『たましいの教育』 羽仁もと子
「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」…自由学園の創立者羽仁もと子の言葉です。これは教育の基本ですね。私はそう思います。
今日も忙しいので先人に学びます。これもまた青空文庫で読みました。忙しさのおかげ様で自己を滅却できる。他力は素晴らしいですね。他力こそ自力です。
「思想」「生活」「祈り」をより具体的に語っているのが、昭和7年に書かれたこの文章「たましいの教育」です。
本当に教育に関しては、最新の教育論なんかよりも、昔のものの方がずっと勉強になります。
今日も「いじめ」対策がどうだこうだ、こういうアンケートをした、とかいうニュースが流れていましたが、そういう対症療法的な、あるいは表面的な予防のテクニックのみ論じてもしようがない。もちろん、そういう各論、技術論、現実論も必要ですが、その基底となるべき本質論が聞かれなくなって久しいと思います。
それは戦後の教育が「祈り」を排除したからでしょう。
おとといの折口信夫にしても、昨日の出口王仁三郎にしても、今日の羽仁もと子にしても、人間の「魂」の部分、すなわち「祈り」の主体を重視していました。
しかし、戦後教育、いや戦後の日本社会は、宗教をはじめとする「祈り」の世界を遠ざけました。そこには当然国家神道に対する反省があったわけですけれども、あの国家神道に対する嫌悪感を単純に伝統宗教にまで敷衍してしまったのは大きな間違いでした。それがアメリカのしわざなのか、ソ連のしわざなのか、はたまた日本人自身のしわざなのか、それはなんとも言えないのですが、とにかく結果として、そういう世の中になりました。
羽仁さんの文章で言えば、「身体(からだ)」と「精神(こころ)」の成長のみが教育の目的となり、「霊性(たましい)」はその対象とされなくなってしまったわけです。
今でも「知育・徳育・体育」と言われますが、「知」と「徳」は、実は「精神」に含まれるものです。羽仁さんの言う「奮い立つ心」はたしかに言語化されえない「霊性」に属しているものであって、今の学校教育では教えられていませんね。
私にとっての今の大きな課題はその「霊性」をどう教育現場で教え、伝え、育てていくかです。非常に難しいことですが、難しいからこそ「奮い立つ心」が起きてくるのです。
それでは、羽仁もと子さんの「たましいの教育」をお読みください。
思慮というものの全然芽を出していない幼児には、ただ外形ばかりが強い問題である。
幼児ほど
さらに幼児ほど好奇心の強いものはない。十分かれらの好奇心に投じてゆくならば、そのまちがっていることも、必ずなおしてしまうことができる。
それゆえ幼児には、
また私たちが知らないうちに彼が悪いことを鵜呑みにしていることを発見したならば、その好奇心を利用して、それと反対なことをまず鵜呑みにさせなくてはならない。
しかし鵜呑みはどこまでも鵜呑みである。どんなによいことを鵜呑みにさせておいても、それが彼の一生を支配してゆく力はない。幼児時代から子供のもっているよい鵜呑みが、年とともにかれらの思いによって理解され、思想にまで信念にまで育ってゆくように助けなくてはならない。
幼児の一面はまたただの本能そのものである。すなわちその本能的欲望をもとにして、彼らを育て導いてゆくよりほかはない。
それをときどき私たちは、親の
活きる力の強弱は、またあらゆる生命の根本である。
それだのにわれわれの実際はどうであろうか。教育のある母親ほど、子供の
多くの人や子供をみているうちに、
幼児は
私たちは幼児に、時間通りに分量通りに、また乳の必要な時代に乳を、その他の食物の必要になってきた時代に他の食物をあたえる。それはなんのためだろう。時間通り分量通りに乳をやるのは、それでなくてはお腹を悪くするからだと、つい思っているような私たちであるけれど、決して決してそうでないことをはっきり考えていなくてはならない。そうすることは赤ん坊を命ぜられた健康に発達に導くためである。他の食物が入用になってきたら、早速それをあたえなくてはならないのもそのためである。しかしただそれだけでよいであろうか。
いま一つなお大切なことがある。それは時間によって、またよく考えられた分量によって、かつその発達にしたがって食物の種類をかえてゆくのもふやしてゆくのも、
幼児の宗教教育、すなわちたましいの教育はもちろんむずかしいものである。そのむずかしい一番の理由は、どこにあるのだろうか。乳をやる母の心に、子供をやしなってゆく父の心に、食物は胃腸を通して体外に出てゆくものだぐらいの思いしかないこと、それ自身なのだと私は思う。
そのようにしておとなにされてしまってからの宗教教育こそ絶対にむずかしいはずのもので、生まれたときから心がけて、そのたましいを明らかなものにすることは、祈り心をあたえられている父母にはかならずできることではないかと思う。
外形を
無心な子供の日々の営みが、霊なるものへの讃美となってゆくような生活でなくてはならない。
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コメント
スイッチバックを繰り返すとほんとに疲れます。
トンネルでもあればいいのに…
愛を持ってすれば、どんな方法でも子供に伝わる。
人それぞれの手段を使って、失敗してもいい…かな?
でも、その愛ってやつが案外やっかいですね。
愛は盲目ってほんとうですね。
結果、子供の笑顔があるのがいい学校。
投稿: 温故知新 | 2012.11.15 05:48