教え子が、今や保護者として学校に来ることが多くなってきたのですが、彼ら彼女らも私の雑談だけはよ〜く覚えているので、なんだか空しくなってしまいます(いや、ホントはうれしいのであります…笑)。

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2014.06.23

年中病?

6157e3fe3cc845d5 日は「保護者の勉強会」がありました。ウチの中学では夜に保護者に集まってもらい、それぞれの学年でテーマを決めてお勉強をいたします。
 テーマはPTAさんの方で決めまして、教員や外部の方が講師を務めるという形でおよそ90分の講義を行います。自由参加ですが、けっこうな数の保護者が学びに(遊びに?)いらっしゃいます。
 毎年この時期、2年生の保護者に対しては「中二病学概論」と称してワタクシがお話をいたします。
 中二病(厨二病)の病態(?)と原因、そしてその功罪(特に素晴らしさ)について、中二病歴35年を誇るワタクシが講義するわけですから、まあけっこう深面白い内容であると思います(笑)。
 さて、そんな中、今日は「年中病」という言葉を使いました。
 「中年病」じゃないですよ(笑)。また、「年中(ねんじゅう)」病気ということでもありません。
 「年少」「年中」「年長」の「年中」です。すなわち「年中さん病」ということです。
 そう、私は中二病をこじらせたと思っていたんですが、最近カミさんと話していて、いやもっと前に罹患してそのままなのではないかと。それはいつかというと「年中さん」。
 実際には私は「年少」「年長」の2年保育時代に育ったので「年中」は体験していませんが、まあ年齢的には4歳とかそのくらいの感じ。
 その頃、私はまさにウルトラセブンにはまっていました(ちょうど本放送があった)。そして、今でも大好きです。
 そう、実は今日保護者の皆さんに「ナイショですけど」と言ってカミングアウトしたのですが、ワタクシ、今でも「自分は地球を救うためにやってきた宇宙人」だと思っているんです(あっ!言っちゃったw)。
 これ、50歳近い教頭先生としてはかなりヤバイですよね(笑)。そして、ナイショと言いながら、こうして発信してしまっている(最終回じゃないんだから!)。
 この前、偶然「こどもこそミライ」という映画を観る機会がありました。
 そこで山梨県にあるある「ようちえん」が紹介されていたのですが、その代表の方が「子どもたちが地球を救おうと思っている」というようなことをおっしゃっていました。これって、幼稚園児(特に男の子)だったら当然のことですよね。テレビでかっこいいヒーローを見て憧れていますから。
 ところが、小学生くらいになるとその熱も冷めてくる。そして中学、高校、社会人になるに従って、あの頃の純粋な情熱はどこかに行ってしまう。そんな子どもじみた妄想は実生活に役立たないと思ってしまう。
 そんなこと人前で口走ったら、馬鹿にされるか怖がられてしまう(笑)。ですよね?
 しかし、よく中二病の話の中でも言うとおり、ずっと諦めずに馬鹿みたいに思い続けていると、どんどんライバルが減ってくるので、案外実現することがあるんですよ。
 年中の頃には、地球を救うヒーローがたくさんいて(ほとんど全員)なかなか自分が活躍する機会がないのだけれども、50歳になっていまだにそういうふうに言っている、あるいは行動している人はほとんどいないものです。
 だからチャンスだと、私は思っているのです。
 4歳の頃、私は宇宙から電波のようなものを受信して、それを謎の文字にして記録していました。あの頃はその意味がよく分かっていたのですが、今ではその文字すらも思い出せませんし、たとえそれが実家の押入れの奥から出てきても解読できないに違いありません。
 しかし、正直気持ちは全く変わっていないのです。それこそ馬鹿にしたり、あきれたり、危険人物だと思っていただいてけっこうですよ。気にしませんから(笑)。
 まあ、今日の話というのは、私たち大人ももう一度そういう「夢」を持って生きてもいいのではないか、そういう姿を子どもたちに見せるのもいいのではないかと、そういう結論になりました。
 少なくともウチの夫婦はかなりの中二病、いや年中病であります。子どもの方が現実をしっかり見ているかもしれません。でも、しょうがないですね。これは無理にそうしているわけではありません。脱落していくライバルたちを尻目にやれることをやっていくだけです。
 

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2014.06.22

もう一つの富士山(その12)…富士山世界文化遺産登録から1年

Th_img_9767 年の今日、富士山が世界文化遺産に登録された日、私は埼玉県の小川町でもう一つの「富士山」に全く偶然に出会いました(こちらの記事参照)。
 いや、それは偶然ではなく、記事の中にもあるように、諏訪と富士山を結ぶミッシング・リンクに導かれての必然であったのでしょう。
 その後、諏訪と富士山の関係について多くを知ることになりました。
 先日は諏訪大社御柱祭の本見立てに参加する機会も得ました。また、「吉田の火祭り」が諏訪神社の例大祭であり、地元には今でも諏訪信仰が生きていることも分かりました。
Th_img_0408 そして、このたび、木造としては日本一の大きさと言われる、北口本宮冨士浅間神社の大鳥居が60年ぶりに修繕されました。
 言うまでもなく、この有名な、そして文化遺産の中心的構成資産である「上浅間」こそが、もともと諏訪神社であったわけです。
 私はこの鳥居の修繕には大きな意味があると直観しています。
 この諏訪神社が浅間神社になっていく過程の中には、当然江戸時代の富士講ブームがあったわけですが、実は近代においても一つの力学が働きました。それは戦争です。
 「戦意高揚」ということであれば、武神であるタケミナカタを祀る諏訪神社が再興してもよいような気がしますけれども、実際にはその反対の動きになりました。
 それは、こちらで紹介した富士講のカリスマ食行身禄に始まる「富士山の女性化」に関わっています。
 「日本女性の鏡」としてのコノハナサクヤヒメ…すわなち、夫神であるニニギの子を懐妊した際、国津神の子ではないかと夫に疑われた際、燃え盛る富士山の火口へ身を投じて潔白を証明したという物語を、日本国家が利用したということです。
 「貞節を守った妻」「命をかけた夫への忠信」という別の物語が生まれてしまったわけですね。婦徳の象徴としての富士山…実際そのようなキャンペーンが繰り広げられたようです。
 60年前の大鳥居修繕は1954年、昭和29年でした。まだ戦争の記憶が濃厚であった時期。自粛縮小されていた火祭りは従来の規模に戻っていましたが、人々の頭にこびりついた新たな物語はまだまだ生き続けていました。
 しかし、今はもう違います。
 私は、このたびの大鳥居の朱塗りの輝きを見た時、「ああ、諏訪の神様を再び迎え入れる準備はできたな」と思いました。
 2年後の平成28年、諏訪大社の御柱祭が行われます。その年の吉田の火祭りは特別な意味を持つことになるでしょう。
 そして、6年後の東京オリンピックの年、富士山は次元上昇します。つまり、天津神に譲られていたオオクニヌシの和魂と諏訪に幽閉されていたオオクニヌシの荒魂が再び出会い、まさに「不二」の山として復活するということです。
 謎であった「不二の仕組」が明らかになります。「国譲り」と「不二」の経綸。その第一歩となる御神業を来週にも執り行なおうと思っています。ドキドキワクワクです。
 ちなみに、今日世界文化遺産登録が決まった富岡製糸場でありますが、実はこれもまた諏訪と富士山と深い深い関係があります。それについてはまたいつか。

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2014.06.21

『「超常現象」を本気で科学する』 石川幹人 (新潮新書)

