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2012.11.30

出口王仁三郎の共産主義

↓みろくの世を象徴する耀わんのクローズアップ
20121202_90958 日も書いたとおり、最近の私は共産主義にアレルギーを起こさなくなりました。多少は大人になったのでしょうか(笑)。
 いや、だからと言って、いわゆる左翼的な思想を持ち始めたということではありません。相変わらず私は「ソフトな右派」を標榜しています。
 しかし、これも実は名刺代わりのようなもので、私の実体を示す言葉ではありません。
 ちなみに私の友人は世間では「アカ」扱いされていますが、彼自身を知れば知るほど、この人はものすごく右翼的だなと感じます。ご自身もそんな自分の本質をよく知っていて、それでバランスを取るためにマルクス主義を勉強したと言います。
 その気持ちよく分かります。というか、私はその逆なのかもしれません。本質的に、性善説に基づく平和主義、平等主義に走りすぎる傾向があるので、表面上は勇ましいことを言ってバランスを取っているのかもしれません。
 しかし、こういう感性というのは、教育によって植え付けられた二元論によって生まれてくるものであって、本来はそれが渾然一体となった「何か」なのかもしれないとも思うのです。
 つまり、いわゆる右も左も、タカもハトも、資本も共産も、個人も社会も、どれも完全には排除できない実感として我が身の中に存在する予感がするのです。かと言って、妥協的な中道(またはリベラル左派)でもない。
 まあ、当然と言えば当然ですよね。たとえば今の政治状況で言うならば、外国という他者との関係性によって日本という自己を確立していかねばならないわけですから、理想に走ってばかりはいられません。話せば分かる相手ばかりではないからです。
 で、そういう現実論を全て捨て去って理想論のみを語ろうとすると、私は出口王仁三郎の思想に到達するわけです。
 細かいことは書きませんが、王仁三郎は戦後、米ロの戦いはロシアが勝ち、世界で社会主義革命が起きるというようなことを言っています。米ロの戦いが武力的な戦争を指すものとはかぎりません。王仁三郎が一貫して資本主義の限界、カネ本位の危うさを論じているところからも、経済システムとしての戦いのことを指しているのかもしれません。
 王仁三郎によれば、資本主義から社会主義、そして共産主義へ、すなわち財産所有の形態が私有から国有へ、そして共有へという方向に動き、さらに究極的には「神有」になるということです。
 当然こうした思想には、戦前のマルクス主義運動の影響を感じることができるわけですが、王仁三郎らしいのは、その先の先まで想定したということですね。それもキリスト教共産主義のレベルとは違う発想で。
 国家も宗教もない大家族主義的共同社会と言うと、荒唐無稽の理想論、あるいはいかにも宗教的な夢想だと一笑に付されるにちがいありません。しかし、私はそういう夢物語を頭のてっぺんにおいて、現実に対応していきたいのです。
 所有を完全に放棄するという意味では、仏教の思想もそれに通じています。仏教では偶像としての「神」を想定しませんが、王仁三郎の「神」観は「真理」の比喩であるとも言えますから、私の中では両者は自然に共存しえます。
 では、来る選挙ではどうするのか。これは政治という現実の問題ですからね。理想という未来のために、現実という現在を選択したいと思っています。


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2012.11.29

『メディア症候群』 西村幸祐 (総和社)

20121130_120345_2 日は久々に「赤旗」を熟読しました。まあ不思議なもので、昔はあれほど毛嫌いしていた共産党が、今となっては、実にまっとうな「保守的」な政党に感じたりして(笑)。
 実際、筋の通った政党ということでは随一とも言える。もちろん、その主義主張と名称とのギャップやら、歴史的な整合性のなさなどいくらでも指摘できますけどね。
 でも、他の政党があまりに根なし骨なしだからでしょうか、なんだか立派に見えてくる。そう、将来的には自民党と共産党の二大政党時代が来てほしいと思いますね。
 で、私は二元論には陥らない多元主義者なので、「赤旗」を読んだあと、この本を読んでも全然違和感がないのです。
 そう、「赤旗」もこの本も「メディア」ですね。それもかなりバイアスのかかったメディアです。いや、メディアとは全てそういう存在です。
 「モノ・コト論」にこだわる中で、メディア(ミーディアム)については、その霊的なものから現代的なものに至るまで、非常に、いや異常に興味をもって研究してきましたから、今日のような荒技というか、飛び道具を難なくこなすことができるようになりました。
 そうしますと、世の中があまりにメディアに惑わされ、あるいは洗脳されて動いているかが、よく分かります。自分の勤めている「学校」なんていうのも、そういったメディアの集積場、あるいはメディア自体の権化とも言える存在です。
 そういう意味では、私自身もまたメディアであり、このプログももちろん私というバイアスのかかったメディアであります。
 つまり、自他で構成されるこの世界は、今も昔も変わらずメディアどうしが結束するネットワークなわけですね。その中で、いかに自己の立ち位置を作れるか、あるいは、自己を中心としたネットワーク…いや、自己中心的という意味ではなくて、視点が中心にあって全体を見渡すことができるような自己を確立するというのが、私の人生の目標の一つであります。
 ま、まだまだ漂い続けてますがね。漂い続け、あるいは溺れてもあがき続けることによって、結束の装置たる「縁」が増え続け、そうして「文脈」が形成されてゆき、自分の意味が確定していくような気がしています。
 そのためには、今はあまり自分の居場所を決めつけないことです。こうして保守の論客(メディア)によるメディア論に触れるのも実に面白い。バイアスのかかりまくった反日メディアを糾弾する保守メディア、それにかかっているバイアスを想像するのも楽しいものです。
 今日、ニコニコ生放送で党首討論が中継されましたね。それを見ながらいろいろ考えました。
 ネット社会は、限界を露呈した既存メディアに対立するものではなく、やはりその延長にあるなと。旧メディアの受け手が、ただこちら側に移ってきただけだなと。
 今度の選挙に、TwitterやFacebook、YouTubeやニコ生、そして、もう旧メディアとなってしまったかもしれませんが2ちゃんねるなどが、どれほど影響を与えるでしょうか。
 受け手の表現の場が増え、匿名性に基づく(とりあえずの)自由が広がれば、そこにはより強いバイアスの影が現れます。責任の所在の不明瞭な、そして自己中心的な、いわば「偏向」した個人的「報道」が跋扈し、より物語的な共同体が作り出されていきます。
 それが、はたして旧メディアの時代(それは太古から平成までを含む)に比べて、高次元なものなのか、私たちをより幸せにするものなのか。それは微妙ですね。
 しかし、それも含めて時代の流れであり必然であるととらえるなら、今度の選挙の結果もまた必然なのかもしれません。全ての「結果」は「スタート」であり(果実は種であり)、大局的に見れば「過程」であるわけですから。

Amazon メディア症候群

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2012.11.28

英語党名で笑おう

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 日は新党を中心に(日本語の)党名についてちょこっと書きました。そうしましたら、今日の夕方になって、こんなニュースが配信されていて、大いに笑ってしまったのであります。
 もうとにかくご覧になって…いや声に出して読んでいただきたい。非常にfunnyですよね(笑)。
 上から見ていくと、「民主党」と「自民党」に関してはまあいいでしょう。でも、たしかにデーブ・スペクターさんが言うように「Liberal」は国際的には左派という感じがあります。特定アジアを中心に「右翼」呼ばわりされている自民党ですからね。
 続きまして「公明党」は…へえ「New」なんですね。たしかに1998年あたりで新進党の残党と合流して再結成されたわけですし、創価学会色を弱めたという意味では、昔の公明党とは違うと言えば違う。
 「共産党」は、これは実は最も古い非常に保守的な(!)名前です。英語名も一番分かりやすい。ま、今となっては名と実がだいぶ違ってますが。
 「社民党」もまあそのまんまでしょう。ちなみに日本社会党の英語名も「Social Democratic Party of Japan」だったんですよ。
 さてさて、出ました!「みんなの党」。「Everybody's Party」かと思いきや!「Your Party」かよ!(笑)。これは思い切った翻訳ですね。意訳を超えている。まさに超訳(笑)。「あなたの党」かぁ…。
 続いて、「日本維新の会」。たしかに「Restoration」は「復古」ですよね。つい本音が出たということか。明治維新を「the Meiji Restoration」と言ったのは、当然「王政復古」だったからです。「昔に戻す」という「復古」と「全てを一新する」という「維新」が同じというのは、これいかに(笑)。
 「日本新党」はまあそのまんま。何を主張しているかは不明ですが。
 「新党大地・真民主」と「新党日本」は日本語をそのまま利用しています。大地とかぜひ英語にしてほしかったのですが。「the earth」とか。かっこいいじゃないですか。
 「新党改革」は…へえ〜「New Renaissance Party」ですか。ルネッサンスって、これもどちらかというと「復興」「復活」「再生」という感じですよね。「改革」とは違うような気もしますが、まあ、どちらかというと保守だからいいか。
 ある意味一番ウケたのが「みどりの風」です。日本名もすごいと言えばすごいけれども、英語名もまんま。いきなり「Green Wind」と言われても…(苦笑)。
 「日本未来の党」はどうなるんでしょうか。たぶん…でしょうかね。できれば超訳してもらいたい。
 いやいや、やっぱり一番はこれかな。超訳どころか直訳すぎ(笑)。「国民の生活が第一」…「People's Life First」!まあそうですけど、なんか中学2年生っぽいぞ(笑)。
 「太陽の党」は結果として「Sunset Party」になってしまいました。ご愁傷様。
 で、それ以前に「Sunset」になっちゃったのが「たちあがれ日本」ですね。なんとも皮肉なことです。
 中二病(?)ということで言えば、「減税日本」の英訳も直訳すぎませんか?英語圏の人が読むとどんな感じなんでしょう。
 「新党きづな」…「絆」は今や国際語なんでしょうか。「KIZUNA PARTY」って、なんか合コンみたいですよね(笑)。
 最後の「減税…」、日本語で全部打つのも面倒くさい。英語にしたら、これは長いですよ。どうするんでしょうか…と思っていたら、それも杞憂に終わりましたね。
 と、それぞれなんとも言えない味わいというか悲哀を感じさせる英語名であります。こうして外国語を経由すると、案外その党の本質が分かるのかもしれませんね。
 さて、それぞれの正当の運命やいかに。
 

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2012.11.27

富士山に本格的な冬が到来

 日も世間ではいろいろなニュースが飛び交いました。「日本未来の党」結成やら民主党のマニフェスト発表やら。
 それらについてもいろいろと語ろうかと思いましたが、書き始めて、なんだかむなしくなってしまったので、全部消去してしまいました。
 なんだかスケールが小さいような気がするのです。「未来」や「維新」など、一見壮大なことを言っているようでいて本当のところ実体がない。単なるイメージでしかありません。
 かと言って、自由民主党や民主党、社会民主党、共産党など旧来のイデオロギーを名称にしている党にしても、結局それらの言葉には実体的な感触がない。
 各党の公約やマニフェストを読んだり、党首らの演説を聴いたりしていますが、結局それらも空しく響くだけ。たしかに時代が変わったということもありますが、言葉自体に「魂」が感じられないというのは、なんとなくさびしいことです。
 では、どうすればいいのか、どうなればいいのか…これはまた難しい。
 こんな人間の「コト」の虚しさに接する時こそ、あまりに堂々として動じない「モノ」の存在を再認識するというものです。
 私にとっても「モノ」の象徴である富士山。今日の富士山はいつに増してその存在感を強くアピールしていました。昨日の雪のおかげもあるでしょう。いかにも冬の富士山らしく凛々しく玲瓏としてそびえ立っております。
 そんな「気」を写真から感じていただけるかどうか。富士吉田からの富士山です。本格的な冬の到来。どうぞご覧ください。

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2012.11.26

実写(プレスコ)版「うる星やつら」第三弾!

