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2013.05.31

『忘れる練習・記憶のコツ』 アルボムッレ・スマナサーラ (サンガ)

20130602_74209 の得意技、「忘れる」こと。
 実はそれが「常若」につながっているということに気づきました。今日はグッドタイミングで読んだこの本の紹介を兼ねて、そのことについて書きましょうか。昨日の「神道」の続き。「仏教」の視点から。
 私の「忘れる力」は、自慢じゃないけれど本当にすごい。おそらく全国大会レベルだと思います(笑)。
 昔のいいこと悪いことを忘れちゃうのは当然のこととして、昨年の学校行事の段取りを忘れたりするのは序の口。
 一週間前に書いたブログの内容もほとんど覚えていない。毎月いくつかの歌会や短歌雑誌に投稿している短歌も、あれだけ産みの苦しみを味わっているのに一つも暗誦(再現)できない。
 音楽の暗譜というのも全くできません。これは本当にひどい。練習しない(憶えようとしない)というのもありますが。
 これらはある種の障害であると認識しています。高校生の時なんか、なんで勉強の暗記ができないのか、非常に苦しみました。しかし、今ではこれを得意技だととらえているわけです。
 昨年、脳科学の本で有名な池谷裕二さんにお会いした時、「人間は忘れるように進化した。そのおかげで創造性が発達した。というか、記憶よりも創造性の方を選択したのだと思う」という話をお聞きし、単純な私は自分がほめられたような気がして小躍りしてしまったのですが(笑)、たしかにそれってありだと感じました。
 「創造性」とは「常若」であります。西洋文化(や中国文化)が「言語」や「石」にこだわり、記憶を永遠化しようと努めたのに対し、日本文化は「口伝」や「木」にこだわりました。縄文が1万年の間なんら大きな変化を見せなかったのは、実は創造性がなかったからではなく、異常なほどの創造性を発揮したからです。
 これはパラドックスですよね。普通に考えると過去の記憶にこだわる方が保守的で、過去を捨てて創造性を発揮するのが革新だととらえられますから。
 しかし、実は「革新」とは進歩主義ですから、その根底には「過去を凌駕したい」という願望があるのです。つまり、その根底には(特にマイナス感情を伴う)「過去の記憶」「過去へのこだわり」があるわけです。
 この本にはそのことが書かれていると感じました。ブッダは、「過去の記憶」とは人間の欲と怒りの産物であり、それによって私たちは不幸になっていると語りました。だから、それを捨てよと。
 私もそのとおりだと思います。私たちの感情も思想も、そのほとんどは「自分の過去の記憶」の上に成り立つものです。私はその土台がどれほど小さく狭く不確実なものであるかを最近実感しています。そこにこだわるよりも、無限に広がる「他者の未来」を土台にした方がずっと安定している(面白い)と考えるようになったのです。
 私の「時間は未来から過去へと流れている」という時間論からすると、過去の記憶というのは、本来下流に流れていってしまうべきモノを、脳ミソの両手で後生大事に抱えている状態だとも言えます。あるいは、下流に向かって立って、流れていくモノどもを一生懸命見失わないように目を凝らしている状態だとも。
 別にそういう人生を否定しているわけではありません。単に私はそれが苦手だということなのでしょう。
 ただ、私のようなお変人でなくとも、たとえばこの本を読んで内容に納得すれば、私のような生き方に転換することが可能だと思います。お試しいただく価値はあると思いますよ。

Amazon 忘れる練習・記憶のコツ

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2013.05.30

国宝 大神社展 (東京国立博物館)

20130531_114611 社パワー全開!…というほどではない?
 天皇皇后両陛下ならびに皇太子殿下もご覧になったという大神社展。なかなかの人気だそうで、今日ウチのカミさんが行った際も、平日にもかかわらずずいぶんと混み合っていたとのこと。
 6月2日まで。私は残念ながら行く機会が得られそうにありません。
 しかし、カミさん曰く、まあ直接観なくとも図録で充分ではないかと。
 というわけで、私は図録をじっくり拝観させていただきました。
 なるほど、神社グッズというのは、ある意味ではものすごくパワフルというわけではないのですな。
 なぜなら、神道においては、たとえば神像というのは邪道と言えば邪道。邪道とは言い過ぎかもしれないか。まあ、いずれにせよ王道、正道ではありませんね。
 もともと、アニミズムから発展した(であろう)神道は、あまりフェティッシュではありません。つまり、ワタクシのモノ・コト論的に言うならばですね、「モノ」中心主義であって「コト」には神は宿らない。
 物とモノは違いますよ。人間がこさえた物は「コト」です。モノは人為の働かない自然ということです。
 この展覧会に集められた物どもは、人間の脳の中で処理した結果としての物どもですから、つまり、ワタクシ流に言うと「コト」どもということになるわけです。
 だいいち、ここに集められた古い物(コト)どもは、式年造替の網目をすり抜けてきた特殊な(邪道な?)物どもとも言えますよね。
 そう、日本文化では基本「コト」は認められていないのです。「コト」は永遠不変の存在です。自然はお釈迦様の言うように「無常」なモノです。それを基本的な常識としていたのが日本の文化でした。だから、仏教がスムーズに浸透したし、仏教を伝えた大陸半島の人々も驚いたわけですね。
 仏教は永遠不変なる真理の象徴として、多くの建造物や仏像を作ることになります(「無常」という永遠不変の真理、すなわち「モノ」性という「コト」という面白い統一がなされるわけですが)。
 一方の神道は物の無常性にこそ神の可能性を見たわけですね。モノ性自体が神ということではありませんよ。つまり、衰え潰えていくというモノ性を、「ムスビ」の発想で永遠化したのです。
 「ムスビ」とは「産び」であり「結び」であり「掬び」であります。生命の連関、結束、掬い上げ、救い上げという動き、ダイナミズムにこそ、「神」を見たということです。
 その具体例が、たとえば、出雲や伊勢の遷宮であったり、いろいろなグッズの式年造替であったりするわけです。
 今回集められた物たちは、そういう一連の流れからはみ出していると言えばはみだしている。常若の発想からすると、けっこう老いている(笑)。
 だから、決して「パワー全開」ではないというわけです。
20130531_125755 そういう意味で興味深かったのは、神像が仏像に比べて、ずいぶんと「ショボい」ということですね(笑)。どちらかというとキッチュだったりキュートだったりします。
 考えてみれば、絢爛豪華なお寺群に比べると、伊勢神宮なんかもずいぶんと「ショボい」ですよね(笑)。しかし、その「ショボさ」こそが、新しいモノに取って代わられる潔さを内包している。そして、譲ることによって自らもスピリットとして生き残っていく。まさに「国譲り」的な発想ですよね。
 神道では、「ない」ことによって「永遠性」を表現するということもあります。「ない」なんて究極のショボさじゃないですか!
 たとえば、絹垣で覆われた中に神様を見るという手法。唯物論的には何も存在しないから、逆に絶対になくならない。こういう逆説はのちに「禅」と結びついていきます。
 面白いですね…と、勝手に盛り上がってしまいまして、スミマセン。
 とにかく大神社展、あと数日ですから、ぜひその圧倒的な「ショボさ」を味わいに行ってみてください。
 

大神社展公式

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2013.05.29

「男らしさ」と「戦い」…(パラオと日本)

 日は「男らしさ」「日本人らしさ」についていろいろ考えさせられることがありました。
 昼間は中学生の陸上の記録会があったのですが、どうにも男が不甲斐なく(記録だけでなく)、「怒り」が湧いてきてしまいました。女子は正直素晴らしい。それでいいのか?
 明日の朝は男子生徒を集めてカツを入れたいと思います。やる時はやるという男らしい男になってほしい。
130529_kak_dradition_jr_pict14 夜は藤波辰爾さんのドラディション後楽園大会がありました。私はテレビで生中継を観ました。
 今日は藤波辰爾さんの息子さんである藤波怜於南くんが公のリングで初めて「闘い」を見せてくれました。5分間プラス3分間延長のエキシビジョンでしたが、日頃の真摯なトレーニングの様子が伝わってくる素晴らしい内容でした。
 そしてなんと言っても試合後のコメントが実に良かったこちらに活字になっていますが、怜於南くんの人間性までは、やはり活字だと伝わらないですね。
 いやあ、本当に男らしい。そして、素晴らしい父と子の関係。そうか、やっぱり父親が「男」でないとダメなのか(苦笑)。
 そして、試合観戦後、家族で次の動画を観ました。藤波さんも何度も訪れているであろうパラオ。猪木さんはパラオでは超有名人。なにしろ「イノキ・アイランド」という無人島まで所有しているくらいです。
 その南の島国パラオで70年ほど前に起きたことを皆さんにも知っていただきたい。
 国旗の起源に関しては、実際にデザインした方が日の丸との関係を否定しているようですが、まったく影響がなかったということはないでしょうね。村山首相の時に不義理があったから否定したのではないかと勘ぐってしまいます。
 全ての歴史的事象(特に戦争)に関しては、認識の多様性があって当然です。私はその多様性を単純に一元化、あるいは二元化する姿勢を糾弾してきました。
 皆さんお分かりと思いますが、ここで紹介するこの動画の内容も、あくまで多様性の一面に過ぎないことを確認しておきます。
 また「物語」として受け止めるなら、中川隊長の「土人発言」は、私が最近重ねて語ってきた「荒魂」と「和魂」の関係を示す一例であるとも言えるかもしれません。

 パラオ、ペリリュー島の戦いについては、最低次の2冊を読んでおく必要があるでしょう。この動画の内容もまた歴史の一面であって、実態は決して美化されるべきものでないことが分かります。
 それにしても、スポーツにせよ、プロレスにせよ、戦争にせよ、とにかく戦いがなければ「男らしく」なれない私たち男というのは実にどうしようもない生き物ですね(苦笑)。

Amazon 秘話パラオ戦記―玉砕戦の孤島に大義はなかった
 ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖

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2013.05.28

エレクトリック・ライト・オーケストラ 『Love Changes All』

Electric Light Orchestra

 然思い出して数年ぶりに聴いてみました。
 なんで突然思い出したかというと、放課後学校でピアノをポロポロ弾いていたら、ある王道コード進行になっていきまして、あれ?この進行の曲ってなんだっけなあ、いろいろあるはずだけど…と考えること3時間。
 たくさんあるはずなのに具体的には1曲も思い出せない(笑)。王道すぎるのだろうか…と思っていたところ、ついにこの曲を思い出しました!
 久々に聴いてみたら、なるほど王道だけれども、そこはさすが職人ジェフ・リン。ちっとも陳腐になっていないではないか。うまいなあ。
 だいたいですね、こんな完成度の高い名曲が実際はリリースされなかったのです。
 この曲はかの映画「Xanadu」のサウンドトラック(オリビア・ニュートン・ジョン&ELO)のセッションの際にレコーディングされたものだそうです。たしかに音作りの感じがあの時代のELOですね。ジェフ・リンのポップ路線全盛期という感じ。
 名曲量産時代ですから、結局アルバムには収録されませんでした(つまり映画でも使われなかった)。
 そして、お蔵入りになったこの曲が日の目を見ることになったのは、レコーディングから20年後の2000年。ベスト・セット・ボックス「FLASHBACK」にボーナス・トラックとして収録されたのです。
 私もこのボックス・セットを買い、初めてこの曲を聴いて、ああ、なかなかいい曲だなと思った記憶があります。
 この冒頭の王道コード進行ですが、いわゆる下降音形による超王道ベースラインに、ちょっと凝った和音を乗せたものですね。これを初めて使った、つまり発明したのは誰なのだろう。クラシックの世界でもありそうでなさそう。
 どなたかご存知でしたら、ぜひ教えて下さい。あるいはこのコード進行を使った曲(およびそれに近いもの)を思いついた方は教えて下さい。たくさんあるはずなのに全然出てこない(笑)。
 ちなみに、「FLASHBACK」では、映画の主題歌でもあった超名曲「Xanadu」のジェフによるボーカル・バージョンが収録されていました。これもこうして聴くとまた格別ですね。

 ジェフのすごいところは、王道中の王道がコテコテにならないところです(いや、充分すぎるほどコテコテだ!と言う人がいることも認めますが…笑)。それは工夫というかアイデアが非凡だからですね。王道の中に「一歩ハミ出す」才能があるんです。
 このXanaduなんかも、ここでこういう展開かというコード進行やブリッジが聴かれますよね。それが一流と超一流の違いです。
 彼は自他共に認めるビートルズ・フリークでありますが、ある部分では完全に師匠を超えています。守破離の離まで行っているということですね。だから、ビートルたちも彼を認めたのでしょう。

