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2014.02.28

天命は人事を尽くすを待つ

20140301_104017 日は我が高校の卒業式でした。2月中に行われるということで県内では最も早い卒業式です。
 今年度は創立50周年の年であり、しかし一方で理事長の逝去があり、まさに激動、悲喜こもごもの1年でありました。
 そんな中での卒業式ということで、私としましても一際感慨深いものがありました。
 式典の中には様々な言葉が卒業生へのはなむけとして贈られましたが、今年も最も印象に残ったのは、我が校の名誉校長であり、岐阜の名刹正眼寺の住職である山川宗玄老大師のお言葉でした。
 昨年の卒業式での「過去は滓(カス)だ」にも大きな衝撃と感銘を受けましたけれども、今年もまた名言を残していってくださいました。

「天命は人事を尽くすを待つ」

 もちろん、「人事を尽くして天命を待つ」が元になっている言葉です。老師は「人事を尽くして天命を待つ」の私的解釈として、「天命は人事を尽くすを待つ」とおっしゃりました。
 すなわち、人事を尽くさねば天命はやってこないということですね。たしかに「人事を尽くして天命を待つ」の裏には、「だから人事を尽くしなさい」というニュアンスがあります。
 しかし、それを「天命」を主語とすることよって、さらに断定的、核心的にしたのが老師のお言葉です。
 ここでまたワタクシの「モノ・コト論」が登場してしまい、お目汚しとなってしまいますが、「人事」とはまさに「コト」であり、「天命」とは「モノ」です。すなわち、人事は自己の意思に基づいた行動であり、天命は自己の意思とは無関係の他者(神仏、自然)の意思ということになります。
 私はことあるごとに、「コトを窮めてモノに至る」と言ってきました。これがなかなか理解してもらえなかったわけですが、このたび老師のお言葉で、自分自身も「なるほど」と得心したのであります。
 禅は、自己を究極まで探求していくと、最終的に自己を離れて、自己の補集合たる宇宙に還っていくというものだとも言えます。
 または形式(カタ=コト)を徹底していくと、そこに無限の多様性や個性が顕現するものだとも言えましょう。
 主語が「コト」から「モノ」になっていくのです。
 私のような野狐禅、いやそれ以下の野狸禅者が、本物の老大師さまのお言葉に対して偉そうなことは言えませんけれども、本当に肚にストンと落ちました。悟ったのかな(笑)。
 昨年もそうでしたが、こうして老師のお言葉に不思議な共鳴を覚えるのは、やはり、私の人生観、あるいは(ハッタリですが)哲学のようなものに、禅が大きく影響を与えているからに違いありません。
 そうした禅的な発想から言えば、「人事を尽くしたから、あとは天命を待つだけ」ということもあり得ないのかもしれません。
 「人事を尽くす」とはどこまでのことなのか、「天命を待つ」境地というのは本当にあるのか…。
 その問い自身が禅そのものでもあるはずです。
 老師は、亡くなられた本学園の理事長の言葉を何度も繰り返しました。
 「精いっぱい、力いっぱい」
 そのように生きた者だけが、今起きていることを天からの授かりものとして素直に受け止めることができるのでしょう。
 卒業生諸君、卒業おめでとう。お互い死ぬ時に天命を感じられるよう「精いっぱい、力いっぱい」今を生きようではありませんか。

Amazon 無心の一歩をあゆむ

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2014.02.27

『東大現代文で思考力を鍛える』 出口汪 (大和書房)

20140227_145448 年の東大の国語の問題もなかなか面白い良問でした。
 特に第一問、藤山直樹さんの『落語の国の精神分析』は読んでいて楽しかった。あまり論理的な文章ではありませんが、自己の分裂(他者性)とその裏側にある統合(虚構の自己)を考えるのに、いい「教材」でした。
 とても読みやすい文章なので、皆さんもぜひ今年の問題はこちらからどうぞ。
 東大の国語、特に現代文の面白さ…つまり問題を解きながら自分が成長している実感を得られるということ…については、今までも何度もこのブログで書いてきました(あんまり真面目ではありませんが)。

「心より物の時代」(自己より他者)
東京大学入試問題(国語)
東京大学入試問題(国語)より「白」
東京大学入試問題(国語)より「プライバシー」

 私は、自分の「モノ・コト論」で読める文章は全ていい問題としてしまう傾向があるのですが(笑)、東大の現代文はまさにそういう意味で良問。毎年、「そうそう」と思いながら読めます。
 今年の「他者性」は、ワタクシ流に言うと「モノ」にあたります。モノが統合されてコトとなるのです。しかし、コトはあくまでも虚構であるというのが、私の屁理屈です。
 と、そんな自己流、無手勝流ではなく、ちゃんとした論理性と普遍性をもって「東大現代文の素晴らしさ」を語ってくれたのが、カリスマ出口汪先生。
 不思議なご縁で、まさに公私ともども、あるいは霊体ともどもお世話になっている出口先生。今回のこの本も、本当にさすがです。
 教養を深め、思考力を高めるために東大の現代文は最高の「教材」となりうる。
 これはある意味では当然と言えば当然です。私も立場上毎年「出題者」になります。当事者になるとよく分かるんですよね。文章の選択と問題の作成に自分の人生をかける(笑)。
 最近は「文章の選択」が面倒くさくて(実際異常に手間がかかる)、自分で「本文」を書いてしまうという荒業をやっちゃってますが、本当は出題者はみんなそうしたいんですよ。間違いなく。ただ、客観性が保たれないのでできない。そこで、自分の身代わりを探すんです。
 こういう内容のこういう文章のこの部分をこういうふうに読んでくれる生徒・学生がほしい。
 そういうメッセージを出すのが入試問題ですから。
 すごく卑近な(現実的な)言い方をすると、「相思相愛の生徒に教えたい」ということなのです。
 だから真剣に問題を作る。それを日本のトップ東京大学の先生方がやるわけですから、当然非常にクオリティーが高くなるし、プライドのようなものも発動する。
 そして、出口先生が指摘するように、いわゆる東大のイメージを崩すような、「反常識」「反権力」「その他大勢になるな」という、意外に柔軟な、あるいは革新的な(しかしどこか保守的な)メッセージが発せられるのが面白い。
 おそらくは、東大の先生方にとって、入試問題というのは、大学での講義や、論文の執筆や、学会での発表と違って、ある意味素の自分を出せる唯一の場であるのかもしれません。
 人は、若者(未来)に対しては「理想主義者」になりえます。教育とはそういうものです。その象徴が、この東大現代文なのかもしれません。
 そうした「文化」的なレベルまで踏み込んだ出口先生は、やっぱりすごいなと。もちろん単なる予備校の講師の次元ではありません。
 今、出口汪先生は、新しい世界の構築のために、自らもまた新しい世界、次元に挑戦されています。身近なところにいると、そういう厖大なエネルギーを感じます。
 さすがは、出口王仁三郎の曾孫ですね。これからもご指導よろしくお願い申し上げます。

Amazon 東大現代文で思考力を鍛える

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2014.02.26

『二ギハヤヒ』 戸矢学 (河出書房新社)

『先代旧事本紀』から探る物部氏の祖神
9784309225562 ギハヤヒ…謎の多い神様です。それだけに古代史ファンには人気です。
 私はつい最近まで、それほど興味を持っていませんでした。しかし、どうも最近気になってしかたないんですよね。
 そこで何冊か関係書を買って読んでいます。一番最初に読んだのが、谷川健一さんの「白鳥伝説」でした。記事にも書いたように、これは知識の不足している私にはちょっと厳しい本でした。おそらく今読むともう少し理解が深まるかもしれません。
 ただ、あの本を読んでから、甲斐国白鳥神社を発見(?)したり、物部と安倍にまつわるご縁がいろいろと深まったたり、また、仲小路彰の神話解釈に触れるなどして、なんとなく自分の中にあるイメージが浮かんできているのでした。
 まだ、それをはっきりは表現できませんが、ものすごく簡単に言うと、出雲系(大国主・大物主系)、あるいはニギハヤヒ系(長髄彦系)が、天照系(神武・日本武系)に「国譲り」した、すなわち縄文が弥生に表面的には征服されたように見えるが、実際にはその中心的精神である「和魂(にぎみたま)」が温存・継承されることになったと。
 それが、のちの蘇我氏による物部討伐、そして聖徳太子の十七条憲法による「和」の継承につながったり、とにかく一つの「国譲り」の雛型が日本では繰り返されながら、その「和魂」が生き続けてきたということになります。
 私の極論によると、たとえば先の敗戦とアメリカによる統治、さらには日本国憲法にもその理論というか手法というか知恵というかが継承されています。
 昨日の「変わり続けることによって変わらない」「動いているから動じない」、あるいはソチ五輪における浅田真央選手による「負けて勝つ」にもつながりますよね。日本という国の本質はそこにあるのだと、最近強く思うわけであります。
 そうそう、オリンピックと言えば、羽生結弦とニギハヤヒなんていう(トンデモな)記事も書きましたっけ。いや、案外人気でしたよ、この記事。
 というわけで、ちっとも本の紹介になりませんね。こちらの戸矢さんの「ニギハヤヒ」論、とっても面白くスリリングで、読み物としては非常に楽しかった。
 この戸矢説が正しいのかどうか、知識も思索も少ない私には全くわかりませんが、いろいろとインスパイアされたことは確かです。
 ちょっと細かいことですが、たとえば全国に物部神社は十七しかなく、中でもニギハヤヒが祭神となっているは二社しかないとのこと。そして、その一つが山梨にある。石和の物部神社です。さっそく行ってみなくては。
 笛吹市と言えば、御坂に美和神社がありますね。祭神は大物主です。やはり、甲斐の国は縄文の臭いが強いなと。
 「美和」という字も、考えてみれば尊称美称に「和」ですね。どうも、私の最近のキーワードは「和(にぎ)」のようです。
 もちろんそこには富士山や皇室とも関係の深い「ニニギ」も入ってきます。ニニギとニギハヤヒの関係も謎ですし。
 勝者の歴史書には「征服」のように書かれますけれども、実際には「禅譲」だったのだと思います。そして、その「禅譲」の裏には縄文の生き残り&再生のプログラムが秘されている。
 その秘されたモノが時々地下水脈から噴き出してくるのです。安倍総理も案外それなのかもしれません。和魂が表面化する時には荒魂となって見えるものですから。
 そして今日は二・二六事件の日でしたね。
 結局、この本の内容とは関係ない話に…いや、充分関係しているか。
 あっそうそう、この本で初めて「鎮魂(帰神)」の本当の意味がよく分かりました。それだけでも大収穫。
 
Amazon ニギハヤヒ

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2014.02.25

再生、禅譲、不変、永劫…「もののあはれ」

Th_img_8104 が校の隣にある「月江寺の池」。かつて鳴琴泉とも呼ばれたという湧水池は、このたびの大雪でも、ほとんどその姿を変えませんでした。
 街中、いや山梨県中が真っ白になった中、その透明な姿はいつにもまして鮮やかな印象を残しました。
 この池は、富士山に積もった雪が何十年もかけて地下の水路をたどり、溶岩流の切れ目から湧き出しているものです。
 その水量はかつてほどではないにしても、常に新しい命が供給されているかのように、美しく澄んだ風景を作り出しています。
 あれだけの雪が降っても、ある意味全く動ぜず、そのいつもの姿をとどめていたのは、やはりそれ自身が常に動いている、常に更新されているからでしょう。
 常に変わっているから、常に変わらない。動いているから動じない。
 このパラドックスは、日本の文化、すなわち自然の摂理を象徴していると言えるでしょう。
 この月江寺の池を見ながら、昨年の出雲大社、伊勢神宮の式年造替(遷宮)を思い出しました。常に生まれ変わることによって、永遠の不変を実現するという知恵。常若。
 常に譲り続けているからこそ、その本質が生き続けるという意味では、最近私が重視している「国譲り」にも通じます。
 これはまさに自然の摂理ですね。その自然の摂理の中に生きるのが、日本人の本来の姿であり、日本の文化の本質の部分だと思います。
 西洋近代文明においては、その摂理に人間の知力で立ち向かい、全く違った意味での永遠性を得ようとしました。
 この対照は、私の言葉で表すなら「モノ」と「コト」ということになります。日本は「モノ」文化。西洋は「コト」文化。
 「もののあはれ」というのは、決して宣長の言うような「折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁」ではありません。これではほんの一部しか捉えていません。
 「もの」とはたしかに「無常」です。「もの」とは「無常・不随意・他者」などの「非自己」を表す語です。「あはれ」は「哀れ」と「あっぱれ」のもとになった語ですから、哀愁だけではなく、驚きや感動をも表します。つまり、いいにつけ悪いにつけ「手放し」状態なのですね。自分の意思とは関係ないところのサムシンググレートを感じる心なのです。
 ですから、今回私が大雪に感じたのも「もののあはれ」ということになります。こういう非常時、人知の及ばない事態になった時に感じる人間としての無力感と、自然(他者)に対する畏敬の念や、世の中の本質の発見。これがすなわち「もののあはれ」の全体像です。
 今回の大雪に関しては、情報の取り扱いや除雪の方法、さらには耐雪構造物のあり方など、いわば「コト」世界での発見も多くありまたが、やはり「モノ」的な発見が多かったような気がします。
 今回の大雪の雪解け水もまた、数十年後、この池を潤すことになるのですね。それもさり気なく来ては去っていくのです。非日常が日常に生まれ変わっていく。
 自然界の「荒魂」「和魂」の作用に感謝いたします。
 あっ、もちろん、大雪の中のシローさんがもたらした「和み」にも(笑)。