Vlcsnap2012112717h33m17s139 年もやってまいりました。我が校恒例のうる星やつらの実写版の公開です。
 今年の1年生は大人数の上にひっちゃかめっちゃかのリアルうる星やつらですので、やはりそれなりの作品となりました。ま、採用された原作が「命かけます授業中!」ですからね(笑)。そりゃドタバタを極めますよ。
 今までの2作とはまた違った個性的なできになったと思います。ちなみに過去2作は以下の記事からご覧いただけます(フラッシュムービーが見られない方、すみません)。

「さよならの季節」
「買い食いするものよっといで」

 今年は、先日無事終わった文化祭において、昼休みのお楽しみとして3本連続上映をいたしました。生徒たちも映画ばりの大画面で観るのは初めてで大興奮。お客様の評判も上々でした。
 たしかに、いかにも平和で活気のある学校生活が感じられるでしょうね。もちろんこれは勉強の一環としての活動ですよ。遊びじゃありません。メディア、特にエンターテイメントの作り手側になることによって、観点、視点が大きく変わります。子どものそれから大人のそれへの転換のきっかけとしては最高の体験です。
 ま、皆様には「なんだかバカなことやってて楽しそうだな」程度に思っていただければけっこうです(笑)。実際私も毎年楽しんでますから。
 というわけで、理屈抜きに楽しんで下さい。そして、皆さんもぜひ「プレスコ」に挑戦してみてください。家族やお友達でやると盛り上がりますし、いい思い出ができますよ。アニメに限らず、ドラマや映画やCMでも面白いかも。
 プラバシー保護のため超スモールサイズですが、目を凝らしてご覧ください。

フラッシュムービー「命かけます授業中!」

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2012.11.25

加藤唐九郎による出口王仁三郎「耀わん」評

↓我が家の耀わん「十和田」を裏返して見た図
Gedc4388 のブログには時々「耀わん」が登場します。特に最近活躍していますね。
 記憶に新しいというか、今でも進行形なのは、安倍晋三さん昭恵さん夫妻に関わるエピソードでしょうか(記事はこちら)。
 ウチの耀わんさんが国の行く先を変えてしまったと評価してくださる方々もいらっしゃいます(苦笑)。信じる信じないは別として、面白い時期的符合ではありましたね。
 たしかに8月11日の段階で、年内に政権交代して安倍さんが首相になるなんて(まだですけど)断言できたのは「耀わん」さんくらいのものでしょう。
 で、いったいその「耀わん」とは何なのか!?とお思いになる方もたくさんいらっしゃることでしょう。それについては、ぜひこちらをご覧ください。わかりやすい紹介動画です。

 ちなみに私は「大本」の信者ではありません。しかし、出口王仁三郎のファンであることはたしかです。各種宗教を勉強してきた私としては、もちろん宗教家としての王仁三郎にも興味はあります。しかし、実際にはそれ以上に、芸術家、思想家、革命家としての出口王仁三郎に惚れ込んでいると言っていいでしょう。
 そうそう、この動画で紹介されているように、現在「耀わん」たちは全国を巡回しようとしています。
 来年の1月には東京都と産経新聞社の後援で東京展が、3月には神奈川県と鎌倉市、産経新聞社の後援で鎌倉展が開かれます。無料でもありますし、関東地方の皆様、ぜひともその「神気」に触れてみてください(詳細はこちら)。
 時を同じくして年明けにNHKで出口直と出口王仁三郎がとりあげられるようです。時代は変わりましたね。やっと時代が追いついたのでしょうか。
 さてさて、今日はそんな「耀わん」について、かのカリスマ陶芸家加藤唐九郎が語った素晴らしい言葉を紹介させていただきます。
 どうしても「ご神体」として、あるいは「美術品」として扱われがちな「耀わん」。たぶんこうしてガラスケースからどんどん出して触ってもらったり、お水を飲んでもらったりしているのは、ウチくらいのものでしょう。
 私は「耀わん」自身、あるいは王仁三郎自身から、そうしろと言われているような気がしていたのですが、たまたま読んだこの文章で、加藤唐九郎さんがそういうことを述べているのを知り、大変に驚いたとともに、やっぱり!と膝を打ちました。「言葉」が分かる人には分かるのですね(ちなみに同じ特集の中で林屋晴三さんは「残念ながら私には理解できないものがある造形である」と述べています)。
 では、どうぞ。皆さんもぜひ一度触れに来てみてください。誰でも大歓迎です!

(以下、「目の眼」昭和56年11月号より引用)

 「やきもの」はそれぞれの言葉を持っている。人間一人一人その性質が違うように、話しかけてくる言葉も千差万別である。
 あるいは饒舌であったり、あるいは上品ぶっておったり、あるいは素朴で口下手であったりする。またそれぞれ国語が違い、方言が異なる如く「やきもの」の言葉も多様であるが「耀盌」に至っては、まるで異星の言葉を持っているかのように、私には感じられる。
 「耀盌」は、王仁三郎師の遺言である−いや遺言などという消極的な、生命(いのち)終ったもののかたみなどではなく、師の生命のかがやきそのものではなかろうか。
 生命体としての師の肉体は、この世から姿を消しはしたが、生命そのものは消滅することを拒否した。
 なぜならば師には、永遠に人々に語りかけなければならない言葉があったからだ。
 芸術というものは、多かれ少なかれそういった要素を持っているが「耀盌」という作品は単に芸術とのみ呼ぶ分野のものではない。
 王仁三郎師の生涯を通観して、その波瀾のありさまを今更ここに述べるつもりはないが、とにかく自らの持てる限りの表現力を、あらゆる媒体を使って具象化しようと、その噴出口を求めて模索しつづけた一生ではなかっただろうか。
 無論、師に備わった才分の豊かさは、一つ一つの分野で花ひらいて来た。
 そして、その集大成とも言うべきものが、最晩年のやきもの造りに凝縮されたと見ていい。
 それ故、この作品は、師の実践した人生に深く関わっている。それらは現在生きている人間との対話によって、猶生き続けていくことだろう。
 たとえば、これらは、一般的な茶陶に対する扱い方とは、まったく違った待遇をすべきものではあるまいか。
 つまり、幾重にも箱の中へとじ込め、何年かに一度、小人数の席へ出して娯しむといったようなたぐいのやきものではない。
 それは、世界中に飛び散って、種となることを欲しているのかも知れない。種は土に根を下ろさねば、再び花をつけ実を結ぶことはない−あたら秘蔵すべきものではなかろう。
 「耀盌」のどの一つをとっても、王仁三郎師その人の如く、深遠な言葉を持っている。心の奥底まで揺ぶり動かすような何ものかを常に発散させている。
 王仁三郎師自体、只の人間を超えたところに存在した。「耀盌」にしても、ふつうのやきものを鑑賞しようという眼を以ってすれば、自分との融和点に限界が生ずる。
 王仁三郎師の、この教義についての結論が偶然やきものというかたちを借りて「耀盌」の中には秘められているのかも知れない。
 「耀盌」は、そんな主張を感じさせるやきものである。
 

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2012.11.24

フジファブリック 『wedding song』

 日は教え子の結婚式でした。新婦とは、私が高校3年間担任したというだけでなく、四半世紀近くにわたってのご縁がありました。なにしろ校長先生の娘さんなんで。
 で、彼女に頼まれましてヴァイオリン(こちらの5弦ヴァイオリン)で演奏したのがこの曲。彼女も新郎もフジファブリックのファンということですので。そう、彼女は下吉田中学校の出身ですから、志村正彦くんの後輩ということになりますね。
 さて、この曲を演奏するにあたり、カラオケのCDを作りました。CDの音をいろいろといじるのには、フリーソフトのAudacityを利用します。
 ボーカルを消すには、プラグインの「vocal remover」を使います。センター定位のボーカルなら、本当にきれいに消せちゃいます。
 この曲でも志村くんの声が見事に消えてしまい、なんだかちょっとさびしい気分になってしまいました。ついでにイントロのギターも消えてしまったので、そこも演奏することに。
 この名曲「wedding song」ですが、ご存知のとおり、志村くんがマネージャーさんの結婚式でサプライズ提供した曲ですね。
 志村くんが残念ながら亡くなったあと、妹さんの結婚式でも流れたと聞きます。
 彼の楽曲の中では異彩を放つほどのストレートな祝福ソングですが、特別だからこそ存在感も増すというもの。何度聴いても、また弾いても、志村くんの優しさが伝わってきて涙が出てしまいます。
 私が練習していると、娘たちが「いい曲だ」「感動もの」「泣いちゃいそう」と盛んに言っていました。
 そして披露宴での本番。お色直しの入場のBGMという重要な役どころでした。ぶっつけ本番だったせいもあって、CDの伴奏の音量が小さく、また歓声や拍手に音がかきけされ、加えてお酒がけっこう回っていたせいで、ちょっと失敗しちゃいましたけど、まあおめでたい席に免じて…(笑)。
 まあ、それでも、そのあとのスピーチも含めて気持ちは充分伝えられたと思いますので、私としては及第点かな。
 とにかく、この曲の歌詞にあるとおり、「お二人で過ごす日々に笑顔あれ」ですね。おめでとう!今度みんなで飲みましょう!

Amazon MUSIC

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2012.11.23

文化とは、教育とは…文化祭(葵江祭)無事終了!

↓夜遅くまで続いた練習風景
20121125_121604 が中学校の文化祭である「葵江祭」が盛会のうちに無事終了しました。
 たった68人の全校生徒で作り上げた、盛りだくさんの6時間。楽器演奏、演劇、ダンス、太鼓、御神楽、シルエットアート、コント、スピーチ、能楽、合唱…。
 本当に感動感動の連続で、最後の私の講評では感激のあまり思わず嗚咽してしまいました。
 そこでお話させていただいたことを中心に記しておきます。「文化」や「教育」の本来の姿がここにあると感じましたので。
 今日勤労感謝の日は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、古くは「新嘗祭」の日として意識されていました。新嘗祭…今年とれた新米を初めていただく日ですね。
 今日、生徒たちは、お昼の時間におにぎりを食べていました。そのお米は、3年生が今年田植えをし、手入れをして、収穫(稲刈り)をしたそのお米です。
 そのお米は、たった一つの種籾が、土と水と光と人々の作業と、そしてみんなの祈りによって、1000倍近く増え、自然の恵みとして私たちに与えられます。そうした自然の不思議な恵みに感謝する日こそ、新嘗祭であり、勤労感謝の日なのです。
 今日の生徒たちを見ていて、彼らもまた、自然と全く一緒だなと思いました。
 両親や兄弟、おじゃいちゃんやおばあちゃん、地域の方々、友人、そして文化祭にあたっていろいろな形で指導にあたってくださった関係者の皆様の(私たち教師も含まれるでしょうか)「愛情」が、生徒にとっての土となり、水となり、光となり、風となり、そしてそこに献身的な「手入れ」と「祈り」が加わって、見事な実りの日を迎え、このような素晴らしい文化祭を成功させることができたのです。
 これこそ、まさに「文化」だと思います。文化=cultureとは、耕す=cultivateから生まれた言葉です。言うまでもなく農業=agricultureは土(agri)を耕すという意味ですね。
 夏に「教育は農業に似ている」という記事を書きました。あるいは少し前に羽仁もと子「たましいの教育」という文章を紹介しました。それらにあるように、教育には一種の宗教性(祈り)が必要です。
 昨日の佐藤優さんの本で言うなら、「実念論」「インテリジェンス」に相当するでしょうか。データや言語だけでは把捉し得ない「何か」を信じて動くしかない場合があるのです。
 それは理屈ではなく、たとえば農作業という自然との関わりの中から学ぶことができますし、私の話のように自然と人間の間にアナロジーを感じて、一つの物語として語ることもできる。
 もちろん点数や成績だけ、暗記や計算だけが学校ではありません。一人ひとりの個性や可能性が時に融合し、化学反応を起こし、想定外のモノが生まれる現場。逆に想定外のアクシデントや衝突や失敗のあるところでもあります。それ全ての総合体が、生きた学校だと思います。
 そう、結局、人間(特に子ども)は自然なのです。だから、自然から学び、自然と同じように「育てる」ことが大切なのです。そして、それが連綿と受け継がれる。それこそが「文化」であり「教育」なのです。
 祈っていると、信じていると、本当に奇跡は起きるのですね。子どもたちはたくさんの奇跡を起こしてくれました。実際に観て下さった方々には、それが充分伝わったものと思います。
 「可能性を輝きに変える」…理事長先生がお考えになったこの本校のスローガンの意味が、今日本当に理解できたような気がしました。子どもたちはじめ、本当に皆さんに感謝です。ありがとうございました。お疲れ様でした。

(地元の方々には12/1の正午と午後8時からCATVでその一部をご覧いただけます)

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2012.11.22

『人間の叡智』 佐藤優 (文春新書)

416660869x 読むべき本ですね。
 元外務省主任分析官にしてスーパー読書家、博覧強記の佐藤優さんの言葉から多くを学べるのはもちろん、今我々に必要な「叡智」について考えさせられます。
 特に「モノ・コト論」を展開しているワタクシとしては、明確なデータとしての「コト」よりも、目に見えない「モノ」を重視せよという提言には全面的に賛成します。
 佐藤さんの言葉を借りれば「唯名論」ではなく「実念論」こそが叡智だということですね。「インテレクチュアル」ではなくて「インテリジェンス」。「インテレクチュアル」は経済的には有効です。アメリカは「インテレクチュアル」な国。
 一方「インテリジェンス」はゴキブリのはしっこさにも使える言葉だそうです。科学的ではないかもしれないが、確かに(リアルに)存在する能力。
 佐藤さんは、これからの国際社会は実念論の時代になると予測します。近代欧米で否定されてきた(イングランドとボヘミアは別らしい)「モノ」世界が復権するというのは、ある意味私と同じ意見ですね。
 日本は本来的に「実念論」の国ですよね。今でもかなりそういうところがあり、それが「唯名論」的な国からすると気味が悪い原因となっているようです。
 言い方を変えると「日本は神の国でいい」ということです。私もそう思います。だからこそ昨日の記事ではありませんが、テキスト(コト)としての憲法の扱いは難しいのです。
 「インテレクチュアル」、あるいはワタクシ的に言うところの「コト」が強くなりすぎると、資本主義、市場原理主義、新自由主義、新・帝国主義が発達します。そこでは、本当の意味での「エリート」が育ちませんし、いても軽視されます。一種の「勘」や「霊感」が働かない社会になっていくんですね。
 佐藤さんも「物語」力を重視しています。これも私と一緒ですね。「物語」とはストーリーテリングであり、そこで重視されるべきはアナロジーとかアイロニーだと佐藤さんは述べています。全く同意ですし、私が日頃「比喩力」と言っているのは、まさにそのことです。
 マネー教育をしてはいけない…これも我が意を得たりでした。また、専門家(エリート)によってシロウト社会(ポピュリズム)を超えるという発想も大切だと感じました。
 読書の推奨、最低でも二つの「古典」を持てというのは、案外難しいことです。私のような国語の先生でも実現できていません。しかし、たしかに、それら古典的な「文学」が持っている一義的でない多様性は需要だと思います。デジタル的な「インテレクチュアル」ではなく、アナログ的な「インテリジェンス」を鍛えるのに「文学」は大変に有効です。
 あるいは古典的文学だけではないかもしれません。マンガや映画、音楽などもまた、私たち日本人の「霊性」を保つために有効かもしれません。いわば妄想力ですね。
 戦後はそうした「インテリジェンス」が学校現場から排除されてきました。それをどう取り戻すか。我が校のような宗教ベースの学校は比較的それを実現しやすいかもしれませんね。公立学校などにおいても、せめて「芸術」科目をもっと重視してほしいと思います。
 紹介記事の掉尾に、この本の最後の部分を引用しておきます。

