もう一つの富士山(その8) 李良枝 『富士山』
先日、「もう一つの富士山」シリーズで太宰治の「富嶽百景」を紹介しました。
そこにも書きましたが、私の奉職する学校のある場所と太宰は縁が深い。それだけでも非常に特別なことです。
しかし、ある意味恐ろしいことに、その特別なトポス太宰によって独占されているわけではないのです。
夭折の天才…そう、太宰以外にも、この土地は夭折の天才を生んでいます。それも少なくともあと二人…。
その一人は、このブログで何度も紹介している天才ミュージシャン志村正彦くんです。ロックバンド、フジファブリックのフロントマンだった彼は、4年前のクリスマスイヴに29歳の若さで突然この世を去りました。
そして、もう一人の天才。彼女も彼らと同じように、よく月江寺の池を訪れていました。彼女の名は李良枝(イ・ヤンジ 本名は田中淑枝)。「由照(ユヒ)」という作品で、第100回芥川賞を受賞した小説家です。
彼女は志村くんと同じく下吉田に住み、下吉田第一小学校、下吉田中学校、そして吉田高校に通いました。
吉高時代、家出をし富士吉田を離れ、京都や東京の生活を経たのち、韓国に渡り住むことになります。そして、芥川賞を受賞した3年後突然亡くなりました。享年37歳。
彼女の人生と作品を知るにはこちらの論文がよいのでは。
実は私、つい最近まで李良枝の作品を読んでいませんでした。なぜなら、ちょっと怖いところがあったからです。
彼女の生まれた西桂町の生家は、私が若かりし頃住んでいた尼寺のすぐ隣の隣でした。その後、彼女も私も富士吉田市下吉田に引っ越しています。もちろん、時代がずれているので直接関わりがあったわけではありませんが、山田流の箏曲をやっていたり、あるいは朝鮮半島の文化(伽耶琴など)に興味を持ったりと、私の人生とかぶるところがけっこうあったのです。
それがなんとなく怖かったというわけです。お分かりになりますか、その怖さ。
しかし、ようやく解禁の時が来たようです。
最近、絶版になっている全集を古書店で手に入れました(この全集には月江寺境内で撮られた写真も載っています)。
今日はその中から、一時期高校教科書にも掲載されていた素晴らしいエッセイ「富士山」をお読みいただきます。
文体から内容まで、まるで太宰が乗り移ったかのような作品。今、この名文が地元の人の目にもほとんど触れないというのは非常に悲しい状況です。
彼女にとっての富士山は、まさに「もう一つの富士山」でした。
太宰ファンにも、志村ファンにもぜひ読んでいただきたい。
(1)
十七年ぶりに、生まれ故郷の山梨県富士吉田市に帰った。
「由煕」を書き終え、発表したあとの昨年十月頃からのことだが、私の心に、自分でも想像できなかった変化がおこり始めていた。
富士山を見たい。
無性にそう思うようになった。
十七歳で高校を中退し、家出同然に故郷を離れてから、十七年たって、帰ろう、富士山と対してみよう、という気になったのだ。
新宿から特急あずさ号に乗り、大月駅で河口湖行の富士急行線に乗り換えた。二輛編成の車内は、下校中の高校生でほぼいっぱいだった。
私はドアの前に立ち、外の風景と向き合いながら、サングラスの中で目を閉じた。
もうすぐ富士山が見える。
走り出した電車の車輪の音を聞き、振動を感じながら、しばらく目を開けられずにいた。
自分が故郷を出たときと同じ十代の若者たちが、この空間を共有している。屈託のない、はつらつとした声とことばを耳にしながら、若者たちもそれぞれの心の底に不安と悩みをひそませていることだろう、と昔の自分に重ね合わせて想像した。
私は、富士山を憎んできた。
物心ついた頃から、家の二階から見える富士、学校の窓から見える富士、いつも自分に何かをつきつけ、にじり寄ってくるような富士を憎みつづけた。
家庭の中は、両親の不和のために、暗くじめじめしていた。心の中は、言葉にならない不安と昂ぶりでざわめいていた。何故生きているのか、生きなくてはならないのか。自分の生、人の生を認めようとするきっかけさえ摑めず、この世界を憎悪していた。美しく、堂々として、みじろぎもしない富士山が、憎くてならなかった。
故郷を飛び出した。
それでもなお、富士山はつきまとった。
田中ではなく、李を名乗るようになってからは、日本の、朝鮮半島に対する苛酷な歴史の象徴として立ち現れ、韓国に留学してからは、自分のからだに滲みついた日本語や、日本的なものの具現者として押しよせてきた。
私はひたすら富士山を拒んだ。一体、どこまでつきまとうのか、と幾度となくその姿を罵倒した。
けれども、実はいとおしかったのだ。
そんな気持ちが許せなく、否定しようと抗ってはみたが、富士山は底知れぬ強さを秘めてびくともしなかった。時おり私は、稜線の美しさや威容にあこがれ、誇らしく思い返している自分に気づくようになった。富士山は、動かずに、深奥に猛火を抱き、聳えつづけている。そう在りつづけてきたと思うだけで、胸が熱くなり、頭の下がるような感動にふるえた。
目を開いた。車窓の光が眩しかった。
私はそっとサングラスをはずし、富士山を仰ぎ見た。
(2)
富士山をとりまき、まるで富士を守るようにして連なってる山脈の一つに、三ツ峠という山がある。
