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2014.01.31

マスカーニ 『アヴェ・マリア』

 ろいな学校行事が重なり忙しくしております。送り出し、受け入れる、そういう季節であります。
 今日は特に大切な行事があり、その際、この曲をBGMとして使いました。
 今日かけたのは器楽版、すなわち有名なオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲です。
 カヴァレリア・ルスティカーナはマスカーニの出世作。若きマスカーニはこの(ある意味コテコテの)メロディーにかなりの自信があったようです。この旋律を活かすためにカヴァレリア・ルスティカーナというオペラを作ったと言ってもよい。
 カヴァレリア・ルスティカーナは、まあイタリア・オペラらしいと言えばらしく、ドロドロの不倫劇であります(笑)。
 そのドロドロのクライマックス付近で突如現れる「間奏曲」。
 なるほど、その効果は非常に高いと言っていいでしょう。やはりイタリアは音楽の本場ですね。音楽が持っている聖俗を凌駕する力をうまく利用している。
 たとえば、今日、この曲を利用したのは、本当に厳粛な場でありました。オリジナルのオペラの内容とは対照的な場と言っていいでしょう(結婚式でもかかるくらいですからね…笑)。
 音楽というのは非常に面白いもので、人間がどっぷりと関わる作品全体が持つ俗性と、それを構成するピースの持つ本体を超えた聖性との不思議なバランスによって成り立っているのですね。
 かの大バッハも世俗曲の一部をのちに宗教曲に書き換えたりしています。表面だけ見れば、えっ?いいの?というような場合もありますが、実際にはバッハ自身が音楽の本質をよく分かっていたからこそ、そういうことをしたのだと思います。
 このカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲も、のちに歌詞を与えられて「アヴェ・マリア」という宗教曲になりました。
 もちろん、ドロドロの世俗オペラの「間奏曲」だからこそ浮かび上がる宗教性(実際教会のシーンです)という効果もあったのでしょうし、観客はそういうギャップをある意味楽しんでいいたのでしょうね。
 というわけで、観客の期待どおりに「歌」に昇華したのが、この「アヴェ・マリア」であります。上の動画では名メッツォ・ソプラノのエリーナ・ガランチャの素晴らしい歌唱がお聴きいただけます。
 ちなみに、彼女、今月無事第二子を出産されたそうです。ダンナさんは、指揮者のカレル・マーク・チチョン。結婚し母になることによって、ますますその芸を磨いているのではないでしょうか。
 そう、音楽界ってものすごくドロドロしています。俗が聖を磨くという不思議な世界ですよ。あっ、私は全然ドロドロしてません。だからイマイチな演奏家なのであります(笑)。

Amazon 涙腺上のアリア

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2014.01.30

Box(オンライン・ストレージ・サービス)

20140131_132254 本的にクラウド・サービスはDropboxを使っています。もう5年ほどお世話になっているわけですね。本当にいろいろな意味で助かっています。
 今では追随の似たようなサービスが多数ありますが、やはり、その利便性と信頼性においてDropboxは私の中では図抜けています。
 それでも今月は珍しくDropboxで数時間にわたる不具合がありましたね。たまたま私はその迷惑を蒙ってしまいました。けっこう大切な場面でガーンということになっちゃったんですが、まあ5年に1回くらいはしかたありませんね。無料で使わせていただいているわけですから。
 そう、結局無料プランのままでなんとかやってるんですよね。Dropboxは無料プランですとたった2GBのスペースしか使えません。今となっては「たった」ですよね。
 なんとかいろいろな手を使って6.5GBまで増やしましたが、やっぱり時々ファイルを捨てないといっぱいになってしまいます。それが面倒と言えば面倒。まあ、古いファイルの整理にはいいんですけどね。
 同様の無料サービスでもう少し多くの容量をゲットできるものも試してみました。でも、なんか、Dropboxの手軽さと安定度に慣れていると、いつのまにか使わなくなっちゃうんですよね。
 まあ本家一本で行こうかと思っていた矢先、ちょっと食指の動いたサービスがありました。それがこの「Box」です。
 実は今、ものすごい出血大サービス期間中なんですよ。つまり、iPhoneやiPad用の専用アプリをインストールすると、なななんと無料で50GBのスペースをいただけるのです!
 いきなり50GBですよ。これは驚きです。
 さっそく、iPhoneにアプリをインストールして登録。50GBの大容量をゲットいたしました。
 使い心地もほとんどDropboxと変わりません。1ファイルあたりのアップロードの上限が250MBという制限がありますが、まあ普通の使い方をしている限りは、私はそんなに大きなファイルを扱いませんので特に問題なし。
 アップロード、ダウンロードのスピードにも特に不満はありませんし、これはDropboxのサブとして充分使えそうですね。
Th__20140131_132443 公式ページに行くと、いきなり英語なのでちょっと尻込みしそうですが、サインアップして送られてくるメールからヴェリファイしてログインして右上の歯車アイコン(設定)の「Account Setting」→「General」→「Language」→「日本語」→「Save」 で日本語になります(面倒ですね…笑)。
 まあとにかく50GBという広大なスペースはすごいですね。Dropboxに入れるまでもないものはこのBoxに突っ込んでおくとよさそうです。これでDropboxがスッキリしそうです(Macで作った書類等は全てDropboxに保存しています)。
 ええと、私に特有なクラウド事情も書いておきましょうか。
 ちょっと前にも書きましたね。職場でMacを使っているのは私だけなんです。で、職員室のRISOの多機能プリンタがデフォルトではMacに対応していません(ウン万円かけてオプション買えばば使えるらしいが)。
 それでですね、たえとば教材とかお便りをどう印刷するかというと、これが面倒なんですよ。
 まずMac専用の(今は絶滅した)egwordで文書を作ります。そして、それをDropboxフォルダ内にPDFファイルとして書き出します。私のMacはTeamViewerでこの前買ったWindows8搭載のタブレットLenovo IdeaPad Miix2 8とつながっています。つまり、Macの画面上でWindows8が使える状態になっているわけですね。そのWindowsにも当然Dropboxフォルダがありますから、それで先ほどのPDFファイルを開いて、そしてRISOのプリンタでプリントするわけです(ふぅ〜)。
 まあ、言葉にすると面倒ですが、慣れれば大した手間ではありません。
 で、こういうふうに印刷するためのPDFファイルが毎日大量に発生するわけですね。それで、今まではDropboxが散らかるし、いっぱいになりがちだったんですね。
 それをこれからはBoxに入れてしまおうということです。こんな印刷用のファイルは万が一Boxに何かあって失ったとしても、それほどダメージはありませんからね。
 というわけで、私のような特殊な事情を抱える方は世界中に3人くらいしかいないと思いますが、その他の普通の人生を送っている方も、ぜひこの機会にBoxを利用してみてはいかがでしょうか。特にiOSデバイスを使っている方にはおススメします。たぶん来月の15日くらいまでのキャンペーンですから、なるべく早くどうぞ。

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2014.01.29

魔鏡と3Dプリンタ

Th_k10048663111_1401291928_14012919 日の「三角縁神獣鏡」のニュース、面白かったですね。いろいろな示唆を得ました。
 私は三角縁神獣鏡は日本国内で造られたと考えている者です。ですから、今回判明した「魔鏡効果」も日本の職人の研磨技術によるものだと妄想しています。
 十字架の映しだされる隠れキリシタンの鏡にも魔鏡効果が使われていたように、日本ではある種宗教的、呪術的、超常現象的にこの匠の技が生かされていました。
 おそらくは、卑弥呼の時代以降、神道の鏡の中にこの秘匿技術が継承されてきたのでしょう。
 そして今回、これが3Dプリンタによって複製されたというのが面白い。最新の成形技術によって最古の謎の一つが解明されたわけですからね。しかし、実はその最新の技術こそ最古の技術であるとも言えます。
 3Dプリンタというのは「堆積」です。鏡面の最終仕上げは手作業だったようですから、まさに堆積と研磨という、自然現象の造形のようなことが行われたわけです。
 そう、私は3Dプリンタというものを知った時、これは実に「自然」だなと思いました。
 たとえば富士山。このシンプルで複雑な美は、堆積と侵食による造形です。人為の働かない造形というのは、基本的にそういうプロセスを踏んでいます。
 まあ、そこに建物を積み上げたり、斜面を削って道を作ったりするのも、「堆積」と「侵食」とも言えますがね。人間の自然の一部ですから。
 いずれにせよ、本来の神獣鏡のような鋳型を使った成形から2000年を経て、私たちはまるで神の造形のような技術を手に入れたことになります。
 思いどおりの形を堆積によって作り上げる、そして仕上げは研磨となると、本当に神(自然)の領域ですよ。
 もう一つ、ワタクシ的には、時間論の中で「堆積」は重要なヒントになっています。つまり重力と時間の関係ですね。そんな点からも、3Dプリンタにはちょっと興味があります。
 もちろん、その半面、そのいかにもインスタントな造形に、はたして人間の魂はこもるのかどうか、はなはだ疑問であったり、いや、もともと自然にはそんな意思も魂もないのか、この富士山の造形に意味や価値を与えているのは人間だけではないかとか、そんな迷いも生じています。
 まあ、とにかくモノ造りの革命が起きることは間違いないですね。そして、今回のように、過去の造形のコピーもどんどん進み、著作権のみならず今はまだ見えていない様々な問題も形作られていくことでしょう。
 まさに、これはモノ(不随意)のコト(随意)化、無常の(記録・複製による)永遠化という人間の営みそのものなのかもしれません。
 そう考えると、人間の人生や人類の歴史も時間の「堆積」によって作られ、そしてのちに風化したり、侵食されたり、意図的に削り取られたりして、過去の物語になっていくのでしょうか。そんなことを考えられるのであります。

クローズアップ現代「“3Dプリンター革命”~変わるものづくり~」

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2014.01.28

悪口は面と向かって、褒め言葉は人を介して…

As20140123002671_comml 日新聞に早川義夫さんによる佐久間正英さんへの追悼文が掲載されていました。
 お二人の、男同士、音楽家同士の深い愛情を感じさせるいい文章でしたね。

 「悪口は面と向かって、褒め言葉は人を介して」

 早川さんの感じていた佐久間さんの信条です。
 簡単なようで非常に難しいことですね。私もまさにそれを心がけているつもりですが、案外逆になっていることが多かったりして…。
 佐久間さんが日本の音楽史に残る数々の業績を残されたのは、きっとこの信条を体現していたからでありましょう。
 特にプロデューサーという仕事ではこういう生き方が重要です。信頼を得て、そして相手の能力を引き出すために。
 私は常々「学校の先生はティーチャーではなくプロデューサーであるべきだ」と言っていますから、まさに学校においては「悪口は面と向かって、褒め言葉は人を介して」であるべきなんですよね。
 「悪口」は、真剣な叱責であることもあるし、冗談めかした笑いの中の悪口であることもあります。いずれにせよ、表情という情報がちゃんと加わらないと真意が伝わらないわけです。
 そう考えると褒め言葉というのは面白いもので、なぜか他人を介した方がたしかに効果的だったりする。つまり直接的な表情がそこになくてもいい。
 直接的な褒め言葉はおそらく、褒め言葉のふりをしたお世辞だったり、自分がよく思われたいがための嘘だったりすることが多いのでしょうね。
 ところが、人を介しての褒め言葉は、そこには「私」が希薄になるので、「真」である可能性が高く感じられるのでしょう。
 だから、言われた方もうれしいし、言った方も真意を伝えやすいし、照れもいらない。そして、相手からのお礼や褒め返しなんていう面倒くさいものも排除できます。お互いにいいですよね、たしかに。
 気持ち悪い褒め合いほど見苦しいものはありません。だから私、「あっ、この人自分が褒めてもらいたいから私のことを褒めてるな」という人にはあえて褒め返しはしません。やな人ですね、私(笑)。
 さてさて、そんな佐久間正英さんと早川義夫さんの共演、そしてこの方も早く癌でお亡くなりになりましたヴァイオリニストのHONZIさんもいらっしゃる素晴らしいライヴです。
 音楽も案外「他人を介して」という部分があるんですよ。それが面白かったりする。顔を合わせなくても褒め合える。音を介してということです。それが伝わってくるライヴです。私たちも褒められ、そして怒られ、励まされます。


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2014.01.27

スプレー式タイヤチェーン『タイヤグリップ』

Tyre Grip

 寒四温…最近は寒い日と暖かい日が周期的に交替しているような感覚ですね。ちなみに、この「三寒四温」という言葉、もともとは中国北部や朝鮮半島北部の冬の気候を表す言葉です。日本では、春先の寒の戻りのイメージがあるのではないでしょうか。
 実は「三寒四温」も「三寒」も「四温」も冬の季語なんですよ。今は立春前ですから使ってもいいかな。
 さて、おそらくは本州太平洋側で最も寒いであろうここ富士北麓地方では、こういう三寒四温があると実に面倒なことになります。
 先月、滑らない靴の記事にも書いたように、積もった雪が解けて道路を濡らし、それがまた夜から朝にかけて凍って、場所によってはスケートリンク状態になるわけです。ウチの前の道は富士山の雪解け水の通り道でして、まさにツルツルの状態です。
 今年は、たとえば富士吉田市内などの市街地では最悪の状況になってはいれませんけれども、まだ油断なりませんね。まだ4月までに数回は雪が降るでしょうし、冷え込めば街中ツルツルになりかねません。
 で、靴は前掲の北海道仕様のものでバッチリとしてまして、車の方はといいますと、スパイクタイヤというわけにはいきませんので、実際の所スタッドレスタイヤでは心もとないのであります。
 ミラーバーンですとスタッドレスでも普通にクルクル回っちゃいます。かといって、スパイクのついたチェーンを巻くのも面倒です。だいたい山の中のウチの方では必要でも、街に下りてくると全く必要ない状況というのもよくあるので気が引けます。
 そんな時に役立つのがこれ。こういうのを待っていたんですよね。スプレー式簡易スパイク。
 タイヤにシューとすると、樹脂が数分で固まって、小さなスパイクになり氷上でもグリップ力が増すという代物です。
 そんなもの本当に効くのかと疑われそうですが、実際ウチの前のアイスバーンというか氷の上でやってみたら、たしかに効果を感じられました。
 本当にツルツルの氷の上ですと、ブレーキを踏むことが命取りになるわけですが、これをスプレーする前と後とでは、全く安心感が違いました。もちろんスピードによっては滑るけれども、グリップしていてコントロールできる感じです。
 スパイクタイヤとは比べ物にならないとは言え、スタッドレスタイヤとも逆の意味で比べ物になりません。
 問題は効果がどのくらい持つかということですが、まあ、乾燥路をちょっと走るともうダメという感じですから、本当に緊急用ということですね。
 ウチでは凍結が予想される朝にシューとやって山を下りるので、街中で効果がなくなっても構わない。ちょうどいい感じです。
 一般には、ノーマルタイヤに吹きかけて雪の急場をしのぐという使い方が多くなりそうな予感がしますが、そこはあんまり期待しない方がいいのでは。
 雪上を走るにはスパイクはあまり関係ありませんからね。ただ、たしかにタイヤが空転してスタックしている状況では多少の効果はあるかもしれません。けっこうベタベタした感じがありますし。
 スプレーする際、車体に樹脂がついて厄介ですので、車をキレイに使っている方にはおススメできません。私のは軽貨物なので、見てくれは気にしません(笑)。
 私、以前何かのエッセイに書いた記憶がありますけど、富士山の林道でとんでもない経験したことがありまして…(苦笑)。ミラーバーンの斜度20%の登り坂にノーマルタイヤのジムニーで進入してしまい、しばらくは登っていたのに、途中から完全にグリップを失い、四輪がガンガン前進方向に回っているにもかかわらず、車自体は後ろに回転しながら滑り落ちていく、結果、ガードレールのない崖方向に車は滑ってゆき…ああ、思い出すだけでも恐ろしい。
 あの時は九死に一生を得ましたが、なにしろ車を降りたら、乗員みんなその坂で立っていられない、はいつくばっても滑っていってしまうという、まあホンモノの氷地獄でしたからね。まあ、よく生きて帰っきたものです(苦笑)。
 まあ、上の動画のスケートリンクが思いっきり傾いているわけですからね。そりゃ危なすぎる(笑)。若気の至りでありました。
 その他も含めて、あのアンコントローラブルな感覚というのは、体験しないと分かりませんよね。皆さん、冬場の富士北麓へ車でいらっしゃる際には、このスプレーを携行されるとよろしいと思います。いや、マジで。
 そうそう、この前、義兄がオフロードバイクでウチに寄ったのですが、思いっきりツルツル滑ってました。このスプレー、バイクにも有効だと思いますよ。それから靴底のシューッとするのも効果的です。そんなに高くないですし、一家に一本あってもいいのではないでしょうか。