20140622_93435 日もまたシンクロニシティが三つほど重なりました。本当に不思議なことばかり起きます。身近なことではなく壮大なスケールで…。
 それをしっかり捉えて、意味を読み取って現実化していくことが私の天命だと思っています。その結果は10日後くらいにお知らせできると思います。
 さてさて、たとえばこういうシンクロニシティ(空間を超えた同期)は絶対にある、偶然の確率を超えて起こっていると体感しているわけですが、はたしてそれは科学で説明できるものなのでしょうか。
 私は、もともと少年時代には科学者になることを夢見ていましたし、実際今でも科学的な思考も大切にしているつもりです。
 一方で、あまりにも超常的な体験が多くなっていまして、私たち地球上の科学の限界というか、私たち人類の脳ミソの限界というものも感じているのも事実です。
 自分の中では、どちらにも偏らずバランスよくやっていこうという意識があります。科学も超常現象も頭ごなしに肯定も否定もしないということです。
 それはすなわち、「コト」と「モノ」のバランスを取るということでもあります。私は、私たちの脳ミソで計れることを「コト」(言語で説明できること)、その外側にあるほとんど無限の補集合を「モノ」と捉えています。
 この本の著者である石川さんは立派な科学者です。決して「コト」世界にこだわることなく、「モノ」世界の存在もしっかり認めているように感じられます。
 そう、考えてみれば、人類の科学の歴史というのは、「モノ」世界への憧れや畏怖と、それに対する挑戦で進歩してきたと言えますね。
 モノをコト化したいというのが人間の本能です。その最たるものが「科学」なのでありましょう。
 「超常現象」を本気で科学する…それはすなわち、現在の我々人間の実力を知るとういことになります。どこまでできるのか、分かるのか。一方で、どこから先は分からないのか。
 そういった検証を怠らないこと、常に客観的に自分の判断の是非や理論の普遍性を測定していくことが、科学者の義務でありましょう。
 それを怠ったのが、たぶん小保方さんなのかなあ…やっぱりここでも「利己心」が本分の邪魔をするんですね。そういう意味でも科学は宗教に近くなっていくのかもしれません。
 石川さんは、この本の中で、「宗教が『信じる』ことから出発するとすれば、科学は『信じずに距離を置く』ことから出発する」と述べていますが、私はそれだけでは少し足りないような気がします。
 すなわち、宗教にも懐疑心は必要だし、科学にも「信じる」ことは重要だと思うのです。最初の話に戻りますが、要はバランスの問題でしょう。
 私は宗教者でも科学者でもないわけですけれども、その「信じる」と「疑う」の両面をもって、目の前に起きるコトや、目に見えないけれどもたしかに存在するモノとつきあっていきたいと思っています。
 そういう意味では、このようなバランスの良い本をたまに読むと爽快な気持ちになります。
 なにしろ、世の中には両極端な人が多いものですから(苦笑)。

Amazon 「超常現象」を本気で科学する

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2014.06.20

「仲小路彰」紹介ビデオ(西尾幹二 GHQ焚書図書開封)

Th_20101004100221 和の大天才「仲小路彰」の霊が発動しています。
 彼は「霊」と「体」で言うならば、「体」で表現する天才でした。しかし40年ほど前にこの世を去り、自らが霊的な存在となりました。
 しかし、出口王仁三郎が「霊主体従」と言うように、「霊」の世界での神の活動が移写されたのがこの世(体)です。
 そう、先日紹介した出口汪さんの本にもありましたね。神はこの世では何もできない。だから人間にまかせているのだと。
 すなわち、仲小路彰もある意味神となって今、霊界にてご活動しているわけですね。
 そうした霊界の皆さんのご活動の意志をしっかり受信しなければなりません。
 こんなことを書くと、それこそ怪しい宗教にでもはまっているのかと思われそうですが、決してそんな次元の話をしているのではありません。
 私も基本フツーの人間です。別に霊能者でもなんでもありません。しかし、ウチにはそうした霊界からの情報をキャッチする受信「器」があるので、いろいろ分かるのですよ。正直面白いし楽しい。
 そして、2年ほど前から、いよいよ本格的な動きが始まりつつあります。そんな中、いろいろなキーパーソンがいて、彼らが残したモノやコトが重要な意味を持ってきているのですが、特に「仲小路彰」がこの世に残した情報は重要です。
 しかし、あまりにも知られていないし、実際一般の方が目にすることも叶わない。私はご縁があって、少しだけ垣間見させていただいています。そういう意味では大変幸せなことであり、なおかつ責任重大だと思っています。
 さて、そんな知られざる超重要人物仲小路彰について、一般に向けて語られたものはほとんどありません。たとえばYouTubeでは、チャンネル桜で放送された、西尾幹二さんによる「GHQ焚書図書開封」でほんの少しだけ紹介されているくらいです。
 この番組もある意味チャンネル桜的ワールドであるし、西尾幹二的ワールドであるので、とてもとても仲小路彰の全体像に迫ることはできていませんけれども、ほんの一部であっても、こうして彼の業績を知ることができるのは、素晴らしいことだと思います。
 「ニセ古代史にだまされている」などの評価については、私は首肯しかねますが…(笑)。ぜひ冒頭部分だけでも視て聴いていただき、仲小路彰に興味を持ってもらいたいと思います。
 では、どうぞ。

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2014.06.19

SHAKALABBITS 『EXPLORING OF THE SPACE』

 日は一日外回り。小学校と中学校を巡りました。さっそく来年度の募集活動が始まっています。
 ある学校を訪問した際、帰り際に見覚えのある先生に声をかけられました。その方は、大変優れた実践をされている先生です。そして、志村正彦くんのご親戚にあたる方。
Img_0549 その先生から、この前紹介した「志村正彦展」の大きなポスターをいただきました。そして、「残念だったけれど、こうして『文学』として語られるようになったのですね」というお話をしました。
 この前も書いたように、私は日本のロックやポップスの歌詞を、和歌から続く「歌」の歴史(韻文史)の系譜の中でとらえています。
 今、高校のあるクラスでは、生徒に一人一曲選んできてもらい、その歌詞をちょっと分析しながら曲を聞くというコーナーを設けています。
 なんとか1年間で100曲聴こう、そして読もうというのを目標にしております。
 これがなかなか面白い。V系ロックからヒップホップ、懐メロからボカロまで、本当にいろいろ音楽を聴くことになるんですね。
 一つ条件というか約束として、「人の好きな音楽やそのジャンルに関して、決して悪口を言わない」というのを徹底しています。他者を受け入れる訓練として、音楽は非常によい「教材」となりますね。
 で、昨日でしたか、ある女子が選んできたのが、このシャカラビのデビューシングル。

 ああ、なんか懐かしいなあ。そう、案外今の高校生って、最新の音楽というよりも、ちょっと古いものを聴いていたりするんですよね。親の影響や、昭和への憧れのようなものがあるようです。尾崎豊とか、相変わらず人気だったりして。
 まあ、今どきの曲がダメなのでしょう。そして、YouTubeなどでいくらでも古い曲がタダで聴ける。過去の遺産で充分なのですね。
 SHAKALABBITSは、イメージとしては、JUDY AND MARYの後釜という感じでしたね(両方のファンは納得しないと思いますが)。ちょうどJAMが解散してシャカラビが出てきたという感じでしたし。
 ああ、もうあれから12年とか経ってるのかあ。今の高校1年生はまだ3歳とかだったわけで、やはり二次的なファン層ということになりましょうか。
 とにかくストレートに元気な女の子という歌ですね。歌詞も勢いでガンガン行くだけ。あんまり文学的に解釈できませんでした(笑)。
 ただ、そういうイメージだけの非現実的な時代感を生み出すのも「歌」の効用の一つですからね。私もなんか現実を忘れて元気になりましたよ。
 そこで、アルバムCDも生徒から借りて聴いてみました。そうしたら、全部「同じ」(笑)。いや、悪い意味ではなく、積極的な意味で。

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2014.06.18

『王仁三郎の言霊論理力』 出口汪 (ヒカルランド)

