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2012.09.30

『指揮者の知恵』 藤野栄介 (学研新書)

05404701 常に示唆に富む本。音楽に携わっている人間のみならず、多くの方に読んでいただきたい。
 8月、安倍晋三さんのお話を聞いた日に演奏を聴き、ほんの少しですがお話をさせていただいた指揮者の藤野栄介さんの著書です。
 本当にあの日は様々な一期一会がありました。こういうとなんですが、霊的な邂逅というか、なかなか言葉や理屈では説明できない「予感」を多く抱くことができた一日でした。
 おととい、「時間は未来から過去へと流れている」という記事を書きました。あの日の「予感」というのも、そういった時間軸内で起きる現象(実感)だと思います。
 仏教的に言えば、未来に「因」の存在を予感し、そのために自らの行動が変わって「縁」を生み、実際に「果」となるということでしょうか。
 そういう意味では、藤野さんにもある種の「予感」を抱いたと言えます。当日奏でられた音楽への共感はもちろん、彼が王仁三郎に興味を持っているということにも当然共感いたしました。
 考えてみれば、音楽という芸術の存在自体、時空を超えた霊的な現象ですし、指揮という行為も、無から有を生み出す、それも未来の完成像を想像しつつ現在の刹那を創造していくという、ある種霊的なものです。少なくとも「科学」や「技術」の領域ではないことは、この本でも繰り返されていますね。
 私もいちおういくつかのオーケストラのメンバーとして演奏する演奏家でもあり、また、本当にたまにですが、指揮のまねごとをしたり、あるいはバンドのリーダーとして演奏を引っ張ったり、また、クラブ活動では学生の弦楽オーケストラを指導する立場であります。
 ですから、藤野さんの一つ一つの言葉に、深く頷くことができましたし、あるいは実感を言語化していただくことによって新たな発見もさせていただきました。
 しかし、ここに書かれていることは、音楽のみならず、本当に多くの分野に、いや人生全体にも当てはまることばかりですね。
 特に人間相手の仕事というのは、基本そのように「霊的(非科学的)」なものなのです。教育ももちろんそうです。技術やマニュアルも必要だけれども、それだけではどうしようもない。
 藤野さんは指揮という仕事について「演奏家の中にある音楽に対する誠実さを引き出す」という表現をされていますが、これはあらゆるプロデューサー、ディレクター的な仕事に共通している大切な目的です。私たち教師も常にそこを意識しなければなりません。人間の中にある人生に対する誠実さを引き出す。
 そして、最後のページに書かれていたことは、人生論や芸術論を超えて、もっともっと普遍的な一種の哲学、宗教論のようでした。私は非常に強く共感し首肯しました。

「不完全さの中にこそ自分の使命があることを理解する」
「世界が常に不完全であることに感謝する」

 近いうちに藤野さんと再会し、いろいろとお話をしようと思います。素晴らしい本をありがとうございました。

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2012.09.29

「Google play ブックス」で稀覯本を読む

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 りがたい時代になりました。反面、一般書店や古書店には辛い時代の到来です。
 教え子に地元の書店の社長をやってるのがいて、この前もこれからのリアル書店の在り方について相談に来ました。
 こういうヴァーチャルやグローバルの時代だからこそ、リアルやローカルに価値が生まれるから、それを逃さないようにとの、まあ当たり前なアドバイスしかできませんでした。
 私も「紙の本」や「街の本屋さん」にある種のこだわりを持ちつつ、しかし一方では、先日の紹介したkobo Touchで電子書籍をけっこう楽しんだりしています(明らかに読書時間が長くなった)。
 そして、25日、あのGoogleも日本の電子書籍市場に乗り込んできました。もうこの流れは避けられないでしょうね。
 昨日の「時間論」風に言うなら、私たちが「本屋に行かなくても本を手に入れたい。数千冊を一つのデバイスに詰め込んで携帯したい」という未来を想像し設計したので、それがこちら(現在)に流れてきたというわけです。
 つまり、未来を妄想した時点で運命が決せられたということですね。妄想したのは過去ですから、常識的な時間軸では過去から現在に向かっての因果関係を想像しがちですが、妄想自体はこの世に実在していなかったわけですから、物理的には因果関係を構築することができません。
 逆に、過去の我々の脳内で、時間を先取りして未来に種を蒔いたと考えるのが、未来→現在→過去という流れを想定した時間論です。
 これはもしかすると人間だけに許された世界観ではなく、生物の進化全体に言えることなのかもしれません。そうだとすると、進化論の意味も大きく変わらざるを得ません。
 おっとスケールが大きくなりすぎた。時間論の話は置いておいてですね、「Google play ブックス」ですよ。これが他の電子書籍サービスと大きく違う点は、稀覯本が無料で読めるところです。
 これは驚きでした。たしかにGoogleは著作権の切れた書籍の丸ごとスキャン(データ化・インデックス化・コト化)を進めていますが、こうしてそれらを書店に並べちゃうとは思っていませんでした。
 上の写真をclickしてみてください。私の「マイブック」すなわち書棚です。
 はっきり言って、古書店でこれらを全部購入したら数十万円になっちゃいますよ。もう買っちゃったのもあるし…。あるいは古書店では手に入らなかったものもある。初めて知った重要書籍もある。
 これは本当に驚きでした。こんなマニアックな本までスキャンしてるのかよ!
 私の進めている富士北麓の歴史や伝説の研究にとって、こんなに貴重な情報源はありません。今までほとんどのものには目を通してきたつもりだったのですが、いきなりこうして地元の図書館にもないような本がザクザク出てきた。
 まさに、「過去」が「未来」からやってきたという感じです。過去の本があの世から復活したという意味もありますが、その内容がまた案外未来的でして、温故知新の意味をも再発見させていただいています。
 普段Googleの「静かなる暴力」に批判的なワタクシも、ついつい感謝してしまいました(笑)。
 皆さんも興味あるキーワードで検索してみてください。全く意外な出会いがあるに違いありません。

