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2013.05.19

「祈り」と、そして…

2013sopp_1 晴らしかった。しかし…。
 富士山西麓の富士聖地におきまして執り行われました「世界平和交響曲…Symphony of Peace Prayers 宗教・宗派を超えて、共に世界の平和を祈る」に参加してまいりました。
 ここ数年、大変お世話になっている方からお誘いをいただき、今回が初めての参加。
 せっかくですから、地球平和の象徴とも言うべき我が家の耀わん「十和田」を携えて富士聖地へ向かいました。
 富士聖地とは、「世界人類が平和でありますように(May Peace Prevail on Earth)」のピースポールで知られた白光真宏会が1980年に開設した「祈りの場」です。
 もちろん私はその存在は知っていたものの、白光の信者ではない私が入れる場所ではないと勝手に思い込んでいること30年以上。ある意味ではようやく足を踏み入れることができました。
 私は比較的気の流れのようなものを感じやすい体質、特に富士山のそれに関してはかなり熟練している方だと自覚しています。やはりこの聖地には特別なエネルギーを感じましたね。最初は違和感があったほどです。
 しかし、セレモニーが進行するにしたがって、いつにない平穏な気分が私の心に訪れるのが分かりました。
 セレモニー前半のメインは各宗教・宗派の祈り。
 仏教(日蓮宗)、イスラム教(スーフィズム)、ヒンズー教、神道、ユダヤ教、キリスト教、シーク教、そして白光真宏会のそれぞれの導師たちが、その神髄と平和について語り、そしてそれぞれの作法で祈りを捧げます。会場に集った1万人近い人々も唱和します。
 私はそれぞれの宗教についてそれぞれ興味があり、それぞれの感想を持ちましたが、今日はそのような個人的な関心は重要ではありませんね。
 まさに交響…それぞれの宗教宗派の多様性と共通性が、人々の魂を通じて響きあったという事実に、(月並みな言い方になってしまいますけれども)感動いたしました。
 後半のメイン、世界各国語による世界各国の平和の祈りは新鮮でした。正直楽しかった。200近い国のそれぞれの言葉を実際声に出すわけですからね。もちろんそんな体験は初めて。
 カタカタを追いかけるだけでも大変でしたけれども、そんな中で、全く知らない国名や知らない言語、そして国旗にたくさん出会いました。さらに、いくつもの言語を持つ国、あるいは列強国の言語を使っている小国、さらにはクレオール言語など、世界史の一端を体感することができました。
 たしかにこのような「祈り」は画期的ですね。もちろん文法も語彙も分からない外国語ばかりですが、カタカナで発音するにしても、そこには「言霊」が宿ります。それを富士山から世界へ発信しているだけでも、これは大きな意味があると感じました。
 全体として、本当に素晴らしい「場」を創りだしていたと思います。自らの魂も浄化され、神仏や自然の御加護のもと人間に生まれ生きていることの幸福を感じられる体験でした。
 たしかにあの場だけを見れば、実に平和で穏やかな世界であったと思います。この場が広がっていけば、いつか世界平和は実現するのではと感じました。
 しかし、私にはもう一つの強い思いが生まれていたのです。あえて私はそれをここに書きたいと思います。
 「祈りだけでは世界は変わらない」
 もしかすると、これはあの場で禁じられているネガティブな思念だと判断されるかもしれません。そう捉えられてもしかたがないほどに、あの場は純粋に美しく平和だった。
 私はあえてその中の「荒魂」の役割を果たしたいと思います。
 「祈る」という行為にはある種の危険も伴います。それは陶酔と自己満足です。
 人類はずっと祈り続けてきました。何千年も、いや何万年も。しかし、いまだにこの世界には憎悪や嫉妬や搾取や争いが絶えません。それもまた事実です。
 あの「祈り」を現界の変化につなげる具体的な方策や行動がなければ、やはり片手落ち(あえてこの言葉を使います)なのです。
 「祈り」の陶酔と自己満足は、そうした本質を見失わせる危険性を発揮するのです。
 もちろん、あの会場にいらっしゃった、私などよりもずっと魂のレベルの高い方々は、そのことを意識されていると思いますが、「祈り」の対象たる「世界」にそれがしっかりと照射されているかどうか。私は少なからず不安に思いました。
 政治、経済、科学…そういった「体」の世界と、祈りや魂という「霊」の世界をどうやって結ぶのか。実はこれが私の最近の最大の課題です。そして、その術を書き残してくれた先人、すなわち出口王仁三郎や仲小路彰に出会い、今それを勉強させていただいているところです。
Img_6534 ところで、白光真宏会を創立した五井昌久さんは、間接的にではありますが、出口王仁三郎の影響を受けていると言えます。
 特に「万教同根」「神人一致」の教えは非常に近いものを感じますね。そういう意味で、今日、王仁三郎の耀わんがあの場に「いた」というのは大きな意味があると思います。
 会場で出会った多くの方々(初めての方や再会の方)に、耀わんでお水を飲んでいただきました。
 セレモニー終了後、来賓としていらしていた大本信徒連合会の出口孝樹さんや、マヤの叡智研究の柳瀬宏秀さん、映画監督の白鳥哲さんと再会し、耀わんともどもご挨拶させていただきました。
 僭越ながら、私が王仁三郎や仲小路彰から学んでいることが皆さまに伝わればと願うばかりです。
 王仁三郎は「宗教がなくなる世」を理想としました。これは、ある意味では現実社会だけでもしっかりやっていける世の中のことです。
 「宗教・宗派を超える」…それは真のみろくの世への第一歩に過ぎないのでしょう。私たちはそろそろ次の一歩を踏み出す時に来ているようです。

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コメント

私も、SOPPに参加しました。やはり、素晴らしかったです。白鳥哲監督のフェイスブックで「出口王仁三郎の耀碗(ようわん)でお水を飲まれた」とありましたのでコメントさせていただきました。私は岐阜県瑞浪市ですが”瑞浪芸術館”で昨年「出口直日陶芸展」を開催させていただきました。大本3代目の方ですが書も展示されて素晴らしいものばかりでした。プロの陶芸家達も大本の窯に通われたという事も、うなづけました。1か月間でしたが、直日様の陶器や書・絵画に囲まれて素晴らしい体験をさせていただきました。5代様もお越しになって、丹念に鑑賞されていかれました。有り難うございました。

投稿: 森 啓 | 2013.05.21 19:28

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