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2014.02.24

もう一つの富士山(その10)…2月24日にちなんで

Th_naoki_sanjugo 日もまた「…日にちなんで」シリーズ。そして、久々の「もう一つの富士山」シリーズ。
 昨日の記事では、富士山を天皇と重ねて思いっきり持ち上げましたが、今日はズドンと下げます(笑)。
 いかにもこのブログらしいですね。いや、ことはそんなに単純ではありません…。
 というわけで、今日は2月24日。なんの日かというと、直木賞のもとになった直木三十五の命日です。南国忌といいます。ここから今日は話を広げていきましょう。
 芥川賞の芥川龍之介は誰でも知っているし、みんな読んでるし、実際評価も高い。
 では、一方の直木賞の直木三十五はどうか。だいたいこの人の名前がちゃんと読めない人もいらっしゃるのでは。
 別に難しくともなんともないんですよね。「なおきさんじゅうご」。ご存知の方も多いと思いますが、「直木」は本名植村宗一の「植」を分解したもの、「三十五」は年齢がもとになっています。31歳の時「三十一」というペンネームにしてから、「三十二」「三十三」と増えていって、ちょっと事情があって「三十四」は飛ばして「三十五」、また理由があってそこでストップ。そのまま43歳で亡くなっています。
 彼は大衆文学作家としてそれなりの評価と人気を得ていました。まあそうでないと直木三十五賞なんてできるわけありませんからね。しかし、彼が映画監督としても優秀だったことは意外に知られていません。
 それ以上に直木の作品はほとんど読まれていないというのが現状です。私もほとんど読んだことがありませんでした。
 で、最近、青空文庫でちょこっと読んでみた「三人の相馬大作」という作品に、一瞬「富士山」が出てきまして、それがちょっと心に引っかかっていたんですね。
 こんなふうなシーンです。

 相馬大作、相馬大作と、豪傑のように――来てみれば、左程でも無し、富士の山だ。紙の大筒など、子供欺しをしおって――

 そう、ここに出てくる「来て見ればさほどでもなし富士の山」という、川柳というかことわざというか慣用句を久しぶりに見たような気がしたのです。
 この「ことわざ」、一般には「大げさに言われていても、実際に見てみると、たいしたことがなくてがっかりすること」の意味で使われています。
 実は、この「五七五」の句は、川柳ではなくて短歌の一部です。元ネタと思われる長州藩士村田清風の歌は少し違っています。

  来て見れば 聞くより低し 富士の山
        釈迦や孔子も かくやあるらん

Th_p_murata 「見る」と「聞く」とが対照されている感じですね。そして、大胆にも釈迦と孔子を見下しています(笑)。
 まあ、この歌の裏には「知識として知るだけでなくちゃんと自分の目で確かめろ」というメッセージがこめられているのだと思いますがね。百聞は一見に如かず。
 また実際、富士山に住んでいる私でも、その日によって、「今日の富士山は高いな」とか「大きいな」とか、その逆だったり、自分の心を反映しているのか、その見え方が変わることもあるのです。
 釈迦や孔子というと、我々はついつい盲目的に「正しい」「素晴らしい」と思いがちですが、やはり彼らの言葉や事蹟を鵜呑みにするのではなく、体験的に自分の血肉にしていかねばなりませんね。
 さてさて、そんな深い意味があったはずの村田清風の歌が、その上の句だけが残り、さらに改作されて、川柳のように、あるいはことわざのように使われるようになったのは、おそらく明治の終りくらいではないかと思います。
 詳しくは書きませんが、歴史的に見ると、江戸時代、富士山は富士講の信仰対象になると同時に、聖俗両方の意味で大衆性を背負うことになりました。庶民の「お富士さん」という感じです。
 これはこれである種の「国譲り」であると私は考えているのですが、それが現代まで続いていて、富士山は単なる観光施設、見世物になってしまった感もあるわけですね。聖性が忘れ去られてしまった。
 そんなところに、もう一つの富士山(その1)昭和13年「防共盟邦親善富士登山」に書いたように、不自然に「聖性」を持たせようとした時期もありました。
 そして、それを敏感に察知して、それこそ「さほどでもなし富士の山」で小説を書いてしまったのが、太宰治です。それについては、もう一つの富士山(その7)太宰治『富嶽百景』で私見を述べさせてもらいました。
 それは、昨日の話と関連させますと、近現代における天皇の真の聖性の低下にも重なってきます。
 「日本を、取り戻す」ために、まず我々がしなければならないのは、この両者の聖性の復権なのではないでしょうか。
 これは現代的な意味での右翼化なんていう次元ではないのは、私が天皇、富士山双方に与えられた不自然な近代的意味を否定していることからも分かるでしょう。
 もっともっと、長く深い「文化」の問題なのです。歴史の問題ではありません。
 今後も「もう一つの富士山」を通して、我が国の本質に迫っていきたいと思っています。

Amazon 芥川賞・直木賞150回全記録


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2014.02.23

2月23日にちなんで

Th__20140224_101646 日の「2月22日にちなんで」に続きまして、「2月23日にちなんで」です。
 「222」も私にとっては重要な日でありましたが、「223」もなかなか感慨深い日であります。
 まずは「富士山の日」。
 富士山に住む者としては、毎日が「富士山の日」であるとも言えます。しかし、だからこそあまりに当たり前になってしまった富士山を改めて意識する日に…と思ったのですが、なんと今日は富士山見てない!
 案外そんなものですよね(苦笑)。
 富士山は日本の象徴。これにはどなたも異論がないでしょう。荒魂と和魂の象徴。
 荒魂(噴火)による和魂(美)の形成。これこそ日本の魂そのものです。
20140223k0000e040165000p_size5 そして、皇太子殿下のお誕生日。54歳になられたとのこと。おめでとうございます。
 昨年の夏、国文祭で初めてそのお姿を拝謁いたしました。その時、娘はジャズ・ベースを御前演奏…そうそう、音楽と言えば皇太子殿下はヴィオラを演奏なさいますね。バロック・ヴィオラにも挑戦されたことがあって、その時お使いになった弓は私もお借りしたことがあるものでしたから、弓つながりでご縁があったのでした。
 さて、その皇太子さまがお誕生日にあたって記者会見なさいました。そこで次のような注目すべきお言葉を述べられました。

 日本国憲法には「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定されております。今日の日本は,戦後,日本国憲法を基礎として築き上げられ,現在,我が国は,平和と繁栄を享受しております。今後とも,憲法を遵守する立場に立って,必要な助言を得ながら,事に当たっていくことが大切だと考えております。

 日本国憲法の価値を高く評価するお言葉ですね。思い出されるのは、こちらで紹介した天皇陛下のお言葉です。
 その記事にも書いたように、私は基本「改憲論議賛成派」です。大いに国民が議論し国民投票すれば良い。ただし、その時無視してはいけないし、無視できなくなるであろうものが、昭和天皇のご遺志を引き継ぐ今上天皇のご意志です。
 もちろん、昭和天皇のご遺志は現皇太子殿下にもしっかり受け継がれています。だからこそ、上のようなお言葉が出てくるわけです。非常にシンプルなことです。
 こういうことを書くと、改憲派の方々からはお叱りを受けるのが常ですが、これは私の中では完全な事実ですからしかたありません。私は何度も昭和天皇の墓前で直接お気持ちをうかがっております。
 ところで、「日本国,国民統合の象徴」ということで言うと、「富士山」と「天皇」(だけ)がまさにそれに該当します。
 私は常に富士山と天皇の真の意味での「和合」を望んでいます。なぜなら日本の歴史上、いまだそれが達成されていないからです。それはある意味では「縄文と弥生の融和」と言ってもよい。意外かもしれませんが、それがいまだに成されていないのです。
 皇太子殿下も触れられました富士山の世界文化遺産登録と2020年の東京オリンピックは、またとない機会です。いよいよ本当の意味での「日本国の完成」「日本国民の統合」が実現する日が来るかもしれません。
 昭和の東京オリンピックの年に生まれ、今富士山に住んでいる私は、自分のこれからの人生をそこにかけるつもりです。
 日本国憲法と富士山ということで、例のベストセラー、小学館の「日本国憲法」や、仲小路彰にも触れようと思っていましたが、長くなりそうなので、それはまた別の機会に。

Amazon 日本国憲法

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2014.02.22

2月22日にちなんで

Th_img_7986 日は私にとって特別な日でした。
 2月22日はまず猫の日。ウチの猫たちの姿もツイッターでたくさん流れました。これについてはあとでまた。
 それから竹島の日。浅田真央とキム・ヨナが代理戦争をしてくれた…なんて言うと怒られそうですね(笑)。
 二人の対決は、コンペとしてはヨナの勝ちだったけれども、試合後の国民感情としては、圧倒的に日本の勝ちというか、大満足の日本と大不満の韓国ということで、なんだかいろいろ象徴的ですよね。
 ヨナはキムメダルを獲れなかったが、真央は金メダル以上のモノを与えた。
 これもまた「国譲り」の精神、知恵なのでしょうか。ある意味絶対に負けない日本。
 それから、今日は古いところで言えば、「太子会(たいしえ)」。聖徳太子の亡くなった日です。推古天皇30年2月22日に亡くなりました(新暦でいうと4/8、お釈迦様の誕生日です)。
 次の東京オリンピックに、実は聖徳太子が重要な存在となります。その話はいずれ時期が来たら、このブログに書けると思います。お楽しみに。
 それにも関係していますが、山中湖に住んでいた世界的ソプラノ歌手三浦環の誕生日でもあります。1884年に生まれていますから、今年は生誕130年ということになります。
 霊的な話を言えば、彼女も次の東京五輪に影響を与えます。これについてもまたいつか。
 さてさて、今日は猫の日ということで、ちょっとしたグッズを紹介しましょう。
 カミさんがiPhone5を裸で使っているので、最近買ってあげたものです。送料込み220円(笑)。
20140223_95226 実は昨年、もうちょっと高い黒猫型ケースを買ってあげたんです。右の写真のやつです。
 ところが、ウチのリアル黒猫のみいちゃんが、このケースのフワフワのしっぽに反応してしまい、それで遊び始めてしまったのです。結果として、しっぽは食べられちゃうわ、耳はもげるわ、大変なことになってしまいました。
 1週間もたなかった…。
Th_img_7987 そこで今回はシリコンっぽいものにしたわけです。
 まあ、それにしても安いですねえ。送料のことを考えると、ほとんど本体は無料みたいなものです。これなら耳がもげたりしても、またすぐに買い換えられますね。
 実際装着してみると、質感もいいですし、滑りにくいし、デザインもまあまあカワイイ。最初ちょっと臭いが気になりましたが(中国製にありがち)。
 猫好きの方はぜひ。

Amazon iphone5ケース ネコみみ型 (黒) シリコン

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2014.02.21

Squeeze(スクイーズ) 『Tempted』

 画してあったBSプレミアムの80年代洋楽番組を観ました。
 私、80年くらいから、つまり高校に入った頃からコンテンポラリーな洋楽をあまり聴かなくなっていましたので、なんとなく知っている曲はあっても、あんまり懐かしい感じはしませんでした。
 そんな中、このスクイーズの「Tempted」は当時もけっこう好きで聴いていたので、いろんな甘酸っぱい、いやほろ苦い風景がよみがえってきましたねえ。
 日本ではあんまり紹介されなかったと思います。いかにもイギリスのポップロックバンドという感じですね。放送された「Tempted」はビートルズっぽさというか、10ccっぽさもありますね。妙な転調が心地よい。
 ついでですので、YouTubeで何曲か聴いてみました。全然知らない、初めて聴く曲ばかり。まだまだ知らないバンド、音楽がたくさんあるなあ。
 このあたりの音楽、案外今の日本のロックに通じるところもあると感じます。もちろん、ビートルズからの流れ、派生ということですね。
 ところで、今回懐かしいバンドをWikipediaでいろいろ調べていたんですが、英語のWikiだと、冒頭のバンドの紹介のところ、be動詞が二つのパターンあることに気づきました(今更ですけど)。
 つまり、バンドが単数扱いなのか複数扱いなのかということです。いや、そういう分け方とは違うな。
 たとえばこのSqueezeは、こんなふうになっています。

Squeeze are a British band that…

 これなんか、もし中学で生徒がこんなふうに英作文したらすぐに怒られるかバカにされますよね。なにしろ「are a」ですから。まさに「あ〜あ」です(笑)。
 クイーンを見てみましょう。

Queen are a British rock band…

 やっぱり同じ。ビートルズはどうでしょうか。

The Beatles were an English rock band that…

 では、イギリス以外に行ってみましょう。アメリカというと、ええと、なんとなくカンサス(笑)。

Kansas is an American progressive rock band that…

 あれ〜?これは単数扱いだ。もういっちょ、メジャーどころで。

Metallica is an American heavy metal band…

 あらら、アメリカのバンドは単数なのか?じゃあ、いじわるして、イギリスで結成されたアメリカ(笑)。

America is an American folk rock band formed in London…

 うっひょ〜、単数だ!