Amazon Tyre Grip


 

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2014.01.26

Mac用簡単リサイズフリーソフト「Th-MakerX」

Th__20140127_120121 日は実用的で軽めのネタで。
 このブログもそろそろまる10年。毎日書いてきましたので、なんだかんだ3000以上の記事を書いてきたことになります。まあ、よくやるわという感じですね(笑)。
 それぞれの記事には必ず写真を1枚以上載せています。今調べたら、約10年間で6134枚の写真をアップロードしてました。平均2枚くらいってことですね。
 で、基本的には撮った写真をリサイズ(ほとんど縮小)してアップロードしているわけですが、なんだかんだ今まではMac純正のプレビューを起動して「ツール」の「サイズを調整」でやってきました。
 ほとんどが横幅320ピクセル、縦型の写真の場合は縦を320ピクセルにしてリサイズしてきました。それが結構面倒くさいと言えば面倒くさい。
 そんなことを6000回もやってきたんですね(笑)。特に面倒だったのは、縦型の写真の場合で、デフォルトは横型の320×240しかないので、わざわざボックスに数値を入れなければならなかった。
 ま、別にそのくらいいいじゃん、と言われそうですが、たとえば富士山の写真を10枚くらいアップする時もあります。それをまとめてリサイズしたい時、そこに縦横が混在していたり、元の画像のサイズがまちまちだったりすることも多く、そのたびにけっこう思うように行かずイライラすることも。
 そんなようなことって、考えてみると、私だけでなくみんな同じようにストレスだと思うわけですよね。そうすると、当然偉い人がいて、そのストレスを軽減するような工夫をしてくれるんですよね。
 その一つ、最近私が採用しいてるのが、このソフト(アプリ)です。
 これのいいところは、「フィット」というリサイズモードがあることですね。先ほど書いた、縦横混在していても、自動的に横型の横を320、縦型の縦を320というふうにちゃんとリサイズしわけてくれます。
 これだけでもかなりストレスが減りますね。
 ドラッグ・アンド・ドロップで、元の画像のあった場所に(たとえばデスクトップならデスクトップに)自動的に縮小されリネームされた画像が保存されます(違う動作をするようにいろいろ設定もできます)。
 処理も早く、また縮小された画像も自然な仕上がりで満足していますよ。
 その他、ウォーターマーク(署名や注釈)も簡単に入れられますし、これは重宝しますね。
 それにしても、最近のデジカメやケータイ(スマホ)のカメラは画素数が多すぎて使い勝手が悪すぎます。
 私はデジカメは300万画素にスペックダウンして使っていますし、iPhoneのカメラも純正ではなく小さなサイズで撮れるアプリを利用しています。
 この必要以上に太った写真事情、なんとかなりませんかね。データがでかいとまあいいことないですよ。特にスマホのカメラは所詮あんなレンズですから、今の標準的な画素数はオーバースペックですよ。
 ま、デジタルズームという、あまり使いたくない機能のためには画素数が多いに越したことはないわけですが(苦笑)。

Th-MakerXのダウンロードはこちらから。

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2014.01.25

WRESTLE-1 『SUNRISE TOUR 2014』 山梨大会

20140126_102510 士吉田の誇るヒーロー武藤敬司率いるWRESTLE-1(レッスルワン)の山梨大会に行って来ました。
 う〜ん、正直…面白かった!!w
 昭和の時代からずっといろいろなプロレスを見続けてきたワタクシとカミさんでありますが、今回の興行はその中でも非常に満足度の高い内容でした。
 新日本プロレスのトップレスラーからニューヨークで世界のトップに立ち、そこから電撃的に全日本プロレスの社長になった武藤。そして、初めて自らの理想を追究する団体WRESTLE-1を立ち上げたのが、昨年9月。
 武藤敬司が世界中の様々なプロレスを体験したのちに目指したものは、こういう世界だったのですね。
 彼は「今までにない新しいプロレス」と言っていましたが、これはある意味非常に「古典的」なプロレスでしたよ。
 一つ一つの試合の感想や内容は今日は書きません。その場にならないとカードが分からないという面白さ(ドキドキ感)を感じながら、公式の試合結果をご覧ください(写真もふんだんにあります)。

SUNRISE TOUR 2014 アイメッセ山梨大会試合結果

 ここでは、ワタクシ得意の文化論としてのW-1を語りたいと思います。
 先ほど「古典的」と書きましたが、それはすなわち、試合内容のことではなくて、会場の雰囲気のことです。どこか懐かしい昭和の地方プロレスの雰囲気が非常に強く感じられました。
 それは「非日常」です。「ハレ」「祭」とも言うべき非日常。それも荒魂(あらみたま)の発現と昇華というある種宗教的な時空間です。
 違う言い方をすると…これは決して差別的な視点で言っているのではありません…「異形」の聖性ですね。
Th_20140125_193739 人並み外れた巨体、異様な筋肉の塊、一般社会ではありえない狼藉者、闘う女子、小人、ボケ老人、そして観客の中に散見される社会性の欠如や障害。
 そうした「モノ」どもが、輝き、歓喜し、恐怖し、そして共感、同情しあう。カミさんも「これは理想郷だ…」と思わずつぶやいていましたが、私も全く同じ幸福感を味わいました。
 こうしたある種の祭祀、あるいは見世物が、マレビトとして地方を巡行することこそ、現代のマスメディア時代、トポスの消失した現代において、必要なことなのだと痛感しました。
 その「場」に居合わせた者だけが味わえる独特の一体感はなんなのでしょう。おそらくは、そうした「モノ(のけ)」性、非日常、ハレによって、コト(言語・社会)化されている日常、ケが照射され、その「モノ」の「場」が終了する中で、皆が再び日常に帰って行って、そしてそこで再びたくましく生きることができるというシステム(智恵)があるのでしょう。
 リングというマージナルゾーンでは、男女ともにある種の暴力(荒魂)が許され、また、小人(パンニャン選手)やボケ老人(がばいじいちゃん選手)が夢のような動きで健常者の象徴たる大男たちを翻弄する。
 こんな「物語」世界が、いったい今、他のジャンルにあるでしょうか。
 まさに「ファイティング・エンターテインメント」であり、一流のイリュージョンであったと感じました。
 そういう意味では、いつも書いているとおり、ああ、これは本来大相撲が果たすべき役割だなと思いましたね。特に、サプライズで登場した高山善廣選手とロブ・テリー選手の「ぶつかり稽古」はシンプルな神事でしたね。
 後の席に座っていたおじいさんが、「ああ、もうやめてやれ」とか「かわいそうだ」とか「もう起きちょ(フォールを返すな)」とか真剣に感情移入して観戦しているのが、なんとも感動的でした。
 本当に老若男女、ベテラン、一見さん、みんなが満足できた興行であったと思います。武藤さん、GJです。
 ちなみに武藤敬司選手は、私の学校の母体となっているお寺の檀家さんです(笑)。いつかプロレス文化について語り合いたいと思っています。今年実現するかな?

WRESTLE-1公式

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2014.01.24

明見(富士吉田)と綾部(京都)をつなぐモノ

Img_7736 日は夢の中でいろいろ思いついたことがあったので、備忘としてここに書き記しておきます。
 ここ富士山と京都の不思議なリンクの話です。遠く離れた二つの「聖地」にいったいどんな霊的な(目に見えない)モノが存在するのでしょうか。
 一つ一つ検証していくと大変長くなってしまいますので、それぞれごく簡単に書きます。いつかちゃんと何かに書きます…と言いながらやらずに終わる可能性大(笑)。だからこそ、こうして記録しておいて、未来の誰か検証してもらいましょう。
 まず、どういう次元での接点について書こうとしているかというと、私の趣味の領域での話です。すなわち、宮下文書や出口王仁三郎関係です。したがって、なんの興味もない方や、そういうオカルトチックな話の嫌いな方には、なんのメリットもありませんのであしからず。
 ええと、まず何から行こうかな。そうだ、まず、私のインタビュー記事からお読みいただき、そこに書かれていることから発展させていきましょうか。

 出口王仁三郎ミュージアム 山口隆之インタビュー

 ここに述べられている富士山(宮下文書)と京都(大本)との不思議な接点を抜き出してみましょう。

1 霊界物語に引用される宮下文書の造化三神以前の「天の世七柱」
2 宮下文書と霊界物語だけに出てくる「ノダチヒコ」(=クニトコタチ)
3 宮下文書と霊界物語に登場する「桑田の宮」
4 宮下文書に登場する「休通島」と大本の聖地「沓島」
5 大本の最高聖地綾部の本宮山月山不二頂上に鎮座する明見の霊石

 これらについては、当時明見在住の舟久保庄という大本信者との関係を調べればある程度説明できるかもしれません。
 もちろん、王仁三郎が、当時発刊されていた「富士文庫(宮下文書概説書)」を読んでいたのは間違いないので、それに影響を受けたとも言えますが、ではなぜ、富士北麓の文書に京都の話がいろいろ出てくるのかは不思議としか言いようがありません。
 もう一つ違った観点から見てみましょう。インタビューでも紹介されている徐福をからめるとさらに不思議なことがあります。
 これは最近八雲琴のことを調べていて知ったのですが、前出の「沓島(くつじま・めしま)」にも関係することです。
350pxkutsujima 沓島は若狭湾に浮かぶ小さな無人島でして、だいいちそれが富士北麓の田舎の文書に出てくること自体不思議なわけですが、その沓島の西対岸にある新井崎神社には徐福渡来の伝説が残っているんですよね。
 徐福渡来伝説は全国各地に残っていますが、ここは特に注目に値します。というのは、富士北麓の明見を中心とする地域は徐福渡来伝説とともに絹織物でも有名です。一方、新井崎神社のある京都北部丹後地方は日本最大の絹の消費地であり、丹後ちりめんに代表されるように、やはり絹織物の産地であります。
 大本開祖の出口なおは、丹後で糸繰りを生業にしていましたが、綾部に近代工業織の象徴たる郡是製絲株式会社ができ、仕事を奪われます。そして、それが神がかりの原因になったとも言えます。
 徐福、絹織物、大本、丹波、丹後、明見という実に不思議な霊的リンクが感じられますね。
 ちなみに出口なおが初めて沓島に上陸したのが明治43年。48年には平和祈念の沓島ごもりをしています。
 そして、宮下文書(富士古文献・富士古文書)が世に出たのは大正10年。その年は、第一次大本事件が起こり、そして、王仁三郎の霊界物語の口述が始まります。
 さらにこんな事実もあります。
 徐福の末裔は秦氏(羽田氏)を名乗ったとされていますが、富士北麓明見にも羽田氏はたくさんいて、今でも機を織っているお宅も多い。
 一方、聖徳太子の側近であった秦河勝は、富士山麓で「虫」を信奉する邪教集団をやっつけたという伝説が残っています(日本書紀)。この「虫」がいったい何かよく分からないのですが、私は「蚕」ではなかったかと考えています。
 すなわち、本来織物を産み出す神であるべき「蚕」を、邪教連中は単なる現世利益の神としてしまったことに、正統の絹織物文化継承者である秦河勝が怒ったと解釈しているのです。
 さらに秦河勝関係で面白いことがあるので書いておきます。
 秦河勝は能の始祖であるとも言われています。観阿弥・世阿弥もそのように記しています。
 大本の聖地綾部には梅若猿楽があり、大本のもう一つの聖地亀岡、それも王仁三郎の住んでいた矢田には矢田猿楽がありました。
 不思議なことに、梅若家は今でも、毎年富士山北口冨士浅間神社において薪能をやっていますね。
 ここにも不思議なリンクがあるのです。
 で、実はこうした私の中でのいろいろな妄想が一つの形になったのが、先月の日ASEAN特別首脳会議夫人プログラムだったのです。
 あのプログラムは私のアイデアを全面的に実現してくださったものでした。非常に光栄なことです。いや、私のアイデアというよりも、本当にこうした霊的な何かが勝手に私の心と体を通じて降臨して、実現に動いたものです。
 あの時のテーマは「能」と「絹織物」でした。そして、その中でも全く想定外の奇跡がいくつか起こりました。まずは、いずれ詳しく報告しますけれども、まさに消えかかっていた徐福以来2000年以上続いてきたある織物の技術が奇跡の復活の狼煙を上げることができたことです。私はそのような技術があることすら知りませんでしたから、あまりに奇跡的なタイミングに織物関係者も驚きました。
 ちなみに、大本においては出口なおは「経糸(たていと)」です。王仁三郎が「緯糸(よこいと)」。このたび絶滅、復活しようとしている吉田の織物の技術とは、「濡巻き」という経糸を繰るものでした。
 さらにさらに、お能をどなたにお願いしようかと思っていたところ(私としては野村四郎さんにお願いしようと思っていた)、安倍総理のお母様が梅若の後援会長さんという御縁があり、梅若長左衛門さんにお願いすることとなりました。
 先ほど書いたように、梅若は綾部発祥です。
 もう、これは偶然ではありませんよね。全く恐ろしいほどの霊的作用だと思います。
 というわけで、今日は夢で整理した(笑)ことをここに記しておきました。それぞれについては、私自身もできるだけ検証していきたいと思っています。
 ぜひとも皆さまのご協力を賜りたいところです。


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2014.01.23

2014 センター試験国語(その3…古文問2・3・4)

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 験に関係ない人にはどうでもいい記事が続いてしまい申し訳ありません。昨日の続きです。センター試験の古文について。
 とりあえず問1で15点ゲットしました。知識だけで解答し、本文の読解は必要ありませんでした。ちなみに私の教え方ですと、このような解答法のための文法、語彙の知識はじっくりやっても2ヶ月ほどで完璧にすることができます。知識だけは。もちろん運用には訓練が必要です。
 さて、今日は問2以降を見ていきます。
 問2は毎年純粋な文法問題が出ます。これこそ本文の読解は必要ありません。基本的な文法知識だけで充分です。
 a「なめり」の「な」は「限り」という名詞を受けているので明らかに断定ですから、1、3、5。
 bの「驚かれ給うて」の「れ」は、心情語の「驚く」についているので典型的な自発。おせっかいかもしれませんが、この「れ」は受身と自発で迷わせるより、尊敬を混ぜた方がより難しくなったのでは(ま、「れ給ふ」の「れ」が尊敬という可能性はゼロなのですが…笑)。
 c「のたまひはてば」の「て」は、これは変なところに傍線を引きましたね。深く考えなければ「のたまふ+はつ」で、すぐに動詞の活用語尾だと分かりますが、あまりに意外なところに傍線があるので、逆に迷ってしまうかもしれません。
 d「知らせ奉り給ふ」の「せ」も簡単ですね。尊敬だったら「知り奉らせ給ふ」になります。
 よって5が正解です。問2も5点ですので、これで20点になりました。最悪これでもよしとしますが、時間をかけなくてよいなら、もう少し取っておきたいですよね。
 ということで、問3に行きましょう。問2まではまさに知識問題で本文の文脈など関係なく解くことができました。問3以降はそうはいかないと皆さん思っていますが、どうでしょう。

