天命は人事を尽くすを待つ
今日は我が高校の卒業式でした。2月中に行われるということで県内では最も早い卒業式です。
今年度は創立50周年の年であり、しかし一方で理事長の逝去があり、まさに激動、悲喜こもごもの1年でありました。
そんな中での卒業式ということで、私としましても一際感慨深いものがありました。
式典の中には様々な言葉が卒業生へのはなむけとして贈られましたが、今年も最も印象に残ったのは、我が校の名誉校長であり、岐阜の名刹正眼寺の住職である山川宗玄老大師のお言葉でした。
昨年の卒業式での「過去は滓(カス)だ」にも大きな衝撃と感銘を受けましたけれども、今年もまた名言を残していってくださいました。
「天命は人事を尽くすを待つ」
もちろん、「人事を尽くして天命を待つ」が元になっている言葉です。老師は「人事を尽くして天命を待つ」の私的解釈として、「天命は人事を尽くすを待つ」とおっしゃりました。
すなわち、人事を尽くさねば天命はやってこないということですね。たしかに「人事を尽くして天命を待つ」の裏には、「だから人事を尽くしなさい」というニュアンスがあります。
しかし、それを「天命」を主語とすることよって、さらに断定的、核心的にしたのが老師のお言葉です。
ここでまたワタクシの「モノ・コト論」が登場してしまい、お目汚しとなってしまいますが、「人事」とはまさに「コト」であり、「天命」とは「モノ」です。すなわち、人事は自己の意思に基づいた行動であり、天命は自己の意思とは無関係の他者(神仏、自然)の意思ということになります。
私はことあるごとに、「コトを窮めてモノに至る」と言ってきました。これがなかなか理解してもらえなかったわけですが、このたび老師のお言葉で、自分自身も「なるほど」と得心したのであります。
禅は、自己を究極まで探求していくと、最終的に自己を離れて、自己の補集合たる宇宙に還っていくというものだとも言えます。
または形式(カタ=コト)を徹底していくと、そこに無限の多様性や個性が顕現するものだとも言えましょう。
主語が「コト」から「モノ」になっていくのです。
私のような野狐禅、いやそれ以下の野狸禅者が、本物の老大師さまのお言葉に対して偉そうなことは言えませんけれども、本当に肚にストンと落ちました。悟ったのかな(笑)。
昨年もそうでしたが、こうして老師のお言葉に不思議な共鳴を覚えるのは、やはり、私の人生観、あるいは(ハッタリですが)哲学のようなものに、禅が大きく影響を与えているからに違いありません。
そうした禅的な発想から言えば、「人事を尽くしたから、あとは天命を待つだけ」ということもあり得ないのかもしれません。
「人事を尽くす」とはどこまでのことなのか、「天命を待つ」境地というのは本当にあるのか…。
その問い自身が禅そのものでもあるはずです。
老師は、亡くなられた本学園の理事長の言葉を何度も繰り返しました。
「精いっぱい、力いっぱい」
そのように生きた者だけが、今起きていることを天からの授かりものとして素直に受け止めることができるのでしょう。
卒業生諸君、卒業おめでとう。お互い死ぬ時に天命を感じられるよう「精いっぱい、力いっぱい」今を生きようではありませんか。
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今年の東大の国語の問題もなかなか面白い良問でした。
ニギハヤヒ…謎の多い神様です。それだけに古代史ファンには人気です。
我が校の隣にある「月江寺の池」。かつて鳴琴泉とも呼ばれたという湧水池は、このたびの大雪でも、ほとんどその姿を変えませんでした。
今日もまた「…日にちなんで」シリーズ。そして、久々の「もう一つの富士山」シリーズ。
「見る」と「聞く」とが対照されている感じですね。そして、大胆にも釈迦と孔子を見下しています(笑)。
昨日の「2月22日にちなんで」に続きまして、「2月23日にちなんで」です。
そして、皇太子殿下のお誕生日。54歳になられたとのこと。おめでとうございます。
今日は私にとって特別な日でした。
実は昨年、もうちょっと高い黒猫型ケースを買ってあげたんです。右の写真のやつです。
そこで今回はシリコンっぽいものにしたわけです。
またまた日付に矛盾がありますが、真央ちゃんのことを書きましょう。
雪かきというか、車の救出に時間と体力を奪われましたので、今日こそ短めに。
昨日の話の続きになります。
そう、かの聖徳太子の十七条憲法の第一条です。この第一条の冒頭の「和」についても真説として、
災害モードなので今日も短めに。
ウチに遊びに来るノラ猫のシローさん。
ちょっと日付に矛盾がありますが…羽生選手金メダルおめでとう!
今日は授業中の雑談風に。いつもこんな感じで話が飛んで飛んで飛びまくり、最後に「どうしてこんな話になったんだっけ?」とみんなで復習するのがお決まりのパターン(笑)。困ったものです。
なぜ斜めなのかというと、これはイエスがはりつけられた十字架ではないのですよね。イエスの弟子、十二使徒の一人アンデレの架けられた十字架なのです。アンデレはX字の十字架にこの絵のように処刑されました。
いや、実はですね、
非常にいい本でしたね。今まで神道関係の本はずいぶん読んできましたが、初めて「しっくり」来ました。
本日、横浜のベーリック・ホールで行われました
明日、横浜でコンサートに出演します。
今日思ったのは、ちょうど最近ブログに書いてきたことでしたね。天才、神は「器」であるということ。そして、そこに「モノ」を招くということ。本来の(世阿弥の言った)「ものまね」です。
毎度楽しみにしている「100年インタビュー」。今回は稲盛和夫さん。非常に勉強になる内容でした。
いくら能力や熱意があっても、「考え方」がマイナス方向のベクトルだったら、大変な悪い結果が生まれてしまうわけですね。オウム真理教事件なんか、その例かもしれません。
ソチオリンピックが始まりました。
「ゆめ」ちゃんは、東日本大震災の際に秋田からプーチン大統領にお礼として送られた犬。その返礼としてロシアからは、秋田県知事に可愛い猫「ミール」ちゃんか送られました。
昨日の「ゴーストライター」の記事に様々なご意見ありがとうございます。私なりに本質を語れたと思っています。
私は、その近世、近代的な利用方法、演奏方法を超えて、王仁三郎の考えるような古来の琴の機能を復活させたいと思っています。
昨日の話の続き。一躍時の人となってしまった新垣隆さんの記者会見を見ていろいろ思ったことを書き連ねます。
新垣さんの作品で言うならば、まずその創作、誕生の段階からして、佐村河内という他者が深く関与しています。いくら佐村河内がピアノが弾けずとも、あるいは楽譜が読めずとも、また耳が実は聞こえようとも、虚言症でも悪人でも、とにかく新垣さんの聖性を高める働きをしたことは事実です。
ふむふむ、実に面白く勉強になったなあ。
耀わん「十和田」の旅は続きます。
また変な言動を…と思われるでしょうね(苦笑)。
武蔵陵墓地は大正天皇、貞明皇后(大正天皇皇后)、昭和天皇、香淳皇后(昭和天皇皇后)の四陵があります。
そして、最後、貞明皇后の陵の前で、耀わんとともに拝礼いたしましたところ、にわかにポツリポツリと雨が降ってまいりました。そして、私にはなんとも言葉にならないあるメッセージが降りてきました。
おっとその前に…実は今日、入試が終わったあと、急きょ東京にて「王仁三郎フォーラム」の立ち上げに参加しました。出口汪さん、出口光さん、道幸武久さんらを中心として「出口王仁三郎を世に出す」試み。
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