 最後にやっぱりオリビア・ニュートン・ジョンのボーカルで超名曲を聴いてみましょう。オリビアの良さを200%引き出した楽曲であることが再確認できます。

 この映画よく観ると(いやよく観なくても)実にノーテンキないい映画ですね(笑)。そして、オリビア、すごい。アイドル性とカリスマ性高いわ。

Amazon FLASHBACK

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2013.05.27

『うまい謝罪』 間川 清 (Nanaブックス)

5つの基礎と6つの応用技でマスターできる
173336_01_1_2l 下さんも「謝罪」しましたね。あんまり「うまい謝罪」ではありませんでしたが。
 仕事柄「謝罪」の機会がけっこうあります。自分が謝罪するのはもちろん、生徒に謝罪させる時もあるし、保護者が謝罪してくることもある。
 そう、そうなんですよ。「謝罪」も教育の大切な要素です。というか、教育の場であり、また教えるべきテクニック(処世術)の一つでもあります。
 そういう現場に長年いるからかどうか、私はかなり「謝罪」に関しては「うまい」方だと思います。いや、「うまい」なんて言うと、それこそ単なるテクニックで心がこもっていないのではと疑われそうですが、そういうことではありません。
 簡単に言えば、「謝罪」をお互いにとって非常に大切な「きっかけ」とすることができるという意味です。
 「謝罪」は大変に濃い究極のコミュニケーションの様態なのです。だから、「謝罪」は本音でなければならないのは当然。その上に立って、そこにいかにプラスの価値を見出していくか。そこが問題であり、ある意味技術を要するところです。
 実を言うとですね、私、謝罪がうまいなと自分で意識したのは、小学校5年の時なんです(笑)。もうその時から戦略的謝罪にも長けていた(?)。
 ちょっと書くのは憚られますけれども、小学生の時からちゃんと自分の「謝罪哲学」というのがあった。それは今でも充分に通用するような見事なものです(自分で言うのもなんですが)。
 私の人生の根幹に関わる部分なので明記はしません。ごめんなさい(謝罪)。しかし、たとえば、このブログの文章術にも、その「謝罪哲学」は活きています。
 このブログでは、けっこう過激なことや、敵を作りそうなこともじゃんじゃん書いてきました。そして、おかげさまて9年間毎日2千人くらいの人に見てもらっているんですが、あんまりコメントがつかないし、ましてや炎上なんてこともない。
 これって実はその「謝罪哲学」のおかげだと思っているんです。最初から「謝罪」しているのか?というと、そういう意味ではなくて…なんとなく分かりにくい表現でゴメンナサイ(謝罪)。
 ま、「和の精神で言向ける」ことを心がけているとでも言ったらいいでしょうかね。いつも書いているとおり、「荒魂」が「和魂」の強化につながるということを信じているんですよ。
 だから単に相手を怒らせないとか、敵を作らないとか、お世辞やおべっかやごますりで固めるとか、そういうテクニックではなく、言いたいことを言い切りつつ、ほとんど無限で未知の他者に対する「思いやり」は忘れないようにしているんです。
 逆に言えば、そうした表現経験が実生活における「謝罪力」を強化したと。うん、そうだ。書いてみて自分で納得しました。
 お互いにとって「謝罪」という場は、のっぴきならない負の場でありますが、それによってお互いの人間性が高まったり、お互いの信頼関係が醸成されたり、まさに平和に向けて成長していく機会にもなりうるんです。私はそのことを絶対的に信じている。
 この本にも、「謝罪」によって逆に評価を高める方法などが書かれています。私も経験的に「そうそう」と思う記述が多数ありましたし、さらに「なるほど〜」と思える新しい発見もありました。
 もちろん、司法の場やビジネスシーンと教育現場は違うとは言え、大いに学ぶところはありましたね。
 とにかく相手の話を聞くところから始める。自己保身のための言い訳や、自分の論理的な正当性などを主張することよりも、まずは相手の立場になって共感するところから始める。これは「謝罪」に限らず、全ての人間関係、コミュニケーションにおいて基本中の基本なのではないでしょうか。
 つまりは、「無我」「無私」「自他不二」の境地になれということですね。「謝罪」はそのための修行の一つなのかもしれません。
 個人や組織での「謝罪」だけでなく、国家間の、たとえば日韓間の歴史認識の差による「謝罪問題」などについても、いろいろ書きたいところですが、今日はこのへんでやめておきます。
 今日たまたま仲小路彰のある文章を読みました。アジア諸国に対する「謝罪」についても書かれていました。そこには「謝罪」は「屈辱」かもしれないが、その「屈辱」から新たなものが生まれるとあります。その新たなもの誕生のために、堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶことができるのが日本人なのだと、私も信じたいと思います。

Amazon うまい謝罪


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2013.05.26

一歩ハミ出す勇気

P2013052603985_suzukinsbig 木秀樹選手優勝おめでとう!
 今日は中二の娘と、昨年末の餅つき神事以来、鈴木選手の大ファンになった高校1年生の女子を連れて、IGFのGENOME26を観戦。
 若手日本人によるイノキ・ゲノム・トーナメントで、3連勝した鈴木秀樹選手が見事優勝しました。私にとっても、高1女子にとっても素晴らしい一夜となりました。
 いやあ、ここ数回裏切られっぱなしだったIGFの興行でしたが、今日はなかなか面白かった。
 もちろん「一寸先はハプニング」という意味では、いつものIGFらしさ満載でしたけれども、それが今回はうまい具合にうねりを作るに至っていまして、高い満足感を得られました。
 それぞれの選手がある意味バラバラの個性を持ち、全く「予定調和」でない、いわば「未定不調和」な戦い模様が、ようやく大きなデザインになったような気がしましたね。
 メインの決して美しくはないドタバタ劇も、世間一般の「予定調和」に対する強烈なアンチテーゼとして、不思議と魅力的に映りました。
 その点、ドタバタの中にもピカ一の美しさを表現した鈴木選手のドラゴン・スープレックスは、実に説得力がありましたね。
 うん、プロレスは難しい。深い。改めてそんなことを思いました。これほどの「モノ」世界は、現代においてはそうそうないなと。モノノケ的な不随意さ、不如意さが、いつか美しさに昇華されるという、まあ、近代自然科学&工業&貨幣経済社会(コト社会)では考えられない現象ですね。
 裏切られ続けながらも諦めなかった私自身にも「よく頑張った!」と言ってあげたい(笑)。
 会場で配布されたパンフレットに、実に趣深い言葉がありましたね。猪木さんの新しい名言。

「一歩ハミ出す勇気」

 もちろん、踏出力。でも表現されていた「一歩踏み出す勇気」のセルフ・パロディーです。
 いや、これはパロディーではなく、明らかに進化させたものですね。
130526_igf02_pict19 「踏み出す」というのは「始める」ということです。他人ごととして批判や称賛をしているばかりではなく、自らが行動するということですね。まさに今の日本人に足りないのはこの力です。政治を取り巻く国民の様子を見ていても、それを強く感じますね。
 そして踏み出したら、次は「ハミ出す」ことが必要だと。これもよく分かるなあ。始めてみると、今度は動きを継続するために守りに入ってしまうことが多いじゃないですか。言葉だけの時(つまり踏み出していない時)と比べて、実は行動している時(踏み出したあと)の方が、ずっと常識やら伝統やら習慣やら前例やらしきたりやらに縛られてしまう。
 そこを破ってハミ出さなければ。「守破離」ですね、これは。まず守って、そこを突き破り、そして離れていく。
 たしかに「踏み出す」よりも「ハミ出す」方が、勇気が必要です。ほとんどの場合、誰も味方についてくれませんから。それどころか敵ばかりになる。馬鹿にされるのも当たり前。
 猪木さんでさえ、最近「ハミ出す」ことの重要性に気づいたわけですからね。我々凡人にとってはとんでもないエネルギーを要することです。
 でも、私は今日本気で思ったんですよ。もっと「ハミ出そう!」と。それが世の中を変革する原動力になるのなら、自らハミ出そうと。
 そんな素晴らしい決意を促してくれた今日の興行は、私にとっては本当に「神興行」でした。最初の不調和や不協和にめげず、続けていればそれがいつかちゃんと形になる…正しいと信ずる「破格」なことを、勇気をもってやっていきます。

 追伸 それにしても石井慧の試合は眠かったなあ(苦笑)。「ハミ出す」どころか「踏み出す」ことさえなかったように見えました。彼にももっと勇気を持ってもらいたいなあ。
 試合結果等の詳細はこちらでどうぞ。

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2013.05.25

『フジタイムA(リンゴ酢)』 (富士薬品)

4987524806010 泊り座禅から帰宅しまして、まず最初に飲んだのがこれです。最近ハマっている飲み物。
 3年ほど前、この製品の前身であるフジタイムG10モアを紹介しましたね。あれからずっとウチには富士薬品のリンゴ酢が常備されるようになりました。お酒の量を減らすのに非常に効果的なんです。結果として健康にもいい。
 もともとリンゴ酢というのはリンゴ酒を発酵させたものですからね。酔っぱらいはしませんが、不思議と口や体はお酒を飲んだ時のような満足感があるんですよね。これはホントです。
 その後、富士薬品のリンゴ酢は今年バージョンアップ。またまたおいしく飲みやすくなりました。
 このフジタイムAは、ホントに「酢」らしくない。あまりに酸っぱさがないので、酸っぱさが好きという人には物足りなくなったとも言えます。私は酸っぱさ苦手人間なので、非常に助かりました。
20130526_61250 もうこれは「リンゴ酢」と言わなければ、普通のジュースですね。リンゴベースのフルーツジュースという感じ。
 前の記事にも書いたとおり、特に夏場の水分補給には最高です。効果がどの程度あるのかは分かりませんが、疲労回復に効くらしいクエン酸などが豊富な上に、今回の新製品では、ええと…なんだか聞いたことがない果実が原料として使われている…レスベラトロール、ヘスペリジン、アサイー、ボイセンベリー…ブルーベリーとハスカップはさすがに知ってるか。
 ま、リンゴがあまりにメジャーな果物ですからね、こういう、ちょっとマニアックな名前を聞くと、なんとなくありがたい気がする…というのは、これは人間の特徴であります(笑)。
 さてさて、今回は初めて「リンゴ酢の牛乳割り」というのに挑戦してみました。ヨーグルト風になるというウワサを聞いたからです。
 最初はちょっと勇気が必要でありましたが…これがなかなかうまい!微妙にトロッとして、そして甘さと酸っぱさのバランスがたしかにヨーグルトっぽいぞ。よく売ってるリンゴ入りヨーグルトと同じ味だ!
 私は朝ごはん(&昼ごはん)を食べないのですが、これは朝一杯飲んでいくとことにしましょう。牛乳で薄める際も10倍くらいで充分です。お好みによって調整しましょう。おススメです。
 ジュースとしてもヨーグルトとしても一杯40円ですから、けっこうお得ですよ。

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2013.05.24

田植え&接心(子どもたちの神事&仏事)

Img_6560 士山にきれいな「農鳥」が出ました。いよいよ夏が近づいて来ました。
 今日はとっても忙しい一日。
 3年生は朝から明見の田んぼで田植え。学校では2年生を中心に学校案内の撮影。午後から夜にかけては1年生が接心という宿泊座禅行事。
 というわけで、とっても忙しかったので、子どもたちの写真と私の一言だけ紹介させていただきます。
 いやあ手前味噌になっちゃいますが、今どきの子どもたちもなかなか捨てたもんじゃないですね。
Img_6543 農鳥も出たところで、中学3年生がどろんこになって田植え。
 田植えは神事です。平和と豊穣を祈って植えます。未来(まずは秋の収穫)を夢見て今を一生懸命。
 特に早乙女は美しいですね。女神と稲作は密接な関係があります。
 ここ富士高天原でこのような神事が行われるのは、実は非常に大きな意味があるのですよ。
Img_6556 そして、それだけで終わらないのがウチの学校のスゴイところ(?)。
 めだかのいる池というか沼地にみんなで飛び込みます(笑)。これはですね、一緒にいた自然写真家の中川雄三さんによるとですね、池を撹拌することによって酸素や栄養分を行き渡らせ、めだかやどじょうの産卵や生育を促すんだそうです。
 子どもの遊びがそのまま自然の生き物たちに対する恵みになるなんて、なんか素敵じゃないですか。コンピュータやビデオゲームでは考えられない「命の循環」ですよね。
20130525_135047 さらにさらに、これはもう田植えとどんなつながりがあるのか自分たちでもよく分からんのですが(笑)、近くの明見湖(はす池)に行って、ペットボトルロケット飛ばし大会。
 これがまたよく飛ぶんですよ。林や山に打ち込んで遊びます。これもまた天と地とを結ぶ神事であります(ホントか?)。
 いや、こうして水の力、空気の力を知るんですよ。これもディスプレイ上ではとても経験できない「体感」ですよね。体感というのは「モノ」世界なんです。頭の中の「コト」ではなくて、「モノ」自体から言葉を超えて伝えられる何か。これって子どもたちには絶対大切ですよ。
Img_6604 さて、学校の方では、1年生が初めての宿泊座禅行事。
 座禅や読経や写経はもちろん、作法に則った食事や礼法講座などをひたすら無言で体験していきます。昼間の「動」に対して、こちらは徹底的な「静」。
 まあ、こういうコントラスト、メリハリ、けじめ、両面性、何事にも精いっぱい力いっぱいというのが、ウチの学校の特長でしょうか。
 実際、子どもたちは本当によく遊びよく学びますよ。一人も冷めてるヤツがいないのがいいなあ。先生も含めて全員が馬鹿にもまじめにもなれる。そんな自分たちが好きなんですよね、私たちは(笑)。
 というわけで、今日は疲れましたが、何か特別な充実感を味わうことができました。
 たぶん、神仏とつながれたからでしょう。理屈ではなく、こういう体験こそが宗教心の源泉なのだと再認識いたしました。皆さん、ありがとうございました。

