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2013.02.05

和ロックと短歌と…

51pzpypfvhl_sl500_aa300_ 日は帰宅してから「歌」について家族といろいろと話しました。
 我が家の音楽環境はかなり混沌としております。いや、逆か、ジャンル分けしないでなんでも聴くし演奏するので「歌」と一括りにしてしまえるという意味においては、非常に統一感があるかもしれない。
 とにかくなんでもいいということです。それが同時にかかっていても問題ない。
 たとえば今日なんか、私はモーツァルトのピアノ・コンチェルトを、カミさんはNHK歌謡コンサートで鳥羽一郎を、上の娘はジャズ部の練習でジャコ・パストリアスを、下の娘はニコ動でボカロを、同時に流してそれぞれ聴いている、あるいは演奏している…やっぱり混沌か(笑)。
 人間の耳ってすごいですね。選択的に聴ける。どういうメカニズムなのだろう。
 そんな混沌とした私たちが、どういうわけか、それぞれの得意とするジャンルのどれにも属さない、ヴィジュアル系・耽美派・和ロックバンドのPVを鑑賞することになりました。これです。

 己龍さん。カミさんが教え子から借りてきたDVDです。思わず見入ってしまいました。面白いんじゃないですか。
 いわゆるヴィジュアル系や、耽美派や、和ロック、そして女形文化というのは、間違いなく日本の貴族文化の系統であり、私が研究してきた(?)「萌え」につながる国風文化の現代版です。
 西洋コードの上にペンタトニック(四七抜き、二六抜き)を乗せるという音楽的特徴は、すでに明治時代から試みられてきた、いわば和魂洋才の具現化の一例であるわけですが、ここにきて、そのエネルギーが復活の兆しを見せていると感じています。
 今の中二は洋楽にハマらないのです。自然に和ロックに行く。
 一つには、ボーカロイド文化の発達という要因がありますね。ボカロがエポックメイキングだったのは、それまで流通していたプロによる商業音楽の牙城に、アマチュアによる非商業音楽を一気に流入させたことでしょう。
 金が関わらない自然欲求的な音楽が「和ロック」だったわけです。もちろん、「和ロック」の定義もまだ明瞭ではありません。和風ロックというと、以前だったら和楽器をフィーチャーしたロックというイメージが強くありましたが、今はちょっと違います。
 先ほど書いた西洋コードに五音メロディーを乗せるという共通点のほかに、歌詞に和語を含ませ、あるいはあえて漢語(漢字)を使ってノスタルジーを喚起するような手法を使ったり、歌に必ず付随してくる映像イメージをコテコテに和風にしてみたり、いろいろな要素がありますね。
 今まで商業音楽は、あくまでアメリカ(とその源流たるヨーロッパ)を意識したものだったわけです。そこに呪縛があった。プロは西洋音楽を隅々まで勉強してきていたので、ついついそっちに行きがちだった。
 それを、たとえば私なんかも、なんとなく違和感を持ちながらも、それこそ中二病的な自己洗脳によって、西洋クラシック音楽とその末裔であるビートルズなんかが「高尚」であると勘違いしてずっと来てしまった。
 もちろんその反動で、無理やりに大学時代には箏曲部に入ったり、純邦楽関係で卒論書いたり、ちょっと違う方向からですが、ジャズにのめり込んだりもしました。あるいはカミさんの影響で、演歌も聴けるようになったし、昭和の歌謡曲の再評価もした。それでも何か「自分の音楽」ではないなという妙な違和感がずっとあった。
 それが、ボカロの登場によって少し救われたような気がしているのです。ああ、なんか落ち着くなと。日本語による日本の旋律。現代の音楽や言葉の作法に従っている「自然」な音楽。そう言っても過言ではないほどに、可能性を感じているのです。
 ボカロが「歌」なのか、それは微妙ですけれども、しかし、一つの革命を起こしたことは事実です。あの、明治の文明開化の時、長三度の音程に吐き気を催した日本人が、それでも無理やり受容してきた「近代ヨーロッパ芸術音楽」の体系を、ついに凌駕する日本の音楽が生まれる可能性を生んだ。

 なんて、ずいぶん大げさなことを書いてきましたけれども、けっこう本気でそう思っているんです。
 さて、最後にまた話が飛びます(私にとっては飛んでいませんが)。最近短歌をやっています。これもまさに「歌」であるべきです。
 しかし、はたして量産される現代短歌に「歌」はあるのか。節(旋律・メロディー)はあるのか。そこにあるのは韻律だけではないのか。リズムしかない音楽。それはラップのようなものではないのか。
 そんなことをある短歌雑誌を読みながらカミさんと話しました。平安の歌人たちは皆アオイドスであったはずです。


 

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コメント

> しかし、はたして量産される現代短歌に「歌」はあるのか。節(旋律・メロディー)はあるのか。そこにあるのは韻律だけではないのか。リズムしかない音楽。それはラップのようなものではないのか。

「無表情」とは決して「無」ではなく、あくまで表情の一つである、と。誰が言ったか解りませんが、確かにそれも道理。であるならば、仮に「旋律・メロディーが無い」としても、実はそれも一つの「旋律・メロディー」なのではないか、と、いう考え方も有って良いと思います。
ってな事を、小松左京の小説を引用して説明しようと思ったら、長くなってしまったので止めときます。

投稿: LUKE | 2013.02.07 04:45

>人間の耳ってすごいですね。選択的に聴ける。どういうメカニズムなのだろう
不思議ですよね~。そして知的には問題はない息子が自閉症なのですが、すべての音をすべて聞き取ってしまうそうです…(自分に必要な音を選択できない…)うちのはまだ軽いほうですが、重症になるとクラスすべての会話がすべて聞きとれてしまい、耳栓なしではいられなくなる子もいるそうです……

和ロック~~、良いですね。そういえば30年ほど昔、アニメのサントラ盤で、三味線と尺八のみでロックを演奏してた曲があったのを思い出しました
(そのアニメの元ネタが必殺仕事人だったりしたことも原因ですね)
すごくカッコよかったです

よさこいなど踊ってますが、静岡の演舞イベントなど行けば、和の色彩や模様満載の衣装があふれてて、ワクワクします(山梨はまだまだ地味だ…)

投稿: ふなふな | 2013.02.07 10:37

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