『日本が元気に立ち直るためには、日本人一人ひとりが言葉の使い方を変えて、国民を統合する物語をつくりだすしかないのです。そして、目に見えないものに想いをはせる。それが叡智に近づく唯一の道だと思うのです』


Amazon 人間の叡智

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2012.11.21

細かい文章を読む習慣を…

20121125_94728 て、いよいよ年末総選挙まで1ヶ月を切りました。
 今日21日、自民党の政権公約(マニフェストじゃありませんよ…笑)が発表されました。
 こちらからダウンロードできます。
 もし皆さんが選挙に行かれるならば、最低限各党の公約をしっかり読みましょう。
 最近の日本人は本当に細かい文章を読まなくなりました(実は国語教師である私もです)。
 今日仕事の合間の息抜きに「LINE」や「カカオトーク」のプライパシーポリシーを読みました。すさまじい内容ですね。恐ろしい。
 てか、許諾契約条項が日本語じゃないので読めないではないか!ひどい話ですね。生徒たちは(大人たちも)裏で何が起きているか知らないうちにどんどん「同意します」を押して、韓国に情報を吸い取られています。もちろん、Facebookも同じです。
 同様に国の命運を決する衆議院議員総選挙においても、イメージ(特にマスコミの作り上げるイメージ)だけで投票してしまうようでは困りますよね。
 なんて、今までそれこそB層的に判断していた、いやそれ以下で選挙にすら行かなかったお前に言われたくない!とお叱りを受けそうですが、まあ、今回はさすがにいろいろ考えずにはいられませんし、この3年半の民主党政権時代にさかんに言ってきたこと、そして活動してきたことのオトシマエをつけなければなりません。
 これは私学の教員という立場として当然の姿勢です。この10年、特にこの3年で、公教育は大きく腐敗しました。特に輿石東のお膝元山梨では。危機的な状況です。子どもたちも可哀想だが、まじめで志ある先生方も可哀想です。
 まずは自分の立場から日本の未来を再構築していかねばなりません。そのために、私は安倍さんに期待をしているのです。正直、私は安倍さんほどの保守主義ではありません。今回の公約にも全て諸手を挙げて賛成というわけではありません。
 特に憲法改正については、私はかなり慎重派です。近代法治国家、民主主義国家として、憲法を改める手続きの保証は絶対に必要ですが、かと言って、「護憲」「改憲」のような二元論には陥りたくありません。
 安倍さんの前政権時代の教育基本法改正についても、当時こんなふうに冷めた目で書いています。
 最近、実際その改正案の文章を書いた方々とお会いしましたが、やはりちょっと自分の姿勢とは違いがあるなと感じました。
 憲法もまた、「改正」ではなく「改訂」で良いと思います。時代によって、特に国際社会環境の変化に従って、憲法も変えるべきだと考えていますが、それは「間違ったものを正しく改める」というよりも、ヴァージョンアップ、アップデート(軽いですかね?)で良いと思うのです。 
 憲法と言えども単なる「テキスト」です。それも60年以上前のテキストですから、もう歴史資料と言ってもいい。極論すれば十七条憲法と同次元のテキストなのです。
 だからこそ、現憲法もちゃんと読まなければならないのです。細かい文章をちゃんと読まなければ…と、私自身に対しても強く思っているのです。
 批判をするなら、全て読んでから。これは教育現場で習慣化しなければなりませんね。とりあえず私は「許諾契約」「日本国憲法」「選挙公約」を読もう。あ、あと「資本論」再読。資本主義生活者が「資本論」を読まないというのは変な話ですしね(苦笑)。
 まあ、とにかく安倍さんをその気にさせてしまった一人として(?)、ちゃっと落とし前をつけますよ。

Amazon 池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」

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2012.11.20

『さらば映画の友よ インディアンサマー』 原田眞人監督作品

20121125_84439 涛の一週間が終わりまして、ようやく記事を書く時間ができました。今は25日です。
 さてさて、この日(11月20日)は山梨県民の日でした。学校もお休みです。
 そんなわけでいろいろと忙しい中、せっかくですからカミさんと平日デートしてきました(笑)。
 17日に封切りになった、私も出演させていただいている「任侠ヘルパー」を再び観に行ってきたのです。
 山梨県内でお出かけすると(特に映画館では)絶対に誰かに会うので、あえて富士山の南側に回りました(別にやましいことしてるわけじゃありませんが)。
 映画と言えば沼津ですよ。私にとっては。特に任侠映画。
 というのはですね、大学生の時に友人とテレビでこの映画をたまたま観たからなんです。たぶんテレ東でしょうね。こんな渋い映画を昼間っからやってたのは(笑)。
 それが妙に良かったんです。映画と私たちの関係、青春の甘酸っぱさ、男の馬鹿さ加減…なんかすごく共感しちゃいましてね、友人とすぐにロケ現場を探しに出かけたくらいです。
 そう、この「さらば映画の友よ」の舞台は沼津なのです。沼津出身の映画監督原田眞人さんのデビュー作なんですよね、これ。1979年の作品。
 今、残念ながらDVDも出ていませんし、ビデオもなかなか手に入らないようです。しかし、私の脳裏にはかなり鮮明に録画されているんですよ。
 当時の私、まさか自分が任侠映画に出演して、それを沼津で観るなんて夢にも思いませんでした(笑)。当たり前か。人生は面白いものです。
 ある意味、この映画を観たから今回のことがあったのかもしれませんね。
F0132230_254186 「さらば映画の友よ」では、川谷拓三さん演じる映画狂のダンさん、重田尚彦さん演じるシューマが、仁侠映画(健さん)の影響を大いに受けて、虚構と現実、つまり映画館と映画館の外との境目をなくしてしまいます。その結果…。
 これって分かりますよね。実際、この日も「任侠ヘルパー」を観て、私たち夫婦はすっかり「任侠ティーチャー」になっちゃいましたから(笑)。肩で風切って歩いちゃう。実際、家に帰って来てから「世直し」をしました。弱きを助け、強きを挫きました(笑)。
 「さらば映画の友よ」の記憶の中で、特に鮮明に残っているのは、浅野温子さんのヌードシーンです。これもまた若かりし頃のワタクシたちからすると、非常に刺激的でありました。
 なんとかもう一度観たいなあ。いや、記憶の中でこうして美化されているままの方がいいのでしょうか。いやいや、やっぱり各種映画のパロディーシーンなんか、今の方がよく分かるだろうなあ。
 「さらば映画の友よ」というタイトルも、もちろんアラン・ドロン主演の「さらば友よ」のパロディーですね。
 ちなみに音楽は、任侠ヘルパーで組長役を好演している宇崎竜童さんです。

Amazon さらば映画の友よ

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2012.11.19

春は花…道元禅師の歌

483 は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり
 昨日に続き、道元禅師のお言葉。時間がない時は他力に頼ります。
 これは道元の和歌です。この歌のシンプルさはすごい。
 いちおう短歌をやっている歌うたいとしては、この歌にはもう脱帽するしかありません。脱帽しようにも帽子を被ってないので、では剃髪しようということで、今坊主になりました(笑)。
 いや、冗談でなく、道元さんの言葉は重い…いや、重いのに無重力状態なんですよね。お分かりになりますでしょうか。
 この歌を読んでもお分かりになると思います。
「だから何?」
 ですよね。
 春は花、夏はほととぎす、秋は月、冬は雪…あまりに当たり前すぎて、意味の意味たる質量さえ感じないほどです。
 そして、なんといっても「冷しかりけり」が素晴らしい。春、夏、秋と淡々と風物の名詞を並べておいて、最後に動詞と形容詞と助動詞で一気にたたみ込む。雪が冴えて「すずしい」ではないか、「すずしい」のであった、と。冴えて「冷し」ですから、この「すずし」は「涼しい」ではなくて、「すがすがしい」でしょう。
 うまい…いや、あまりに自然。
 私にはとてもこんな歌は作れません。いや、作ろうとするとこういう歌は詠めない。
 私なんか師匠からしょっちゅう「技巧的」「テクニシャン」とお叱りを受けます。そういう人間なんですよね、私は。不自然なんです。
 「すがすがしい」のは、おそらく冬の雪だけでなくて、その前の春の花、夏のほととぎす、秋の月も、あまりに堂々と自然体であり、恒常であって、すがすがしいのでしょう。
 この自然体こそ禅の教えそのものです。あまりに当たり前な繰り返しの中に、我々の生命の本質を見る。ことさらに「作る」必要はないのです。
 自らも、それら風物のように、自然の中で自然にありたい。そんな望みと決意が感じられる、それこそ「すずしい」歌であります。
 私もこういう歌を詠みたいものです。
 ちなみに上の書は川端康成によるもの。川端はあのノーベル賞受賞記念講演「美しい日本と私」で、最初にこの歌を紹介したのでした。

 
 
 

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2012.11.18

『他不是吾(他はこれ吾にあらず)』 道元禅師

Imgres 日は禅語を一つ紹介しましょう。私の座右の銘の一つであります。
 「他不是吾」…「他はこれ吾にあらず」と訓みます。
 直訳するなら「他の人は自分ではない」ということですね。文脈的には「他の人がやったのでは、自分がやったことにならない」という意味です。
 この言葉は曹洞宗の開祖道元禅師が残した「典座教訓」というテキストの中にあります。典座(てんぞ)という言葉は一般にはあまり馴染みがないでしょうね。私のように禅に親しんでいる者にとっては、「食事係」といったイメージがありますが、本来は「食事・炊事」が関わらず、修行者の生活全般を指す言葉です。つまり、「典座教訓」は、生活の一つ一つが修行であると唱えた道元の教えの真髄が詰まった書物ということになります。
 道元は宋に留学していました。その時に何人かの師匠に出会うのですが、その一人が用(ゆう)という典座担当の老僧でした。
 ある真夏の日、食事を終えた道元は、典座の用が炎天下大変そうに海藻を干しているのを見て、「誰かにやってもらえばいいのでは?」と話しかけます。それに対して用が答えた言葉が「他不是吾」です。
 「他の人がやったのでは意味はない。自分でなければ」
 なるほど禅の極意は「自らつかむ」ことですからね。自分で体験したものでないと意味がありません。特に耳学問や目学問ではダメ。
 続けて道元は訊きます。「ではなぜこんな暑い時にやるんですか」
 用は「さらに何れの時をか待たん」と答えます。
 「今やることに意味があるのだ」
 道元は感激し、「今、自分で」…これが禅の奥義であると悟ったのでした。
 私もこの言葉に習い、自分でできることは人に頼まないことにしています(とは言っても、仕事上のことだけですが)。
 人にやってもらうことは決して得ではありません。楽になってよかった、ヒマができてよかったと思うのは大きな間違い。チャンスを逃してしまうのです。
 逆に人に頼まれたことは基本断りません。人のチャンスを奪ってはいけないかもしれませんが(笑)、せっかくのチャンスですから、かなり面倒なことでも、また初めてのことでも、「ああ、いいですよ〜」と言ってしまいます(そのためにいろいろご迷惑をおかけしておりますが…苦笑)。
 これはですね、「他力」にもつながりますよね。自分の意志や想定の外からやってくるチャンスですから。仏教における「他力」と「自力」の考え方は面白いですね。なにしろ「自他不二」ですから。
 というわけで、今、自分でやらねばならないことがたくさんあります。私はまだ楽な方です。生徒や他の先生方の忙しさと言ったら…。
 みんな「今、自分で」やるべきことを頑張りましょう!

