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2013.01.31

『アインシュタインの教育観』 寺田寅彦

Url 試シーズン真っ盛り。迎え入れ(中学・高校の入試)と送り出し(大学入試)は毎年同時にやってきます。一番忙しいけれども、一番の腕の見せ所でもあります。
 そして、こういう時だからこそ、毎年このシーズンは「教育」についていろいろ振り返る機会ともなります。
 今日も先人に学びました。寺田寅彦とアインシュタインです。
 青空文庫を検索すれば、本当にいろいろな先人、賢人の教育観を読むことができます。先日の新渡戸稲造もそうでした。
 寺田寅彦の「アインシュタインの教育観」は大正10年に書かれたもの。すなわち1921年。一般相対性理論は1916年に発表されており、翌年1922年にはアインシュタインは初来日を遂げていますから、まあ日本でも「相対論ブーム」「アインシュタインブーム」が起きていたのでしょうね。
 当然寺田寅彦も興味を持っていたようで、知り合いからある本を送られて、その内容の一部をこうして発表したようです。共感したんでしょうね。
 全文はこちらで読めます。
 最近の教育問題にもつながる根本的な問題が提示されていますね。
 結局は明治に始まる「講義暗記型」の教育が現代までずっと続いてきていることに大きな問題があるわけで、それは基本的には、日本だけでなく全世界的な問題なのでしょう。
 アインシュタインは授業(講義)も上手だったようで、次のような言葉にも説得力があります。寺田寅彦も「耳が痛い」と書いています。私にとっても耳が痛い。ほとんどの教師にとって耳が痛い。

Imgres「◯◯嫌いの原因が果して生徒の無能にのみよるかどうだか私にはよく分らない。むしろ私は多くの場合にその責任が教師の無能にあるような気がする。大概の教師はいろんな下らない問題を生徒にしかけて時間を空費している。生徒が知らない事を無理に聞いている。本当の疑問のしかけ方は、相手が知っているか、あるいは知り得る事を聞き出す事でなければならない。それで、こういう罪過の行われるところでは大概教師の方が主な咎を蒙らなければならない。学級の出来栄えは教師の能力の尺度になる。一体学級の出来栄えには自ずから一定の平均値があってその上下に若干の出入りがある。その平均が得られれば、それでかなり結構な訳である。しかしもしある学級の進歩が平均以下であるという場合には、悪い学年だというより、むしろ先生が悪いと云った方がいい。大抵の場合に教師は必要な事項はよく理解もし、また教材として自由にこなすだけの力はある。しかしそれを面白くする力がない。これがほとんどいつでも禍の源になるのである。先生が退屈の呼吸を吹きかけた日には生徒は窒息してしまう。教える能力というのは面白く教える事である。どんな抽象的な教材でも、それが生徒の心の琴線に共鳴を起させるようにし、好奇心をいつも活かしておかねばならない」

 全くおっしゃるとおりであります。冒頭の◯◯には本当は「数学」が入るのですが、あえて◯◯にしたのは、そう、どんな教科でもあてはまるからです。あるいは「勉強」という言葉を入れてもいい。
 それから、試験嫌いで有名なアインシュタインらしく、「試験=無駄な生徒いじめ」と断じ、「競技的な天才教育」はいけないとしているところも興味深い。
 これは勉強に限らず、スポーツなどにおける成果主義にも通じる問題点でしょうね。ある意味、最近の体罰問題、いじめ問題の根幹もそこにあるような気がします。
 あと、視覚的な教材をすすめているのも現代的ですね。「知識が体験にならねばならない。この基本方針は未来の学校改革に徹底させるべきものである」。
 当時はフィルム(映画)。今ならディスプレイを使ったものとなるでしょうか。おそらくアインシュタインは言語型人間ではなく、どちらかというとイメージ人間だったのでしょう。
 こう考えてくると、日本の近現代の教育は、天才を活かさない(殺す)教育だったような気がしますね。

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2013.01.30

超軽量&低価格 アルミ製譜面台

316rkpye8xl_sl500_aa300_ 試シーズンで忙しいので、今日は軽めに。
 本当に軽いのです(笑)。600g。普通の鉄製だと1kgくらいですから、軽さの実感は感動的。
 音楽家にとって譜面台の持ち運びというのは、ちょっとしたストレスです。
 鉄製のものは大きさのわりに重いし、たたんだ状態でもけっこう長い(平均50センチくらい)。さらにいろいろ突起があって、裸でバッグなどに入れると引っかかるし、他のものに傷をつける。
 安いものはケースがビニール製で弱いし入れにくい。だからつい裸で持ち運ぶことも多くなり、塗装もはげたりする。
 超軽量をうたったアルミ製のものも、たとえばヤマハなどで出していますが、けっこうなお値段でとても買えません。
 結局、ウチなんか安物買いのなんたらで、微妙に壊れた中国製の重い譜面台がたくさん転がっているという状況になっています(苦笑)。
 そうそう、中学校の弦楽合奏部でも1000円以下の中国製譜面台を一括購入しましたが、まあ、壊れる壊れる。面白いくらい(笑)。特にネジがすぐにダメになる。中学生じゃ扱いも雑ですし。
 それを直して使うのも、まあ勉強といえば勉強ですけど、それにしてもなあ、1年持たないとなると、さすがに文句も言いたくなりますね。
 もちろんプロの方々は一生使えるような立派なものをお持ちでしょうが、私のようなアマチュアは譜面台にそこまでこだわれません。
 私が最近手に入れたこれなんかは、軽いし使い勝手はいいし、ケース(布製巾着袋)もなかなかいい質感だし、気に入っていますよ。たたんだ時も普通のものより短いし。あとは長持ちしてくれればいいなあ。
 高さの調整がネジではなくてパチンというストッパーというところがいい。ストッパーはプラスチック製なので、強度、耐久性の面で心配はありますけど、そんなに頻繁に操作するものではないので大丈夫でしょう。
 アルミ製と銘打っていますけれども、けっこうプラスチックが使われています。それで軽いというわけですね。しかし、それがまたゴツゴツ感を低減する結果になっており、好感触です。
 軽いと倒れやすい、特に野外では風で倒れる危険性が増しますね。歌謡曲バンドの野外ライヴではちょっと使えないかな。というわけで古楽用ということになりそうです。
 2月11日のコンサートでも、これに譜面台ライトを装着して臨むと思います。
 あっ、そうそう、言うまでもありませんが、本体がアルミなので当然磁石はつきませんね。

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2013.01.29

『我が教育の欠陥』 新渡戸稲造

Url 罰問題、いじめ問題、早期退職問題…日本の教育はどうなってしまったのでしょうか。
 今日、内田樹さんの「教育について思うこと」という文章を読みました。
 全てに賛成というわけではありませんが、なんでも日教組(のような諸悪の根源、悪意の主体)のせいにするのは思考停止であるという意見には同意です。
 現代の教育問題の原因の全てが日教組にあるわけではありません。もちろん戦前の教育が素晴らしかったというわけでもありません。
 今日は、戦前の教育、つまり明治以降の西洋的な学問の世界の問題点を鋭く指摘した文章を紹介しましょう。
 かの新渡戸稲造の「我が教育の欠陥」です。1907年、明治40年の文章です。当時、新渡戸は第一高等学校の校長だったと思います。
 敬虔なキリスト教徒であり、間接的とはいえクラーク博士の薫陶を受け、ある意味では自ら進んで西洋化への道を選択したはずの新渡戸が嘆いてるのは、日本古来の「品格(品性・正義など)」を失ってしまった日本人の姿でありました。
 自らも西洋的な(科学的な)教育を通じて「霊性」を犠牲にしてしまったと嘆いています。
 つまり、現代の教育問題の端緒は明治維新、文明開化にあったということです。和魂洋才を目指すも、結局は魂も洋化してしまった。そんな苦悩が読んで取れます。
 新渡戸はクエーカーとして悩んだのでしょうね。それは「武士道」を読んでも分かります。なんとか西洋的な霊性と日本的な霊性とを合流、一致させようと惨憺している。
 前も書いたように、戦後教育では「霊」という言葉も現場から排除されていきました。世間でも「霊」はオカルトになってしまいました。「霊」について語ると怖がられるか、馬鹿にされるか、避けられます(苦笑)。
 コトに走りモノを幽閉してしまった現代。
 単純に「昔は良かった」と言うつもりはありません。しかし、どのタイミングで私たちが自分たちの「霊性」を失っていったのか、そしてそれが誰のせいでもなく、実は自分たちの「選択」によって行われたということを知ることは重要だと思います。



   我が教育の欠陥   新渡戸稲造
 
 我政府が教育上に於ける施設の多大なることは否むべからず。明治年代の教育法は、維新前の教育法を継承せるものにあらずして、全く新軌道を取れるものなれば、その事業の宏大なることもまた否むべからず。この新教育制度の成功の量の大なることも、また否むべからず。されどああその成功や過ぎたり矣。今日の教育たるや、吾人をして器械たらしめ、吾人よりして厳正なる品性、正義を愛するの念を奪いぬ。一言にしていわば、これぞ我祖先が以て教育の最高目的となしたる、品格ちょうものを、吾人より奪い去りたるものなる。智識の勝利、論理の軽業、あやつり、哲学の煩瑣繊微、科学の無限なる穿究、これらはただ吾人を変えて、思考する器械たらしむるに過ぎざるものなりとせば、畢竟ひっきょう何の益かある。フレーベル及びヘルベルトの教育法も、もしこれらが吾人の目にある眼鏡に過ぎずして、ける器関たらずんば、果して何の利するところかある。

 吾人は智識を偶像として拝し、しかして智識は情緒と提携するによりてのみ、高大なる真理を捉え得るものなることを忘る。潔くして汚れざる心は、顕微鏡よりも、はた塵塗ちりまみれの書冊よりも見ること更にあきらかなり。

 予は信ず、人の衷心、聖の聖なるうちに、神性ありて、これのみく宇宙間に秘める神霊を認識し、これを悟覚するを得るものなりと。物質界に於てすらも、高尚なる真理は、たとえあるいは心があきらかにこれを覚知し、あるいは眼がこれを洞察し得るとも、その覚知認識する所を言語によりて伝えんとせば、必ずや困難なるを感ぜん。科学と哲学とは、けだし無限の長語を以て、この欠乏を補わんがために来れり。

 予の見るところを以てすれば、科学上驚異すべき発見は、皆その発見の在るに先んじて、既に久しく人の心に覚知せられたるものなるが如し。語を変えていわば、科学は常に、人の預覚のしりえに遅々として来たるものなりと。

 その初にはソクラテスの如く、洞察眼を備え、高尚なる思想、清浄純潔なる心念を育して、霊智と親しく交る人あり。これに継ぐに、プラトーの如く、その師の胸裡に雑然として存在したるものを取りて、雄弁荘重なる言語に托するものあり。而して後、アリストートルの如き者ありて、先人が悟覚し、また感応するままに語りしものをば、形式法則に配列す。もしアリストートルにして、ソクラテスの如く、霊智に従うことに忠実ならんか、また師の心に同情すること、プラトーの如くならんか、彼の科学哲学に於ては毫も非難すべきものなけん。されど彼れは感応を犠牲としても科学的ならざるべからず、霊的省観を失うとも、哲理的ならざるべからずとするものならば、彼れたるもの果して人教――まったき意義に於ての人教――の最大産物なりや、これ甚だ疑うべし。

 我が教育は全力を捧げ、霊性を犠牲として、アリストートルの業をなしたり。これ一椀のあつものに、長子の権をひさぐものなり。これ我種族伝来の最善なるものに不忠なることを示すものなり。これ単に欧洲教育の猿真似なり。これ即ち、吾人が今認めて優者とする民族に対する謬見――甚だしき謬見より生ず。彼のアングロ、サクソン人種が雄大を致す所以ゆえんのものは何ぞや、その発達の秘義とは何ぞや。

 人は、アングロ、サクソン人種に許すに、最大または最多数の哲学者を出したる事を以てせざるべし。事実は科学が彼らの中に於て、最も進歩したることを証せず。また英文学もその富を挙ぐとも、決して希臘ギリシア文学に優れりということ能わず。もしある点に於て、英国哲学及び英国文学が、大陸または亜細亜アジアの科学哲学に優れるものありとすれば、則ちこの智識顕昭の裏面には深因の存するものあるが故なり。その原因はこれを一言にして挙ぐるを得べし。曰く品性キャラクターなりと。

 キッドが、その種族の偉大なる原因は、平民的なる日常道徳を有してこれを行うことと、勤勉にして、真理を愛し、かつ正直なるとにありと主張するは正当の説にして、またデモランがこれらを以て、アングロ、サクソン人種の雄大なる所以の主質なりと説明せることも、また大にその理あり。