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2013.05.23

快挙!80歳でエベレスト登頂…三浦雄一郎さん

Pn2013052301000891 うすごいとしか言いようがありませんね。素晴らしい。おめでとう!というよりも、ありがとう!ですね。
 学校の3階まで昇るのも億劫なほど運動不足な私。今なら富士山登頂もままならないでしょう。まだ40代の私がこれなのに80歳であの体力と気力とは…。
 もちろん三浦さんは普通ではないのは事実です。もしかすると千年に一人くらいの天才かもしれません。
 実際そんな人は人類史上いなかったわけですからね。
 体を鍛えているとか、そういう次元だけでなく、4年前、すなわち76歳の時に骨盤やら大腿骨やらを骨折する大怪我を負ったのに、そこから完全復活どころかさらにパワーアップしてしまうんですから、ちょっと恐ろしいモノさえ感じますね。
 ちなみに三浦さんは、いわゆる奥州三浦氏です。青森出身。富士北麓にも三浦氏が多くいますが、そのあたりの関係、すなわち「龍脈」については、こちらの記事にクニマスにからめて書いてありますので読んでみてください。
Int12_01_03s2 そうそう、三浦雄一郎さんと言えば富士山とも縁が深い。1966年、富士山頂からの直滑降という、ある意味馬鹿げた偉業をなしとげています。もちろんパラシュートをつけての滑降であります。
 その2年前、私が生まれた1964年には、イタリアの直滑降の大会で、時速172.084キロの当時世界新記録を樹立しました(さらにその時何度か転倒し無傷で生還!w)。
 富士山でもしパラシュートなしで直滑降したら、いったい何キロ出たんでしょうね。恐ろしい話です。
 昨年、女性73歳でエベレスト登頂という世界記録を樹立した、地元にお住まいの渡辺玉枝さんのお話をうかがいました。その時の記事にも書きましたけれど、こういうのって、やっぱり超能力なんですよね。
 はなっから無理だと諦めてしまうのが普通なのに、それをまるで日常のように、当たり前に「やってみよう」と思って実際実現してしまう。そのスタートの時点が我々と違うわけです。
 これは、「時間は未来から過去へと流れている」という私の時間観からしますと、「過去に縛られず未来に良いイメージを投げる」能力とも言えそうです。
 考えてみれば、常識や一般論というのは「他人の過去」の集積ですからね。実は自分にとっては何の原因にも成り得ない。
 そんな三浦さんや渡辺さん(どちらも富士北麓と東北と水に関係している落人だな)たちから刺激を受けて、私もとんでもない高いところへ登頂しようかと目論んでいます(笑)。いや、もちろん山じゃないですよ。
 諦めない…というか、「普通にできるんじゃない?」的なノリで行っちゃおうと思います。そんな天才バカボン(のパパ)みたいになりたい、いやなるんだと妄想する今日このごろであります。
 

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2013.05.22

方丈記より「治承の辻風」

K10047470611_1305212315_130521231_2 メリカオクラホマの竜巻、大変な被害のようです。被災された方々に心から哀悼の意を表します。
 日本でも竜巻の発生頻度が高くなっていますが、日本独特の地形や気象環境からして、さすがにこの規模のものはそうそう発生しないでしょう。
 日本は自然災害の多い国だとも言える一方、その規模はそれほど大きくはならない傾向があります(もちろん東日本大震災のようなこと千年に一度ありますが)。
 そのあたりの「荒魂」と「和魂」のバランスこそが日本の文化を作ってきたとも言えそうです。
 ちなみに「竜巻」という日本語はそれほど古い言葉ではありません。意外と言えば意外な感じがしますが、近世江戸時代から使われだしたようです。
 では、それまでは何と呼ばれていたかというと、「旋風(つむじかぜ)」「辻風(つじかぜ)」だったようですね。
 こちらは日本書紀や日本霊異記に見られますから、かなり古い和語ということになります。
 実際の「辻風」の被害の様子を記したものとしては、かの鴨長明の方丈記が有名ですね。
 今日はその部分を紹介しましょう。これは治承四年(1180年)旧暦4月29日に京都で発生した大型の竜巻による被害の状況を記録したものです。
 新暦になおしますと、5月25日ですから、ちょうど今頃の季節ですね。
 では、お読みいただきましょう。分かりやすい文なので現代語訳は不要だと思います。

 
 また、治承四年卯月のころ、中御門京極のほどより大きなる辻風起こりて、六条わたりまで吹けることはべりき。
 三、四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり、桁・柱ばかり残れるもあり。門を吹きはなちて四、五町がほかに置き、また、垣を吹き払ひて隣と一つになせり。いはむや、家のうちの資材、数を尽くして空にあり、檜皮・葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ゆる。家の損亡せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身をそこなひ、かたはづける人、数も知らず。この風、未の方に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。
 辻風は常に吹くものなれど、かかることやある、ただごとにあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひはべりし。


 京都の町をおよそ2キロにわたって竜巻が通過したようです。建物の被害だけでなく人的被害も出たと記されています。
 最後の部分、竜巻は頻繁に発生するが、これほどの規模のものはなかったという意味です。治承年間は天変地異が多発しました。大地震、巨大彗星出現、そして竜巻。養和に改元してからも超新星、飢饉(異常気象)など、天変地異は収まりませんでした。
 神仏の怒りか諭しかと、当時の人々は強く不安に感じたことでしょう。
 

 

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2013.05.21

歴史認識…歴史と認識の多様性

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 しか昨年末、今年中に民主党と日本維新の会はなくなると予言しましたけれど、どうなるでしょうね。
 民主党はすでに虫の息。維新も東西分裂の兆し。いずれにせよ野合は長続きしないということでしょう。
 さて野合と言えば、歴史認識に関しても二党はずいぶんと多様なようです。
 上の表は東西維新の歴史認識の温度差を明示してくれています。
 私は橋下さんや石原さんやその他の御仁のように野暮ではないので、ここで自分の歴史認識を述べることはいたしません。
 だいたいが、「歴史認識」とはまさに「歴史認識」であって、歴史の事実ではない。認識というのは個人的な問題であって、いわば青信号の色を青ととるか緑ととるかというようなものです。
 それも「過去」に関すること、それもここでいう「歴史」は「近過去」のことに限定されますから、いくら仲間内だとしてもそれを共有、一元化することには相当な無理があると思います。
 今日は地元のある所でリアルな証言を聞いて来ました。戦後すぐこの富士北麓に米軍が進駐した時のことです。今でも駐屯地があることから分かりますとおり、ここは特別な地域です。
 その時、その米兵相手の娼婦たちが全国から列をなして集まっていたと。まあそれは事実でしょう。別に不思議なこと、驚くべきことではありません。当地のお年寄りはみんな知っていることです。
 では、それをどう捉えるか。それはそれぞれの「認識」の問題です。そして、そのそれぞれの「認識」をもって他者を責めるのか、それともそれ以前に彼女らに同情するのか、さらには彼女らの行為を尊いものとするのか、あるいはそれらを複合させるのか、それもまた人それぞれであって然るべきです。
 いろいろな選択肢が、それこそ個人の数だけあって当然なわけです。その際の米兵や娼婦たち個人にも、それぞれの「認識」があり、それに基づいた行動や感情があった。その全てが正しい「歴史」であると、私は「認識」しています。
 私は「時間は未来から過去へと流れている」という考え方、さらにはそれを超えた仲小路彰的な(すなわち球体的な)時間観を持っていますから、我々があまりにも後向きに未来に入っていくのには違和感を覚えます。
 過去に学ぶこと、あるいは反省すること、謝罪すべきところは謝罪することは、もちろん大切ではありますが、先ほど書いたような「過去の無限の多様性」と「過去の不可塑性」をもってすると、あまりに「認識=コト」にこだわっていては、未来の創造に際して障害が生じると思います。
 「認識」にこだわると、それはいずれ善悪二元論という最も多様でない形態に陥ります。つまり、原理主義対原理主義になってしまう。そこには間違いなく「争い」しか生じません。
 まあ、その「争い(戦争)」がカネになってしまうから恐ろしい世の中なんですけどね(苦笑)。
 様々な「認識」、そして様々な「歴史」という、我々の世界の当たり前の本質(モノ性)を見つめれば、局所的な解釈やそれに則った衝突(コト性)など、実に馬鹿馬鹿しいということに気づくでしょう。
 私たちは、時々後ろを振り返りつつ、やはり基本は前向きに未来に入って行かなければならないのです。安倍総理の優れているところは、実は非常に未来志向であるところです。皆さんお気づきになっていないかもしれませんが。
 「日本を、取り戻す」が前向き?…そのことに関してはいずれ時期が来たら書きます。今日はこのへんにしておきましょう。
 

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2013.05.20

憲法(案)前文の比較

 ずは参考までに保守派の皆さんの議論を3時間ほどどうぞ(笑)。仲間うちでもこれなのだから、やはり大変でしょうね。

 世間一般でも憲法改正論議がだいぶ盛り上がって来ました。結構なことです。安倍さんの功績の一つと言っていいでしょう。
 私は何度も書いているように、憲法は改正ではなく改訂でよいと考えています。一部改訂。そして、その改訂への手続きを常識的に正常化するのは当然だと思います(たとえば倉山満さんが言う7条の「誤植」などはさっさと直した方がいい)。
 なぜなら、「改正」は現実的に大変困難であると考えるからです。全体の見直しや自主憲法制定はほとんど不可能と言っていいほど難しい。
 また、こう言うと間違いなく誰かに怒られますが…私にとっては「憲法」は国家にとって重要なものに違いないけれども、個人にとってはそれほど大きな影響力を持つものではありません。
 憲法を読んで自らの思想や行動を規定している国民がどれほどいることやら。だいいち、どのくらいの人が憲法を読んで理解しているのでしょう(もちろん、それでいいと言っているわけではなく、自分への自戒もこめての発言です)。
 まして外国の方が日本の憲法を読んで「みっともない」とか思うのでしょうか。よく分かりません。
 まじめに憲法について考えると、どんどん「言葉の罠」にはまっていきます。私の言う「コト」世界に拘泥する者どうしのスケールの小さなケンカになってしまう傾向がある。
 そういう意味では、今「自主憲法を!」と叫んでも、はたしてそれが可能なのか。無知、無関心、無意識層と、国家観・国体・国柄に異様にこだわる改憲派と、もう一方の理由なき護憲派と、はたして多数決をとったらどうなるのか。
 おそらくは第一の層に、あとの二者がどう働きかけるかの戦いになってしまい、結局は長年続いてきた「コト」世界のケンカが移写拡大されるだけでしょう。
 さあ、そうならないために私たち第一の層は何をすべきなのか。せめて現行憲法の前文くらいはちゃんと読んで、そうして「こりゃ改憲は大変だ」と思う必要があるでしょうね。
 そんなわけで、今日は三つの「前文」を並べて読んでみたいと思います。現行憲法と自民党の改正草案、そして産経の国民の憲法です。
 正直、前文の改正(改訂)が一番大変でしょう。誰が完璧な日本語で完璧な前文を書けるのでしょう。
 私は実のところ、安倍さんが「みっともない」と評した現行のなんちゃって日本語による意味のよく分からない(しかし、文学的にはいろいろ解釈できる)現行の前文が嫌いではありません。国譲りの本質を表してるし。
 では、どうぞ。それぞれよく味わってみてください。そしてツッコミを入れてみてください。その時の自分の気持ちを客観的に比べてみて下さい。
 なお、大日本帝国憲法の告文もぜひ読んでいただきたいのですが、文語体で我々現代人には難解なため今日は割愛します(またいつか)。