 問3 傍線部X「『心苦し』と思す」とあるが、誰が、どのように思っているのか。その説明として最も適当なものを、次の1〜5のうちから一つ選べ。

 こういう問題です。普通に考えて、これはちゃんと本文を読み込まないとできない問題ですよね。しかし、これもまたほとんど本文を見ずに正解できます。
 まず、この問題で重要なのは「誰が」と「どのように」ですよね。傍線部には「誰が」は示されていませんが、「どのように」は書いてあります。すなわち「心苦し」。
 あくまでも、この「心苦し」からはずれた「飛訳」はダメです。「心苦し」も重要単語。「相手の様子を見ていて心が痛む」が基本的な意味です。一般的な訳として「気の毒だ」「切ない」と覚えています。
 まず、少なくとも現代語の「心苦しい」とは違うからこそ問題になっていると考えて良いので、つまり、選択肢2の「すまないことをした」は今風なので✕になりそうな予感。
 ほかも含めて「どのように」の部分を見てみましょう。

1愚かなことをした(と思っている)
2すまないことをした(と思っている)
3心を痛め、かわいそうだ(と思っている)
4ひどい(と思っている)
5気の毒だ(と思っている)

 この中で、一般的な暗記事項と合うのは、3と5ですね。さっき書いたように2は相手に対して気がとがめるという現代的(近代的)な意味ですし、1も相手に対して自分の行為を反省する感じですから、あやしいですね。
 4は相手の行為に対して腹が立っているのでこれもダメっぽい。私はもうこの時点で3と5に絞って検証することに決めました。
 で、ここで初めて本文をちょっと見ます。というのは、どんな相手の何を見て「切ない」のか知らないと「心苦し」の解釈は無理だからです(しかし、全文読む必要は全くありません)。
 で、本文の傍線部Xのところを見ますと、すぐ上に「〜を」とあります。つまり「〜を、『心苦し』と思す」となっている。これは非常にラッキーですよね。なぜなら、その何に対してというものが、「を」の上に書かれているに違いないからです。
 そこですぐ上を少しさかのぼりながら見てみると、「姫君たち、さてはいと幼きとをぞ率ておはしにける、見つけて喜び睦れ、あるは上を恋ひ奉りて愁へ泣き給ふを」とあります。これはなんとなく訳せそうです。
 実はこの訳がそのまま選択肢3にあるんですよね。「…我が子の、父の姿を見つけて喜んだり母を求めて泣いたりする様子に(心を痛め、かわいそうだと思っている)」。
 もうこれしかありません。主語はどうでもいいレベルです。いちおう見てみると、傍線部を含む4行にわたる長文の軸になるのは「大将殿も聞き給ひて…と驚かれ給うて、…と思す」という主語述語の関係でできていることが分かりますから矛盾はありません。ちなみに「て」でつながっていて新たな主語が提示されない時は、最初の主語が変わっていないことを示していると考えてよい(源氏なんかそういう読み方をしないとすぐに主語迷子になる)。
 そんなわけで正解は3です。問3にかけた時間は3分くらいです。問3は7点ですので、ここで27点ゲット。もうここで終わってもいいと生徒たちには教えてあります。古文は読まないで半分以上取れればラッキー。時間が余ったらちゃんと本文読んで後半の問題も解けと。
 しかし、ここでいちおう問4を見ましたら、「心情」を問う問題だったので、これも行けそうな気がしました。なぜなら、「心情」は単語にしっかり現れるからです。

 問4 傍線部Y「もの懲りしぬべうおぼえ給ふ」とあるが、このときの大将殿の心情の説明として最も適切なものを、次の1〜5のうちから一つ選べ。

 うん、これは行けそうだ。なぜなら、私の得意な「もの」と「ぬべう(ぬべく)」があるからです。そこかよ、という声が聞こえそうですが。ま、私の専門ですので(笑)。
 「もの」は不随意を表す語です。なんとなく思いどおりにいかないのだなと分かります。思いどおりにいかないことに「懲りる」のだろうと想像します。
 それから「ぬべう」ですが、これは一般的というか受験用には「ぬ」が強意とか確述とかいって、「ぬべし」で「きっと〜だろう」と教えることが多いのですが、私は生徒たちに違うと言っています。
 これはあくまでも「未来完了」です。完了の助動詞に未来(推量)の助動詞がついているのですから。これは、「未来のある時点であることが完了、成就しているだろうと予想できるくらい今その兆候がある、あるいはその気である」ということを表すと、私は考えています。
 その感じがしっかり訳しこまれていないと、出題者にクレームつけちゃいます。で、結論から言ってしまうと、選択肢2の文末だけが「嫌気がさしかけている」という訳で、あとは「思っている」「反省している」「苦悩している」「望んでいる」と、普通の現在進行形のような訳になっているんですね。
 「もの〜ぬべう」はあくまでも「なんとなく不本意にも〜しそうな予感がする」という感じなのです。それをまあうまく表現したのが「〜しかけている」という部分でしょう。だからもう正解は2と決めました(違ったら文句言ってやる!と思ってましたw)。
 ついでに本文もちょっと見ると、傍線部のすぐ上が「『いかなる人、かうやうなること、をかしうおぼゆらん』など」となっていますから、選択肢2の「〜を楽しいと思っている人間の気が知れないと」と整合性があります(ちっともストーリー分かってませんがね)。
 というわけで、問4も正解でこれも7点。合計で34点ということです。所要時間7分弱。
 欲を出して問5と6も見てみましたが、これは本文をかなり読み込む必要があるので、テキトーにマークしました。結果として両方✕(笑)。当たればラッキーのロト6状態でしたが、ハズレ。まあ当然と言えば当然なのでショックでもなんでもありません。
 ちなみに今回は余った時間を漢文に費やさねばならなかったので、結局本文は読まずじまい。実は今でもどんなシーンなのか分かっていません。しかし、それでも、34点はある程度の自信をもってゲットすることができました。
 と、こんな感じなのですが…書いていて、やっぱり虚しさを感じますねえ。実はこれをそのまま生徒に要求してもなかなかできないんですよ。経験による勘、特にどこを見ればいいのかというセンスはなかなか共有できません。
 いずれにせよ、今年のセンター古文はまじめに時間をかけて取り組んだ方が点が取れなかったかもしれないという、決して良問とは言えない内容でした。
 そういう事実を、もっともっと多くの高校の先生、あるいは予備校の先生たちが糾弾しなければ。
 先生は妙なプライドがあって、まともな正面突破で解けたかのように解説しがちです。本当に20分で本文を読みきって、意味がとれて、解答しているのでしょうか。はなはだ疑わしい。
 私は無理なものは無理と言います。こういう記事を書くと必ず、バカ呼ばわりしてくる頭のいい方々がいるものですが、それはあなたが立派すぎるのですよ。生徒や先生一般はやはり被害者だと思います。
 さっそく、センターに意見をしたいと思います。なんとか来年以降改善されますように。試験内容だけでなく古文学習の現場も、いろいろとね。

 

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2014.01.22

2014 センター試験国語(その2…古文問1)

↓click!(私の問題冊子です)
Scan45_0000 て、昨日の続きです。センター古文のお話。
 今日、中間集計が出ましたが、国語は現在のところ20万人以上の答案を採点して満点なし。そんな試験が許されるわけありません。平均点も今のところ97点台。いけませんね、やっぱり。
 さてさて、今日から今年の古文の問題(源氏物語)で、本文を読まずに(時間をかけずに)34点取る方法を紹介します。
 その前にまず確認しておきますが、私はこのようなテクニックを生徒に教えなければならないことを、基本的には残念に思っています。
 いちおう国語の先生であり、日本語・日本文化研究家を名乗る者として、やはり古文の世界には特別な思い入れがありますし、特にその中でも源氏物語は本当の意味での世界文化遺産だと思っています。
 それを味わわずして、すなわち本文を読まないで解答しようというわけですから、純粋な気持ちで言えば残念としか言いようがありません。せっかくの名文に触れる機会なのに…。
 しかし、一方で、やはり国語の先生として、生徒たちにテストでいい点を取ってもらいたい、また、このブログで何度か書いてきたように、現状の古文の授業(特に古典文法)に大いに問題がある、と考えている者としては、これから書くような「テクニック」を教えることの必要性も痛感しています。
 さらにまた面白いことに、その「テクニック」には非常に本質的な言語運用能力につながる論理性があるのも事実なのです。そこを割りきって伝えれば、これはこれでいいのかな、などと思うこともあったりして…まあ、とにかく複雑な心境なのであります(苦笑)。
 では、今年のセンター古文で、私が本文を読まないで34点を取った「テクニック」を公開いたします。
 まず問題を見てもらいましょう…とは言っても、「本文を読まない」のですから、本文は載せません(あとでちょっとだけ引用しますが)。
 問1…傍線部の解釈を問う問題です。解釈とは「現代語訳(口語訳)」と同義と思ってよい。毎年問1は解釈の問題でして、ほとんど90%は本文を読まない方が正解できます。本文を読んで文脈を取ろうとすると必ず混乱します(少なくとも私は)。
 では、傍線部(ア)から行きましょう。私の思考を実況中継風に再現します。

(ア)いかさまにしてこのなめげさを見じ
 1いかなる手段を用いても私はみじめな目に会うまい
 2どうすれば私への失礼な態度を見ずにすむだろう
 3どうしてこの冷淡な振る舞いを見ていられよう
 4だましてでも夫にひどい目を見せずにおくまい
 5何としても夫の無礼なしうちを目にするまい

 私はまず傍線部の文を単語に分けます。この際必要なのは正確な文法知識です(山口式「活用表は覚えない」文法学習はここでは省略。いつか参考書にでもしましょう)。

いかさまに し て こ の なめげさ を 見 じ

 私は「いかさまに」をいわゆる形容動詞の連用形としました。異論の可能性もありますが、今はそこは重要ではないので、とりあえずこれでよしとします(ちなみに私は形容動詞は認めたくない立場です)。
 次にこの問題のポイントとなるであろう単語(特に助動詞)を見極めます。出題者の意図を探るのです。それを正確に訳していきます。
 まず目につくのは文末の「じ」。これは「む」の打ち消しです。文末の「む」は英語のwillと全く同じ機能を果たしますので、「じ」はその打ち消し、つまり「〜ないだろう(打ち消しの未来)」「〜まい(打ち消しの意志)」しかありえません。
 それに該当するのは、「まい」と訳している1、4、5。この時点では他の可能性も捨て切れませんが、とりあえずバッサバッサとやっていきます(ここが大事)。
 次に目につくのは「なめげさ」です。これは重要単語「なめし・なめげなり」から連想すればいいですね。「なめし・なめげなり」は以前無礼猫(なめねこ)で書いたとおり(笑)、「無礼だ・失礼だ」という意味です。「なめげさ」はその名詞形ですね。
 まず、素直に「無礼・失礼」という訳をしているものを探しますと、2と5ですね。もう実はこの時点で5が容疑者になります。あとは確認。他の選択肢のキズ(5が容疑者なら、他のアリバイ?)を探していきます。
 その前に「いかさまに」について書いておきます。これは現代語の「いかさま」ではないと直観します。もしそうだとすると選択肢4が正解とすぐに分かってしまう。そんな問題が出るわけない。だいたい4は「見る」を「見せる」と訳している時点でダメ。自動詞と他動詞の混同は問題としてはありえません。
 まあ、そうすると「如何様に」、つまり重要単語「いかに」と同じで英語のHOWみたいなやつだから、こいつも「いかに」と同様に「どうやって、なぜ、なんと、なんとしても、どうして〜か」などなど、なんとでも訳しようのある単語ということになるので、あまりこれに関わるとドツボにはまる可能性がある…経験からそう思います。
 で、他の単語を確認。1は「なめげさ」を「みじめな目」と訳しているので、やっぱり✕。意訳を超えた飛躍しすぎな「飛訳」。
 2はやっぱり「見じ」を「見ずにすむだろう」と訳しているので「飛訳」。「見ないだろう」だったら◯ですが。あえて明らかな間違いにした感がある。
 3も百歩譲って「いかさまに」が反語を導くとしても、もし選択肢のような訳になるとしたら文末は「見ていられる」の古文になっているはずだが、全く違うので✕。「じ」の基本は打ち消しです。そして、可能の意味の単語もない。
 ということで、正解は5になります。いちおう5もキズがないか確認してみます。うん、問題ない。「見る」を「目にする」と訳し変えているのがひっかけですな。
 以上、文で書くと長いけれども、正しい文法知識と単語知識があれば、実質1分でここまでできます。
 はい、次行きます。

(イ)らうたげに恋ひ聞こゆめりしを
 1いじらしい様子でお慕い申し上げているようだったが
 2いじらしげに恋い焦がれているらしいと聞いていたが
 3かわいらしげに慕う人の様子を聞いていたようだが
 4かわいらしいことに恋しいと申し上げていたようだが
 5かわいそうなことに恋しくお思い申し上げているようだったが

らうたげに 恋ひ 聞こゆ めり し を

 これはポイントがたくさんあるので正解しやすいな。まず目につくのは動詞「恋ひ(恋ふの連用形)」についている「聞こゆ」。これは謙譲語の代表。助動詞的に使われる謙譲語は基本「〜申しあげる」としか訳されません。よって、1、4、5が重要参考人。
 次に「らうたげに」に行きましょうか。これは「らうたげなり」の連用形ですね。「らうたげなり」は「らうたし(労甚し)」と同じ。「らうたし」は「とっても労(いたわ)りたい」くらい、「かわいらしい」「守ってあげたい」という感じで生徒に覚えさせています。
 そうすると、「いじらしい」と「かわいらしげ・かわいらしい」はOKですが、5の「かわいそうな」はダメっぽい。
 4は文末の助動詞の処理がダメです。「めりし」は「めり(推定ヨウダ)」と「し(過去タ)」が連なっているわけですから、語順どおりに直訳すると「ようだった」になります。しかし、4は「たようだ」と順番が逆になっている。
 その点、1は「ようだった」となっているし、「らうたげに」は「いじらしい様子で」、「恋ひ聞こゆ」は「お慕い申し上げている」となっているので、全く問題なし。まんまのほとんど直訳です。これが不正解だったら文句言われちゃうレベル。というわけで、1が正解。
 次。

 (ウ)いざ、給へかし

 これは選択肢を載せません。なぜなら、「いざ、給へ」で「さあ、いらっしゃい。さあ、おいでなさい」という慣用句なので、もう選択する必要すらありません。知識問題。ちなみに「命令形+かし」は念押し。山梨弁の「命令形+し(たとえば『まあ、飲めし』)」と同じ(笑)。「〜しなさいよ(な)」と訳します。よって選択肢4の「さあ、こちらへおいでなさいな」でノープロブレム。
 という感じで、問1は2分弱で5点×3=15点ゲットしました。毎年問1はこんな感じで解けます。
 問1を正解するために必要な勉強は何なのか。それもはっきりしています。単純に単語の正確な訳と、助動詞の正確な訳です。ほとんどそれだけ。そして、それこそが古文読解の基礎でもあります。
 基本的に、出題者は文法的、あるいは語彙的に誰からも文句を言われないように正答を作ります。そこに注目するだけで、実は本文を読まずにほとんど選択肢だけ見て正答することができるのです。
 …長くなったので、問2、3、4は明日にしましょう。