Google play ブックス

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2012.09.28

時間は未来から過去へと流れている

Imgres 日の荒川修作の三鷹天命反転住宅の話や、安倍晋三さんの再登板の話の続きをいたしましょう。一見関係ないかと思われるでしょうが、実は根本のところで同じ話をします。
 皆さんは「時間」は過去から未来に向かって流れていると思っていませんか?
 なんとなくそのように考える、感じるのが我々にとっての常識となっています。たぶん、どこかでそう言語化されたコトをそのまま受け入れているのでしょう。
 私は幼い頃から、どうもその考え方は実感と違うなと思っていました。なぜなら、「現在」だと思ったこの刹那はすぐに「過去」になってしまうし、明日は楽しみなテレビ番組があると言ってワクワクして待っていたその「未来」が、すぐにここ(現在)にやってきて、そしていつの間にかその番組は終わってしまって、「過去」になってしまうという実感を重ねてきたからです。
 それはもちろん、私だけに特殊なことではなく、たぶん全ての人間に共通の普遍的な感覚だと思います。
 つまり、どう考えても、時間という川は、未来から現在、そして過去へと流れているとしかイメージできなかったのです。ですから、時間は過去から未来へ流れていると言われると、なんだか違和感を抱かざるを得なかった。
 おそらく、そのような常識は、言語とともに、時計という機械の性質と機能によって固定化されたものだと思われます。
 時計の針は過去から現在、そして未来へと進んでいくように設計されています。つまり、私たちは、時計の針の動きが「時間の動き」だと勘違いしてしまっているわけです。
 しかし、ちょっと考えれば分かるとおり(相対性理論を持ち出さずとも)、針が止まっているとすれば、文字盤が未来から過去へと(すなわち反時計回り)に回転しているとも言えますよね。
 実はそういう視点の方が正しい。コペルニクスの地動説(太陽中心説)が正しかったがごとく、いや、イメージ的には反対なのかな…自分が動かない針であって、文字盤の動きこそが時間の流れであると。
 私はのちに仏教をちょっとかじって知ったのですが、実は仏教の世界では、時間は未来から過去へ流れているというのが常識だったようです。最近では、苫米地英人さんがアビダルマの解釈をすることによって、この説(考え方)を紹介していますね。
 お釈迦様というスーパーマンの助けを得て、私は子どもの頃に抱いた自分の実感に自信をもつことができました。やっぱり間違っていなかったと。
 ただ、私は頭が良くないので、同じく仏教でいうところの「因果」ということを考えると、ちょっと分からなくなるところもあります。原因と結果の時間軸は、経験的にどうしても「過去→現在→未来」となってしまうからです。
 しかし、最近はようやくその「因果」関係も自らの実感と矛盾しなくなってきました。
 すなわち、未来に原因があって、それが現在の結果を生み、いずれそれが過去の事実となっていくということです。
 私たちはどうしても「因果関係」というと、科学的なものの見方から、過去の物理現象が連続的に次の現象を起こしていくとして理解しがちです。
 しかし、一方で、もしそうだとしたら、私たちの運命はすでに科学的に決定されており、なんとも言えない味気なさを感じてしまうのも事実ではないでしょうか。
 それでも私たちが生きていられるのは、やはり未来が不可知であり、不随意であり、変形可能な「モノ」であるからだと思います。つまり、私たちは、科学的な因果関係とは別の因果関係が、どこかにあると予感しているのではないでしょうか。
 私は、それこそが「もののあはれ」の本質だと思います。過去の因果にとらわれていると思っていたら、実はそういうわけではなく、私たちの意思によって未来は変えられる、そういう一方の「真理」に対する嘆息こそが「モノ(霊)のアハレ(Aha)」なのではないでしょうか。
 昨日の話と結びつけますと、我々は「コト」になってしまうと死んでしまいます。死ぬとコト(不変な情報)になってしまうとも言い換えられます。
 時の流れに身をまかせるということは、実は文字盤にはりついて、過去に流されていくということです。つまり、死んでしまうということ。
 逆に言うと、私たちは時計の針となって、ずんずん流れに逆らって歩いて行く、いや実際には流れに抵抗して立ち続けるのかもしれませんね、いずれにしても、時の流れに身をまかせないことこそが、私たちが生きているモノでいられる唯一の方法なのではないでしょうか。
 そういう意味では、昨日書いたように、過去の自分の経験や他人の経験の集合たる常識にとらわれて、自分はもうダメだとか、こういう人間だからとか、どうせ世の中はとか、そういうふうに勝手に自他を決めつける(コト化する)と、もう私たちは実際には死んでしまっていることになります。
 そういう人には、きっと科学的因果関係しか起きません。それは実に味気ない人生です。
 だから、私は、過去よりも未来にこだわりたいのです。妄想や見果てぬ夢だと言われても大いに結構です。実際、私はそうして現在を切り拓いてきましたから。未来に種をまいて、今に開花させようとしているというわけです。
 そうすると、過去の失敗をクヨクヨしたりすることは全くなくなりますし、他者や社会が自分に及ぼしたマイナスの(と一般的には思われる)影響も、ただ未来に原因を描くための材料でしかなくなります。
 よりよい未来の自分、よりよい未来の世の中を妄想すればするほど、現在や近未来にやるべきことが見えてきます。そこに、もうすでに立派な因果関係が成り立っていますね。未来が原因で現在が結果。
 この時間論については、もう少し語りたいことがありますが、今日このへんにしておきます。
 もし、この話を読んで、あなたの人生にコペルニクス的転回が起こりましたら、この上ない喜びですね(と、今も私は他者と自己の未来を妄想しています…笑)。