20140616_61439 日は明治天皇の玄孫のお話でしたが、今日は、その明治天皇と因縁浅からぬ出口王仁三郎の曾孫のお話です。
 そう、現代文、論理の神様と呼ばれる出口汪さんは、実は出口王仁三郎の曾孫です。その汪さんが、初めて王仁三郎についての本をお書きになりました。
 素晴らしい本です。一般の方にとってこの上ない入門書となることでしょう。それとともに、私たち王仁三郎ファンにとっても新たな発見がある内容となっています。
 宗教、オカルト、逆賊、怪しい予言者という言葉をまとってしまうからでしょうか、なんとなく一般社会から敬遠されがちだった王仁三郎。
 しかし、そうした世界観とは全く逆と言っていい「論理」の世界において、圧倒的な実績と人気を誇る汪さんが王仁三郎を書いたとなると、そのプラスの影響は計り知れませんね。
 「言霊論理力」…このタイトルこそ王仁三郎の思想を象徴しているとも思えます。「言霊」という言葉と「論理」という言葉が、こうして統合され同時に使われたのは今回が初めてでしょう。
 「不二」・「帰一」の思想、「対立するものを統合する」という考え方を、あらゆるレトリックで表現したのが王仁三郎です。
 彼にかかると、右翼も左翼も、南朝も北朝も、共産主義(東)も資本主義(西)も、過去も未来も、善も悪も、男も女も、経糸も緯糸も、全てがいとも簡単に統合されていきます。
 それが、特に近代的な二元論的発想に毒された私たちにとっては、ある意味「論理的」ではないと感じられていたわけですね。
 しかし、こうして汪さんの本を読んでみると、とうとう世界が王仁三郎の次元に追いついてきた、つまり、二元論的、二項対立的な世界観が終わりを告げつつあるのだなと感じます。
 汪さんはこの本の中で、次のように語っています。

…これまで王仁三郎についていわれてきたことにとらわれず、自分の目で見て、自分の頭で考えて、王仁三郎がどんな人だったのかを捉え直そうとしてます。そうすれば、いろいろな王仁三郎の姿が見えてくると思うからです。
 そうやって、冷静に、論理的に見ていかないと、また神格化されたおかしな王仁三郎像が出てきてしまうのではないか。そのことを恐れるのです。
 そのためにも、やはり仮説を立てながら、論理的に考えていくというのが正しいものの捉え方だと思っています…

 そう、論理的に見るということは、自分の頭で考えるということです。私たちは、特に敵対するものに対しては、しっかり考えることなく、感情的、感覚的に拒否反応を示しがちです。
 我が校の教材ともなっている「論理エンジン」で、汪さんが力説している「他者意識」とは、究極的には敵さえも包み込みながら自分との統合を成し遂げ、より高い次元に新たな生命(価値)を生み出す原動力となるものだと思います。
 この本を書くまでに汪さんは、ご自身の中に大きな葛藤を抱いておられました。それこそ統合の産みの苦しみを味わったことと思います。
 ご自身もおっしゃっているように、過去においては、ある意味王仁三郎という怪物から逃げるために「論理」という武器を手に入れようとしたわけですからね。
 思えば、私と汪さんとの「国語」での出会いは四半世紀も前のこと。そして、実際にお会いしたのは、5年前の5月、この日でした。
 その後も何度かお会いして、王仁三郎についてお話をする機会がありましたが、そのたびにご自身の中で、なかなか王仁三郎を消化しきれず苦悩しているお姿を拝見していきました。
 私はそのたびに「霊界物語の日本語は論理的だ」「王仁三郎の日本語は正しく美しく豊かだ」とお伝えしてきました。今思えば、私の発言は私の勘に基づくもので、決して論理的であったわけではありません。
 しかし、こうして汪さんがしっかりご自身の中での矛盾を統合されたのを見て、私の勘も間違ってはいなかったかなと、少し安心したりもしています。
 皆さんもぜひご一読ください。次元上昇という言葉がファッションのように使われている昨今ですが、この本の中には本物の次元上昇へのヒントが満ちております。
 そうそう、論理と王仁魂の統合ということで言うと、私にとってはこの日が象徴的でした。偶然は必然なのですね。

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2014.06.17

竹田恒泰さん講演会のお知らせ

10390958_650526755028072_5802377677 7月13日に富士吉田市にて竹田恒泰さんの講演会が開かれます。
 入場無料ですので、ぜひおいでください。
 「呼び覚ませ和の精神 誇り高き日本〜富士の麓から未来を切り拓け」という素晴らしいテーマ。
 今、私が何かを語るなら、全く同じタイトルになりそうです(笑)。
 富士北麓には、世界文化遺産、東京オリンピック、リニアなどなど、未来に向け明るい材料がたくさんあります。
 そんな未来に向けての私の夢(妄想)については、このブログにもその一部を書いてきました(もちろん全て書くことはできませんが…)。
 たとえばこちらには、五輪とリニアをからめつつ、「和=global familism」という言葉を使って書いていますね。
 また、竹田さんの著書『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』を読んでこちらに「富士山は和の精神の象徴」と書いています。
 おっと、その前(昨年4月)には『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』の記事で、『「未来学」的な因果関係からしますと、今年は竹田さんともご縁ができる予定なので、非常に楽しみであります』と、なんか予言めいたこと書いてますね(笑)。はたしてここでも妄想は実現するのか!?
 竹田恒泰さんのお父様竹田恒和さんはJOCの会長であり、2020東京五輪に絶大なる力をお持ちの方です。そういう意味でも、恒泰さんの今回の来麓は意味深いものになるでしょうね。
 また、竹田恒泰さんは明治天皇の玄孫。最近、『幕末 戦慄の絆―和宮と有栖川宮熾仁、そして出口王仁三郎』を読んだ私にとっては、明治天皇と富士北麓は太い絆で結びつくことになっています。
 もちろん、その裏側にある出口王仁三郎も。その表と裏が一つになる場が「不二=富士」なのであります。
 そして、明治天皇と出口王仁三郎の両者につながる、富士北麓の宮下文書と仲小路彰の存在。これはすごいことになってきました(私の中では)。
 主催は富士吉田青年会議所。いろいろと頑張っている若者たちです(ひそかに応援しています)。
 実はこの13日の前にも富士吉田で面白いイベントを企画しております(こちらも強力なゲストをお招きしようと思っています)。お楽しみに。

 

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2014.06.16

『今こそ原子力推進に舵を切れ』 (WEDGEセレクション)

20140617_111220 きなり何なのか…ですよね。いや、これ半年も前に読んでいたのですが、なんとなく紹介するタイミングを逸していまして。
 というか、私の周りにも原発反対派の方々がたくさんいまして、私のような「非原発反対派」(推進派でもない)にとっては、けっこう厳しい環境というか、まあ自分の社会的立場もありますからね、あんまり声高にこういう本をおススメしにくかったと。つまり意気地なし(笑)。
 今日たまたま、教え子から電話が来てですね、彼女、このたび日本を代表する大企業に就職が決まったんですけど、どの部署に配属希望を出したらいいか、何かアドバイスをとのこと。
 「原発」部門はやめといた方がいいよねえ、と言うので、何を言っているのか、今こそ原発でしょ!と言ったんですよ。で、この本、100円だから読めと。
 いちおう確認しておきますが、私の「原発」に関する立場はこちらに書いたように、バカボンのパパみたいに「反対の賛成」です。
 ですから、この本の内容に関しても、完全に賛成の部分と、完全に反対の部分とがあります。
 化石燃料や再生可能エネルギー(意味不明なネーミングですね)について大いに懐疑的な面に関しては、この本の内容に賛成します。
 しかし、一方で「原発」が「核分裂炉発電」に限られているところに関しては承服しかねます。
 つまり、教え子にも、そういう意味での「原発の未来」を託そうと思ってアドバイスしたんです。
 実は最近、私のこうした「原発論」に賛同してくれる方が増えましてね、今のところ、研究者と政治家の方々にはけっこう味方がいるんです。あとは、実業界だなと思っていたので、その教え子にそっちのラインを期待しようと、そういうわけです。
 まあ、いずれにせよ、こういう本は、反対派の方にこそ読んでいただきたいですね。そして、一つ一つしっかり論破してほしい。感情的、感傷的になるのではなく論理的にですね。
 人によっては、いや、ほとんどの反対派が、ここに書かれている「事実」すら知らないでしょう。知った上で、大いに反対を叫び、現実的な対案を提示してもらいたいですね。
 どうも世の中の反対派が盛り上がらないのは、そこんとこに問題があるように思えてなりません。もっと、しっかり頑張ってほしい。
 なにしろ、私の周りでも、原発反対に飽きたら、今度は秘密保護法反対、続いて集団的自衛権容認反対、そしてなぜか今はワールドカップに燃えているという人もいますから(笑)。
 賛成派も反対派も、そして私のような変わり者の皆さんも、(100円ですから)ぜひぜひ読んでみて下さいまし。