 一種の感情家のいわんが如くに、日本は挙げて一個の美術国たるべく、吾人は国民をして、この国土の如くに美しからしむべく、吾人は、吾人の運命をして、世界他邦の玩具ならしむべきものならんには、吾人は我が子孫を教育するに、祖先の厳正なる性格にのっとらずして、典雅魂を奪い、麗美心をとろかすべきの法を以てし、かくのごとくして、吾人をして、今や衰境におちいれるラテン民族の如くに美しからしむるを可なりとせん。

 されど今の時は夢にふけり、あるいは平凡なる歌を唸り、または利己的勉学をほしいままにすべきの時ならず。アア「北より吹き来る風は、吾らが耳に鳴りとどろく武具の響を伝えん」ものを。益荒武夫ますらたけおの雄心は吾らが父母の遺せる最も尊き賜なるぞかし。吾人は近く文相が訓示して、人格を作るを以て、我が教育策の大主旨となすべしといえるを聞く。この思想が将来、何程に発達し、幾許いくばくの実効をもたらし来るや、吾人は皿大の眼を張りてこれを注視せんとす。

〔一九〇七年八月一五日『随想録』〕

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2013.01.28

山下菊二 『あけぼの村物語』

20130128_180114

 が山梨県の裏歴史の一つ。曙事件。県民にもほとんど知られていません。
 それを描いたのがこの山下菊二の「あけぼの村物語」。山下の代表作としてテレビなどでも紹介されています。
 山下菊二は戦後を代表するシュールレアリスム画家。彼独特の土着的で怪異的な作風は、そのテーマの重さに反してどこかユーモラスでもあり、不思議な魅力を放ち続けています。
 ちょいと手抜きをして、画像検索で彼の作品を見ていただきましょう。こちらです。
 山下は戦中、兵隊として上官に逆らえず、結果として戦争に加担せざるを得なかったことを悔い、戦後は共産党員となって、実際に山村工作隊に所属して活動したり、絵を描いたりすることで、権力や天皇制と闘い続けました。
 この「あけぼの村物語」に描かれたのは、1952年、山梨の貧村、南巨摩郡の曙村で実際に起きたある事件を題材としています。
 その事件こそが冒頭に書いた山梨県の裏歴史です。いまだに解釈の分かれている事件でありますが、いちおうwikiの内容を貼っておきす。

(以下引用)
事件の発端
 平家の落人の村と言われた寒村曙村、山梨県南巨摩郡曙村は平家の落人伝説がある貧しい村であったが、一方で資産家のSが力を奮い、農地改革以降も山林地主として影響力を保持していた。
 日本共産党は、この村に山村工作隊を派遣。「山林地主からの山林の解放」を掲げ、「Sを人民裁判にかけ、財産を村民に分配する」と主張してオルグ活動を展開した。
事件の概要
 1952年7月30日夜、10人の山村工作隊が竹槍や棍棒を持ってS宅に押し入り、就寝中のS本人のみならず、妻や家政婦・小学生3人も竹槍で突き刺し、棍棒で殴打して重傷を負わせた。更に家財道具を破壊した後、現金4,860円と籾1俵を強奪して逃走した。
 この事件の最中、党員一人が事故死し、実行者も全員逮捕された。
その後の顛末
 1964年、最高裁判所は被告全員に懲役2年から8年の有罪判決を下した。
 日本共産党は、この事件について菅生事件と同様の公安警察による謀略事件としており、事件発生50周年を記念したパンフレットでも同様に主張している。一方で共産党に批判的な立場からは、山村工作隊に代表される武装闘争路線が招いた政治テロの一つとして捉える見方も根強い。
(引用終わり)

 まあいずれにしても昭和の暗部でありますな。ある意味熱い時代であったとも言えますが…。
 私はこのあたりの時代に関しては今勉強中です。私が生まれたのが1964年ということで、だんだんとこういう空気が希薄になっていった時代に生きて来ましたから。
 山下菊二は前述のように共産党員であり、山村工作隊の工作員だったので、当然、この絵を労働者の立場から描いています。
 しかし、絵画としては地主(資本家)が視点になっているとのこと。その辺の解釈も複雑で難しいところです。
 wikiの記事に「党員一人が事故死」とありますが、工作員が地主に棍棒で殴られ、消防団に追われた末に富士川で溺死したというのが真相のようです。
 本来はっきり二分されているべき、労働者と資本家、被害者と加害者が、この事件では複雑に交錯し、より一層謎を深めている感じがしますね。
 それを絵画という次元で昇華した作品なのでしょう。
 山下菊二は鳥が大好きで、自宅(アトリエ)にたくさんのフクロウを放し飼いにしていたそうですね。たしかにフクロウ可愛いですけど、あんなでっかい鳥が家の中をバッサバッサ飛んでたら、お客さんはビックリですよね。
 大江健三郎の本の装丁もしていた山下。やっぱりそういうラインもあったのか。
 あっ、それから、山梨の山村工作隊と言えば、あの、私の尊敬する歴史学者の網野善彦も関与してたんですよね。う〜む、なんとも複雑な裏歴史でありますな。
 そのあたりもあえて掘り出して自分の中で「総括」してみます。

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2013.01.27

2013年はスーパー彗星イヤー

↓2011年ラヴジョイ彗星
Jamestsedsc_6059s_1324663258 年2012年はスーパー天文イヤーでした。特に日本では金環日食に湧きましたね。
 一転して今年は、特に大きな天文現象はない…はずでしたが、予定外にとんでもないものが観られることになりました。
 肉眼彗星二つです。パンスターズ彗星とアイソン彗星です。
 予定外と書きましたけれども、パンスターズ彗星は一昨年2011年の6月に、アイソン彗星は去年2012年の9月に発見され、その時点で軌道の計算がなされ、かなり明るくなるという予想はされていました。
 パンスターズ彗星は3月から4月にかけて、アイソン彗星は11月から12月にかけて日本で観測することができそうです。
 特にアイソン彗星は史上最大級になり、なんと昼間でも観ることができるようになるかもしれません。これは大変なことです。ニュートンやハレーも観測した1680年のキルヒ大彗星以上の明るさ、すなわち満月よりも明るくなる可能性があるのです。
 まさに500年に一度の一大イベントになるかもしれません。
 パンスターズ彗星は、なんとかマイナス等級になる程度でしょうから、それほど見応えがあるものにはならないかもしれません。
 普通の星、たとえば恒星や惑星では、1等級や0等級、マイナス1等級ともなると、かなり明るい印象がありますが、彗星の場合、面積があるので、思っている以上には(つまり写真で見て期待するような)明るさには感じられないものです。
 それに比べてアイソン彗星の場合はマイナス10等級以上に明るくなるかもしれないとのこと。さすがにこれは壮観なことになりそうですね。
 しかし、私たち天文ファンはよく知っています。彗星の光度予想が非常に難しいことを。いくつもの例を挙げるまでもなく、期待どおりに明るくならなかったもの、予想外に明るくなったものばかりで、実は予想通り、期待通りということの方が少ないのです。
 これは、彗星本体の構造や成分が事前になかなか確認できないことに起因しています。
 おそらくはこの二つの彗星両方とも、いわゆるオールトの雲から生まれたものと考えられますが、そのオールトの雲自体その実態がよくわかっていません。
 今回の二つの彗星は、今のところ回帰しない彗星、すなわち二度と太陽に近づかない、つまりもう二度と観ることができない彗星のようです。
 そうした大彗星を同じ年に観測できる私たちは幸せ者ですね。いやが上にも期待が高まります…が、期待はずれになることも想定しておきましょう。
 太陽に近づいた所で分裂したり、爆発したり、蒸発しちゃったり、消えてしまう可能性さえあるわけですからね。
 古来、彗星は凶兆とされてきましたが、私は今回の二つの彗星の来訪は吉兆のような予感がしています。
 その予感が的中するためにも、期待通りに美しい姿を私たちに見せてほしいものです。みんなで祈りましょう。
 ちなみに、パンスターズもアイソンも個人名ではなくプロジェクト名です。彗星探査の技術は格段に向上しました。そのおかげで、個人のコメットハンターの活躍の場がなくなってしまって、ちょっと残念だと思うのは私だけではないでしょう。
 池谷・関彗星(の写真)に心躍らせた少年時代の私の夢は、自分の名を冠した彗星を発見することでした…。

2013年を賑わすかもしれない2大彗星 ( パンスターズ / アイソン )

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2013.01.26

「先」&「経」の謎…

Url 日は2月11日のコンサートの練習で東京へ。
 いつもなら高尾に車を置いてそこから電車で都心に向かうのですが、今日はなぜか車で最後まで行こうと思い、余裕をもって富士山を出ました。
 しかし、思わぬところで事故渋滞に巻き込まれ、結局1時間以上の遅刻。皆さまにご迷惑をおかけしました。
 高速で渋滞に巻き込まれ、ようやく下道に降りたら降りたで、東京の迷路にはまり、時間はどんどん過ぎていく。
 目の前の信号がことごとく赤になる。目の前のバスをなかなか追い越せない…今までも何度も経験したことですが、やっぱりなんとも言えない不快感に陥りますね。
 これこそが、私の言う(本居宣長の言ったのとは違う、正しい)「もののあはれ」でしょう。不随意、不如意への慨嘆。
 もうどうせ間に合わないし、せっかくですから(?)、その不快感を分析することにしました(笑)。
 そう、最近考えている「日本人の時間観」の考察であります。
 で、あることを思い出したので、備忘のためにここに書き記しておきます。
 実は、この「日本人の時間観」を含めた「日本語による日本人のための日本の哲学」をいずれあるところに連載する予定ですのでお楽しみに。
 ということで、全部は書けません。あたためておいて、バン!と出します。今日はチラ見せだけ(笑)。
 まず、「時間は未来から過去へと流れている」を証明する日本語です。
 それは「先」という言葉。「さき」です。
 皆さんは、「さき」と言うとどういうイメージを抱くでしょうか。
 空間的には運動方向やその端を指す言葉ですね。「→」なら右端というイメージでしょう。100メートル先と言えば、前方100メートルということです。
 では、時間的にはどうでしょう。
 実はこれが大問題なのです。たとえば「10年先」というと、現代では「10年後の未来」を指しますよね。しかし、これが古代日本語だと逆になるんです。「10年前」ということです。
 「先の副将軍…」というのを思い出さずども、「さっき」という言葉、これは「先」なんですよ。つまり「先」は「過去」なのです。
 もうお分かりかと思いますが、空間的な「先」と時間的な「先」を組み合わせてると、時間の流れる方向が想像できますね。
 さて、次は「経つ」という言葉。これはですね、「時間が経(た)つ」とか「いつまで経っても」というように使われます。
 これは実は驚きだったのですが、日本国語大辞典に「経つ」の見出しがないんですよ。語源となった「立つ」の項の「五」にようやく「経つ」が出てくる。
 この事実は非常に重要なことを示唆しています。もともと「春が立つ」とか「月が立つ」とか、そういうふうに使っていたんですね。「立春」「ついたち」です。
 この「立つ」はもちろん「現れる」という意味です。それが中世以降、経過するという意味で使われるようになった。
 おそらく中国の時間観の影響があったのでしょう。そして、その中で「経」という漢字が、経過を表すことを知り、それを「たつ」という和語に当てはめ始めたという歴史があったと思われます。
 そこで不思議な符合が起きます。「経」という漢字、ご存知のとおり、「経線」のように「縦」という意味があります。もとは「たて糸」という意味ですよね。
 日本語の「たて」はもちろん「たつ」の連用形から生まれたわけですから、そうしたイメージと、「経過する」という意味の「たつ」の成立は、深く関わっていたのではないかというのが、私の新発見であります。
 もちろん、「経る(へる)」(古語で言うと「ふ」)との関係もいろいろ考えられます。古くなるという発想…。
 ま、どうでもいいことですか。しかし、こういう発見から、実は日本人の時間観の変遷が見えてきたりするんですよ。
 そのあたりも含めて、春頃から連載しようと思いますのでご期待ください。
 