 

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2014.01.21

2014 センター試験国語(その1)

20140122_120636 ろいろな方からコメントを求められましたので、ちょっと遅くなりましたが書かせていただきます。
 う〜ん、今年のセンターの国語はいかんなぁ。昨年は平均点が下がったとはいえ、問題自体はそれほど悪問ではなかった。
 もちろん、やたらと時間がかかるので、はたしてそれが「国語」の力を問うものなのか、それとも「情報処理」のスピードを問うものなのか、よく分かりませんでしたが。
 今年も問題を印刷してみたら、なんと54枚(問題のページ数は47ページ)。これを80分で読んで解けということですから、まあメチャクチャですね。
 半日くらいかければ、なんとか満点取れるでしょうけれど、評論・小説・古文・漢文それぞれ20分でできるわけがない。
 できる人(特に高校生)がいたら、それはそれでその人の人生がある意味心配です(笑)。
 今年は…我が校の生徒たちもかなり苦戦いたしました。責任を感じます。おそらく全国の平均点は98点くらいになるでしょうね。
 まず、その事実を厳粛に受け止めてもらいたい。大学入試センターには。
 国語の問題で正答率が50%切るというのは、やはりおかしいですよ。勉強したことが報われないのですから。
 センター国語全体に関しては毎年書いているとおりですので、ここでは繰り返しません。こちらから飛んでいろいろ読んでみてください。
 まあ、私が毎年ブーブーガミガミ「本当のこと」を言っているおかげで(?)改善された部分もありますよ。
 たとえば、2011年の記事で「短編全文出せ!」と書いたところ、翌年から今年まで3年連続「短編全文」が出題されました。当然です。おかげでだいぶ解きやすかったのではないでしょうか、今年も。
 今年の現代文、すなわち評論と小説は、特に大きなプロブレムのない問題でしたし、実際生徒たちもそこそこの点数を取れていました。まあ、良問の類に入るでしょう。私も文句は言いません。
 しかし、う〜ん、今年の古典、つまり古文と漢文はどうもいかんなあ。なんの力を問う問題なのか、高校生に高校3年間何を勉強しなさいと言っているのか、そういうメッセージがよく分からない問題でした。
 まず、古文。源氏物語が出ちゃいました。もうその時点で「う〜ん」です。
 私は自分で源氏物語の「無手勝流現代語訳」をやっていたりして、まあ、世間の方々、特に高校生に比べればずいぶん源氏に親しんでいる方だと思います。それでも…。
 正直に言います。私は本文を読まないで解きました。で、50点中34点。問4まではあとで述べる知識とテクニックで正解し、問5と問6はテキトーにマークしたら間違っていた(苦笑)。
 それでも解答にかかった時間は10分弱。余った時間を、時間をかければ必ず正答できる現代文に回せたので、作戦としては、あくまで作戦としてはですが、成功だと思います。
 はっきり言っちゃいますが、私は「江戸時代以外の作品(たとえば平安時代の物語)」が出たら、本文読まない作戦で行くことにしています。で、7分くらいで半分の点をキープして、あとで時間が余ったら本文を読んで加点を企てます。
 江戸時代の版本はまさにパブリッシュされたものであって、不特定多数の読者を想定した文章なので、まあ現代人の読者感覚で構わないのですが、たとえば平安は、宮中の女房というまあ千年前の超特殊な世界の住人を対象とした文ですからね。背景常識も理解し難いですし、文も主語の省略などが多くなる。LINEの平安宮中女房グループの中での会話ですからね(笑)。それを今の高校生に理解せよというのは無理というものです。
 長年源氏物語とつきあってきた、それもあえて既存の現代語訳を読まずにゼロから読んで訳してきた者として、本当にそのように感じます。
 では、本文を読まないでどうやって34点取るかというと、これは本当に単語と文法という知識だけです。参考になるかもしれないので書きたいのですが、ちょっと長くなりそうなので、詳細は明日の記事で。
 一方、今年の漢文ですが、これはかなり難しかった。文章自体はそれほど難しい内容ではなかったけれども、問いはいやらしい、素直でない、ちょっとイジメが入った(?)問題でしたね。
 いつもの調子で解くとひっかかる問題がいくつかありました。特に三問も出題された白文書き下し系の問題。
 いわゆる常識的な訓みをすると間違った選択肢に誘導されてしまう。それで時間を食ってしまいました。絞った選択肢の中に正解がないのです。で、最初からやり直し。
 これは誰も指摘していませんが、第1問評論で語られる日本人にとっての「漢文論」とは正反対の問題でしたね。つまり、今まで意味よりも素読(訓み癖やリズム、そして空気)が重視されてきたのに、今回の漢文の問題は、意味的に微に入り細に入らなければならないものでした。
 はたしてこれからの日本人は、どういう漢文的知識を要求されているのでしょう。
 このセンター試験の中でも矛盾してしまっているというのは、なんとも皮肉なことですし、受験生というか、今の日本の若者にとっては、非常に不幸なことになっていたと思います。残念です。

実際の問題はこちら

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2014.01.20

追悼 クラウディオ・アバド

 大なる指揮者クラウディオ・アバドさんが亡くなりました。
 いわゆるクラシック音楽をほとんど聴かない私にとっては、あまり身近な存在ではありませんでしたが、比較的最近、古楽というワタクシの畑で大変素晴らしいお仕事をされまして、ちょっと、いやかなり感動させていただき、やっぱりすごい人なんだと思っていたところでした。
 2011年のバッハのブランデンブルク協奏曲の全曲録音、そして、このライヴ。
 これは本当に素晴らしいですよね。アバドがバッハに至るとこういうことになるんですね。5番の、チェンバロに隠れた指揮ぶりを観て下さい!2楽章は振ってませんね。振らないことが指揮になる。そして…6番では舞台にすらいない…これはもう「禅」ですね(笑)。
 そしてバロックらしい自主性を導き出された愉悦のアンサンブル。これは古楽畑のワタクシもかなり刺激を受けました。
 まあ、演奏者もヴァイオリンのカルミニョーラや、チェンバロのダントーネなど、イタリアのプログレッシヴ・バロックの雄たちですからね。
 そこに…おお!ミカラ・ペトリまで登場している!それもキーの付いた謎のモダン・リコーダーだ!ww
 本当に世代、スタイルを超えたオールスターズ。もうこういう次元になると、「畑」は関係ありません。楽器のスタイルなんかもどうでもいいですね。自分が「畑」でやってきたこと、こだわりの無農薬有機農法みたいなのがどうでもよくなっちゃいますね(笑)。
 いや、私はけっこうなんちゃって楽器でなっちゃって奏法をやってきましたから、案外にこの世界に近かったかもしれない(?)。
 アバド自身、愛人だった(!)ムローヴァ女史の影響もあって、古楽器の勉強したんでしょうね。ちゃんと学ばないと、こういう音楽にはなりませんよ。
 学んで、そして、それを凌駕してしまった。もっと上の次元でこういう幸福な時間と空間を創りだしてしまうのだから、まあ超一流とはこういうものなのでしょうね。
 アバドさんがこうして、晩年にバッハに辿り着いた、いや還ってきたことは私にとっても嬉しいことでしたし、きっとアバドさんにとっても幸福なことだったでしょう。
 天国で、もっともっとバロック音楽も指揮してもらいたいですね。ご冥福をお祈りします。

Amazon Brandenburg Concertos

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2014.01.19

NHK BSプレミアム 『超常現象~科学が挑む不可思議の世界〜超能力』

第2集 秘められた未知のパワー ~超能力~
64ea0_211_a348fe8b_4dfa6a6a 回の「心霊現象」に続き昨日放送された「超能力」編の録画を観ました。
 ユリ・ゲラーさんも登場。そうそう、前も書きましたが、ユリ・ゲラーさんはかつて富士吉田市の住人だったんですよね。今でも時々遊びにいらしているようです。きっと近いうちに私もお会いすることになるでしょう。
 さて、この番組ですが、科学と超常現象双方に比較的親しんでいる私は、驚きというよりも納得というか、まあそうだろうなという感想を持ちました。
 今日は実にタイミングよく、最先端の量子論、高次元科学を研究されている物理学者の方が我が家を訪ねてきてくれまして、少しこの番組の話もしました。
 番組ではテレパシーなどの説明に「量子もつれ」が援用されていましたね。今日おいでの科学者の方は、11次元(それ以上?)まで数式で理解されているとのことですが、この「量子もつれ」についてはそのメカニズムはまだ分からないとのこと。ただ、現象としてはたしかに科学的に証明されているらしい。
 いや、もうそういう高次元のことを、数式で理解されているというだけでも、私たち凡人からしますと、すでに超常現象、超能力ですよね。
 もし、この世が、霊的な世界と物質界とで構成されているとすると、科学が物質を窮めていった結果として、その霊的な世界に至るというのは当然とも言えます。
 出口王仁三郎も言っているとおり、霊の世界が体の世界に移写されるということがあるのかも知れませんね。だから、物質(体)を窮めていくと霊に至ると。
 私の「モノ・コト論」で言うと、「コトを窮めてモノに至る」ということです。純粋言語(コトの葉)世界である科学を突き詰めていくと、非言語(モノの怪)世界に到達するのです。
 そういう意味で、今、人類は一つの転換点、あるいは分岐点に来ていると言えます。
 おそらくは量子という物質の(現状での)最小単位にで到達し、その性質やふるまいが、ある意味「超常的」になっていることを認めざるをえない時、その事実をどう受け止めて、どうやってその先に行くのか。そういう決断をしなければならない時代を迎えているわけです。
 今日その天才科学者の方とお話した中でも大変興味深かったのは、その分岐点の象徴的なものが原子力問題だということです。
 原子力は言うまでもなく、大変強力な兵器にもなるし、生存のための大変強力なエネルギー源にもなります。その取扱いによって、私たちの未来は地獄にも天国にもなりうるわけです。
 今、私たちはそういう現実を突きつけられています。はたして単に「脱原発」と言ってそこからとりあえず逃げてしまうのか、それとも高い精神性(霊性)をもって危機を乗り越えるのか。そういう選択を迫られているのです。
 かの天才哲学者、仲小路彰も全く同様のことを述べていますね。我々は高い霊性をもって、21世紀を太陽の世紀(すなわち核融合の平和利用)の世紀にしなければならないと。
 私たちは今までの常識を超えた、まさに「超常的」な「超能力」を身につけなければならないとも言えるでしょう。
 その時大切なのは、言うまでもなく科学であり、そしてその対極になるべき何かでありましょう。その何かとは、従来の宗教や哲学や倫理学、あるいは芸術に収まりきれるものではありません。
 私たちが近現代において各種科学を言語によって窮めてきたように、言語に還元できない世界をも窮めていかなければならないのです。
 もちろんそれは非常に難しいですよね。なにしろ言語にならないのですから。現代社会がほとんど言語(科学や法律や貨幣や教育などなど)によって構成、保守管理されている中で、それは下手をすると「カルト」「オカルト」として片づけられてしまう可能性があります。
 そんな時、やはり鍵を握るのは芸術、中でも「音楽」ではないかというのが、今日の私と友人科学者の共通した意見でした。
 音楽の全てはとても言語化(楽譜化、数値化)できません。考え方によってはただただ「波」の世界です。時空に縛られているようで、時空を簡単に超えてしまう存在です。
 そんなところにもしかするとヒントがあるのかもしれません。
 だいぶ話が番組の内容からかけ離れてしまいましたね。いや、しかし、実は我々が常識的に生活の中で愛好している音楽にこそ、「超常現象」や「超能力」が潜んでいるのかもしれません。
 で、唐突ですが、もうすぐ私は「八雲琴(二絃琴)」を手に入れて、高次元からの波動を受信することになるでしょう(と、またとんでもないことを言い始めた私…笑)。

ザ・プレミアム「超常現象」公式

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2014.01.18

『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』 津田信

20140119_184508 バング島で戦後30年近く任務を続けた「最後の日本兵」小野田寛郎さんが亡くなりました。
 小野田さんがルバングのジャングルから帰還したのは私が10歳の時。戦記などを好んで読んだり、戦車や戦闘機のプラモデルをたくさん作っていた私にとって、小野田さんは時空を超えたリアル兵隊さんであり、その精神やサバイバル力に、純粋に憧れた記憶があります。
 こうして私も、日本に帰還した小野田さんと同じくらいの歳になりまして、少年時代とはまた違った視点で先の大戦にいろいろなことを学ぶようになりました。
 そんな中、1年ほど前に、たまたまこの「幻想の英雄」を知り、読むことになりました。
 これは、当時、小野田さんのベストセラーとなった「わがルバング島の30年戦争」や週刊誌の連載記事「戦った、生きた」のゴーストライターをしていた津田信さんが、その裏話というか、真相をまとめたものです。
 津田さんとしては、あまりに真相と違うことを書いて(書かされて)しまったことに、関して罪の意識をぬぐい去りきれず、この暴露作品を書かざるを得なかった
 ここには小野田さんとその家族や戦友たちとの様々な精神的葛藤が描かれています。当時は、英雄視されていた小野田さんをバッシングする内容として受け取られていたと思いますが、今読んでみますと、そういう葛藤から生じた小野田さんの「嘘」もまた、時代と時代が不自然に結合した特殊な状況が作り出した「真実」であるとも言えるように感じられます。
 この「幻想の英雄」は、現在、津田さんのご子息であるジャーナリストの山田順さんがネット上に公開しています。誰でも自由に全編を読むことができるのです。
 山田さんの英断に敬意を表します。

幻想の英雄・全文公開

 改めてこの時代に読んでみますと、小野田さんの苦悩、そして津田さんの苦悩の双方が感じられますし、いろいろな意味で、まだ戦後は終わっていないのではないか、結局小野田さんも全てを語らずお亡くなりになってしまったなあとも感じますね。
 もしかして、小野田さんの大東亜戦争は永遠に終わらないのかもしれません。

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2014.01.17

UFOと宇宙人(その2)

 日の記事が評判良かった(?)ので、今日も同じネタで書きます。
 とは言えど、だいぶ趣は違いますね。こちらは江戸時代の日本のお話。
 江戸時代にUFOが飛来して宇宙人が降り立った…としか思えないこの絵。ご存知の方も多いのでは。
20140118_101238

