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2013.07.31

「リアルタイム」ということ

↓これももう「過去」のこと
20130801_125834 このところ過去を振り返る記事が多かったので、今日は「現在」について考えてみようと思います。
 現代の文化やテクノロジーを語る時、「リアルタイム」という言葉がよく使われますね。
 たとえば世界のニュースをリアルタイムで知ることができるとか、リアルタイム中継とか、リアルタイム検索とか、ツイッターはリアルタイム・メディアだとか…。
 ここでは、リアルタイムという言葉は「即時・同時」という意味合いで使われていますね。つまり、私たちはそれらをなんとなく「現在」だと思っている。
 しかし、ちょっと考えれば分かるとおり、正確には私たちが知覚、認識する情報は全て「過去」の出来事であることが分かります。
 テレビの「生中継」なんか、たとえば海外のサッカーとか野球の試合なんか、あきらかに数秒遅れていますよね。「Live」と右上に表示されていても、実際には数秒前の「死んだ」情報、ワタクシ流に言えば「モノ」ではなくて「コト」を見ているのだと言えます。
 特に意識しなければ、それを「現在」だと思って手に汗握っても全然問題ありません。しかし、緊急事態の時に「現在」の幅が命に関わることもあります。
 大震災の時に書きましたが、たとえば、最近のテレビのデジタル化によって、機器によっては(ワンセグなどは)3秒近くの遅延があります。1秒を争う事態ともなれば、その遅れは致命的です。アナログではほとんど光の速度による遅延しかなかったものが、今ではすっかり遅くなっているのです。
 アナログ放送が並行して残っていころは、そうした遅延を比較して楽しむ(?)ことができましたが、今となっては全体が過去に引きずられた状態となっているので、誰もその遅れを感じることができません。
 最近のデジタル機器(つまりコンピューター搭載の機器)の起動の遅さも含めて、現代は実は非常に「遅れた」時代になっているのです。これはあまり指摘されませんよね。
 かと言って、球場に行って生観戦していても、それはそれで光や音の速度が有限であるために、厳密に言うと「過去」の「コト」を見ていることになります。いくら最前列で、かぶりつきで見ていてもです。
 一方、「現在」の定義は物理学的にも哲学的にも難しい。仮にそれが時間の流れの一点であるとすると、理屈では理解できても、それを実際感じることは我々にはほとんど不可能です。
 そのため、我々にとっての「現在」は、ある幅をもった概念であることは認めざるを得ません。いや、人類がそのように認知するよう進化したのでしょうね。
 では、私たちの心身における「現在」は存在しないのでしょうか。その話は最後に書くとして、ちょっと寄り道して「リアルタイム」という言葉について考えてみましょう。
 「real time」とはもともと物理現象が起きるまでに要する実時間のことを言います(私たちの認知も物理現象ですから、そういう意味ではテレビやネットの「リアルタイム」というのは正しい使われ方であるとも言えますね)。
 それがコンピーター用語として使われるようになって、「即時・同時」という意味合いが生まれてきました。それほど、コンピューターの処理速度が速くなったということですね。たしかにCPUの進化とメモリーの低価格化によって、リアルタイムは「即時・同時」に格上げされました。
 実際には先ほど書いたように、再び「リアルタイム」の「リアルタイム(現実的な経過時間)」化、すなわち「現在」の「過去」化、テクノロジーとしての退化も同時に進んでいるというのは皮肉ですね。
 というわけで、私たち心身にとっての「現在」とは何かということです。
 私たちの生活の中において、「現在」を受信している瞬間というのはあるのでしょうか。
 先ほどからの話の流れでお分かりのとおり、指に針が刺さって「痛い」と思うのも「過去」のコトです。神経の伝達系も物理現象ですから、それなりのタイムラグがあって私たちは「痛い」と認識します。
 そこまで厳密に見ていけば、それこそ「現在」は感じることができなくなってしまいますよね。
 しかし、実はあるのです。「現在」を感じる瞬間が。
 それが、ワタクシのいう「モノ」です。「コト」の対称概念としての「モノ」。
 これは何かというと、つまり直観(直感)です。ふと湧いてくる何か。それが「モノ」です。
 ですらか、日本語の「物思ひ」なども、何か原因や目的があって想起するコトではなくて、ふと外から(内から)やってくるモノなのです。
 少し前に、出口王仁三郎の「「直観力を養え」」という文章を紹介しました。あれですね。
 王仁三郎は「過去」にとらわれるなと言っているわけです。西洋近代科学は「過去」にこだわりすぎた。その結果良き面もあったが悪しき面もあったのです。
 現代の科学は、次元をどんどん増やしていって、つまり時間の流れから自由になって、本来的な「直観」に再び近づいているように感じますが、まだまだ我々の生活レベルでの科学工業文明は「過去」に囚われすぎていると言えます。
 私は、いろいろな人にアヤシいと言われながらも、その呪縛から解き放たれたいと常に考えています。
 リアルタイムにはタイムラグがあることを思い出すだけでも、かなり状況は変わってきます。すなわち、「今」見たり聞いたり感じたりしているコトが全て正しいのではないということを意識するのです。
 さあ、そして、そうして直観した「現在」が「未来」にどうつながっていくのか。また、音楽にとっての「リアルタイム」とは何なのか。それらについてはまたいつか書きます。


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