「日本国憲法前文」 

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。


「自民党改正草案前文」

 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。


「産経 国民の憲法前文」

 日本国は先人から受け継いだ悠久の歴史をもち、天皇を国のもといとする立憲国家である。
 日本国民は建国以来、天皇を国民統合のよりどころとし、専断を排して衆議を重んじ、尊厳ある近代国家を形成した。山紫水明の美しい国土と自然に恵まれ、海洋国家として独自の日本文明を築いた。よもの海をはらからと願い、和をもって貴しとする精神と、国難に赴く雄々しさをはぐくんできた。
 日本国民は多様な価値観を認め、進取の気性と異文化との協和によって固有の伝統文化を生み出してきた。先の大戦による荒廃から復興し、幾多の自然災害をしなやかな精神で超克した。国際社会の中に枢要な地位を占め、国際規範を尊重し、協調して重要な役割を果たす覚悟を有する。
 日本国は自由主義、民主主義に立脚して、基本的人権を尊重し、議会制民主主義のうえに国民の福祉を増進し、活力ある公正な社会を実現する。国家の目標として独立自存の道義国家を目指す。人種平等を重んじ、民族の共存共栄をはかり、国際社会の安全と繁栄に積極的に貢献する。
 われら日本国民は、恒久平和を希求しつつ、国の主権、独立、名誉を守ることを決意する。これら崇高な理想と誇りをもって、ここに憲法を制定する。

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2013.05.19

「祈り」と、そして…

2013sopp_1 晴らしかった。しかし…。
 富士山西麓の富士聖地におきまして執り行われました「世界平和交響曲…Symphony of Peace Prayers 宗教・宗派を超えて、共に世界の平和を祈る」に参加してまいりました。
 ここ数年、大変お世話になっている方からお誘いをいただき、今回が初めての参加。
 せっかくですから、地球平和の象徴とも言うべき我が家の耀わん「十和田」を携えて富士聖地へ向かいました。
 富士聖地とは、「世界人類が平和でありますように(May Peace Prevail on Earth)」のピースポールで知られた白光真宏会が1980年に開設した「祈りの場」です。
 もちろん私はその存在は知っていたものの、白光の信者ではない私が入れる場所ではないと勝手に思い込んでいること30年以上。ある意味ではようやく足を踏み入れることができました。
 私は比較的気の流れのようなものを感じやすい体質、特に富士山のそれに関してはかなり熟練している方だと自覚しています。やはりこの聖地には特別なエネルギーを感じましたね。最初は違和感があったほどです。
 しかし、セレモニーが進行するにしたがって、いつにない平穏な気分が私の心に訪れるのが分かりました。
 セレモニー前半のメインは各宗教・宗派の祈り。
 仏教(日蓮宗)、イスラム教(スーフィズム)、ヒンズー教、神道、ユダヤ教、キリスト教、シーク教、そして白光真宏会のそれぞれの導師たちが、その神髄と平和について語り、そしてそれぞれの作法で祈りを捧げます。会場に集った1万人近い人々も唱和します。
 私はそれぞれの宗教についてそれぞれ興味があり、それぞれの感想を持ちましたが、今日はそのような個人的な関心は重要ではありませんね。
 まさに交響…それぞれの宗教宗派の多様性と共通性が、人々の魂を通じて響きあったという事実に、(月並みな言い方になってしまいますけれども)感動いたしました。
 後半のメイン、世界各国語による世界各国の平和の祈りは新鮮でした。正直楽しかった。200近い国のそれぞれの言葉を実際声に出すわけですからね。もちろんそんな体験は初めて。
 カタカタを追いかけるだけでも大変でしたけれども、そんな中で、全く知らない国名や知らない言語、そして国旗にたくさん出会いました。さらに、いくつもの言語を持つ国、あるいは列強国の言語を使っている小国、さらにはクレオール言語など、世界史の一端を体感することができました。
 たしかにこのような「祈り」は画期的ですね。もちろん文法も語彙も分からない外国語ばかりですが、カタカナで発音するにしても、そこには「言霊」が宿ります。それを富士山から世界へ発信しているだけでも、これは大きな意味があると感じました。
 全体として、本当に素晴らしい「場」を創りだしていたと思います。自らの魂も浄化され、神仏や自然の御加護のもと人間に生まれ生きていることの幸福を感じられる体験でした。
 たしかにあの場だけを見れば、実に平和で穏やかな世界であったと思います。この場が広がっていけば、いつか世界平和は実現するのではと感じました。
 しかし、私にはもう一つの強い思いが生まれていたのです。あえて私はそれをここに書きたいと思います。
 「祈りだけでは世界は変わらない」
 もしかすると、これはあの場で禁じられているネガティブな思念だと判断されるかもしれません。そう捉えられてもしかたがないほどに、あの場は純粋に美しく平和だった。
 私はあえてその中の「荒魂」の役割を果たしたいと思います。
 「祈る」という行為にはある種の危険も伴います。それは陶酔と自己満足です。
 人類はずっと祈り続けてきました。何千年も、いや何万年も。しかし、いまだにこの世界には憎悪や嫉妬や搾取や争いが絶えません。それもまた事実です。
 あの「祈り」を現界の変化につなげる具体的な方策や行動がなければ、やはり片手落ち(あえてこの言葉を使います)なのです。
 「祈り」の陶酔と自己満足は、そうした本質を見失わせる危険性を発揮するのです。
 もちろん、あの会場にいらっしゃった、私などよりもずっと魂のレベルの高い方々は、そのことを意識されていると思いますが、「祈り」の対象たる「世界」にそれがしっかりと照射されているかどうか。私は少なからず不安に思いました。
 政治、経済、科学…そういった「体」の世界と、祈りや魂という「霊」の世界をどうやって結ぶのか。実はこれが私の最近の最大の課題です。そして、その術を書き残してくれた先人、すなわち出口王仁三郎や仲小路彰に出会い、今それを勉強させていただいているところです。
Img_6534 ところで、白光真宏会を創立した五井昌久さんは、間接的にではありますが、出口王仁三郎の影響を受けていると言えます。
 特に「万教同根」「神人一致」の教えは非常に近いものを感じますね。そういう意味で、今日、王仁三郎の耀わんがあの場に「いた」というのは大きな意味があると思います。
 会場で出会った多くの方々(初めての方や再会の方)に、耀わんでお水を飲んでいただきました。
 セレモニー終了後、来賓としていらしていた大本信徒連合会の出口孝樹さんや、マヤの叡智研究の柳瀬宏秀さん、映画監督の白鳥哲さんと再会し、耀わんともどもご挨拶させていただきました。
 僭越ながら、私が王仁三郎や仲小路彰から学んでいることが皆さまに伝わればと願うばかりです。
 王仁三郎は「宗教がなくなる世」を理想としました。これは、ある意味では現実社会だけでもしっかりやっていける世の中のことです。
 「宗教・宗派を超える」…それは真のみろくの世への第一歩に過ぎないのでしょう。私たちはそろそろ次の一歩を踏み出す時に来ているようです。

USTREAMで観る

SOPP公式

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2013.05.18

郡内と植田は富士の裾廻し

Bkqgwphcmaazzsm 植えの季節となりました。我が校でも来週明見で田植えをします。
 今日はそんな季節の風景を詠じた川柳を一つ紹介します。誹風柳多留の中にある句。

 郡内と植田は富士の裾廻し

 郡内とは郡内織物のことです。江戸時代、絹織物と言えば「ぐんない」と言われたほどの人気商品でした。
 今でも富士吉田を中心とする郡内地方では織物業が盛ん…というか、なんとか生き残っていますね。フジファブリックの名前のもとになった富士ファブリックさんもそんな会社の一つです。
Koshu04 郡内とは「郡内海気」の略。「海気」とは大陸から伝わってきた絹織物の種類を指す言葉でした。
 のち、甲斐の国、特に郡内地方での生産が盛んになって「郡内海気」が評判となり、そのうち「ぐんない」と言えば高級絹布地の代名詞になりました。
 郡内の絹織物の技術は、秦の始皇帝が不老不死の薬を求めさせたというあの徐福が伝えたと言われています。もしそれが本当なら、たしかに日本で最も歴史の長い絹織物だと言えそうです。
 江戸時代には徐福ブームもありましたから、それで郡内織も評判になったのでしょうね。
 川柳というのは大衆性が必要です。ということは、この句が作られた19世紀初めには、全国で「郡内」と言えば「高級布地」というイメージが定着していたということですね。
 ちなみに「甲斐絹」という表記は、明治以降の言わば商標です。
 植田はたぶん田植えの終わった田んぼを指すものだと思います。苗の並ぶ平坦な造形が、なめらかな郡内織物を思わせたのでしょう。
P_douhati2 裾廻しというのはいわゆる「八掛」。写真をご覧いただけば分かるとおり、胴裏が富士山だとすると八掛は裾野のようですよね。
 このデザインのアナロジーと、郡内と言えば富士山というイメージとを、実に見事に詠んだ句だと言えます。
 植田は今も江戸時代と同じように望むことができますが、郡内はちょっと元気がない。
 最近、織物の研究をされている方とお話する機会があったのですが、これからは伝統的な手織りが復活するのではという話をしました。
 紡ぐ、撚る、織る、晒す、染めるなどの行為に潜む「神事」が復活するのではないかということです。
 ぜひ郡内織物もそういう意味で復活してほしいと願っています。私もなんらかの形でお手伝いできればと思います。

ふじやま織

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2013.05.17

安倍総理「成長戦略第2弾スピーチ」

 日の安倍総理のスピーチはなかなか良かった。政治家は「まつりごと」の基本は、民の心を無理やりにでも動かすことです。祭というのはそういうことです。
 たとえば、アベノミクスという「言葉」には「お囃子」効果があるわけです。あるいは憲法改正論議もそうです。戦後ずっと硬直化し無意識化していたモノを、コトを使って眠りから覚まさせるのです。
 結果9条なんか変わるわけないのですが(その理由はどこかに書きました)、ただ論議は必要なのです。
 ここのところずっと私が書いてきた1%の荒魂の働きによって99%の和魂が活性化するんです。
 ある意味「政治」とはそういうものなのですね。ハッタリでもなんでもいい、コト(言霊)によって総体たるモノを突き動かし、世界の生命力を保つのです。
 そういう意味において今回の安倍さんのスピーチは良かったと。エンジンのスターターたる「集団気分」を動かすには充分だなと。
 もちろん、エンジン始動後が大切なのは当然です。しかし、一方でどんな優れたF1エンジンも、始動しなければただの屑鉄です。最初の発火は大切なのです。
 ぜひ全編ご覧ください。具体的な「コト」がたくさん示されています。ユーモアというエンジンオイルもいい感じですよ。
 もちろんツッコミを入れながら聞くのもいいものです。ツッコミもまた大切なスターターですからね。

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2013.05.16

『日本が世界一「貧しい」国である件について』 谷本真由美 (祥伝社)

Imgres れはどうなんでしょうね。なんともいやな読後感。かと言って、ある意味間違ったことが書いてあるのではない。
 これはですね、日本を知る本というよりも、欧米を知る本と考えた方がいいでしょう。「日本」を「イギリスやドイツ」に読み替えて、「貧しい」を「豊か」に読み替えれば、立派な欧米礼讃本となります。
 まあ、まるで文明開化後のある一派のような、なんともアナクロな比較文明論とも言えますね。
 それがけっこう評判で売れているというのは、実際にこういう価値観、視点で日本を改革したいという一派がいるということなのか、それとも、今まで百年以上もずっと語られてきたこういう文明開化論を知らないで、それこそ明治初期みたいなカルチャーショックを受けている一派がいるということなのか、はたまた、それを忘れてしまっている一派がいるのか、どれなんでしょうね。
 私は「和魂洋才」派なので(笑)、正直これを読むとイライラすることの方が多かったわけです。たとえば日本の祭や風習(餅を食べることとか)を、ああいうふうに単なる合理主義と実利主義でバカにされると、内なる大和魂がフツフツと沸騰して、思わず「は〜?」と独り言を言ってしまいます。
 もしかすると、それこそが著者の目論見であって、私はそれにまんまと乗ってしまっているのかもしれませんけどね(苦笑)。
 そう、ここのところのテーマである「荒魂」と「和魂」の話にもつながります。カーッとなることによって、日常に埋没した自分のベースメントを思い出し、かつ大切にするようになるということが実際あるし、必要だったりする。
 そういう意味では、先日紹介した『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』と両方を読むとバランスがいいのではないでしょうか。
 竹田さんの本では、なるほど〜やっぱり自分っていい子なのねと褒められていい気になって、それで終わりになってしまう可能性もあるわけですよ。
 考えてみると、私は一見自分の敵と思われるような人や文物とも好んで交流するようになりました。けっこう最近のことですが。
 そこでの衝突や葛藤が愛を深くするということがあるんですよね。それが実体験で分かった。
 みんな仲良くというようなきれいごとではなく、どちらかというとプロレス的な発想です。
 人によっては、この本をペラッとめくっただけで、あるいはレビューを読んだだけで、「こんなとんでもないもの」と決めつけて、読みもしないで批判、嫌悪する人もいるかもしれません。
 私は、できればそういうふうではなく、不快感を味わったとしても、その不快感の種が何なのか、自分のどういう所にどういうように根ざしているのか、どこから来たのか、そういうことを知りたいと思っているのです。
 そういう意味では、久々の刺激的な良書であったと思います。

