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2013.01.12

「米(こめ)」の語源

Imgres_2 日は我が中学の推薦入試でした。
 新しい出会いの日です。毎年のことながら、いろいろな意味でドキドキしますね。
 今年もいつものように国語の試験の本文を公開しましょう。私は本文を自分で書きます。入試はメッセージであるべきだと考えているからです(中学入試に適した文章を探すのが至難の業であるということもありますが)。
 今年は「知識と体験」というタイトルで書いてみました。ブログの読者の皆さんには「米(こめ)」という日本語の語源の話として読んでいただきましょう。


  知識と体験

 みなさんはお米を毎日食べていますか?
 おそらく答えは「はい」でしょう。
 私たち日本人にとって、お米はとても大切なものです。なくてはならないものと言ってもいいでしょう。
 米がなければ、毎日食べる白いごはんはもちろん、たとえばみなさんの大好きなカレーライスやチャーハンやピラフなんかも存在しないことになります。
 おやつのおせんべいやお正月のお餅も米からできていますから、米がなければそれらもこの世からなくなってしまいますね。
 今日は、そんな大切な「米」を通して、知識と体験ということについて考えてみましょう。
 まず、「こめ」という言葉の語源(もともとの意味)についてお勉強してみましょう。
 本当のことを言うと、あの稲の実のことをどうして「こめ」と言うのか、よく分かっていないのですが、ここでは一つの説を紹介することにします。
 「こめ」は「込める」という意味である…つまり「中につめる」ということですね。
 このようにある動作を表す言葉(動詞と言います)がある物の名前(名詞と言います)になる例がほかにもあります。
 たとえば、みなさんの家にもある「畳」。これは「たたむ」という動詞から生まれた名詞です。その他、「つまむ」→「つまみ」、「こおる」→「こおり」あたりは分かりやすいでしょう。お相撲さんの「まわし」が「まわす」から生まれたというのも想像しやすいかもしれません。
 ちょっと分かりにくい例では、算数で「おうぎ形の面積を求めなさい」などと言う時の「おうぎ」、漢字で書くと「扇」という字になりますが、これは「あおぐ」という動詞と関係があります。昔の日本語では「あおぐ」ことを「あふぐ」と書きました。そこから「あふぎ」という名詞が生まれ、発音がなまって「おうぎ」と言うようになったのです。
 おっと、だいぶ話がそれてしまったので元にもどしますね。
 「米」が「込め」だという話でした。
 「米」がなぜ「込め」なのか…そう、お米にはいろいろなものが込められているのです。
 まず、自然の恵み。水や光や空気や大地の栄養分などなど。いろいろな恵みがあの小さな実にはぎっしりつめ込まれています。
 さらには、稲を育てて米を収穫する農家の人たちの努力や気持ちも込められていますね。
 そんなことをちょっと想像してみてください。
 うん、なんとなく分かるような分からないような…そうでしょうね。知識としては「なるほど」と思っても実感としては納得できないかもしれません。
 たとえば、その言葉としての知識を確かめるために、米つぶを顕微鏡で観察してみたとしましょう。はたして、そこに大自然や農家の人々の恵みが見えるでしょうか。
 なかなか見えてこないでしょうね。そう、そこで大切なのが体験です。
 今年度、富士学苑中学校の三年生は米作りを体験しました。
 専門家の方にご指導いただきながら、四月の畦塗り(田んぼに水をためるための畦を作る作業)から、五月の田植え、その後の草取りや水の管理、そして十月の稲刈り、稲架掛け(刈った稲を干す作業)に至るまで、半年間にわたって田んぼに通い続けました。 
 まさに汗水垂らして、泥だらけになって、そして心を込めて作業しました。
 そうして秋になり、稲穂が頭を垂れ始めたころ、ちょうど稲刈りの一週間くらい前でしょうか、台風が山梨県を直撃しました。
 その時生徒たちは、それぞれの家でニュースを見ながら、「自分たちが心を込めて作った稲がどうか無事でありますように」と祈ったに違いありません。
 そうしたみんなの祈りのおかげもあって、台風による大きな被害もなく、無事に収穫の時を迎えることができました。そんな願いや祈りもお米には込められているのですね。
 そういう経験をしたからでしょうか、生徒たちは、毎日食卓に出されるごはんに対しても、「ありがとうございます」「いただきます」という感謝の気持ちをいだくようになったようです。新たに感謝の気持ちも込められて、お米は私たちの体の中に入ってくることになったわけです。
 このように、「米(こめ)」という日本語についてその語源を考え、実際に米作りを体験するだけでも、今まで当たり前に見て、さわって、食べていたお米が、全く違ったものに感じられるようになります。
 これなどは、知識と体験がしっかり結びついた良い例ではないでしょうか。
 一度結びついた知識と体験は、時間がたっても消えることはありません。実感として体と頭に刻み込まれます。
 私たち富士学苑中学校では、その知識と体験の結びつきこそが「勉強」だと考えています。
 特に私たちの日常生活を、知識と体験を通して見直すことに力を注いでいます。
 この文章の最初に、『私たち日本人にとって、お米はとても大切なものです。なくてはならないものと言ってもいいでしょう』と書きました。それは言いかえると、『あまりに身近すぎて、あまりに当たり前すぎて、何も知らない』ということにもなります。
 実はお米のように身近すぎて知らないこと、当たり前すぎて感謝するのを忘れていることが、身のまわりにはたくさんあります。
 教科書に書いてあることを通して新しい知識を身につけることも、もちろん大切です。しかし、それ以上に、私たちの生活の中の「当たり前」を、もう一度体験し直してみることも大事なのです。

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