Amazon 今こそ原子力推進に舵を切れ

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2014.06.15

『利他−人は人のために生きる』 瀬戸内寂聴・稲盛和夫 (小学館文庫)

20140616_112505 の、人生の究極の目標は「利他」です。
 なんて言うとカッコいいけれども、実際のところは、「利他」は手段であったりします。
 では、目的は何かというと、結局のところ「利己」だったりする。
 どういうことかと言いますと、こういうことです。
 私の仏教に対する理解は「自分が幸せになる方法は一つしかない。それは他人を幸せにすることである」です。お釈迦様のおっしゃったいくつかのことを自分なりにまとめるとそうなるのです。
 で、これは言い換えると、「利己の方法は利他しかない」ということになりますよね。目的は「利己」だが、そのための方法が「利他」しかないと、お釈迦様という天才が証明してまったので、しかたなく(笑)その唯一の方法をとると。
 こんなことを言うと、非常に不謹慎というか、不真面目に思われるでしょうね。
 いや、それでいいのです。
 実は昨日の朝まで学校行事で宿泊座禅をしていたのですが、やっぱりいくら「無我」や「空」の境地を目指してもなかなかうまくいかない。つまり、純粋なる「利他心」が自分の内側から湧いてくるということはないのですね。
 おそらくは、間違った「利己心」の服をたっぷり着込んでいるので、今更それを脱ぎ捨てようとしても、それがなかなか難しいのでしょう。
 そこで、私は、ある意味ずるいのですが、「利他」というタワシでワタシを磨こうと考えているのです。
 そう、「ワタシ」という垢を落とすために「タワシ」でゴシゴシやるということです(笑)。
 いや、けっこう真面目にそう考えているのです。いくら格好つけて悟ったようなフリをしても、ワタシはワタシがワタシのままであることをよく知っています。
 あるいは、ちょっとワタシという服を脱いでみてもですね、すぐに寒くなってしまって、また着込んでしまうわけです。
 もう、それが人間であると諦めているのです。だから、何かタワシのような強制力がないと、なかなかワタシは剥がれ落ちない。だから、「利他」でゴシゴシする。
 「利他」でゴシゴシするというのは、どういうことかというと、そんなに難しくはない。「利己」が出てきそうになったら「利他」でそれを磨き落とす。つまり、「こうなったら自分が得するとか」とか、「これをやらなければ楽だな」とか、自分を利する行動を取ろうという想念がわいた瞬間に、「いやいや、そうすると人に迷惑や苦労をかけるから、逆の行動をとろう」と思うことにしているのです。
 何しろ、ワタシは非常に利己的なので、タワシの出番が多い。ワタシが出たらタワシを出せばいいだけですから、そんなに難しいことではありませんし、テクニックもいりません。ほとんど反射的に言葉にすればいいだけです。
 変な話だと思われるかもしれませんけれども、たとえば、私はこういうことを公言して人を惑わせるのです。
 「同じお金(給料)もらってるなら、たくさん働く(人の仕事までする)方が得だ」
 普通は逆の発想をしてしまいますし、実際、経済学や経営学でこんなこと言ったら笑われてしまいます。
 しかし、上記のずる賢い(?)タワシ理論では、「お金をもらっている上に人のためになれる!」という、めちゃくちゃ得になるのです(笑)。
 ちょっとイヤな言い方をすると、人の幸せまで取っちゃう。だって、人の仕事を取るということは、その人の「利他」を取っちゃうことになるじゃないですか。
 まさに自分さえ良ければいいという「スーパー利己」ですね(笑)。
 と、まあ、私のヘンチクリンな「利他」観はいいとして、もっとまっとうな「利他」について語られているのがこの本です。
 私は、このお二人のような聖人にはなれませんなあ。この本を読んで「よし!明日から利他で生きよう」と思っても、やっぱり永く続かないんですよ。
 だから、スーパー利己のためのスーパー利他という、スーパータワシを利用させていただくのです。
 「やらない善よりやる偽善」と、プロレスラーの誰かさんが言ってましたが、まずはそこから始めないとダメなワタシでありました、ハイ。
 この本に「寝食を忘れて働くのは、僧侶の修行に匹敵すること」という章があります。まったくその通りだと思います。働く、仕事、と言っても、会社や学校とか現場だけの話ではありませんね。
 私は自分がこの世に生まれてきたのは、なにか神様から与えられたスケールの大きな仕事、働きがあるからだと思っています。
 でも、「仕事を忘れて寝食してばかりいる」ようじゃダメですよね(笑)。ま、せいぜい口だけにならないようタワシをたくさん使っていいきたいと思います。

Amazon 利他

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2014.06.14

物語の巣…月江寺界隈

 日も少し忙しいので、オリジナル記事ではなく、他人の褌で失礼いたします。
 私の職場のある山梨県富士吉田市の月江寺界隈は、昭和の時代から、いろいろなドラマや映画の舞台となってきました(ゲーム「ペルソナ4」のモデルにもなっています)。
 このブログでもいくつか紹介してきましたね。
 たしかに、昭和で時間が止まったような街並みが残っており、ここまで来るともう「遺跡」。中途半端ではないので、たしかに「絵」になります。
 昨日の記事にも書きましたけれども、ここは「夭逝の天才」を生む土壌でもあります。太宰治、李良枝、志村正彦…三人とも、ウチの学校の母体となっている月江寺の境内や池に佇んだ経験があります。
20140615_124412 池と言えば、今年の3月、ちょうど我が中学の卒業式の日に、映画の撮影部隊が来ていました。
 現場の横を通ってみると、テレビでよく見る顔が。ええと、男の人は遠藤憲一さんだし、あの若い娘は、たしか、ええと…生徒に聞いてみると、SKE&乃木坂の松井玲奈さんだとのこと。なるほど。
 なんの映画かなと思ったら、今日公開された「gift」という作品でした。

 この予告編でもいきなり池のベンチ(志村くんもここでタバコをふかしていた)のシーンが。実は右上の階段の上で私が撮影シーンを眺めています(笑)。
 さらに私たちの「実写版うる星やつら」のロケ地(?)にもなった西裏通りのシーンも。
 なんだか私たちにとっては日常的な風景が、こうして物語化すると不思議な感じがしますね。いいところに住んでるなと。
 昨年は堀北真希さんが撮影をしていました。「麦子さんと」です。月江寺大門通りです(その他都留市など)。

 やっぱり、何か特別な空気が流れているんでしょうね、下吉田の月江寺界隈。
 そのディープさをまとめてくれているサイトがありますので、おいでになったことのない方、まずはこちらをご覧ください。ぜひ全ページ見てくださいね。ヤバイでしょ(笑)。これが私たちにとっての日常風景です。
 実は、かの吉井和哉さんと当地でお会いすることがあったのですが、「このあたり、普通じゃないですね〜」とおっしゃってました。志村くんのことを言うと「やっぱりねえ」と何か納得したご様子。
 天才にしか分からない天才を生む土壌というのがあるのでしょうかね。
 皆さんもぜひ富士山を眺めるついでに遊びに来てください。連絡くださればご案内もできますよ。