 そう、これはかの有名な曲亭馬琴(滝沢馬琴)の描いた絵図です。当時の怪異サロン「兎園会」「耽奇会」での話をまとめた「兎園小説」に『虚舟の蛮女』として収録されています。
 オカルトブームはもちろん近代以降に始まったわけではなく、江戸時代、いやそれ以前にも花盛りでした。
 考えてみれば、今ちょっと流行っている「竹取物語」なんかも、かなりオカルトしてますよね。
 そうそう、去年だったか、アメリカの科学者(?)が、地球人は数万年前に地球に移住させられた「宇宙罪人」だなんていう珍説を唱えてましたが、かぐや姫も月で何やら悪さを働いて、地球に「島流し」になったんですよね。
 ついでに言いますが、「竹取物語」って、あくまで「竹取の翁の物語」であって、かぐや姫が主人公じゃありませんよ。翁の煩悩とお茶目さがテーマです(笑)。いや、マジで。
 ま、それはまたいつかゆっくり書くとして、とにかく、日本人に限らずわれわれ人類は常にオカルト好き、私の言い方をすれば「モノ」好きだったんですね。
 そう、「モノ」とは、脳で概念化・言語化(コト化)されない「未知」「不随意」「未確認」な「何か」を指します。
 「物好き」という言葉も、他人からすると理解できない領域だから「モノ」好きなわけです。
 と、いつもながら話がいろいろ飛んでしまってますが、ええと、「うつろ舟」の話でしたね。
 この江戸時代の「ムー」のようなお話については、こちらのサイトのシリーズがなかなか詳しく面白く考察してくれていて勉強になります。
 古くは折口信夫や柳田國男が民俗学的に研究したり、比較的最近では、光瀬龍や澁澤龍彦、諸星大二郎といった大御所が「うつろ舟(と女)」を題材に作品を書いたりしています。興味のある方はぜひどうぞ。
 私たちは成長とともに「モノ」を「コト」化して、自分の内的領域を増やしていきます。体験したり、勉強したり、読書したり。それが本能であり、生きるということそのものであったりしますね。
 人類の進化もそれと同じです。科学の発展はその象徴ですよね。
 江戸時代においては、まあ庶民レベルで言えば、外界は「異国」だったでしょう。江戸時代の人々の感覚と現代の私たちの感覚とを相似的に示せば次のようになる。

日本…世界(地球)
海…宇宙空間
異国…異星
異形の舟…UFO
異国人…宇宙人

 なんとなくお分かりになりますよね。
 そう考えると、いきなり宇宙規模で未確認飛行物体の登場する「竹取物語」は、かなりぶっ飛んでいたことが分かりますね。やっぱりあれは外国由来、それも海に面していない大陸部からの伝来なのでしょうか。
 逆に未来のことを考えると、次の段階はどうなっていくのか気になりますね。すなわち、宇宙について我々がどんどん知識を身につけてしまって、その「モノ」性が薄れていったとすると、ドキドキワクワクがなくなってしまうじゃないですか。そうした時、はたして私たちはどこにオカルトを求めるのか。異界を求めるのか。
 地球外生物ならぬ「宇宙外生物」とか?w
 私たちが大人になる、あるいは人類が進化するというのは、なんとなく味気なくなることだとも言えますね。
 いや、もうお分かりの方もいらっしゃるでしょうけれども、実はそうした「モノ」性は外界だけでなく、私たち自身の内側にも無限に広がっているのです。
 もちろん今まで人類の歴史の中でも、そちら方向に「コト」化を目指した賢人たちがたくさんいますし、お釈迦様のように、内にも外にも「コト」化は意味がないと悟った方もいらっしゃいますよね。
 私のなんとなくの勘としては、21世紀は「モノ」の時代だと思うのですね。無闇な「コト」化の時代は終焉を迎え、次なる生き方、進化の方向を目指す時が来ているのではないか。そんな気がしています。
 それはまた「物語」の復権の時代でもあると思います。
 UFOも宇宙人も、やはり私たちの中に存在する「物語」に違いありません。

Amazon うつろ舟―渋澤龍彦コレクション

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2014.01.16

UFOと宇宙人

 さんはUFOを見たことがありますか?
 未確認飛行物体という意味では、ほとんどの方がYESと言うのではないでしょうか。あれはなんだ!?という意味では。
 この動画は面白いですよね。あまりにリアルで笑ってしまいました。
 私は天文が好きで夜空を眺める機会が多いですし、また、UFOブームだった少年時代は東京の大田区に住んでいまして、学校や団地の屋上で「ベントラベントラ…」と言って(笑)UFOを呼ぶことも多くありました。また、今ではUFO目撃情報の多い富士山に住んでいますし、比較的UFOを身近に感じてきた人間です。
 たとえば、星空を一晩中眺めていれば、不思議な飛行物体に必ずと言っていいほど出会います。いちおう流星や人工衛星や飛行機などを無数に見てきた経験から、これはさすがにあり得ない動きや光り方をするなとかいうモノを見ちゃうんですよね。ありゃなんだ?と分析しているうちに消えてしまう。
 しかし、たとえば目の前にドーンと現れるというようなことは今までにはなく、まあ死ぬまでには一度でいいから宇宙人にも会ってみたいなんて思ったりしています。
 もういい歳なのでなるべく積極的にそういうチャンスをつかもうとしていますよ。たとえば、最近、UFOを呼ぶことに関しては当代一という方とご一緒する機会があったのですが、どうも私がいると彼らは来ないんだそうで、おかしいなあ、おかしいなあとおっしゃってました。その後私がいなくなったら大量に飛来したとか(笑)。どんだけ宇宙人に嫌われてるんだ?
 というか、その方に言わせると、私自身がどうも地球人じゃないらしい(笑)。そういう発想はなかった…いや、幼稚園の頃、たしかに不思議な文字を使って宇宙と交信していた記憶がある。もしかして…。
 ま、違う意味で生徒たちには宇宙人呼ばわりされてますが(笑)。
 UFO(特に空飛ぶ円盤)は、また違った意味では時代を映すモノでありコトであります。ご存知のように、UFOブームは米ソ冷戦時代に華やかでした。
 一つには敵国の秘密兵器という発想もあったでしょうし、地球滅亡の危機をある意味初めて経験した時代ですからね、宇宙人に助けてもらおうとか、あるいは逆に、地球人の力をはるかに凌駕する力を持った生命体の存在を信じることによって、現実的恐怖から逃避したりとか、まあいろいろな意味合いを読み取ることができますね。
 たとえばその時代に目撃されたUFOがそうであったように、未確認な「モノ」というのは、私たちの心とその集合体としての社会、時代を映すものであって、そういう意味では「リアル」な「コト」です。
 物体として科学的に存在しているかどうかは別として、私たちの脳がそのように認知した時点で、人間の言語上は「事実」になります。
 この前紹介したNHKの超常現象番組(今週の土曜日にもあります)に見られるように、もしかすると、またUFO、超能力、予言ブームが到来するのかもしれませんね。
 先ほど書いたように、私にとっては、そういう「モノ」に関する意識、記述それ自体も「事実」「真実」なので、はなから否定したりすることなく、逆に興味を持って接してきたつもりですし、また、そんな自分を客観的に見てきたつもりです。また、これからもそうしていきます。
 私の「モノ・コト論」では、脳で言語化できないものは「モノ」、言語化できるものは「コト」としています。「モノ」を「コト」化したいというのは人間の原初的な欲求です。言語化して安心を得たいのですね。モノノケは怖いですから。
 そういう意味で、この動画のようにあまりに明瞭に「コト」化すると、なんとなく安心するというか、つい笑ってしまうというか、「モノ」の魅力がなくなってしまう一面もありますね。夢がなくなる。
 ということは、やっぱり一生宇宙人には会わない方がいいのかな…いや、自分が宇宙人なんだって(笑)。向こうも会いたがらないのは、やっぱり会っちゃうと夢がなくなるからかな(笑)。

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2014.01.15

『学校では教えない「社会人のための現代史」』 池上彰 (文藝春秋)

池上彰教授の東工大講義
20140116_105439 校で教えない…って、考えてみると変ですよね。
 しかし、ご存知のように日本の教育界というのは実に特殊でして、特に公立では「不都合な真実」は教えないことになっています。
 私のよく言う近過去(終戦までの近代史)と、近々過去(戦後の現代史)は、私もほとんど教わった記憶がありません。
 「今」と近未来を作り上げていくために最も大切な知識が欠落しているのが、現代日本人の特徴でしょう。
 では、いったい誰にとって「不都合な真実」なのか…。
 これを、アメリカ(GHQ)による日本人骨抜き化計画(たとえばWGIP)であるとか、そういう陰謀論的な解釈をすることも可能ですが、実のところは日本人自身にもともとそういう傾向があったのではないかと思います。
 すなわち「過去は水に流す」という、ある意味非常に前向きな思考回路があるんじゃないでしょうかね(どこかの国とは対照的ですな)。
 実際、私の育った昭和の高度成長期は、後ろを振り返るヒマがないほどに前のめりにつんのめっていました。暗い過去を見ないとかいう発想もなく、ただただ実際にそこにあった明るい未来を目指していたように記憶しています。
 しかし、今こうして、なんとなく不透明な時代になってみると、未来を描くにしても、やはり過去という土台が必要になってきているようにも感じられます。
 そう、あの頃というのは、無意識的にも「(戦争に負けたがそれなりに)立派な日本」という土台があったのです。無視しても、あるいは意識しなくてもちゃんとあるべき「モノ」があった。
 そういう安心感こそが、先ほど書いた日本人の特徴的なメンタリティーの前提になっているような気がする。そして、今は、それが非常に希薄で頼りない「モノ」になりつつあると。
 必要な「モノ」はその力が弱くなると「コト」化されます。すなわち言語によって記述される。そして、記憶として処理されるようになっていく。歴史が生まれる瞬間です。
 少なくとも私はそう感じて、最近やたらと近過去や近々過去に関する本を読むようになりました。
 まあ、教育されるよりも、こうして必要に応じて自分で学ぶ方がいいのかもしれませんね。
 それにしても、この本に書かれている近々過去たる「現代史」について、あまりに知らない、いやほとんどリアルタイムで体験している(つまり「歴史」ではない)のにも関わらず、全く覚えていないことに驚きましたねえ。
 本当に必要なかったんだなあ、あの頃の私には。自分の生活に精一杯で、今のように「地球平和」なんていう壮大な夢も持つヒマがなかったとも言えるけれども、それにしても、教師になってからの事件もたくさん出てくるのに、いったい自分は何をやっていたのだろう。ニュースも見ていたと思うんですが。
 あえて講義のメニューを記しておきますね。

1 東西冷戦
2 ソ連崩壊
3 台湾と中国
4 北朝鮮
5 中東
6 キューバ危機
7 ベトナム戦争
8 カンボジア
9 天安門事件
10 中国
11 通貨
12 エネルギー
13 EU
14 9.11

 さあ、皆さんどうですか。はたしてこれらをどれくらい理解していますか。私はこの本を読み終えた今でも、かなり知識としては曖昧です。
 なんとなく流れは理解できましたが、細かいところになると、もう忘れてしまっています。
 池上さん以上に優しく分かりやすく説明してくれる人もいないでしょう。なのにこのザマ。つくづく自分の理解力、記憶力のなさには閉口してしまいます(苦笑)。
 しかし、面白いのは、そんな自分でも、今、こうした近過去、近々過去の情報に飢えているという事実です。それは私が大人になったからとか、そういう次元のことではなく、おそらくは世の中が変革期を迎えているからではないでしょうか。
 共感する方は、まずこの本から入ってみるのもいいのでは。
 「不都合な真実」と言えばかっこいいが、実際は(少なくとも私には)「不必要な真実」だったのかもしれません。それが「必要な真実」に変わる瞬間に立ち会っているのか。
 私は続けて池上さんの「東工大講義」シリーズを読み進めてみます。

Amazon 池上彰教授の東工大講義 学校では教えない「社会人のための現代史」

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2014.01.14

NHKクローズアップ現代 『あふれる“ポエム”?! ~不透明な社会を覆うやさしいコトバ~』

Photo34511 日のクローズアップ現代はかな〜り興味深かった(やばかった?)。
 私の大嫌いな(笑)「ポエム」特集。居酒屋甲子園の異様な光景。歯の浮くような美しく優しい偽善的な言葉の数々…。
 しかし、なぜか予想された不快感はあまりなく、逆にこれはありだなと思ってしまった。いったい、私にどんな変化があったのか…。
 けっこう衝撃的だったんじゃないでしょうか。ツイッターにもかなり「気持ち悪い」「危ない」的な、全然ポエムじゃない言葉が並んでいました。
 ご覧にならなかった方は、クローズアップ現代公式ホームページでテキスト化されるのを待ってください。
 これって、私のライフワークに深く関わっている問題ですね。すなわち「言霊」問題。
 いちおう国語の先生でもあるワタクシ、職場でもこの問題に常に直面しています。
 特に中学校で教えるようになってからというもの、こうした「ポエム」が蔓延する教室に半ば嫌悪感を抱きながら、しかし、それがたしかに中学生を動かす有効な手段であることも認めざるを得ず、結果として自分も「ポエム」を利用することが(たまにですが)ある。
 高校生(つまり反中二病の高二病患者)に対しては、ギャグとしてしか使わなかった「ポエム」言語を、こうして日常的に恥ずかしげもなく使うようになって、私自身も半ばポエマーになってしまったのか、いや、最近自らの中二病も重篤化する中で、自発的に「ポエム」の効用を認めるようになったのか。
 たしかに最近の自分は、一般の方がドン引きするような「地球平和」なんていう言葉を堂々と真面目に連呼したり、ある種宗教的ともとらえられかねない場でボエム的な言霊を浴びることも多い。
 そして、私は、その「言霊」が、そのポエム的な妄想を現実化することを体験的に学んでいるために、いつのまにかポエマーに成長(?)してしまったのかもしれません。
 そんな私の「気持ち悪さ」から、だんだん縁の遠のいている方もいらっしゃる。それも分かりますが、現実問題として、私の体現力、自分だけでなく人を動かし、世の中を具体的に変えていくことに関しては、ある程度ポエマーになってからの方がずっとポテンシャルが上がりました。
Photo34512 しかし一方で、そうした「体現力」や「社会変革力」のないポエムに対しては、以前よりもいっそう嫌悪感を抱くようになっているとも言えるかもしれない。たとえばポエムとしての(笑)「脱原発」とか。
 そう、「脱原発」なんかも、今日紹介されていたポエムと同様、なかなかそれ自体を否定しにくい雰囲気があるじゃないですか。現実の難しさを隠蔽しているという意味でも「雰囲気語」になりかねない。
 ところで今、私は非常に大きな歴史的出来事に関わりつつあるのですが、そこで最初に問題となっているのは、シンボルマークのことです。
 シンボルマークは、言語としてはポエムに近いところがあるかもしれない。しかし、いや、だからこそ、あのシンプルなシンボルマークには深い重い意味があり、未来を決定する「言霊力」が必要とされています。
 今回は番組の内容にこれと同じようなことを感じましたね。つまり、シンプルな言葉、象徴的な言葉、普遍性を持つ言葉であるからこそ、その内容は本物でなければならない。「コト」を窮めて「モノ」に至るというような洗練がなければならない。
 ポエムは「標語」でもありますから。そこから、それぞれがどう体現していくか。もちろん主体的に。そこが重要であります。
 マークもポエムも標語も、ほかにもたとえば制服なども、それらは一つの「イコン」であり、それ自体が実体ではないけれども、しかし、あらゆる実体をも含み得る象徴性を持っていなければならない。
 そう考えると、たとえば今回の番組の「ポエム」に対する好悪は、双方とも理解できるような気がしてきます。
 体験者(当事者)にとっては、その言魂力は信ずるに値するでしょうし、傍観者にとっては「気持ちの悪い」言葉にすぎないのでしょう。
 結局はそうした二極対立の構図であるかぎりは、たとえば戦後日本の不毛な右と左の確執のように、互いにとっても、そのポエム(言葉)自身にとっても、あまり幸福な状態にはならない。
 そういう意味で、番組最後に小田嶋隆さんが安倍総理の「美しい日本」「日本を、取り戻す」に対して、5W1Hを要求したのは悪いことではないと思いました。はなから否定するのではなく、確認するわけですから。
 あくまでも、イコンは入り口であって、その先には私たち自身の存在自身が広がっています。要はそこまでちゃんと行けるかどうかでしょうね。発する側も受け取る側も。
 私もようやくバランスが取れてきたのかもしれませんね。先に進む力が身についてきたのでしょうか。