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2013.01.25

白熱灯をLEDに替えました。

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 球をLEDに替へたれば少しく寒し歌作る手も

 短歌雑誌「未来」の今月号、笹公人欄の冒頭にワタクシの歌七首が置かれております。ありがたいような気恥ずかしいような…その中の一つが上の歌です。
 枕元の電気スタンドの白熱灯をLEDに替えた時の感覚を(私にしては珍しく)シンプルに表現してみました。
 白熱灯で手元を照らしながら布団の中で歌を作ります。いや、ノートに鉛筆で書き込む…ではなくて、iPhoneを片手に打ち込む、いや親指を滑らせるんです。
 白熱灯ですと、実際に指先を温めてくれるじゃないですか。ぬくもりがある。
 それをLEDに替えたら…という、まあそれだけの話です。
 我が家の冬は寒いのです。温暖化したとは言え、富士山を3分の1ほど登った所はさすがに寒い。冷えます。最低気温氷点下18度くらい(15年前はマイナス20度、25年前はマイナス25度になっていましたが)。
 なのに暖房器具は6畳用の小型ファンヒーター2台のみ(笑)。いちおう家は高断熱仕様ですので、それでもなんとか室温17度くらいまでは上げることができますが。
 いや、ホントはですね、床暖房があるんですが、あの震災の日以来安全装置が働いたのか稼働しなくなってしまって、結局それを復帰させていないのです。
 ま、厚着すればそれなりにしのげるということが分かったので、灯油が高くなった昨今の事情も踏まえて、最低限の暖房でなんとかしのいでいるというわけです。
 それから、我が家はほとんどが裸の杉板でできているのと、照明が白熱灯だったので、それで部屋全体、家全体が暖色系でして、それでなんとなく「あったかい」雰囲気があったんですよね。
 最近はLEDも暖色系が充実してきて、さらにお値段もずいぶんと下がってきたので、電気代節約の目的で、切れた電球からLEDに替えるようにしてきました。現在約3分の2がLEDになりました。
 暖色と言えどもやっぱり、本当の熱を発している白熱灯と、なんかウソついてごまかしているLEDでは、正直イメージが違うんですか、まあ慣れてくればそれなりの満足が得られますね。だまされればいいだけの話。
 逆に今まで電気代をケチって消していたところも積極的に点けるようになったので、明るさから暖かさが増した感じがするというのも事実。
 ただ、最初の短歌に戻りますけど、枕元の電気スタンドだけは白熱灯に戻します。あれだけはリアルな「暖房器具」として働いていたので(笑)。
 今日は私がLEDを購入しているネット・ショップを紹介しておきます。とにかく安い。そして品揃えが充実している。
 最初はこの店で格安ソーラーパネルを買ったんですよね。そう、ソーラーカー(?)用のあれです。それがそこそこの製品だったので、電球類も買うようになりました。
 皆さんもそろそろ積極的にLEDを導入してみたらどうでしょうか。
 ちなみにウチは明るくなった途端、妙にいろいろなアラが顕在化してきましたが(笑)。

ビームテック
 

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2013.01.24

『隠された歴史−そもそも仏教とは何ものか?』 副島隆彦 (PHP研究所)

F0134963_813091 〜ん、昨日の井筒先生の御本とは対照的…いや、もしかして似てるとか(笑)。
 最近、苫米地英人さんや宮崎哲弥さんなど、一見仏教とは関係なさそうな現代的(芸能人的?)知識人たちが、その仏教マニア(オタク?)ぶりを発揮して、いろいろな本を出していますね。
 副島さんのこの仏教に関する本も、ちょっと意外な感じがします。副島さんというと、左右を超えた政治・経済評論というイメージがありますから。
 仏教=キリスト教、観音・弥勒菩薩=マリア様か…まあ、ここまでぶっ飛んでると、副島さん自らが「と学会」に所属し揶揄している「トンデモ本」になっちゃいますよ。
 ついでですから、ここで「とんでもない」という言葉について、ちょっと書かせてもらいますね。
 「とんでもない」を、たとえば「トンデモ」と言ったりしますが、「ない」を否定の意味と捉えると、「とんでもない」と「トンデモ」は逆の意味になってしまいます。
 しかし、不思議とそういう論理矛盾に対する生理的不快感はないじゃないですか。
 これって、例のあれですよ…東北地方に多くある強調の「ない(ねぇ・ねぁ)」。「やかましねぁ=とてもやかましい」、「おそろしねぁ=とても恐ろしい」みたいな。
 標準語でも「せわしない=とてもせわしい」、「切ない=とても切実だ」のような形で残っています。
 国語学(日本語学)的には「とんでもない」の語源は明らかにされていないようですが、おそらくこの私の説は間違っていないと思いますよ。
 で、「とんでも」がどういう意味かというと、「とんだことをしでかした」の「とんだ」と同様に、やはり「飛んだ」でしょう。
 ですから、副島先生がぶっ飛んだとしたら、やはり「とんでもない」「トンデモ」になってしかるべきなのです。
 …というような、ワタクシの半分ハッタリ半分本気のこの語源説のように、副島先生のトンデモももしかすると案外当たらずとも遠からずかもしれませんね(笑)。
 私は、副島さんとは逆に、西進した仏教がキリスト教の成立に影響を与えた、つまり、ブッダの言説がイエスの思想に大きな影響を与えたという仮説を持っています(こちら参照)。
 そういう意味では、私も副島さんと同じくらい「ぶっ飛んでいる」のかもしれません。
 井筒俊彦先生は「東洋哲学(思想)の共時的構造化」を目指しましたが、副島さんとワタクシは、もしかして東西の共時的構造化を目論んでいるのかも…。
 ま、読み物、物語としてはけっこう面白い本だと思いました。あの独特の「断定調」をもってして、このトンデモな内容を語っているわけですから、まるで木村鷹太郎のような感じさえします。副島先生もそういう高みに昇りつつあるのでしょうか。
 そう考えると、昨日紹介した井筒先生もかなり「ぶっ飛んでいる」哲学者ではありましたね。もちろん鈴木孝夫大明神も。天才とはそういう紙一重な存在なのでしょう。ある意味構造化(コト化)を拒否する大化け物(モノノケ)ということです。

Amazon 隠された歴史
 

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2013.01.23

『意識と本質−精神的東洋を索めて』 井筒俊彦 (岩波文庫)

827362 う何回通読したでしょうか。読むたびにこれほど発見がある本というのも珍しい。
 それ以前に、哲学書で何回も読もうというものはこの井筒先生の名著しかありません。
 私はエセ哲学者(単なるハッタリ野郎)なので、実を言うと哲学書を読むのが大の苦手です。
 本当に私の頭は良くないと思います。国語の先生なのに「日本語」が理解できないのです。気持ち悪くなってしまうのです。
 これはワタクシ流に言うと、「コト」であるはずの言語が「モノ」という物の怪になってしまって、サルトル流の「嘔吐」を催してしまうということであります(苦笑)。
 いや、これは本当に困ったものです。若かりし頃は、それでも分かったふりをしたり、あるいは本気になれば分かると信じていましたが、やっぱりここまで来て無理なのだから、最近はすっきり諦めようと思っています。
 そんなわけで、潔く諦めた私は、なんと「日本語よる、日本人のための、日本の哲学」というのを確立しようと目論むに至りました(笑)。
 そう、まず西洋哲学は外国語、外国文化だから「物の怪」だし、いや東洋哲学もそうだな、それらを日本に紹介している日本語の哲学書というのも、ほとんどが「漢語(翻訳語)」で書かれています。つまり本質的には外国語なのです。だから分からんのだと。
 じゃあ、それを「大和言葉」でやってやろう(自分のために)というのが、ワタクシがずっとほざいている「モノ・コト論」なのであります。
Imgres しかし、そんな自己中心的な我が哲学にも参考資料というのが必要ですし、当然先哲に学ばなければ、それこそ単なる自己満足になってしまう。多少は人様のお役に立たねば…しかし、前に書いたようにとにかく漢語だらけの哲学書、思想書は読みたくない!というなんともワガママな私でも、なぜかこの井筒俊彦先生のこの本は気持ちよく読めるのです。
 これは本当にすごいことですね。ホンモノの天才の仕事というのはそういうものなのでしょうか。
 司馬遼太郎は井筒さんを評して「二十人ぐらいの天才が一人になっている」と言ったとか。
 おそらく日本の歴史上の大天才ベスト10に入るだろう井筒俊彦さんをはっきり意識し始めたのは、7年ほど前のことです。
 私のラッキー人生の始まりとも言える、あの出会い、あの夜…これもまた現代が誇る天才のお一人、言語社会学者の鈴木孝夫さんと、まあ不思議なご縁があって富士山麓でお酒を飲んだ時のことです。
 天才から盛んに出た「天才」という言葉…天才が「大天才」と呼んだのが、天才の師匠、井筒俊彦先生でありました。
 とにかくこの本を読みなさいと言われ、さっそく買ってから、それこそ座右の書…というか枕元にいつも置いていた本がこの本です。もう全編赤ペンで真っ赤です。
 東西の先哲の智慧を網羅し、それらを高く大きな視点で統合してくれていますから、私のようなおバカさんでもしっかり実感として受け入れることができます。ありがたい。
 井筒先生が急逝されて今月でちょうど20年。最近またイスラム原理主義者たちによるテロなどにより、イスラム教への偏見というか無理解が助長されるような気がして心配しています。こんな時こそ、イスラムを知り尽くした井筒先生の本を読もうと思って、再び手にとったということもあります。
 それから、最近、そういう昭和の天才に興味が俄然湧いてきていまして、たとえば仲小路彰とか大川周明とか。そんな中、大川周明→井筒俊彦→鈴木孝夫という妙なるラインが気になったりしましてね。
 いずれにせよ、この歴史的な名著によって、東西の哲学を俯瞰し、ある意味では東洋人で良かったな、日本人で良かったなと思うだけでも、我々非天才にとっては意味のあることかもしれません。

Amazon 意識と本質


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2013.01.22

キース・ジャレット 『Hymns/Spheres』

41gceygrtll_sl500_aa300_ 5月にキース・ジャレット・トリオの最終公演があります。さっそく4枚チケットを取りました。
 キース・ジャレット、ゲイリー・ピーコック、ジャック・ディジョネットのトリオは、今年で結成30周年。この30年間に彼らが成したことは、ジャズというジャンル、いや音楽というジャンルを超えて、あまりに偉大でした。
 人間の魂と技術の極致。言うなればモノとコトの最高の止揚を達成でしょうか。それを複数(それも二人ではなく三人)の人間で成し得たというのが、人類にとって大きな出来事だったと思います。
 ゲイリーの体調が思わしくないというのが、トリオ解散の理由なのでしょうか。はたしてこのレベルでのトリオ(あらゆるジャンルでの三人組)が次に現れるのは何百年後なのでしょうか。
 その最後の瞬間をしっかり味わってこようと思っています。楽しみというか、敬虔な気持ちになりますね。
 思えば、キースのトリオ(スタンダーズ)のライヴは過去3回しか経験していませんが、そのいずれもが、音楽を超えた宗教にも近い体験でしたね。あれは本当に言葉で表現できないし、CDやDVDでは記録できない至高の時空です。
 まだチケットは手に入れられそうですから、皆さんもぜひどうぞ。
 さてさて、今日はそんなキースの古い録音を一つ。トリオではありませんし、ピアノ演奏ではありません。
 私は、彼のピアノ以外の演奏も大好きで、このブログでもつい先日ひょんなきっかけからクラヴィコードによる演奏を紹介しましたっけ。
 今日のはパイプオルガンです。最近ようやくノーカット版がCD2枚組で出たんですよね。私は今から20数年前、輸入盤中古LPで聴きました。
 これもすごい即興演奏ですよ。あの銘器オートボイレンのオルガンを駆使して、そうすトップみならず、パイプの開閉などを調整して、完全にジャンルを超えたオルガンの可能性を引き出しています。
 オットーボイレン修道院の1766年カール・ヨーゼフ・リープ作の歴史的オルガンも、まさか200年後にこんな形で演奏されるとは思ってもみなかったでしょう。
 おっと、YouTubeにLP盤の音源がノーカットでアップされていました!
 スクラッチノイズもまた風情がありますな。さてCDも買おうかな。

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2013.01.21

『日本破滅論』 藤井聡・中野剛志 (文春新書)