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2014.06.13

ロックの詩人 志村正彦展

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 日は高校の宿泊座禅。オリジナルの記事を書く時間がないので、素晴らしいイベントの告知をさせていただきます。
 このブログでも私なりに語らせていただいてきた天才「志村正彦」。
 奇遇にも私と似た立場で、似た視点で天才に愛を注いでこれらた方の企画。全面的におススメしたいと思います。
 志村正彦はミュージシャンであるのはもちろん、優れた「詩人」でありました。私は、彼の詩を日本の韻文史上でとらえ、たとえば教材として授業で扱ってきたりしました。
 決して地元、あるいはご縁をいただいた者としての身内びいきではなく、彼の日本語には古き良き「文学」の香りがあり、そう、あえて言うなら、こちらにも書いたように(すなわち太宰治や李良枝に見え隠れする)富士山の裏側だからこそ沈殿するのであろう人間の「弱さを露呈する強さ」を、ストレートに感じるのです。
 山梨県立図書館という公的な場で、まさに、太宰や李と堂々と並んで特別展示されるということは、本当にすごいことです(いや、当然のことであるかもしれませんね)。
 こうして彼が歴史になってしまうことはある意味残念でありますが、しかし、実際こうして多くの人たちに彼の才能と彼の作品の価値を知ってもらえるのは本当にうれしいことです。
 私もぜひともフォーラムに参加したいところでありますが、その日はなんとも動かしがたい重要な別件がありまして、断念せざるを得ない状況です…。
 12日はなんとかうかがいたいと思っています。
 皆さん、ぜひ、ぜひ、彼の「詩」の世界に触れてみてください。

ロックの詩人 志村正彦 展実行委員会

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2014.06.12

椎名林檎 『NIPPON』

41rqrbh2fpl_sl500_aa300_ よいよサッカー・ワールドカップが始まりますね。
 なんだかこの曲の歌詞が物議を醸しているとか。
 まあ、それはそれでお祭りにはありがちなことですので、どうぞご勝手にと(笑)。
 もともとこの曲はロックですし、椎名林檎ですし、スポーツの国際大会なんか戦争の防衛機制の一つですからね、耳あたりのいいお花畑な歌詞を歌ってりゃいいってもんじゃありませんよ(笑)。
 おそらく、この曲が「右翼的」だという方々は、半分ギャグか暇つぶしで言っているか、あるいは、自分に抑制できない「右翼的」な傾向があることを自覚しているのでしょうね。
 私としては、とにかくこの曲がカッコよくて、気持ちよいので、それでよし。それ以上何をNHKに求めるというのか、よく分かりません。
 というわけで、さっそくダウンロードして聴いています。お祭り気分が盛り上がってきたぞ!

↓前半

↓後半

 歌詞はまあいいとして、音楽的には、そうですねえ、最近の林檎さんの傾向として、けっこう分かりやすい曲を書きますよね。この曲も高校生なんかに言わせると(授業で聴かせましたw)、「アニソンみたい」と。なるほど。
 演奏がいいですね。骨太のロックです。ベースがかっこいいじゃないですか。ストリングスは斎藤ネコさん担当ですね。
 この曲を作ったいきさつや心境などを、独特の「敬語」を駆使して語る林檎さん。存在自体が芸ですな(笑)。

Amazon NIPPON

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2014.06.11

『幕末 戦慄の絆―和宮と有栖川宮熾仁、そして出口王仁三郎』 加治将一 (祥伝社)

Th_20140423g144 日、出口王仁三郎の曾孫である出口光さんらととある会議をした際、薦められた本。
 さっそく注文して読んでみました。いやあ、たしかに面白い。ゾクゾクしっぱなし。
 悲劇の皇女和宮の消えた左手首の行方を探ると、そこに浮かび上がってきたのは歴史の裏側の真実。
 まさに驚愕の絆です。
 小説という体裁をとっていますが、ほとんどドキュメンタリーであり、作者による歴史的新発見の発表の場となっています。
 明治天皇すり替え説や、出口王仁三郎有栖川宮熾仁親王ご落胤説は昔からあります。しかし、それらがこれほど近いところでしっかり結びついていたとは。
 たしかにこのような微妙な歴史問題について語るには、「物語」という体裁で偽装した方が安全ですね(笑)。
 細かい内容については、ぜひともこの本を読んで確かめて下さい。
 私は以前から、論理力のカリスマである出口汪さんのお父様、出口和明さんの著書を読んでいたので、王仁三郎が実は熾仁親王の息子であるという可能性について、かなり肯定的にとらえていました。今回、この本を読むことによって、さらにその意を強くしました。出口家にも実際その証拠が残っているとのことです。
 明治維新にまつわる様々な「事件」は、当然その後の時代の皇室にも関係することですから、ずっとタブーとされてきました。
 しかし、ここへ来ていよいよその封印が解かれる時が来ているなと感じます。
 個人的には、「富士(不二)の仕組」の一つとして、「南北」も再統合されていくのではないかと思っています。
 そう、最近も何回か書きましたとおり、政治や歴史や経済における「左右」「東西」、さらに宗教的な「荒魂」と「和魂」が統合されていくのはもちろん、皇統における「南北朝」も再び一つに和合していくのではないかと。
 その鍵となるのが、「富士山」ではないかと真剣に考えています。
 富士山には宮下文書があります。王仁三郎と宮下文書には不思議な因縁があります(こちらのインタビュー参照)。
 そして、なぜか王仁三郎は生前富士山を訪れなかった。あれほど富士山(天教山)を重視し、あれほど全国を巡行しているのに…。
 王仁三郎は北朝系、宮下文書は南朝系…そのあたりにその謎を解く鍵がありそうだなと、この本を読んで直観しました。
 こうした歴史のタブーの裏側に横たわる「対立」を統合していくこと、それは「経緯(たてよこ)」を織りなしていくということにもつながると思います。
 これは面白いことになってきましたよ。私がなんだかんだ30年以上にわたって、ここ富士山麓で王仁三郎と宮下文書を研究し、そして耀わん「十和田」をお預かりするまでになった理由が、なんとなく分かってきました。
 王仁三郎が霊眼を開いたのは明治31年(1898年)の高熊山修行。富士浅間神社の祭神木花咲耶姫命の使いに導かれてのことです。2018年はその日から120年目を迎えることになります。

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2014.06.10

『竹山ひとり旅』 新藤兼人監督・林隆三主演作品

 隆三さんが亡くなったとのニュースが。残念です。
 林さんと言えば、私にとっては「竹山ひとり旅」。大学生の時でしょうか、劇場で観た記憶があります。どこで観たんだっけなあ。
 それから高橋竹山にはまりました。当時はお琴をやっていたのですが、なかなか日本の音楽の良さが分からないところがありました。しかし、竹山の演奏を映画で観て聴いた瞬間、と理屈抜きに衝撃を受けました。西洋音楽との比較すら野暮に感じました。
 そんな竹山の人生を見事に演じた林隆三さん。切なく熱情的な、言うなれば縄文的な空気を醸す演技。東北や北海道の美しく厳しい自然の中に響く三味線の音。
 林さん自身も歌やピアノをたしなむ音楽人でしたね。おそらくはこの映画での主演がその後の音楽人生に大きな影響を与えたことでしょう。
 竹山さんも亡くなって15年以上が過ぎました。たしかウチにVHSで録画したこの映画があったと思いますので、久しぶりに観てみようかと思います。
 最後に竹山の名演で林隆三さんのご冥福を祈りたいと思います。

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2014.06.09

『広重の不二三十六景』 (山梨県立博物館)