Amazon 日本が世界一「貧しい」国である件について

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2013.05.15

安倍晋太郎さんの命日に思う。

Images 日は安倍晋三総理のお父様安倍晋太郎さんの命日です。安倍晋太郎さんは1991年5月15日にすい臓がんでお亡くなりになりました。
 思えば、5月15日は沖縄返還の日ですよね。1972年のことです。沖縄返還の立役者は安倍晋太郎さんのおじさんにあたる佐藤栄作さんですね(もちろんその裏側には仲小路彰氏がいます)。
 そんなわけで安倍晋三総理にとっては思い入れのある特別な日ではないでしょうか。
 さらにこじつけますと、2000年の5月15日には安倍さんの私淑する森喜朗さんが「神の国」発言をしました。私に言わせれば、あの場でのあの発言のどこが問題なのか、よく分かりません。アメリカ大統領と同じレベルの発言ですよね。今思えば某マスコミ得意の罠にはまってしまったとも言えそうです。
 以前安倍総理のお話をうかがった際、森さんは実に細かい気遣いをされる方だとおっしゃっていました。森さん、プロレスファンとして会場でレスラーとやり合うあたりもいいですね(野田さんのプロレスファンレベルとは違います)。
 それから時代をさかのぼれば、そう、言うまでもなく「五.一五事件」の日ですよね。1923年犬養毅首相が暗殺されました。
 犬養毅の三男健氏は、造船疑獄の際、指揮権を発動して佐藤栄作さんの逮捕を回避した方です。不思議な縁がありますね。
 もっともっと、いきなり今から1420年さかのぼりますと、593年5月15日、聖徳太子が推古天皇の摂政となりました。
 最近の私のテーマは安倍晋三さんと聖徳太子です(と言ってもよく分からないと思いますが)。これまた私には特別な符合のように感じるのであります。
 安倍晋太郎さんはお元気であったなら総理大臣になったかもしれません。もしそうなっていたら、また日本の現在も変わっていたかもしれませんし、逆に晋三さんが二度も総理大臣になれたかどうか、これも微妙です。運命というのはそういうものなのでしょう。
20130516_64331_2 昨日あたりから、北朝鮮での飯島勲さんの活動が報道されています。先ほどのニュースでは、さっそく第1書記の側近と会談したとのこと。安倍首相も拉致問題の解決につながるのなら首脳会談もありと発言していますね。
 私はこちらにも書いたように、横田めぐみさんと同い年の幼なじみです。
 45年ぶりの再会の時も話題に出ましたが、横田めぐみさんのご両親も、今回の安倍政権には大きな期待をされています。もちろん私も毎日のようにめぐみさんが帰ってくることを祈っています。実は2月にはめぐみさんが夢枕に立ったんです。その時のメッセージを私は昭恵夫人にお伝えしてあります。
 総理はじめ皆の信念がいよいよ実を結ぶ時を迎える…。国際的には、たとえば米韓は日本のスタンドプレーをよく思わないでしょう。しかし、それをはねのけてでもやらねばならないことがあるのです。真の政治家として、場合によっては一時的な国際関係よりも国民の命を救うことを優先することがあってしかるべきです。
 この問題に関して、おそらく米中韓よりも、モンゴル、ロシアのルート、特にモンゴルの果たす役割は大きいと感じます。そういう意味で、安倍総理の舵取りは間違っていないと確信しています。
 そんなわけで、今日平成25年5月15日は歴史の静かな転換点になっているかもしれません。私はそう感じました。
 


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2013.05.14

最近の富士山について

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 朝の富士山です。ここ1週間でだいぶ雪解けが進みました。それでも今年は残雪が多めです。降雪量が多かったのと、寒さのぶり返しの影響でしょう。
 北西側の雪解けが早く進むのは、おそらく西風によるものだと思います。これは毎年の傾向で、地熱が高いからとか、そういうことではありません。
 山上の雲が影を作っていて、なんとなく珍しいデザインの富士山ですよね。これはこれで趣があります。決してカレンダーや絵葉書にはならないリアルな富士山の姿の一つです。
 私は太宰と一緒で(?)、おあつらえ向きの富士山(風呂屋のペンキ画)よりも、こういう自然体の富士山が好きですね。
 さて、次に私が計測しているラドン濃度のグラフをご覧いただきましょう。最近の富士山のご機嫌がよく分かります。

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 今までの最大値は38、最小値は8、平均値は20。私が経験的に設定している平常値範囲は13〜22ですので、ここ1ヶ月ほどの数値がいかに安定しているか分かりますね。
 私の経験的仮説は、ラドン濃度の山の登り口から2〜3週間後に東日本で地震が発生するというものです。
 ご覧になって分かるとおり、実際4月10日付近のピークのあと2週間後の24日付近からは地震(グラフにあるのはM4.5以上)が非常に少なくなっています。富士山を含めた東日本全体が静穏だということですね。
 ラドンの計測を始めた2011年秋以降、このような静穏期は初めてです。
 かの大地震の影響は、全体としては収束、静穏化の方向に進んでいるのです。これは当然と言えば当然。
 しかし、一方で広義の余震活動は今後10年以上続くものと思われます。いつも書いているように、私の考える「最大余震」もまだ発生していません。
 忘れた頃に…ということにならないよう、このラドン濃度の計測を続けてゆき、大きな異変や兆候はしっかり捉えていきたいと思います。
 世間では富士山の噴火がどうのこうのと言われていますが、たとえば、河口湖の水位の低下や滝沢林道の亀裂は、間違いなく(長期的&短期的)気象性のものです。
 富士山本人としっかり対話するところから始めなければなりませんね。

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2013.05.13

「長州力 vs ジャンボ鶴田」に見る和魂

20130514_105036 日はジャンボ鶴田の命日。あれから13年ですか。
 我が山梨県の誇るモノノケ。まさに怪物。しかし、なぜか「優しさ」を感じさせるという、いかにも日本昔ばなし的な存在でもありました。
 最近の話題に関連させて言うなら、「99%の和魂(にぎみたま)と1%の荒魂(あらみたま)」ということになるでしょうか。
 プロレスは本来、荒魂のぶつかり合いが主となって、そこに結果として和魂が浮き上がってくるという性質のものです。
 そんな中、鶴田さんは異質と言えば異質でしたね。先日プロレス同人誌の発行者の方と話した時も、「鶴田にはある意味裏切られ続けた」という話が出ました。
 もちろんそれは逆説的に「期待」や「夢」を抱かされ続けたとも言えます。いつか本気の鶴田を見られる、いつか鶴田の怒りを見られると。
 たしかに時々彼は本気を出しました。出させられました。恐い鶴田を誰が引き出すか、それも一つの楽しみでした。
 いつもは静かで穏やかで美しい富士山が、時として恐ろしい噴火を起こすのと同じです。富士山はそういう本質を内包して平和なのです。単純な平坦な静けさではなく、何かが鎮められた静けさ。
 昨日の話で言えば、天皇もそうでしょう。天皇の怒りは想像できないかもしれないけれども、しかし間違いなく可能性としてはあるという実感がある。
 人間というのは、そういうモノの発動を待望するような不思議な一面も持っているんですね。変な話、私は富士山の噴火というのを体験してみたいとも思っている。富士山本気出して驕り高ぶった人間どもをビビらせてくれとも思っている(不謹慎でしょうか)。
 そういうモノを封じ込めて、私たちの日常があるわけです。そしてそこには祈りがある。実は日常が危ういモノであることを予感しているからこそ祈るのです。そして、どこかで祈りの限界も知っている。その微妙なバランスに信頼して生きていくしかないのです。
 話がだいぶ飛びましたが、今日はそんなジャンボ鶴田の「和魂」の名勝負、対長州力戦を皆さんにもご覧いただきたいと思います。
 私はこちらに書いたように、完全版ビデオを入手して時々観ているのですが、最近YouTubeでも観戦できるようになったので、皆さんもぜひ。
 ここに表現されているのは、間違いなく鶴田の和魂です。荒魂の発現の期待は、ある意味大きく裏切られましたが、しかし、結果として彼の内包する荒魂は永遠に語られることになりました。
 隠すことによって永遠化する。ここ数日の「国譲り」の理論ですね。もちろん対戦相手の長州力が一番その隠されたモノを体感したでしょうし、観戦する私たち、あるいは他のレスラーたちもしっかり受け取って継承していくことになったでしょう。

長州力 vs ジャンボ鶴田 その1
長州力 vs ジャンボ鶴田 その2
長州力 vs ジャンボ鶴田 その3
長州力 vs ジャンボ鶴田 その4

 何回か、この映像を世界的な格闘家の方々と観ましたが、皆さん「すごい…」とおっしゃるのみです。実戦を知っている人たちからすると、このレベルで60分間戦い続けることだけでも、もう怪物、モノノケだということでしょうね。
 そして、やはり鶴田の勝ちであると。全体を通じて長州が呑まれていると。なるほど。最後鶴田のボストンクラブで終わっているのも象徴的ですね。
 先日引退した小橋建太選手とはまた違った「最強」「絶対王者」ぶりを見せてくれた鶴田さん。彼の和魂と、昇華された荒魂は永遠に語り継がれますね。本当にすごいレスラーでした。


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2013.05.12

『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』 竹田恒泰 (PHP新書)

Picbooknihonwanazel2 日も東京へ行ったんですが、またまたとんでもない所でありえない人とバッタリ会ってしまいました。
 ある意味、その人はそんな所に絶対にいない人だったのです。
 まあ事情を聞けばなるほどとも思ったわけですが、それにしてもなあ…駅とか店とかじゃ分かりますよ。それがたまたまトイレに寄った千駄ヶ谷鳩森八幡神社ですから。
 あまりにシンクロニシティが多すぎて、いよいよ私もやばいんじゃないかと心配…いや、楽しみになります(笑)。
 さて、東京に向かう前、朝まである知り合いが我が家にお泊まりになっておりました。その方とも昨夜飲みながら、そしてプロレスを見ながら語り合ったんです。「天皇」の存在について。
 天皇と言うべきか天皇制と言うべきか、それも難しいところですけれども、私としては「天皇」は日本の象徴として、竹田さんの、いや北野武さんの言うとおり、「はなからいる」存在です(そう、この本で一番面白くためになるのは竹田さんとたけしさんの対談です)。
 それはちょうど富士山と同じ。天皇制反対とか、天皇を認めないとか、それって私にしてみると、富士山反対、富士山をなくせ!と言っているように聞こえるんですね。
 日本の象徴としては全く同じだと思うんです。いや、かたや山でかたや人間ではないかと。そのとおりです。しかし、この竹田さんの本の中でも強調されているとおり、人間も自然から生まれたんです。つまり自然の子どもだから自然の一部に決まっています。
 富士山と我々人間を同列に「神」として尊重してきたのが、日本の神道というか哲学だったわけじゃないですか。
 私はいわゆる右翼ではないので、左の皆さんとも大変仲良くさせていただいています(逆に右の人には構えてしまうかも)。
 いや、考えてみれば、右も左も自然だし神だし(笑)。
 まあとにかく日本の「和の精神(和魂)」の象徴が富士山であり、天皇なのです。そして、昨日、おとといの記事に書いたようにですね、和魂の浄化、高次元化のためには1%の「荒魂」が必要なんです。
 戦後、天皇に対する批判となっているのは、その必然的な荒魂の発現の部分についてなんですね。ですから全然全体像をつかんでの議論ではない。
 もちろん私も全てを理解しているわけではないし、ここ数日の「国譲り」論も全くの試論なわけですが、それでも、こうしてあえて発信していきたいんですよね。
 しかし、基本私は、「象徴」とは無意識的存在であるべきだと思っています。富士山も天皇も。
 ですから、こうして竹田さんが「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか…それは天皇のおかげ」と声高に主張することに対しては、なんとなく違和感を持つのも事実です。
 一昨日の記事で「第六の国譲り」はもう始まっていると書きました。昨日の小橋選手の記事を読んだ方は、あの興行のことかと思ったかもしれません(笑)。実は違います。
 「第六の国譲り」は日本の象徴の発動かもしれません。えっ?富士山噴火?いえいえ…それは、まだナイショです。
 