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2012.11.17

映画 『任侠ヘルパー』 (西谷弘監督作品)

20121118_102903 やあ、いい映画でした!
 いろいろな事情と思いがあり、あえて富士宮で観てきました。台風のような暴風雨の中ということもあって、映画館はガラガラ。ちょっと寂しかったけれども、映画は本当に素晴らしかった。
 観ている間にもいろいろ考えさせられましたし、観たあとの自分の変化もはっきり感じられました。
 男が漢を感じる、いわゆる任侠映画独特の後味もありますが、なんというかなあ、人としての生き方、世の中のあり方、そういう大きなテーマが、「福祉」を扱うことによって、より広く深く描かれていたような気がします。
 最近の映画としては本当に久しぶりに「感動」しました。
 最新作を公開初日に観るなんていうのは、私にとっては実に珍しいですね。それはなぜかというと…のちほど書きますが、この作品にはなんとワタクシも出演しておるのであります(笑)。
 とりあえずそれは置いておいて…というか、本当に自分がどうのこうのなんていうのは、はっきり言ってどうでもいいほど物語世界に没入してしまいました。観る前は自分のことばっかり考えていたんですけどね(笑)。
 私は、この映画の前身とも言えるドラマはほとんど観ていません。なんとなくストーリーは知っていたのですが、そういう基礎知識なくとも、この映画は充分すぎるほど楽しめる(学べる)と思います。
 「任侠」と「福祉」という、一見全く相容れない世界を結びつけているように思えるこの映画、実はものすごく人間社会の本質的な部分に迫っている作品です。
 もともとの「任侠道」は彼の言うように「弱きを助け強きを挫く。命を捨ててでも義理人情を貫く」ですから、実を言うと非常に親和性があるんですよね。
 このブログでもずいぶん書いてきたとおり、私は「やくざ」を文化と宗教などの面から研究してきました。現代的な暴力団や不良やチンピラとは違う日本古来の「やくざ」社会が果たしてきた大切な役割を、真剣に学んできました。それが平成になって一気に後退してしまった。そこに危機感を覚えています。
 この映画でもそういうテーマが扱われていました。日本の砦の一つであった本来の「任侠」世界が、資本主義市場経済の原理やテキスト化された人権や自由という概念に呑み込まれてしまった。そして、グレーゾーンたるアジールが吸収していた世の中の矛盾や病理が、一般社会に滲出してしまった。そこに対する危機感に一つの焦点が当てられていました。
 また、高齢者福祉の闇の問題をも抉り出します。家族愛や敬老の念という「心」までが、金(マネー)に吸収されていく恐ろしさ。
 そうした社会的な問題の上に、個々人の「生き様」の問題をうまく重ねあわせて描いていますね。もちろん、限られた尺の中で、多くの人生を描ききることは難しいと思いますが、観客に想像の余地を残すという意味においても、適度な人物描写がなされていて、そこもまた「映画的(非テレビドラマ的)」であったと思います。
 そう、ドラマの続編という種類の映画の中では、ちょっと特殊な作品と言えるかもしれません。監督さんはドラマと同じですが、主役の草彅(なぎ)剛くん以外のキャストはほとんど総入れ替え。それは監督さんの「映画」を創るぞという意気込みの表れだったのでしょう。
 その役者さんたちが皆さん見事でした。草なぎ君も素晴らしかったけれども、脇を固める役者さんの演技に勢いと深みがあり、現場でお互いが刺激しあっていったであろう雰囲気が伝わって来ましたね。
 特に風間俊介くんはとてもいい演技をしていたと思います。私が参加したロケでも彼の才能の一端をうかがい知れましたけれども、作品全編にわたって素晴らしい味を出しており、あらためてこれはホンモノの「タレント」だなと感じました。
 「優しさ」と「怒り」は表裏一体、「思いやり」と「暴力」も不思議と切り離せない…普段やくざ文化やプロレスなどに接し、また教育に携わっている者として、そんなことを痛感しました。それを表現できる役者が草彅剛、そしてその他のキャストの皆さんだったのでしょう。
 最近、学校でですね、文化祭に向けて、恒例の「実写版うる星やつら」を撮影したり、演劇の指導をしたりしてますので、プロの仕事のすごさ、厳しさを強く感じる結果にもなりました。
Img_4123 (→当日のワタクシですw)そう、昨年の12月に山梨の某所で行われたこの映画のロケにエキストラとして参加したのですが、その時ももちろん、その厳しさと言いますかね、緊張感を存分に感じたんですよね。
 あの寒空の下、丸一日かけて撮影したシーンは、本編ではほんの10秒足らずでした。冒頭の翼彦一が出所するシーンです。別の組関係者の出所を出迎えるヤクザの役でした。おかげさまで、小さいながらもしっかり映っていましたし、「ご苦労様でした!」という私の声も採用されておりました(笑)。
20121118_85016 さらに、私自身でもほとんど視認不可能ですが、出所して歩き出す彦一を黒塗りの車がクラクションを鳴らしながら追い越していくシーンで、彼がにらみつけているのは、車の助手席に乗っているワタクシであります。草なぎくんとガチでにらみ合ったこのシーンがしっかり使われていたのは嬉しかった!(下の動画にもそのシーンが出てきます)
 私自身、この素晴らしい映画の中に参加することができ、とても光栄です。ご縁をありがとうございました。
 ま、そんなことはいいとして、本当にいい映画ですから、皆さんぜひ劇場でご覧ください!そして、それぞれの感想を抱いてください!
 以下にwowowでの紹介番組の動画を貼っておきますが、けっこうネタバレなのでご注意を。

Img_5796追伸 11/20、今度は沼津にて二度目の鑑賞。涙の量は一回目の数倍。また観たい!
 テーマは「家」ですね。居場所、認めてくれる人のいる所。それを求めてさまよい続ける翼彦一が、他者にそれを与える物語。美しい。
 終演後のつぶやきです。
『任侠ヘルパー2回目。うーん、ますます深みを増す感動。これは文句なく名作ですわ。また観たい!西谷監督の創造力、編集力半端ない。それに応えたキャスト、スタッフ皆すばらしい!』
 そして驚いたのは、公式ポスターにワタクシが映っていたこと(笑)。右奥のスキンヘッドの男です。このシーンは本編ではカットされていました。ちょっと…いや、かなり嬉しい!

任侠ヘルパー公式


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2012.11.16

ベルターリ 『チャコーナ』

Bertali: Chiacona L'Arpeggiata

 んとも忙しく更新が遅れております。今日も短めに。
 久々に古楽を一つ紹介します。今日お聴きいただくのは、ベルターリのチャコーナです。
 バロック・ヴァイオリン弾きにとっては、そこそこメジャーなレパートリーではないでしょうか。とは言え、けっこう難しいのでワタクシは弾いたことがありません。
 アントニオ・ベルターリはイタリア生まれの作曲家ですが、10代の頃からオーストリアで活躍していました。ウィーンにイタリアのオペラを本格的に普及させた功績は大です。
 彼は器楽曲も多数書いているようですが、中でも有名なのがこのチャコーナでしょう。シンプルな循環バスの上に、なかなか個性的な変奏が展開されます。
 シンプルなだけにいろいろな工夫が施されて演奏されることが多いこの曲。特にこのラルペッジャータの演奏は面白いですね。
 通奏低音にいろいろとユニークな楽器が疲れています。特にプサルテリオン(ダルシマー)は珍しい。ピアノの前身とも言える打弦楽器ですね。
 この団体の公式ホームページにあるビデオをぜひご覧ください。いろいろな楽器が出てきて面白いですね。

L'Arpeggiata 公式

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2012.11.15

『めぐみと私の35年』 横田早紀江 (新潮社)

332761 日15日は、横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて35年目の日となります。
 35年…途方もない長い時間が奪われてしまいました。その間のご本人やご家族のお気持ちは、ある意味では分かりようのない次元です。共感などという言葉さえ軽々しく使うべきでないと思います。
 「今年しかない」とおっしゃる母親の横田早紀江さんの手記。哀しみや怒りを通り越して、なんとも言えない苦しい気持ちになりながら読ませていただきました。
 今年9月、私は幼年期にご縁のあっためぐみさんのご両親と45年ぶりに再会いたしました。その日のことはこちらに書かせていただきました。これもまた不思議なタイミングのご縁でした。
 私ができることなどたかが知れていますが、しかし、ここにも記したように、「ぜったいに帰ってくる」というイメージを持ち続けることは大切なことだと思います。
 これもまた不思議と言えば不思議ですが、横田さん夫妻と45年ぶりの再会をする1ヶ月前に、ひょんなことから安倍晋三さん昭恵さん夫妻とご縁ができました。その時も横田めぐみさんのお話をしました。
 そして、その後安倍さんが自民党総裁になり、そして解散総選挙。横田さん夫妻にお話したことが現実化しました。
 8月、昭恵さんにお話した時、あるいは9月に横田さんにお話した時は、単なる妄想、イメージだと思われたかもしれないことが、今こうして現実になっていることを考えても、やはり前向きなイメージというのは大切だなと感じます。
 中国の体制も変わります。北朝鮮との協議も活発化しそうです。そして安倍総理誕生もすぐ目の前に迫りました。
 私はますます「めぐみさんは帰ってくる」ということを強くイメージする時が来たと感じます。
 改めてこの本を読んで、その思いを強くしました。私にできること、私がすべきことはそれしかありません。
 もう一度言います。「横田めぐみさんは近いうちに生きて元気に帰ってくる」。
(「近いうち」という言葉が使えるようになってよかった)

Amazon めぐみと私の35年

 

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2012.11.14

党首討論

  主党野田総理と安倍自民党総裁の党首討論。
 いやあ、面白かったですね。意外な展開と結末は、往年のプロレスを思い起こさせました(笑)。
 年内解散総選挙の可能性高しとは読んでいましたが、ここまで早く解散が実現するとは…。
 野田さん、さすがプロレスファンですね。こういう切り返しがあったとは…。
 国民もマスコミも、自民党も民主党も、皆予想しませんでしたね。最後にちょっとは評価してあげようかと思いました(笑)。
 ちょっと公私共々(学校の仕事と政治に関わる仕事その他)忙しいので、今日は記録として、この党首討論を貼っておきます。
 茶番という人もいるでしょう。しかし、これによって半強制的に日本が動かされることはたしかです。そういう意味では野田さん安倍さんGJ!でした。
 民主党議員を中心とする現衆議院議員たちの動きに注目です。自民党復帰する人も出たりして(笑)。


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2012.11.13

『たましいの教育』 羽仁もと子

Imgres 「想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」…自由学園の創立者羽仁もと子の言葉です。これは教育の基本ですね。私はそう思います。
 今日も忙しいので先人に学びます。これもまた青空文庫で読みました。忙しさのおかげ様で自己を滅却できる。他力は素晴らしいですね。他力こそ自力です。
 「思想」「生活」「祈り」をより具体的に語っているのが、昭和7年に書かれたこの文章「たましいの教育」です。
 本当に教育に関しては、最新の教育論なんかよりも、昔のものの方がずっと勉強になります。
 今日も「いじめ」対策がどうだこうだ、こういうアンケートをした、とかいうニュースが流れていましたが、そういう対症療法的な、あるいは表面的な予防のテクニックのみ論じてもしようがない。もちろん、そういう各論、技術論、現実論も必要ですが、その基底となるべき本質論が聞かれなくなって久しいと思います。
 それは戦後の教育が「祈り」を排除したからでしょう。
 おとといの折口信夫にしても、昨日の出口王仁三郎にしても、今日の羽仁もと子にしても、人間の「魂」の部分、すなわち「祈り」の主体を重視していました。
 しかし、戦後教育、いや戦後の日本社会は、宗教をはじめとする「祈り」の世界を遠ざけました。そこには当然国家神道に対する反省があったわけですけれども、あの国家神道に対する嫌悪感を単純に伝統宗教にまで敷衍してしまったのは大きな間違いでした。それがアメリカのしわざなのか、ソ連のしわざなのか、はたまた日本人自身のしわざなのか、それはなんとも言えないのですが、とにかく結果として、そういう世の中になりました。
 羽仁さんの文章で言えば、「身体(からだ)」と「精神(こころ)」の成長のみが教育の目的となり、「霊性(たましい)」はその対象とされなくなってしまったわけです。
 今でも「知育・徳育・体育」と言われますが、「知」と「徳」は、実は「精神」に含まれるものです。羽仁さんの言う「奮い立つ心」はたしかに言語化されえない「霊性」に属しているものであって、今の学校教育では教えられていませんね。
 私にとっての今の大きな課題はその「霊性」をどう教育現場で教え、伝え、育てていくかです。非常に難しいことですが、難しいからこそ「奮い立つ心」が起きてくるのです。
 それでは、羽仁もと子さんの「たましいの教育」をお読みください。

