« キース・ジャレット 『Hymns/Spheres』 | トップページ | 『隠された歴史−そもそも仏教とは何ものか?』 副島隆彦 (PHP研究所) »

2013.01.23

『意識と本質−精神的東洋を索めて』 井筒俊彦 (岩波文庫)

827362 う何回通読したでしょうか。読むたびにこれほど発見がある本というのも珍しい。
 それ以前に、哲学書で何回も読もうというものはこの井筒先生の名著しかありません。
 私はエセ哲学者(単なるハッタリ野郎)なので、実を言うと哲学書を読むのが大の苦手です。
 本当に私の頭は良くないと思います。国語の先生なのに「日本語」が理解できないのです。気持ち悪くなってしまうのです。
 これはワタクシ流に言うと、「コト」であるはずの言語が「モノ」という物の怪になってしまって、サルトル流の「嘔吐」を催してしまうということであります(苦笑)。
 いや、これは本当に困ったものです。若かりし頃は、それでも分かったふりをしたり、あるいは本気になれば分かると信じていましたが、やっぱりここまで来て無理なのだから、最近はすっきり諦めようと思っています。
 そんなわけで、潔く諦めた私は、なんと「日本語よる、日本人のための、日本の哲学」というのを確立しようと目論むに至りました(笑)。
 そう、まず西洋哲学は外国語、外国文化だから「物の怪」だし、いや東洋哲学もそうだな、それらを日本に紹介している日本語の哲学書というのも、ほとんどが「漢語(翻訳語)」で書かれています。つまり本質的には外国語なのです。だから分からんのだと。
 じゃあ、それを「大和言葉」でやってやろう(自分のために)というのが、ワタクシがずっとほざいている「モノ・コト論」なのであります。
Imgres しかし、そんな自己中心的な我が哲学にも参考資料というのが必要ですし、当然先哲に学ばなければ、それこそ単なる自己満足になってしまう。多少は人様のお役に立たねば…しかし、前に書いたようにとにかく漢語だらけの哲学書、思想書は読みたくない!というなんともワガママな私でも、なぜかこの井筒俊彦先生のこの本は気持ちよく読めるのです。
 これは本当にすごいことですね。ホンモノの天才の仕事というのはそういうものなのでしょうか。
 司馬遼太郎は井筒さんを評して「二十人ぐらいの天才が一人になっている」と言ったとか。
 おそらく日本の歴史上の大天才ベスト10に入るだろう井筒俊彦さんをはっきり意識し始めたのは、7年ほど前のことです。
 私のラッキー人生の始まりとも言える、あの出会い、あの夜…これもまた現代が誇る天才のお一人、言語社会学者の鈴木孝夫さんと、まあ不思議なご縁があって富士山麓でお酒を飲んだ時のことです。
 天才から盛んに出た「天才」という言葉…天才が「大天才」と呼んだのが、天才の師匠、井筒俊彦先生でありました。
 とにかくこの本を読みなさいと言われ、さっそく買ってから、それこそ座右の書…というか枕元にいつも置いていた本がこの本です。もう全編赤ペンで真っ赤です。
 東西の先哲の智慧を網羅し、それらを高く大きな視点で統合してくれていますから、私のようなおバカさんでもしっかり実感として受け入れることができます。ありがたい。
 井筒先生が急逝されて今月でちょうど20年。最近またイスラム原理主義者たちによるテロなどにより、イスラム教への偏見というか無理解が助長されるような気がして心配しています。こんな時こそ、イスラムを知り尽くした井筒先生の本を読もうと思って、再び手にとったということもあります。
 それから、最近、そういう昭和の天才に興味が俄然湧いてきていまして、たとえば仲小路彰とか大川周明とか。そんな中、大川周明→井筒俊彦→鈴木孝夫という妙なるラインが気になったりしましてね。
 いずれにせよ、この歴史的な名著によって、東西の哲学を俯瞰し、ある意味では東洋人で良かったな、日本人で良かったなと思うだけでも、我々非天才にとっては意味のあることかもしれません。

Amazon 意識と本質


|

« キース・ジャレット 『Hymns/Spheres』 | トップページ | 『隠された歴史−そもそも仏教とは何ものか?』 副島隆彦 (PHP研究所) »

モノ・コト論」カテゴリの記事

心と体」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

文学・言語」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

> もう何回通読したでしょうか。読むたびにこれほど発見がある本というのも珍しい。
> もう全編赤ペンで真っ赤です。
恐れ入りましたっ orz。
ゆっくりじっくりでしたが、1回読んだだけです。

正直に申して、この本は、あまりにもわかりやす‘そうに’(わかりやすく、というのでなく)書かれていて、その点がかえって落胆したところです。
庵主さんの論法ですと、「モノであるべきものが、簡単にコトとして論じられている」感触を得たのでした。X章からXI章にかかるカバッラーの説明にしても、「え? こんなわかりやす‘そうな’説明でOKなの?」と思ってしまいました。

その結果、読み了えると「よくわからなかった」のでした。やはり何回も読まないとダメなのでしょうか。
「分節」、「無分節」にしても、あまりにも意味がわかったものとして、つまり「コト」として書かれ過ぎているように感じました。
『大乗起信論』を扱った『無意識の形而上学』も同じ感触でした。

という次第で、井筒先生はやはり専門のイスラーム思想に関するものを読むべきか、と思いつつ、『イスラーム思想史』は埃にまみれたまま。
『イスラーム哲学の原像』(岩波新書)を読んだ時は、知らない分野ということもあり、じつに鮮烈でしたけれど。

投稿: へうたむ | 2013.01.25 03:16

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55913/56610731

この記事へのトラックバック一覧です: 『意識と本質−精神的東洋を索めて』 井筒俊彦 (岩波文庫):

« キース・ジャレット 『Hymns/Spheres』 | トップページ | 『隠された歴史−そもそも仏教とは何ものか?』 副島隆彦 (PHP研究所) »