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2013.05.11

ありがとう!小橋建太選手

2013051200000015spnannex0001view さに「国譲り」。荒魂が昇華されて和魂となった瞬間でした。
 素晴らしい引退興行。神事としてのプロレス。人生を映す象徴としてのプロレス。やはり今の世の中に必要なのはプロレスだと再認識しました。
 こういう神話的世界を八百長だとか茶番だとか言えてしまう現代社会の方が病んでいるのです。魂の崇高さや、命懸けの体現、そして物語を失った私たちの心がいかに渇いてしまっているか。
 プロレスは狼藉者たちの祭。いろいろな狼藉者(荒魂)がいる中で、明らかに小橋選手は異質な存在でした。狼藉者というにはあまりに実直で努力家。後にも先にもそういうレスラーは小橋建太ただ一人です。
 そういう意味では百年どころか千年に一人の逸材であったと思います。
130511_kak_kobashi_main_pict38 そんな神の、見事なまでの「国譲り」の儀式でした。まさに魂(スピリット)の伝承が執り行われたと感じました。
 ノアのエメラルドグリーンのマットに、団体や様々な事情を超えたオールスターが大集合。まるで出雲大社に神々が集まる「神在月」「神在祭」のよう。
 出雲大社の神在には、国津神だけでなく天津神も来ると言われていますよね。今日は、ノアと全日本の歴史を乗り越えただけでなく、ノアを出ざるを得なかった神々も出場していましたし、もっと言えば、亡くなった馬場さんや鶴田さん、そして三沢さんもその場にいたのではないでしょうか。
 私にとってプロレスとは、まさに「荒魂」の昇華の神事です。その結果、私の「和魂」は澄み切り、生命力を増すのです。
20130512_83557 今日は本当は武道館で生でこの神事を観戦したかったのですが、どうしてもチケットが取れませんでした。しかし全編をテレビで体験することができ充分に幸せでした。
 実は先日、日テレさんから電話が来て、ある小橋関係の番組への出演を打診されました。いろいろお互いの都合もあって結局それは叶わなかったのですけれども、私の気持ちは伝わったと思っています。
 小橋建太選手、本当に今までありがとうございました。ケガや病気だけでなく、様々な苦難を不屈の精神で乗り越えてきたあなたを、私は心から尊敬しています。
 私もこれから何かの壁にぶち当たった時は、「青春の握りこぶし」でそれを乗り越えていこうと思います。そして、微力ながらその魂を継承していきたいと思います。
 本当にご苦労様でした。これからの小橋さんの青春にも期待します。

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2013.05.10

出雲大社の遷座祭に思う…「国譲り」とは

2013051000000108mai0007view 日、出雲大社では本殿遷座祭が執り行われましたね。
 しばらく仮住まいされていた大国主神がリビルドされた本宅にお帰りになったということです。
 皆さまご存知のとおり、本年平成25年は、出雲大社平成大遷宮と伊勢神宮式年遷宮とが重なる特別な年です。
 その二大遷宮のクライマックスの一つが今日行われたわけです。ちなみに伊勢神宮の遷座は10月。
 そんな記念すべき日にちなんで、今日は「国譲り」の本質について私論を述べようと思います。
 私は日本の歴史において行われた次の5回の国譲りを重要視しています。
 第一は日本神話における大国主大神による天津神への国譲り。出雲大社の起源にもなる神話ですね。
 この国譲りの本質は「和魂(にぎみたま)」にあります。
 日本の神々(すなわち自然とも言えます)には、災厄(災害)をもたらす荒々しい一面と、恩恵(豊穣)をもたらす愛情深い一面とがありますよね。
 それをですね、大国主を中心とする原日本文化は国譲りを通して、つまり他者(ここでは天津神)に対して、戦わずして「譲る」という行為をとることによって、自ら(ここでは国津神)の「荒魂」を消し去り「和魂」だけを残すという、ある種の昇華を行ったのです。
 その結果、のちに国を護ることになった天津神系(伊勢神宮系)の神々にも、国津神の次元の高い「和魂」が純粋な形で引き継がれたわけです。引き継がれたというか、無意識の底流に残ったというか。
 簡単に言えば「譲る」ことによって縄文の神々の魂が浄化されて生き残ったということです。
 その象徴が大国主の「和魂」を名乗る大物主神でしょう。大物主は三輪山に祀られ、物部氏の尊崇を受けることとなります。
 さて、その物部氏が蘇我氏に滅ぼされた一連の争いが第二の国譲りです。ここでは「戦い」「争い」すなわち「戦争」という、まさに荒々しい手段によって「和魂」の純粋化が図られました。
 人(という自然)の心に残る「荒魂」が発動することによって、「荒魂」自身が排除されることなるわけです。
 その「国譲り」の本質に気づいたのが、自らも「荒魂」を発動させてしまった厩戸皇子、すなわち聖徳太子です。
 太子は苦悩ののちにその本質に気づき、十七条憲法の第一条に「和を以て貴しと為す」を配置したのでした(「和」の精神の源泉…ニギハヤヒ参照)。
 第三の国譲りは、これはちょっとローカルな話です。我が地元の富士山北口本宮の冨士浅間神社について。ここでは大国主の息子である建御名方から木花開耶姫に対して国譲りがなされています。細かいことは省略しますが、こちらの記事をお読みいただければある程度お分かりになると思います。
 第四の国譲りは明治維新です。これについては今までの流れで説明せずともお分かりになりますよね。明治時代に「和魂洋才」という言葉が使われたのは偶然ではないでしょう。平安時代の「和魂漢才」の頃には、すでに「大和魂」の読み違いは起きていたとは言え、言葉として「和魂」が生き残っていることは、まさに魂の底流に関わる現象であると言えましょう。
 そして第五の国譲りは、これはもうここまでくれば皆さんご想像できますでしょう、そう、大東亜戦争の終戦(敗戦)です。
 これについてもここでは詳しく述べませんが、最近、憲法改正や教育問題などで、この「国譲り」の本質を理解していない論議が跋扈していて残念に思います(なんて、こんなこと考えているのは今のところ私だけなのですが…苦笑)。
 たとえば平和憲法が誰によって作られたかというのが問題ではなく、「和魂」の永遠化のために、我々の「荒魂」が発動したという点に注目しなければなりません。つまり、先の大戦(荒魂)の意味をしっかり捉えなければならないということです。
 その時参考になるのが上記第二の国譲りというわけです。
 国譲りによってですね、実は「和魂」が「大和魂」に変わっていくのです。そういう神々の(自然の)働きというのは、私たち人間の中にも備わっているはずなのに、私たちはそれをすっかり忘れてしまっています。
 第六の国譲りはいつ起きるのか。そして、それはどういう形で起きるのか。私はそれを知っているつもりです。もう実は始まっているのです。一見「荒魂」に見える何かが、驚くべき形で「和魂」を発揮する時が、そぐそこまで来ています。
 

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2013.05.09

『お笑い芸人に学ぶ ウケる!トーク術 昨日起こった出来事を面白く話す方法』 田中イデア (リットーミュージック)

20091117g146 い先日、教え子の女の子から衝撃的な「すべらない話」を聞きました。笑っちゃいけない話でしたが、思いっきり笑っちゃいました(笑)。
 その子はある大手広告代理店で活躍中の、まあ芸人さんみたいなヤツなので、そのトーク術が見事だったわけですよ。まるでよくできたプレゼンのごとく。
 きっとホンモノの芸人さんも職業病で、自分の不幸話とか面白く話しちゃうんでしょうね。
 私も仕事柄、かなりトークを重視している人間です。というか、私の教え子たちにとっては、私の授業の思い出はほとんどがくだらないトークばかりでしょう(笑)。
 今日も脱線しまくってましたし、隣の教室に御迷惑をかけるような大爆笑の嵐でしたね。
 いや、笑いというのは健康の秘訣ですからね。真剣な時と笑っている時の、両方がないと勉強も絶対にはかどらない。遺伝子も心や脳も笑いによってかなり活性化しますから、学校というのは本来笑いに満ちていなければならない所でしょうし、教員の資質の中にもそういう部分は大いに要求されていいはずです。
 そんなワタクシにとって、この本はなかなか有用な教科書でありました。もちろん、ここに書かれているとおりのトークをすればいいというような、マニュアル的なものでないことは承知の上でですね、それでもやはりプロの芸人さんに学ぶというのはとても大切ですよ。
 なるほど〜そういうところにも気を遣っているのか、という感じです。つまり、本当にウケるためには、ネタだけでなく料理法も重要だということです。その料理法には当然立派な歴史や伝統があるわけで、それを学んでおく、つまり過去のお笑い偉人たちの知恵を知っておくということは有意義なことなのです。
 実際の「すべったトーク」の例を挙げてくれているのがいいですね。すべらないトークではなくて、悪い例を提示してくれているので、より自分のレベルで共感できる。シロウトの陥りやすい罠がはっきり書かれているわけですから。
 そこを注意するだけでも、私たちはかなりいい先生になれるでしょう(笑)。変な話、面白い先生は「いい先生」と言われる可能性が高い。
 まじめな教師論的に「厳しい先生(面白くない先生)ほどいい先生」だということを立証することは、そんなに難しくないと思いますけれど、それってやっぱり「今の」生徒にとっては、後付けの理屈に過ぎないんですよ。
 そこはちゃんと認めた上で、ただの「面白い先生」に+αできるかが問題なのです。
 だいいちですね、「面白い」と思われるためには、実はネタやテクニックだけではなくて、根本的な人間性というのが問われるわけですよ。
 同じこと言われても「ムカつく」場合、あるいはショックを受ける場合があります。ちょっと想像すれば分かります。
 ウチの学校の職員室の会話なんて、それこそ活字にしてしまうとトンデモない内容ですが、実際にはそれが健康的な笑いに昇華されている。それは日々の生活の中で絶対的な信頼関係が成り立っているからです。
 そういう意味では、この本を読んだからといって、ほんとうにウケるトークができるようになるかというとそんなことはない。当たり前です。
 しかし、私なんかも実はそうなんですけど、先に「笑い」から入って信頼に持っていくという、そういう道筋もあるんですよね。
 だから、この本に書かれているある種のテクニックを随所でうまく使って、そして、人間関係を構築していったり、あるいは自分の人間性を磨いていったりするといいですね。フリ(緊張)とオチ(緩和)…これは音楽などにも有効ですな。

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2013.05.08

北東アジアに関する雑感(予感)

 日は軽く北東アジアに関する私の雑感(予感)をメモしておきましょう。
 まず寝る前に飛び込んできた二つのニュースについて。
Kor13050901140001n3 一つはアメリカを訪問中のパク・クネ大統領が日本の歴史認識について批判したというニュース。
 「歴史に目を閉ざす者は未来が見えない」
 日本を名指ししたわけではないので、この言葉は自国も含めた全ての国に対するものだと受け取りたいと思います。
 ご存知のように朴槿恵さんは、韓国の歴史上最も有名な大統領朴正煕さんのご長女。朴正煕さん(日本名高木正雄)は日本陸軍士官学校に留学し、成績優秀で卒業後満州国軍中尉にまでなっています。
 韓国の大統領になってからも日本統治時代に学んだことを国政に活かし、韓国の奇跡的な成長の先鞭をつけました。
 彼の残した言葉からは、単なる「親日派」というような単純な感情ではない、もっと本質的な「歴史観」を感じることができます。
「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」
「(韓国社会は)姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」
「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している」
 このように自国の歴史を直視していたからこそ未来を切り開けたのでしょう。
 その娘さんの発言ですから、先ほど述べたように単なる日本批判とは捉えたくないのです。もちろん韓国国内では「よくぞアメリカで日本批判をしてくれた」ともてはやされて当然です。しかし、日本人としてはあえて冷静にこの言葉を受け取りたいと思います。
K10044447911_1305090618_1305090630_ さらにもう一本のニュース。中国共産党機関紙「人民日報」に「沖縄の領有権は日本にはない」という趣旨の論文が掲載されたとのこと。
 予想されていたとはいえ、ここまで大胆に沖縄に食指を動かしてくるとは。まったく困ったものです。
 尖閣も含めあのあたりの領土問題や統治権問題については、たしかに一筋縄ではいかない歴史があるのは分かります。私でさえ単純に尖閣が日本の領土であるとは言い切れませんから。
 また、琉球王国や台湾の歴史についても、私たち本土の人間は知らなすぎます。第一、沖縄返還の裏の裏の裏事情については、私もつい最近知りましたし(世に出ていないので知りようがなかったわけですが)。
 しかし、最近の中国や韓国のやり方は、現代国際社会においては非常に稚拙であることはたしかです。
 私としては純粋に心配なんですよ。北朝鮮は言うまでもなく、中韓ともに経済的に来年以降は特に大変になってきますから、この段階でのこういう「窮鼠猫を噛む」ようなやり方をしているようでは、彼らにとってなんのメリットもないということです。つまり、それぞれの首を絞めるだけなのではないかと。
 先日の安倍総理のロシア、中東歴訪、その前のモンゴル訪問、さらに来月の東欧歴訪などからも分かるとおり、日本は特定アジア諸国を取り囲む形の連携を取り始めています。
 これは外交上当然のことです。窮鼠や泰山の動きをグローバルに封じて、それこそ「泰山鳴動して鼠一匹(二匹?)」で終わらせる良い手立てだと思います。
 安倍総理がヘイトスピーチはやめようと提案している時期ですから、これ以上誤解を招くようなことは書きたくありませんが、やはりアジアの隣人たちが間違った方向に向かうことだけは避けたいので、あえて大局的な予想に立ちながら一つのメッセージを残しておきます。
 「難所に当たりて忍従せず人倫を捨つれば必ず自らを谷底に堕とすに至るなり」
 最後にもう一つ。安倍首相の今日の国会答弁。「アジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた。その認識では歴代内閣と同じ立場だ」…これは戦争史を客観視すれば当然の事実認定です。
 「その認識では」とありますとおり、他の側面もあるということで、そちらの面に関しては歴代総理とは違った立場を取るということでもありましょう。
 本当はそうした総体的観察に基づくものこそが正しい「歴史観」であり、そうでないものは全て「主義」(さらに強く言えば原理主義)になってしまいます。
 地球の「艮」が平和であることを心から祈ります。