次は、英米以外ということでクラッシュ(笑)。

The Crash was a pop-rock band…

 わ〜お、これも単数だ。よっしゃ、日本に行ってみよう。イエモンでどうだ!

The Yellow Monkey, often abbreviated as Yemon, was a Japanese rock band …

 あらら、これまた単数。ということはイギリスのバンドは複数形で受けるわけ?
 いちおう英語の先生であるカミさんに聞いてみたけれども、「そんなもんなんじゃない?英語はいい加減だから」と言うイーカゲンな回答(笑)。
 ただ、一つ言えることは、「あ〜あ」で始まっているバンドは、のちに「they」で受けています。
 たしかにバンドは一つだけれども、絶対に複数人によって構成されているわけですから、「are a」と言いたくなるのも分かるような気がします。
 エライ人、本当のところを、ぜひ教えて下さい!

追記 ツイッターでこちらのサイトを紹介していただきました。本国、ネイティヴでも意見が分かれているみたいですね。

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2014.02.20

オリンピックに棲む魔物とは…

Th_2014022100000507sanspo0007view たまた日付に矛盾がありますが、真央ちゃんのことを書きましょう。
 本当にすごい24時間でしたね。暗から明へ。
 このことに関して表裏両面から書きたいと思います。
 いや、実は今日、ある方からブログにあんまり際どいことを書くなと忠告されたのですが、まあ、私は書くことによってリスクをヘッジするタイプなので、可能な限り書きます(それでもかなり奥歯にモノがはさまりますが)。
 今回の、ある意味感動的なドラマは、浅田真央選手自身の心と体の状態、動きで説明されるのが普通でしょう。
 大変なプレッシャーの中で、あの冷たく広大なリンクに一人立ち、世界中の視線の集まる中、ベストのパフォーマンスをするなどということは、私たち常人には考えられないことですね。
 そうした中で平常心を失い、体も全く自由に動かなくなり、その状態にまたある種のパニックを生じて、負のスパイラルにはまっていく…こういうことは、私たちも日常の中のちょっとした非日常で味わうことがあります。
 私も、たとえば演奏会本番などで、そういう状態になることが多々あります(単に練習不足とも言えますが)。そんな小さな機会でさえ、そういうことが起こるわけですから、4年に一回の世界的なイベントで金メダルを争うとなると、それはもう想像を絶する世界であることは想像に難くありません(矛盾した表現ですね)。
 そして、実際「やってしまった」あとのショック、自己嫌悪、悪夢であってほしいと思うほどの落ち込みは言うまでもありません。まるで自分が自分ではないような状態、世界が全て自分の敵だと思える状態になることでしょう。
 真央ちゃんはショートプログラムで「やってしまった」あと、おそらくは眠れないまま翌日を迎えたことと思います。
 そして、誰もがそのショックをひきずっているだろうと内心思っていたところに、あのフリー、あまりに完璧な演技をするという奇跡を起こしたわけです。これはものすごいことです。
 その精神力の強さこそが真央ちゃんらしさとも言えますし、さらに進んで非常に日本人的であるだとも言えます。
 そのような復活の物語、あるいは最近のマイブームである「国譲り」の物語に、私たち日本人は金メダル以上の、すなわち単純な勝敗の物語以上の感銘を受けます。
 もうそれで充分とも言えますが、一方で、これは某国の陰謀だという話も必ず出てきます。それが、ルール改正、ジャッジの次元の場合もありますし、やれ精神的な圧力をかけたとか、毒を盛られたとか、電磁波攻撃をしているのだとか、そういう次元の場合もあります。
 私はこうした陰謀論には基本的にはくみしない立場です。あの衆目の集まる中で、そこまで露骨なことはできないだろうし、それなりの防御策もとられていると思うからです。
 しかし、実はもっと恐ろしい次元で、「裏の戦い」が繰り広げられていることはあまり知られていません。
 実はオリンピックに棲む魔物の話は、1年半前の北京オリンピックの際に一度書いています。こちらです。というか、ほとんど全てがそこに書かれていますね。書いちゃってます(笑)。
 まあ、今度もそういうことがあった(かもしれない)ということです。夏の五輪ならあり得ない「落下」、冬の五輪ならあり得ない「転倒」を誘い出す目に見えない力が働いていると。そして、その力の発生源はそれぞれの国によって雇われていると。
 こんな話を教師が書くと、それだけでもバッシングされそうですけれども(笑)、いや、実際に私は一昨年の夏以降も、その「現場」に携わったという方の話を聞きました。ある意味リンク上以上の命がけの戦いが繰り広げられている…。
 というわけで、今回は私も僭越ながらその戦いに参加させていただきました。何をしたかは、まあウチの家族は知っていますが、あまりにバカらしく見えるでしょうから、ここには書きません(恥ずかしくて書けない?w)。
 簡単に言えば、私はweb0.0のデバイスのいくつかを操って、現代人から見るとまるで全近代的な、単純な作業をしました。
 おそらく私の知られざる仲間たちが、一日前の真央ちゃんの様子を見て奮起したのでしょう、結果として皆さんご覧のとおりとなりました。
 簡単に言えば、会場に結界を張ったわけです。ですから特に真央ちゃん以降の選手たち、特に第3グループの選手たちが、みなベストのパフォーマンスを見せてくれたじゃないですか。あれがスポーツであり、芸術であるフィギュア・スケートの本来の姿なのです(ジャッジはまた別の話)。
 まったく世の中というのは分からないことだらけです。それこそ平安時代とかの方が、ずっとそういうモノに関する感覚が鋭かったんじゃないでしょうかね、私たち人間は。
 ともあれ、浅田真央選手、本当に素晴らしい霊五体五の演技をありがとう。あまりにベタな表現ですが、感動と勇気をいただきました。そしてご苦労様でした。
 

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2014.02.19

第27回 サラリーマン川柳

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 年もやってまいりました「サラ川」の季節。サラ川で大笑いすると「ああ、春が来るな」と思う…鼻のムズムズとともにいつのまにか早春の風物詩になった感のあるサラリーマン川柳。
 今年は大雪災害の中でしたから、ますますそのエスプリ(?)に元気づけられましたね。
 川柳の面白さや価値については、タルコフスキーと仲小路彰に挟まれた(笑)昨年の記事をお読みください。庶民の「おかしみ」「かるみ」「うがち」を通して、実際にはその裏返し、世の中への「悲哀」や「重み」や「諦念」を表現するものだ…か。なるほど。自分でも納得。
 そう、だいたいサラ川と言えばですね、奥さんに虐げられる亭主というテーマが多い。
 面白いですね。「サラリーマン=弱い男」という図式が出来上がっているのでしょうか。では、非サラリーマンは強いのかというとそういうわけでもないような気もしますがね。
 昨日の十七条憲法の記事の最後にも出てきた「国譲り」。これが最近の私のブームというか主張です。
 実は、サラ川も「国譲り」の知恵に基づいたものとも言えます。お分かりになりますか。
 実際、虐げられているように見えるサラリーマン諸氏でありますが、それをこうして自虐ネタにできるということは、実はどこかに自信があるんですよ。
 本当に虐げられている人たち、あるいは虐げられた記憶を持つ人たちは、どこかの国のように、決してユーモアで自己肯定することはできないのです。「怒って」相手に食ってかかる。倍返ししてやる、土下座しろとか(笑)。
 そういう意味では「自虐」というのは高度な文化です。
 ほら、「自虐史観」とか言う人いるじゃないですか。GHQに洗脳されているとか。
 まあ、そういう部分があったことは認めますけれども、私はそうして日本が骨抜きになってしまったみたいな言説こそが「自虐的」だと思うんです。
 つまり、そんなに簡単に外国に洗脳され、何千年も保ち続けてきた自国の本質を失ってしまうほど、日本人は弱いだらしない民族なのか、ということです。
 自虐史観を糾弾している人たちこそが自虐的だというパラドックスが生まれているわけです。
 そう考えると、余裕で自国の誇りを失っている人たち(私たち)こそ、無意識領域にあっては実は生粋の日本人であったりすることもあり得るわけです。
 だいたい自虐史観を糾弾する、たとえば保守の人たちは常に「怒っている」感じがする。そこまで意識しないと自分が崩壊してしまうのではないかと不安なのでしょうか。
 私には保守系のお友達もたくさんいますが、彼らとはけっこうこういう話をするんです。その方がお互い癒やされたりするので。
 ここ最近の記事ではありませんが、だいたい「怒って」「敵」を想定しても事は解決しないものです。もちろん、「怒る」用意は必要ですけれども。
 おっと、話が逸れたぞ。
 ええと、そうサラ川の話が、なんだか重い話にすりかわってしまった。
 結局、私たちがサラ川的な自虐ギャグを笑い飛ばせるのは、笑い飛ばせるくらい余裕があるからなのです。そして、いざという時には、男の本当の姿、サラリーマンの闘魂を見せてやる!と思っているからです。
 いや、それ以前に、企業戦士として命をかけて戦っているという自負があるからこそ、家に帰っては占領下で主権を剥奪されてバランスをとっているとも言える(笑)。
 まあとにかく、女性に権力を委譲しているように見せかけて、私たち男はしっかりこの世を掌握しているのであります(?)。
 私の身近なところで、それをうまくやっているのは安倍総理ですね。安倍総理の「家庭の幸福は、妻への降伏」という名言には、まさに川柳的なエスプリを感じます(笑)。
 まあ、昭恵さんという人が、まさに日本古来の太陽のようなスケールを持った「女」だから、それがジョークとも本気ともとらえられる深みを持つのでしょうが。
 というわけで、皆さんもこちらから今年の100選を味わい、笑って、そして投票してみてください。
 ちなみに私は、やはり普遍性を重視したいので、「おもてなし」とか「倍返し」とか「じぇじぇじぇ」とか、今年の流行語を使ったものは選びません。

 
 
 

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2014.02.18

「怒ってはならない」…十七条憲法の第十条

Th_umayado_miko かきというか、車の救出に時間と体力を奪われましたので、今日こそ短めに。
 おととい、昨日の続きとも言えましょう。人との関わり方。私もモットー。
 昨日は聖徳太子の十七条憲法の第一条を引用して「言挙げ」の解説をしました。今日は第十条を読んでみましょう。
 私もそうですが、誰でも聖徳太子の十七条憲法の名前と第一条の冒頭は知っていても、そのあとの条文を読んだことがない日本人がほとんどでしょうね。
 私も大人になって初めて全部読みました。そんな中で、この十条は私の人生に大きな影響を与えています。
 いちおう原文を載せます。

十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。

 まあ、漢文を見てもよく分かりませんよね。私ももちろん分かりません。
 では、いろいろ辞書などを引きながら現代日本語訳してみましょうか。ワタクシ流の訳です。

 第十条。心の怒りを絶ち、表情の怒りを棄てなさい。人が自分と違うことを怒ってはならない。人には皆それぞれの心がある。その心にはそれぞれ執着がある。相手が是と言えば自分は非と言う。自分が是と言えば相手は非と言う。自分が聖人ではないことは確かである。相手が愚かではないは確かである。二人とも普通の人間であるだけである。是か非かの判断をいったい誰ができるというのだろうか。お互いが賢く愚かなのだ。これは耳輪に端がないようなものである。こういうわけだから相手が怒っているとしても、むしろ自分の間違いを恐れよ。自分一人納得したとしても、みんなに従って同じように行動せよ。

 どうですか。いい言葉でしょう。
 自分(=コト)に対する執着を捨てよということで言えば、第一条の日本古来の「和」の精神、そして第二条の仏教の精神にも通じていますね。
 結局、この十七条憲法は、太子自身もその殲滅に関わった「物部氏」の「モノ=他者」を重視する「和魂(にぎみたま)」を中心に据えるものなのです。
 歴史の教科書では、古来の神道を信仰していた物部氏に、聖徳太子が仏教を信仰する蘇我氏と組んで勝利したと教わりますが、実は結果は逆なのです。
 これぞ、最近の私が重要視している「国譲り」の本質です。負けて勝つ。無意識の深層で純粋に保存するという究極の日本の知恵なのであります。

