眼横鼻直
柳田聖山自画像
昨日まで、兵庫県にある姉妹校の野球部が来校し試合などを通じて交流をしていました。
そんな中、姉妹校の理事長先生がご挨拶で素晴らしいお話をしてくださいました。のちに今回の交流会の記念に「眼横鼻直」という言葉が揮毫されている色紙をいただきまして、そこに資料としてお話の中で引用されていた文章が添えられていたので、ここに紹介しておきます。
中国禅宗史の偉大なるエキスパート柳田聖山さんの文章です。道元の聖句を見事に咀嚼した内容もさることながら、文章に禅味があります。
眼横鼻直…こういう境地があることは想像できますが、しかし到達するにはずいぶん時間がかかりそうな予感もします。頑張らないで頑張らなければ。
眼横鼻直 柳田聖山
あかい椿が、ぽたりと、落ちた。
すこしソッポをむいて、地べたに、坐った。
白秋の歌である。まちがっているかもしれない。妙に、忘れ難いのである。
何でもない、藪椿の花が地におちただけのことだが、はじめから、そこに落ちつく筈だったみたいに、ぴたりと坐った感じがうれしい。ばさりと、地をうつ声がきこえる。風に散る桜の花とはちがう、春の音だ。
唐の末、湖南の石霜山にかくれすむ禅者に、ある人がたずねた、
「山中にも仏法はありますか」
「ある」
「どういうものが、山中の仏法です」
「大きい石は大きい、小さいのは小さい」
石も木も、背すじをまっすぐに立て、腰をどっかと地にすえて坐っている。傾いていても、どこかに不動の安定感がある。
重いものは重いように、軽いものは軽いように、互いにしっかり自分を支えて、他と比べてどうのこうのと言いはしない。
坐禅とは、そんな水平感覚のことだろう。どこにいても、タテとヨコの平衡感覚を失わぬのが坐禅である。
小を大に、大を小に平均化するのではない。まして、小を過度に小に、大を過度に大にすることで、平衡を失う自由化ではない。
在宋五年、道元は何ももたずに、手ぶらで日本に帰って来た。仏法とは、眼は横に鼻はまっすぐ縦についていると判ることだと、かれはいう。自分も他人も、量も質も、ぴたりとそこで決まる座標のことである。
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