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2013.05.07

唯我独尊=総他皆尊

20130508_65429 校で月遅れの「花まつり」が行われました。
 本校では毎年4月8日に入学式を行います。お釈迦様の誕生日てすね。
 行事としての「降誕会(灌仏会)」は高冷の当地では月遅れで行う習慣があります。「花まつり」に花が咲かないからです(今年は桜の花が早く、本当には珍しく4月8日には開花していましたが)。
 花御堂に生徒の代表が甘茶をかけます。お釈迦様の誕生を歓んだ龍神が甘露の雨を降らせたという伝承にならったものです。
 花御堂の中には、皆さんご存知のとおり、右手で天を指し左手で地を指した誕生仏が立っていらっしゃいます。
 そう、生まれてすぐに7歩歩いて右手で天を左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と叫んだのは…バカボンのパパとお釈迦様です(笑)。いやいや、莫迦梵とは仏語でお釈迦様自身を指すという説もありますしね(要出典)。
 ちなみにバカボンのパパは「天上天下唯我独尊」に加え、「ボーイズビーアンビシャス」とか「為せば成るナセルはアラブの大統領」とか言ったと記憶しております。お釈迦様を超えておりますな(笑)。
 さてさて、その「天上天下唯我独尊」の意味ですが、皆さんはどう解釈されていますか。
 よく聞くのは次のとおりです。

①世界で自分が一番エラいのだ!
②世界で自分はたった一人しかいないから尊いのです。
③世界で自分(お釈迦様)だけが衆生を救う尊い存在である。

1302133867 なんとなく口調がそれぞれ違ってしまいましたが、実はそここそに解釈の本質があると思います。
 私としては単純に①をバカボンのパパ風に読むのが一番しっくり来ますね(笑)。
 というのは、漢文としては「天上天下に唯だ我のみ独り尊し」としか訓読できないからです。
 肝心なのはそれを「自己中心的」「傍若無人」を解釈しないことです。その理由は意外に単純です。しかし、あまり指摘されていない。

 「自他不二」「不二一如」

 お釈迦様の教えの中心はここにあります。自分は他者によって縁起するのだから、結果として「自分=他者」「自分=世界」だというわけです。
 そうすると「唯我独尊=総他皆尊」ということになりますよね。
 まず自分を尊いと思うところから始めないと他者をも尊重できないのです。自分を愛することができない人は、他人を愛することができないと言いますよね。そういうことです。
 「自分だけが尊いと思う=人を見下す」ではなく、自分の中にある「尊さ」に気づくことが、世界を理解し愛するための第一歩だということです。
 お釈迦様は自らの人生のスタートとして、まずそこから始めたということでしょう。私はそのように解釈して納得しています。
 自分の「尊さ」に気づくためには、結局のところ他者の存在を想定しなければなりません。自分を生み愛してくれる両親の存在と一体化することに始まり、総ての他者(森羅万象)と自己とが等価であることを悟るまでが、仏道の修行なのでありましょう。
 もちろんこの解釈は私の個人的なものであり、本来の仏教的な真意とは違うかもしれませんが、今日の花まつりでふとそんなことを直観したので書いておきます。


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2013.05.06

恐るべきシンクロニシティの群れ〜キース・ジャレット・トリオ

20130507_130738

 日は女の子3人を連れて渋谷へ…女の子というのはウチの娘を含むジャズバンド部のリズム隊メンバー。
 そう、夜、オーチャードホールでキース・ジャレットのトリオ(キース・ジャレット、ゲイリー・ピーコック、ジャック・デジョネット)日本最終公演があったのです。
 自分にとっても最後の体験(4回目です)ですし、時代を担う(?)ジャズ・トリオに聴いてもらわねばと思い、気合を入れて4枚のチケットを取っていました。
 いよいよ今日がその日。GW最終日ということで渋滞が心配でしたから、朝早く富士山を出発して、最近よく使っている某駅近くの駐車場に車を置き、電車で渋谷入りしました。
 子どもたちは渋谷で自由行動。そして、私は朝ふと思いついて連絡した知り合いの方とハチ公で待ち合わせ。
Img_1493979_60250222_2 もともとはプロレスファンつながりだったその方、いろいろ話していくと驚くほどのシンクロがあり、一度じっくりお話したいと思っていました。今まで何度かニアミスがあってもなかなかその時機が来ずにいたのに、今日は見事なタイミングでお会いすることができました。
 いちおう名目はプロレス同人誌の取材ということでしたけれども、結果としてプロレスのみならず、政治、経済、音楽、宗教、文化、教育、国語、数学…どんどん話が広がってしまい5時間たっぷり話したにも関わらず、なかなかまとまらないという、まあ大変楽しいことになってしまいました(笑)。
 それでも根本的な世の中の見方で素晴らしくシンクロするところがありまして、ますますこれから面白い展開になりそうな予感がするひと時でした。
 話の中心を貫いていた「狼藉者論」…これは面白い。
 さて、あっという間の5時間が過ぎ、その方と別れたのち、子どもたちとの集合時間まで何をしようかなと思っていたところ、どういうわけか私、車を駐めた某駅に戻る決断をしたんですよね。今思えば、別に渋谷にいればいいのに、妙に気になることがあって、わざわざ車まで帰ったんです。
 その気になることに関しては結局杞憂だったのですが、いざ渋谷に再び戻ろうとすると、なんとなく小腹がすいたような気がして、それで駐車場のすぐ横にあるコンビニに入ってですね、おにぎりを二つ買ったんです。
 それを車の中で食べることにしました。駐車場の車の中で食事をするというのは、なんとなく気恥ずかしいものですよね。ただ、車を駐めたのが一番奥でしたし、目の前が空き地のような空間だったので、人目を気にせずムシャムシャ食べ始めたんですよ。
 そうしたら、なんと人が入ってこないはずの目の前の空間に、若いカップルが仲睦まじそうにゆっくり歩いて入ってきた。うわっ、なんでよりによってこんな時にこんな所で…。
 目の前の線路を走る電車を眺めるでもなく、なんとなく中空に視線を漂わせているそのカップル。その姿をよく見たら…ん?この雰囲気…どこかで見たことあるような。でも、まさか…。
 二人が帰ろうとしてこちらを振り返った瞬間、うわっ!ホンモノだ!(笑)
 そう、なんと、フジファブリック学でいつも富士吉田に来てくれている二人ではないですか!ありえません。なんで、こんなところでこんなシチュエーションでバッタリ会うわけ?!
 車から私が降りてきたので、まあお二人もびっくり仰天。そりゃそうですよね。
 私は彼らがその駅の界隈に住んでいるを全く知りませんでした。
 ただ彼らは今日私が東京に来ることはツイッターで知っていたとのこと。しかし、どこに車を置くかなんて全く言ってないし、最近はいつもそこに駐めているなんてことも誰にも言っていません(かつて記事で紹介した駅と駐車場ではありません)。
 彼らは朝、私のツイートを見て、私の話題で会話したそうです。これは偶然なのでしょうか。ここ数日とんでもないシンクロばかり起きています。いよいよ、私も完全に波の世界の住人になってしまったのでしょうか。この本を読んでから、こういうシンクロが増えたような気が…。
 というわけで、大変びっくりして渋谷に帰って来まして、生徒たちと合流してですね、いよいよオーチャードホールへ…。
Img_6484 異様な興奮と緊張の中、いよいよ最後のトリオ演奏が始まりした。私は一音たりとも聴き逃さないつもりで集中しました。
 ゲイリー・ピーコックは高齢のため、おそらく耳も多少遠くなっているのでしょうか、ちょっと前半は音程やリズムの甘さがあったような気がしましたが、後半は往年のアンサンブルレベルになり、さらに熟練の味わいも加味され、まさに世界最高、唯一無二の演奏を聞かせてくれました。これはもう音楽を超えて、超能力の世界ですね。
 まさにシンクロニシティーです。彼らはいつもそうですが、三人とも目をつぶって演奏していても、ピタリと全ての瞬間がはまっている。それこそ私たちとは別の次元の波(パルス)を感じているのでしょうね。それはいつもジャズを演奏している子どもたちも非常に驚異に思ったようです。まさに次元が違うなと。
 さてさて、実は終演後がまたすごかった。ある意味シンクロでしょうかね。偶然か必然か。
 実は子どもたち、英語でトリオに手紙を書いたんです。いちおうジャズでトリオをやっている者として。せっかくですから、それを渡したいと妄想していたわけです(私が)。
 しかし、さすがにそれは無理かなと思っていたところ、やっぱりですね、諦めない力、さらに仲小路彰の言う「失礼、おそれ多いと思って行動しないことの方が失礼、おそれ多い」という考え方、そして突撃力があれば夢を実現しますね。
 細かいことは書きませんが、しっかりキースに手紙が渡ったものと思われます。そして、そんな感じで帰りの時間が遅くなってくれたおかげさまで、楽屋から出てきた彼ら3人に実際に会うことができました!手を振ってお見送りできたのも、ありがたい偶然でありました。
 シンクロというか妄想実現というか…最近の我が家はいったいどうなってるんでしょうね(笑)。

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2013.05.05

安倍昭恵さん来訪(第二章)

20130506_65415 ァーストレディー安倍昭恵さんが、大変お忙しい中わざわざ我が家においでくださりました。
 あんまり時間がなくて…とおっしゃりながらおよそ2時間にわたって(世界平和ではなく)「地球平和」についてじっくり対話させていただきました。
 安倍総理が国民栄誉賞の授賞式と夢の始球式(多摩川グランドで少年野球に明け暮れていた私にとっても実に感慨深かった!)に向かわれたと聞き、これはチャンスかなと直感して不躾ながらお電話したところ、「実は私もお電話しようと思って名前を検索していた」というまたまた不思議なシンクロが起きており、急遽来訪が決定。
 思えば昨年の8月、我が家の耀わん「十和田」に触れにいらっしゃり、そこから安倍晋三総理誕生への怒涛の流れが生まれたのでした。それ以来ですから、ファーストレディーになられてからは初めての来訪。
 この間9ヶ月のことを互いに感慨深くなぞるとともに、日本の、世界の、いや地球の明るい未来について真剣に、しかしたくさんの笑いを交えながら対話させていただきました。
 今回ももちろん出口王仁三郎の耀わんを挟んでの再会であったわけですが、メインはどちらかというと仲小路彰の魂の方だったような気がします。
 仲小路彰のお弟子さんから、安倍総理夫妻にお渡ししなければならないという大切なものをお預かりしておりまして、ゴールデンウィークまでになんとか私の使命を果たしますとお約束していましたから、まさに滑り込みでギリギリセーフという感じでした。
 仲小路彰が未来学の中で描いた、日本のため、地球のための一大事業が実際に動き出しなと予感するひと時。
 今日はスタートなのです。これからの一歩一歩が真の平和を創る礎石になっていきます。ますます私も家内も自らの天命を全うすべく未来に向かって精進していこうと決意いたしました。
 いやあ、それにしても、本当に昭恵さんは魅力的な方です。まさに明るく温かな太陽そのものです。私たちも、その魂の崇高さ純粋さに照らされてすっかり元気をいただきました。
2013050500000021jijp0001view 思えば長い外遊から帰られたばかり、総理も奥様もお疲れだと思いますが、そんなことは微塵も感じさせないアクティヴさに感心させられます。こうでないと一国の総理もファーストレディーも務められないのでしょう。もうその時点で私たちとは次元が違いますね。
 朝電車で東京ドームに行かれていた総理は、大仕事を終え再び富士山麓鳴沢村にとんぼ返り。私たちと昭恵さんの会談(?)も、総理からの「今着いたよ」という電話でお開きとなりました(ちょっとした?ハプニングもありましたが…笑)。
 次回の再会はまた違った形でとお約束してお見送りさせていただきました。本当にありがとうございました。総理夫妻にはもちろんのこと、私たちの背中を影から押してくださる方々に心から感謝いたします。

追伸 昭恵さんがfacebookにて紹介してくださいました!