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2014.02.17

「言挙げ」とは

Hitomaro 日の話の続きになります。
 皆さんは、万葉集の「葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は神(かむ)ながら言挙(ことあげ)せぬ国然(しか)れども言挙ぞ吾(あ)がする事幸(ことさき)く真幸(まさき)くませと恙(つつみ)なく幸(さき)くいまさば荒磯波(ありそなみ)ありても見むと百重波(ももへなみ)千重波しきに言挙すわれは言挙すわれは」という歌をご存知ですか。
 もしかすると教科書に載っていたかもしれません。柿本人麻呂の歌集に含まれる長歌です。
 ここにはいろいろと興味深い「コト」が出てくるのですが、今日はその中の「言挙げ」という言葉を取り上げてみます。
 一般には(学校では)こういうふうに説明されていることでしょう。

言挙げ=ことばに出して相手にいうこと。ことばに出して論ずること。
《解説》
 上代に見られる言霊に対する信仰のあらわれ。「言(こと)」として表現されると「事(こと)」として実現するという考えから、むやみに言葉として発してはかえって効力を失うとされ、よほど重大なことでない限り慎むことが要求された。

 いわゆる「言霊論」的な説明です。何度も書いてきているように、私は特殊な「モノ・コト論」を展開しており、一般的に言われる「言霊」という言葉の解釈(それはすなわち江戸の国学者によって考えだされた新しい解釈)に反旗を翻しております。
 ですから、当然「言挙げ」に関しても、こうした常識的な解釈とは違った捉え方をしています。
 私にとっての「コト」は「モノ」の対義語、すなわち、次のような図式で表される語です。

モノ=自然・不随意・他者・未知・存在・未分化・霊…
コト=人為・随意・自己・既知・概念・分化・言語…

 なんとなくお分かりになるでしょうか。細かいことは死ぬまでに本を書きますからお待ちください(笑)。
 で、「言挙げ」ですけれども、これは当然「コト+あげ」ですよね。「あげ」は「あぐ」という動詞の連用形が名詞化したものです。
 「あぐ」という動詞は、漢字を当てると「上・挙・揚」となり、どれも位置的に高くして位置エネルギーを大きくすることを言います。比喩的には、「はっきりさせる・完成させる」などの意味になります。
 ですから、私としては「言挙げ」とは、ただ「言葉にして言う」ということではなく、「自分の意見をはっきり最後まで通す」という意味にとらえております。
 あくまで「自分」なのです。そこが肝心。だから、「言挙げせぬ国」とは「自分を押し通さない国」という意味なのです。
 ここで、私の解釈がそれほど間違っていないことを示すために、ある有名な文を提示しましょう。「言挙げ」の説明にこの文を使うのは私が人類史上初めてでしょう(笑)。

 一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

408_original そう、かの聖徳太子の十七条憲法の第一条です。この第一条の冒頭の「和」についても真説として、こんなことを書きました(ぜひお読み下さい!)。
 ここにですね、「ことをあげつらふ」と訓む部分がありますでしょう。これはよく読むと分かりますように「ことあげ」なのです。
 「つらふ」というのは「連らふ」で、連続的に繰り返すという意味の言葉です。つまり、「コトをあげ続ける」というのが「事を論ふ」なのです。
 で、これも一般的にはただ「論議する」なんていい加減に訳されてますけれども、違うんです。「自分の意見を言い続ける」ということなのです。
 「かなふ」と訓んでいる「諧」という漢字は、実は「和」と非常に近い意味を持った字なのです。「ととのふ」とか「かなふ」とか「あふ」とか「やはらぐ」と訓みます。
 ですから、「事を論ふに諧ふ」とは、「自分の意見を言うにあたって『和』の精神を用いる」ということなのです。
 そう考えると、聖徳太子というのはやっぱりエポックメイキングな偉人だということが分かりますね。つまり、「言挙げせぬ国」とされていた日本を、「やり方によっては言挙げしてもよい」という民主主義の基礎を作ったわけですから。
 そうだ、そうだ、昨日の話の続きということで始めたんだった。でも、お分かりになりますよね。自分の意見を通す(「事理おのずから通ず」)ためには、批判だけではダメだということです。「和」で相手を動かす、変えるのです。


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2014.02.16

「だれかを批判するヒマがあったら、そのだれかを動かす」

Th_20140216_154114 害モードなので今日も短めに。
 昨日の「シローさん祭」のおかげもあって、ツイッターのフォロワーさんの数が1日で500ほど増えました。ありがとうございます。
 そして、今日は学校のメール連絡網を通じて各地の現状を報告してもらい、それをツイートするという作業をいたしました。
 そのおかげで、国に対策本部が立ち上がり、そしてようやく山梨県も本格的に動き出しました。
 そんな、別にあんたのツイートのおかげじゃないよ、というツッコミが入りそうですけれども、これは実はちょっぴり本当の話なんです。
 このブログをお読みの方はよくご存知と思いますが、私は安倍総理夫人の昭恵さんと懇意にさせてもらっています。いろいろな不思議なご縁があって、いろいろと一緒に活動させていただいています。
 今回の山梨の大雪についてもメールでやりとりしておりまして、とにかく首相官邸にも情報がほとんど上がってきていないということを知りました。
 ぜひ情報を!ということでしたので、カミさんのアイデアも取り入れて、先ほど言った連絡網による情報収集をして、ツイッターを通じて総理のところにもご報告申し上げたのです。
 そしてすぐに関係者が招集され、急速に具体的な動きが始まりました。正直遅きに失した感はありますが、これは政府や総理を責められない部分があります。
 はっきり言ってしまうと、山梨県、特に山梨県知事の決断力のなさによって、今回の災害の情報がそれこそ山梨県という陸の孤島の中に滞留してしまったのであります。
 ここには書けませんが、自衛隊の出動要請についても驚くべき失態がありました。田母神さんが県知事だったらなあ…(笑)。
 大雪が降っている時から、すでに県民の中には、いろいろな不満や不安が渦巻き始めていました。それはそうですよね。
 しかし、それが単なる批判や愚痴、文句、悪口のレベルになると、災害という非常事態においては、それら自体が私たちを苦しめる原因になってしまいます。
 ですから、そういう時は、その批判や愚痴、文句、悪口の相手を具体的に動かさねばならないのです。
 実は、私はこうした非常時だけでなく、日常においても、「だれかを批判するヒマがあったら、そのだれかを動かす」ということをモットーにしています。
 「動かす」というのは「変える」と言い換えてもよい。実はそれが自分のためにもなるのです。
 皆さんも体験的にお分かりなるでしょう。身近なところにもよくありますよね。あいつは嫌いだ。あいつのせいで苦労している。などという時、その人をただ批判したり嫌ったりしても、実は何も変わらないどころか、相手もあなたを嫌いになって、全く解決方向に進まないものです。より状況は悪くなる。
 だから、私は、そういう人に出会ったり、あるいは今回のような場合には、相手の懐にすっと入っていって内側からその人を変えて動かすようにしています。
 それが自分の幸せ、その人の幸せ、またいろいろな人たちの幸せにつながると信じています。
 気の合う人、ポリシーが同じ人、波長が合う人といる時は、そんな努力は全く必要ありません。楽でいいですよ、そりゃ。
 でも、そういう時は、実は私も周囲も何も進化していないのです。
 それが私にはつまらなく感じられる時がある。たとえば、右寄りの人といる時より、左寄りの人といる時、しゃべっている時のほうがずっと楽しかったりするんです(笑)。
 私は、出口王仁三郎や仲小路彰に影響を受けているからでしょうか、二元論的に衝突するよりも、男女の和合と創造のように、異質なものとの遭遇、共同作業による止揚が好きなんですよね。
 結局、敵を作って(仮想して)、それを攻撃することによって自分を正当化したり、徒党を組んだり、あるいは自己満足したりしている人たちを見ると、どうもいろいろ言いたくなってしまう(文句ではありませんよ)。
 というわけで、今回は皆さんが糾弾しようとしていたあの人とあの人とあの人に情報を送り、そして彼らを励まし、ちょっとアドバイスもさせてもらって、それなりに目的を達することができました。
 それもこれも皆さんのご協力のおかげさまです。これからもモットーを忘れず頑張ります!
 あらら、「短めに」と書いておきながら、ついつい…スミマセン。


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2014.02.15

シローさん大人気(笑)

Th_bgemfwpciaald0i チに遊びに来るノラ猫のシローさん。
 いきなり全国デビューとなりました。
 山梨県は大雪で大変なのですが、まあ、自然を恨んでもしかたありません。こういう時こそ、こうして前向きに自然体で生きる動物に学ぶのがいいのではないでしょうか。
 我が家付近や山梨県郡内地方の被災状況についてはツイッターでいろいろ発信していますので、そちらをご覧ください。
 さっそく総理夫人安倍昭恵さんに山梨の現状をお伝えしているところです。総理に伝えてくださるとのこと。私にできることはこのくらいです。
 シローさんに関する私のツイートは総計1万以上もリツイートされまして、しまいにはVIPPERデビューまでしてしまいました(笑)。
 猫が勢い良く出かけて行った結果wwwwwwwwwwwwwwwww
 まったく面白いものです。
 シローさんのおかげでフォロワーも増え、そして、シローさん以外の重要な情報も伝わるとなれば、こんなに嬉しいことはありません。
 私にしてみると、シローさんはオシラサマ。神様の使いです。
 ちょっと大雪対策が大変なので、今日はこのへんで。ここまで短い記事は珍しいですね(笑)。

追伸 以前、シローさんを紹介した記事に思いがけず嬉しいコメントがつきました!こちらです。

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2014.02.14

羽生結弦とニギハヤヒ

Pk2014021502100114_size0 ょっと日付に矛盾がありますが…羽生選手金メダルおめでとう!
 山梨県はフジテレビ系列がないので、なんと世紀の瞬間をリアルタイムで観ることができませんでした(笑)。東京の隣の県なのにね。
 さて、今日も昨日と同様、「授業中の雑談」風に思いついたことを。
 「ゆづる」と言えば「弓弦羽神社」だよな、と思っていたら、やっぱり結弦くん参拝していたんですね。ネットに出てました。
 弓弦羽神社は熊野系の神社です。祭神は伊弉冉(イザナミ)尊・事解之男(コトサカノヲ)命・速玉之男(ハヤタマノヲ)命。
 黄泉平坂でのイザナミとイザナギの別れのシーン、イザナギが決別を告げ、その証として唾を吐いたところ、その唾からハヤタマノヲが生まれ、それを掃き払ったところにコトサカノヲが生まれました。
 事解男命は謎の多い神様とされていますが、私の「モノ・コト論」からすると、実に興味深い神様ですね。
 漢字から分かるように、コトサカというのは「事」を「解く」ということですね。ワタクシ流に言うと、「コト」は言語に象徴されるように、思念の中で固定化されたことを示します。その前の無意識、不随意の段階が「モノ」なのですね。
 ですから、イザナギとイザナミが夫婦であるということは、まさに「コト」であります。お互いが意識しあってペアとなり、国生みをした、その時初めて二神は「ミコト」と呼ばれるようになり、また、その時「大事忍男神(オホコトオシヲ)」が生まれます。
 その「事」が解かれる、すなわち「離婚」の成立が「事解」なわけです。そして結果として「モノ」に戻る。
 「コトサカ=モノ」を示すように、事解男命は大物主、饒速日と同じ神だという説があります。面白いですよね。
 饒速日(ニギハヤヒ)と言えば、物部氏の祖神とされる縄文系、「和(にぎ)」系の神様です。
 ニギハヤヒは天の磐船というまるでUFOのような乗り物に乗って、天からやってきたとされています。
 ここで妄想されるのは、羽生結弦くんはニギハヤヒの分霊であって、まるで宇宙からやってきたUFOのごとく飛んでクルクル回ると(笑)。
 どうも私はこういうふうに時空を超えていろいろ妄想するのが好きなんですよね。それで一人納得するという…。
 あえて言ってしまうなら、「コト(自己性・随意)」にこだわるのは弥生系、つまり半島系の神様や人々です。それに対して、縄文系は「モノ(他者性・不随意)」に任せるところがある。
 たしかに結弦くんの性格というのは、なんとも「和」な感じがしますよね。あの謙虚さや利己心のなさは、けっこう縄文っぽかったりします。
 案外、彼にはニギハヤヒがついているのかもしれませんよ。ま、こんなふうにオリンピックを観ている人もいないと思いますが(笑)。

弓弦羽神社公式

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2014.02.13

カーリングから剛力彩芽へ(笑)