 「たましいの教育」


 思慮というものの全然芽を出していない幼児には、ただ外形ばかりが強い問題である。
 幼児ほどかたちの上から物を鵜呑うのみにするものはない。そうしてその鵜呑みにしたことを、よいこととして守ってゆくものはない。
 さらに幼児ほど好奇心の強いものはない。十分かれらの好奇心に投じてゆくならば、そのまちがっていることも、必ずなおしてしまうことができる。
 それゆえ幼児には、外形かたちをもってまずよいことを鵜呑みにさせることが必要である。
 また私たちが知らないうちに彼が悪いことを鵜呑みにしていることを発見したならば、その好奇心を利用して、それと反対なことをまず鵜呑みにさせなくてはならない。
 しかし鵜呑みはどこまでも鵜呑みである。どんなによいことを鵜呑みにさせておいても、それが彼の一生を支配してゆく力はない。幼児時代から子供のもっているよい鵜呑みが、年とともにかれらの思いによって理解され、思想にまで信念にまで育ってゆくように助けなくてはならない。
 幼児の一面はまたただの本能そのものである。すなわちその本能的欲望をもとにして、彼らを育て導いてゆくよりほかはない。
 それをときどき私たちは、親のねがいや都合を先にして、彼らを導こうとしていることに心づく。この場合において、閑却かんきゃくされた幼児の欲望が本能が、ひとりでにほしいままなるものになってしまうわけである。
 活きる力の強弱は、またあらゆる生命の根本である。身体からだ精神こころ霊性たましいも活発であるかどうかは、人を診察する医者が、まずわれわれの脈をとることをなによりも先にすると同じように、いつでも幼児を見守るものの第一条件として、たえず気がついていなくてはならないことである。やや極端にいえば身体からだ精神こころ霊性たましいと、この三つを含む活力を強くしてやりさえすれば、そのほかのことは何もいらないと思ってもよいほどである。
 それだのにわれわれの実際はどうであろうか。教育のある母親ほど、子供の身体からだをかばいすぎてその活力を弱め、子供の心をかばいすぎて友だちを制限し、人間われわれ霊性たましいの偉大なものだということを忘れて、子供をただ幸福に導こう導こうとしている。考えてみるとみな信ずべきものを十分に信じないための現われだと思う。いいかえれば、人の親であり、教師であるわれわれの霊性たましいの力が弱くなっているためだと思う。
 多くの人や子供をみているうちに、身体からだは十分に強くても精神こころの力の弱い人もあり、理性も研究心も強く鋭いのに霊性たましいの力の非常に弱い人もある。溺れかけている人を助けることは、われわれの理性では決してできることでない。助けようとして彼と自分とともに死ぬかもしれないからである。すべてよいことを本気になってするのは、溺れかけている人をみて我をわすれて一緒にとびこむような心境だと私は思っている。頭脳あたまのよさばかりでは決してできないことである。我をわすれて溺れかけている人を助けにゆくのは、義侠心ぎきょうしんだとある人はいうかもしれない。溺れかけている人を救う種類のことだけならば、あるいは義侠心のみでもできるかもしれない。しかし、われわれの日常に起こるいろいろな場合に、ふるい立つ心――それは単なる義侠心のみではできない。良心というよりも、もっと深いところにある霊性たましいの力だと私はそれを思っている。私たちに祈りがなければ、この力がひとりでにしぼんでゆく。私たちのたましいの力はただ神より来たり、祈りによってのみ強められてゆくものであろう。私自身も常に自分の弱さを感じているゆえに、多くの子供をどうか強い人間にしたいと、なによりもさきにそう思いそう祈る。
 身体からだは弱いけれども、精神こころの強い人はある。しかし霊性たましいの強い人は少ないものである。私たちの子供らをこの三つの力の強い人にしたい。
 幼児は外形かたちを見、その外形を鵜呑うのみにするものだから、裏店うらだなに育っている子供と、生活様式の十分にととのっている家の子供とは、言葉でも動作でも、その鵜呑みにしているものが雪と墨ほどちがうので、一方はいかにも上等の人らしく、一方は下等に見える。幼児をみる場合にも、以上三つの活力のことを頭においてみて、はじめてその人柄がよくわかる。そうしてブルジョアの子供の劣等さは思いのほかである。もちろん粗野な子供がみんなえらいのではなく、粗野が不注意とむすびついている場合には、いかにその子の活力が旺盛おうせいにみえていても、それはただ動物的本能的なもので、価値ねうちのほとんど少ないものである。
 私たちは幼児に、時間通りに分量通りに、また乳の必要な時代に乳を、その他の食物の必要になってきた時代に他の食物をあたえる。それはなんのためだろう。時間通り分量通りに乳をやるのは、それでなくてはお腹を悪くするからだと、つい思っているような私たちであるけれど、決して決してそうでないことをはっきり考えていなくてはならない。そうすることは赤ん坊を命ぜられた健康に発達に導くためである。他の食物が入用になってきたら、早速それをあたえなくてはならないのもそのためである。しかしただそれだけでよいであろうか。
 いま一つなお大切なことがある。それは時間によって、またよく考えられた分量によって、かつその発達にしたがって食物の種類をかえてゆくのもふやしてゆくのも、人間われわれは生まれたときから本能的欲望の上に生きることの営みを打ち建て、かつその欲望を、われわれの研究によって発見し得たかぎりの法則によって統制し、馴致じゅんちしつつ生活をするものだということを、幼児の肉体ばかりでなく、その良知良能に毎日毎日訴えつつ育ててゆくのだということを、ふかく自覚していることが大切である。あたえられたる外物ものにより、またあたえられたるこの肉体の経験を通して、霊智れいちにまですすみゆくべき消息が、このようにして人間生活のあらゆる断面に現われているのは至妙ふしぎである。
 幼児の宗教教育、すなわちたましいの教育はもちろんむずかしいものである。そのむずかしい一番の理由は、どこにあるのだろうか。乳をやる母の心に、子供をやしなってゆく父の心に、食物は胃腸を通して体外に出てゆくものだぐらいの思いしかないこと、それ自身なのだと私は思う。
 そのようにしておとなにされてしまってからの宗教教育こそ絶対にむずかしいはずのもので、生まれたときから心がけて、そのたましいを明らかなものにすることは、祈り心をあたえられている父母にはかならずできることではないかと思う。
 外形を鵜呑うのみにして信ずる幼児、それにお行儀をおしえ、道徳をおしえ、あるいは親のさまざまの好みや主観を直通させること、それは頭の悪い軽薄な人間を、セルロイドのおもちゃのように造ってゆくやり方である。ほんとうに悲しいことである。
 無心な子供の日々の営みが、霊なるものへの讃美となってゆくような生活でなくてはならない。

教育三十年 一九三二年(昭和七年)


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2012.11.12

予言歌?…出口王仁三郎

Seishisama 日の続きとも言えましょう。先人の未来を臨むすぐれた能力に学びましょう(忙しいので)。
 昨日の折口信夫の教育論は大正14年のもの。今日の出口王仁三郎の長歌は大正11年です。
 まるで現代、平成のまさに今の世の中のことを書いているようですね。人心の乱れ、家族の崩壊、政治の混乱、国家の危機、そして天変地異…。
 これは、決して王仁三郎が予言者だったということではなく、当時すでにこういう傾向が現れ始めていたということですね。言うなれば、日本の西洋化です(と言うと西洋人は怒りますが)。
 そして賢人、偉人は、そういう未来につながる現象に敏感なんですよね。特に、一般人がいいものだ、新しいものだと思って飛びついて酔っている物事に対して、時間軸を俯瞰して本質的な指摘、論議ができるんですよね。だから時代を超える。
 そういう意味では、やはり出口王仁三郎は宗教家、予言者というよりも、思想化、哲学者、そして芸術家だったと言えそうです。
 この歌は王仁三郎の霊界物語の第39巻「舎身活躍」寅の巻の冒頭にある序歌です。最後は「本来の神」を思い出し祈ることによって世は救われると語っています。先日の「ブッダ真理のことば」のところに書いたように、神仏とは「比喩」であって、我々が求めなければならないのは、その向こう側にある「真理」なのでしょう。
 だから、王仁三郎は「宗教がなくなる」ことを理想として活動したのでしょう。
 なお、下記のテキストは、ワタクシの同志の運営する霊界物語ネット「レモン(ReMoN)」から拝借いたしました。

八岐大蛇やまたをろち醜狐しこぎつね
曲鬼まがおに探女さぐめはびこれる
暗黒無道あんこくぶだうなか
仁義じんぎ道徳だうとくかげ
常世とこよやみごとなり
ひとこころすさ
世道せだうつき頽廃たいはい
親子おやこうとんじにら
兄弟けいていたがひ相鬩あひせめ
親戚しんせきあらそ相離あひはな
朋友ほういうしん忘却ばうきやく
各自たがひ悪罵嘲笑あくばてうせう
上下しやうかつね反目はんもく
意志いし疎隔そかくおそろしく
紛擾ふんぜうゆるひま
資本家しほんか労働者らうどうしや相対あひたい
のうしやうこう振起しんきせず
不景気風ふけいきかぜまく
官民くわんみんたがひいやしみて
政令せいれいまつたおこなへず
主僕しゆぼく疎遠そゑんおちいりて
国家こくか社会しやくわい刻々こくこく
危機ききひんしつ諸々もろもろ
譎詐きつさ曲業まがわざとき
暴戻ばうれいさかんおこなはる
忠誠ちうせい人士じんし足曳あしびき
やまかくろひひそ
かしらをもたぐるとき
奸邪かんじや天下てんか跳梁てうりやう
まことかみでず
みだつたる娑婆しやば世界せかい
挽回ばんくわいすべきよし
医学いがく衛生えいせい完備くわんびして
悪疫あくえき益々ますます蔓延まんえん
交通機関かうつうきくわん完備くわんびして
有無うむつうずるのみちもなし
国家こくか富力ふりよく増進ぞうしん
しかして饑餓きが人々ひとびと
かしら刻々こくこくせま
法警はふけいなるにしたがひて
殺傷さつしやうしきりにおこなはれ
生産せいさん倍々ますます夥多くわたにして
物価ぶつか時々じじ凋落てうらく
輸入ゆにふ超過てうくわ惨状さんじやう
まつたくそのうしなひぬ
国庫こくこやうやく窮乏きうばふ
兌換だくわん借款しやくくわん滔々たうたう
経済界けいざいかいあやふくし
国防こくばうなるにしたがひて
国辱こくじよくしきりにおこるあり
高貴かうきぞくしたしみて
卑賤ひせん倍々ますます僣上せんじやう
富豪ふがう階級かいきふおしなべて
みな文弱ぶんじやく流落りうらく
淫酒いんしゆよくあさりつつ
社会しやくわいけが
貧弱ひんじやくいよいよ窮乏きうばふ
怨嗟ゑんさこゑいやたか
都会とくわいめる人々ひとびと
安逸あんいつ快楽けらくまり
奢侈しやしかぎ増長ぞうちよう
田舎ゐなか都会とくわいふう
淳朴じゆんぼくはら
学者がくしや偏狭陋劣へんけふろうれつ
怪論迷説くわいろんめいせつあひひさぎ
宗教しうけう宣布せんぷ従事じうじする
僧侶そうりよ教義けうぎ曲解きよくかい
宗祖しうそ教旨けうしほろぼして
品行ひんこうつき堕落だらくしつ
精神界せいしんかい攪乱かくらん
武人ぶじんぜに愛着あいちやく
士道しだうまつたすた
商賈しやうこ謀計ぼうけいこととなし
信用しんようまつたちぬ
青壮年せいさうねん悪風あくふう
眩惑げんわくなら
きそうてハイカラのみこの
良家りやうか子女しぢよ学校がくかう
かよひながらもてふごと
紅白粉べにおしろい塗立ぬりたてて
淫靡いんびかぜすさ
不良ふりやう少年せうねん続出ぞくしゆつ
社会しやくわい秩序ちつじよ混乱こんらん
拾収しふしうすべからずなりてぬ
賢母けんぼ良妻りやうさいいへ
蓄妾ちくせふつね逸楽いつらく
芸妓屋げいぎや娼妓屋しやうぎや繁昌はんじやう
良家りやうか益々ますます相寂あひさび
国家こくか元老げんらうはただすらに
老後らうごいそ勢力せいりよく
あらそ乾児こぶん相募あひつの
政客せいかくけんもてあそ
党弊たうへい擁護ようご余念よねんなく
神聖しんせい無垢むく議事堂ぎじだう
禽獣きんじうさけへび
雲助輩くもすけはい行動かうどう
演出えんしゆつするこそ慷慨うたてけれ
国家こくか選良せんりやう大切たいせつ
国議こくぎ軽視けいし侮辱ぶじよくして
喧々囂々けんけんがうがう市場しぢやうごと
国帑こくどみだり浪費らうひして
たみ負担ふたんおも
賦課ふくわ益々ますますだいとなり
国家こくか破産はさんちよひら
まなこてんじてながむれば
外侮ぐわいぶしきりに相到あひいた
国交こくかう益々ますます非運ひうんなり
ひと思想しさう悪化あくくわして
噴火山上ふんくわさんじやうにあるごと
いつ爆発ばくはつはかられず
これをばおもかれおも
碌々ろくろくねむられず
なみだ腮辺しへん滂沱ばうだたり
古今ここん未曾有みぞうのこの惨状さんじやう
すくひてまつかみ
ひらかむためのかみみち
てさせたまひしたふとさよ
あゝ惟神かむながら々々かむながら
御霊みたまさちはへましまして
五逆十悪ごぎやくじふあく濁世にごりよ
まことかみあらはれて
をさたまはるときはいつ
松間まつまながつるくび
かめよはひ常久とことは
まもらせたまへとりまつる
天地てんちかみさか
風伯ふうはくいかりを相発あひはつ
颱風たいふうしばしば到来たうらい
雷電らいでんひらめき激怒げきどして
天津御空あまつみそらわた
水神すゐじんたちまち嚇怒くわくどして
水難すゐなんしきりに続発ぞくはつ
海神かいじん怒濤どたうおこ
地上ちじやう蒼生さうせいあら
大地だいちかみ旱魃かんばつ
もたらし地疫ちえきはらひまし
地震ぢしんかみ地軸ちぢくをば
時々じじ動揺どうえうたまひつ
けがれし家屋かをく焼倒やきたふ
火竜くわりう紅蓮ぐれんした
地上ちじやう汚穢をゑつく
軍神ぐんしんいかりて天賊てんぞく
地妖ちえうくま鏖殺おうさつ
きよたまふぞかしこけれ
かみめぐみさちはひて
天来未知てんらいみち大偉人だいゐじん
あらはれきた天地あめつち
ももけがれ潔斎けつさい
まことみちにかなひしと
かみえらまれふせたる
たみをば常永とはすくひまし
五六七みろく御代みよとなるなれば
ここにはじめて天国てんごく
地上ちじやう芽出度めでたく顕現けんげん
無上むじやう至楽しらくとならむ
邪神じやしんこら善神ぜんしん
すくはせたま御経綸ごけいりん
ふもかしこかぎなり
これぞまつた皇神すめかみ
吾等われらたまひし御遺訓ごゐくん
万代よろづよまず皇神すめかみ
神訓しんくんれさせたまへども
世人よびとこころいやくも
神意しんいかいするものも
大義たいぎぼつ名分めいぶん
さとらざるものばかりなり
皇大神すめおほかみなげ
かみをしへたま
世人よびとみちびすくはむと
あや聖地せいちれまして
皇道本義くわうだうほんぎたま
たふととはなりにけり
かみ御綱みつなかれつつ
ひと押並おしなべて
この御教みをしへ遵奉じゆんぽう
模範もはん世界せかいしめしなば
ひと次第しだい善良ぜんりやう
身魂みたまりてのために
つく真人まびととなりぬべし
さすればかみよろこばし
自然しぜん天地てんちきよまりて
五風十雨ごふうじふう順序ついでよく
日月じつげつならかがやきて
万民ばんみん歓喜くわんきあめ
草木くさきみどり禽鳥きんてう
かみ御国みくに泰平たいへい
うたひてかみ御恵みめぐみ
よくする御代みよとなりぬべし
あゝ惟神かむながら々々かむながら
神代かみよとほ物語ものがたり
舎身活躍しやしんくわつやくとらまき
序文じよぶんへてつる。
大正十一年十月廿日

