出口王仁三郎の「虎穴問答」
昭和10年12月8日の号外
今日、こんなツイートをしました。
今日は歴史的特異日。成道会(お釈迦様がお悟りを開いた日)。第二次大本事件。真珠湾攻撃。力道山刺される。ジョン・レノン暗殺。もんじゅ事故。
毎年この日は、特異日に関したことを書いています。今日は、第二次大本事件に関わることを書きましょう。
日本史、いや世界史最大の宗教弾圧事件とも言われる第二次大本事件。その詳細については、ウィキペディアでどうぞ。とは言っても、歴史的にまだ評価が定まっていない、評価しきれていない事件ですので、よく分からないと思いますが。
昭和天皇も決して口にしなかったと言われる出口王仁三郎の存在。かの戦争を含む日本近代史を考えるにあたって、決して避けて通ることができません。
さて、今日はその大本事件で逮捕された王仁三郎が裁判で語った有名な「虎穴問答」を紹介します。王仁三郎は逮捕されてからも、そのスケールの大きな言動とユーモアで、裁判官や刑務官までをも魅了してしまったと言われています。
この問答もいかにも彼らしい示唆に富む内容となっています。「愛と誇りが残る」…裁判長も思わず納得してしまったようです。
結局、周囲の努力と様々なやりとりを経て、この昭和17年の控訴審では逆転無罪の判決が出ます。そして、王仁三郎らは仮釈放。「わしが出た日から日本の負けはじめや」との言葉のとおり、その日から米軍はガダルカナル島に上陸、日本は敗戦に向けて突き進んでいきます。
ちなみに、禅問答に「人虎孔裡に墜つ」というものがあるかどうか確認できていません。ただ、皆さまも御存知のとおり、お釈迦様の教えに「捨身飼虎」というのがありますね。飢えている虎の親子に我が身を捧げるという「布施」の教えです。法隆寺の玉虫厨子の図でも有名です。
まあ、それを題材とした公案として、「虎の穴に落ちたらどうだ?」みたいなものがあってもおかしくありませんが。
それでは、高野綱雄裁判長と出口王仁三郎のやりとりをお読みください。これはある意味日本近現代史の分岐点となった問答でもあります。
王仁三郎の雛型理論からすると、これは王仁三郎の問題、大本の問題ではなく、日本の世界の宇宙の問題なのかもしれません。そう考えると大本事件そのものの意味も、またその後の、空襲、原爆、敗戦の意味もまた違ってくるのです。
(判事が捏造した予審調書の内容を否定する王仁三郎に対して)
裁判長…それでは訊ねるが、この事件は結社の組織罪が問題になっていて、お前がその結社の首魁ということになっているのだよ。たとえ死んでも首魁のお前が結社を認めさえしなかったら、部下の被告等は助かったかも知れんじゃないか。自己を犠牲にしても人を助けるのが宗教家の本領じゃと私は思う。お前の答弁を聞いていると、自分が助かりたいために、部下を抱き落しにかけても構わぬというやり方のように聞えるが、それでも宗教家としてよいのか。
王仁三郎…裁判長、私の方から一寸お訊ねしたいのです。禅宗の間答に「人虎孔裡 (じんここうり) に墜つ」というて、一人の人間が虎の棲んでいる穴へ誤って落ち込んだと仮定して、その時落ち込んだ人はどうしたら好いのかという問答があります。裁判長あなたはこれをどうお考えになりますか。
裁判長…私は法律家で宗教家ではないから、そんなことは分らぬ。どういうことかね。
王仁三郎…人間より虎の方の力が強いから、逃げようと後を見せると、直ぐ跳びかかって来て噛み殺される。はむかって行ったらくわえて振られたらモウそれっきりです。ジッとしていても、そのうち虎が腹が減って来ると喰い殺されてしまう。どちらにしても助からないのです。
裁判長…それはそうだろうな。
王仁三郎…ところが、一つだけ生きる途があります。それは何かというと、喰われてはだめだ、こちらから喰わしてやらねばなりません。喰われたら後に何も残らんが、自分の方から喰わしてやれば後に愛と誇りとが残る。その愛と誇りを残すのが、宗教家としての生きる道だ、というのがこの問題の狙いなのです。
裁判長…その点はモウそれで宜しい。
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