12559381771 日は授業中の雑談風に。いつもこんな感じで話が飛んで飛んで飛びまくり、最後に「どうしてこんな話になったんだっけ?」とみんなで復習するのがお決まりのパターン(笑)。困ったものです。
 では、さっそく雑談を始めましょうか。カーリングから、どうやって剛力彩芽に至るのか(笑)。私の頭の中がいかに混沌としてているかがお分かりになることでしょう。
 さてさて、まずは導入から。オリンピックが盛り上がっていますね。私、初めてまじまじとカーリングを観ました。面白いですね。ルールがよく分からないけれど、駆け引きがすごい。たしかにチェスとも言えるし、レスリングに似ているとも言える。
 不思議なスポーツのような気もしますけれど、たしかに進化の仕方としてはあり得るかもしれない。冬に川や湖が凍結する場所なら、必ず石か何かを滑らせてターゲットに入れる遊びが始まりそうです。それをチーム対抗戦にすると、ああいうふうになりそう。
 そう考えると、野球の方がずっと不自然な競技ですよね。いろいろな意味で非常に不均衡ですから。
 カーリングはスコットランド発祥です。ちなみに野球はクリケットがその前身。クリケットはイングランド発祥と言われています。サッカーの前身たるフットボールはイングランド。ゴルフはスコットランドですね。
 北のスコットランドと南のイングランドの、自然環境の違い、また民族的な違いがそれぞれのスポーツに現れているとも言えましょうか。
 あと、スコットランドと言えば、私にとっては「ネス湖のネッシー」とか、「蛍の光」などの民謡でしょうかね。案外日本人好みのネタがある国です。カーリングも日本人ははまると強くなりそうですよね。体力にまかせるスポーツではなく、頭も大いに使わなければなりませんから。
 スコットランドの国旗をご存知ですか。キリスト教国ですから十字が使われていますが、青地に白の斜め十字(聖アンデレ十字)です。
250pxloumartiriosanandresmurillo なぜ斜めなのかというと、これはイエスがはりつけられた十字架ではないのですよね。イエスの弟子、十二使徒の一人アンデレの架けられた十字架なのです。アンデレはX字の十字架にこの絵のように処刑されました。
 ですから、スコットランドの国旗は「聖アンドリュー旗」と呼ばれています。
 もうここで博識の方、あるいは鋭い方はお分かりだと思いますが、イギリスの国旗、すなわちユニオンジャックは普通の十字と聖アンデレ十字の組み合わせでできています。
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 おっと、話が逸れ始めたぞ(って何から逸れているか?ww)。
 アンデレに話を戻しましょう。アンデレはイエスの弟子でした。黒海の周辺で伝道したと言われているので、ロシア、特にソチのあたりには非常に縁が深い。
 そして、アンデレと言えば剛力彩芽でしょう(笑)。
 全く分からない方が多いのでは…それはそうでしょう。
Th_vlcsnap2014021413h41m28s84 いや、実はですね、こちらの記事で紹介したNHKの「太宰治短篇集〜駈込み訴え」でですね、アンデレ役を、まだ有名ではなかった(ロングヘアーだった)剛力彩芽が演じているのです。
 私は全然気づかなかったのですが、さすが生徒たちですねえ。授業でビデオを見せたところ、すぐに「あっ剛力だ!」と気づきました。
 私は「そうなんだよ。よく気づいたじゃん」と知ったかぶりました(笑)。
 たしかに番組終りのクレジットにもあのインパクトのある名前が記されておりました。すごい苗字だよなあ。
 この素晴らしい番組、今、ひそかに(?)YouTubeで観ることができます。そのうち削除されると思います。ぜひ今のうち、こちらで御覧くださいませ。
 それにしてもなあ、やっぱり剛力彩芽ってなあ…決して可愛くないし、演技がめちゃくちゃ上手いわけでもないし、歌は…だし。
 でも、なんとなく気になるというか、アンチも含めて、みんなの頭に残るんだよなあ。もしかして、カーリングと一緒で、じわしわとはまっちゃうタイプ?
 というわけで、うまくまとまりました(笑)。

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2014.02.12

『神道と日本人 魂とこころの源を探して』 山村明義 (新潮社)

20140213_70252 常にいい本でしたね。今まで神道関係の本はずいぶん読んできましたが、初めて「しっくり」来ました。
 最近、ある種のブームのせいか、神道に興味のある方とのおつきあいが増えました。
 そのそれぞれのレベル…なんて言っては失礼ですが、温度差というか濃さの違いというか、なんとなくそういうモノを審神(さにわ)している自分がいます。まったく何様だ?ですよね(苦笑)。
 ただ、なんというか、私は幼い頃から自分にはちょっとそういう能力があると思っていたのは事実です。もちろん、単なる思い込みなのかもしれませんけれども、その人の後ろにどういう神様がいるのか、あるいは言葉の裏側にどんな神様のどんな魂が働いているのか、自然と察知してしまうようなところがあるんです。
 そういう直観がだいたい当たっていたとの経験的実感があるので、案外に私自身の思考や行動の根底には、そういうモノが流れているのはたしかなようです。
 単にパワースポットブームに乗っかている人、霊能者を名乗る人、実際に神職に就いている人、新宗教の教祖さんや信者さん、まあ、いろいろな人が我が家にいらっしゃいます。
 たとえば、ブームに乗っかている人がレベルが低いとか、ホンモノの神主さんや教祖さんがレベルが高いとかいうわけではありません。
 そこが面白いところですね。ではどんな基準で判断しているのかというと、これが言葉にならないから難しい。あえて言うなら、ちゃんと神様とつながっているかどうかということでしょうかね。
 で、神道関係の本にも、やはりそういうレベルのようなモノがありまして、ああこの著者はただ単に興味と知識だけで神を語っているなというものと、あっ、これは言葉を通じてしっかり霊界や神界とつながっているなというものとがあるから面白い。
 そういう意味で、この本からは正しい言霊、あるいは波動というモノ(言霊も波動も実社会、特に教育界ではNGワードですが…苦笑)が感じられました。
 著者の山村さん、私にとっては、まずは保守論壇の政治ジャーナリストという印象の方が強かったのですが、この本を読んで、その「政治」に対する考え方も、まさに「まつりごと」として捉えているという部分において、完全に私と一致しているのだなと感じ好感を持ちました。
 この本では、山村さんは、実際に神職の方々を直接訪ね、「場」と「言葉」を共有するという、ジャーナリストらしいノンフィクションの手法をとって、「神道と日本人」という壮大なテーマに迫っています。
 それが、「神道と日本人」という、ある意味非常に模糊としたモノに強力なリアリティーを与える結果を生んでいるのです。
 全国各地いろいろな社格の、いろいろな縁起を持つ、本当に多様な神社で奉仕する方々のカタリによって、八百万の神々の目に見えない霊(モノ)が言霊(コト)となって顕現していく。
 これぞ、神道の醍醐味ですね。
 神道は宗教ではありません。絶対的存在も経典も教祖も基本的にはない。だからこそ、今を生きている人間の生き様や、その活動の「場」、そして時空を超えて変化する言霊が重要になります。
 そうした神道の本質の本質が、この「カタリ」という方法によって現れされているのがこの本です。
 そういう意味では、この本もまた、「ナカトリモチ」なのかもしれません。いずれ私はそれぞれの神社を訪ね、そこで生きる人と、「生き様」や「場」や「言霊」を共有しなければならないのでしょう。
 私は、表層的なパワースポットブームやスピリチュアルブームには迎合したくない立場の人間です。もっと深いところ、すなわちこの日本全土、いや地球全体に底流するモノを感じ取って生きていきたいと思っています。
 私もこの本で見事な語り部になった方々、そしてそれをしっかりナカトリモチした山村さんのように、自分の「場」で本質を語れる人間になりたいですね。
 いや全ての人がナカトリモチにならなければ、本当の意味で「日本を取り戻す」ことはできないと思います。
 この本は、そんな「みろくの世」の実現への一助となること間違いありません。本当におススメです。

Amazon 神道と日本人

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2014.02.11

ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ 「ラルゲット(チェロ・ソナタニ長調より)」

Th_img_7852 日、横浜のベーリック・ホールで行われました『洋館サロンで祝うエマニュエル・バッハの生誕300年』、雪もちらつく中、ご来場くださった皆さま、大変ありがとうございました。
 おかげさまで、大変充実した演奏会になりました。私はヴィオラを担当させていただきましたが、練習の時よりも楽しくアンサンブルできました(大きなミスもありましたが)。
 昨日は美空ひばりのように歌うと豪語しましたね(笑)。考えてみれば、横浜と言えば美空ひばりですよね。そして、ベーリック・ホールでも、船の汽笛を何度か聞くことができました。まさに「マドロス」気分で演奏できた…かな?
 いや、とにかく楽しめたので、それは本当に昨日のひばり体験のおかげです。ありがとうございました。
 ところで、今日、素晴らしいソロを聴かせてくださったチェンバロの崎川晶子さん、チェロの高橋弘治さんが、アンコールで演奏してくださった曲が素晴らしかった。それを今日は紹介します。
 実は私も初めて聴きました。ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハのチェロ・ソナタニ長調よりラルゲット。J.C.F.BACHは大バッハの二番目の奥さんアンナ・マグダレーナの第9子です。下から2番目の息子。エマニュエルの異母兄弟。
 今日ちょうど、休憩でお客様からフリードリヒについて教えていただいたところだったんです。彼の作品は優雅でいいと。そして、彼の息子、すなわち大バッハの孫であるエルンスト・バッハが作曲家一族であったバッハ家の最後の作曲家であったと。
 いやあ、たしかにこの曲、美しいですねえ。なんとも平和な気持ちにさせられます。
 チェンバロ(ピアノ)パートはオプリガートになっていますから、古典派のチェロ・ソナタに近いスタイルになっていますね。
 音源があるかなと思って検索したら、これまた古楽器による「アンコール」としての演奏がありました。
 ぜひ、お聴き下さい。これはヴィオラでも弾ける音域なので、自分でも弾いてみようかな。

 なお、楽譜もこちらにありましたので、興味のある方はどうぞ(現代ピアノ、チェロ用に編曲されていますが)。

アンサンブル山手バロッコ公式

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2014.02.10

美空ひばり・日野皓正 「恋人よ我に帰れ~テネシーワルツ」

Th__20140211_72503 日、横浜でコンサートに出演します。こちらで紹介しましたC.P.E.バッハの生誕300年を祝う演奏会。
 私、自分の本番の前には必ずと言っていいほど、美空ひばりの歌を聴きます。
 ヴィオラを弾くのになんで美空ひばりなの?と不思議がられそうですけれど、分かる人には分かると思います。
 いつも書いているように、楽器の演奏の理想は「歌」です。そして、その歌の理想は「美空ひばり」の歌なのです。つまり、ジャンルを超えて、音楽の全てが彼女の歌の中にはある。本当ですよ。
 昨夜、全く偶然に、BS-TBSで「美空ひばり天才伝説~187時間の映像と証言で綴る真実~」という特集番組が放映されました。
 TBSに残る貴重なビデオテープと、昭和を彩った天才たち(例えば寺山修司)の語る大天才であり神である「美空ひばり」。
 いろいろな方々の言葉と、それを証明する映像によって、本当に彼女が歌姫ならぬ歌神であったことを、改めて確信しました。
 いつもそうですが、美空ひばりの番組などを(なんちゃって歌手)であるカミさんと観ていると、二人とも涙がボロボロ止まらなくなってしまう。それを不思議そうに娘たちが眺めるという図になります。今日もそんな感じでした。
 娘たちはすぐ横でボカロの曲を聴いたり、ジャズ・ベースの練習をしたりしてましたけれども、面白いもので、ひばりの歌は全然、それらに消されることなく聞こえてくるんですよね。普通だったら「うるさい!音消せ!」となるところですが。本当に不思議。
20140211_74928 今日思ったのは、ちょうど最近ブログに書いてきたことでしたね。天才、神は「器」であるということ。そして、そこに「モノ」を招くということ。本来の(世阿弥の言った)「ものまね」です。
 ひばりさんがイントロで完全に「なりきる」というのは、言われてみると全くそのとおりですよね。完全に降りてきています。
 そして、昨日の記事の稲盛さんの言葉ですけれども、やっぱり天才、偉業を成し遂げる神というのは、「考え方×熱意×能力」の各項の数値が異常に高いのですね。もちろん「考え方」「人格」はプラスです。
 今回、特に印象に残った映像は、東京ドーム不死鳥コンサートから数カ月後、息子の初大仕事のために、プロ根性を思い切り発揮した「佐久音楽祭」での野外ライヴでしたね。
 野外というのも珍しいし、日野さんとジャズで共演というのも珍しいし、リハなしのぶっつけ本番というのも珍しい。
 実は立っているのも大変なほど体調が良くなかったとのこと。本当に魂の強さ、他者への愛の強さ(私心のなさ)を感じます。すごい。
 YouTubeにその動画がありましたので、こちらからご覧(お聴き)ください。ぜひ。
 よし。明日は歌うように演奏するぞ。どうかいいモノが降りてきますように。


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2014.02.09

100年インタビュー 「経営者 稲盛和夫」 (NHK BSプレミアム)