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2012.11.11

教育は個性の戦争…折口信夫

620626 「は、教育家の口から、児童生徒の個性尊重の話を聞く度に、今日の教育の救はれないものに成つた理由を痛感します」(折口信夫)
 過去の偉人、賢人に学ぶことは、彼らの思い描いた未来を学ぶことである。なぜなら、偉人、賢人の条件とは、未来を正しく想像し創造していくことができることですから。
 そうした先哲のちょっとした言葉に耳を傾けるのに、「青空文庫」は最高の場ですね。あそこにあるのは著作権の切れたテキスト。すなわち「昔の偉い人」の言葉ですから。
 というわけで、今日は尊敬する民俗学者・国文学者、そして歌人釈迢空であった折口信夫(おりぐちしのぶ)の文章を読んでみました。
 「新しい国語教育の方角」という短文です。大正14年に書かれた文章ですが、どうでしょう。冒頭に挙げた言葉、私が言ってることと同じじゃないですか(笑)。というか、まさに現代の教育問題を予知していたようです…ではなく、実際にはこういう現代的問題、ある種の西洋化というのは、もう大正時代にはずいぶんと進行していたということですね。
 それにしても、「強い言ひ表し方をすれば、教育は、個性を以つて個性を征服するところに、真の意義があるのです。謂はゞ、個性の戦争であるのです」とはよくぞ言ってくれたものです。さすがに教育に関する過激発言が時々あるワタクシでもこうは言えませんな。
 しかし、これはよく分かります。のびのび個性を伸ばすというような教育は、実際にはなんの教育もしていないことが多い。近くにもそういう教育機関があります。
 ウチは違いますよ。のびのびしているように見えますが、実際にはかなりの強度で征服行為に及んでいます。そして、その結果として本物の個性がのびのび出てくる。たとえは悪いけれども…外見はみんな同じ鯛焼きだが、ギュッと押してみたら、中からあんこだけでなく、チョコやチーズやクリームが出てくるような…すみません、折口さんとはエラい違いの下卑た比喩で(苦笑)。
 ま、とにかくですね、子どもの個性なんか、多少の強制や征服や洗脳程度ではつぶれたり、なくなったりしません。
 禅の修行なんか、その際たるものです。全て形式にあてはめ、自己を捨てていくと、なぜかそこに世界に匹敵する(自他不二である)自分の個性が浮かび上がってくるんですよ。
 というわけで、この文の第二章の部分だけここにも掲載しておきましょう。教育に興味のある方はぜひ読んでみてください。

 私は、教育家の口から、児童生徒の個性尊重の話を聞く度に、今日の教育の救はれないものに成つた理由を痛感します。教育と宗教とは、別物でありますけれども、少くとも宗教に似た心に立つた場合に限つて、訓育も智育も理想的に現れるのだと考へます。  この情熱がなくては、教授法も、教育学も、意味が失はれてまゐりませう。生徒、児童の個性を開発するものは、生徒児童の個性ではなくて、教育者の個性でなければなりません。  たとへば、優れた芸術家が、一人でも先輩或は、周囲の影響を受けないで、偉大な個性に目醒めたといふ例がありませうか。教育は畢竟、個性を芽生えさせる所に意味がある筈です。併しその上に、その個性に、ある進路を与へることがなくては、教育者自身の存在は意味がなくなります。強い言ひ表し方をすれば、教育は、個性を以つて個性を征服するところに、真の意義があるのです。謂はゞ、個性の戦争であるのです。 世の中に固定を恐るべきものは、教育家が第一であると致さねばなりません。一歩停まれば、被教育者から殺されるものとの覚悟がいります。だから、常に足を止めることが出来ないのです。この間の消息は、合同教育、連帯訓化の今の世では、忘れられてゐるのです。昔の塾教育に比べて、今の学校教育の呪はれがちなのは、教育者の人物に由ることは勿論ですが、教育者の責任の軽くなつたのにも、原因はあります。  神授の物を授けてはならないと言つて、旧信仰の忘れ形身の様な個性尊重説の下に動きのとれなくなつてゐる教育家は、実は自身の個性に信頼が出来ないのです。自身侮り、卑下して居て、個性の戦争などに思ひの及ぶはずもありません。教育は職業になりました。合同作業になりました。被教育者の個性の征服は勿論、教育者同士の間にも、もつと妥協態度を棄てる必要がありはしませんか。お互の教育効果を減殺する事を気にするより先に、影響の強さを競ふつもりになつて欲しいものです。競争の成心なく、自然に揉み合ひ、凌ぎあひの行はれるのを理想とします。  国語教育を受け持つ者が、何の為に英語や、数学や博物の教師と協調して行く必要がありませう。思ふ存分に力を伸べてこそ、真の効果は生じるのです。被教育者の能力は、教育者の空想する程貧弱なものではありません。各学科その効果を争ふ必要があります。国語科の先生は、常に、不生産的な学科だと言つた自覚に尻ごみして、けなされ勝ちになつて居ます。此は教育の目的を、功利的に考へてゐるからの自卑です。どうもやつぱり、読み書きに国語教育の本旨があると考へる人が多い様なのは困ります。だから、国語教育の上に大事のめどとせられねばならぬ箇条が顧みられないでゐるのです。

Amazon 新しい国語教育の方角(無料)

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2012.11.10

『NHK「100分 de 名著」ブックス ブッダ 真理のことば 』 佐々木閑 (NHK出版) 

Image ととい仏教の(超)入門書として『池上彰と考える、仏教って何ですか?』を紹介しました。
 私としてはなんとなく物足りない本でなかなか読み進めなかったと書きましたが、次に読んだこの本はそれこそ一気に数時間で読み終えてしまいました。そしてメモ多数。素晴らしい。
 筆者は『犀の角たち』の著者、科学者を目指していたのにいつの間にか仏教学者になってしまったという佐々木閑さん。
 原始仏教(釈迦の仏教)の最高経典の一つである『ダンマパダ(法句経・真理のことば)』を中心に、釈迦が説いた本当の教えに迫ります。そして、そこに「科学との共通点」を見ます。
 今、ダライ・ラマ法王が来日中で、多くの科学者と対話しているわけですが、佐々木さんの姿勢というのは、『犀の角たち』の記事で引用させていただいたとおり、必要以上には科学と仏教を結びつけていません。根本の部分、つまり、「全てを因果関係でとらえる」というところに唯一の共通点を求めています。
 そう、ご存知のとおり、本来の仏教では「超越的な絶対者」や「救済者」はいないということを前提にしています。「因」自らの心の中に求め、自らの心を変えることしか苦から逃れる方法はないと説きます。すなわちそこには「信仰」というようなものは存在しません。ただただ自己の問題なのです。
 それはある意味で非常に厳しい教えです。特に他者に救いを求める人にとっては。
 私も基本ブッダの教えが正しいと考えている(予感している)者ですが、一方で、神道やキリスト教などの勉強もちょっとしています。それらには「神」という自己を超越した存在が描かれているわけですが、それが仏教と矛盾しているとは思っていません。
 すなわち、人間の思い描く「神」(や「仏」)は、無明である我々が、釈迦の悟った崇高なる真理というゴールを目指すための比喩だととらえているのです。そういう意味では、私は「言語」や「科学」さえも、そのための比喩だと言ってしまってもいいと思っています。
 佐々木さんは「四諦八正道」の解説のところで「仏教は心の病院である」という分かりやすい比喩を使っていますが、それもまた同様ですね。
 佐々木さんは、すぐれた解釈や、科学との比較を通じて(すなわち分かりよい比喩で)、「一切皆苦」、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」を解説してくれています。
 この本を読めば、私たちも仏教の真の入り口に立つことができるでしょう。もちろん仏教へのアプローチはいろいろな角度から可能です。日本人の日常的な生活に溶け込んだ仏教、すなわち大乗的な方向から近づくこともできます(私もそうでした)。しかし、やはり原点、原典に立ち返ってみることによって、慣れ親しんだ「比喩」の向こう側にある「真理」が見えてくることがあると思います。
 そうそう、この本の「比喩」ということで言えば、各所に配置されている分かりやすい表や図も、その一つでしょう。実に分かりやすい。また、認知脳科学者藤田一郎さんとの対談、巻末の読書案内も優れた比喩であり、「物語」であると思います。
P050111b 藤田さんのお話の中に出てくるカニッツァの三角形という錯視、これもまた、私たちが真理に近づくための比喩ですね。真理とは、おそらくはここに見える(見えてしまう)白い三角形のような存在なのでしょう。
 真っ白な空間には、実は無数の白い三角形が存在しています。それを見せるのが黒い模様であり、それがたとえば宗教や科学という「比喩」、「物語」、そして「(仏法僧の)法」なのでしょう。
 私の言う「モノをカタる」、「コトを窮めてモノに至る」とは、そういう意味なのです。

「愚かな者が、自分を愚かであると自覚するなら、彼はそのことによって賢者となる。愚かな者が自分を賢いと考えるなら、そういう者こそが愚か者と言われる」(「ダンマパダ」より)
 
Amazon NHK「100分 de 名著」ブックス ブッダ 真理のことば

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2012.11.09

コントラバス

Img_5780 たまたいきなりですが、コントラバスを始めました。
 まさかコントラバスを弾くことになるとは先週までは夢にも思いませんでした。
 いちおうヴァイオリン、ヴィオラ、チェロは弾く機会がたくさんあります。ほとんど毎日です。なぜなら、私は弦楽合奏部の顧問だからです。中学生にそれらを教えなければならない立場なのです。
 20人近い部員(ほとんど全てが初心者)にそれぞれイチから教えなければならないので、まあ大変と言えば大変です。でも、中学生はすごいもので、私のいい加減な指導でもどんどん上手になります。
 いや、レッスンのようなことはしていません。私がそうであったように、合奏の中で自分の技術を磨いていきます。奏法的に間違った方向に行きそうなところだけ指導する感じです。
 ヴァイオリンとヴィオラについての細かいことは、月二回来ていただいているプロの演奏家の方にお願いしています。チェロは私自身習ったことがないので、ワタクシ流の弾き方を伝承しています(笑)。
 コントラバスは導入しないつもりだったのです。実際、創部以来2年半の間まったくその気はありませんでした。室内楽ですし、コントラバスは中学生にはちょっとデカすぎる楽器なので。
 しかし!必要に迫られました。というのは、今月23日勤労感謝の日に我が校の文化祭を行うのですが、今年の会場は「ふじさんホール」なのです。つまり大ホールということでして、こうなりますと、チェロ3本ではちょっと低音の迫力が足りないのであります。16フィートがほしい。
 かと言って今から中学生に弾かせるわけにもいかず…そっか、とりあえず今回は自分で弾けばいいのか!
 ということで、学校の備品として安い安いコントラバスを購入いたしました。そして、昨日それが届き、今日には生徒たちと一緒に合奏するまでになりました。我ながら早い(笑)。
 そう、私はコントラバスは全く弾いたことがなかったのです。ジャズ部のダブルベース(と呼ぼう)を弾いた(はじいた)ことはありましたが。
 しかし、そこは無茶な楽器体験百戦錬磨のワタクシ。自己流ならまかせておけ!とばかりに一気にモノにしてしまいました。
 しかし、写真をご覧になって分かる人には分かるはず…ホントに自己流というか我流というか無手勝流というか(笑)。
 まずは、ワタクシ、ジャーマン式に弓を持てません。しかし、付いてきた弓はジャーマンタイプ。じゃ、しょうがないっすね、無手勝流に国境はない!?ジャーマン・ボウをフレンチ式に上から持ってます。もともとそういうものだと思えば気になりません。フレンチ持ったことないし(笑)。
 さらにですね、左手のフィンガリングはチェロ・フィンガリングです。つまり指一本ごとに半音担当。一般には薬指は使わないのですが、ワタクシはじゃんじゃん使います。もともとそういうものだと思えば問題なし(笑)。
 そう、私はですね、未知の楽器に出会った時、いわゆる歴史的なメソッドというものから入らないんです。その楽器というモノと対話しながら、自己流でやってしまうことが多い。プロになるわけじゃないし、ま、弾けてりゃそれでいいという、かな〜りいい加減な人間です(生徒諸君ゴメン)。
 さらにさらに今回はヘンデルやモーツァルトなど6曲を本番で弾くんですが、それぞれニ短調、ニ長調、ト長調、ロ短調なので、最低弦を「D」に調弦しました(本来「E」)。スコルダトゥーラですね。こういうのも私は全然気にしないタイプなので、それで練習しております。
 というわけで、この歳になって、また新しい楽器をマスター(?)することができて、とっても嬉しい。そして、なんと言っても、通奏低音の心地よさを味わえて幸せであります。いいなあベースは。
 娘がジャズバンドでどんどんベースの腕前を上げてまして、いわゆる「ベースギター」に関しましては、フレットレスも含めて、すでに娘の方が上手になってしまいました。
 ヤツの体が小さいうちに、すなわちダブルベースが弾けないうちに、父親は先行逃げ切りを目論みます(笑)。
 さて、その成果やいかに。気になる方は(いないかw)23日にふじさんホールへGO!