20130122_113340 に楽しい対談。破滅なのに楽しいとは、これいかに。
 まず言えるのは、非常にコトやモノの本質を鋭く突いているということ。このお二人の対談ですから、当然反論や圧力が想定されるような内容ですが、だからこそ私たちに「観」のきっかけと力を与えてくれる。
 そう、対談中に五輪書の「観」と「見」の話が出てきます。物事を近視眼的に「見る」のではなく、全体的に俯瞰的に包括的に「観る」ことこそ、破滅回避、いや破滅を早めようとする勢力への対抗手段になると語られています(そういう言葉ではありませんが)。
 その「観」の姿勢こそ、私のいつも心がけていることですね。できているかは別として、常に意識していることです。
 我々はともすると近視眼になりやすい。物事の表層しか見ない、あるいは見もしないで(自分で確認しないで)人の言うことを真に受けてしまう。そして、そこにつけいる悪モノがいる…。
 中野さんの言うBKD(売国奴)もそういう悪モノの一つでしょう。あるいはこの本で散々槍玉にあがっている新自由主義者たちや、橋下徹大阪市長も。
 そうそう、最近の桜宮高校問題への対応、まったくひどいとしか言いようがありません。ああいう体罰以上の横暴を世間が許しちゃいけませんよ。あえて私も暴論を言っちゃいましょうか。私が桜宮高校体育科を希望している中学生だったとしたら、ショックのあまり自殺しちゃうかもしれませんよ(あくまで暴論としてです)。
 橋下氏はじめ大衆操作術を得意とする輩やBKDに共通しているのは、この本でも別の場所で語られているように、「宗教性」が欠如していることだと私は思います。
 真善美に対する感性が非常に弱い…というかない。ワタクシ流の言い方をすれば、自然科学や法律や民意というコト(フィクション)原理主義に陥っており、モノ(霊的存在)の価値をあまりに軽視(無視)していることです。
 皆さんご存知のように(あるいはご心配のように…笑)、私はコト社会に生きる現代人として、モノ世界の研究や実践を積極的にあえてやっております。それでようやくバランスが取れている感じがする(安心して生活できる)。
 「宗教性」と「教団」はまた別物ですよ。前者はモノ、後者はコトですから。特定の宗派や教団にこだわるのは単なる原理主義者です。
 そういう意味で、彼らはたぶん不安なんでしょうね。一種の原理主義者ですから。そうするとすぐに敵を作りたがるし、異様に攻撃的となる。困ったものです。
 藤井さんと中野さんは、そういう意味では非常にバランスの取れた論客であると感じます。コトとモノのバランスですね。そして、本質はモノの方にあるということを知っている。
 全然違うジャンルになりますが、私は彼らの対談を読んで、「星の王子さま」を思い出してしまいました。
「大切なものは目には見えない」
 経済や理論や数値も無論大切です。それを「見る」ことなしに私たちは生きられません。しかし、その先にある「大切なモノ」を「観る」ことも忘れてはいけません。
 それにしても「おわりに」は面白かったし、なるほどなあと思いました。藤井さんがおっしゃる「破滅論」「破滅観」、ああ私も似たような感覚を持っていると。たしかにどうせいつか滅びる。しかし、その滅びる(壊れる)モノをあえて滅びさせよう(壊そう)とする奴らには怒りがわく。多勢に無勢であればあるほど闘魂が湧いてくる。そのとおりです(笑)。

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2013.01.20

2013年度センター試験国語

20130121_122546 っと解く時間を得ました。
 毎年楽しみにしている方々には申し訳ありませんが、今年はあんまりツッコミどころがありません、入試問題としては…。
 そんなわけで、今年は面白いこと(過激なこと?)が書けません(笑)。
 もちろん、第1問に小林秀雄が出たというのは、これは大ニュースであり、個人的にはツッコミまくりたいところであります。
 しかし、あくまで今までの流れで、客観試験として設問がどうかという点で評価すれば、まあ最近では最もいい問題だったとも言えます(おかげで珍しく満点とれました…80分以上かけてますが)。
 教え子たちはどうも今年の問題には大変苦戦したようです。もともとセンターの国語は時間との勝負。今回のようにテキスト量が多いと純粋に読解に時間がかかり、結果として本文と選択肢のつきあわせの精度が落ちます。焦れば焦るほど機械的な作業ができなくなるんですよね。
 まあ、いきなり小林秀雄ですから、ビビったでしょう。私たちも油断していました。
 小林秀雄というと古い世代にとっては現代国語の、そして入試問題の定番と言われていましたが、あれはいわゆる評論文(論説文・説明文・一般向け論文)ではなく、「文学的」な批評文、どちらかというと随想、随筆、エッセイというジャンルに入れたくなるものですよね(私は「小林秀雄」というジャンルを設定していますが…笑)。
 実は私は小林秀雄があまり好きではないんですね。これは、今回久々に精読して再確認したんですが、父親に対する息子の感情みたいなものですね。そう、似てるんですよ、自分に(笑)。
 いや、もちろん私と小林秀雄を似ているなんていうのは失礼で恥知らずだと分かっていますが、今思うとやっぱり多大な影響を受けているんですよね。高校時代ずいぶん真似しちゃったのです。
 人と違う感性(思いつき)をそれらしく表現したり、さりげなく世間一般を見下したり、結局自慢話だったり(笑)。
 特に今回は「鍔」の話、さらには甲府やら杖突峠やら高遠やらが舞台になったり、高坂弾正や田辺尚雄が出てきたりと、ま、今のワタクシにとっては実に馴染み深い内容でしたから、正直面白く読み進むことができました。
 しかし、これが高校時代のワタクシだったらどうかというと、やっぱりきつかっただろうなと思います。わけわからんねえ〜!と叫びたくなったかもしれません。
 その辺の基礎体力の違いというか、ある種の温度差が、生徒に教える時の難しさなんですよね。口が滑っても「今回は良問ぞろいで点が取りやすかった」とは言えない…。
 正直私も80分で全部解くとなると、古文の最後問六は間違えたかもしれません。非常に面倒な(時間のかかる)問題でした。
 小説はテーマをつかめば流れで解答できるような、いつものパターンでした。そのテーマを掴み損ねると大失点するタイプですね。ま、もともと小説は出すな!が私の主張です。詳しくは去年の記事からいろいろ見てみてください。
 古文と漢文については受験知識とテクニックである程度は取れる問題でした。決して簡単ではなかったけれども、それぞれ正答の根拠は文中および高校での学習内容の中にあったと思います。


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2013.01.19

追悼 横綱大鵬

20130121_84733 「和は遠くなりにけり」…この言葉はいつ頃から言われるようになったのでしょうか。
 実際こうしていても時は動いていくわけですから、どんどん昭和が遠くなっていくのは事実。しかし、それを実感するのは、その時代を象徴していた人が亡くなった時です。
 時間という河が未来(上流)から過去(下流)へ向かって流れている、私たち生きている人間はその流れの中に踏ん張っている、という私の時間観(人生観)からすると、人が亡くなるというのは、一緒に河の流れの中に立っていた人が「ワシは行くよ」と言って、河の流れに身を任せて下流に流れていってしまうことです。
 昭和の時間をたっぷり体に受けて、それこそ正面から受け止めてきた大鵬という実体が「歴史」という情報になってしまう。そんな言い方は失礼かもしれませんが、私の「モノ・コト論」ではそのように解釈されます。生きているモノが不変のコトになる…。
 その変化こそが私たちに寂しさを感じさせるのです。
 私は1964年生まれですので、幼い頃、現役の大鵬の相撲をテレビで観ています。どちらかというとその次の世代の相撲にはまって、小学校高学年の頃には本気で行司になろうかと思ったくらいですけれども、やはり大鵬の「かっこいい」イメージというのは、どこか私の相撲観のベースになっているという気がします。
3141 少年だった私の大鵬の思い出というと、当時住んでいた東京大田区の雪谷の町内に「雪ヶ谷八幡神社」という立派な神社があり…と言っても私が住んでいたのは雪が谷大塚駅の近くで、その神社はお隣の石川台駅のすぐ近くなのですが…そこに横綱大鵬によって奉納された「出世石」という大きな石碑があったことでしょうか。
 そこに大鵬の手形が彫り込まれてあり、相撲好きの友人と自転車で出かけてその手形に自分の手を当ててみて驚嘆した覚えがあります。
 大鵬は若かりし頃、まだ四股名が納谷だった頃、その神社で子どもたちに稽古をつけていたそうです。その後出世して横綱になれたのは、八幡様のおかげであると、この出世石の文字を奉納したとのこと。私も稽古つけてもらいたかったな。
 ところで最近の相撲界、40場所連続外国人力士が優勝するなど、日本人力士の不甲斐なさに何とも言えない気持ちにならざるをえないわけですが、考えてみると、大鵬関も半分はウクライナの血が流れているのですから、外国人力士隆盛の緒となった言えなくもありませんね。
 力道山にせよ、王貞治にせよ、そして大鵬にせよ、戦後日本の復興には、実は外国のエネルギーが大きく関与していたということでしょうか。それがまた本来古来の日本らしさなのかもしれませんね。
 ご冥福をお祈りします。

追伸 お孫さんが初代タイガーマスク佐山聡さんのところに弟子入りしたとのこと。素晴らしい体躯の持ち主なので、プロレスラーとしての活躍を期待しましょう。

雪ヶ谷八幡神社公式


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2013.01.18

山梨県による富士山噴火広域避難計画素案

Miljan130117

 すがに他人事ではありませんね。なにしろ我が家の住所は「富士山」です。
 将来的には100%噴火する富士山の懐に住んでいるわけです。
 私は3.11の時に、巨大津波が想定される地域に住んでいた方々に対して厳しいことを言いました。歴史的に危険と分かっているのに、なぜそこに無防備な街を作ったのかと。
 その発言に多方面から非難のお言葉をいただきました。お前にそんなこと言われたくないと。自分も危険を顧みずそんな所に住んでいるではないかと。
 たしかにその通りであると反省もしましたが、反面やはり違いもはっきりさせておかなければならないとも思いました。
 少なくとも私は毎日、今日明日にでも富士山が噴火する可能性がある、噴火の兆候があった際にはこういう判断をしようということを考えて生活しています。
 富士山からの大きな恵みをいただくとともに、その危険性も常に意識し、また、人知の及ばぬ巨大なエネルギーに対する畏怖の念を忘れることなく生活させていただいています。
 また、絶対とは言えないまでも、「噴火」という自然現象には、他の災害を招く自然現象よりも比較的兆候をつかみやすい、兆候が長期にわたり検証および対処に余裕を持てる、素人でもその兆候をとらえることが容易であるという特徴があります。
 そういう観点において、自らと家族の命にかかわる危険性と、他の地域では得られない様々な恩恵とを天秤にかけて、人生を賭してこの地に住むことを決めました。
 今でもその15年前の決断は間違っていないと思っていますし、年々素人なりの観測体制やチェック体制を整えてきました。
 もちろんそれでも絶対安全に避難できる、あるいは家族の命を守れるという保証はありませんが、人事を尽くしてのその時はその時、天命を受け入れるしかありません。
 今回発表された避難計画の素案は、私の素案?からするとちょっと甘いくらいですね。
 今回の被害想定では、我が家は第2次避難ゾーンということで、火砕流や溶岩流の到達が3時間以内の範囲に入っています。私の想定では、最悪最速、すなわち直近3キロ北方に火口ができて噴火した場合、そしてそれがたとえば今日のように大雪のあとだったりすると、融雪型火山泥流が我が家に到達するまでに2分と読んでいます。
 これは正直逃げられません。津波どころの騒ぎではありません。逃げる間もなく、家ごと一気に持っていかれるでしょうね。
 あるいは噴石などが直撃する可能性もあり、まさにその時はその時ということになります。
 しかし、これはあくまでも直近の火口で前兆なく突然噴火が起きた場合のことであって、その確率は非常に低いと考えています。
 感覚としては、地震で死亡したり、交通事故に遭って死亡したりする確率よりはずっと低いと考えています。
 この最悪のケース以外は、確実に前兆をとらえ、余裕をもって避難できると想定をしているわけです。
 まあ、最悪のケースを考えていては、誰も富士登山さえもできなくなってしまうわけですからね。
 とにかく日々忘れないことです。忘れなければ災害を避ける、あるいは軽減することは可能です。
 我が家は以前、緊急火山情報時には強制的に避難させられる区域に入っていましたが、それ以前に臨時火山情報が出た時点で自主避難をする予定でいました。
 現在は噴火警報のレベル2が発令されたら、自主的にもう少しふもとに生活の拠点を移す方針でいます。あるいは気象庁の警報が出ていなくとも、私的な観測を通して噴火の危険性を察知した場合は迷わず1次避難をします。
 

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2013.01.17

M.M.C. キリマンブレンド 500g 10パックセット (三本コーヒー)

0762bdd723122e0e0762bdd8 日は我が家の必需品を紹介します。
 夫婦で毎朝一杯のコーヒーを飲みます。その粉がこれ。
 ずいぶん前に同じ三本コーヒーのオリジナルブレンドを紹介しました。これはグラム単価が最も安い(ちょっと値上がりしましたが、それでも)。そういうこともあってずっとオリジナルブレンドをリピートしていました。
 なんとなくその味に飽きてきたこともあって、まあ400円くらい奮発して(笑)今回はキリマンジャロブレンドを注文してみようかと思ったのが昨年の春のこと。
 そうしたら結果としてオリジナルブレンドよりお安い結果となりました。
 というのは、一杯に必要な粉の量が断然キリマンの方が少なくてすむからです。オリジナルの方はちょっと多めに入れないと納得の味わいにならなかったのですが、こちらキリマンは少し少なめかなという程度でも、充分に深い味わいが出ます。
 もともとそれほど味にはこだわりがなく、適度な「濃さ」くらいしか求めていませんので、少しケチっても満足が得られるキリマンの方が、我が家には適していたということです。
 いや、もちろん味もキリマンらしい苦味と酸味があっておいしいですよ。普通においしいし、飽きがこない。
 そんなわけで、これからはこちらキリマンブレンドをリピートしようかと思っています。
 ちなみにコーヒーメーカーはちょっと前に紹介したこちらの1000円の製品です。今のところフィルターレスフィルターも調子よく、おいしくキリマンブレンドを淹れることができています。
 ずいぶん安上がりなモーニング・コーヒーですな。しかし、満足度は高い。皆さんもぜひどうぞ。

【送料無料】M.M.C. キリマンブレンド 500g(レギュラーコーヒー粉)10パックセット【MMC珈琲】...