140209_pic 度楽しみにしている「100年インタビュー」。今回は稲盛和夫さん。非常に勉強になる内容でした。
 私もいい歳になってきて、純粋な経営者ではないけれども、いわば職場のマネジメントをしなければならいな立場になってまいりました。
 私は「霊主体従」の経営にしか興味がありませんので、参考にするのは、稲盛和夫さんと、先日お亡くなりになった船井幸雄さんの経営哲学ですね。
 稲盛和夫さんは現場主義の方ですから、言葉に説得力がある。今日のインタビューでも心に残る言葉がたくさんありました。
 特に「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」というかけ算の話。
 稲盛さんの「かけ算」については、9年ほど前にこちらに書いておりました(三つのかけ算を紹介しています)。
 私はそこで、稲盛さんのかけ算を仏教的に解釈していますね。なるほど、そういう考え方もあると今でも思います(9年前の自分に学んだりして…笑)。
 ただ、今回のインタビューを聞いていて、当時の私の発想に足りなかったのは、「考え方」「人格」がマイナスにもなり得るという観点ですね。
Th_img_7846 いくら能力や熱意があっても、「考え方」がマイナス方向のベクトルだったら、大変な悪い結果が生まれてしまうわけですね。オウム真理教事件なんか、その例かもしれません。
 そして、どういう「考え方」がマイナスなのか、逆にどんな「考え方」がプラスなのか、今日のインタビューでは端的に示されていたと思います。
 すなわち、「利己」がマイナス、「利他」がプラス。
 ふむ、これもまた非常に仏教的ではありますね。前の記事に書いたように、稲盛さんは臨済宗妙心寺派円福寺で得度されています。
 たまたま私も臨済宗妙心寺派にご縁が深くあります(今後ますますお世話になる予定です)。そういう意味でも不思議と稲盛さんを身近に感じるのです。
 今回はNHKの番組ということもあって、そうした宗教的な話は極力避けられていたように感じました。それはしかたないことですね。
 そういう意味では、今日語られなかったもう一つの宗教的体験があります。それについては、4年前、稲盛さんがJALのCEOになられた時、稲盛和夫と出口王仁三郎という記事に書きました。こちらは「神」にまつわることですね。
 その記事に、私はこんなことを書いていました。

今回CEOという仕事を通じて、きっと世界をつなぐ「日本の翼」の傷を癒してくれることでしょう。単なるお金の問題ではないのです。社員の幸福、利用者の幸福、日本の幸福、世界の幸福を見据えてのお仕事をしてくれることでしょう。

 4年後、まさにここに書いた言葉を、今回のインタビューで稲盛さん自身の口から聞くことになりました。やっぱり「体現」されましたね。
 インタビューの中で、何度かご自身のことを「バカ」とおっしゃっていました。最初の会社を飛び出した時も、創立した京セラでも、また全く未知の業種、通信業界、航空業界に挑戦する際にも、とにかく「なんで無理だと思わなかったのか」。そんな自分は「バカ」だったとお笑いになる。
 この「バカ」は非常に大切です。私の憧れる「バカ」です。
 私心だけだったら、誰でも不安になり、臆病になり、守りに入ります。しかし、稲盛さんは、常に「利他」の心を持っていた、すわなち私心を捨てていたわけです。そうするとですね、神仏が応援してくれるんですよ。
 追い風の話もありましたね。それって神仏の力ですよ。それを信じて正しい帆を張るのだと思います。
 私も最近は多少「バカ」になってきていて、「まあ、なんとかなりそうな気がする」「できそうな気がする」「あの人に会えるような気がする」というようなことばかり言っています。そして、それがなぜか実現する。
 なんとなく、その追い風の受け方というか、帆の張り方が分かってきたような気がするんですよね。これはまさに稲盛和夫さんや船井幸雄さんの経営哲学を学んできたお陰様であると感じています。
 昭和19年、京都、焼き物(セラミック)…稲盛さんと我が家の耀わんはきっとweb0.0でつながっていると思います。またまた私の妄想が実現する予感がいたします(笑)。

Amazon 稲盛和夫の経営問答 従業員をやる気にさせる7つのカギ


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2014.02.08

時々かみつく…

Th_view0016638065 チオリンピックが始まりました。
 冬のオリンピックは夏に比べて、「自然と戦う」要素が多い。そして「滑る」系が多いので、ミスが「転ぶ」になるし、ケガにつながりやすいので、どうも観るのが辛い。
 冬山登山もそうですが、人間はなんでわざわざ雪や氷を相手にこんなことをするんでしょうね。
 西洋人には支配欲がありそうですね。その点、スノーボードの角野選手がスタート時に大自然に向かって「礼」をしたのは、実に日本的で良かったですね。本人も「日本」をアピールするつもりだったらしいし。
 さてさて、そんなオリンピックについては、またいつか書くとしまして、私は日ロ首脳会談について書きましょう。
 相変わらず安倍総理を上手な外交をやっております。今、ロシアと組んでおくことは、いろいろな意味で良いことです。アメリカ、中国、韓国、北朝鮮との関係を日本に有利に構築していく際に、ロシアの存在は実に大きい。
 日本の近代史を考える時、実はアメリカとの関係よりもロシア(ソ連)との関係をよく見た方がよい。ま、私はその点についてはあまり偉そうなこと言えないので、このくらいにしておきまして、今日は「ゆめ」について一言。
 ニュースにありましたように、プーチン大統領は秋田犬の「ゆめ」を伴って、安倍さんを出迎えました。
Th_849424d5 「ゆめ」ちゃんは、東日本大震災の際に秋田からプーチン大統領にお礼として送られた犬。その返礼としてロシアからは、秋田県知事に可愛い猫「ミール」ちゃんか送られました。
 それはいいとして、今回の両首脳のやりとりが面白いですね。
 ニュースから抜粋しましょう。

ロシア語で「良い子だ」と言いながらゆめの頭をなでる首相に、「時々かみつく」と用心を促す大統領。

 何気ないやりとりのように聞こえますが、これはどう考えてもプーチン流のブラックジョークですよね。
 秋田犬の「ゆめ」は日本の象徴。安倍さんは当然「良い子だ」と言います。それに対して、「時々かみつく」というのは面白い。ナイスなお返しですよ。
 たしかに日本という国は、基本お人好しですけれども、「時々かみつく」こわさがあります。
 最近で言えば安倍さんの靖国参拝もそうでしょう。国際社会的に見れば、あれも静かにしていた犬が突然かみついたように感じられるに違いありません。
 もちろん歴史的に考えると、日露戦争やら様々な反共的な動き、北方領土に関する丁々発止など、いろいろありますよね。
 時々かみつくから平和条約もなかなか締結できないというサインでもあるのでしょう。
 ミールちゃんはどうなんでしょうね。「時々ひっかく」かもしれませんよ。秋にプーチンさんの訪日が実現したら、ぜひミールちゃんでお出迎えしましょう。その時、ミールちゃんがプーチンさんにかみついたりして(笑)。

 

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2014.02.07

八雲琴(二絃琴)

↓東西古琴が合体(笑)
Th_img_7829 日の「ゴーストライター」の記事に様々なご意見ありがとうございます。私なりに本質を語れたと思っています。
 そんな、音楽の本質に関わる話の続きをしたいと思います。
 昨日の記事に少し登場しました「八雲琴」を紹介します。
 写真ではチェンバロの上に乗っかっています(笑)。ほとんど一体化してますね。お分かりになりますか。
 考えてみれば、八雲琴もチェンバロも撥弦楽器ですから、そのルーツは一緒ですね。
 なぜ、急にこの楽器を手に入れようかと思ったのか。いや、急にではないんです。ずいぶん前から気になっていました。
 私は古今東西の弦楽器を(なんちゃってですが)演奏してきました。面白いもので、弦楽器の中でもフレットのあるものは苦手。普通は逆かもしれませんね。
 デジタル的に構成される音階よりも、アナログ的というか連続的に変化する音程が好きなようです。おそらくはスイッチ操作に熟練するほど練習にいそしむことが苦手なのでしょう(つまり努力や修練が嫌い)。
 私の得意の宴会芸(笑)であるマトリョミン(テルミン)もそれでしょう。みんなは私の真剣な演奏姿に大笑いしますが、実際、目をつぶって集中しないと音程を探せないんですよね。瞑想の脳波を出さないと(笑)。
 そういう意味では、最もデジタル化、階層化されている鍵盤楽器も苦手です。せいぜい、不均等に調律したり、クラヴィコードで音程をわざとずらしたりするのが楽しいくらい(苦笑)。
 大学時代は山田流箏曲をけっこうがっつりやりましたが、あれもまた、
 暗譜ができないということにもつながっているかもしれませんね。楽譜を書いたり、読んだりするのも面倒くさいタイプです。
 かといって、ジャズのアドリブのようなものも実は苦手。つまり、西洋的な音楽理論の上に何かを産み出すということが苦手なのでしょう。
 そんな時、私は自分が日本人だなあと強く感じます。それは決していやな気持ちではありません。
 では、自分に一番合った「音楽」とはなにかというと、おそらくは、「神降ろし」の音楽なのでしょう。
 自分が「うつ(空)」「うつろ」「うつわ」になってモノを「うつす」。五感で感得することができないがたしかに存在している何か(モノ)を人間界に映す(コト化する)。
 その道具、メディアが「琴」なのです。まさに「コト」。
 出口王仁三郎は琴について次のように語っています。

 琴も天地神明を和むるものである。
 琴といふ言霊を解釈するに、非常に清らかな澄みきった言霊によく似てゐる、言霊を調節する機具と云ふところから「コト」と称するのである。

 なるほどですね。全くそのとおりだと思いますし、感じます。
 八雲琴自体は江戸の末期に中山琴主という人が霊感を得て発明したものですから、それほど古い楽器ではありません(今では大正琴のもとになった楽器として知られています)。
 それを王仁三郎が大本の神事に使いました。おそらくは金光教の影響でしょう。
Th_img_7817 私は、その近世、近代的な利用方法、演奏方法を超えて、王仁三郎の考えるような古来の琴の機能を復活させたいと思っています。
 今回手に入れた中古の八雲琴は、私にとって幸運なことに、ちょっと普通ではありません。そう、普通は左手の勘所につぼ(徽)が埋め込まれているのですが、なぜかこの楽器にはそれがありません。すなわち、全くデジタル化されていないし、視覚化されていないということです。
 私にとっては「フレット」は邪魔者でしかないので幸運なのです。不思議な出会いであります。
 これから、毎日この楽器に触れて一体化し、いつか本来の「コト」の機能が果たせるよう精進したいと思っています。
 ところで、八雲琴について調べている中で、この琴の名称の起源となった、そして和歌の始めとされるかの素盞鳴尊の御製に関する、王仁三郎の素晴らしい解釈を知ることができました。それを紹介します。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

 最後の「八重垣を」のあとに一体どのような言葉が隠されているのか。ぜひこちらでお読み下さい。

早稲田大学図書館「八雲琴譜」

Amazon 八雲琴の調べ


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2014.02.06

音楽における神と悪魔と人間(新垣隆さんの記者会見を見て)