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2014.01.13

キース・ジャレット・トリオ 『枯葉』

 れは昨日の記事(超常現象)の続きですね。
 私はキース・ジャレットの音楽を聴いたり、彼のトリオの演奏の様子を観たりすると、間違いなく五感を超えた知覚があると直観します。
 もともと音楽というのは、「意識」の世界、高次元宇宙、霊界と非常に関係が深いものだと思います。
 単純に考えて、これだけ地域や時代や言語を超えて共有されるものは、そうですねえ、人間の根源的な感情のほかにはあまりないのではないでしょうか。
 私からしますと、やはり音楽は絵画や文学よりも一つか二つ上の次元で起こっている事象であると感じます。
 たとえば、このトリオの完璧なアンサンブルはどのような「もの」をベースに成り立っているのでしょうか。それを言語で記述するのは非常に難しい。ましてや科学のレベルで解明するのはほとんど無理でしょう。
 ご覧のように、彼らはほとんど目をつぶって演奏していますから、私たちシロウトがよくやるような視覚による共有はしていませんよね。
 では、音楽だから聴覚だろうというと、それもまたちょっと違う。私たちが考える聴覚とは違う次元の、なんというパルスのような「もの」によって、結ばれている、あるいは共鳴している、または増幅されているように予感します。
 それが、聴衆にも伝わってくる。
 私、昨年も彼らのコンサートに行きましたが、毎度思うのは、その時の私の脳波の状態というのは、ほとんど瞑想時のそれに近いということです。
 コンサート会場全体が大きな、そして中くらいな、さらに微小な波(パルス?)に支配されている、不思議な心地よさがあるんですよね。
 それはこうした動画でも伝わってきます。
 私は全くのシロウト演奏家でもあるわけですが、たまに彼らに似た境地で演奏できることがあります。
 それは、幸運にも超一流の演奏家と演奏させてもらう時です(最初に体験したのは、ヴィーラント・クイケンとアンサンブルした時でした)。
 聴覚ではなく、もちろん視覚でもなく、私たちの知っている感覚を超えたところでの共鳴があるんです。脳波がシンクロするという言い方が一番近いでしょうか。
 それが科学的にどういう仕組みになっているのか、全く分からないのですが、そういう事態が実在するということは、幸運なことに何度か体験して信じています。
 そうした共鳴がうまくいくと、先ほど書いたように、多くの人間や物体にそれが拡がり、さらに増幅されていくということが起きるようですね。
 音楽はそういう意味で本当に興味深いしやめられない。現代科学を日常的にいともたやすく超えてしまうわけだし、それをほとんど万人が体験的に共有できるわけですからね。
 まさに「No Music No Life」「No Life No Music」なのであります。
 そんなことを感じる私の最も好きなライヴ映像はこちらです。1986年の東京、人見記念講堂で歴史的な演奏。
 全体に素晴らしすぎるのですが、特に35分50秒からの「Blame It On My Youth」は完全に宗教的な領域に入っていると思います。
 人間ってすごいなあ…これぞ超能力でしょう。

Amazon スタンダーズ・ライヴII [DVD]

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2014.01.12

NHK BSプレミアム 『超常現象~科学が挑む不可思議の世界〜心霊現象』

20140113_113149 日放送されたものを録画で観ました。
 昼間は娘と45年前の「怪奇大作戦」を何本か鑑賞して、頭も体もすっかり「怪奇モード」になったところでこの番組を観ましたので、効果(?)は抜群だったと思います(笑)。
 と、まあ、たとえばその日の体験によって、同じ番組でも感じる「冷気(霊気)」は違うものでして、すでにそこに私たち人間ならでは「編集」がなされているわけですね。
 それをある程度現代科学で証明することもできるでしょう。もちろん未来科学においてはもっとそのメカニズムがはっきりしてくることと思います。
 この番組のプロデューサーは井上智広さん。優れた科学番組を作ってこられた井上さんだからこそ感じた、現代科学の問題点を浮き彫りにする内容になっていた思います。
 もちろん、予想通り、半分は科学的に説明でき、半分はできないという結論が終わっていましたが、そこに科学の問題点や限界、そして可能性を見出すという視点は良かったのではないかと思いました。
 NHKがそれをやったところに意味があるとも言えます。今までも、たとえば立花隆さんによる臨死体験に関する番組を放送したりしたことはありましたが、いわゆる心霊現象(幽霊やポルターガイスト、生まれ変わりなど)をここまで正面から取り上げたことはあまりなかったのではないでしょうか。
201401090128221l このブログをお読みの方、あるいは私を直接知っている方は、私がそういう「オカルト」的な話が好きで、どちらかというと非科学的なアヤシい人格の人間だとお思いでしょうね。
 実は…そのとおりです(笑)。
 教育者としてそれはどうかと心配なさる方もいらっしゃるでしょうね。
 しかし、私はある意味教育者だからこそ、科学万能主義者や唯物論者にはなりたくないと思っています。
 教育は非常に非科学的な領域です。ほとんど超常現象の毎日(笑)。想定外のことばかり。あるいは、意識の力が現実を変えていく現場であるとも言えます。
 私は宗教にも興味を持っている人間ですし、一方で科学の素晴らしさ、面白さもよく分かっているつもりです。
 そういう意味では、自分で言うのもなんですが、けっこうバランス取れている方だと思います。超能力者とも宗教者とも科学者とも、けっこうまともにお話できますからね。
 また、最近の傾向としては、何人かの最先端科学の研究者の方々から、量子力学と意識や霊界との関係についてお話をお聞きする機会が多い。
 私としては、日常生活の中でけっこう体験的にイメージしている内容なので、非常に納得がいくお話なのですが、たしかに科学者どうしではまだそういう話はしにくいかもしれませんね。
 ですから、天下の(?)NHKさんが、こういう形で積極的にその領域に踏み込んでくださるのはいいことだと思います。
 次回(18日)は「超能力」です。これまた楽しみですね。皆さんもぜひご覧ください。
 ちなみに同じBSプレミアムの幻解!超常ファイル
ダークサイド・ミステリー
も面白いですよ。
 ま、NHKの制作者の中心が、私のような昭和オカルト世代になってきたってことかな(笑)。

超常現象~科学が挑む不可思議の世界 公式

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2014.01.11

「和」

 日は我が中学の推薦入試。
 毎年のことですが、国語の問題の本文を公開します。
 毎度、国語の問題の本文は私が書きます。入試問題はその学校のメッセージですから。
 今回は「和」をテーマに書いてみました。写真入りというのもちょっと珍しいかもしれませんね(笑)。
 では、どうぞ。
 
    「和」

 昨年十一月に行われた富士学苑中学校の文化祭「葵江祭」のテーマは、「平和」でした。生徒たちは、演劇や合唱、ダンスや楽器の演奏などを通じて、「平和」の大切さ、「平和」の尊さを一生懸命表現しました。
20140112_131852_2 全校製作のモザイクアートでは、ジュースの紙パックを使って「和」という字と富士山を描きました。生徒一人ひとりが自分の役割をしっかり果たし、それらが一つになって美しく壮大な作品ができ上がった瞬間、だれもが「和」を感じたことでしょう。
 そうです。この「和」という字には、「いろいろなものがとけ合って一つになる」、あるいは「いろいろなものをとけ合わせて一つにする」という意味があるのです。
 たとえば、「調和」や「和音」という時の「和」は、そういう意味だとすぐにわかるでしょう。考えてみると、「足し算の結果」を表す「和」にも、違うものが合わさって一つになるというイメージがありますね。
 さて、みなさんは、「和える」はなんと読むか分かりますか? 「わえる」ではありませんよ。
 ヒントを出してみましょう。たとえばこれです。
20140112_131915 これは「ほうれん草のごま和え」です。
 もう分かりましたね。「和える」は「あえる」と読みます。
 この「和える」ということばも、たとえば「ごま和え」で言うなら、「ほうれん草」と「ごま」(と醤油と砂糖)を混ぜて一つの食べ物にするというように、いくつかのものをとけ合わせるという動作を表しています。
 せっかくですので、もう少し漢字の読みのクイズを出してみましょうか。
 「和尚」…これはなんと読むでしょう。えっ? またヒントの画像がほしいですって?
 では、この画像を見てください。
20140112_131931 そう、これは「一休さん」のワンシーンです。一休さんの向こうにいるのが「和尚さま」です。
 はい、そうです、「和尚」はふつう「おしょう」と読みますね。
 漢字のテストでは「おしょう」でいいのですが、実はこの「和尚」、仏教の宗派によって読み方が違うんですよ。
 辞書を引いてみると、「禅宗・浄土宗ではオショウ、天台宗ではカショウ、真宗ではワショウ、また、ワジョウ、真言宗・法相宗・律宗ではワジョウという」と書いてあります。なんだか面倒くさいですね(笑)。
 まあとにかく、ここでは「和」を「オ」と読んだり、「カ」と読んだり、「ワ」と読んだりしているわけです。
 実を言うと、この「和」は、日本で使われている漢字の中でも最もいろいな読みがある字の一つなのです。 
 今から実際にいろいろな読みをあげてみます。端から端までちゃんと読む必要はありません。ただ、たくさんあるなあ、と驚《おどろ》いてください。( )の中は送りがなです。

 オ、カ、ワ、あ(う・える)、ととの(う)、な(ぐ)、なご(む・やか)、にき、にぎ、のど(か)、やわ(らぐ)

 さらに人の名前に使う時には、特別な読み方をします。これもとてもたくさんあります。

 あい・あつし・かず・かた・かつ・かのう・たか・ちか・とし・とも・のどか・ひとし・まさ・ます・むつぶ・やす・やすし・やわら・よし・より・わたる

 「和」という字を使って特別な読みをする熟語もいくつかあります。たとえば、「大和」は「だいわ」とも読みますが、「やまと」とも読みますね。和泉は「いずみ」、「和布」は「わかめ」、「和蘭」はなんと「オランダ」と読みます。
 ふぅ、とてもとても全部覚えきれませんね。いや、いいんです。たくさんの読み方がある漢字なんだなということを実感してくれれば。
 こうして見てきますと、「和」という漢字自体が、いろいろな読みや意味を持っていて、まさに「いろいろなものがとけ合って一つになる」「いろいろなものをとけ合わせて一つにする」ということそのものを表現した字であることに気づかされます。
 どうでしょう、「和」という字の持つ重みや深みや広さが分かってきましたか。
 さらに、ここでもう一つ思い出してほしいことは、「和」が「日本」を表す字であるということです。
 昨年末、「和食」がユネスコの無形文化遺産にトウロクされましたね。「和食」とは言うまでもなく「日本食」ということです。こういう時の「和」は「日本」という国を表しているのです。
 「和」という文字が日本を表すようになった理由や過程については、長くなるのでここでは説明しませんが、とにかく「和」が「日本」を表す漢字であるということには、とても深い意味があると私は考えています。
 今から千四百年以上も前にセイテイされた、聖徳太子の十七条憲法に「和を以て貴しと為す」とあるように、私たちの国ではずっとずっと昔から「和」を大切にしてきました。
 日本人は、どの時代においても、「いろいろなものをとけ合わせて一つにする」ことを自然にやってきました。他人を拒否したり、自分と違う考えのだれかと争ったり、自分たちと違う文化を嫌ったりすることなく、それらを自分とうまくとけ合わせてきたのです。
 こうして「和」について知ると、なにげなく使っている「平和」ということばのイメージも少し変わってくるのではないでしょうか。
 たとえば、私たちは「平和」を「戦争」の反対語(対義語)と考えがちです。そうすると、「戦争」がなくなることが「平和」だという安易な考え方におちいってしまいます。実際には、戦争をなくすだけでは平和を実現することはできません。
 本当の「平和」は、自分と他者がとけ合って、よりレベルの高い何かに生まれかわることなのですから。

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2014.01.10

美空ひばりの『ワインレッドの心』

 ょっと忙しいので、YouTubeネタです。
 これは好きとか嫌いとか抜きにして、歌い手のテクニックというか、スピリットのすごさに驚嘆してほしいと思います。
 もちろん玉置浩二さんの「ワインレッドの心」がベストなのは分かりますよ。
 でも、この曲ってカラオケで歌うと分かると思いますが、自分のものにして歌うのは難しいんですよ(私は歌いませんが)。
 井上陽水さんや、研ナオコさんや、布施明さん、坂本冬美さんのカバーもなかなかいいですよね。しかし、けっこう皆さん苦労している感じがする。
 繰り返しますが、シンプルな名曲だからこそ、自分のものにして歌うのは難しい。玉置さんのものまねをする方がずっと楽でしょう。
 そういう意味でこの美空ひばりのすごさは、やっぱり彼女の独特のリズム感だと思います。どのジャンルを歌っても、とにかく私たちとは違って、ものすごく大きな拍で音楽を感じている。その中にまた、中くらい、そして細かい拍も存在しているんですよね。
 それから、これは一般のプロ(?)との決定的な違いですけれども、音楽が未来から来ているのが分かるんですよね。彼女はそういう意味では受信機であり発信機であるような気がする。
 こう歌ってやろうとか考えるのではなくて、向こうから来るのをちゃんと受け止めているんですよね。ある意味、無我の境地。ワタクシがない。依代になっている。
 まあ、だからこそ「神」なのでしょうね。
 そして、人間の私たちとしては「好き嫌い」が生まれる。それはしかたありませんね。しかし、こちらもワタクシを捨て去ると、もう文句なくひれ伏すしかなくなります。
 このリズム感、ファルセット、日本語の発音…もうこういう人は当分出ないでしょうね。

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2014.01.09

『嘘だらけの日韓近現代史』 倉山満 (扶桑社新書)