ステンター・コントラバス SB-130


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2012.11.08

『池上彰と考える、仏教って何ですか?』 池上彰 (飛鳥新社)

102616 日の記事では、キリスト教(モルモン教含む)、イスラム教の話が出てきましたね。今日は仏教です。
 今、ダライ・ラマ法王が来日中です。本当は昨日、一昨日の「科学者との対話」に行きたかったのですが、仕事が詰まっていて今回は見送りました。う〜ん、村上和雄さんや佐治晴夫さんとの対話はぜひ聞きたかったなあ。
 ということで、科学者ではありませんが、池上彰さんとダライ・ラマ猊下の対談を読んでみました。
 前半は池上さんによる仏教の概説。本当に入門編という感じで、誰にでもその歴史が分かる内容でした。しかし、入門すぎて「教え」の部分はほとんど伝えきれていないと思います。
 というか、お釈迦様の教えはあまりに深遠であり、私はもちろんのこと、多くの僧侶や宗教学者でさえも、その真意はいまだはかりかねているというのが事実です。
 私も日々の生活の中で、また、科学や他の宗教の視点から、お釈迦様の教えを自分なりに解釈していますが、まだまだゴールは見えてきません。
 ただ、最近、今までの解釈(各種経典を含む)の再解釈では、なかなかブッダの境地には近づけないということが分かってきまして、比較的自由にお釈迦様の言葉をストレートに自分の中にぶちこんで、そこから湧き上がってくるビジョンやイメージを大切にしようという姿勢が身に付いてきました。
 いやあ、そうすると、いろいろ分かってくるんですよ。最近マイブームの「時間は未来から過去へと流れている」という考え方もその一つです。
 そう、お釈迦様はもっと自由に解釈してほしいのではないか、それぞれの人間の中に真理があるのであって、「言葉(解釈)」にあまりとらわれないでほしいのではないか、そんなふうな確信が(勝手にですが)湧いてきているのです。
 またバカなことを言っていると思われそうですが(笑)、私はけっこうそういう今の自分の脳ミソと体の状態が快感なので、このスタイルで行こうと思っています。
 まだまだ結論は出ませんが、日々新しいイメージが浮かんでいるので、ある程度まとまって一般性を獲得したならば、このブログでも紹介していこうと思っています。ま、それもまた「言葉(解釈)」であるという矛盾はありますが、先賢たちも皆そうやってきているわけですから、私の愚行も許してもらいましょう。
 で、そんな暴走仏教徒からすると、この池上さんと猊下、そして、その側近との対談は、ちょっと物足りないというか、ワクワク感はあまりなかった。
 そのせいか、こんな「やさしい」本なのに、全然読み進めなかった。妙に時間がかかってしまいました。不思議なものです。言葉の限界が見えているのかなあ。
 しかし、たしかに仏教の入門としては、非常に有用な本だと思います。入り口がなければ中には入れませんからね。
 ただ、いつも思うことですが、仏教の入門で「苦」とか「思い通りにならない」とか言われ続けると、どうもマイナスのイメージを抱いてしまいますよね。
 私は「苦」について、このようなプラスのイメージも持っています。参考までに。
 
Amazon 池上彰と考える、仏教って何ですか?

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2012.11.07

オバマ大統領再選

(時間がないので短めに)
266031293945503744 在的イスラム教と顕在的モルモン教の対決…なんていう視点でこの選挙戦を見ておりましたが、結局イスラム教(表向きはキリスト教プロテスタント)の勝ちということのようです。
 オバマさんがムスリムであることはこちらに書きました。
 今後の世界情勢を考えると、イスラム教と親和的なオバマさんが再選されたことはいいことだと思いますね。
 9.11以降、アメリカの対イスラム政策は、一見厳しくなったように見えますが、実のところ裏ではかなり懐柔的な交渉がなされたと聞きます。まあ、それしか正解はないでしょう、実質的には。
001_2 ロムニーさんは敬虔な「末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)」の信者です。モルモン教は一時期、黒人やインディアンに対して差別的な待遇をしていた時期があり(ほかのキリスト教も同様ですが)、いまだに白人以外から反感を買っているところもあるようです。
 キリスト教系、イスラム教系、そして有色人種に対してもある種の包容力を持つオバマさんは、ゆはり有利だったということでしょうか。
 問題は日米関係ですね。日本の民主党政権は日米関係をガタガタにしてしまいました。おそらく年内に解散総選挙があり、安倍政権が誕生するでしょうから、これからは安倍さんとオバマさんの関係に期待したいですね。そのへんは安倍さんは上手にやってくれるでしょう。早く政権交代しないかなあ。
 それにしても、アメリカは最低4年首領が変わらなくていいですねえ。それに比べて日本は…。安倍政権はぜひとも長期安定政権になってもらいたいところです。


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2012.11.06

北島三郎『詠人(うたびと)』〜「まったり」について

 化祭の準備やら、来年度の募集活動などでてんてこ舞いしております。ま、また実写版「うる星やつら」の撮影、編集が忙しいのですが(笑)。これは私の毎年の楽しみであります。
 さてさて、そんなドタバタな日々の中で、少しくらいは「まったり」したいなと思って、久しぶりにこの曲を聴きました。
 「まったり」という言葉、今ではすっかり全国に定着していますが、もともとは上方言葉として使われていたようです。おそらくは「まったし(全し)」の派生語でしょうね。
 完全である、安定して落ち着いているという意味の「まったし(またし)」は、語誌的になかなか面白い発展をしていますね。
 「まったい」という終止形は現代に残らなかったのですが、連用形の「まったく」は副詞として、連体形の「まったき」は連体詞として、それから「まったく」のウ音便形は「まっとうだ」という形容動詞として残りました。
 そして、「まったり」は今や現代生活に欠かせない副詞として大活躍しています。
 「全い」が「まったり」になるのは、「浅い」が「あっさり」、「細い」が「ほっそり」になるのと同じ現象です。
 つまり、「まったり」には、もともと「完全」「満ち足りている」というニュアンスがあったわけですね。
 江戸時代後期の上方の用法では、「まったりと」は、やはり「深い味わいがある」「ゴージャスな」というような意味で使われているようです。
 それが現代において全国的にデビューしたのは、おそらくはコミック「美味しんぼ」がきっかけでしょう。これは「味わい深い」という比喩的な意味ではなく、本物の「味」についての表現でした。「こくがあっておいしい」というような。
 それがまた「穏やかにゆったりする」というような気分で使われるようなったのは、実はこの「詠人」の影響が大きいと思います。アニメ「おじゃる丸」で10年以上にわたって巷に流れ続けたのですから。
 お聴きになってわかるとおり、アニメのオープニングは2番からなんですね。知りませんでした。
 いかにも平安時代の貴族ののんびりした余裕ある気分を「まったり」は表しています。つまり、その当時の気分が「まったり」という言葉に乗り、そしておじゃる丸のキャラクターもそこに重なって、現代に復活したということでしょうか。
 そうした「満たされた」気分というのが、現代の日本には欠けているのだとも言えるでしょうね(私ののように)。今や、まったりすることは、特別に贅沢なこととなりました。
 せめて、この北島三郎さんの朗々として、かつ穏やかな歌を聴きながら、平安貴族の気分に浸ってみるのもいいでしょう。ま、実際の平安貴族はそんなに「まったり」してなかったと思いますがね(笑)。

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2012.11.05

学校選び=結婚(?)

20121106_95743 週の土曜日、来年度の生徒募集に向けての説明会を行いました。予想以上にたくさんの方々においでいただき、私たちの教育方針をしっかり理解していただける良い機会になったと思っています。
 ちょうど田中眞紀子文部科学大臣による暴挙があったその翌日ですね。いろいろな思いを胸にずいぶんと饒舌に語ってしまったかもしれません。
 あの記事にいくつかコメントをいただきました。それはそれぞれの立場や考えですから、特に議論すべきものとも思いませんが、逆に、私は私学の教員という立場を譲るわけにはいきません。実際の子どもたちと、それに連続する見知らぬ子どもたちへの想像力を失ってしまっては、私たちは教員を続けられません。
 私たち教育者、特に私学人のほとんどは、本当に命懸けで子どもたちを教え育てています。もちろん、教育を食い物にする人たち、商売として学校を経営する人たち、誤った理念で教育を施す人たちが(身近にも)いるのは事実であり、それはそれで糾弾されて当然であると考えますが、そうでない、高い志と理念のもとに、まさに身銭を削り、心血注いで教育にいそしんでいる私学人もたくさんいることも知ってほしいと思います。
 現在、我が校のような中高一貫私立学校は、非常なる苦境に立たされています。義務教育の中学はもとより、公立高校にまで無償化が拡がり、今や公立と私立の授業料の格差は無限大倍になってしまいました。
 もちろん私学にも、国や県から各種補助金等として、それなりの税金が投入されていることは事実ですが、その額は諸外国と比べてもかなり低く(その中でも特に本県は低い)、どこも財政的にギリギリの状況で経営をしています。
 日本の教育史を語る時、寺子屋に始まる私学の功績は言うまでもなく大です。私学が持ち得る独立性や個性的な教育理念と実践、そして宗教教育をも含んだ総合的な人間教育、競争の精神による活力や向上心、入れ替わりの少ないスタッフによる継続的な教育活動は、公立にはなかなか真似できないでしょう。
 先日、ある作家の方が講演の中で、「日本の学校は全て私学にすべきである」というようなことをおっしゃっていました。ま、それは極論としても、最近の公立事情(ウチのカミさんは現在公立中学の教員です)を見聞きすると、そういう方向性で国家の根幹たる教育を立て直していくというのもありかなと思ってしまいます(公立の問題は、それぞれの教員の資質や能力という問題ではなく、もっと大きなスケールでの問題です)。
 さてさて今日は、説明会でお話した内容のうち、ある意味一番重いネタを紹介しましょう。
 「学校選び」は人生を決める大切な決断です。基本的にやり直しがきかないという意味でも「結婚」と同じくらいの重みがあるかもしれません。
 そこで、「学校選び=結婚(?)」として、両方に共通する「選択」と「決断」のポイントを紹介します。
 説明会では、いつも最後にこの話をします。本校の宣伝ということではなく、縁あって出会った皆さんの幸福を願って、このようなアドバイスを贈らせていただいています。

・選ぶ前には、とことん相手を知る努力をしましょう。
・外見にとらわれない方が得策です。
・ほかに目を向けて比較することも大切です。
・とにかく、相手のいいところを探しましょう。
・また、自分がその相手に何をしてあげられるかを考えましょう。
・なにごとにも相性ってありますね。
・決めたあとは、「後悔をしない」努力を。
・実際の生活が始まったら、理想と現実とのギャップは当たり前。
・まずはお互いの悪いところには目をつぶりましょう。
・ケンカをせず、ゆっくりお互いの意見を交換したいですね。

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2012.11.04

『ここにはいつも富士がある』 (富士吉田市民愛唱歌)

 日の富士吉田市内小中学校親善音楽会で、私はこの歌を初めて歌いました。
 ワタクシ、今は富士吉田市民ではありませんが、結婚前の数年間は富士吉田に籍を置いていました。職場は下吉田にありますから、まあ私の人生の半分はこの富士吉田市で過ごしていると言ってもいいかもしれませんね。
 今の富士吉田は、正直活気も文化もないダメダメな街ですが(失礼)、この曲が作られたであろう昭和の30年台や40年台初頭は、非常に元気な街でした。
 下吉田地区を中心とした織物産業が盛んな、いわゆる「ガチャマン景気」の頃ですね。機織りの機械が「ガチャッ」と動くと「1万円」稼げたという時代です。
 この愛唱歌の正式な制定年は調べていませんが、岩谷時子(作詞)・いずみたく(作曲)というゴールデンコンビからして、私が生まれた頃、すなわち東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が走った昭和39年近辺ではないでしょうか。
 いかにも「青春」を思わせるようなさわやかな歌詞と旋律、そして演奏ではありませんか。まさに古き良き時代であります。
 最近はもう「機」の音もあまり聞かれなくなってしまいましたので、特に2番を歌ってもピンとこないかもしれませんね。
 昔は学校でもよく歌っていたとのことです。せっかくいい歌なのですから、昔の活気を取り戻すためにも、もっと市民が歌っていけばいいのではと思います。
 最近は「昭和の遺跡(?)」と「硬いうどん」しか注目されない富士吉田であります。しかし、フジファブリックの志村正彦くん、プロレスラーの武藤敬司さんの生まれ育った街、そして最近知ったのですが、あの名作RPG「ペルソナ4」の街並みのモデルは富士吉田らしいじゃないですか。いろいろ売り出せるネタもありますし、なんといっても、時代は変わろうとも「ここにはいつも富士がある」のですから。みんな頑張りましょうよ。
 そうそう以前紹介したショーケン主演の名作ドラマ「祭ばやしが聞こえる」のロケも富士吉田で行われたのでした。数年前下吉田駅はきれいにリニューアルされてしまい、残念ながらあのベンチもなくなってしまいましたが…あれ?動画も削除されてるし。
 ところで、岩谷&いずみのゴールデンコンビの作品としては、ピンキーとキラーズの「恋の季節」が有名ですね。昭和の歌謡史、日本音楽史に残る名曲、「真赤な太陽」とともにエポックメイキングな存在であるあの曲ですね。あれが昭和43年です。200万枚売れた…音楽会としても古き良き時代でした。それにしてもかっこいい曲ですな。