Th_2014020600000058dal0009view 日の話の続き。一躍時の人となってしまった新垣隆さんの記者会見を見ていろいろ思ったことを書き連ねます。
 まず、第一に感心したのは、新垣さんが非常に誠実な方だということ。そして、そういう誠実さが、多くの「佐村河内守の名作」を生んだのだなということ。
 音楽というものには、ある種の誠実さが必要です。ただ売れれば良い、カネになれば良いという音楽には、そういう臭いがつきまとう。
 正直、昨年メディアに露出した佐村河内さんのイメージと、私が耳にした限りの音楽とには、明らかなギャップがあり、そこにどこかしら疑念のようなものを抱いていたのは事実であります。
 おそらくは私と同様に違和感を拭い切れなかった方も多いのではないでしょうか。
 結果として、やっぱりなということになったわけですが、なるほど音楽というのは実に恐ろしいものですね。作曲にせよ、演奏にせよ、そこにその人の魂が如実に現れてしまう。それは、言語や外見という表象を完全に凌駕して明らかに存在するのです。
 そういう意味で、「佐村河内守の名作」群が、今回の騒動を抜きにして、純粋音楽として永遠に新垣隆の魂を象徴し続けることになるのは、それはそれで素晴らしいことかもしれません。
 一方で、新垣さんが意識しているように、たしかに佐村河内というプロデューサーによる導きがなければ、名作群は生まれ得なかったのも事実ですし、演奏者、そしてオーディエンスがいなければ、音楽自体が生命を持ち得ないという点においても、改めて音楽の他者性を感じないではいられない会見の内容でした。
 少し話が飛びますが…先日、瀬戸龍介さんとの節分会で、瀬戸さんのお作りになった素晴らしい音楽を聴く機会を得ましたよね。その音楽もそうだったように、純粋な作曲という行為は、実は非常に他者性の強いものなのです。
 すなわち、「降りてくる」という体験です。これは作曲という行為や作業というよりも、宗教的な体験と言った方がより理解しやすいかもしれません。
 昨日紹介したフリードリヒ大王のシンフォニアなどは、いかにも俗性が強く感じられますが、それと対照的と説明した大バッハの楽器の指定すらない高次元純粋音楽は、明らかに高次元の聖性に包まれているように感じます。
 おそらくは、バッハは職人というよりは、やはり瞑想者に近い才能を持った天才であったと思います。語弊を恐れず言うなら「神降ろし」ができたのでしょう。彼の音楽が普遍性を持って私たちの心に響くのは、当然そういう聖性あってのことに違いありません。
 ここで急に卑近な話になって恐縮です。私、最近八雲琴を手に入れました。
 なんで、今、八雲琴なのかというと…今では楽器というと「発信機」だと思っていたんですよね。それが、ある日急にピンと来た。まさに降りてきたんです。あ、八雲琴は「受信機」だと。
 まさに神から降ろされたモノをコト化するためのinstrumentであると。楽譜を再現するというような思考回路とは正反対に、自分が空っぽになって、天(高次元宇宙?)からの波動を受け取って、ただそれを「うつす」。ずいぶん前に書いたように、「うつす」や「うつ(空っぽ)」や「うつわ」は同源の言葉です。
 ここで、また話が飛ぶ、いや戻るのかな、この前の王仁三郎フォーラムで、出口汪さんが王仁三郎の「神観」についてこう説明していました。
 「西洋の神は万能だが、日本の神は無能である。人間がいないとコップ一つ上げられない」
 これは非常に象徴的で重要な「神観」ですね。
 音楽もこの言葉と結びつけてとらえると、その本質がつかみやすい。お分かりになりますよね。
Th_2014020500000053dal0008view 新垣さんの作品で言うならば、まずその創作、誕生の段階からして、佐村河内という他者が深く関与しています。いくら佐村河内がピアノが弾けずとも、あるいは楽譜が読めずとも、また耳が実は聞こえようとも、虚言症でも悪人でも、とにかく新垣さんの聖性を高める働きをしたことは事実です。
 そして、先ほど書いたように、優れた演奏家によって演奏され、録音され、多くのオーディエンスに聴かれるに至った。
 さらにそうした他者性が、新垣さんの聖性を高める結果を生む。もちろん、仮に私が新垣さんの立場だったら、残念なことに欲望が暴走して、俗性が高められてしまったことでしょう。しかし、新垣さんは違った。彼は瞑想者、音楽への奉仕者だったのです。そこがポイントだと思うのです。
 前述したように、音楽は神に近いものです。西洋では、悪魔に近いとも考えられていました。日本では、悪も神ですから、一言で神と言っていいと思います。
 そう、つまり、新垣さんがある意味本来の「作曲家」であったからこそ、つまり、彼の生み出す音楽が、様々な現世的な状況を超えて、あまりに純粋だったからこそ、そこに悪神(悪魔)宿り、佐村河内守を狂わせてしまったのです。
 そういう意味では、新垣さんも佐村河内さんも、音楽の魔性に翻弄された被害者とも言えましょう。
 さらに難しいのは、俗世間でその音楽を受け取る側には、実に多様な「物語」が必要だという宿命です。
 「物語」を要求してしまうんですよね。「物語」がないと、その純粋世界に近づけないのです。すなわち、そこに「全聾」とか「貧困」とか「被爆」とか「震災」とか「義手」とか、極言すれば「死」に近づくための物語がないと、私たちは豊かな生という俗性から抜け出せないのですよ。残念なことですが。
 そういう豊かな生が生む悪魔という点では、私たちにも大きな罪があるとも言えるし、逆に私たちも被害者だということもできる。
 難しい。しかし、面白い。いろいろ考えさせられました。
 はたして、瀬戸さんが受け取って作ったあの素晴らしい音楽は誰が生み出したものなのか。私が爪弾く八雲琴が発する音の連なりは誰の言葉なのか。もしかして、ゴーストライターは人間ではなく、神(もしくは悪魔)なのかもしれませんね。

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2014.02.05

フリードリヒ大王(クヴァンツ?) 「シンフォニーニ長調」

 わかに「ゴーストライター」作曲家が注目されております。
 当該の事件に関しては、明日行われるであろうゴーストさんの記者会見ののちに、改めて書きましょう。
 音楽界に限らず、「ゴーストライター」はどの時代にも活躍していたわけで、その正体を現すのはある意味野暮なことでは思ったり、またそういう行為自体をスキャンダルのように扱うのも、文化論的にどうなのかなとも思ったりします。
 今日紹介する、かのフリードリヒ2世のシンフォニーも、おそらくは大王の音楽の師クヴァンツの作品でしょう(それこそアイデアやモティーフは大王自身のものかも)。
 フリードリヒ2世は、言うまでもなく世界史上の有名人。七年戦争だけでなく、のちのドイツの歴史や文化に多大な影響を与える偉業を残していますね。
 彼は音楽史においても重要な仕事をしたと言われています。特にフルートの演奏に卓越し、フルートのための音楽を数百単位で作曲したと伝えられています。
 その作風は後期バロックと前古典派の特徴を併せ持っており、なるほど、その後のハイドンやモーツァルトの音楽の誕生を導いた感はあります。
 また、(来週私もその生誕300年を祝うコンサートに出演しますが)バッハの次男カール・フィリップ・エマニュエル・バッハを重用したことも音楽史上の一大事業に貢献することになりました。
 すなわち、1747年、大王が35歳の時、エマニュエル・バッハが62歳になった父バッハをポツダムに招き、その時に大王が与えたというあの変ちくりんなテーマから名作(迷作?)『音楽の捧げもの』が生まれたというのです。
 全く時代遅れな「対位法」や、それに基づいた「即興演奏」の極致(極地)と言える「音楽の捧げ物」は、本当の意味でのバロック時代への鎮魂歌となりました。
 いや、この「事件」、ちょっとうがった見方をするとですね、また違った意味も見えてきますよね。
 大王は次男バッハを重用したと書きましたが、実際はクヴァンツに比べるとかなり冷遇していようです。あんまり好きじゃなかったんでしょうかね。
 そこに当時は全く売れなかった、そして、大王自身の好きな「最先端」の音楽とは正反対の難解な音楽にこだわる老バッハが来た。
 大王は、この偏屈なジジイを困らせてやろう、息子にも恥をかかせてやろうと、半分嫌がらせで、あの「気持ち悪い」半音階のテーマを与えた。
 しかし、バッハは見事に3声のリチェルカーレを即興演奏したと。さらに、それをのちにパワーアップして「音楽の捧げもの」として献呈した。
 お互いに嫌がらせ合戦やったとも言えるわけですよね(笑)。
 その時、大バッハが演奏したのが「最先端」の(彼にとっては)「気持ちの悪い」フォルテピアノであったというのも、また皮肉であります。面白いですね。
 真相はどうなんでしょうか。
 まあ、嫌がらせだろうがなんだろうが、とにかくあの時空を超える名曲(迷曲)を生ましめたフリードリヒ大王にはGJ!と言いましょうか。
 このなんとも明るく快活なシンフォニーと、「音楽の捧げもの」のあまりに対照的なコントラストこそ、バロック的な明暗の極致と言えるかもしれませんね。
 昨日の話ではないですが、「保守」と「革新」のせめぎ合いこそが、バロックの醍醐味なのでありました。

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2014.02.04

『もはや、これまで 経綸酔狂問答』 西部邁・黒鉄ヒロシ (PHP出版)

20140203_153812 むふむ、実に面白く勉強になったなあ。
 まさに、お二人が酒場で語り合っているのを隣で聞いている感じ。
 お二人の佇まいとかしゃべり方とか、普段テレビでよく拝見しているので、活字が見事に映像になっていく。そうすると、速読(即読)できないので、けっこう読破するのに時間がかかってしまいましたけれども、こういう読書時間の流れ方も悪くないですね。
 きっと編集がうまいのだと思います。その、なんと言いますかね、お二人の「狼藉者」ぶりというか、「やんちゃ」さというか、そういう男臭さがよく伝わってきますよ。
 それこそ古今東西硬軟聖俗なんでもござれという感じで、話があっちこっち飛びつつも、不思議と土台はずれていない感じがする。
 なるほど、本当の「悪」には教養が必要なんですな。経験と教養が土台になっているから、上で多少暴れても迷惑にならないのでしょう。
 「もはや、これまで」は決して諦観ではないし、英語の「It's all over」とも違う。昨日までの話ではないけれども、再生のスタート地点でもあるわけですね。
 そうそう、今日はカミさんと「終戦のエンペラー」を鑑賞しました。私は昨年の終戦の日に劇場で観て以来。
 あれなんかも、ある意味昭和天皇は「もはや、これまで」と決断したわけじゃないですか。決して終りではなくて、まさに新生の掛け声、呼び声だったわけですよね。自らその雛型を演じた。まったくお見事な「もはや、これまで」でした。
 この西部さんと黒鉄さんの対談も、いろいろ憂いを吐露しながらも、元気を与えるものになっている。そういう男としての覚悟を感じました。
 言語、経済、教育、国家、戦争と平和、芸術、宗教などなど、なんだ、どれも終わりそうで終わってないじゃないかという希望を感じさせる内容。ものすごく乱暴にまとめてしまえば、劣化列島日本の立替え立直しをするには、やっぱり保守がもっと頑張らねばということになりましょうが、保守はある意味安心なんですよ。なぜなら、保守だから。伝統という基礎があるから。
 もちろん、革新、あるいは左右で言えば左の推進力も重要です。しかし、そこには伝統がない(すなわち反省しかない)ので、なんの道標もない方に走るしかない。たまに正しい道を行く場合もあるけれども、実はほとんど間違いなんですよね。
 それを修正して助けるのが保守であって、その両者がタッグを組んで初めて「進化」が生まれると、私は考えています。だから、今までのように敵対するのは論外。
 そういう意味においても、その統合体として、一人の人格の中でその「進化」が可能になるのが、私の理想であり、今まさに目指しているところであります。
 正直、この対談の中の賢人お二人のレベルでも、なかなかそこまではいかない。やっぱりまずは保守再生しないとバランスが悪いということでしょうか。
 西部さん、普段のしゃべりでも、しょっちゅう英語が挿入されて面白いですよね。この本でもそうです。そして、それは「語源」にこだわっているからです。これは病気だと黒鉄さんに言われ、また、ご自身もそう言っておられます。
 これはよく分かりますね。同病相憐れむです(笑)。
 ワタクシ的に言えば、語源の魅力(魔力)というのは、そこに歴史があって、それもまさに保守と革新のせめぎ合いが象徴的に表れていることです。お分かりになりますよね。特にそのルーツと現状がかけ離れている時にドラマが読み取れる。
 あっそうそう、無粋なツッコミかもしれませんが、同病の者としてどうしても書いておきたいことがあります。
 西部さん、何回か「いとおしい」の語源を「いと/惜しい」と解説されていますが、残念ながら(今のところ)ガチガチの保守派のワタクシは訂正したくなります(笑)。
 「いとおしい」の古語は「いとほし」で、「いとふ(厭う)」という動詞が形容詞化したものです。すわなち、苦しみで悩ましい感情を表す語なんですよね。
 現代語の「愛おしい」につながるのは、かよわい人や物に対して、「守ってあげたい」と胸キュンするシチュエーションです。
 まあ、レトリックとしては「とても惜しい」でもいいけれども、重症の語源病患者としては、ここはちゃんと抑えておきましょう(笑)。
 ところで、黒鉄さんですが、実はけっこう頻繁にお見かけします。特に夏場。ウチの斜向かいによくいらしてるんですよ。季節限定の超ご近所です。
 今度はぜひ生でお話をうかがいたいと思います。