753935l 休みに倉山さんの「嘘だらけの」シリーズを3冊読みました。順番としては、まず「日米」そして「日中」、最後にこの「日韓」でした。
 どれも面白かったし、とにかく勉強になったのですが、ワタクシとしてはやはりこの「日韓」が一番刺激的だったかな(笑)。
 まあとにかく最近の韓国における反日的な活動は目に余るものがありますね。その根底にあるものがなんなのか、この本を読めばだいたい分かるというものです。
 いや、決して私も倉山さんも一方的に韓国を嫌ったり、ましては卑下したりしているわけではありませんよ。
 どちらかというと同情の目で見ているというか…それもまた、先方にとっては気に入らないのでしょうが。
 私は、古代朝鮮と日本との関係を独自にずいぶん調べてきましたし、実際、この富士北麓地方に残る文献や文化には、色濃く半島の影響が見て取れます。そういう意味でも私は(歴史を長い目で見た場合には)、どちらかというと朝鮮半島に興味を持っているどころか、感謝さえしている人間です。
 私の奉職する高校の修学旅行の行き先は、もうずいぶん長いこと韓国です。姉妹校があるんですよね。
 私も仕事で何回も韓国に行っています。ホームステイをしたり、させたり、かなり濃厚なお付き合いをさせていただいています。
 その四半世紀近いお付き合いの中で、ずいぶんと日韓関係は変わってきたと実感しています。最初はそれこそ石が飛んできたり、日本語で罵倒されたりということも時々あったのですが、日韓共催ワールドカップの時などは、本当に友好ムードで実に楽しい旅行をさせていただきました。
 その後、経済的に韓国が勢いづき、日本をも凌駕せんとする中でも、また両国の関係はいい方向に変わっていったと思います。
 それがなぜ、今…。
 まあ、私の長年の経験からくる実感としましてはですね、非常に単純なのですが、両国はいろいろな意味で近すぎるのだと感じます。近親憎悪ってやつですかね。
 強烈な異論があるでしょうけれど、まあ中国が親だとすれば、日韓は兄弟。それも男の兄弟かなあ。韓国が兄で日本が弟としておきましょうか。
 だいたい男の兄弟というのは、ライバル関係になったりする。本当に似ているのに、あえてキャラがかぶらないようにしたり、役割分担したりして、一見性格が正反対なように見えたりするじゃないですか。
 兄はお父さんにやたら厳しくされ、しょっちゅうぶん殴られたりしていた。弟はうまいこと距離をとって要領よくやっていた。そうすると、まあ、いろいろなコンプレックスやジェラシーがお互いに湧いてきたたりするじゃないですか。
 そう、実はこの正月、ある親戚からこれと似た話を聞いたんです。長男は父にずいぶん抑圧された。末弟はうまいこと「平泳ぎで」世渡りした。ただ、そんな長男に対して母は裏で優しくしていて、それを見た末弟はちょっと嫉妬していたと。
 まあ、こんな感じでしょうかね。日本が韓国に嫉妬したかどうかは微妙ですが、いや、古代においては多少なりともあったかもしれませんね。
 で、この本で取り上げられている近現代史となると、もう弟が兄の世話をするまでになっていて、兄もなんだかんだ弟を頼りにしているところがある。ある意味立場の逆転が起きているんですね。
 そして、ここが肝心なのですけれども、倉山さんは韓国に対してもものすごく厳しいことを言うとともに、日本に対しても「甘すぎた」「人が良すぎた」とけっこう厳しい非難の言葉を浴びせているんですよね。
 つまり、弟が威張りすぎたというよりも、兄に優しくしすぎたんですよ。そうすると、どうなるか分かりますよね。
 同情するなら金をくれ!ではありませんが、兄は屈折した気分になりますよ。立場が逆転しただけでなく、必要以上に情けをかけられたら、さすがに兄としてのプライドに傷(火)がつきます。
 特に、ある程度経済的にも独立できるようになって、弟をおびやかすくらいの力を持ったら。「あの時はありがとう」ではなく、「お前に世話になった覚えはない」とか「お前のせいで苦労した」とか「お前は失礼なヤツだ」とか、そんなふうになるのは明らかですよね。
 倉山さんはもっと賢くシビアな目で日韓関係を見ていますが、とりあえず私はこんな感じに身近なところに引き寄せて考えないとどうも理解できないおバカなのです。
 しかし、私の直観的な解釈もそれほど間違っていないのではと、この本を読んで強く思いました。
 国家どうしの関係も結局は「人間関係」なんだなと。当たり前と言えば当たり前のことです。しかし、私の発想としてはですね、やはり個人を超えるためには、個人の集合体たる共同体が、いかにその個人性を超越するか、超越させるか、超越する思想…いや、「共同体感情」を持つか、が重要だと思うんですね。
 少なくとも、国家を代表する人たちは「個人感情」を凌駕した「共同体感情」でことに臨んでいただきたい。そう思うのですよ。
 その点、倉山さんのいろいろな言動は、ちょっと損しているところもあるかなと、ふと思ってしまったのでありました。
 一度実際にお見かけしましたが、体も大きく、顔もいかついので(失礼)、せっかくのユーモアセンスが生きてないなと、おせっかいにも思いました(笑)。
 もともとインパクトがある方なので、「我(個人)」が前に出過ぎる感じがある。おそらくはご自身の思っている以上に。
 素晴らしいお仕事をされているからこそ、ちょっともったいないかなと。
 ま、私は大好きですよ。次は最新刊の常識から疑え! 山川日本史 近現代史編 上 「アカ」でさえない「バカ」なカリスマ教科書を読んでみようと思います。すごいタイトルだな(笑)。きっとまた、あまりに正論すぎてドン引きしちゃうんでしょうね、私たちのようなピンクに染まった人たちは(苦笑)。
 
Amazon 嘘だらけの日韓近現代史

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2014.01.08

「以和為貴」と「無忤為宗」

↓安倍さんも最近お気に入り
Image 忘メモ。
 今年は個人的に聖徳太子がテーマになりそうです。
 さっそく十七条憲法の読み直しを始めました。と言ってもまだ冒頭だけ。
 第一条の「以和為貴」はあまりに有名ですが、実はちゃんと意味を理解している人は少ない。このブログでも何度か書いてきたように、私は仲小路彰の説を支持し、ここでの「和」は「にぎ」、すなわち物部氏の崇拝したニギハヤヒに象徴される、縄文以来の「和魂(にぎみたま)」であると考えています。
 すなわち、他者を受け入れ、そして受け入れるだけではなく「産霊(むすび)」によって、より高い次元のものを生み出すという精神や行動のことです。
 それは、当時、「自他不二」を標榜して流入し流行した仏教とも矛盾しません。よって、第二条で具体的な「和」の実現手段として「三宝に帰依せよ」と言っているわけです。
 ところで、その第一条の冒頭、「以和為貴」のあとに何が続いているかご存知ですか。
 「以和為貴」があまりに有名なために、その影に隠れてしまっていますが、実は「無忤為宗」という四文字が続いているのです。
 パッと見て分かるとおり、これは漢文における「対句」です。つまり、「以和為貴」と「無忤為宗」がペアになっているのです。
 対句というのは、どちらか一方、あるいは両方を強調するために用いられる修辞法です。
 ここでは、「以」と「無」、「和」と「忤」がそれぞれ対義語として用いられ、「貴」と「宗」が同義語として用いられています。
 ちなみに「以」は「もって」と訓まれることから分かるように、「用いる」という動詞と同じだと考えてかまいません。「無」は日本語ですと「なし」と形容詞になりますが、漢文においては、基本目的語をとる「持たない」という意味の動詞と考えることができます。
 そうすると、「以和」は「和を用いる」、「無忤」は「忤を持たない」ということになりますね。
 「為」は「なす」と訓まれることが多いのですが、基本的にはここでは「=」を表していると考えてよいので、結果として「和を用いる=貴」、「忤を持たない=宗」ということになります。
 さらに、先ほど書いたように「貴=宗」(両者とも「とうとし」と訓じられる)なわけですから、全体をまとめると「以和=無忤=貴=宗」ということになるのです。
 ここまでの内容を分かりやすく言うなら、「和を用いる、すなわち忤を持たないことはとうといことだ」ということになります。
 では、「忤」とはなんなのかというと、これは「受け入れない」という意味の漢字です。器に固くフタをして他者を受け付けないイメージの字なのです。
 ですから、「和」はその反対語であって、すなわち「他者を受け入れる」という意味になるわけですね。
 これはまさに「ニギミタマ」そのものであります。逆に「忤」は荒魂と言えるかもしれませんね。
 聖徳太子は蘇我氏とともに物部氏を滅亡させてしまいました。その虚しさは太子を苦悩させます。そして、たどりついた境地がこの憲法第一条だと私は信じています。
 また、これも最近よく使う言葉ですが、物部氏(ニギハヤヒ・縄文)側からすれば、これは一種の「国譲り」であったと思います。戦いに負け、実体が消えることによって、その魂「和」は永遠に残ることになったのです。
 このように、「わをもってとうとしとなす」と丸暗記しているだけでは、なかなかその本質には近づけません。
 私だったら「にぎをもちいるはとうときなり」「さからうことなきはとうときなり」と訓じますね。
 とは言っても、あくまでこれは私の意見であって、なんら学術的な価値はありません。ただ、私にはそのように見えるようになってきたということです。
 で、私はそういう直観(ひらめき)をすぐに忘れてしまうので、こうして書き残しておくのです。いつか皆さんの役に立つ日がくるといいのですが…。

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2014.01.07

本気出すカレンダー

↓click!
43f21e0f はまだ本気出してないだけ…そう思っている男がこの世にいったい何人いるのか。
 いや、あの世にもたくさんいるのかもしれない。ご多分に漏れず、私もその一人である。
 というわけで、今日も本気を出さないワタクシであります(笑)。
 だいいち「本気」がどういうものか分からないし、「本気を出した自分」というのがイメージできない。
 たしかに若い時はなんとなく、「本気を出した自分」というのがどこかにいて、そいつに期待するようなところがあったかもしれません。
 でも、今思えば、それってまさに「そいつ」という他人であって、実体としての「本気を出した自分」は存在しなかったんですよね。
 さすがに今年50になる今のワタクシは、そのことにしっかり気づいて、ちょっと生き方を変えたのであります。
 そう、「本気を出さない自分でいかに最大限の成果をあげるか」という考え方です。
 フェラーリに乗って飛ばすぞ、ではなく、この軽貨物でいかに走るかという現実論です。つまり、まず自分のポテンシャルというのが、4499ccではなく638ccであることに気づくということですね。
 そして、案外そちらの方が「走り」も「走らせ」も楽しかったりする。燃費もいいしね(長生きできるということです)。
3b172b15 最近、中高生に教材として(!)「七人のコント侍」でやった品川庄司の「本気出す24」を見せています(笑)。
 生徒たちは若いからこそ身に覚えがあって、大笑いしつつ、また心を痛めつつ、「2校時から本気出す!」とか「弁当食ったら本気出す!」とか言って遊んでいます(笑)。
 そう、あんまりまじめに「まだ本気出してない自分」を責めたりすると疲れちゃいますから、まあ笑っちゃった方が幸せですよ。
 ま、こんな教師もいないと思いますがね。いえいえ、「本気」はいざという時のために取っておいたほうがいい、「本気」は自分のためではなく「他人」のために使うものだと私は真剣に考えていますので、一つの信念に基づく教育方針と言える…かも?
 生徒に対しては「やればできる」という言い方もあまりしないようにしています。「やればできる」というのは実に無責任な指導助言ですよ。
 なぜなら、「やるかやれないか」「本気出せるか出せないか」が、直面する分野やシチュエーションにおけるその人の「才能」だからです。才能には生まれつきの差があって当然ですからね。
 「やればできる」のは当たり前。やれるかやれないかでみんな悩んでるわけですよ。フェラーリに乗れば300キロで走ることができるのは当たり前。でも、今はチャリンコしかないんだから(笑)。
 その半面、私は「妄想」は推奨しています。「やらなければできない」というのは正しいからです。では、なぜ「本気」ではなくて「妄想」なのか。
 そこはけっこう哲学的で難しいところなので割愛(テキトーですみません)。ま、簡単に言えば、今はチャリンコだけど、いつかフェラーリを買うぞというのが妄想ということです。
 と、そんな自己正当化や言い訳をしながら、「適当(適度)」に毎日を生きているワタクシが、今年のカレンダーに選んだのが、ネットで見つけた「本気出すカレンダー」です。
 皆さんもぜひ印刷して使ってください(笑)。言葉(言い訳)も写真もなかなかいいセンスですね。8月だけ言葉がないのもなんかいい。8月って、それこそ自分のことではなく、違ったことを考えるべき月だと思いますから。
 こちらからどうぞ。
 その他、本気出す時計もいいですし、iPhone用の本気出す時計 ねこエディションも愛用してますよ(笑)。
 最後に、まだ観ていませんが、映画「俺はまだ本気出してないだけ」の予告編です。思いどおりにならない「もののあはれ」の究極は「全然思い通りに本気にならない自分」なのでした。やっぱり笑っちゃった方がいいですね(笑)。

Amazon 俺はまだ本気出してないだけ

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2014.01.06

1978年の「Billboard Top 100」

↓いきなり1位が削除されてますが(笑)

 ょっと前にも書きましたけれど、上の娘が今まさに中二病の真っ盛りでして、なかなか面白い現象が毎日のように観察されます。
 私も自分の人生がほとんど中二の時に決定せられたという感覚を持っているので、ますます面白く懐かしい。
 娘は生意気にもジャズバンド部でベースなんぞをやっており、この冬休みはスティーヴィー・ワンダーの「愛するデューク (Sir Duke)」をずっと練習していました。
 この曲は1977年に全米1位になっています。私が中一の時ですかね。それを今、中学生の娘が「カッコイイ〜!デュークってデューク・エリントンなんだ!」とか言いながら練習しているのは、なんとも不思議な感じであります。
 娘がなかなか上手なので、悔しくなって(笑)私もベースを奪って練習してみたりして。でも完全に負けている…むむむ。
 まあ、こうして名曲を共有できるのは素晴らしいことですし、なんと言っても娘の音楽原体験の一つがこういう曲というのは、ちょっと嬉しかったりします。
 で、1977〜1979あたりの洋楽というのは、かなり今の私にも影響(や傷痕?)を残しておりまして、最近はそのあたりを懐かしみつつ、多少成長したリスナーとして聴き直すことが多い。
 今日は、ちょっとルーティーンな仕事があったので、これを流しながら時間を過ごしました…まあ、そうしたらいろいろ発見があるある。おかげで仕事が進まん(笑)。まあ、いいでしょう。
 1978年の全米のヒットチャートはディスコ色が非常に強かった。特にビージーズとアンディ・ギブのギブ4兄弟にやられたという感じでしたね。
 私は当時、彼らの音楽があまり好きではありませんでした(今でもすごく好きではない)。どうも中途半端な感じですよね。ブラックとホワイトの対照が面白い時代でもあった当時、どちらにも属さないというか、今思うとちょっと不自然なフュージョンのしかたがなあ…という感じでした(今でもそう思います)。
 特に初期のビージーズを知っている者にとっては。
 しかし、今こうして35年経過したのちに聴いてみると、なるほどうまくできているなという気もします。まあ、全世界であれだけ売れたわけですからね。ビートルズを超えちゃったわけですから。
 こうして改めて並べて聴いてみますと、そういうディスコ・ブームにまぎれて、いろいろなジャンルの音楽も成熟していたことがわかります。
 もちろん、誰かさんたちのように安易にディスコに近づいて、名作(迷作)を世に出してしまったベテランたちもいますけれど、それはそれで面白い。
 そして、たとえば、マイク・チャップマンが手がけた、Exile(あの人たちではありません…こちらで紹介しました)やニック・ギルダーなんかも対照的に印象に残っていますね。
 マイク・チャップマンはもう次にはブロンディーやナックを手がけるわけですから、まあ、すごい人ですよ。彼のプロデュースの歴史をなぞっていくと、そのまま洋楽史(ポップス編)のテキストができちゃうくらい。
 というわけで、私と同世代の方々には懐かしいでしょうし、案外今どきの若者にもウケるかも。とりあえずウチの娘は興味深く聴いております(普段はボカロとアニソンばっかりですが)。

