科学は修行である(!?)
今日は、非常に有能な若い物理学者が我が家をわざわざ訪ねてきてくださりました。
非常にエキサイティングな出会いであり、充実した時間を過ごさせていただきました。ご紹介くださった方、いつもありがとうございます!
最先端の量子力学を入り口に、空間、時間、高次元宇宙、原子力エネルギー、人間の思念、さらには歴史から芸術、宗教に至るまで、それこそ宇宙を駆け巡るようなお話に私もついつい少年のように興奮してしまいました。
私は残念ながら科学の道を断念したクチでありますが、サイエンティストのスピリットだけは死ぬまで持ち続けたいと思っています。
トンデモな妄想家が何を言っているかと突っ込まれそうですね(笑)。
いや、本物の科学者は、遠い未来や遠い宇宙の果てを意識できるある種の妄想家でなければならないのです。妄想家という言い方は失礼でしょうか。夢想家、それもちょっと違うかなあ。想像家とでも言えばいいのか、とにかく無限のイメージ力がないと、道を誤ってしまう可能性があるのです。
それは非常に高度な他者意識であるとも言えます。仏教的に解釈するならば、無我の境地になる、すなわち自己の五感で認知している世界(執着)から離れることを意味します。
そうすると自他不二、つまり自己と宇宙が等価になる。それでやっと、ミクロ的にもマクロ的にも私たちは自由にれるのです。
また、お話の中に「科学者は自分を納得させて初めて一歩進む」というような内容がありました。なるほど、非常に自分に厳しい。ごまかしは許されない。うまく行かない時こそ忍耐が必要です。
これはほとんど修行だなと思いました。
実際、宇宙の真理を窮めるためには、そうやって自己を透明に磨いていかねばならないのでしょう。特に最先端の物理学は数式との格闘がほとんどでしょうから、高度に抽象化された世界を相手にしなければなりません。当然自己の純化も必要だと思います。
まあ、私なんか、なんの責任も持たず、考えたいことを考えて、言いたいことを言って、書きたいことを書いてますから、そういう意味では全くサイエンティストではないな、こりゃ(苦笑)。
それでいて、ちょっと前までは、科学と宗教を安易に結びつけたくなる欲求にかられてしかたなかった。最近は少し慎重になっていましたけれども。たとえば仏教の因果を科学の因果と結びつけるのは、とりあえずやめています。言葉のアナロジーと実体のアナロジーは別物ですからね。
目指すところが同じだからこそ、違う道筋というのを明確に意識しなければいけないのかもしれません。
修行は修行だけれども、その方法はやっぱり違うのですね。
というわけで、今日はずいぶんと勉強になりました。ありがとうございます。ここには書けないこともた〜くさんお話しました。おそらくこれからお互いに大きなプロジェクトに関わっていくことになると思います。どうかよろしくお願いします。
とにかく、この世界のため、この地球のため、この宇宙のため。
私も改めて自分の修行方法を見なおしてみます。
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