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2013.03.10

音楽は未来からやってくる(?)

20130311_84542 日は私の奉職する学園の音楽祭が行われました。幼稚園から高校まで、歌や楽器の演奏で学園が「家族」であることを証明することができたと思います。
 私は指導する中学の弦楽合奏部でコントラバスを演奏しました。娘はジャズバンド部でベースを。まさかこうして親子でベースを演奏する日が来ようとは夢にも思いませんでした。去年の今頃には、二人ともベースを弾くようになるとは想像すらしていませんでしたから。
 音楽というのは、時間(世代)や空間(国)を超える共通語ですね。この世に「音楽」が存在する理由は何か、よく考えてきたつもりですが、今日は面白いことに「世界は音楽のために存在するのではないか」と、ふと思ってしまいました。
 文学や美術と同次元に語ることもできる音楽。しかし、言語を超えた非常に抽象度の高い時間芸術ということで言えば、やはりそれらとは違う次元の存在と言えるような気もします。
 ところで、皆さんは「音楽」とは「流れる」ものだとお考えですよね。私もそう思います。では、どちらからどちらに向かって流れているのでしょうか。
 これは最近私がよく語っている「時間は未来から過去へと流れている」という考え方と非常に強く連関しています。
 私たちが時間を「過去→現在→未来」というふうに流れていると勘違いする原因として、時計の針の動き方や歴史の語り方(並べ方)があると考えられます。
 それと同様に音楽も「楽譜」や「録音」が発明されてからというもの、「過去→現在→未来」と流れているととらえられているような気がします。
 もちろん私はその逆、「未来→現在→過去」と流れていると考えている(感じている)のです。
 どうでしょう。お分かりになるでしょうか。
 楽譜は1小節から始まり2小節、3小節と進んでいきます。小節内で言えば、1拍目、2拍目と見ていきますから、やはり過去から未来に向かって流れているような気がしますよね。
 また、CDなんかを聴く時にも、ある曲は0'00"から始まって4'52"で終わったりする。そうすると、やはり時計時間の観念からして、やはり過去→現在→未来というふうに音楽は存在すると思ってしまう。
 しかし、それは歴史記述や時計のパラドックスと同様に、固定された情報を「自分=現在」が移動することによってなぞっているに過ぎないのです。
 私の「時間観」によれば、「自分=現在」は移動せず、逆に「時間」「情報」の方が動いて流れていきます(実際、言葉の上では「時間が流れる」「音楽が流れる」と言いますよね)。
 前も書いたように、これはある種単純な相対論であって、結局同じことを違う表し方をしているだけとも言えます。しかし、地動説と天動説を思い出すまでもなく、それは私たち人間の意識、世の中の見え方という意味で言えば、それこそ180度違う転回を生じる可能性を持っています。
 アナログ世代の方に分かりやすく言うなら、私たちはレコードをなぞる針なのです。この針は時計の針のようには自ら動きません。レコード盤の方が動きます。そう、向こうから(未来から)音楽を記録した溝のデコボコがやってくるわけです。それを針が受け取っていく。
Variaudio2 デジタル世代の音楽家たちのためにはこんな説明もできるかもしれません。パソコンでシーケンサーを操ったことがありますでしょうか。あの「楽譜(ノーテーション)」は、現在地点(時点)を表すカーソルがあって、そこに右側から音符情報が流れてくるじゃないですか。つまり未来から流れてきているわけです。
 そう考えると、近代西洋芸術音楽が生んだ「五線譜」に象徴される「楽譜」というのは、歴史の記述(編年体)にのっとった情報記録方法に過ぎないことが分かります。
 日本の前近代音楽の例を持ち出すまでもなく、世界のほとんど音楽は「楽譜」を持っていませんでした。その頃の音楽を想像してみてください。特に古代における音楽のあり方に思いを馳せてみましょう。何もないところから音楽が降りてきて、自然に「歌」が生まれるという事態が普通であったことが想像されます。もちろん現代における作曲という行為を想像しても分かるかもしれませんね。
 皆さんがカラオケの十八番を歌う時のように、記憶を引き出す形での「演奏」のあり方もあるでしょう。また、楽譜をなぞって「再生」する行為も世の中にはあふれています。それは一見「過去→未来」という流れを感じさせますが、これさえもまた、音楽自体は向こうからこちらに流れてくるのであって、テープを逆回転させない限りは、その逆はありえません。
 今日、私たち弦楽合奏部ではフジファブリックの「Bye Bye」を演奏しました。志村正彦くんの遺した名曲の一つです。
 彼は亡くなる直前、天から音楽が降り注ぐのを受け止めるために、大変な体力と精神力を費やしたと聞きました。天才の仕事というのはきっとそういうものなのでしょうね。命がけで未来からやってくる名曲たちを受け止めて記録しようとした。そういう崇高な仕事をしたのでしょう。
 ちょっと前に「過去には学ぶべきものはたくさんあるが原因は一つもない」と書きました。これは音楽についても言えます。あくまでもこれから生じる現象は未来からやってくるのであって、過去そのものが現れるわけではありません。
 仏教的に言えば「因縁」でしょうか。「因」は未来にあり、「縁」は過去にあると。いや、この説明はちょっと難しいので、またいつかどこかで。
 いずれにしても、音楽を共有するこということは、つまり、未来を共有することであって、決して過去を共有することではないのです。

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