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 日、大月の岩殿山の麓にうかがいましたが、ちょうどその近くからの富士山遠景と思われるのが上の絵。
 先週の土曜日から山梨県立博物館において、収蔵品である歌川広重の「不二三十六景」全作が公開されております。
 この広重の名作群、実は7年前にじっくり観ています。その時は北斎の「三十六景」と比較しています。私の「独眼流」鑑賞法による分析はこちらの記事をご覧ください。自分で言うのもなんですが、なかなか面白い考察をしていますね。
 私はどちらかというと広重派です。西洋絵画を学んだことがあるからか、遠近法の矛盾があると不安な気持ちになってしまうんですね。
 それがいいか悪いか分かりませんが、とにかく広重は安心して観ていられる。全体に安心感があるので、細部の表現をじっくり観察できるんですね。
 広重の構図やデフォルメは、非常によく計算されています。それを読み取っていく楽しさは、ある種のゲーム性だと思いますし、それこそが大衆娯楽としての本来の「三十六景」のあり方だと思います。決して「芸術」ではないし、もちろん「写真」ではない。
 上の「甲斐大月原」でもそうであるように、富士山は白く記号的に描かれていることが多い。広重や江戸時代の庶民が、富士山をある種宗教的なシンボルとして捉えていたことの証左でしょうか。
 たしかに富士山の上に住んでしまっている私は、日常的にはその全体像というよりもディテール、たとえば雪形の変化に注目したりしがちですが、東京に出かけたりした時、ふと遠方に富士を見つけると、たしかに「三角」として見ているかもしれませんね。
 この広重の三十六景も比較的遠方からの記号的富士山が多い。たとえば富士五湖地方のようなところには来ていません。
 上の大月原では、富士を仰ぐ(拝む)僧を小さく配置することによって、さらにその宗教的な象徴性を高めている印象がありますね。漠たる時空間が凝縮されている。
 あっ、そうそう、全作品を博物館公式ページで観ることができますよ。
 今、上のリンクから三十六景全体をざっと眺めなおしたのですが、超シンボル表現と言えばこちらは面白いですね。伊豆の海濱。

30izu

 解説にもあるように「輪郭線」のない富士山。西洋的リアリズムでもある「輪郭線の排除」は、当時の日本絵画においては影の表現。
20140610_63722 北斎の「海濱の不二」を超えるための作戦とも言えましょうが、非常に大きな効果を生んでいますね。なんかいきなり影富士で怖い(笑)。
 つまり幽霊っぽいんですよね。輪郭線は「コト」の象徴。それがないので「モノ」なんですよね。シンボルにすらなっていない。認識したようなしていないような、見ちゃったような見なかったような…。
 逆にディテールまで描きこんで、しかし宗教性を発揮しているのは「信濃諏訪湖」でしょう。違った怖さがあります。

10suwako

 と、いろいろ楽しめますので、ぜひ博物館に足を運んでみてください。7月7日までです。

山梨県立博物館公式

 

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2014.06.08

おおつきなっとう(大月納豆)

Th_img_0335 夜は大月在住の絵本作家仁科幸子さんにご招待いただき、おいしいお食事を食べながらいろいろおしゃべりしました。
 その時空を超えたお話の内容はナイショ(笑)。本物の芸術家のお言葉は深いですね~。人脈もすごいけれど、それ以上に人間以外との気脈がすごい。
 昨日の記事で、音楽は自然との共演だという話を書きましたけれど、音楽に限らず芸術全般はみな同じですね。自然、すなわち神とつながるということでしょう。
 出口王仁三郎が「芸術は宗教の母」と言ったのがよく分かります。
 逆に言えば、特定の宗教団体に入ったり、神社仏閣を巡らなくとも、自然とつながる芸術活動(鑑賞も含めて)をすれば、人は立派な宗教者になれるということですね。
 また、芸術をする者も宗教をする者も謙虚になって、すなわち器(受信器)とならねば本物にはなれないということです。
 さて、今日はおいしいお料理をいただき、貴重なお話をうかがった上に、たくさんお土産をいただいてしまいました。本当にありがたいことです。
 そのお土産の中に、納豆マニアにはたまらないものが! 
 か、かわいい…(笑)。
 「おおつきなっとう」です。
 そう、大月、納豆と言えば、6年ほど前にこのブログでも紹介したことのある「富士納豆」です。こちらの記事を御覧ください。
 富士納豆さんの納豆はなんとなく懐かしい古典的な味わいが魅力です。
 こちらの「おおつきなっとう」は、地元大月産の大豆を使った納豆。
 まずは混ぜずに一粒つまんでいただきます。比較的小粒ですが、苦味を伴う味わいは、まさに懐かしい昭和世界。
 次に混ぜ混ぜしてご飯にかけていただきます。う、うまい…。
 付属のタレではなく、これはシンプルな醤油でいただきたいですね。そして、納豆卵かけご飯。最高!
 やっぱり納豆はこれでなきゃ。
 そして、このパッケージ。そうです。この「なっとう」君(?)、仁科さんがお描きになったキャラクターです。今にも笑い声が聞こえてきそうですね。仁科さんは納豆とも自然に会話できる方です。
 納豆は、まさに自然と自然の見事なコラボレーションである発酵食品。
 大豆を人間だとすると、納豆菌は神。納豆は神人合一した理想の宗教者、芸術家ですね!
 ありがたや、ありがたや。ごちそうさまでした。

富士納豆公式

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2014.06.07

人と楽器と自然の共演…古楽の魅力とは

Th_535 日は横浜にて演奏会。先日書いたように、本校の(遠足と)芸術鑑賞も兼ねた恒例のコンサートです。
 あいにくの大雨でしたが、本当にたくさんのお客様においでいただき、素晴らしい演奏会になったと思います。ありがとうございました。
 演奏会の内容につきましては、公式ホームページの方に早くもアップされましたので、こちらからご確認ください。
 今回も、プロ中のプロの皆さんと共演させていただき、練習の段階から本当にいろいろ勉強させていただきました。
 足を引っ張ってしまったところも多々ありましたが、やはりプロの方々の作る「音楽の空気」の中で、ある意味安心して演奏できたことは幸せなことでした。
 生徒たちの中には、あまりの心地よさに熟睡している者も多数いましたが(笑)、まあ、バロック音楽というのは、貴族のリラクゼーションのためのものという側面もありますから、それはそれで良しとしましょう。
 ある意味ぜいたくな話ですよ。考えてみれば、私も若かかりし頃、Mt.Fujiジャズ・フェスティバルで、チック・コリアらをBGMに心地よすぎてグーグー寝てましたからね(笑)。
 キース・ジャレットのコンサートでも、観客の皆さんθ波出してましたっけ。あれはほとんど寝ている状態と一緒ですよ。
 もしかすると理想の演奏ってそういうものかもしれませんね。
 今回は特に、小型のパイプオルガンとチェンバロがソロや通奏低音で共演するという、実にゴージャスな音世界でしたから、きっと特別な波動が発生したのだと思います。私も tacet で座っている時、かなりθ波が出てしまいました。
 もちろん、歌や管楽器、弦楽器が放出する波動とその共鳴も素晴らしかった。さらに言うと、あの会場は遮音性が高くないので、断続的に雨の音が聞こえていたんですよね。それもまた不思議な音空間を作る原因だったかもしれません。
 いずれにせよ、音楽というのは、こうして人と楽器と自然が交流する機会であるのです。古楽器は、ご存知のとおり、前近代的という意味において、より自然に近いものであり、その演奏に際する人間のあり方もまた自然に近い。それこそが、古楽の魅力であり、悦びであるのでしょう。
 そう、湿度が高いと、まあ大変なのですよ。お客様が湿気を持ち込んでくれるだけで、たとえばガット弦は音程も音色もどんどん不安定になる。
 チェンバロの調律を担当された方とも話しましたが、「もうあきらめるしかない」という境地なれるということは、実は音楽全体にとっては幸せなことなのかもしれません。
 実は、今日の「障害」の話にもつながるんですよね。あるマイナス要因が生じると、そのおかげで、私たちはそれを補う能力や感性を獲得できるんです。
 モダン(近代)楽器が求めた平均化、標準化、安定化によって失われたモノがあることはたしかだと思います。


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2014.06.06

『発達障害と呼ばないで』 岡田尊司 (幻冬舎新書)