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2014.01.05

「ご苦労様」と「お疲れ様」

↓なぜこの写真なのかは最後に分かります(笑)
Img_4123 こ数年気になっていたことを書きます。
 最近の新入社員マナー研修などでは、「ご苦労様は上の者が下の者に対して使う言葉だから、上司にはお疲れ様(です・でした)を使いましょう」と書いてあって、たしかにウチの学校でも、若い教員はたとえば私に対して「お疲れ様です」を使っています。
 よく観察していると、生徒の中でも後輩が先輩に対して「お疲れ様で〜す」を連発していることに気づきます。
 皆さんはこのことに関して、どのような認識というかセンスをお持ちでしょうか。
 私はちょっと抵抗があるんですよね。
 そう、私は上司、たとえば校長先生に対しても「ご苦労様です」という言い方をしますし、それから、若い教員が電話などでも「◯◯(自分の名前)です。お疲れ様です」と、とにかく「お疲れ様です」を連発するのが気になってしかたないのです。
 まず、「ご苦労様」について考察してみます。
 最近のマニュアルの言い分では、「ご苦労(であった)」はもともと目上から目下への労いの言葉であるからして、上司に使っちゃダメよということらしい。
 はたして本当にそうなのでしょうか。
 たしかに、時代劇などを観ていますと「ご苦労(であった)」のような言い方を耳にします。しかし、それはあくまで「ご苦労」であって、「ご苦労様」ではありません。
 歴史的なことを調べてみると、「ご苦労」はまさに他者の苦労に敬意を表す「御」がついたものであって、目上や目下という身分関係にとらわれず、様々な使い方がされてきていることが分かります。
 目上の人に対して使われている極端な例としては、天皇陛下に対しても公的なところで「ご苦労をなさった」というような言い方をしています。
 「ご苦労様」と「様」がつく形も、実は同様であって、江戸時代から昭和までは、上下関係にとらわれず比較的自由に使われています。「苦労」に「御」をつけるだけでは足りず、「様」をつけているわけですから、ある意味最高の敬意が表されているとも言えますね。
 しかし一方で、目上の人に「ご苦労様」ということに抵抗を感じる人がいたのも事実で、平成8年のNHK放送文化研究所調査においては、「部下が部長に『ご苦労様でした』」おかしい39.2%、おかしくない57.1%、どちらとも言えない2.3%という結果が出ています。
 私は「おかしくない」派に入るわけですが、もしかすると平成26年の今、二十代の若者に調査をしたら、「おかしい」が90%とかになりそうな予感がしますね。
 そうそう、昭和の時代にも、中曽根さんが天皇陛下に対して「本当にご苦労様でした」と言って物議を醸したこともあったようです。
 そうしますと、これは言葉として「揺れている」状態だったものが、最近になってビジネスマナーの形をとって固定化する傾向があると判断してよさそうですね。
 このような「揺れ」には、方言(地域性)や家庭環境などが大きく影響しています。ですから、なかなか一概に結論を出すわけにはいきません。それが私たち中年以上の世代の正直な感覚なので、若いマニュアル世代とセンスの食い違いが生じているのも致し方ないかもしれません。
 こうした揺れが生じた原因として考えなければならないのは、「敬意逓減」という言語現象です。
 たとえば「オマエ」や「キサマ」というのは、もともと「御前」「貴様」という敬語だったのが、逆に相手を見下す、あるいは罵倒する言葉に変わってしまったものです。こういう現象を「敬意逓減」と言います。
 実は「ご苦労様」にもそのような現象が見られます。分かりますよね。言い方によっては「ごくろうさま(なこった)」に、相手を見下す、馬鹿にしたような意味が含まれてしまう。
 そうした用法の記憶が、この言葉を目上の人に対して使うことへの抵抗感を生むということがあるわけです。
 そのように、ある敬語に敬意逓減が生じて品格が下がると、なんとなく私たちはその言葉をむずがゆく感じるようになって、そこで違った言葉を発明するようになります。
 「お疲れ様」はおそらくそういった事情で生まれた言葉であると思います。実際、用例(書かれたもの)として確認できるのは、昭和の時代に入ってからのようです。話し言葉としてはもう少し前から使われていたかもしれませんが、比較的新しい語であることはたしかです。新しいゆえに「お疲れ様」にはまだ敬意逓減はほとんど起きていません。
 私はこの「お疲れ様」というニューワードについていけない古い人間の一人なのでしょうか。若い教員が猫も杓子も、まるで挨拶のように「お疲れ様」を連発するのを聞くと、「そんなに疲れてないよ!年寄り扱いするな!」とまで思ってしまいます(笑)。
 とまあ、このような複雑(考えようによっては単純ですが)な事情があって現代に至っているために、各種辞書でもその取扱いが揺れています。いろいろな国語辞典をひいてみてください。それぞれ違っていて面白いですよ。
 あっそうそう、最後に大事なことを。一番上の写真に関連して(笑)。
 私ですね、一昨年公開の映画「任侠ヘルパー」にチンピラ役として出演しました。その時のたった一つのセリフが、出所する組長さんをお迎えする折の「ご苦労様でした!」でした(笑)。
 目下の者が目上の者に対してしっかり「ご苦労様」を使っていますね。そう、そちらの世界や、軍隊、自衛隊や警察、ある種の体育会系の世界では、「ご苦労様」を使い「お疲れ様」はあまり使わないそうです。
 皆さんはいかがですか?
 いやあ、言葉というのは面白いですねえ。


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2014.01.04

千鳥ヶ淵の昭和天皇御製碑

20140105_103011 にのためいのちささげしひとびとのことをおもへばむねせまりくる
 ここ数日あちら系の話が続いて申し訳ありません。まあ、正月ですからお許しを。
 今日は千鳥ヶ淵戦没者墓苑にある昭和天皇の御製を紹介いたします。
 実は今日、私はカミさんと靖国神社鎮霊社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑にお参りするつもりでいました。
 私は半蔵門で2月の演奏会の練習があったので、その前後で両聖地にお参りし、カミさんは私が練習の間、遊就館をじっくり拝観するという算段でおりました(その後気分が乗れば東京ドームでレッスルキングダムを観戦してもよいかなと…笑)。
 正直それしか考えておりませんでした。出発の段階では。
 しかし、予想以上にUターンラッシュが激しく、渋滞を避けるために高速道路を下りましたところ、自然にハンドルがある方向に向かって行くではないですか。
 そう、あそこです。武蔵陵墓地。大正天皇皇后両陛下、昭和天皇皇后両陛下のお眠りになっている陵であります。
 昨年の憲法記念日には、憲法改正について昭和天皇のご意見をうかがうことができましたが(中二病でスミマセン)、そう、今日は靖国問題については昭和天皇は、あるいは大正天皇はどのようにお考えなのか、お聞きするチャンスだなと。
 実は今回は大正天皇、昭和天皇とも非常に因縁の深いあるモノを背負っての参拝でした(昨日の記事に登場するモノです…笑)。だいたいこのモノは私たちの体を使ってタイミングよくあちらの世界から言葉を伝えてくれるのです。
 結論から申しますと、私はその後靖国にも千鳥ヶ淵にも行きませんでした。いや、行けなくなりました。行けなくなるというのは、気持ち的にではなく、単純に物理的にというか自然に行く時間がなくなったのです。これがいつもの偶然(必然)的な体現のされ方ですから、私は深く納得することができました。
Img_7705 なるほど、1975年(昭和50年)11月21日を最後に天皇陛下が靖国神社にご親拝なさらない理由が確認できました。やはり、A級戦犯とされた方々の御霊の合祀が問題なのです。
 この問題については、かの富田メモの真偽も含めて、そんなに簡単に言及できない、陛下の御意を忖度することには最大限慎重にならなければと思っていましたし、実際、上記のようなことを書くことも憚られるのですが、しかし今回はこうして「伝える」ことこそが自分の使命だと信じて、あえて書かせていただきました。
 私としては、ある部分では少し意外な感じもしましたけれども、一方で今後進むべき方向がはっきりしましたので、ありがたい神示でありました。
 その後、家内は単独で靖国と千鳥ヶ淵をお参りしました。新年ということもあり、靖国は大変な賑いだったようです。
 それに比べ、千鳥ヶ淵は本当に誰もいなかったそうです。実に寂しかったと。靖国のすぐ近くにあるのに。
 私は靖国も千鳥ヶ淵も大切にしたいと思っています。しかし、靖国にも千鳥ヶ淵にもそれぞれ問題があります。また相互補完関係にもなっていません。では、どうすればいいのか。
 今年の私の個人的な目標は、その問題解決へ向けて次なる一歩を歩み出すことです。
 その時、常に忘れずにいたいのが、この昭和天皇の御製です。

 国のため命捧げし人々のことを思へば胸迫り来る

 そして、もう一首。昭和61年(1986年)8月15日の御製。この年、中曽根首相は終戦の日の靖国参拝を取りやめました。

 この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひは深し

千鳥ケ淵戦没者墓苑公式
 
 


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2014.01.03

月見里(やまなし)神社

Img_7682 年、初詣する神社は直観に任せて決めております。今年は清水の月見里笠森稲荷神社を参拝しました。
 自分でも意外や意外、初めての参詣であります。やはりこのタイミングだったのでしょうか。お参りしなきゃと思いつつもう三十年近く経ってましたからね。
 というわけで、突然ではありましたが、静岡市の実家から山梨に帰る途中、家族と、そして出口王仁三郎と(!)立ち寄ってみました。
 出口王仁三郎と(!)というのは、たまたま王仁三郎作の耀わん「十和田」を静岡に持って行っていたので、それを持って参拝したということです。
Img_7683 「耀わんはワシの分身じゃ」と王仁三郎は言っていましたから、明治31年以来116年ぶり?
 そう、明治31年、王仁三郎はかの高熊山修行ののち、自らにかかった神が何者なのかを審神(さにわ)してもらうために、清水の稲荷講社の長澤雄楯(かつたて)を訪ねています。その場所がこの神社です。
 長澤雄楯は霊学の父と言われる本田親徳(ちかあつ)の高弟で、本田の鎮魂帰神の法を継承していた人物です。
 細かいことは省きますが、その長澤の審神の結果、王仁三郎は出口直と出会って大本の関わり、教団を巨大化させていきます。そういう意味で、この神社は日本の近代史の一幕のスタート地点(の一つ)と言えるのです。そしてその近代史は現代に大きな影響を与えている…。
Img_7684 今は住宅地の中にあって、それこそそんな大きな意味を持つ神社だとは思えない佇まいで鎮座していました。
 実は王仁三郎没後、弟子の中野與之助がこの神社のすぐ脇に「三五教(あなないきょう)」という団体を設立しました。長澤がちょうど半世紀前に「50年後にここ清水市玉の井里に『三五』と書いて『あなない』と読む世界的な宗教が生まれる。そこから神の道を全世界に開く」という神示を受けていたからです。
 王仁三郎ファンならよくご存知と思いますが、「三五教」は霊界物語に登場する善玉集団ですね。
Img_7685 そのリアル三五教は、この地に総本部を置いていましたが、今は掛川に移ってしまい、本部の建物自体は近所の寺の駐車場になってしまっていました。残念。
 ちなみにNPOや学校経営で有名なオイスカは三五教が母体となっています。
 さてさて、細かい説明は良しとしまして、王仁三郎を背負っての初詣をしまして感じましたのは、やはり、今年が日本の大きな転機になるということでした。そのために、私たち日本人は、魂のプチ(プレ?)立替え立直しをしなければならない。
 私は非常に明るい未来のイメージを抱くことができました。とりあえず心配せず邁進せよというメッセージをいただきました。ありがたや。
Img_7688 ところで、皆さん、もしこの神社を参拝されたなら、拝殿の左側にある小祠(稲荷神社)にも立ち寄ってください。
 そして拝礼後に中を覗いてみてください。
 右の穴から覗くと、お狐さまがいらっしゃって、ああなるほど稲荷だなと思います。実は私は右側からしか覗かなかったのですが、カミさんがふと左側から中を覗いてみると…。
 一瞬ギョッとしますよね。無数の首人形が奉納してあります。
 私、知らなかったのですが、この首人形たち、「あやかりく」という清水独特の伝統工芸なのだそうな。
 この神社に残る伝承によりますと、「堀尾市郎左右衛門さんの泥で作った首人形を似肖像(あやかりく)と言い、源為朝にあやかって、強い子に育つように神社から一本(一体)を預かり、子供の枕元に置いて祈ったとあり、子供の病気が治ると市郎さんでもう一本を買い求め二本にして神社に奉納した』ということだそうです。
 子どもたちにとっては玩具としての着せ替え人形であったとともに、親にとっては信仰の対象だったわけですね。
Ecfb3f73bd357ddd1874facc09fc7c01 なお、最後に、長澤雄楯と出口王仁三郎が後年対談した内容が公開されていますので、もし興味をお持ちになった方はお読み下さい。こちらです。


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2014.01.02

聖寿萬々歳

Img_7674 「寿萬々歳」…我が家の床の間にかかる掛け軸です。
 出口王仁三郎翁の直筆(たぶん本物)の書(左も王仁三郎の「明鴉」)。
 我が家にいらした方々(書家含む)が皆、「破格だけどすごい!」とおっしゃってくれる作品です。
 「聖寿萬歳」とは、一般に言い換えると「天皇陛下万歳」ということになりましょう。
 もちろんそれでも全く異論はないわけですが、しかし、王仁三郎のことですから、そこにはもっと深い意味を持たせている可能性がありますね。王仁三郎と天皇との関係はなかなか一筋縄では解釈しきれませんから。
 私は全ての命に対して「聖寿」と言っているように思えます。そう、「君が代」の積極的解釈のように。
 皆の尊い命がなるべく長く穏やかに続きますようにという願いがこもっている感じがしますね。長寿\(^o^)/ということです(笑)。
1555647_195565393982141_1390543816_ 長寿万歳ということで言いますと、本日、今月末に100歳を迎える私の祖母を囲む新年会が行われました。
 祖母から派生した(?)子孫たちが34名集まりました。すごいなあ…私も今年50になるのですが、その倍だからなあ。古希親戚も「まだ30年もあるのか!」と言ってました。たしかに。
 今年50になる孫である私もお年玉をもらったりして(笑)。祖母はますます元気で、冗談も言うほど。1世紀の歴史を刻んだその佇まいは圧倒的な「聖」性を感じさせます。
 なるほど、これが「神」の領域ですね。理屈ではありません。私なんかまだ道半ばですからねえ。
 まさに「聖寿萬々歳」。先の大戦を挟んで大正、昭和、平成の三時代を生き抜いてきたわけですから。
 ということで、今日集まった親戚の皆さんはもちろん、日本の、地球の皆さんの「聖寿萬々歳」をお祈りせずにはいられない正月二日でありました(私は飲み過ぎて夕刻から翌朝まで14時間も寝てしまいましたが)。


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2014.01.01

謹賀新年2014(年賀状公開)

 けましておめでとうございます。
 昨年は大変お世話になりました。本当に人生の中でも最もエキサイティングな1年でありました。今年はさらにそれを上回る年にします(たぶんなります)。
 今年のテーマは昨年の体験&考察に基づき「荒魂(あらみたま)」です。「和魂(にぎみたま)」の活性化には「荒魂」が必要です。「荒魂」をどのように祭るかというのが、私たちの目指す地球平和にとって非常に重要なテーマとなると思います。
 そこで、今年の年賀状はこんなのにしてみました(笑)。まずは、自らの邪鬼に対して「荒魂」を発動しなければ。
↓click!
2014

 またまたお馬鹿な年賀状ですみません。毎年初笑いはウチの年賀状でという方もたくさんいらっしゃいます。
 昨年は時事ネタとして選挙のパロディーをやりました。こちらです。
 昨年夏に安倍昭恵総理夫人がウチに遊びにいらした時に、この年賀状を拡大して作ってもらったカレンダーを見つけて大ウケして写真に撮りまくってました(笑)。
 あの時は5時間もいろいろ語り合ったのですが、「5時間いろいろあったけど、これが一番印象に残った!」とおっしゃっていました。おそらく別荘にお帰りになったのち総理にも見せちゃったんじゃないでしょうか(笑)。
 そう、昨年私は「妄想実現党」の党首になったわけですが、まさにそういう年になりました。今年の私は「多聞天(毘沙門天)」ですね。人の話をよく聞く年にせよということでしょうか。
 聖徳太子の四天王信仰はよく知られています。一般的にはその信仰によって物部に対して蘇我が勝利したという解釈がされていますが、本質は違います。
 戦い、勝利という「荒魂」の裏には苦悩がありました。結果として、敗れた物部の魂、すなわち「和魂」が十七条憲法の第一条(仏教崇拝の第二条より上)に位置することになったのです。
 このあたりが、今年の私の生き方のテーマというかヒントになりそうですね。
 というわけで、今年も山口家をよろしくお願い申し上げます。地球平和のために頑張ります!

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