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2013.01.16

『記憶の整理術 忘れたい過去を明日に活かす』 榎本博明 (PHP新書)

Isbn9784569796680 「去は変えられない」そう思っている人が多いはずだ。だが、それは間違いだ。過去は変えられる…そう始まるこの本。非常に共感する部分の多い内容でした。
 この本はいわゆる「記憶術」の本ではありません。人生を明るく有意義にするために、記憶(過去)をどう上手に整理すべきかを指南する、どちらかというと「カウンセリング」の本ですね。
 「記憶」は不変な「記録」ではなく、私たちの「過去」を見るフィルターの加減によって、いかようにも意味を変えられる。だから、現在や未来のためにプラスになるように「整理」(私は「編集」に近いなと思いました)しよう、という内容です。
 そして、未来予想図のタネは「過去」という「回想記憶」なのだから、「過去」の意味が変われば「未来」も変わるということですね。
 そのための実際的な方法も示されているので、この本を読んで、「過去は変えられない」という、まさにフィルターのかかった考え方から、一気に脱することができるかもしれません。
 最近いろいろなところで書いてるように、私は「時間は未来から過去へと流れている」と考えています(正確に言うと、ここ数日のうちにもう少し考えが発展しているのですが)。
 その際、「過去」をどう取り扱うかというのは非常に大きな問題でした(今でも問題です)。
 一般論とは逆に「未来に原因がある」と一言で言ったとしても、それは実際には「現在の心が描く未来像に現在の行動の原因がある」ということです。そういう意味では、当然「現在の心が描く過去像に現在の行動の原因がある」とも言えるわけでして、私が言いたいのは、そのどちらを取るかということ、未来の方を取ろうということです。
 では、過去は完全に無視しなさいと言うのかというと、そうではありません。
 まず、物理的(科学的)には一般的な、過去→現在→未来という因果関係の時間的流れがありますから、それは直視しなければなりません。それは主に肉体的な衰えや欠陥(ケガや病など)のことを考えれば分かるはずです。
 また、榎本さんが言うように過去(記憶)の編集も当然しなければならないと思っており、その結果(つまり現在の過去観)も現在の行動の原因となっているとも言えますよね。
 それを今、私はどう解釈しようとしているかというと、仏教でいう「因縁」の「因」を未来に求め、「縁」を過去に求めているということなのです。
 ちょっと分かりづらいかもしれませんね。要は、因果応報という絶対的な因果関係は「未来(因)→現在(果)」にあって、心理的な過去(記憶)や物理的な過去(事実)は、解釈によって編集(変形)可能な「縁」にすぎないということになります。
 たとえば「さあ寝よう」という何分後かに布団に入っている「未来像」によって、現在の行動、たとえばパジャマに着替えるとか歯を磨くとかが決まる。その際、「昨日は寝るのが遅くて今日一日眠くて仕方なかった」という記憶(過去)は、あくまで未来像構築への参考資料に過ぎないということです。
 ま、このへんは榎本さんの説と重なり、かつ先方の方がずっと分かりやすいと思いますので、この本をぜひお読み下さい。
 以前、脳科学の立場から池谷裕二さんの「記憶」論を紹介しましたが、こちらは心理学的なアプローチですので、またちょっと違った面白さがありました。双方には矛盾する点もありますが、人間とはそういう複合的な存在でしょうから、どちらも納得できると思います。
 とにかく、読みやすく実生活のためになる本でした。特に「各章のポイント」がまとめられているので、記憶力に自信のない、いや記憶力のなさに自信のあるワタクシにとっては、全部読みなおす必要がなく、非常に有用でありました。こうやってちゃんと自分で整理すればいいんだな…でも、ぜったいやらない、とっちらかしこそがワタクシの創造性つながっている?ww
 
Amazon 記憶の整理術

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2013.01.15

追悼 大島渚

Pn2013011501002130ci0003 た哀しい知らせです。
 昭和や戦後はどんどん遠くなっていきますね。
 そのせいか、最近は戦後史を勉強しなおしています。しなおすというか、私のような世代(東京オリンピックの年生まれ)は、全く勉強してこなかったんですね。
 だから、私は20代、30代の時、一生懸命映画でそれを勉強しようとした。大島渚も観られるものは全部観ました。どこか自分の中の空洞を感じていたんでしょうかね。
 しかし、正直その当時は分かったふりしかできませんでした。戦後のある種の熱さと、戦後は終わった世代のあまりに透明な清涼感は、やはりどうしても相容れないものどうしだったのです。
 最近、私は、自分がそういう歴史的に透明な世代だからこそ、戦後史(当然流れとして戦前、戦中も含めて)を客観的に評価できるのではないかと思っています。
 もちろん、その「透明」な自分に別の何かが注入されてきたのもまた「戦後」ではあるのですが、私は意識的、無意識的にそれらを排除できる体質なので(たぶん)、一度ホンモノの透明に戻して歴史を咀嚼してみるということが得意と言えば得意なのです。
 そんなわけで、大島渚ももう一度しっかり観てみようかなと、本当に最近、年が明けたあたりでふと思っていたのです。
 特に思い出されていたのは「日本の夜と霧」です。あれは文芸座で観たような記憶があります。でも、やっぱりあの時も分かったふりで終わっていた。自分だっていざとなったら思想闘争できるんだぞ程度の共感しか得ていなかったと思います。
 今観たらもっとよく分かるような気がするんですよね。なぜなら、あの「熱さ」はどこか演劇じみていた、という観点を持てるようになったからです。
 そうした嘘くささは大島映画全体にも言えますし、もちろん大島・野坂の殴り合いにも言えますし、時代そのものにも言えなくはないのです。
 もちろん、それを否定的にとらえているのではありません。私の人生そのものが、プロレス的な世界観にこそ真実がある、語られた(騙られた)コトにこそホンモノがあるという実感に支えられていますから。
 そういう意味で、大島渚監督は見事な語り部であったのだと思います。社会という外的フィクション(作り事)と闘うのに、自らの内的フィクションをもってした戦士であったと。
 そして、後半生から晩年にかけては、自らの肉体(モノ)というリアルと闘わざるを得なくなった大島さん。
 案外、リアルなモノと奥様とともに闘ったその戦史こそが、大島渚という語り部の最高傑作だったのかもしれません。
 ご冥福をお祈りします。そして、さっそく「日本の夜と霧」を観なおそうと思います。

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2013.01.14

尖閣諸島の根本的問題(?)

Plc13011413160007p1 垣市が「尖閣諸島開拓の日」の記念式典を催しました。
 「竹島の日」は見送りになりましたが、尖閣の方は警備監視強化など、かなり「攻め」の姿勢を示している日本政府。
 対韓、対中政策の違いが徐々に明らかになってきています。まあ、これは当然でしょう。相手の出方や性質に合わせてこちらの出方や性質を変えるというのは外交の、いや人づきあいの基本でしょう。
 今日1月14日を、条例で「開拓の日」としたのは3年前のことです。領土問題で中国との衝突があってからのことです。
 なぜ、この日なのかというと、明治28の今日、尖閣諸島を日本固有の領土として編入することが閣議決定されたからだそうです。
 日本政府は約10年間にわたり尖閣諸島を調査し、どこの国にも属さないことを慎重に確認した上で、明治28年に閣議決定しています。
 以来曲折はあったものの日本国の実効支配下にあったというのが国際的に一般的な認識だと思いますから、私も当然「尖閣諸島」は日本の固有の領土であり、中国との間に「領土問題」として存在していないという立場をとります。
 ただし、中国(や台湾)側の言い分ももっとちゃんと知りたいですね。明治28年と言えば日清戦争末期です。戦況は完全に日本に傾き、そろそろ講和会議が始まろうかという頃ですからね。向こうとしてはそんな中での閣議決定なので文句も言いたくなるのでは。
 ま、領土ってのは戦勝国が敗戦国からいただくというのが基本ですからね、文句言ってもしょうがないし、もともと清国のものではなかったようなので、やっぱり単なるいちゃもんレベルだと感じます。
 さて、今日はそういう歴史的なこと、あるいは法的なことではなくて、ある意味でもっと根本的な問題について書こうと思っていたのでした。誰も言っていないことです。皆さんにとってはどうでもいいかもしれないけれど、私にとってはけっこう重要なことです。
 「尖閣諸島」という名前についてです。
 この名前がよくない。
 なぜなら「音読み」だから。どうも親近感がわかない。「魚釣島(うおつりじま)」や「竹島」なら「訓読み」だから、つまり和語だから日本古来の島という感じがするが、漢語だとなあ…。
 以前から、なんでだろうと思っていたんです。自分の生理的感覚として、「竹島」はウチのものだけど、「尖閣諸島」はもしかして隣のウチのものかもしれない、というのがあったんです。
 そんなくだらない…じゃあ「東京」とかどうすんの?と言われそうですね(笑)。
 まあ、そうなんですけど、実は小学校時代から、あの北方四島ですね、あれもなんとなく自分のウチのものではないような気がしていたんです。
 つまり、あれは漢語とかロシア語ではなくて、やっぱりアイヌ語であって、私の知っている日本語、和語、大和言葉、雅語ではないと。直感的にそう思っていたんです。
 いや、もちろん、だからその言語の持ち主に返せとか、そういう単純なことではありませんけど、どこかそういう「生理的」な、あるいは「言霊的」なモノがあるような気がしてならないんです(私だけかな)。
 ちなみに、「尖閣諸島」という名称は中国がつけたものではありません。wikiによれば、

「尖閣諸島」の名称は、日本政府からこの島を無償貸与された実業家の古賀辰四郎の依頼により、1900年(明治33年)5月に当地を調査した高知県出身の教師、黒岩恒が命名したもので、島の尖っている形状と「イギリス海軍水路誌」にある "The Pinnacle Islands" の意訳に由来する。

 とのこと。黒岩さんがもう少し気を遣って、和語の名前をつけてくれればなあ。せめて魚釣諸島とか…。
 こんなことを言ってもしかたありませんね。でも、日本固有の領土を主張するのに、日本固有の言葉が使えないというのはなんとなく矛盾していると、私は思うのであります。
 ま、こんなこと言ったら、欧米列強の植民地政策で奪われた島々の名前も問題にしなくてはなりませんね(笑)。
 
 