Th__20140608_90615 達障害に関する研修に参加しました。
 まず言語的な側面から一言。その研修、タイトルが「発達障がい…」となっていました。「害」を使わないようにしようという動きのことはよく知っていますが、だったら「障」はいいのかと純粋に思いました。非常にナンセンスだなと。
 これこそ文字に対する相対的差別ですよね。
 それから、これも昔からずっと言っていることですが、「名づけ」の功罪について改めて考えさせられました。
 「いじめ」とか「モンスターペアレント」とかもそうですけれど、この「発達障害」もそうして名付けることによって実在化してしまうという部分がある。
 今日はそれについて語ることがメインではないのでこのくらいにしておきますが、教育現場において「名づけ」が教師や親の思考停止や行動停止を助長している事実は指摘しておきたいと思います。
 さて、今日の研修は、非常に一般的、すなわち初心者対象の内容でした。結論的には「発達障害は遺伝的要因によって発生するので、本人はもとより、親にも責任はない。社会が支援すべき」というもの。
 それはそれでいいし、正しいとも思います。それをスタートにすることに私も異論はありません。
 しかし、立場上様々なケースに遭遇する私たち教育者は、その結論一言で片付けられない多様性を日々感じざるを得ません。
 また「教育」や「支援」がはたして彼ら彼女らにとってベストであるのか、常に考えさせられるのが実情です(というか、実情であるべきです)。
 たとえばこの本を読むと、現場の人間としては非常に腑に落ちるところが多い。つまり、発達障害と愛着障害が混同されていたり、両者の関わりあいが無視されていたり、そういう現状があることはよく分かります。
 しかし、一方で「愛着障害」という言葉(名づけ)にも傷つく親御さんがいらっしゃるのもよく分かるし、ではこれからどうすればいいのかということに私たちも悩んでしまうことも事実です。
 また、この本の後半で述べられているように、「発達障害=天才」のように言い切ってしまうことにも抵抗があります。そういう可能性はあると知りつつも、それを全体に敷衍することは危険だと思います。
 つまり、「正常」「標準」とされる領域の人間にも無限の多様性があるように、ややそこから外れたところにいる人たちにも無限の多様性があるので、やはり一絡げに「名づけ」で片づけられないということですね。
 教育、特に近代学校教育の目的は「標準化」にあります。社会性の獲得、常識・教養の獲得という名目の上に、標準化を促していきます。個性や自主性の尊重などという言葉も聞きますが、それは案外教師の怠慢を隠すための詐欺的なスローガンにすぎないことが多いものです。
 また、その教育が支えている、そしてその教育を生んだとも言える「近代社会」そのものが、「標準化」を目指してきましたよね。
 特に平成に入ってからは、標準を外れたモノどもが実に住みにくい、生きにくい社会になってきたような気がします(プロレスやヤクザの世界を見てもそう思う)。
 私も、ある意味「異形」のモノなので、たとえばそうしたモノどもの世界を霊的に捉えるという異常な思考や行動をします(笑)。たとえばこの前、諏訪の御柱祭に関わる人々と交流しましたが、そこでもそのようなモノどもと神とのつながりを強く感じました。
 こうなってくると、まさにコト化(言語化・名づけ)のできない様相を呈してくるわけであり、また、それでもまだそんな世界でもがき続けることにこそ価値があるような気さえしてきますね。
 つまり結論は出ないということです。そして、どれが正常であるか、標準であるか、異常であるか、障害であるかなどという、二分法的な思考自体が馬鹿らしいものだということに気づくべきだということです。
 本当に難しい。難しくて当たり前。名づけによって、その難しさを安易に単純化するのは、どうも気に入らない。
 私、教師として、標準を外れた子ども、学校価値観的に問題を起こす生徒たちの個性をうまく伸ばし、社会に貢献できる(すなわち自己肯定感をも得る)ように導くことに関して、思考的にも、技術的にも、愛情的にもけっこう得意な方だと自負していますが、それでも全てがうまく行くわけではありません。当たり前ですけどね。
 ふぅ、本当に難しい。難しいから仕事なのでしょうね。この苦悩と闘っているから給料もらえているのでしょう。
 なんだか今日は妙な文章になってしまいましたね。でも、これが私の本当です。

Amazon 発達障害と呼ばないで

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2014.06.05

iPhone用車載充電器 TKM439K (多摩電子工業)

Th_533_3 ょいと忙しくて本など読んでいるヒマがないので、今日もiPhone用の小物を紹介します。
 昨日の記事に書いたように、最近はiPhoneをナビとして使っています。そうするとバッテリーの消耗が激しいんですね。見る見る数字が減っていく。
 で、車載用充電器につないで使うわけですね。ところが、今までの充電器だと、電力の消費と供給がほとんど均衡していて、例の数値が減りはしないけれどもほとんど増えないのです。
 そこで最近買ったのがこれ。なんと最大出力2.4A。
 と言ってもよく分からないかもしれませんね。パソコンの一般的なUSB出力は0.5A。普通のiPhone充電器は1A。よくある急速充電器は2.1A。
 もちろん、これらは「最大」であって、電圧は5V固定ですから、iPhone内の抵抗値によって電流の大きさが決まることになります。
 そのへんの仕組みや、ナビ使用時のiPhoneの抵抗値などはよく分かりませんが、たしかにこれを使うとどんどんバッテリーは充電されていきます。ナビやBluetoothオーディオを使いながらもどんどん充電できるので気持ち良い。
 リチウムイオンポリマーバッテリーは、特に最初に一気に充電するので、減ってしまったバッテリーをとりあえず短時間である程度まで充電したい場合は、こうした高出力の充電器が有効です。
 だいたい2倍の早さでガンガン充電していきますね。これは大変便利です。
 ただし、バッテリーがちょっと熱くなります。たぶんそれなりに無理をさせているんでしょうね。それがバッテリーの寿命とどう関係があるか、それも私はよく分かりませんが、まあ、最近のガジェットはせいぜい1年や2年で買い換えちゃいますからね。バッテリーが先にへたるということもあまりなくなりました。
 充電方法なんて一種類しかないと思っている方が多いと思いますが、実は急速充電という快適なワザがあることを知ると、スマホライフがより快適になるでしょう。

Amazon 多摩電子工業車載充電器 2.4A Lightning


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2014.06.04

iPhone5用 2Way レザーウォレットケース スナップ S (SPIGEN)

Th_717m3iejugl_sl1500_ 1年ぶりにiPhone5のケースを替えました。こちらで紹介した950円の(笑)ブック型を使い続けてきましたが、さすがにボロくなってきました。
 私は、ここのところずっとブック型(ダイアリー型・ウォレット型)を使ってきました。やはり、各種カード、特にsuicaを挿入して駅でピッとできるところがいい。
 ただ、一つ問題があるとすれば、車の中でナビとして使うときに、普通のホルダーだとうまく保持できないことです。いわゆる表紙部分を裏側に折り返すとそれなりの厚さや幅が出てしまいますから。
 そこで今回購入したのはこちら。2Wayというところがミソです。
 すなわち、ブックの中身が取り外せて、普通のケースのようにも使えるということですね。次の動画を見て下さい。

 たしかにこれは便利。取り外し、取り付けも簡単です。
 本革なので質感も高いし丈夫そう(ちょっと重いけれど)。デザインもシンプルですし、赤のワンポイントも気に入っています。
 ちょっとお値段が張るのが残念ですが、それなりの価値はあるかなと思っています。
 SPIGENはアメリカの会社ですが、製造は韓国。刻印が MADE IN JAPAN だと良かったのにな。
 iPhone6の噂もいろいろと出始めていますけれど、これ以上大型になるのはなあ、とも思います。日本人にとっては4の大きさくらいがちょうどいいような気もしますね。
 私は基本iPhoneを胸ポケットに入れる派なので、そういう意味でもこれ以上大きくなるのは避けたい。
 ただ、最近老眼が進んで、夜なんかiPhoneの文字を読むのに苦労するようになりました(苦笑)。そろそろiPad miniもほしくなってきた…かな。

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2014.06.03

まにまに(随)