続編良き未来をイメージせよ。
 日本語に見る「古来の日本の時間観」
 和時計に見る「古来の日本の時間観」


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2012.09.27

三鷹天命反転住宅

Tour 高の生徒募集に関わる行事がめじろ押しです。今日も小学校の校長先生対象の説明会を行いました。
 その中でワタクシの「死なない力」論を少し披瀝させていただきました。どのように受け取られたでしょうか。
 さて、「死なない」で思い出したのが、三鷹天命反転住宅です。ご存知、荒川修作とマドリン・ギンズによる建築を超えた建築ですね。
 いわゆる建築学の見地さえも拒否してしまうこの奇想天外なオブジェは、「死なない」ための住宅というコンセプトで創造されました。
 身体に合わせた住宅ではなく、身体の可能性を開発する住宅。身体が開発されれば、魂も開発される。自分の知らない自分が生まれる。それこそが「死なない」なのだと思います。
 これはよく理解できる。ワタクシの「モノ・コト論」で言うなら、言語(社会的常識)で記述(解釈)された時点で、私たちもこの世も死んでしまう。つまり、「コト化」され、情報化されるということは、死ぬということなのです。生き物は死んで初めて恒常になる。
 逆に「モノ」は生き続けている。「モノ」とは無常を表す言葉だからです。「もののあはれ」とは、無常に対する嘆声です。生きているということは無常なのです。
 実は最も情報化しやすいのは「自分」です。皆さん、自分のことはよく分かっているつもりでしょう。そう、そうして我々は自身を情報化して操ろうとするわけです。
 そういう意味では、大人になるとは、すなわち死ぬこととも言えます。自分を諦めている状態。自分の可能性というか可塑性をあえて無視している状態。
 そんな大人や、その集合としての社会に対するアンチテーゼがこの三鷹天命反転住宅です。
 一般的には、建築(住宅)という「箱」は、私たちに対する名付けのような機能をはたします。学校なんかその最たるものです。どんどん名付けられて、言語化されて、箱詰めされて、そうして死んでいく。
 昔の子どもは家で遊んだりしなかった。家は寝る、すなわち死ぬ場所でした。
 青年期もみんな家出を画策しました。コト化へのせめてもの抵抗です。
 それが、今はどうでしょう。子どもから大人まで、みんな死んでいる。家を出ても、そこには規格化された、アウトドアライフしかありません。地球自体が大きな建築の様相を呈しています。
 じゃあ、どうしようか。逆説的に、住宅の中でモノ性を取り戻したらどうかと。
 荒川さんがおっしゃるように、バリアフリー住宅は、どんどんお年寄りや障害者の可能性を削り取っていきます。バリアフル住宅の方がずっと可能性がある。いつも私が言っているとおり、教育の世界においても、バリアは成長を促す大切な存在です。
 世の中が、安全、安心ばかりを求めると、どんどんバリアフリーになって、我々は死んでいくわけです。
 荒川修作さん、2年前に亡くなってしまいましたが、やはり死なないでここにこうしていますよね。
 なるほど、死なない方法というのはやはりあるのだなあ。そんなことをあらためて感じます。
 私も死なないで生きるために、一度、この三鷹天命反転住宅で、自分が天命と思っているコトをひっくり返してみたいと思います。
 家族で一泊してみようかな。いろいろなイベントがあるので、ぜひ下の公式ホームページからご覧ください。
 不自由が自由を生む。ヘレン・ケラーの体現したがごとく。
 
三鷹天命反転住宅 公式

Amazon 三鷹天命反転住宅 ヘレン・ケラーのために―荒川修作+マドリン・ギンズの死に抗する建築

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2012.09.26

安倍晋三さん自民党総裁に…いよいよ「不二の仕組」発動

285963p 援していた安倍さんが見事、自民党総裁に返り咲きました。おめでとうございます。
 この8月に始まった、私自身と安倍さんとのご縁、すなわち応援しようと思ったきっかけについては、次の三つの記事をご覧ください。
正しい「雄々しさ」と「女々しさ」
安倍昭恵さん来訪
『約束の日 安倍晋三試論』
 ある意味では私の予想が的中したということになりますが、今回の結果は、もちろん私がどうのこうのというわけではなく、ここ富士山を中心とした「不二の仕組」がいよいよ発動したということ現れにほかならないと思っています。
 安倍さんご夫妻は本当に富士山がお好きだと言います。ご夫婦でよく我が家の近所においでになっています。「美しい日本」の象徴である富士山。高い志の象徴富士山。「厳(いづ)」と「瑞(みづ)」の象徴富士山。
 前回首相をなさった時には、富士山の地元に迷惑をかけるということで、なかなかこちらにはいらっしゃれなかったとのこと。次回はぜひ富士山で組閣や政策検討をと申し上げておきました。富士山の力を借りましょうと。
 そんなふうに富士山に縁の深い安倍晋三さんの再出発を喜んでか、今日の富士山はいつにない格別な姿を見せてくれました。
 昨日に続き、美しく霊妙な富士山とそれを取り巻く自然の不思議をご覧いただきます。

 安倍さんの当選が決定した瞬間の空です。富士山上空に玉を抱いた龍体が出現しました。

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 夕刻、次第に空が染まりだしました。

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 気の流れを感じますね。

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 東には月も昇っています。

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 次第に茜色に染まってきました。

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 めったに見られない色合いですね。ため息が出ます。

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 昼と夜、陽と陰のはざまに富士山が屹立します。

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 夕闇迫るこの時間帯の富士山と雲も実は魅力的です。

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 安倍さんご夫妻がしっかりお役目を果たされることを期待し、また、富士山のように美しく力強い日本と日本人が復活することをお祈りしたいと思います。自分も心して働かせていただきます。

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2012.09.25

富士山の破れ笠雲(リング雲)

 日は久しぶりに富士山と雲の写真を載せましょう。珍しい雲が出ていたので。
 富士山と雲と言えば、7月の「見事な吊るし雲」はすごかったですね。竜の巣のようでした。
 今日の雲も、富士山とそこにぶつかる西風によってできたものです。笠雲の一種と言ってよいでしょう。
 まずはご覧ください。16時30分ごろ、富士吉田から撮影しました。

Gedc4126

 笠雲の笠のてっぺんが破れて頭が出ちゃったような状態ですね。こういう雲が出るのは珍しい。とりあえず「破れ笠雲(リング雲)」と書きましたが、正式名称はありません。それくらい珍しいということです。
 アップしてみましょう。

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 こんどは思いっきり引いてみます。ちなみにカメラはこちら

Gedc4130


 また少しずつアップしていきます。数分のうちに微妙に形が変わっています。

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 富士山に龍が数匹巻き付いているようにも見えますね。ちょっとピントが甘いか。

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 最大限にアップしてみましょう。ディテールも素晴らしい造形になっています。

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 富士山を巡る自然の造形には、本当に毎日感動させられます。これらに触れて「神」を感じない人はいないでしょう。
 そうした人間に根源的な感覚を磨き続けられる環境に生活していることに感謝です。

 

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2012.09.24

追悼 諏訪根自子

Images 訪根自子さんが今年3月に亡くなっていたとのニュースが。92歳。
 私が根自子さんを知ったのは、1981年のバッハの無伴奏の録音を通じてでした。当時高校2年生だった私はバリバリにヴァイオリンを練習していた時期で、いわゆる若気の至りでバッハの無伴奏パルティータとソナタに無謀にも挑戦しており(今は全く弾く気がしません)、いろいろな録音を集めてもいました。
 ちょうどクレーメルの衝撃的な旧盤やクイケンのバロック・ヴァイオリンによる旧盤が出た頃でしょうかね。あの頃ってバッハの無伴奏ブームだったのでしょうか。
Imgres そこに登場したのが、伝説の美少女ヴァイオリニスト諏訪根自子による久々の録音だったわけです。
 私もなけなしのお小遣いを数カ月分投入して3枚組のLPレコードを購入しました。今でも地下室に眠っています。
 演奏自体は、その頃の私が望んだクオリティやセンスではありませんでした。しかし、クレーメルやクイケンのような、ある意味時代の先端を行く新解釈合戦の中において、19世紀の香りさえ残した歴史的なスタイルの演奏は新鮮でさえあったことを思い出します。
 というか、屈折した思春期を送っていたワタクシとしてはですね、音楽よりも根自子さんの若かりし頃の写真に萌えていたかもしれません(笑)。いや、なんというか、あの頃の日本の美女って、妙に神秘的じゃないですか。妄想世界で憧れちゃいましたね。
23violinarticlelarge 実際、ヨーロッパに行っても、東洋人のあの神秘的な美貌は大変な魅力だったようで、なななんと、ナチスドイツの宣伝相ゲッベルスから名器ストラディバリウスを贈られたり、大変な厚遇を受けました。
 てか、ゲッベルスからストラディバリウスをプレゼントされるって…ちょっと、いやかなり凄まじいことですよね。すごすきます。
 そうだなあ、それこそずいぶん聞いてないから、久しぶりに引っ張り出してこようかなあ。今だったらまた違った聴き方ができるような予感がします。
 YouTubeに彼女が12歳の時の録音がいくつかありました。神童、天才少女と言われてしかるべき堂々たる演奏ですね。
 ちなみに子ども頃の根自子さんは、オノ・ヨーコのおばさん、小野アンナに師事していました。