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2013.01.13

ゆっくりでいいさ

 の娘が午前中、富士吉田市の成人式でジャズを披露してきました。カミさんは鳴沢村と富士河口湖町で歌を披露。一仕事終えて疲れたのか二人とも午後はぐうたらしています。
 上の娘はジャージの上にパジャマというステキな格好でずっとネット動画を見ています。特にこれが気に入ったようで、ずっと歌っています。これはニート讃歌ですね。
 どちらかというと下の娘の方がこれに近い生活をしていますね。今日も11時に起きたし(笑)。
 私はニートを一概に糾弾しません。ある意味憧れの存在でもあります。こちら成長→成熟という記事に書きましたっけね。お釈迦様なんか立派過ぎるニートだと。
 この絵の女の子は蓬莱山輝夜という東方のキャラだそうです。かぐや姫がモデルになっていて、月の世界で悪さをして地球に追放されたとのこと。まあ、今は地球という牢獄に収監されている身ですね。だから寝て食わせてもらってのニートでいいのでしょう。
 まあ、この歌詞を見ればですね、おやつにもごはんにもお風呂にも暖かい布団にも執着がないようなので、これはこれで立派な修行生活とも言えますね(というか布団をたたんでいる時点でエラい!との声もあり…笑)。
 惰眠を貪る無任所…無任所は必要とあらば何の仕事でもするということでありますから、惰眠を貪っていられるうちはそれでいいのではないでしょうか。
 明日やろう明後日やろう、だんだんどうでもよくなって眠い眠い眠い…これは基本中の基本でしょう。これこそ私のライフスタイルであり、人生哲学であります。
 座右の銘「今日できることは今日やらない!」という記事をお読みください。私はこれで失敗したことはありません!
 今日もこういうことがありましたね。私は「未来」という短歌結社に入っているのですが、毎月中旬に投稿の〆切があります。今月も今日中に出さなければならなかった。しかし、昨日の夜まで一首もできていなかった。これ、ホントです。いつもそうです。
 私の性格上、そうして能力上、毎日一首とか絶対に出来ません。それがですね、切羽詰まって諦めて寝ると勝手に降ってくるんです。
 実は今朝も4時にガバっと起きて、小一時間で一気に9首作ってまた寝ました。こういう力を借りると、ホント楽なんです。いつもなんでもそう(実は昨日紹介した文章もそんなふうに降ろしました)。
 いや、小さい時からそうだったのではないですよ。最近です。プチニート的に惰眠を貪っていたら、こういう能力が身についたのです。板についてきたのはここ数年ですね。
 だから、そういう経験もあって、ニートとか怠惰とかやる気がでないとかを排除糾弾したくないのです。
 まさに人生「ゆっくりでいいさ」ということでしょう。いつも書いているとおり、達磨さんもデカルトさんも慧玄さんも(私も)9年はかかっているんです。
 輝夜さんもどうせなら「数年間」なんて言わないで、まずは9年間ニートしてみてはいかがでしょうか。
 そう、案外「NEAT」な「NEET」になるのは難しいのかもしれませんね。やっぱり焦ってはいけません。「ゆっくり」はすなわち「きちんとした」につながると信じます。

 

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2013.01.12

「米(こめ)」の語源

Imgres_2 日は我が中学の推薦入試でした。
 新しい出会いの日です。毎年のことながら、いろいろな意味でドキドキしますね。
 今年もいつものように国語の試験の本文を公開しましょう。私は本文を自分で書きます。入試はメッセージであるべきだと考えているからです(中学入試に適した文章を探すのが至難の業であるということもありますが)。
 今年は「知識と体験」というタイトルで書いてみました。ブログの読者の皆さんには「米(こめ)」という日本語の語源の話として読んでいただきましょう。


  知識と体験

 みなさんはお米を毎日食べていますか?
 おそらく答えは「はい」でしょう。
 私たち日本人にとって、お米はとても大切なものです。なくてはならないものと言ってもいいでしょう。
 米がなければ、毎日食べる白いごはんはもちろん、たとえばみなさんの大好きなカレーライスやチャーハンやピラフなんかも存在しないことになります。
 おやつのおせんべいやお正月のお餅も米からできていますから、米がなければそれらもこの世からなくなってしまいますね。
 今日は、そんな大切な「米」を通して、知識と体験ということについて考えてみましょう。
 まず、「こめ」という言葉の語源(もともとの意味)についてお勉強してみましょう。
 本当のことを言うと、あの稲の実のことをどうして「こめ」と言うのか、よく分かっていないのですが、ここでは一つの説を紹介することにします。
 「こめ」は「込める」という意味である…つまり「中につめる」ということですね。
 このようにある動作を表す言葉(動詞と言います)がある物の名前(名詞と言います)になる例がほかにもあります。
 たとえば、みなさんの家にもある「畳」。これは「たたむ」という動詞から生まれた名詞です。その他、「つまむ」→「つまみ」、「こおる」→「こおり」あたりは分かりやすいでしょう。お相撲さんの「まわし」が「まわす」から生まれたというのも想像しやすいかもしれません。
 ちょっと分かりにくい例では、算数で「おうぎ形の面積を求めなさい」などと言う時の「おうぎ」、漢字で書くと「扇」という字になりますが、これは「あおぐ」という動詞と関係があります。昔の日本語では「あおぐ」ことを「あふぐ」と書きました。そこから「あふぎ」という名詞が生まれ、発音がなまって「おうぎ」と言うようになったのです。
 おっと、だいぶ話がそれてしまったので元にもどしますね。
 「米」が「込め」だという話でした。
 「米」がなぜ「込め」なのか…そう、お米にはいろいろなものが込められているのです。
 まず、自然の恵み。水や光や空気や大地の栄養分などなど。いろいろな恵みがあの小さな実にはぎっしりつめ込まれています。
 さらには、稲を育てて米を収穫する農家の人たちの努力や気持ちも込められていますね。
 そんなことをちょっと想像してみてください。
 うん、なんとなく分かるような分からないような…そうでしょうね。知識としては「なるほど」と思っても実感としては納得できないかもしれません。
 たとえば、その言葉としての知識を確かめるために、米つぶを顕微鏡で観察してみたとしましょう。はたして、そこに大自然や農家の人々の恵みが見えるでしょうか。
 なかなか見えてこないでしょうね。そう、そこで大切なのが体験です。
 今年度、富士学苑中学校の三年生は米作りを体験しました。
 専門家の方にご指導いただきながら、四月の畦塗り(田んぼに水をためるための畦を作る作業)から、五月の田植え、その後の草取りや水の管理、そして十月の稲刈り、稲架掛け(刈った稲を干す作業)に至るまで、半年間にわたって田んぼに通い続けました。 
 まさに汗水垂らして、泥だらけになって、そして心を込めて作業しました。
 そうして秋になり、稲穂が頭を垂れ始めたころ、ちょうど稲刈りの一週間くらい前でしょうか、台風が山梨県を直撃しました。
 その時生徒たちは、それぞれの家でニュースを見ながら、「自分たちが心を込めて作った稲がどうか無事でありますように」と祈ったに違いありません。
 そうしたみんなの祈りのおかげもあって、台風による大きな被害もなく、無事に収穫の時を迎えることができました。そんな願いや祈りもお米には込められているのですね。
 そういう経験をしたからでしょうか、生徒たちは、毎日食卓に出されるごはんに対しても、「ありがとうございます」「いただきます」という感謝の気持ちをいだくようになったようです。新たに感謝の気持ちも込められて、お米は私たちの体の中に入ってくることになったわけです。
 このように、「米(こめ)」という日本語についてその語源を考え、実際に米作りを体験するだけでも、今まで当たり前に見て、さわって、食べていたお米が、全く違ったものに感じられるようになります。
 これなどは、知識と体験がしっかり結びついた良い例ではないでしょうか。
 一度結びついた知識と体験は、時間がたっても消えることはありません。実感として体と頭に刻み込まれます。
 私たち富士学苑中学校では、その知識と体験の結びつきこそが「勉強」だと考えています。
 特に私たちの日常生活を、知識と体験を通して見直すことに力を注いでいます。
 この文章の最初に、『私たち日本人にとって、お米はとても大切なものです。なくてはならないものと言ってもいいでしょう』と書きました。それは言いかえると、『あまりに身近すぎて、あまりに当たり前すぎて、何も知らない』ということにもなります。
 実はお米のように身近すぎて知らないこと、当たり前すぎて感謝するのを忘れていることが、身のまわりにはたくさんあります。
 教科書に書いてあることを通して新しい知識を身につけることも、もちろん大切です。しかし、それ以上に、私たちの生活の中の「当たり前」を、もう一度体験し直してみることも大事なのです。

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2013.01.11

夕刻の富士(グラデーション富士と後光)

 が校の入試業務のため大変忙しいので、今日の夕方入試会場準備の最中に撮影した写真を数十枚紹介します。
 西日が富士山にグラデーションを織りなし、東側には後光が出現するという、けっこう珍しい光景です。こういう富士山は地元に住んでいないとなかなか見られないでしょう。全体で20分に満たないドラマです。
 では、存分にご堪能ください。

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2013.01.10

体罰と軍隊と…

D_05656790 ましいニュースに沈鬱な気持ちになります。
 もちろん、自ら命を絶ってしまった生徒や、その家族の気持ちになってそういう気持ちになるということもあります。
 一方で同業者として顧問の先生の立場になった時にもなんとも言えない暗い気持ちになりますし、学校として苦悩を共有することもできます。
 しかし、あえて批判を恐れず言わせてもらいます。

 やっぱり、死んじゃいけない。

 そう言わずにいられない理由は、以前いじめ自殺問題の時に「生きる力=死なない力(その2)」に書いたとおりです。ここでは繰り返しません。
 もう一つ、今日私が言いたいのは次のことです。

 暴力の必要ない世の中を目指すべきなのは当然だが、現在の人類のレベルではまだ暴力は必要悪だ。

 これについても非難されてもしかたがないと思っています。特に今の風潮の中では。
 私は理想のために現実を見る主義なので、やはり熟考の末こういう結論に至ります。
 現実には、今の私たちの魂のレベルでは、「圧力」がないと自身をダメにしてしまうのです。自律、自立していなのです。
 単純に考えて、大人である、あるいは先生である自分でさえも、相手によって態度が違う。行動が違う。
 卑近な言い方をすれば、おっかない人の前では礼儀正しく努力家になるが、優しい人の前では不躾になり怠惰になるということです。
 時として圧力のない世界は人をダメにします。つまり、圧力を排除することで、自他の「悪」を助長してしまう可能性というのがあるのです。
 これは外交についても言えます。安倍内閣で心配されている「国防軍」の話や、軍備拡張の傾向も、実は同様の視点から考えてみることも必要だと思います。
 私はフラクタル理論や出口王仁三郎の雛型理論で世の中を見ていますから、今回の「体罰」の問題と「軍隊」の問題は非常に似ていると感じているのです。
 なんでもお人好しに「話せば分かる」「仲良くしましょう」というような、ある種の「性善説」に則った他者との関係が、残念ながら結局堕落や争いを招いてきたことは歴史が証明しています。いや、歴史を繙かなくとも生活体験から分かります。
20130111_94444 実際に民主党政権下では、周辺諸国からの圧力や暴力や理不尽な要求が増えましたね。
 やはり、外交は「右手で拳を振り上げ、左手で握手する」という姿勢で臨まないと。
 学校でもそうなんです。知り合いの通う某県の某公立中学校では、体罰どころか、生徒の手を触れないように先生たちは言われている。面倒なことが起きないようにということらしい。
 その中学校が今どんな状況か、言うまでもありません。先生はなめられまくり、全く秩序のない動物園状態です。
 ここでもう一度確認しますが、「右手で拳を振り上げ、左手で握手する」ことは望ましい状況ではありません。残念なことです。理想ではありません。
 しかし、現実には私たち人類のレベルは、まだ「暴力」を必要悪として認めざるをえない状況なのです。
 あえて言うなら、以前は拳で殴っていたのが、振り上げるだけですむようになった、レベルが上がったとも言えるのですが。
 そういうレベルの私たちが、単なる理想論や偽善的な精神、あるいはきれい事だけに寄り添って、「暴力反対」「体罰禁止」「軍事力放棄」を訴えると、自然と自他の「悪」が助長されてしまいます。
 マスコミや識者たちも、そういう視点で今回の問題をとらえてほしい。もちろん行き過ぎはいけない。体罰と暴力と愛のムチは分けて考えなくてはいけない。そんなことは当たり前です。
 しかし、単純な二元論的思考、あるいは原理主義的思考によって、「力」を排除する、「力」を行使する権利を奪うことは、現段階の私たちにとって決してプラスにはならないということを、我々は知っておかねばなりません。
 自他に「善」を期待するためにも、自他の「悪」としっかり向かい合わなければならないと思います。そして、いかに人類の魂のレベルを上げていくか。
 私は思考停止しないように心がけたいと思っています。
 

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2013.01.09

『ブッダの真理のことば・感興のことば』 中村元 (岩波文庫)

