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2012.11.13

『たましいの教育』 羽仁もと子

Imgres 「想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」…自由学園の創立者羽仁もと子の言葉です。これは教育の基本ですね。私はそう思います。
 今日も忙しいので先人に学びます。これもまた青空文庫で読みました。忙しさのおかげ様で自己を滅却できる。他力は素晴らしいですね。他力こそ自力です。
 「思想」「生活」「祈り」をより具体的に語っているのが、昭和7年に書かれたこの文章「たましいの教育」です。
 本当に教育に関しては、最新の教育論なんかよりも、昔のものの方がずっと勉強になります。
 今日も「いじめ」対策がどうだこうだ、こういうアンケートをした、とかいうニュースが流れていましたが、そういう対症療法的な、あるいは表面的な予防のテクニックのみ論じてもしようがない。もちろん、そういう各論、技術論、現実論も必要ですが、その基底となるべき本質論が聞かれなくなって久しいと思います。
 それは戦後の教育が「祈り」を排除したからでしょう。
 おとといの折口信夫にしても、昨日の出口王仁三郎にしても、今日の羽仁もと子にしても、人間の「魂」の部分、すなわち「祈り」の主体を重視していました。
 しかし、戦後教育、いや戦後の日本社会は、宗教をはじめとする「祈り」の世界を遠ざけました。そこには当然国家神道に対する反省があったわけですけれども、あの国家神道に対する嫌悪感を単純に伝統宗教にまで敷衍してしまったのは大きな間違いでした。それがアメリカのしわざなのか、ソ連のしわざなのか、はたまた日本人自身のしわざなのか、それはなんとも言えないのですが、とにかく結果として、そういう世の中になりました。
 羽仁さんの文章で言えば、「身体(からだ)」と「精神(こころ)」の成長のみが教育の目的となり、「霊性(たましい)」はその対象とされなくなってしまったわけです。
 今でも「知育・徳育・体育」と言われますが、「知」と「徳」は、実は「精神」に含まれるものです。羽仁さんの言う「奮い立つ心」はたしかに言語化されえない「霊性」に属しているものであって、今の学校教育では教えられていませんね。
 私にとっての今の大きな課題はその「霊性」をどう教育現場で教え、伝え、育てていくかです。非常に難しいことですが、難しいからこそ「奮い立つ心」が起きてくるのです。
 それでは、羽仁もと子さんの「たましいの教育」をお読みください。