 二病の中3の娘がいきなり「まにまに」っていう漢字は送り仮名どうなるの、という「まに」アックな質問をしてきました。
 私、恥ずかしながら、まず「随」という漢字がぱっと浮かばず「?」状態になってしまいました。いかんいかん。
 娘はなんだかオタクな音楽(すなわち上の「千本桜」ですね)の歌詞に出てきたから知っているそうで、たしかに中二病文化というのは、意味もない背伸びや、そうした古典的な言い回しによる現代社会、一般的若者からの差別化を図りますからね(笑)。
 で、その質問に対する答えですが、これが実は難しい。「随」で「まにまに」なのか、それとも「随に」なのか。
 だいいち、「まにまに」自体が品詞的に何なのか、よくわからないのですよね。
 用例として最も有名なのは、百人一首にもある菅原道真の歌でしょう。

 このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに

 いや、この歌自体、意味がよく分からないのです。学校ではまあ適当に教えられていますが、どうも道真のことだから、深い裏の意味がありそうな気もします。
 いずれにせよ、「神のまにまに」は「神の思し召しのままに」という意味で正解だと思います。
 そう、今ふと使った「ままに」という言葉は「まにまに」が短縮されたものと考えられています(「ままに」が先だという説もあります)。
 そうしますと、今異様にはやっているアナと雪の女王の主題歌「ありのままで」は「あるがまにまに」ということになりますね。
 なんだか「Let it go」というのは「忘れてしまえ」というような意味だとかいう話もありますけれども、どちらにしても、「自己(の意志)にこだわらない」という意味では、英語の let も日本語の「まにまに(ままに)」も他者性の強い言葉であることは分かりますね。
 そこで私が言いたいのは、「まにまに」と「もの」という言葉の関係です。
 いささかこじつけのように感じられるかもしれませんけれども、「mani」と「mono」が同源である可能性は充分あると私は思います。
 どちらも自分の意志を超えたところ、言い換えると「他者の随意(思いどおり・自由)」というニュアンスがあります。
 案外意識されていませんが、「だっておねえちゃんがいじめるんだもん」という時の「もん」は「もの」です。これも「自分の意志に反して」「他者のせいで」という意味を含んでいますよね。
 「もの思い」の「もの」もそうです。「もの思い」の内容というのは、片思いだったり、望郷であったり、なかなか自分の思いどおりにならないことばかりですよね。
14e76f ところが「随」という字は、「したがう」という意味ですし、「随意」(これで「まにまに」とも訓む)は「自分の思いどおり」という意味ですよね。なんとなく矛盾しているようにも感じますが、もうお分かりのとおり、これはあくまでも「他者が自分の意志にしたがっている状態」を表しているんですね。
 だから、「まにまに」という和語も自分には使われません。
 そして、その「まにまに」こそが日本の思想・哲学の根本なのです。
 神道に「随神(かんながら)」という言葉があります。これはまさに「神のまにまに」ですよね。「神の思し召しのままに」ということです。
 道真も当然、「随神」を中心的な哲学として持っていたに違いありませんから、あの歌にもそういう神道的な意味合いがあるはずです。そのへんは教科書では教えられませんね。
 というわけで、中二病の娘の問いに対する答えですが、「送り仮名なしでもいいし、随にでもいい」という、なんともスッキリしないモノになってしまいました(苦笑)。
 最後の「に」のとれた「まにま」という言い方もないにはないのですが、ほとんどが「まにまに」「ままに」として使われているので、ひとつづきの連語としてとらえた方がいいようです。
 ちなみに、本来の「波の随に(流され揺れるがままに)」に、「波の間に間に」という漢字をあてたのは後世のことで、そこから「間(あいだ)に」的な新しい意味も生まれてしまいました。間違いと言えば間違いであります。

 

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2014.06.02

告知!第28回都留音楽祭

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 楽関係の告知をもう一つ。古楽の真夏の祭典「都留音楽祭」も今年28回目を迎えます。今では全国的にも最古参の音楽祭の一つとなりました。
 私は第1回からスタッフ(&受講生)として関わってきました。ある意味私の人生を大きく変えてくれた音楽祭であります。
 今年はまた素晴らしい外国人講師がいらっしゃいます。それもお二人!
 まずは、声楽コースの特別講師として、今やヨーロッパ古楽界でも第一人者として大活躍中の若手テノール歌手エミリアーノ・ゴンザレス=トロさんをお迎えします。
 う〜ん、これは楽しみですねえ。彼はスイス生まれですが、両親はチリ人。ラテンアメリカの血が流れているというのが面白い。
 フランス語が母語でしょうけれども、イタリアもの、ドイツものも得意としているようです。
 バッハのヨハネ受難曲のアリアの動画をご覧ください。ヴィオラ・ダモーレも聴けるのでぜひどうぞ。

 彼のリサイタルもあります。今年も伴奏で参加できればいいなあ。レッスンや練習も含めて、ものすごい体験になりますので。
 そして、もう一人、バロック・ダンスの世界的巨匠トーマス・ベアードさんです。
 ベアードさんは何回かこの音楽祭においでになっています。バロック音楽を演奏するものにとって、ダンスは避けて通れないもの。バロック音楽は、宗教音楽に至るまで、ほとんどがダンス・ミュージックでできていますからね。
 彼の動画も観てみましょうか。

 加えて、日本を代表するいつもの日本人講師陣が控えていますからね。まったく、この何もない田舎(失礼)に、これほど豪華な本場のバロック時代がやってくるというのは、ほとんど奇跡に近いですね。そして、それが30年近く続いている。
 最近、都留も夏は暑いのですが、それでも夜は涼しいですし、ぜひとも避暑をかねてご参加くださいませ。
 一部の聴講、あるいは見学、演奏会だけの鑑賞も受け付けています。皆さんのスタイルで参加してください。
 そして、私の裏方の仕事を手伝ってくださるボランティアの方、いらっしゃいましたらぜひお願いします。ボランティアならではのメリットが満載ですよ(笑)。
 問い合わせ、申し込みはこちらから。


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2014.06.01

告知!横浜でバッハを弾きます。

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 例になりましたこの時期の横浜開港記念会館でのコンサート。お手伝いさせていただいているアンサンブル山手バロッコの定期演奏会です。
 我が校の遠足・芸術鑑賞も兼ねております。教頭自ら演奏して聴かせるというのも珍しいのでは(笑)。
 いや、中1にバロック音楽を聴かせるのはけっこうハードでしょう。そこにいつもはふざけてばかりの(?)先生が真面目な顔で登場すれば、違った意味で眠気も覚めるのではないでしょうか。
 今年はオール・バッハ・プログラム。オルガンとチェンバロと歌が活躍する華やかな曲が演奏されます。

・復元協奏曲 ニ短調 BWV35-1/156-1/35-5
 (オルガンおよびオーボエ独奏)
 
・カンタータ 第169番 《わが心は神だけのもの》BWV169
 (アルト独唱)
 
・カンタータ 第199番 《わが心は血の海を泳ぐ》BWV199
 (ソプラノ独唱)

・ブランデンブルク協奏曲第5番 ニ長調 BWV1050
  
ゲスト 
木島千夏(ソプラノ)、
大山有里子(バロック・オーボエ)、櫻井茂(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
吉田恵(ポジティフ・オルガン)、寺村朋子(チェンバロ) 

アンサンブル山手バロッコ(朝岡聡主宰)            
曽禰愛子(メゾソプラノ)、曽禰寛純(フラウト・トラヴェルソ)、石野典嗣(バロック・オーボエ)
角田幹夫、原田純子、山口隆之、小川有沙(バロック・ヴァイオリン、バロック・ヴィオラ)、飯塚正己(コントラバス)

 今日は、渋谷である本の出版会議をしたのち(面白くなりそうですよ)、千駄ヶ谷にて最終練習。今週末の本番に向けて完成度を高めました。
 今回私はヴァイオリンとヴィオラを弾きます。特にブランデンの5番のヴィオラを弾けるのはうれしい。ものすごく幸せなパートなんですよね、あれ。
 練習ではオルガンは搬入できないのでチェンバロで代用しています。つまり、私たちも当日初めてオルガンと共演できるわけです。そういう意味でも本番が非常に楽しみであります。
 6月7日(土)、お時間のある方はぜひおいでください。
 チケット予約等はこちらからどうぞ。

 

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