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2012.11.25

加藤唐九郎による出口王仁三郎「耀わん」評

↓我が家の耀わん「十和田」を裏返して見た図
Gedc4388 のブログには時々「耀わん」が登場します。特に最近活躍していますね。
 記憶に新しいというか、今でも進行形なのは、安倍晋三さん昭恵さん夫妻に関わるエピソードでしょうか(記事はこちら)。
 ウチの耀わんさんが国の行く先を変えてしまったと評価してくださる方々もいらっしゃいます(苦笑)。信じる信じないは別として、面白い時期的符合ではありましたね。
 たしかに8月11日の段階で、年内に政権交代して安倍さんが首相になるなんて(まだですけど)断言できたのは「耀わん」さんくらいのものでしょう。
 で、いったいその「耀わん」とは何なのか!?とお思いになる方もたくさんいらっしゃることでしょう。それについては、ぜひこちらをご覧ください。わかりやすい紹介動画です。

 ちなみに私は「大本」の信者ではありません。しかし、出口王仁三郎のファンであることはたしかです。各種宗教を勉強してきた私としては、もちろん宗教家としての王仁三郎にも興味はあります。しかし、実際にはそれ以上に、芸術家、思想家、革命家としての出口王仁三郎に惚れ込んでいると言っていいでしょう。
 そうそう、この動画で紹介されているように、現在「耀わん」たちは全国を巡回しようとしています。
 来年の1月には東京都と産経新聞社の後援で東京展が、3月には神奈川県と鎌倉市、産経新聞社の後援で鎌倉展が開かれます。無料でもありますし、関東地方の皆様、ぜひともその「神気」に触れてみてください(詳細はこちら)。
 時を同じくして年明けにNHKで出口直と出口王仁三郎がとりあげられるようです。時代は変わりましたね。やっと時代が追いついたのでしょうか。
 さてさて、今日はそんな「耀わん」について、かのカリスマ陶芸家加藤唐九郎が語った素晴らしい言葉を紹介させていただきます。
 どうしても「ご神体」として、あるいは「美術品」として扱われがちな「耀わん」。たぶんこうしてガラスケースからどんどん出して触ってもらったり、お水を飲んでもらったりしているのは、ウチくらいのものでしょう。
 私は「耀わん」自身、あるいは王仁三郎自身から、そうしろと言われているような気がしていたのですが、たまたま読んだこの文章で、加藤唐九郎さんがそういうことを述べているのを知り、大変に驚いたとともに、やっぱり!と膝を打ちました。「言葉」が分かる人には分かるのですね(ちなみに同じ特集の中で林屋晴三さんは「残念ながら私には理解できないものがある造形である」と述べています)。
 では、どうぞ。皆さんもぜひ一度触れに来てみてください。誰でも大歓迎です!

(以下、「目の眼」昭和56年11月号より引用)

 「やきもの」はそれぞれの言葉を持っている。人間一人一人その性質が違うように、話しかけてくる言葉も千差万別である。
 あるいは饒舌であったり、あるいは上品ぶっておったり、あるいは素朴で口下手であったりする。またそれぞれ国語が違い、方言が異なる如く「やきもの」の言葉も多様であるが「耀盌」に至っては、まるで異星の言葉を持っているかのように、私には感じられる。
 「耀盌」は、王仁三郎師の遺言である−いや遺言などという消極的な、生命(いのち)終ったもののかたみなどではなく、師の生命のかがやきそのものではなかろうか。
 生命体としての師の肉体は、この世から姿を消しはしたが、生命そのものは消滅することを拒否した。
 なぜならば師には、永遠に人々に語りかけなければならない言葉があったからだ。
 芸術というものは、多かれ少なかれそういった要素を持っているが「耀盌」という作品は単に芸術とのみ呼ぶ分野のものではない。
 王仁三郎師の生涯を通観して、その波瀾のありさまを今更ここに述べるつもりはないが、とにかく自らの持てる限りの表現力を、あらゆる媒体を使って具象化しようと、その噴出口を求めて模索しつづけた一生ではなかっただろうか。
 無論、師に備わった才分の豊かさは、一つ一つの分野で花ひらいて来た。
 そして、その集大成とも言うべきものが、最晩年のやきもの造りに凝縮されたと見ていい。
 それ故、この作品は、師の実践した人生に深く関わっている。それらは現在生きている人間との対話によって、猶生き続けていくことだろう。
 たとえば、これらは、一般的な茶陶に対する扱い方とは、まったく違った待遇をすべきものではあるまいか。
 つまり、幾重にも箱の中へとじ込め、何年かに一度、小人数の席へ出して娯しむといったようなたぐいのやきものではない。
 それは、世界中に飛び散って、種となることを欲しているのかも知れない。種は土に根を下ろさねば、再び花をつけ実を結ぶことはない−あたら秘蔵すべきものではなかろう。
 「耀盌」のどの一つをとっても、王仁三郎師その人の如く、深遠な言葉を持っている。心の奥底まで揺ぶり動かすような何ものかを常に発散させている。
 王仁三郎師自体、只の人間を超えたところに存在した。「耀盌」にしても、ふつうのやきものを鑑賞しようという眼を以ってすれば、自分との融和点に限界が生ずる。
 王仁三郎師の、この教義についての結論が偶然やきものというかたちを借りて「耀盌」の中には秘められているのかも知れない。
 「耀盌」は、そんな主張を感じさせるやきものである。
 

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コメント

 はじめまして。
 私は「大本」の職員で、史実の編纂にたずさわっている者です。
 webで拝見した「加藤唐九郎による王仁三郎『耀わん』評」。大変興味深く読ませていただきました。
 ほとんどの耀盌評は目を通しているつもりですが、今回の記事は初見です。「目の眼」同号を入手したくネットで探して見ましたが見あたりません。
 もし、コピー、またはPDFで同号の関連記事、ならびに奥付をいただければありがたいのですが、可能でしょうか。
 お手数をおかけする勝手なお願いでございますが、よろしくお願い申し上げます。
 これはコメントではなく、こちらからのご無理なお願いでございます。
 2013/06/06

投稿: 田辺 謙二 | 2013.06.06 10:12

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