 タイミングよく、「美貌なれ昭和」の一部がアップされていました。彼女も戦争に翻弄されたわけですね。
 戦後の日本、特に最近の日本をどのように感じていらしたのでしょうか。


↓バッハの無伴奏はなんと「エヴァ」のアルバムで試聴できます。
Amazon エヴァンゲリオン・クラシック4 バッハ


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2012.09.23

おめでとう! 日馬富士

20120924_65951 晴らしい闘魂でした。
 表彰で土俵に上がった野田首相が「本当に久しぶりに、死力を尽くした鳥肌の立つような相撲を見ることができた」と言っていましたが、たしかにそのとおり。ま、そういう姿勢、闘魂を、野田さん自身に期待してしまいますが…(苦笑)。
 あの巻き替えのタイミングは見事でした。あれは勇気のいる判断です。もしかすると絶好調の白鵬なら、あそこで一気に寄り立てたかもしれませんね。
 いずれにせよ、あの体勢から自らを有利にするためには、いつか巻き替えにいかなければなりません。それを躊躇していたり、タイミングをはかっていたら、白鵬の攻めに屈していたことでしょう。あの迷いのない巻き替えの成功によって、今回の綱とりが実現したと言っていいくらい、まさに一瞬で運命が決まったというシーンでした。
 それから、徹底した下手投げ。あれをあれだけ連続して仕掛けるのは、体力的な問題だけでなく、精神的な面でかなりきついことだと思います。それをやり遂げた日馬富士は立派です。心の勝利ですね。
Void0 相撲内容も良かったのですが、勝ったあとがまた良かったですね。土俵にキス…ではありませんが、額をつけて、土と交流していました。いわく「土俵の神様に感謝した」と。
 神事としての相撲をよく理解しているのでしょう。
 また、インタビューで両親や周囲の人々への感謝の気持ちを純粋に語っていたところも良かった。そして、「これからも感動と勇気と希望を与える相撲を取り続けたい」という言葉、いいじゃないですか。それを外国人力士が迷いなく流暢な日本語で語る…なんとも複雑な気持ちにさえなってしまいました。
 君が代もしっかり歌っていたし、ちょっと、日本人しっかりしようよ、と思わずにいられませんでしたね。
 モンゴルと日本の関係は悪くありません。これからもお互いに親愛や尊敬の念を持っていたいですね。
 考えてみれば、特定アジア人力士というのは聞きませんね。ま、靖国で奉納相撲や土俵入りしているくらいですから、頼んでも来ないでしょうが。
 ところで、今回日馬富士が横綱昇進を決めたのをきっかけに、白鵬は近く引退するかもしれませんね。本人の気持ちは固まっているのではないでしょうか。ただ、協会がどう判断するか。稀勢の里と日馬富士の両横綱時代を企図していたのに、稀勢の里があまりに不甲斐無いので。平成25年は日本人力士の活躍に期待しましょう。
 相撲の危機は日本の危機。本場所が中止になってあの大震災が起きたということは記憶にとどめておかねばなりません。単なる偶然ではないと思います。いや、単純な因果関係ということではなありませんよ。大きな流れの中で相互に関係した事象だということです。
 逆に言えば、相撲の復活は日本の復活だと思います。期待するとともに、我々国民もそういう雰囲気を醸成していきましょう。
 


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2012.09.22

新しいiPad(第3世代)

20120923_184804 日、新しいiPadを買いました。新しい…というのは、古いのを持っていて買い換えたという意味ではなく、「新しいiPad」という製品を買ったということです。
 ただし、これは私のモノではありません。敬老の日に合わせて両親に買ってあげたということです。いや、買ってあげたというのもまた、お金を出して買ってあげたという意味ではなく、代わりに買いに行ってくれと言われたので、買ってきてあげたということです。
 80過ぎた親父は、顔やキャラに似合わずずっとMac使いでして、ここ数年は白いMacBookを使っていたんですよね。
 あっそうそう、これこれ。iBookをジョキジョキ切り刻んだあのオヤジですよ(笑)。
 その時、つまり4年前に買ったMacBook白が、なんだか調子が悪いという。電話でその症状を聞くかぎり、けっこう重症のようだったので、じゃあ、もういっそのことiPadにしたら?老人にはぴったりだよ…ということで、実家に帰る道すがら、「新しいiPad」を買っていったというわけです。
 で、MacBookがどんな具合か見てみたら、なんだ、ただ、トラックパッドが調子悪いだけじゃん!てか、親父、何をするにも力入れすぎでして、トラックパッドも陥没させちゃったらしい(笑)。
 ちょっといじったら直ったので、MacBookは私がもらうこととしました。最近、我が家のMacBookの取り合いが激しいので、ちょうどいいや。ラッキー!w
Img_5621 というわけで、私も初めてiPadをゆっくりいじってみました。両親もさすがにすぐにマスターしたようです。たしかにシンプルだし、使っていて楽しい。MacBookより何かと便利で使いやすいらしく、老人たちも喜んでいました。
 前、こちらに書いたように、私にとってはこのサイズは大きすぎますが、しかし、お年寄りがウチで使うには、ちょうどいいようですね。
 親としては、息子のこの駄ブログを読んだり、ちょっとした調べ物をしたり、写真を眺めたり、そんな使い方しかしないようですから、この大きさはちょうど良いのかもしれません。
Img_5623 ただ、本のように手に持って使っていると、けっこう重くて疲れるとのこと。そうかもなあ。母親がさっそく写真立てを持ってきて、そこに立てかけて使っていました。これはなかなかいいかも。和風というか、アナログ的だし(笑)。
 結局、パソコンの専門的な操作性に抵抗のあった、子どもやお年寄り、そして障害者の方には、従来のハードルを下げるデバイスとなるでしょうね。バリアフリーな製品、つまり一時期言われたデジタルデバイドの解決に有効な製品と言えるかもしれません。
 そんなこんなで、みんなでワイワイやってたんですが、気がついたら、テーブルの上に、Mac、iPad、iPhone、iPod、そしてkobo、向こうにはテレビと、家族がそれぞれ別々のディスプレイを見ていた…変な時代になりましたね。
 しかしですね、平安時代にはですね、いわゆる「書=本」が新しい「デバイス」「ディスプレイ」として登場したんですよね。
 更級日記の主人公なんか、女子中学生(?)の時、源氏物語という「マザコン・ロリコン・ナンパ・誘拐・監禁・飼育・近親相姦・ロイヤルファミリースキャンダル・(ちょっと)ゲイ…」という現代のネット世界やゲーム世界、コミック世界、アニメ世界もたじたじの妄想空間にはまっちゃって、本というディスプレイばかり眺めているんで、親はじめ周りの大人たちに心配されまくってましたからね(笑)。
 今も昔も変わらないと言えば変わらない。「ゲームばっかりやってないで本を読みなさい!」というのもまた、よく考えてみると変な説教なのかもしれませんね。昔の人からすると、映像世界の方がずっと自然に見えるのかも?
 活字世界が高尚で健全だとは言い切れないよなあ。誰もそんなこと証明してないし。極度に抽象度の高い記号世界を黙読している方がずっと怪しかったりして…と、読書の苦手な私は、iPadを操る両親を眺めながら思うのでした。