Amazon もはや、これまで

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2014.02.03

瀬戸龍介さん宅にて節分会

Th__20140204_62834 耀わん「十和田」の旅は続きます。
 今日は、次元を超えた音楽家瀬戸龍介さんの素敵なスタジオ兼自宅にお招きいただいて「節分会(せつぶんえ)」。
 あまりに盛り上がってしまい、写真を撮るのを忘れてしまいましたので、いただいてきた出来たてホヤホヤのCDの画像を貼らせていただきます。
 瀬戸さん、奥様、知り合い夫婦、家内と私と、そして王仁三郎による七人、いやもしかすると出口和明さんもいらっしゃったかもしれませんね、瀬戸さんは和明さんのご縁は非常に深い。
 神話の世界からこれからの日本、世界、宇宙、富士山、神道、教育、食、音楽、政治、経済、歴史、原子力、放射線…あらゆる分野の、それもコアのコアの部分のお話で大いに共感共振し、あっという間に、しかし濃厚に時間が過ぎてゆきました。
 瀬戸さんも大変喜んでくださいましたが、やはり、今日という日にこの会談が行われたのには、大きな意味があると思います。
 「国譲り」という日本古来独特の高度な文化継承の叡智により、幽閉されつつ純粋保存された「日本」の本体がいよいよ目覚めつつある。
 その幽閉の象徴である「節分の豆まき」。ちょうどおとといの記事に書いたところですね。
 幽閉の儀式を装って、実はその幽閉された無意識を意識化する日でもあるのです。これもまた知恵ですね。
 そんな日にふさわしい話の連続に皆さん自然と「高笑い」してしまいました。「節分」…明日から明るい新しい時代が幕開けすることを予感させる、実に神道的、いや縄文的な笑いでした。
 途中、日本一とも言われるプライベートスタジオに移動し、まさに出来たばかりの素晴らしい音楽を聞かせていただきました。
 それが上の画像にある曲。
 これは瀬戸さんが作ったと言うよりも、本当に「降りてきた」音楽だそうです。
 「蘇る!出雲」…それこそ今まで隠されてきた、保存されてきた「モノ」が再び始動する物語です。「後ろの正面」の意味も今日初めて分かりました。
 「はるかなる伊勢」…これがまた素晴らしい。カミさんはずっと泣いてました。今日お話の中でうかがった伊勢の神様の秘密、なるほどと思いましたね。やはり動き始めていました。私もそれに乗っかっていたわけです。
 音楽や言語を超えていますね。まさに高次元の波動です。体に魂に沁みわたる。
 この両曲は、それぞれの遷宮に奉納されました。きっと神様たちもお喜びでしょう。
 これに制作中の「富士」の曲を加えて、一つの作品として完成だそうです。非常に楽しみであります。
 ひょんなことから、私も音楽制作に関わらせていただくことになりそうです(これもある偶然のなせるわざでした)。
 まだまだ話足りないことがあるので、また近いうちに!とお約束して瀬戸さん宅をあとにしました。
 今年もまたここ富士北麓では「みろくの世」実現のための面白すぎる動きがありそうです。楽しみであるとともに、大きな責任を感じます。
 生きているなあ。生かされているなあ。まだまだ頑張ります。ありがとうございました。

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2014.02.02

貞明皇后(大正天皇皇后)

Th_empress_sadako た変な言動を…と思われるでしょうね(苦笑)。
 他人からすると理解しがたいでしょうけれども、私としては非常に大きな示唆を得たので、ごく簡単に書いておきます。
 今日はふと思いついて、というか相棒の言うがままに、武蔵陵墓地を参拝しました。
 相棒というのは出口王仁三郎です。ほら、もうアヤシい(笑)。
 王仁三郎が自身の分身であると称した手びねりの楽茶碗「耀わん」。昨日は「王仁三郎フォーラム」で大人気でして、気分が良かったのでしょうかね、今日も朝からぐいぐい私を引っ張って不思議なところへ連れてゆきました。
 まあ、そういうこともあるんですよ、世の中には。信じない人は信じなければいいだけです。
 で、だいたいそういうふうに連れてゆかれる時は、何か大切な気づきを与えられるものです。
 今回も私としてはある意味盲点だったことを教えてもらいました。
Th_img_4334 武蔵陵墓地は大正天皇、貞明皇后(大正天皇皇后)、昭和天皇、香淳皇后(昭和天皇皇后)の四陵があります。
 もう何回も参拝しているのですが、いつも問題なのはどの順番でお参りするかです。皆さんはどうされていますか?いや、参拝しない日本人がほとんどですし、存在すら知らない人も多いですよね。
 私、いつも自分の心の中で迷っていたんですよ。どういう順がいいのか。
 もちろん、決まりはないので、自由と言えば自由ですが、いざ自由と言われるとこれはなかなか難しい。
 しかし、今年になって初めて耀わんと一緒に参拝しましたら、もう私の意思は関係ないんですね。まさに大正、昭和の時代、天皇家と微妙な関係にあって日本を動かした王仁三郎の意思で決まるんです。
 ある人に言わせれば、昭和天皇が生涯その名前を口にしなかった三人が、出口王仁三郎、北一輝、三島由紀夫だそうですが、正直今は完全に和解し、いや和解どころか和合して、共にこれからの日本、世界の平和と繁栄を霊界から期待していることがひしひしと伝わってきます。
 で、今日はですね、どういう順番だったかというと、昭和天皇、香淳皇后、大正天皇、貞明皇后という順でした(前回とは違う)。
Th_img_7709 そして、最後、貞明皇后の陵の前で、耀わんとともに拝礼いたしましたところ、にわかにポツリポツリと雨が降ってまいりました。そして、私にはなんとも言葉にならないあるメッセージが降りてきました。
 あえて言葉にするならば、「貞明皇后の母としてのお気持ち」ということでしょうか。
 はっとしましたね。今まで日本の近代史を考える時、どうしても明治、大正、昭和、それぞれの天皇陛下を中心にとらえがちでした。
 特に昭和生まれの私としては、昭和天皇に対する思い入れが強かった。
 しかし、考えてみれば、あの昭和天皇の激動のご人生を、最愛の息子の母として、そして、現人神であり、国の王であり、象徴であった天皇陛下の母として、貞明皇后はどのようなお気持ちでご覧になり、感じておられたのか。
 恥ずかしながら、そのような視点は今まで全くありませんでした。
 しかし、今日、それが本当にドドドッと降りてきた。降り出した雨は、私の涙雨ともなりました。
 日本は母性の強い国です。人類の歴史の縮図のような昭和天皇のご人生を、母なる視点からとらえ、そしてその全て、和霊も荒魂も幸魂も奇魂も、大きな「愛」で包み込んでおられたであろう貞明皇后と、ひとしきり霊的に会話させていただくことによって、私には、日本の未来のあるべき姿を直観にて感得することができたように思えました。
 貞明皇后さまのそのご人生とひととなりにつきましては、おそらく皆さんもほとんどご存知ないと思います。まずはWikipediaで、その概要をお知りになるとよろしい。
 いろいろな意味で、日本の歴史の立替え立直しに貢献した方だとつくづく感じます。
 最後に、貞明皇后さまのお言葉の中から、印象に残るものをいくつか。
 まずは、戦中のお言葉です。王仁三郎の言葉にも似ていますね。

「(大東亜戦争について)もう台湾も朝鮮も思い切らねばならない。昔の日本の領土のみになるだろうが、勝ち負けよりも、全世界の人が平和な世界に生きていくことを願っており、日本としては皇室の残ることが即ち日本の基です」

 大正天皇は優れた漢詩をたくさん残しました(こちらの記事参照)。また、お父様の明治天皇の影響もあって和歌もいいものを残しています(こちらの記事参照)。
 奥様の貞明皇后は漢詩も残していますが、和歌の方が得意でした。生涯にわたり歌を詠み続けました。
 その中で、いくつか抜粋いたします。僭越ながら多少私に関係するもの、すなわち、富士山、養蚕(絹織物)、琴、神道を詠んだものです。

 けふぞ見しむかしの人のうたひける
    かのこまだらの雪のふじのね

 わが国のとみのもとなるこがひわざ
    いよいよはげめひなもみやこも

 少女子(をとめご)の弾く手妙なる琴の音に
    松の風さへ吹き止みにけり

 ふじのねのいただき白く雪みえて
    みやこの秋に初霜のふる

 外国のひとのこころをみたすべく
    よきまゆ糸のとりひきはせよ

 八百万の神のたゝへし一笑ひ
    世の喜びのもとにてあるらし

Amazon 母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出


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2014.02.01

節分の鬼について

 日は我が中学校の一般入試でした。今回もまた国語の本文はワタクシの書き下ろしです。今回のテーマは「節分の鬼」。いかにも最近作った感がありますな(笑)。
 では、その文を公開します。実際の問題にはもちろん傍線部や空欄があり、また難しい漢字にはルビが振ってあります。
Th_img_7783 おっとその前に…実は今日、入試が終わったあと、急きょ東京にて「王仁三郎フォーラム」の立ち上げに参加しました。出口汪さん、出口光さん、道幸武久さんらを中心として「出口王仁三郎を世に出す」試み。
 「幽閉された本来の救世主の解放」ですね。これはまさに今回の文章のテーマとも符合します。シンクロニシティですね。
 では、お読み下さい(「豆」知識としても面白いと思いますよ)。


 「節分」

 もうすぐ節分ですね。
 みなさんは節分には何をしますか。まず最初に思い浮かぶのは「豆まき」でしょう。
 鬼は外。福は内。
 こう言いながら豆を投げます。家や学校によっては、お面をかぶった鬼役の人が登場し、豆を投げられて逃げまどう、なんてこともありますね。
 そして、年齢の数だけ豆を食べます。みなさんはまだ十二個くらいしか食べられませんから、少し物足りないかもしれません。かといって、みなさんのお父さんお母さんや私のように、四十個も五十個も食べていいと言われると、それはそれで困ってしまいます。とても食べきれませんので(笑)。
 ところで、みなさんは、節分という日がどんな日か知っていますか。
 ただ豆を投げて食べる日ではありませんよ。
 「節分」…「季節を分ける」日と考えると分かりやすいかもしれません。つまり、季節と季節の境目です。
 ですから、もともと節分は一年に四回ありました。分かりますよね。春夏秋冬それぞれの境目は四回あります。
 その中でも、特に重要だと考えられたのが、今の季節の節分です。つまり、私たちの言う節分とは冬と春の節分だということですね。
 たしかに、節分の次の日は毎年「立春」です。このころになると、暖かい日も少し増えてきますし、夕方五時ごろになっても明るくて、ああ日が伸びたなあなどと感じることもあるかと思います。また、杉の花粉が飛び始めて、みなさんのまわりでもくしゃみをする人が増えることでしょう。
 実は、季節の変わり目というのは、病気になりやすい時期です。気温の差が大きくなったり、毎日の疲れがたまってきたり、なんとなく気がゆるんだりして、体の免疫力が下ってしまうのだそうです。
 また、心の面でも、時々気をつけないと、できるなら楽をしたい、自分だけよければいい、というような気持ちが芽生えてきたりしますね。「鬼」は、そんな私たちの悪い心、ずるい心の象徴でもあるのです。
 昔の人たちは、こうした自然の変化と自分の変化に敏感だったのでしょう。季節の変わり目に体や心におとずれるピンチを「鬼」というこわい存在にたとえて、それをやっつけたり、封じ込めようとしたのです。
 その一つが方法が「豆まき」というわけです。
 豆にはふつう煎った大豆を使います。豆は煎るとちょっとした石のように固くなります。それを武器にして、鬼をやっつけるのですね。実際、悪さをする鬼の目を煎り豆でつぶしてやっつけたという昔話もあります。
 それなら最初から石を投げればいいような気もしますが、昔の日本では、豆のような穀物には特別なパワーがあると信じられていました。きっとそのパワーも利用しようと思ったのでしょう。
 また、豆を煎るということには別の意味もあります。それは、もう「芽が出ない」ということです。火を通した豆には、いくら水をやっても芽が出ませんよね。そうして、悪い芽も封じ込めようという願いがこめられているのです。
 実際に鬼がいるかどうかは別として、このように、自分たちの命にかかわる病気やケガなどから身を守るため、いや、それ以前にそういう災いがあるということを思い出すために、節分という行事が日本中に広まり、この科学の進歩した現代社会にもちゃんと残っているのでしょう。
 ところで、最初に「鬼は外。福は内」と書きましたが、ちょっと違った言葉を唱える家や地方があるのを知っていますか。こんなふうに言うそうです。
 「鬼は内。福は内」
 「福は内。鬼も内」
 どうですか。面白いでしょう。なんで、「鬼」まで内に誘ってしまうのでしょうか。みなさんはどう思いますか。
 実はいろいろな理由があるようです。
 ちょっと考えてみてください。自分の苗字に「鬼」がついていたらどうでしょう。たとえば「鬼塚さん」とか「鬼頭さん」とか「九鬼さん」とか。自分がそういう苗字だったら、なんとなくいやですよね。そういう苗字の家では「鬼」もちゃんと中に入れてあげるわけです。
 また、鬼もかわいそうじゃないか、という考え方もあるようです。先ほど「災いを忘れないように」ということを書きましたが、もし、鬼のおかげで大切なことをちゃんと思い出したのなら、もういじめることもない、いや、それどころか感謝すべきだ、という考え方もできますよね。
 そういう気持ちで、鬼も家の中に入れてあげてもてなしてあげるという場合もあるのです。どうですか。そんな考え方したことがなかったでしょう。でも、ちょっとそういうふうに考えてみると、いい話のような気もしてきます(ちなみに我が家ではその考え方にのっとって「福は内。鬼も内」と言います)。
 さらにもっと進んで、「鬼」が一番偉い神様だという考え方をする人たちもいます。「今はみんなに嫌われているけれど、本当はいい神様なんだ。ただ、とっても厳しいのでみんながいやがって封じ込めてしまったのだ」と。
 これも面白い考え方ですね。たしかに自分が嫌っている人やものが、本当は正しかったり、偉かったりすることってありますよね。ただ、怒られたり、痛い思いをするのがいやで嫌っていることがあるものです。
 さて、今日は「節分」について少し勉強してみました。こうして、当たり前になっている行事や習慣の意味を学び直してみると、自分や世の中が違って見えてくるから面白いものです。
 勉強の楽しみを教えてくれた「鬼」さんには、やっぱり感謝しなければですね。

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