『陰謀史観』 秦郁彦 (新潮新書)
いつも書いているように、私は陰謀史観、陰謀論にはハマりません(充分ハマってるじゃないかという声が今すぐにでも聞こえてきそうですが…笑)。
しかし、一方で無視もしません。いや、無視しないどころか重視はしています。
重視するということはどういうことかというと、そうした「陰謀論」によって、実際に行動した人たちが歴史の一角を作ったというのも事実であるからです。
たとえば、大東亜戦争を実際に「聖戦」だと思って戦った人たちが多かったわけで、それをも含めて私は歴史の事実であると捉えているわけです。
そういう意味では実証主義の幅も広くなりますね。各個人の思想、感情の部分まで実証していかねばならないからです。
私は歴史学者でもなんでもないので、あえてそういう手法を取ることもできます(職業学者はそんなことをやっているヒマはないでしょうから)。
だいいち、私は「時間は未来から過去へと流れている」と考えている学派(笑)なので、一般の歴史学とはある意味全く相容れないわけですね。因果関係が逆ですから。
この本の著者の秦さんは、「歴史家の任務は直接的な因果関係の究明にある」とおっしゃっていますが、当然ここでいう因果関係は「過去が原因で(その時の)現在が結果」でしょう。私は「未来への意思が原因で(その時の)現在が結果」ということです。
だから、私の場合は、当時の人々が陰謀史観にとらわれていたとしたら、その陰謀史観自体が嘘でもなんでも、原因としては事実と認定するわけです。
だから「陰謀史」の研究はとても大事です(同様の理由でプロレスの観戦も重要)。
そういう私の傾向が表れているのか、秦さんのこの本には、私がこのブログで取り上げてきた人たちや本がワンサカ出てきます。
佐藤信淵に始まり、仲小路彰、江藤淳、櫻井よしこ、中西輝政、渡部昇一、田母神俊雄、藤原正彦…。
当然彼らは(陰謀ではなく)「陰謀史観」の首謀者として登場するわけですね。
つまり、私のように、彼らの言説にある特定のバイアスがかかっていることを最初から知っていて、そのバイアスのなんたるかを知るために読んでいるのならいいのですが、それこそその言葉を鵜呑みにして洗脳されてまい、結果として「陰謀史家」になってしまう人たちがいるのが困るのです。
古史古伝や偽書の世界や、あるいは新興宗教などもそうですが、「架空の歴史の創造」には個人や地域や国家のルサンチマンが強く影響しています。
私がそういう世界観に興味を持っているのも、おそらくは日本人的な「判官贔屓」の心性が持っているからでしょう。あるいは、他人のせいにしないではいられない「不幸感」もあるかもしれません。
昨日、安倍昭恵さんつながりである方と大いに共鳴して盛り上がりました。その中で、「人のせいにしないで自分の中にある原因をしっかり見つめる」という話が出ました。
人間は弱い存在ですから、ついつい「悪者」を外に設定して、相対的に自分を「善者」としておきたいという願望があります。
非常に難しいことですが、他者を批判する前に、自分の中にも「種」がないかどうか考えなければなりません。
そういう意味においても、「陰謀史観」を実証研究することは私にとって非常に重要なことなのです。
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