追伸 吉田小唄というのもありました。金田たつえ、いいですねえ。歌詞も洒落てますよ。

 

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2012.11.03

『コミュニケーションは、要らない』 押井守 (幻冬舎新書)

417bxdywq0l_sx230_ 常に厳しく鋭い「日本人論」「コミュニケーション論」だと感じました。
 尊敬する押井守先生にひどく叱られたような気がしました。
 ここで「要らない」とされる「コミュニケーション」とは、日本人的な「馴れ合い」のことです。協調や協力、あるいは絆という言葉で代替されると、なんとなくいいものなような気がしてしまいますが、それがいかに今の日本をダメにしているか。
 「議論」という本来のコミュニケーションを醸成する「言語空間」が、今の日本にはないと押井さん言います。たしかにそうだと思います。
 雰囲気、感情移入、あるいは「みなまで言うな」という日本語独特の世界が、ネット上のコミュニケーションに溢れ、ロジカルな(論理的な)議論がどんどん隅に追いやられていく。お手軽な知識入門書が「教養書」として扱われ、アマチュアがプロの領域について知ったかぶり評論をする。
 日本は国家としての外交すらままならない。原発問題にしても、多分に情感にまかせた偽善的、独善的な行動が目につきます。
 押井さんはこの本の第2章全体を費やして、自らが「原発推進派」であることを表明しています。そうしてあえて「議論」の可能な「言語空間」を作り出しています。
 先日、ある原発反対派のグループの方々とお話する機会を得ました。私は長期的には反対派の立場を取りますが、現状ではある程度容認していかねばならないという考えを持っています。しかし、なかなかそういう中途半端な(?)立場を認めてもらえませんでした。
 しかし、私には議論をする勇気も自信もありませんでした。せいぜい「そうですねえ」と言いながら、内心「お前らも事故以前は潜在的推進派だったくせに!」と悪態をつくくらいでした(苦笑)。お互いに「言語空間」を作れなかったのでしょう。
 そういう意味では、押井さんがこの本の中で「終わらない日常は結局終わらなかった」というような表現をした、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に象徴される、「こうなったらいいなあ」程度の日本人の夢想的世界は、私の周辺でも、あるいは私の内部でもしっかり息づいてしまっているということでしょうか。
 現代のサブカルチャーの最先端を生きてきた押井守さんが、今、古典に還り、教養を語り、「真善美」という本質論の復活を希求するのは、ある面では不思議でありながら、しかし案外すっと腑に落ちるというのも事実です。
 「がんばろうニッポン」ではなく、ひとまず疑って、そして「自分で考える」べきだ…ビューティフル・ドリーマーを徹底したからこそ、リアルの世界を客観的に俯瞰できるようになったのでしょうか。
 そこにはある種の「悟り」の境地を感じることができました。

Amazon コミュニケーションは、要らない
 

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2012.11.02

また暴走!?田中眞紀子

200_pn2012110201001468ci0002 の国は恐ろしい状況です。本当に驚きました。寝耳に水、青天の霹靂どころか、驚天動地のニュースでした。
 「文科相、3大学の新設認めず 審議会答申覆す」
 まさに3年前の今頃、中学新設のために奔走していた者としては、このことは全く他人事ではありませんし、許せない暴挙としか思えません。
 たしかに、「大学設置・学校法人審議会」のシステムに全く問題がないわけではありません。ですから、それを見直すことは悪いことではない。しかし、なぜ、ここで、このタイミングで…。
 中学でも大変でしたが、新設大学の場合、その準備は本当に大変です。12月に最終的な認可が下りたその日から、1期生の募集をしなければならないからです。
 新設校はそういう意味で厳しいスタートを余儀なくされます。既存の大学が年内に推薦やAO入試で青田刈りしたあと、年明けにようやく推薦入試を行うことができるのです。これは大変きつい状況です。
 認可が下りる前にできる宣伝活動、募集活動はかなり限られています。中学の場合でも、県から詳細な指導が入りました。
 それに従って設立準備室は慎重に、しかし気合を入れて活動します。
 たとえば、今回認可が見送られた秋田公立美術大学は、こんなホームページを開設していました。
20121103_160358
 当然ルールの範囲内でのことです。そしてルールの範囲内でオープンスクールや説明会を行い、来年度入試の情報を公表します。
 もちろん内部的に言えば、教職員の採用などもこの時期にはほぼ終了しているはずです。そうでないと認可が下りないからです。
 そうして、従来の法令に則って準備を進めてきたのに、突然ここで認可せずでは、正直死を宣告されたのと同じくらいのショックを受けるでしょう。
 なぜなら、命懸けで1期生を集めようとしてきたからです。つまり、実際に、大学と高校生の信頼関係のもと、お互いの運命を預け合ってきたのです。
 それを第三者が突然このような暴挙でぶち壊してしまうことが恐ろしいのです。思いつきで人々の、特に高校生の人生を狂わせてしまうことが恐ろしいのです。
 現場の経験から、こういう状況が考えられます(秋田の例でお話します)。
 秋田市に新しい公立の美術大学ができる。自分はちょうどその道に進んで地元の文化や経済の発展に寄与したいと思っていた、という高校生がいるとする。彼は2013年4月開校という言葉を信じ、他の大学の推薦入試やAO入試を受けないで、年明けの同大学の推薦入試や一般入試一本にかけようとしていた。
 そこにこのニュース。彼がどういう不利益を得るかお分かりになりますよね。もうこの時期には、多くの推薦入試やAO入試が終わりつつあります。たとえあったとしても、今から短期間でその大学の入試に対応する準備をするのは困難です。たとえ他の大学に入れたとしても、それはある意味不本意入学となってしまいます。
 前途ある若者の夢を断ち切る恐ろしい暴挙です。私はとても許せません。
 さらに言えば、この秋田の大学の母体となっている現短大では、2年生の一部が、新大学の1期生に編入し新たな歴史を創る主人公になろうと意気込んでいたに違いありません。就職活動をせず、ひたすら(当然下りるであろう)認可を心待ちにしていたのです。「タイミングが悪かった」「ついてなかった」ではすまされません。
 大学設置に関する法令を見てみますと、平成15年に「準則主義」に変わったことが分かります。ここでの「準則主義」ということは、法人の設立にあたって、関係法令に従って準備が行われていると認められた場合は、自動的に法人格を与えるということです。行政機関が判断、許可するのではない、すなわち要件を満たしていれば、法人設立を拒否する理由も権利もないということです。
 当然、今回の3大学は今までの慣例どおり、そのような要件を満たすように慎重に準備をしていたはずです。そして、昨日は諮問委員会において「要件を満たしているので来春からの開校を認可する」との答申が出ていたにも関わらず、翌日、田中眞紀子文部科学大臣は、いきなり「諮問委員会のメンバーが気に入らない」という理由で、それを覆してしまったわけです。
 これは「法治国家」という観点からしても、絶対に許すべからざる暴挙です。たしかに「創造学園大学」の堀越学園問題などありましたが、そのとばっちりを、この3大学とそれを取り巻く関係者、そして志望していた若者が受ける理由は全く見当たりません。
 これは暴力です。文部科学大臣自らいじめをしているようなものです。本人は官僚制と戦っているつもりかもしれませんが、勘違いもはなはだしい。私が上に書いたようなことが起きるに違いないという想像力は、彼女にはないのでしょうか。あまりに冷血すぎます。教育界の風上に置けない、いや置いてはいけない人物です。
 これはもう、田中大臣を早く更迭して、新大臣がもう一度判断を覆すしかありませんよ。これを許してしまってはダメです。教育の歴史の汚点になります。日本の恥です。
 認可制度の見直しを来年度以降の重要案件とするなら、逆に評価されたことでしょう。なんで、こんな単純なことも分からないのでしょうか。こんな人に日本の教育を任せられるわけがありません。

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2012.11.01

『情報を読む技術』 中西輝政 (サンマーク出版)

Imgres Bにならないためにはどうすればよいか。その一つの答がこの本にあります。
 筆者は日本を代表する国際政治学者。安倍晋三さんの影のブレーンのお一人と目されている方です。今年春、京都大学大学院教授を退職し、京都大学の名誉教授となりました。来年以降、ますます忙しくなられることでしょう。
 そんな方の本ですから、情報の例として挙げられている情報がすごい。すごすぎました。思わず一気に読んでしまった。あまりに自分が無知である、いやいらぬ情報を知りすぎていたと反省(苦笑)。
 国際的な国家間、個々の国家内レベルで、こんなふうに様々な「ニセ情報」が跋扈しているわけですから、低いというか狭いレベルでの様々な情報なんて、本当に玉石混淆ですよね。ま、私自身がこうして発している情報自体、かなりアヤシイものですが(笑)。
 私たち凡夫レベルだと、こうしてまた「ニセ情報」情報を与えられると、ただ単に「だまされた!」とか「じゃ、こっちが正しいに違いない」とか、そういうデジタル的思考に陥ってしまいますが、さすが中西さんレベルだと違います。
 ある意味、巷間に跋扈する「ニセ情報」から「正しい情報」を読み取る技術を指南してくれる。「ニセ情報」が発信される理由にこそ「真実」があるということですね。
 そうそう、私は「偽史」や「陰謀論」を扱う時に、そういう姿勢を取っているんです。しかし、実生活の中においては、実はそういう姿勢を保てていなかった。案外、「白黒はっきりさせる」「ニセものは排除」というような、いわば原理主義者に成り下がっていたんですね。残念。
 というわけで、ぜひとも皆さんにこの本を読んでいただきたいわけでして、ここに目次を全て載せさせていただきたいと思います。
 この本の情報の中で特にこれというものを選んで書こうとしていたんですが、ついつい全部になっちゃいそうなので、こういう荒技を使わせていただきます。あとは皆さんでお確かめ下さいませ。

 1章 情報を知る

「タダより怖いものはない」
相容れない立場の情報は、自分を映し見る鏡になる
既知情報をいったん捨ててみる
重大情報ほど、トップから漏れる
「情報源の情報」には裏がある
「尺度情報」を読み取る
一つ先のことを考えるための情報
「情報操作」を見抜く
定点観測は「土地勘のある分野」から
相手の「育ち」を調べる
「誕生(成り立ち)」に目を向ける
思考過程がきちんと示されているか
映像時代の情報の落とし穴
「メディア・リテラシー」に学ぶ
死守すべきものがあれば、情報感度は高まる

 2章 情報を読む

「愚かな楽観主義」より「活力ある楽観主義」
「便りのないのはいい便り」はありえない
大筋を枠組みをつかむ
「背後でなにか進行している」を前提にする
報道の大小で重要性を判断しない
「一辺倒」でない情報は信用できる
世代的な情報断絶は、予測困難な時代をつくりだす
「原理主義者」の情報に気をつける
「ありえない」という情報が蔓延すると、大きな変化が起こる
相手が「隠そうとしている」ものを読む
規律化するのは本来それができていないから
「故意に強調されない情報」の真意を見抜く
「グレーゾーン」の存在を意識する
「みんな同じ」だと思考停止を招く
経済情報は、尺度として扱う
見えないものを「逆時系列」で読む
圧倒的支持を受けているものは危うい
権力者に近い知識人の情報は信用できない
テレビのニュースショーを信じるな
学者や評論家の「通信簿」をつける
情報はつねに主観的だと思え
表面的なイメージの「反面」を見る
「人間情報」を組織共有のものにする
自分の「情報ぐせ」を意識する

 3章 情報を使う

「信用」は、決定的な嘘をつくためにある
無形のものに金をかけたほうが勝つ
力を過信すると、情報力は衰える
情報は弱者にとっての最大の武器である
交渉や戦いの巧拙よりも、情報の有無が勝負を決める
情報部は執行部と距離を置くもの
「三十年の危機」の経験に学べ
主導権争いが、情報機関の発達を阻害する
「情報は早く、行動は遅く」の本当の意味
「正しさ」と「上手さ」を混同しない
情報の本質を「プラグマティズム」にある
好ましくない情報にこそ聞くべき価値がある

 4章 情報を活かす

「農耕的思考」から「狩猟的思考」へ
情報戦略の優劣が大差を生む
「ねじれ現象」の裏には情報格差がある
情報戦争は、意外な人物にまで及ぶ
結果から見た意味づけは、事実を歪める恐れがある
「情報」を「知恵」に結晶させる心構え
枠を一歩踏み出すと、大事な情報が見えてくる
先を見通すために、過去の似た事例から学ぶ
情報の逆手を取ってうごめく官僚たち
「歴史的記憶」情報による判断
乏しい情報力を補う「国民力」
戦後史から現代に活かせる情報を見る
変化への対応の遅れが、大きな犠牲を招く
あらゆる情報に増して重要な、「日本とは何か」という情報

Amazon 情報を読む技術

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