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2012.09.21

富士学苑中学・高校 ジャズバンド部 第10回リサイタル

20120921_182129 が中学・高校のジャズバンド部「Moon Inlet Sounds Orchestra」の第10回記念リサイタルに行って来ました。
 10年の歴史を支えてきたOB・OGを交えた素晴らしい演奏を聴かせてくれました。楽しむとともにいろいろな感慨が胸に迫ってきました。生きた音楽には、こうして時を凝縮する力がありますよね。それを再確認しました。
 このバンドについては今までもたくさん書いてきましたね。私も彼らのおかげで非常に楽しい音楽生活を送らせていただいてきました。
 もう10年ですか。早いですね。しかし、とても濃い10年でもありました。この間のこのバンドの活躍はまさに目を瞠るものがありました。
 私は以前、このジャズバンドの前身であったブラスバンド部の顧問をしていたことがあります。その頃は全く鳴かず飛ばずの弱体クラブでしたが、今では日本を代表するビッグバンドの一つとなっています。
 その転機となったあるコンサートの日のことをはっきり覚えています。現ジャズバンド部顧問の大森長彦先生との出会いの日です。
 理事長先生と一緒に大森先生の前任校のコンサートを聴きに行ったんですよね。その時すでに理事長先生にはプランがあったのでしょう。私は純粋に学生ジャズの楽しさを初体験した喜びに浸ったのを思い出します。10年後にこれほどのことになろうとは想像すらしていませんでした。
 演奏技術やエンターテインメント性の向上はもちろんのこと、音楽を通じての生きた教育を実感させてもらったのも、私にとっては大きいことでした。自分の人生の中で、音楽と教育は大きな柱ではありますが、正直それが有機的に結びついていなかったのです。そういう意味で、私にとってもいい勉強をさせていただいた10年間だったと思います。
20120921_202448 昨日、プロのビッグバンドの危機の話を書きましたが、一方でこうした学生ビッグバンドは、ある意味以前よりも盛んになっていると言えます。
 もちろんプロがプロとして自活できない状況は憂うべきことですけれども、一方で、こうして子どもたちの中に浸透し、商業とは別のところでジャズが生きているというのは、決して悪いことではありませんね。
 ジャズにおける自由と自発性と、ある種の反抗心のようなもの、つまりチャレンジ精神は、実は商業的な世界とは別次元に生きるべきものであり、子どもの世界と親和性があってしかるべきものなのです。
 ですから、プロの衰退とアマチュアの活性化は、ジャズの正しい進化の過程であるとも言えるのではないでしょうか。今日、10代から20代の彼ら彼女らの演奏を聴きながら、そんなことを思いました。
 逆に言えば、学生のジャズはこうでなければいけないなと。いつも苦言を呈しているように、一部の(大部分の?)大学生バンドのように、コンペのための硬直化した音楽になってはいけないなと。
 このジャズの自由と自発性と挑戦は、音楽のみならず、教育のあらゆる場面で重要視しなければなりませんね。私たち全ての教師は、それらをしっかり引き出し伸ばすべくプロデュースしていくべきなのです。
 今回のリサイタルで高校3年生の6人はとりあえず引退となります。毎年のことですが、こうして成長して飛び立っていく生徒たちを見ると、時の流れを感じますし、はたして自分はどうなのかなと、いつも自問自答させられます。
 また、今年は中学の1期生二人の部員が3年生になり、今までにない6年間の活動の折り返し地点に立つことになりました。クラブとしても新しいステージに立つということですね。今後が楽しみです。
 ワタクシ事ですが、今年からウチの娘もジャズバンド部の仲間に入れていただきました。今日もアンコールで尊敬すべき先輩たちに囲まれてベースを演奏しておりました。なんとも贅沢で幸せなことです。これからの5年間で、彼女もどんな体験をし、どんな成長をしてくれるか楽しみです。
 私も負けないように、さらに音楽ライフをエンジョイし、教育者としても成長していきたいと思います。
 生徒諸君、お疲れ様でした。そして、ありがとう!