20130110_134805 教を学ぼうとする時の絶対的基本文献です。
 最初にこれを読むべきかどうかは別の問題として、ここをベースに日本の諸仏教や他教を眺めると、いろいろなことが分かってきます。
 ブッダの教え自体は宗教ではありません。あくまでも智慧です。非常にシンプルで素朴な言葉です。
 まるで自然界の仕組みのようにシンプルで素朴、かつ難解で奥深いのです。
 そして、そんなダンマパダとウダーナヴァルガという原始仏教の経典を、これほどまでにシンプルで素朴、かつ難解で奥深い日本語に翻訳された中村元さんの偉業に敬意を表します。
 どこを何度読んでも、毎回発見があります。
 今、私はオリジナルな時間論を構築中です(「時間は未来から過去へと流れている」とも少し違ってきています)。
 そこで今回は時間論の観点からこの原典を読み直しているのですが、本当にいろいろなことを教えてもらっています。
 もしかするとブッダと同じように時間を感じているのではと思える瞬間があるのです。もちろん、それは一刹那で、気づくとまた離れていってしまうような感じがするのですが。
 しかし、パッと開いた所を読むと、必ず学びがある、すなわち新しい発見があるのです。
 ほとんどが喩え話であり、あるいは抽象的な言葉遣いであるわけですけれども、だからこそでしょうか、ただ知識を受け取るという感じではなく、私の理性や感性の背中をちょんと押してくれるというか、自らつかむきっかけを与えてくれるんですね。
 ああ、これが師弟関係なのかな、教育なのかな、などと遅ればせながら痛感しているところです。大村はま先生の「仏様の指」の話を思い出してしまいましたね。
 ダンマパダとウダーナヴァルガ、どちらもブッダが語ったと言われる言葉を弟子がのちに書き記したものですが、不思議と双方でだいぶ受ける感じが違いますね。
 私はヴダーナヴァルガ(感興のことば)の方を眺めるのが好きです。眺めているだけで、頭や体や心が暖まってくる感じがします(というより、実はお風呂で湯に浸かりながら読んでいるのです…笑)。
 こんな大切な仏典を「眺める」なんていうのは不謹慎かもしれませんね。しかし、やはりあまり「言葉」自身にこだわらない、あまり研究的態度にならない方が、私には効果があるようです。
 「仏教」の教えを学ぶというよりも、よき師から慈愛のことばをかけてもらっているような気持ちでいた方が、実はこれら原始仏典の本当の価値が分かるのではないかと、私もそれなりに年をとってようやく直感してきたような次第です。
 皆さんもぜひ、常に身近に置いて、そして文章を「理解」するのではなく、まさに「真理」に触れて「感興」を催してみてください。
 しかし、中村元さんはすごいなあ。中村さんがいらっしゃらなかったら、現代日本人はもっと誤った道に進んでいたかもしれません。
 ちなみに天才バカボンの「ハジメちゃん」は中村元(はじめ)さんの名前にちなんで付けられたとの噂も…赤塚不二夫さんならあり得ますね(笑)。

Amazon ブッダの真理のことば・感興のことば

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2013.01.08

追悼 芝崎久美子さん

Kumiko_shibazaki 本を代表するチェンバリストの芝崎久美子さんがお亡くなりになりました。まだお若いのに…。
 直接お世話になることはあまりありませんでしたが、昔、山梨古楽コンクールで最高位をとられた時にも生で聴いていました。栃木蔵の街音楽祭で私たちが演奏した時にも、ゲストとして素晴らしい演奏を聴かせてくださったと記憶しています。また、ちょうどおととい久しぶりに行った北とぴあでも演奏を聴いたことがあります。
 グスタフ・レオンハルトの薫陶を受け、品のある安定した演奏をなさる方でした。心からご冥福をお祈りいたします。
 我が国のチェンバロ演奏も新しいステージに突入しつつありますが、やはり、芝崎さんのようにある意味正統的な演奏も大切であると感じていた矢先なので残念でなりません。
 2009年のピアノ300年コンサートの動画有りましたので紹介しておきます。

Amazon 優しき嘆き~フランスのクラヴサン作品集~
 

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2013.01.07

『受験脳の作り方―脳科学で考える効率的学習法』 池谷裕二 (新潮文庫)

20130108_124523 「間の記憶力はあまりよくない。そのおかげで創造性が高いんですよ」…先日、著者の池谷さんとお話した時にそう教えられた私。妙にうれしく自信が湧いて来ました。記憶力のなさに関しては自信がありますからね(笑)。
 今をときめく脳研究者の池谷裕二さんによる「勉強本」。非常に面白く有用でした。
 もちろん、私も学校の先生という立場ですから、生徒に勉強法を伝授する際に大いに役立ちます。
 しかしそれ以上に、自分の「研究」生活に、いやこれからの人生に役立つかもしれないと感じました。
 先ほど書いたように、私の「脳」はあまりメモリーの性能がよくないので、それをカバーするためのテクニックというか、知恵というか、そういうものが重要だと思っていたわけです。
 若い頃は自分の記憶力のなさについてある種の劣等感を持っていましたが、最近は生来の頭の悪さに加えて、「ボケ」の症状が出始めてきたので、これはもう諦めるしかないなと感じていたところでした。
 しかし、こうして記憶にはコツがあることを教わると少し安心しますよね。
 実際そうしたテクニックの重要性も分かりましたが、想定外の効能もあったんですよ。それは「睡眠」という最終兵器、あるいは得意技への気づきです。
 というか、最近はやたら寝てます(笑)。以前は6時間寝れば充分だと思っていたのに、近頃は8時間とか9時間とか平気で寝られるようになりました。
 そうしたらですね、記憶力の向上はあまり感じられませんが、なんというか、発想力というか、ひらめき力、あるいは一種の霊感のようなモノはたしかに調子がいい。
 最近は「時間論」のような抽象的で哲学的なことを考えることが多いので、特に睡眠の恩恵は大きいんですよね。
 布団の中で考えだすとすぐに眠くなって実際すっと眠りに落ちる。そして、朝起きるとパッと答えが出ている。こんな楽チンな発想法があったのかと、まあ嬉しくてしかたありません(笑)。
 それだけとっても、池谷さんの話を聞いたり、この本を読んだりした価値があったということになりますね。
 ちょっと前までは寝すぎてしまうと、なんか罪悪感や、それこそ劣等感に苛まれていましたけれども、今は堂々と寝坊することができるようになった。それはそれは幸福です。
 たぶんですね、この50年くらいでですね、ただでさえ無能な脳に、けっこう無理やり知識を詰め込んで生きてきたと思うんですよ。それも、日常生活と一緒で全く整理しないできた。
 今、ようやく整理する時を迎えているのかなと。それも「寝る」という方法で。実はそれがちょっと快感です。
 というわけで(?)今度、ぜひ私の脳を研究してもらいたい。被験者になりたいですね。私って変わってるじゃないですか。
 池谷さんも科学的に興味を持っているであろう、音楽、オカルト、宗教、超能力、霊感なんていうモノについて、私はもしかすると最高の被験者になるかもしれない(笑)。
 私のライフワークである「モノ・コト論」にも「脳」は大きく関わっていますしね。
 ぜひよろしくお願いします。私の人生をより楽しくしてくれたお礼に、我が脳を無償で提供いたします。

Amazon 受験脳の作り方

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2013.01.06

出口王仁三郎が発信されました。

Img_5938 日は出口王仁三郎デーでしたね。
 先日宣伝いたしましたとおり、今日から12日まで東京都北区の北とぴあにて、「出口王仁三郎とその一門の作品展」が開かれています。
 私もさっそく娘たちを連れて行って参りました。写真は会場の北とぴあのエントランスです。ここは思い出の場所です。若かりし頃(独身時代)、北とぴあ国際音楽祭の祝祭管弦楽団で何度も演奏した場所です。ヴィオラ・ダモーレやヴィオリーノ・ピッコロなんていうマニアックな楽器でソロをした思い出もあります。
 久々にあの空間に入ってすぐに耀わんの写真があったので、なんとも言えない不思議な縁を感じて胸が熱くなりました。
 さて、展覧会ですが、それはそれはもう素晴らしかった。
 数々の耀わんは、まさに輝く玉のようでしたし、王仁三郎の迫力ある書の数々や、歴史を変えたなおの御筆先、その他の歴代教祖の女性らしい易しい作品群、さらには日出麿の仙境の書など、なんとも表現のしようのない芸術の力を感じることができました。
 「芸術は宗教の母」とはよくぞ言ったものです。宗教的感情は言葉以前のアプリオリな存在であるべきです。「はじめに言葉(ロゴス)ありき」ではないと思います。
 ぜひ皆様もご覧になってみてください。純粋に芸術作品としても素晴らしい。もちろん芸術以前のモノとしても素晴らしい。さらには宗教的な価値からしても素晴らしい。一生に一度は遭遇すべきものです。
 我が家でもご縁あって耀わん「十和田」をお預かりしておりまして、以前こちらでも紹介していただたとおり、耀わんはweb0.0のデバイスだと私は常々思っています。
 今回も会場にて何人かの方に突然声をかけていただき、大変貴重なご縁をいただくことになりました。本当に人を引き合わせる力を持っているんですよ、耀わんは。ネットワーク・デバイスです、SNSデバイスです。Facebookなんかよりずっとすごい(笑)。
 ちなみに数々の耀わんを見たウチの娘たちは、無邪気に「ウチのより、ピンクのがいい。ピンクかわいい」とか言っておりました(笑)。
 「不二」という銘の碗も初めて拝見しました。もう素晴らしいとしか言いようがありません。重ね重ね、こういう機会を与えて下さった方々、企画、運営された方々に感謝します。展示内容のみならず、パンフレットなども素晴らしかった。ありがとうございました。

0106 そして富士山に帰って来ましてすぐ、夜10時からはNHKEテレで、シリーズ「日本人は何を考えてきたのか」の第9回「大本教 民衆は何を求めたのか〜出口なお・王仁三郎」が放映されました。
 公共放送の電波になおや王仁三郎の言葉、映像、作品などが乗る時が来るとは…。ものすごく画期的なことです。昼間実際に目の当たりにした耀わん二碗も映しだされていましたね。
 こちらはこちらで、モノのコト化、言語化、ロゴス化ですから、大変なことです。最も学問になりにくい、近づくと迷宮に陥るのがオニサブロー学だと言われていましたからね。
 それを、映像やナレーション、音楽などを付加することによって、一つの学問劇に仕立ててあった。これはテレビならではの演出であったと感じました。
 新宗教から日本の近代精神史を解読するということは非常に重要です。国家神道という「本道」も新宗教ですから。「邪道」たる大本の研究と検証こそ、戦後史研究、あるいは現代批判、未来の計画にとって絶対不可避な分野だと思います。
 そういう意味で、北大の中島岳志さん、一橋大の安丸良夫さん、、東大の島薗進さん、京大の上田正昭さんらが、それぞれの立場から、出口直、出口王仁三郎のそれぞれの陰陽両面を描き出していたことに、非常に感銘を受けました。私はもちろん彼らの負の側面もよくわかっているつもりですから。
 四半世紀にわたって、ずっと私が考えてきたこと、感じていたことが、こうして一般化されて発信されることに、思わず涙してしまいました。民衆の魂の代弁者、表現者としてのなおと王仁三郎が、本当にうまく表現されていたと思います。
 こちらも、大英断されたNHKさんに心から感謝です。ついでに言うと、個人的には、王仁三郎のナレーションが麿赤兒さんというのがヒットだったかな(笑)。
 この二つの「発信」の意味、特にタイミングの意味をよく考えてみたいと思います。そして、私自身もどういうデバイスになり得るのか…それが問題ですね。

追伸 再放送があります。13日午前1時5分〜(土曜日の深夜です)。見逃した人はぜひ。

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2013.01.05

『維新・改革の正体―日本をダメにした真犯人を捜せ』 藤井聡 (産経新聞出版)

20130104_214317 ューヨーク・タイムズが安倍首相を異様なほどにバッシングしています
 前回の政権の時は国内メディアが敵でしたが、今度はアメリカをはじめとする外国メディアですか。
 今回は前回の反省と失敗に基づき、安倍さんはネット・メディアを利用して国内メディアのバッシングに対抗、あるいはそれを抑えることに成功しているようです。
 しかし、外国メディアとなると、言語の問題がありますから、なかなか直接的に反論したり、たしなめたりすることができません。
 たとえばアメリカ・メディアがこのようなバッシングに走るのには当然理由があります。安倍さんの「日本を、取り戻す」考えと行動は、アメリカにとって国益にならないからです。
 そのへんの裏事情…世の中に跋扈して一笑に付される「陰謀論」よりももっと本格的で陰湿な「陰謀」…が実際にあるのだということを、この本は明らかにしています。
20130104_213958_2 なぜ、1997年以降、先進国の中で日本だけ経済成長が止まり、デフレが続いたのか。なぜ円高が是正されなかったのか。その答えはこの本の中にあります。
 まあなんとなく分かってはいたけれども、実際に「アメリカは日本を自分の財布だと思っている」なんて言われると腹が立ちますよね。
 私は、時々書いているように、全てを戦後のアメリカ(GHQ)による日本無力化洗脳政策のせいにするのは好きではありません。それをいとも簡単に受け入れて自己洗脳してしまった日本人のせいにしたいと思っています。
 いや、日本人のせいと言うよりも、日本人のすごさの証明だとプラスに考えているんですよ。
 たとえば、お年寄りが汗水たらして貯めた郵便貯金をアメリカが持って行ってしまったとしてもですよ、それでも日本人は基本隠忍自重している。泥棒にお金を取られても「きっと泥棒さんにも事情があるんだよ」「自分は充分余裕があるし貯めた金も使い道がないし」と思って相手の罪を問わない。
 そんなまるで「仏教説話」や「童話」のような世界観があるのだと思っています。
 「布施」の精神とも言えるし、「ノーブレス・オブリージュ」とも言える。
 究極の共産主義…なんて言うと、特に保守派の方々からは怒られそうですし、相手の悪を助長しているではないかと宗教者からも怒られそうですね。人が良すぎる、正直者が馬鹿を見るとも言えますか(苦笑)。
 ま、それはそれとしても、実際に日本が諸外国にとっては「スパイ天国」「工作員天国」であるということを知っておくのは無駄ではないでしょう。
 そして、私はそこに1991年の暴力団対策法が関わっている、つまり日本のヤクザ文化が弱体してから、諸外国にとって天国になったと考えていますが、まあそれは蛇足といたしまして、とにかくまずは次の動画をご覧ください。あっという間の2時間ですよ。
 著者の京都大学大学院助教授の藤井聡さんと、元経済企画庁審議官・元国際大学学長・元筑波大学副学長で、現在、国際大学・筑波大学名誉教授の宍戸駿太郎さんのお話です。
 新しい時代を迎えるにあたって、全国民が知っておかなければならない内容だと思います。ぜひ。