安倍昭恵さん来訪(第三章)

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2013.05.04

仲小路彰 作詞作曲 『永遠なる女性』(歌 三浦環)

91ll02kkzrl_aa1500_ 前中夫婦で山中湖へ。今日もまた仲小路彰の言葉の数々に触れました。
 今日の最大の収穫は、仲小路彰の音楽を体感できたことです。
 まず、彼の作曲した日本語オペラの楽譜を拝見できたことに感動。モーゼをテーマとした曲で、楽譜は歌のメロディー譜のみでしたが、実際にはオーケストレーションが頭の中にあったとのこと。
 これはなんとしても現代に蘇らせたい。日本の音楽史上大変貴重な財産であると感じました。膨大な楽譜群が眠っているとのことです。しっかり整理、管理し、そして演奏してゆかねばなりません。
 続きましてほとんど唯一公式な音源として世に出ている仲小路彰の作品を聴かせていただきました。
 「永遠なる女性」という歌曲です。5枚組で発売された「三浦環全集」の最後に収められています。
 音をお聞かせできないのが残念ですが、シンプルながら実に美しい旋律の歌でありました。作曲されたのは昭和17年、録音はおそらく昭和19年か20年でしょうか。三浦環最晩年の録音ということになります。還暦を迎えようかという頃でしょう。
 その声はまるで少女のよう。まさに「永遠なる女性」です。亡くなった三浦環の声帯を分析したところ一般女性の十代の声帯を保っていたそうです。
 三浦環と仲小路彰ゆかりの方から、いろいろなエピソードをうかがいながら聴いたこともあったのでしょう、私たち夫婦の目には思わず涙が溢れました。
 ピアノの伴奏はもしかして原智恵子でしょうか。ピアノの伴奏もシンプルですが、非常に美しく効果的でした。
 実はこの歌の詩はネット上で読むことができます。国会図書館のデジタルライブラリーで公開されている、仲小路彰の「米英の罪悪史」93コマ目のページにこの詩が掲載されています。
 この「米英の罪悪史」はラジオ放送だったようなので、もしかすると実際にこの音源が流されたのかもしれませんね。
 ここにその歌詞を掲載させていただきます。美しい日本語です。

天照らす 御光りの
きよらけく あきらけく
さし出づる あしたのごと
きよらなる 乙女の願ひ
永遠に 純かれ
乙女の願ひ 永遠に純かれ

天照らす 御光りの
くもりなく くまもなく
さしわたる 真昼のごと
まとこなる女性の想ひ
永遠に 美はし
女性の想ひ 永遠に美はし

天照らす 御光りの
かぎりなく そこひなく
さし恵む 御空のごと
たらちねの 母の心
永遠に 安かれ
母の心 永遠に安かれ

 仲小路彰は様々な音楽家にも大きな影響を与えています。ポピュラー音楽の方面では、加藤登紀子さん、細野晴臣さんらが、その思想や音楽に触れて「最も影響を受けた」というような発言をなさっているとのことです。
 21世紀の未来学を構築していた仲小路彰。その思想、哲学だけでなく、音楽もいよいよ復活する時を迎えたようです。

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2013.05.03

武蔵陵墓地(多摩御陵)

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 法記念日。早朝の夢で「昭和天皇の墓参りをせよ」とのご神託を受け、八王子の武蔵陵墓地を参拝いたしました。
 先日訪れた新宿御苑(昭和天皇の大喪の礼が行われた場所でもあります)の映像が現れたのち、そのような託宣がありました。
 あっ、なるほど…憲法改正論議の高まる中、実は第9条の発案者である昭和天皇はどのようにお考えなのか、それをうかがって来なさいということかと夢の中で合点したのです(中二病でスミマセン)。
 実を言いますと初めての参拝でした。昭和天皇を心から敬愛申し上げているにも関わらず…。
 いや、いったいどれくらいの日本人が参拝しているのでしょう。それどころか、昭和天皇の陵墓がどこにあるかご存知ない方が大半なのではないか。
 これはある意味では、天皇の存在を象徴しているとも言えます。決して表で出るわけでもなく、国民にいらぬ足労を与えぬよう静かに祈り眠る…。
 しかし、このたびこの武蔵陵墓地を訪れ、心からここは日本人なら必ず参らねばならない場所であると確信しました。
 武蔵野の豊かな本当に豊かな森に囲まれた簡素な墳墓。富士山と皇居を結ぶ霊脈の上に自然な曲線を描いて並ぶ、大正天皇陵、貞明皇后陵、昭和天皇陵、香淳皇后陵。
 本当に今まで全く味わったことのない気の流れ、2000年を超える歴史の堆積を感じました。
 まさに「和」の象徴です。心が洗われます。
 こういう軽い言い方はあまり好みませんが、今風に言うのなら「最強のパワースポット」です。
 いつも高尾駅周辺に車を駐めて都心に向かう私。高尾駅のこんな近くにこんな場所があったとは…不覚でした。これからは毎度参拝してから電車に乗ることにいたします。
 参拝はもちろん自由(無料)ですし、広大な駐車場も開放されています。今日は祝日ということで、家族連れなども見かけましたが、参拝者は決して多くなく、私もそれぞれの天皇様、皇后様とほとんど1対1で向かい合うことができました(なんとも貴重な時間)。
 一般に「多摩御陵」と呼ばれるのは慣習によるものです。すなわち、大正天皇陵が「多摩陵(たまのみささぎ)」であるからです。
 昭和天皇陵は「武藏野陵(むさしののみささぎ)」です。上の写真はその昭和天皇陵。写真ではなかなか伝わらない奥行き感、立体感、いや三次元を軽く超えた高次元の感覚があります。宇宙と大地と未来と過去がつながり、まさに「中今」を象徴する空間となっています。
 他の御陵もそれぞれに素晴らしく、それぞれが陰陽のバランスを取りつつ、富士山と皇居(今上天皇皇后両陛下)を結びながら、この日本国全体を静かに見守ってくださっています。
 さて、昭和天皇の憲法改正に対するお考えはと言いますと…「憲法改訂の権利と義務は国民にある。これを機に大いに議論せよ。しからば結果自然になる」とのこと。
 なるほど、やはり「改正」ではなく「改訂」なのか。さらに「権利」だけではなく「義務」としてもとらえるべきだと。そして、そういう議論の過程において、昭和天皇の平和憲法への真意が正しく捉えられるということです。
 いたずらに「賛成」「反対」の二元論で対立すべきではないということですね。全くそのとおりだと感じました。
 そのほか、それぞれの陵の前でいろいろなメッセージを預かって参りました。私自身の責任(権利と義務)も痛感いたしました。
 皆さまもぜひ、武蔵陵墓地に参拝なされ、心を鎮め、魂を高次元に解放し、天皇家を中心とするこの日本という国と、そして地球の平和をお祈りされることをおすすめいたします。

武蔵野陵(宮内庁)

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2013.05.02

感謝…不二草紙9周年!

↓最初の記事はこれ。
20130503_91344 日、この「不二草紙 本日のおススメ」は開始から9周年を迎えました。
 本当に多くの読者の方に支えられての9年間でした。ありがとうございます。
 実を言うと、「9年」というのが一つの目標でありました。
 かのデカルトは9年間疑い続けて、「われ思う、故にわれ在り(cogito ergo sum)」にたどりつき、達磨大師は9年間壁に向かって坐り続けて大悟し、妙心寺開山の関山慧玄(無相大師)は9年間伊深の地で自らの光を消して不二の境地に至りました。
 小人である私も、もしかして「9年」思索と発信を続ければ何かに到達できるのではないかという漠然とした予感があったのです。
 そして、実際、今日この日を迎えまして、その予感は間違っていなかったと思っています。
 なぜなら、このブログを始めた2004年5月2日(KISSの記事でしたw)には全く想像もできなかったような方々とつながることができたからです。
 その大部分がこのブログを通じての出会いでした。間接的なものも含めれば、ほとんど全てと言っていいでしょう。
 そうした多くの皆さまとの出会いが今の自分を作っている、そして(畏れ多くも)私の存在が他者を動かしている…まさに「自他不二」ということですね。
 それを今、はっきり確認できております。本当にありがたいことです。
 毎日休まず書き続けてきた記事の数は3千を超えました。初めの記事のアクセスは自分だけでしたが(笑)、今や毎日のべ2千人以上の方にご覧いただいています。そして総アクセス数は370万に迫ります。
 継続は力なり。言葉は生命を持ち、私を離れて成長しました。
 10年目以降は、先述の賢人たちがそうしたように、この御恩を世界に宇宙にしっかり返して行きたいと思っています。
 もちろん、ブログも続けますので、これからもよろしくお願い致します。
 9周年を記念いたしまして、読者の皆さんに我が家においでいただく機会を増やしたいと思っています。すでにここのところ毎週末のようにいろいろな方のご訪問を賜っています。
 ご希望の方はメールにてぜひご遠慮なくご連絡ください。
 


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2013.05.01

富士山…世界文化遺産登録へ

Img_6464 外まで出ましたか。とりあえず富士山に住む者として祝意を表したいと思います。
 富士山(天教山)が世界の文化的中心になるための第一歩になるといいですね。
 私の人生はそのためにあるようなものですから、こうして世界から「文化」として注目されるのは純粋に嬉しく思います。
 もちろん一方でいろいろ不安もありますし、世界遺産自体に疑問も残っています。
 私、3月にも『日本人は、なぜ富士山が好きか』の記事で「私は今年中に世界遺産にならない方がいいと思っています」と書いていますね。
 皆さん、ユネスコに提出された推薦書をご覧になりましたか?
 英語ですし、私も全部をちゃんと把握しているわけではありませんが、ぱっと見ただけでも非常に表面的な内容です。
 私のような富士山マニアからすると、富士山の文化の表面をなでただけの推薦書と言わざるを得ません。
 もろちん、相手が世界ですからしかたない部分もあると思いますが、富士山信仰に関する部分がほとんど「富士講」という近世の半商業的なものに限られているのはいかがなものかと思います。
 第一、その富士講自体が現代日本人にはなんとも縁遠いものになってしまっています。地元民でさえ(私も含めてですが)その本質はよく分かりません。
 そう、富士山に対する地元の無理解というのが一番心配ですね。
 このたび登録にあたっては様々な条件が課せれています。それをクリアーするためにこれから地元にはかなりのストレスがかかると思います。そのあたりの共有もなされてこなかったので心配ですね。
 登山者の問題、車の排気ガスの問題、ゴミ問題、建物などの景観の問題、そして演習場問題…。
 そう、演習場の問題も看過できませんね。世界文化遺産になろうかという国立公園内で、しかも天皇から恩賜された土地で戦争の演習が行われること自体、実は大きな問題です(その歴史を知ると一概に反対できない部分もあるのですが)。
 地元民なら分かるとおり、実際問題として、あの爆発の振動で多くの自然遺産や文化遺産にダメージがあることは科学的な事実です。
 いっそのこと、世界文化遺産登録を機会に、なんとくな棚上げ不問になっていた演習場問題も、より未来志向的に解決が図られてもいいかと思います(実際に具体的な案もあります)。
 富士山は日本の象徴。それはたしかです。ならばもう一方の日本の象徴である天皇とも結びついていいはずですね。
 そういう意味では、たとえば、市丸利之助少将の歌に見られるように、大東亜戦争においては、まさに「国の象徴」、「魂の象徴」であった富士山。
 私はこれを機に市丸少将の歌を読み返してみようかと思っています(最近では自分も歌詠みになりましたし)。
 こんな近過去の「文化」すら知らない私たち日本人が、世界に向けて「富士山は日本の象徴」と叫んでよいものかどうか。
 また、この号外になるような歴史的な事実を、さらに近過去において富士山と対峙した、かの仲小路彰はいかに評価するのか。彼の言葉にも耳を傾けてみたいと思います。

Amazon 市丸利之助歌集

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