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2012.09.20

高橋達也と東京ユニオンの「南京豆売り」

 日、我が中高のジャズバンド部のリサイタルがあります。浅草ジャズでグランプリを獲るなど、今や日本を代表する学生バンドの一つとなったムーン・インレット・サウンズ・オーケストラの10回目の記念リサイタルです。
 この10年での活躍は本当に素晴らしかった。ある意味では原信夫にシャープス・アンド・フラッツの解散を決意させてしまったくらい、日本のビッグバンド界に大きな影響を与えた…かもしれません。
 逆に言えば、プロのビッグバンドには非常に厳しい世の中になった10年とも言えます。かつて20以上あったプロのビッグバンドは今、おそらく一桁(もしかして片手で収まる?)になっているのではないかと思われます。
 森敏夫とブルーコーツ、見砂直照と東京キューバンボーイズ、宮間利行とニューハード、小野満とスウィングビーバーズ、スマイリー小原とスカイライナーズ、松岡直也とウィシング、岡本彰夫とゲイスターズ、高橋達也と東京ユニオン、原信夫とシャープスアンドフラッツ、三原綱木とニューブリード…。
 彼らが戦後のジャズ界のみならず、歌謡界など、音楽界全体を支えてきたのは言うまでもありませんね。しかし、音楽が極個人的なものになり、また電子的なものに変化(進化)した結果として、彼らビッグバンドの活躍の機会はどんどん減少してしまいました。
 そんな事情の中、消えてしまったビッグバンドの中でも、忘れられない存在の一つが「高橋達也と東京ユニオン」でしょう(高橋さんも4年前に亡くなってしまいました)。歌謡曲のバックバンドとしても大活躍でしたし、ジャズ界でもモントルー、モントレー両ジャズ・フェスティバルに出演するなど、国際的な評価も高いバンドでもありました。
 意外に彼らの残した音源は多くありませんが、今日はYouTubeで見つけたすごい演奏があったので紹介します。
 どちらかというと、ラテンよりも8ビート系を得意とした彼らですが、この Peanuts Vender はバリバリのアフロ・キューバン・ナンバー。このラッパ隊はすごい!このレベルの人たちが集まって、美空ひばりからアイドルまで伴奏していたわけですから、たしかに演奏面においても、日本の歌謡曲は世界中どこに出しても恥ずかしくないですね。
 職人的でもあり、芸術的でもあり、大衆的でもある。なんとも理想的な音楽世界が広がっています。では、どうぞ。

 あっそうだ、私の教え子のお父さんは、かつてこのバンドのメンバーとしてバリバリに演奏していたそうです。すごすぎ。どの人だろう。

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2012.09.19

コーヒーメーカー「CMK-720」 (アイリスオーヤマ)

4905009702145 日はコーヒーを飲みながら、軽い記事を。なにしろこれ、ホント「軽い」ので。
 7年前に買った中国製コーヒーメーカーがいよいよ壊れました。
 ま、けっこう持った方だと思いますよ。毎朝淹れてましたから、合計5000杯くらい飲んだでしょうか。お世話になりました。
 それほど続いている習慣ですので、機械が壊れたからといってやめるわけにもいきません。そこで、とりあえず安いコーヒーメーカーを買って急場をしのぐことにしました。
 よし、一番安いのを買おう!と意気込んで検索したら、なんと送料無料で1000円というとんでもない商品があることが判明。安物買いのプロもさすがにビックリ。
 ペーパーいらずのプラスチックフィルターというのも初めて経験します。はたして、ちゃんと飲めるコーヒーが入るのか。
 答。味は問題ありません。充分使えると思いますよ。
 使い勝手…と言ってもただ粉と水を入れるだけですが…それもまあまあでしょうか。なにしろプラスチック感満載なので、軽すぎて動きまわるのはちょっと困りますが。
 問題は耐久性でしょう。こりゃあさすがに7年持たないだろうなあ。7000円の中国製品が7年だから、この中国製品は1年でしょうかね。1年以上持ったら得したということで(笑)。
 一人暮らしの学生さんなんかにはいいんじゃないでしょうかね。1回で2杯分くらい淹れるのがいいでしょう。フィルターの大きさからして6杯分の粉を入れるのは無理ですし、保温の機能もそこまでの量のコーヒーには対応できないというのが、正直なところです(ぬるくなる)。
 ちなみに、コーヒーの粉ですが、以前紹介したこちらではなく、最近は同じMMCのキリマンジャロ・ブレンドにしています。
 1パック40円高いのですが、こちらの方が濃く出るので、結果として粉の量が少なくてすみ、安上がりだからです。コーヒー好きの方はこの粉もお試しください。

【送料無料】M.M.C. キリマンブレンド 500g(レギュラーコーヒー粉)10パックセット【MMC珈琲】...

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2012.09.18

『日本人の誇り』 藤原正彦 (文春文庫)

Img_1494365_62462186_0 日は満州事変の端緒となった柳条湖事件が起きた日。中国にとっては「国辱記念日」です。
 毎年この日になる反日デモが活発になります。今年は特にかしましい。ご存知のとおり、尖閣の一件のおかげですね。ああまたかという感じです。
 この「ああまたか」が始まってそろそろ一世紀になるでしょうか。先方がそういう作法の国だということを、そろそろ日本もしっかり学ばなければなりませんね。
 それを学ぶ「教科書」として優れているのがこの本です。
 先日、知り合いから「南京」のことを学ぶのにどんな本を読んだらいいかという質問を受け、あえてこの本を推薦しました。
 学校の「教科書」や世間一般の常識とこの本での常識とでバランスを取ると、ちょうどいいかなと思ったからです。
 柳条湖事件についても、なかなか興味深い記述がありますよ。日本にもいろいろ事情があったわけだし、帝国主義真っ盛りの当時としては、別に特別な行動、事件ではなかったと。
 藤原さんの歴史観は、日本人としては実に正当で穏当なものだと思います。アメリカやソ連(ロシア)を断罪し、中国や韓国(朝鮮)をさげすむというのは、戦後政治や戦後教育の裏返しとして、つまり、戦勝国とそれに伴う独立国から押し付けられた歴史観に反対するものとして、当然考えうることです。
 私たちが「日本人の誇り」を考える時、藤原さんの指摘するような、アメリカや中国や韓国の「誇り」を知ることは大切ですね。つまり、現在の日本人の思想と行動から、アメリカや中国や韓国の意図を引き算することによって、純粋な「日本人」や「日本」というのを想定することができると思うのです。
 そういう意味で、こういう保守側の視点というのは有用な情報になります。戦勝国や戦敗国や、その他帝国主義や植民地支配されたそれぞれの国の価値観の押し付け合いではなく、冷静に各国の立場と歴史と性質をとらえることこそ、今後重要になってくるでしょう。
 藤原さんは、アメリカやロシア、中国の特性を暴くとともに、日本の弱点をもしっかり指摘しています。お人好しで弱腰なところや、責任の所在が曖昧な点、謙虚すぎる点などです。
 「自虐」というのもある意味日本人の「性質」なのでしょうね。けっこうドMなのかもしれません(笑)。あるいは日本のマンガやアニメに見られるような悪者に対するシンパシーというものの裏返しとして、加害者、悪者気分に酔っているかもしれません。そういう願望があるんでしょうかね。ジャイアン願望というかバイキンマン願望というか。
 私も最近になって、自分の受けてきた教育、自分の施してきた教育における、アメリカ(GHQ)によるWGIP(罪意識扶植計画)の影響に興味を持ち、自分の得意分野である国語科を中心に研究をしていますが、これがなかなか複雑で難しい(面白い)のです。
 単純にアメリカに我々が洗脳されているともいいきれない部分もあるんですよね。ある意味ではアメリカの想定通りに行かなかったところもある。そこにこそ私は「日本的」「日本人的」な性質を見ています(詳しくはまたいつか書きます)。
 そのような自分の研究にとって、この本で最も有用だったのは、「過去の出来事を、当時の視点でなく、現代の視点で批判したり否定したりするのは無意味なことです」という言葉でしょう。これは肝に銘じて、研究、教育していきたいと思いました。
 「日本人の誇り」…それは一体何なのか。そして、これから世界で日本人はどう行動すべきなのか、その探求こそ、私の残された人生の課題になりそうです。

