出口王仁三郎の共産主義
↓みろくの世を象徴する耀わんのクローズアップ
昨日も書いたとおり、最近の私は共産主義にアレルギーを起こさなくなりました。多少は大人になったのでしょうか(笑)。
いや、だからと言って、いわゆる左翼的な思想を持ち始めたということではありません。相変わらず私は「ソフトな右派」を標榜しています。
しかし、これも実は名刺代わりのようなもので、私の実体を示す言葉ではありません。
ちなみに私の友人は世間では「アカ」扱いされていますが、彼自身を知れば知るほど、この人はものすごく右翼的だなと感じます。ご自身もそんな自分の本質をよく知っていて、それでバランスを取るためにマルクス主義を勉強したと言います。
その気持ちよく分かります。というか、私はその逆なのかもしれません。本質的に、性善説に基づく平和主義、平等主義に走りすぎる傾向があるので、表面上は勇ましいことを言ってバランスを取っているのかもしれません。
しかし、こういう感性というのは、教育によって植え付けられた二元論によって生まれてくるものであって、本来はそれが渾然一体となった「何か」なのかもしれないとも思うのです。
つまり、いわゆる右も左も、タカもハトも、資本も共産も、個人も社会も、どれも完全には排除できない実感として我が身の中に存在する予感がするのです。かと言って、妥協的な中道(またはリベラル左派)でもない。
まあ、当然と言えば当然ですよね。たとえば今の政治状況で言うならば、外国という他者との関係性によって日本という自己を確立していかねばならないわけですから、理想に走ってばかりはいられません。話せば分かる相手ばかりではないからです。
で、そういう現実論を全て捨て去って理想論のみを語ろうとすると、私は出口王仁三郎の思想に到達するわけです。
細かいことは書きませんが、王仁三郎は戦後、米ロの戦いはロシアが勝ち、世界で社会主義革命が起きるというようなことを言っています。米ロの戦いが武力的な戦争を指すものとはかぎりません。王仁三郎が一貫して資本主義の限界、カネ本位の危うさを論じているところからも、経済システムとしての戦いのことを指しているのかもしれません。
王仁三郎によれば、資本主義から社会主義、そして共産主義へ、すなわち財産所有の形態が私有から国有へ、そして共有へという方向に動き、さらに究極的には「神有」になるということです。
当然こうした思想には、戦前のマルクス主義運動の影響を感じることができるわけですが、王仁三郎らしいのは、その先の先まで想定したということですね。それもキリスト教共産主義のレベルとは違う発想で。
国家も宗教もない大家族主義的共同社会と言うと、荒唐無稽の理想論、あるいはいかにも宗教的な夢想だと一笑に付されるにちがいありません。しかし、私はそういう夢物語を頭のてっぺんにおいて、現実に対応していきたいのです。
所有を完全に放棄するという意味では、仏教の思想もそれに通じています。仏教では偶像としての「神」を想定しませんが、王仁三郎の「神」観は「真理」の比喩であるとも言えますから、私の中では両者は自然に共存しえます。
では、来る選挙ではどうするのか。これは政治という現実の問題ですからね。理想という未来のために、現実という現在を選択したいと思っています。
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