 「たましいの教育」


 思慮というものの全然芽を出していない幼児には、ただ外形ばかりが強い問題である。
 幼児ほどかたちの上から物を鵜呑うのみにするものはない。そうしてその鵜呑みにしたことを、よいこととして守ってゆくものはない。
 さらに幼児ほど好奇心の強いものはない。十分かれらの好奇心に投じてゆくならば、そのまちがっていることも、必ずなおしてしまうことができる。
 それゆえ幼児には、外形かたちをもってまずよいことを鵜呑みにさせることが必要である。
 また私たちが知らないうちに彼が悪いことを鵜呑みにしていることを発見したならば、その好奇心を利用して、それと反対なことをまず鵜呑みにさせなくてはならない。
 しかし鵜呑みはどこまでも鵜呑みである。どんなによいことを鵜呑みにさせておいても、それが彼の一生を支配してゆく力はない。幼児時代から子供のもっているよい鵜呑みが、年とともにかれらの思いによって理解され、思想にまで信念にまで育ってゆくように助けなくてはならない。
 幼児の一面はまたただの本能そのものである。すなわちその本能的欲望をもとにして、彼らを育て導いてゆくよりほかはない。
 それをときどき私たちは、親のねがいや都合を先にして、彼らを導こうとしていることに心づく。この場合において、閑却かんきゃくされた幼児の欲望が本能が、ひとりでにほしいままなるものになってしまうわけである。
 活きる力の強弱は、またあらゆる生命の根本である。身体からだ精神こころ霊性たましいも活発であるかどうかは、人を診察する医者が、まずわれわれの脈をとることをなによりも先にすると同じように、いつでも幼児を見守るものの第一条件として、たえず気がついていなくてはならないことである。やや極端にいえば身体からだ精神こころ霊性たましいと、この三つを含む活力を強くしてやりさえすれば、そのほかのことは何もいらないと思ってもよいほどである。
 それだのにわれわれの実際はどうであろうか。教育のある母親ほど、子供の身体からだをかばいすぎてその活力を弱め、子供の心をかばいすぎて友だちを制限し、人間われわれ霊性たましいの偉大なものだということを忘れて、子供をただ幸福に導こう導こうとしている。考えてみるとみな信ずべきものを十分に信じないための現われだと思う。いいかえれば、人の親であり、教師であるわれわれの霊性たましいの力が弱くなっているためだと思う。
 多くの人や子供をみているうちに、身体からだは十分に強くても精神こころの力の弱い人もあり、理性も研究心も強く鋭いのに霊性たましいの力の非常に弱い人もある。溺れかけている人を助けることは、われわれの理性では決してできることでない。助けようとして彼と自分とともに死ぬかもしれないからである。すべてよいことを本気になってするのは、溺れかけている人をみて我をわすれて一緒にとびこむような心境だと私は思っている。頭脳あたまのよさばかりでは決してできないことである。我をわすれて溺れかけている人を助けにゆくのは、義侠心ぎきょうしんだとある人はいうかもしれない。溺れかけている人を救う種類のことだけならば、あるいは義侠心のみでもできるかもしれない。しかし、われわれの日常に起こるいろいろな場合に、ふるい立つ心――それは単なる義侠心のみではできない。良心というよりも、もっと深いところにある霊性たましいの力だと私はそれを思っている。私たちに祈りがなければ、この力がひとりでにしぼんでゆく。私たちのたましいの力はただ神より来たり、祈りによってのみ強められてゆくものであろう。私自身も常に自分の弱さを感じているゆえに、多くの子供をどうか強い人間にしたいと、なによりもさきにそう思いそう祈る。
 身体からだは弱いけれども、精神こころの強い人はある。しかし霊性たましいの強い人は少ないものである。私たちの子供らをこの三つの力の強い人にしたい。
 幼児は外形かたちを見、その外形を鵜呑うのみにするものだから、裏店うらだなに育っている子供と、生活様式の十分にととのっている家の子供とは、言葉でも動作でも、その鵜呑みにしているものが雪と墨ほどちがうので、一方はいかにも上等の人らしく、一方は下等に見える。幼児をみる場合にも、以上三つの活力のことを頭においてみて、はじめてその人柄がよくわかる。そうしてブルジョアの子供の劣等さは思いのほかである。もちろん粗野な子供がみんなえらいのではなく、粗野が不注意とむすびついている場合には、いかにその子の活力が旺盛おうせいにみえていても、それはただ動物的本能的なもので、価値ねうちのほとんど少ないものである。
 私たちは幼児に、時間通りに分量通りに、また乳の必要な時代に乳を、その他の食物の必要になってきた時代に他の食物をあたえる。それはなんのためだろう。時間通り分量通りに乳をやるのは、それでなくてはお腹を悪くするからだと、つい思っているような私たちであるけれど、決して決してそうでないことをはっきり考えていなくてはならない。そうすることは赤ん坊を命ぜられた健康に発達に導くためである。他の食物が入用になってきたら、早速それをあたえなくてはならないのもそのためである。しかしただそれだけでよいであろうか。
 いま一つなお大切なことがある。それは時間によって、またよく考えられた分量によって、かつその発達にしたがって食物の種類をかえてゆくのもふやしてゆくのも、人間われわれは生まれたときから本能的欲望の上に生きることの営みを打ち建て、かつその欲望を、われわれの研究によって発見し得たかぎりの法則によって統制し、馴致じゅんちしつつ生活をするものだということを、幼児の肉体ばかりでなく、その良知良能に毎日毎日訴えつつ育ててゆくのだということを、ふかく自覚していることが大切である。あたえられたる外物ものにより、またあたえられたるこの肉体の経験を通して、霊智れいちにまですすみゆくべき消息が、このようにして人間生活のあらゆる断面に現われているのは至妙ふしぎである。
 幼児の宗教教育、すなわちたましいの教育はもちろんむずかしいものである。そのむずかしい一番の理由は、どこにあるのだろうか。乳をやる母の心に、子供をやしなってゆく父の心に、食物は胃腸を通して体外に出てゆくものだぐらいの思いしかないこと、それ自身なのだと私は思う。
 そのようにしておとなにされてしまってからの宗教教育こそ絶対にむずかしいはずのもので、生まれたときから心がけて、そのたましいを明らかなものにすることは、祈り心をあたえられている父母にはかならずできることではないかと思う。
 外形を鵜呑うのみにして信ずる幼児、それにお行儀をおしえ、道徳をおしえ、あるいは親のさまざまの好みや主観を直通させること、それは頭の悪い軽薄な人間を、セルロイドのおもちゃのように造ってゆくやり方である。ほんとうに悲しいことである。
 無心な子供の日々の営みが、霊なるものへの讃美となってゆくような生活でなくてはならない。

教育三十年 一九三二年(昭和七年)


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コメント

スイッチバックを繰り返すとほんとに疲れます。
トンネルでもあればいいのに…

愛を持ってすれば、どんな方法でも子供に伝わる。
人それぞれの手段を使って、失敗してもいい…かな?
でも、その愛ってやつが案外やっかいですね。
愛は盲目ってほんとうですね。

結果、子供の笑顔があるのがいい学校。

投稿: 温故知新 | 2012.11.15 05:48

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