Amazon 日本人の誇り

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2012.09.17

「赤とんぼ」は盗作か?…山田耕筰とシューマン

 日は敬老の日。近くの老人ホームにて家族(+α)でお祝いの演奏をしてまいりました。夏に演奏させていただいた施設です。おかげ様で納涼祭の評判が大変よろしく、今回もう一度ということでお声かけいただきました。
 今日はデイサービスの方がほとんどだったので、基本前回と同じプログラム。またまた歌って踊って笑って泣いての大変充実した会となりました。何度も言いますが、歌の力ってすごい。
 ホント泣いてくださっている方多数、「もっと歌いたいよう」と言ってくださる方もいて、私たちとしてもうれしい限りでありました。
 さて、プログラムの途中、「秋の童謡・唱歌」を何曲か演奏しました。その中の1曲が「赤とんぼ」。演奏の、というかお年寄りの皆さんの様子をフラッシュ動画にしましたので、ぜひご覧(お聴き)ください。

赤とんぼ

 この山田耕筰によるメロディーは、日本人なら誰でも知っている、日本文化を代表するものですね。
 ところが!
 この旋律には、ある疑惑があるのです。有名な「赤とんぼ騒動」です。ご存知の方もいらっしゃるでしょう。
 この「疑惑」が明るみに出たのは、あの吉行淳之介の書いた文章がきっかけでした。「赤とんぼのメロディーは、シューマンの『ピアノと管絃楽のための序奏と協奏的アレグロ 作品134』に18回も出てくる」という内容の随筆です。
 それに石原慎太郎も呼応して「ドイツの友人によるとあれはドイツの古い民謡だ」と言い出したからさあ大変。山田耕筰自身も巻き込んで大騒動になりました。
 その辺の詳細については、ネット上にもたくさん情報があるので、検索してみてください。
 私は音源と楽譜で確認してみたいと思います。本当に「盗作」なのか?
 とにかく、シューマンの「ピアノと管絃楽のための序奏と協奏的アレグロ 作品134」を聴いてみましょうか。なんとも退屈な曲ですが(笑)。
 そう、退屈だ、早く核心に迫りたいという方は下の動画の3分30秒地点にジャンプ!

 うわっ!まんま「赤とんぼ」だ!…ですよね。
 その部分を楽譜で見てみましょう。まずはピアノで「赤とんぼ」の主題が提示されます。和声に埋もれてやや聞き取りにくいけれども、その後ご丁寧にフルートとクラリネットによって鮮明に奏でられます。
↓click!
20120916_191446

 アウフタクトの音を除いて、基本「赤とんぼ」前半と同じ音の並びですね。
 う〜む、これはさすがに…。
 山田がシューマンのこの曲を知っていてあえて流用した、というのは考えにくいですね。意識的「盗作」はないでしょう。
 可能性があるとすれば、どこかで(たとえば留学先のドイツで)シューマンの曲、あるいは元ネタとなった古民謡を聴いていて、無意識のうちに使ってしまったということでしょうか。作曲家にはよくあることです(というか、ほとんどの作曲作業はそれだとも言える)。
 たしかにロマン派は「ロマン」の表現技法として古いペンタトニックの作法を多用し、また実際の民謡の旋律を多数拝借していますから、シューマン自身による意識的「盗作」である可能性もあります。しかし、本当にドイツの民謡に「赤とんぼ」(?)があるのかは確認されていません。
 しかし、よく考えてみると、この「赤とんぼ」前半のメロディーは、ペンタトニック(四七抜き)としては特に特徴的というわけではありませんよね。ある意味自然発生しやすい流れです。つまり「事故」というか「偶然」の可能性も捨て切れません(案外その可能性が高いのでは)。
 音楽(特に楽譜に記録できる音楽)においては、これら「盗作」の危険性は時代とともに増すばかりです。音楽の歴史、進化というものは、実はその危険性との対決の結果であるとも言えるのです。その点、ロマン派なんかめっちゃ苦労してる感がありますよね(笑)。
 このようにいろいろと疑惑やら騒動やらがありましたが、「赤とんぼ」のメロディーはやはり世界に誇るべき名作だと私は思っています。しかし、その私の評価は、実は「前半」ではなく「後半」の魅力によるものなのです。
 「後半」を歌ってみてください。あの美しい抑揚、うねりは、まさに山田耕筰ならではのものです。シューマンには絶対に作れません。民謡として自然発生する可能性も低いでしょう。
 というわけで、私にとっては、「前半」が「盗作」であれ何であれ、「赤とんぼ」の価値は下がらないのであります。
 ついでに「赤とんぼ」のメロディーとアクセントの問題についても触れたいところですが(いちおう旋律とアクセントの関係論で卒論書きましたので)、長くなるのでまた後日。これについても、ネット上の説とは違う考え方をしております。
 