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2013.01.04

『レッスルキングダム7 in 東京ドーム』 (新日本プロレス)

 年はPPVにてじっくり観戦いたしました。
 なかなか良い大会だったのではないでしょうか。おおむね満足です。
 なにしろ大晦日のIGFがあんな感じで終わってしまったので(苦笑)、なんとなく煮え切らない、燃え切らないまま年を越していたんですね。それがいちおう昇華されたような。
 ただ、これが理想のプロレスかというと、なんとなくそうでもないよう気もする。いや、理想のプロレスなんていうものはありそうでないのかもしれない。いつまでも「何がホンモノか」という問いや夢を与え続けてくれるのがプロレスなのかもしれません。
 そういう意味では、やっぱり永遠の「物語」なんでしょうね。霊界物語並みに謎だし、聖俗入り乱れている。まじめなのかふざけているのか、ガチなのかヤオなのか、そんな世間的な基準を超えたところにある世界なのでしょう。だからやめられない。
 いくつか心に残る試合がありました。
20130105027 まず、永田裕志vs鈴木みのるかなあ。中村あゆみの生「風になれ」がかっこよかったな。
 やはりベテランの試合は安心してワクワクできる(笑)。ここのところ、みのるちゃんの負けっぷりがいいですね。
 彼から直接「オレはいつでも人を簡単に殺せる」という話を聞いたことがありますが、そういう戦闘の技術をもっているという裏打ちが、試合に説得力を与えるのでしょう。
 それこそが「ホンモノ」の条件だという考え方もありますよね。しかし、それが全てではないところもまたプロレスの深いところ。
20130105044 ということで、ある意味では対照的な説得力を見せてくれたのが、IWGPジュニアヘビー級選手権試合3WAYマッチの、プリンス・デヴィットvsロウ・キーvs飯伏幸太。
 これはすごかったですねえ。身体は小さい3人ですけれども、ある意味では今日のドームで一番大きく見えたかもしれない。
 すさまじい高度な戦いでした。こういうアクロバチックな試合というのも、極めれば命懸けの説得力になります。死なないどころか怪我をしないでああいうことができることに、人間の生命力を感じましたね。
 飯伏選手ともいろいろ話したことがありますが、全く普通の朴訥な青年なんですよね。どちらかというと殺気が全くないというか(笑)。それが「変身」するんでしょうね、ヒーローに。それもまたプロレス的魅力の一つでしょう。
20130104033 続きまして、私にとってはこれがメインでした、中邑真輔vs桜庭和志。これは実によかった。久々にドキドキワクワクしました。
 言うまでもなく総合格闘技の世界で「プロレスラー」として名を馳せた桜庭。彼が、純プロレスの世界に「デビュー」したという感じでした。
 こう言ってしまうとなんとなく軽い感じになってしまうかなあ…やっぱり、総合もプロレスの一部だなと。試合前は総合経験者同士、なんちゃって総合をやっちゃうんじゃないのかなと思いましたが、終わってみれば完全なプロレスという印象が残りました。
 桜庭はほとんど総合時代の動きに徹していましたね。しかしそれが不自然ではなく、まったく自然にプロレスになっていた。
 以前、彼の話を聞く機会もありました。彼は変身しないんですよね。ヒーローものが好きだったり、マスクをかぶって入場したりもしますが、実際の桜庭はいつも同じ。どんなジャンル、どんなリングでも、彼は彼らしく戦います。逆に言うと、誰も桜庭にはなれないし、真似どころか近づくこともできない。強烈な個性です。
 それを中邑がうまく利用したとも言えます。今まで中邑の試合にはあまり感動しなかったのですが、今回は「やるな」と思いましたね。クネクネも含めて、けっこう桜庭と個性を拮抗させてましたし、案外二人の個性は噛み合っていた。
 こういう意外なアンサンブルというのもプロレスの魅力の一つでしょう。
20130104015 メインの棚橋とオカダについては、まあ及第点ということで。オカダのこれからに期待しましょう。たしかに素質はいい。まだまだ若いので、どんどん勉強して「説得力」を身につけてほしいと思いました。
 というわけで、大晦日のIGFとは対照的な興行でした。いや、こちらの方が良かったということではありません。アントニオ猪木vs新日本(現在のプロレス)という戦いでもあるわけですから。お互いに敵も必要なんですよね。予定調和だけになった時に、プロレスは終わるのでしょうから。
 「プロレスを、取り戻す」…2013年、プロレスも再生するでしょうか。

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2013.01.03

1月6日「出口王仁三郎」が発信されます。

 日は宣伝です。
 私の人生のみならず、日本の命運にも大きな影響を与えている出口王仁三郎に関連する番組とイベントを紹介します。
 まずは、1月6日(日)夜10時から11時30分まで、NHK「Eテレ特集」で「出口なお・出口王仁三郎」がとりあげられます。
 シリーズ「日本人は何を考えてきたのか」の第9回「大本教 民衆は何を求めたのか〜出口なお・王仁三郎」。

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 これは本当に画期的なことです。日本の近・現代史を語る際、あるいは宗教史を語る際、ほとんどタブーとなっていた「大本」「出口なお」「出口王仁三郎」がNHKに堂々と登場するというのは。
 ずいぶん前に民放の「知ってるつもり」で取り上げられるというウワサもありましたが、結局実現しませんでした。
 歴史の闇に葬られてきたという意味では、今回検証される2回に及ぶ大弾圧以上の弾圧を受けているともいえる状況でしたから、感慨深いものがあります。
 いよいよ「艮の金神」(に象徴される日本古来の民衆のエネルギー)が世に顕れ出る時が来たのでしょうか。マヤの暦が更新し、安倍政権が生まれ、新しい時代が動き出す予感がしますね。
 内容の予告はNHKのサイトをご覧ください。私も楽しみです。
 中島岳志さん、安丸良夫さん、島薗進さんがご出演ということですから、かなり客観的な、そして踏み込んだ内容になるものと期待されます。
 続きまして同日6日から12日まで東京で開かれる「耀わんと書画展」です。
 おそらく数十に及ぶ耀わんが並ぶことになるでしょう。壮観でしょうね。そして、ものすごいパワーがその場に満ちるものと思います。

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 東京都と産経新聞社が後援ということで、そんなところにも時代の動きを感じます。
 ワタクシ事ではありますが、北とぴあと言えば、若い頃「国際音楽祭」で何度も演奏をした思い出の場所です。そんなところにもご縁を感じます。不思議です。
 こうした耀わん展は全国を巡回していますが、東京でこれほど大規模に行われるのは初めてではないでしょうか。東京に耀わんが集結すること自体に大きな意味がありますね。
 ちなみに私は大本(やその関連団体)の信者ではありませんが、王仁三郎のスピリットを研究し復活させるプロジェクトのメンバーです。
 私は6日初日に行くつもりです。会場でお会いできるといいですね。
 安倍昭恵さんがそうだったように、今回の展覧会で耀わんに興味を持った方は、ぜひとも我が家においでください。もっと身近に耀わんと「語り合う」ことができますよ。お待ちしています。

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2013.01.02

翼琴(クラヴィコード) in ビートルズ&霊界物語

 て、今日は意外なところで意外なものを見つけたので紹介しておきます。
 こちらでも間接的に紹介したクラヴィコードという楽器ですが、ご存知ですか?
 私の大好きな楽器です。ほとんど唯一、弾いていて気持ちのいい鍵盤楽器です。耳ではなく指で音を聴く感覚はクセになります。あまりに音が小さいので「自分だけのため」に弾く楽器なのです。
 どんな楽器かさっぱり分からんという方は、次の動画を観て聴いてみてください。これはすごいですね。400年前のオリジナルですか。

 現代に蘇ったのは今から80年くらい前でしょうかね。その辺の復活史、特に日本での復活史については私はあまり詳しくありません。今度知り合いの専門家に聞いてみようと思います。
 最近では、ジャズ・ピアニストのキース・ジャレットが見事に弾きこなしていましたね。ずいぶん前に紹介した『Book of Ways』というアルバムです。
 1曲だけYouTubeにありました。素晴らしい即興演奏ですね。キース・ジャレットのソロ・アルバムの中で、実は最高傑作だったりして…。

 さて、そんなクラヴィコード、私たちのような古楽人以外はあんまり弾いたり聴いたりする機会がないのですが、実は多くの人が一度は聴いたことがあるんですよね。
 なんとなんと、1966年、あのポール・マッカートニーが弾いて録音しているんです。ビートルズの「リボルバー」に収録されている名曲中の名曲「フォー・ノー・ワン」です。

 いったい誰がクラヴィコードなんていう楽器を持ち出してきたんでしょうか。ジョージ・マーティンの人脈の中には古楽関係者もいたのでしょうか。いそうだな。この当時はある意味では古楽ルネッサンスの時期でしたからね。
 1966年にこの楽器が登場していることにも結構びっくりしたんですけれども、今日もっと驚くような発見がありました。
 なんと、あの出口王仁三郎の霊界物語をパラパラと眺めていましたら、第54巻に「クラブイコード」という言葉が出てきたんです。
 私の尊敬する知り合いが運営している「霊界物語が無料で読める!」サイトをご覧ください。こちらです。
 第54巻「真善美愛」巳の巻第一八章「真信」、神歌の中に出てきますね。地の文では「翼琴」と書いて「クラブイコード」とルビが振られています。
 これが口述筆記されたのが大正12年のことですから、1923年、関東大震災の年ですね。今から90年前です。90年前の日本でこのような記述があるとは驚きでした。
 王仁三郎自身が実際のクラヴィコードを知っていた可能性はほとんどないと思います。翼琴というのはクラヴィコードの中国名ですから、どこかで翼琴という言葉を知り、その語感から神々の楽器として登場させたのではないでしょうか。
 当時の音楽辞典などを見たわけではありませんが、どこかで「翼琴=clvichord」として紹介されていたんでしょうね。とにかくビックリしました。
 その他の西洋音楽、西洋楽器用語もたくさん出てきます。中には意味不明のものもあります。ちょっと研究してみよう…というか、詳しい人に聞いてみようと思います。
 新年早々、私としては大きな発見でした。

Amazon 超訳 霊界物語―出口王仁三郎の「世界を言向け和す」指南書


 
 

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2013.01.01

謹賀新年2013(年賀状公開&初富士公開)

 さま、あけましておめでとうございます。今年も「不二草紙 本日のおススメ」をよろしくお願い申しあげます。
 今年も淡々と毎日綴ってまいります。次の日にはもう前日何を書いたか全く覚えていないという、ほとんど「自動書記」の境地であります(笑)。
 今年でこのブログも丸9年になります。面壁九年、達磨さんもデカルトも9年悩んで何かをつかみました。私には何がやってくるのでしょうか。
 昨年もまた、このブログを通じて本当にいろいろな出会いがありました。いかに発信することが大切か身にしみた1年でありました。今年もまた、頑張って書き続け…いやいや言葉を降ろし続けたいと思います。
 さてさて、今年もまた我が家のお馬鹿な年賀状を公開いたしましょう。
 どうぞ初笑いとしてご自由にお使いください。
↓click!
2013

 ちなみに今までの年賀状もご覧になりたいという方はこちらからどうぞ(笑)。

 さて、元旦の朝…いやいや「旦」というのは地平線に日が昇るところを写した象形文字ですから、元旦自体が1月1日の朝のことですな…に、初富士を撮影してきました。一富士です。素晴らしい気を発している富士山をご覧ください。
 明るく力強い日本の未来を象徴するような富士山を拝することができました。皆さんとシェアしたいと思います。

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