私は、三ツ峠のすぐ麓の村に生まれ、そこで三歳半まで育った。富士吉田市にはその後移り住み、十七歳まで過ごしたのだが、富士吉田市を訪れた翌日、南都留郡西桂町にある自分の生まれた家に行った。三十年ぶりに見る村であり、家だった。
西桂町役場の角を左に曲がると、突然、前方に三ツ峠が広がった。
思い描いていた姿よりも意外に低く、頂きき線が丸みを帯び、やわらかなことに驚いた。そのうちに、山から伝わってくる何かに打たれ、押さえこまれ、からだが重くなっていくような感覚にとらわれ始めた。
山に向かって伸びている道の、ガードをくぐったすぐ右側に道がある。道を入った奥に生まれた家がある、と車を運転する友人に私は話していた。右に入る道が見つからないまま、友人は車を走らせた。
三つの頃の、古い記憶が鮮やかによみがえっていた。からだが、やはり重くなっていく。その感覚は、自分に記憶の確かさを信じさせ、胸の奥に声にならない声を湧き上がらせた。
薄青い空の下に、ゆるやかな稜線を描いて続いている三ツ峠。深い緑色が伝えてくる懐しさ。濃淡の、色合いの、厚みとしか表現のしようのない樹木そのもの、山そのもののふくらみ。
立ち現れた記憶の画像は、三十年前のその時、直接目にしている山の光景とはっきり重なっていた。
「違う、来すぎている」
私は言った。
近すぎる、右に曲る道はもっとうしろの方にある、と妙に切迫した思いにかられながら、三ツ峠から後退りするように車をバックさせた。
遠近感が一致した。
見ると道があった。細く、長い道が、人家の横に伸びていた。車が入れないほど狭く目立たない道であったために、私も友人も気づかずに通りすぎていたのだった。
車を近くに止めて降り、路地の入口に立った。三ツ峠との隔り、その姿との遠近感が、やはり記憶と等しいことにあらためて安心し、歩き出した。
土手の上を走る富士急行線の線路と、見つけたばかりの路地は平行し、その間に人家、畑、私の生まれた家が並んでいる。家の裏側は墓地で、路地の突き当たりに、長得院というお寺が昔のままに残っている。
何もかもが小さく見えた。
広々としていたはずの畑も、大きかったはずの家も、小さくこぢんまりとしていた。踏みしめている路地も、もっと広く、長かったはずだった。自分のからだが大きくなった分だけ、風景の方は縮んでしまったのだ、とひとり言に笑い、また三ツ峠を見上げた。
目の位置が昔より高くなっていても、山との遠近感は少しも変わっていなかった。
(3)
三日間、富士山を見続けた。
雲をかぶっている富士も、眩しい光線の中に雪の白さを輝かせている富士も、夕暮れの濃い藍色の空に浮き上がった富士も、どんな瞬間の姿を目にしても、美しい、と私は口の中で繰り返していた。
生まれ故郷を訪ね、旧友たちに会い、自分の生まれた家も見ることができた私は、旅を終えて東京に戻った。
「次は、いつ日本に帰ってくるの?」
ある友人が言った。
「それで、今度はいつ韓国に帰るの?」
友人にはそうも訊かれた。
帰る。
自分は日本にも帰り、韓国にも帰る。
単に愛憎という言葉でくくってしまうのもためらわれるような富士山に対する複雜な思いとともに、この〝帰る〟という言葉にこだわり、苦しんできた過去の日々を思い返さずにはいられなかった。
帰ってくる。
帰っていく。
けれどもすでに、少しのこだわりもなく〝帰る〟という言葉を二つの国に対して使い、いついつ、と答えている自分がいた。
富士山を見たい、とソウルで思い始めたのも、意外な心の変化だったが、実際来て、直接故郷の空気を味わった旅の、その渦中でも、私は、自分自身の心の状態に驚かされ続けていた。
何でもなかった。
憎み、恨み、拒んできた富士も、それでもいとおしく、胸が衝かれるほど懐かしかった富士も、過ぎ去った記憶の中の歪んだ姿として遠いものとなりきっていた。
富士山はただ在った。
それを見つめて、美しいと呟いている自分も、ただそう在り、平静だった。
東京からソウルに戻ったあと、全羅道を旅した。
山から目を離すことができなかった。
車窓の右側、左側、そして前方に映し出され、現われ出てくる山々に圧倒された。
目に入ってくる限り、一つひとつの山、稜線の流れに、頭を下げたくなるような気持ちで見入り、見つめ返した。
祖先たちが仰ぎ見てきた光景。
そこに在り続けてきた光景。
すべてが美しかった。それだけでなく、山脈を見て、美しいと感じ、呟いている自分も、やはり素直で平静だった。
韓国を愛している。日本を愛している。二つの国を私は愛している。
そんな独り言を静かに聞き取っている自分自身にも出会っていた。
意味や価値をおかず、どのような判断や先入観も持たずに、事物や対象をソノマの姿で受け止め、対することはできないだろうか。
長く迷いながらも、ずっと求め続けてきたひそかな願いは、ようやく、その一歩が実り始めてきたように思える。
瞼に、富士山を描き出してみた。
車窓の外には、蘆嶺山脈が広がっていた。
「
同じ呟きを、私は、この今も繰り返している。
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