音楽における神と悪魔と人間(新垣隆さんの記者会見を見て)
昨日の話の続き。一躍時の人となってしまった新垣隆さんの記者会見を見ていろいろ思ったことを書き連ねます。
まず、第一に感心したのは、新垣さんが非常に誠実な方だということ。そして、そういう誠実さが、多くの「佐村河内守の名作」を生んだのだなということ。
音楽というものには、ある種の誠実さが必要です。ただ売れれば良い、カネになれば良いという音楽には、そういう臭いがつきまとう。
正直、昨年メディアに露出した佐村河内さんのイメージと、私が耳にした限りの音楽とには、明らかなギャップがあり、そこにどこかしら疑念のようなものを抱いていたのは事実であります。
おそらくは私と同様に違和感を拭い切れなかった方も多いのではないでしょうか。
結果として、やっぱりなということになったわけですが、なるほど音楽というのは実に恐ろしいものですね。作曲にせよ、演奏にせよ、そこにその人の魂が如実に現れてしまう。それは、言語や外見という表象を完全に凌駕して明らかに存在するのです。
そういう意味で、「佐村河内守の名作」群が、今回の騒動を抜きにして、純粋音楽として永遠に新垣隆の魂を象徴し続けることになるのは、それはそれで素晴らしいことかもしれません。
一方で、新垣さんが意識しているように、たしかに佐村河内というプロデューサーによる導きがなければ、名作群は生まれ得なかったのも事実ですし、演奏者、そしてオーディエンスがいなければ、音楽自体が生命を持ち得ないという点においても、改めて音楽の他者性を感じないではいられない会見の内容でした。
少し話が飛びますが…先日、瀬戸龍介さんとの節分会で、瀬戸さんのお作りになった素晴らしい音楽を聴く機会を得ましたよね。その音楽もそうだったように、純粋な作曲という行為は、実は非常に他者性の強いものなのです。
すなわち、「降りてくる」という体験です。これは作曲という行為や作業というよりも、宗教的な体験と言った方がより理解しやすいかもしれません。
昨日紹介したフリードリヒ大王のシンフォニアなどは、いかにも俗性が強く感じられますが、それと対照的と説明した大バッハの楽器の指定すらない高次元純粋音楽は、明らかに高次元の聖性に包まれているように感じます。
おそらくは、バッハは職人というよりは、やはり瞑想者に近い才能を持った天才であったと思います。語弊を恐れず言うなら「神降ろし」ができたのでしょう。彼の音楽が普遍性を持って私たちの心に響くのは、当然そういう聖性あってのことに違いありません。
ここで急に卑近な話になって恐縮です。私、最近八雲琴を手に入れました。
なんで、今、八雲琴なのかというと…今では楽器というと「発信機」だと思っていたんですよね。それが、ある日急にピンと来た。まさに降りてきたんです。あ、八雲琴は「受信機」だと。
まさに神から降ろされたモノをコト化するためのinstrumentであると。楽譜を再現するというような思考回路とは正反対に、自分が空っぽになって、天(高次元宇宙?)からの波動を受け取って、ただそれを「うつす」。ずいぶん前に書いたように、「うつす」や「うつ(空っぽ)」や「うつわ」は同源の言葉です。
ここで、また話が飛ぶ、いや戻るのかな、この前の王仁三郎フォーラムで、出口汪さんが王仁三郎の「神観」についてこう説明していました。
「西洋の神は万能だが、日本の神は無能である。人間がいないとコップ一つ上げられない」
これは非常に象徴的で重要な「神観」ですね。
音楽もこの言葉と結びつけてとらえると、その本質がつかみやすい。お分かりになりますよね。
新垣さんの作品で言うならば、まずその創作、誕生の段階からして、佐村河内という他者が深く関与しています。いくら佐村河内がピアノが弾けずとも、あるいは楽譜が読めずとも、また耳が実は聞こえようとも、虚言症でも悪人でも、とにかく新垣さんの聖性を高める働きをしたことは事実です。
そして、先ほど書いたように、優れた演奏家によって演奏され、録音され、多くのオーディエンスに聴かれるに至った。
さらにそうした他者性が、新垣さんの聖性を高める結果を生む。もちろん、仮に私が新垣さんの立場だったら、残念なことに欲望が暴走して、俗性が高められてしまったことでしょう。しかし、新垣さんは違った。彼は瞑想者、音楽への奉仕者だったのです。そこがポイントだと思うのです。
前述したように、音楽は神に近いものです。西洋では、悪魔に近いとも考えられていました。日本では、悪も神ですから、一言で神と言っていいと思います。
そう、つまり、新垣さんがある意味本来の「作曲家」であったからこそ、つまり、彼の生み出す音楽が、様々な現世的な状況を超えて、あまりに純粋だったからこそ、そこに悪神(悪魔)宿り、佐村河内守を狂わせてしまったのです。
そういう意味では、新垣さんも佐村河内さんも、音楽の魔性に翻弄された被害者とも言えましょう。
さらに難しいのは、俗世間でその音楽を受け取る側には、実に多様な「物語」が必要だという宿命です。
「物語」を要求してしまうんですよね。「物語」がないと、その純粋世界に近づけないのです。すなわち、そこに「全聾」とか「貧困」とか「被爆」とか「震災」とか「義手」とか、極言すれば「死」に近づくための物語がないと、私たちは豊かな生という俗性から抜け出せないのですよ。残念なことですが。
そういう豊かな生が生む悪魔という点では、私たちにも大きな罪があるとも言えるし、逆に私たちも被害者だということもできる。
難しい。しかし、面白い。いろいろ考えさせられました。
はたして、瀬戸さんが受け取って作ったあの素晴らしい音楽は誰が生み出したものなのか。私が爪弾く八雲琴が発する音の連なりは誰の言葉なのか。もしかして、ゴーストライターは人間ではなく、神(もしくは悪魔)なのかもしれませんね。
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