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2013.02.02

「ボランティア」のない世の中へ!?

Img_1786 日は我が中学の一般入試。推薦入試に続き今回も国語の文章を公開します。
 今回は「ボランティア」という言葉をとりあげました。世の中、特に学校現場で誤って使われているからです。
 「ボランティア」のない世の中になるといいなという、私らしいちょっとひねくれた逆説的な文章なので、小学生には難しかったかな(苦笑)。
 では、どうぞ。


   ボランティア

 二年前の大震災をきっかけに、「ボランティア」という言葉をよりいっそう頻繁に聞くようになりました。
 実際、被災地の復興のために、日本中から多くの募金が寄せられたり、たくさんの人が現地に出かけて無償で働いたりしましたね。
 こうした震災ボランティアだけでなく、世の中にはいろいろな「ボランティア」があふれています。みなさんもどこかで「ボランティア」をしたことがあることでしょう。
 学校や地域でもボランティアをしましょうと呼びかけることがありますね。富士学苑中学でも、地域の清掃や募金活動、ペットボトルキャップのカイシュウなどを、生徒会が中心になって行なっています。
 ここまで身近になったボランティアではありますが、実はその正しい意味を知らない人がたくさんいます。
 特に日本人は、本来のボランティアの意味とは少し違ったニュアンスでこの言葉を使っているようです。
 あえてボランティアを日本語にすると、「奉仕」「慈善活動」になるでしょうか。あるいは「福祉」という言葉とイメージを重ねている人がいるかもしれません。
 しかし、実はこれらの言葉と「ボランティア」という言葉は、ぴったり重なるものではないのです。
 もちろん「ボランティア」という言葉は、もともと日本語ではありません。英語ですね。
 では、英語の「ボランティア」とはどういう意味なのかと思って辞書を引くと、最初に「志願兵」という訳が出てきます。志願兵? いったいなんのことでしょう。
 そう、「兵」という字を見て想像できたと思いますが、これは戦争や国の混乱の時に、自分から「志願」して兵隊になることを言う言葉だったのです。
 言うまでもなく戦争はキケンです。兵隊として働くということは、すなわち命を落とすことも覚悟しなくてはならないということです。そんなこと、できれば避けたいと思うでしょう。
 しかし、それに「志願」するわけですから、そうとうに強い「意志」が必要です。その「意志」がなんなのか、どうして生まれるのか、それはここでは考えないことにしますが、とにかく「自分のためではなくだれかのために働く」という強い意志があることはたしかです。
 その「自分のためではなくだれかのために働く意志」こそが「ボランティア(volunteer)」の語源になっているのです。ラテン語というヨーロッパの古い言語に「ウォロ(volo)」という言葉があります。今の英語の「ウィル(will=意志)」のもとになったのがこの「ウォロ」です。
 つまり、「ボランティア」のもともとの意味は、「自分の意志で行動する人」なのです。
 そう考えると、やらされる「ボランティア」というのはありえないことだとわかります。たとえば、学校でごみヒロいをしようということになったとして、「めんどうくさいなあ」とか「なんでこんなことするんだよ」とか、そんなふうにいやいややっていては、結果として人のためになったとしても「ボランティア」ではないのです。
 逆に、こういうことも言えますね。自分にやる気があったとしても、それが自己満足のためのやる気だったら、やはり「ボランティア」とは言えません。あくまでも、人のためになるんだという強い意志が必要なのです。
 では、日本ではどうだったのでしょう。ボランティアにあたる日本語がないのだとしたら、昔の日本には「ボランティア精神」がなかったということになるのでしょうか。
 もちろんそんなことはありません。
 みなさんもよく知っているとおり、日本には仏教が広く深く浸透しています。仏教では「利他」ということをとても大切にしています。「利他」とは「他人に利益があるようにする」ということです。ですから、「自分は人のおかげで生きているのだから、自分のことよりも人のことを大切に考える」という考え方は、日本人にしみついていたはずです。
 それがあまりに自然にしみついていたので、あえて名前をつける必要がなかったのかもしれませんね。きっと、日常の「ありがとう」とか「おかげさまで」という何気ない挨拶や、「かってでる」というような行動に、その精神が現れていたのでしょう。
 ちなみに「かってでる」というのは「買って出る」という意味です。「お金を出して買ってでもやります!」ということなのです。お金をもらわないどころか、お金を出してでも「やらせていただく」ということですから、そうとうに強い意志や自信があるということですね。日本人にもそんな精神があったわけです。
 ですから、ボランティアという言葉をさかんに耳にするようになったり、あるいはボランティアをしましょうという号令がかかったり、学校でボランティアを義務化したり、そういうことが起きるのは、私たちがその精神を忘れてしまっている証拠だとも言えます。
 無意識でできていたことが、意識しなければできなくなっているとしたら、それは残念なことですね。
 そういう意味では、いずれまた「ボランティア」という言葉のない世界にもどれるといいなと思います。
 みなさんも、これからボランティアという言葉に接する時、その本当の意味を思い出し、その行動の原点が自分の「意志」にあるのか確認してみるといいでしょう。


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コメント

意思と構想は、未来時制の内容である。
だが、日本語には、時制がない。
何処を見渡しても個人の構想と意思は見当たらない。
あると考えられるのは、個人の恣意と陰謀だけである。
だから、日本人は、陰謀論・犯人探しが大好きである。

本音は恣意である。
恣意を隠すために建前が方策として使われる。
本音は明言できないが、建前は公言できる。だが、聞いていて空しい。誠意がない。
恣意の類は、未来時制を使って意思に高められ文章化される。
陰謀の類は、未来時制を通して構想に高められ文章化される。
文章化に成功すれば、矛盾を見つけることも可能になる
全ての考えは文章になる。
矛盾を除いて、健全な文章を作成することもできる。
文章にならないものは、考えではない。
時制を使った教育は、子供が大人になるための必要な過程である。
これは、英米の高等教育である。
日本語の社会には、この種の高等教育はない。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

投稿: noga | 2013.02.03 15:53

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