滝川雅美さんによる「オ・モ・テ・ナ・シ」スピーチが評判です。
まあたしかに外国の方々に効果を与えるには充分すぎるほど完成度の高い内容でしたね。安倍総理も含めて、その他のプレゼンターの方々も素晴らしかったと思います。
日本人が日本人としてあれらをそのまま受け取って「気恥ずかしい」とか「不自然だ」とか言うのは、それこそ日本流に言えば「野暮」ですよね。
というか、それ以前に、実は最初の高円宮妃殿下久子さまのお言葉が素晴らしすぎましたね。お言葉だけでなく、なんというかたたずまいというか…会場の空気が全く違いました。
あれこそが、皇室の存在理由でしょう。日本という国のたたずまいや志を一瞬で体現できるのは、やはり皇室の方々のみです。
久子妃殿下の「たたずまい」にスペインのフェリペ皇太子は一言「負けた…」と言ったとか。
それこそ2600年を超える皇室の、すなわち日本国の歴史と伝統の重みを感じたのでしょう。
さてさて、滝川雅美さんのスピーチに話を戻します。滝川クリステルさんと言った方がいいのでしょうか。いや、私はあえて日本人滝川雅美としてあの場に立ってほしかったなあ。
このスピーチのキーワードとなった「おもてなし」。どういう語源や語史があるかご存知ですか。
ネット上にはまあいい加減な説が蔓延していますねえ。「裏表なし」なんていうのは語呂合わせにすぎません(笑)。
私のように古典に親しんでいる者にとって「御もてなし」という言葉を聞くと、まずあれを思い出すのではないでしょうか。
源氏物語の冒頭、桐壷の巻のこれまた冒頭部分です。
いづれの御時にか、 女御・更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、 いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふ、ありけり。
はじめより我はと思ひ上がり給へる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉み給ふ。 同じほど、それより下臈の更衣たちは、 まして安からず、朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、 いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
周囲の嫉妬を買ってストレスで弱っていく桐壷の更衣を、帝がより可愛がるシーンですね。
この「御もてなし」はどのようなニュアンスなのでしょうか。ちなみに、いっこうに進まない私の「無手勝流源氏物語プロジェクト」(全文現代語訳計画)によると、次のように訳されています。
…のちのち語り継がれんばかりの異常なおもてなしぶりです。
おいおい、ほとんどそのまんまじゃないか(笑)。いや、ということは、同じ意味で使われているということでしょうか。
実際、この場面では帝が更衣を歓待し寵愛しているわけですから、私たちが外国からのお客様を歓待し心から愛情をもって接するというのと同じニュアンスであると言えます。
しかし、源氏物語のこの場面での「御もてなし」を「おもてなし」と訳せたのは、あくまでこのコンテクストだったからです。
もともとの「(御)もてなし」はもっと多様な意味を可能にする言葉です。源氏物語には「(御)もてなし」は名詞、動詞合わせて330回以上用いられています。たまたま見た「乙女」の巻だけでも15回も使われていました。
それらに対して、私は次のような現代語訳を与えています。
「(ご)様子」「執り行う」「ふるまい」「とりはからい」「態度」…
実は私が「御もてなし」を「おもてなし」と訳しているのは、前掲の桐壷の文しかないんですよね。
こうして見ますと、「もてなす」は「持て成す」であり、「ある意識や習慣や計画を持って(以って)ことを成す(実行する)」という意味だということが分かります。その一つに「他者を歓待して寵愛する」という意識と行動があるということです。
また、それぞれの使用例で重要なのは、特に「御もてなし」の場合、他者から見て、それが特別な価値のある意識と行動として映っているということです。ただ「〜した」ということではないのです。
ちなみに「悪い意味で特別」な場合もあります。他者をだます意図をもって、別の何かに見せかけるという行動です。あるいは桐壷の更衣に対する帝の態度のように、結果として他者に不快な感じを与える場合もあります。
滝川さんのおっしゃる「おもてなし」はもちろん、他者を感動させるような意識と行動ということになりますね。
そういう意味では、冒頭で触れた高円宮妃殿下久子さまの「たたずまい」こそ、私たちが目指すべき「おもてなし」であると言えましょう。
私はあのプレゼン全体を見て聴いて、そのように思いました。意識と行動の裏に感じられる、無意識的かつ不可視なる品格。
この7年間で私たちは、それを取り戻さねばならないのでしょう。
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