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2012.09.16

運動会の「万国旗」

Img_5581 日は村の小学校の運動会でした。いつもは土曜日に行われるため、仕事のある私はいつも最後の部分しか観ることができなかったのですが、今年は珍しく日曜日の開催ということで、全日参加できました。
 なぜ日曜日になったかというと、村の神社のお祭りが昨日の土曜日にあたっていて、こればかりは動かすわけにはいかなかったからです。
 つまり、「神事」が二日続けて行われたということですね。神事としての運動会については、こちらこちらに書きました。ご参照ください。
 しかし、今年の運動会はちょっと微妙な感じがしました。盛り上がりに欠けるというか。後に座っていたおばあさんも盛んにそう言っていました。
 今年はですね、まず応援席の席取りが実質的に禁止され、学年ごとに場所を指定されました。いつもなら仲の良い家や親戚が一つの大きなテントの下で盛り上がるのですが(大人は飲んで食って囃し役になる)、今年は結果としてバラバラ、ウチなんか夫婦二人だけで静かに観戦してましたよ。
 それから、なんでしょうかねえ、特に民主党政権になってから、学校現場の「軍国主義」「軍隊作法」というノスタルジーの部分が排除される傾向があるような…。まあ、時代に合わせているとも言えましょうが、ラジオ体操すらない(ポップな音楽に乗ったストレッチのみ)というのは、それこそ親や爺婆にとっては、なんだか寂しいかぎり。
 ご存知のとおり、運動会から「競争」的要素も排除されてきました。みんな一緒にゴールというのはさすがにないとはいえ、負けが個人の責任に還元されるような競技はほとんどありません。責任の所在がはっきりしないようになっています。
 それから危険な競技もどんどん少なくなっている。今年は騎馬戦さえもなくなってしまった。棒取り(棒引き)になっちゃった。これは危険回避というよりは、やっぱり「騎馬戦」という軍事的戦闘要素を排除した結果でしょうか。
 いずれにせよ、そこにはある種のドラマや、それに伴う感動や憐憫というものはありません。おそらく後のおばあさんはそんなところにも物足りなさを感じていたのではないでしょうか。
 教育の中の保守的な文化というのは難しい問題をはらんでいますけれども、やはり、世代を越えての共有、共感がないと、祭は盛り上がりませんよね。単なる競技会とは違うはずですから。
Gedc4104 さて、今日は、そんな運動会事情の中、なんとか生き残っている文化「万国旗」について書きましょうか。
 万国旗っていつ頃からあるのかご存知ですか。明治時代、国際化が進む中で、いわゆる万国博覧会に対する興味が、特に子どもたちの間で高まりました。
 昭和の私たちが宇宙開発に興味を持ったのと同じでしょう。知られざる外界に対して夢を見るのは、子どもの当然の特性ですよね。
 もちろん、そこには外国や宇宙に対する侵略なんていう発想はありません。あくまでも平和的な友愛世界を夢見ての興味です。
 日本の運動会はプチ軍事教練的な要素を持っていましたから、国の富国強兵政策と世界平和や共栄圏という発想を結びつけるのに万国旗は役立てられたのではないかと思われます。
 聞くところによると、最近では運動会で万国旗を張り巡らさない学校も増えつつあるとか。万国とは言え、実際には数十カ国の国旗のみが使用されているところから、そこに不公平が生じるという理由もあるのだそうです。
 ちなみにあの万国旗は20カ国5メートルで4000円くらいで販売されており、それを多数結びつけて使うというのが一般的なようです。
 今日見た万国旗にも国連の旗がありました。国旗じゃないんですが、やはり世界平和という思想が込められているのでしょうね。逆に国連に加盟していない国の旗はないのだとか。たしかに北朝鮮のはなかったな。
 運動会が終わって万国旗が降ろされました。係の人がそれを片付けているところに、いがぐり坊主の男の子が通りかかり、赤い旗が地面にあるのを見つけて、「中国め!」と言って踏んづけていたのには、ちょっと複雑な気持ちになりました(苦笑)。
 国旗を巡る様々な事件が報道されていますからね。あの子はちゃんとニュースを見てるんですね。
 万国旗が世界平和の象徴として日本中に張り巡らされることを願いたいと思いました。


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2012.09.15

いじめ問題親子討論会

20120915_110434 日は我が中学校のオープンスクール。恒例となりました親子討論会をしました。
 1年生は「親の願い、子の願い」というテーマで討論。普段なかなか言えない、あるいは感情的になってケンカになってしまうようなお互いの心のうちを冷静に語り合う機会としました。
 今年もまた涙あり笑いありの大変充実した会になりました。何が飛び出すか分かりませんが、それが面白い。こういう親子のバトルができる学校であるということを、外部の方にもアピールできたと思います。
 2・3年生は「いじめ問題」について親子で討論しました。こちらもいかにも本校らしい内容だったと思います。
 会に先立って私は「いじめをなくそう」「いじめはいけない」「いじめゼロ」「いじめられている人の気持ちになってみよう」「いじめを見たら止めよう」はあえて禁句としました。世間一般の結論は全てダメということです。
 そう、私は世間のいじめに対する感覚と対処は大いに間違っていると考えているのです。
 「いじめをなくそう」でいじめがなくなるなら、とっくになくなっているはずです。しかし、大人の社会も含めて世界中でいじめはなくなっていません。実はそこに終始するからいじめはなくならないのです。
 いじめの加害者に「いじめられている人の気持ちになってみろ!」というのもチャンチャラおかしい。言葉のイメージに酔わず、ちょっと考えてみれば分かるでしょう。いじめている人はいじめられている人の気持ちが分かっているからいじめるのです。相手の一番嫌がることをやっているのですから。いじめられている人の気持ちを一番理解しているのは、いじめている人なのです。
 「いじめを見たら止めよう」というのは、ある意味最も暴力的な言葉だと思います。これは絶対に強要してはいけません。自分を守るために「見て見ぬふり」をする権利は全ての人間にあります。その選択肢を奪うことに私は反対です。
 たぶん、世間一般の学校で、親子でいじめについて話し合うと、「いじめをなくそう」「いじめを見たら止めよう」ということを決議して、表面的に安心して終わることでしょう。
 そんな何の解決にもならないことにはしたくありませんでした。
 結果として、今日の討論会は素晴らしく充実したものとなったと思います。
 「いじめの定義」「いじめる側の気持ち・論理」「いじめられる側にある原因」「いじめを目撃した時どうするか」「いじめられた時自殺しないために身につけるべき強さとは」「いじめはなくなるか」…。
 ある意味、教室ではタブーとされる本音が続出しました。たとえば、生徒が挙手して、親や先生の前で堂々と「いじめを目撃したとして、そのいじめられている子が自分の嫌いな子だったら、いじめに加担する」と正直に言える学校があるでしょうか。
 ちなみに40人中「助ける」は3人。誰かに相談するも3人。加担するが2人、その他は見て見ぬふりでした。
 「いじめたくなる気持ち」や「いじめられる原因」という部分でもたくさんの意見や具体例が出ました。
 そして「いじめはなくなるか」という問いに対しては全員が「なくならない」と。
 これが現実でしょう。私の予想どおりです。この現実から出発でいいのです。そこを直視せず、善悪二元論に終始し、ただ偽善的なスローガンで満足しているから、根本的な解決にならないのです。
 私は最後のまとめでこういう話をしました。
 「誰もが、いじめる種、いじめられる種、いじめを見て見ぬふりする種を持っている。その事実に気づき、その種が発芽して生長して悪の花を咲かせないようにすることこそ重要」
 これは実は戦争の問題ともリンクしています。「戦争反対」「戦争をなくそう」と言っても、戦争はなくなりません。誰もが戦争に加担する種(可能性)を持っていることを直視し、それと戦わなくてはならない。いじめ問題も戦争や紛争の問題も、他人事ではなくまさに自分自身の問題の集合体なのです。
 いじめに関しては、論議の土台として、「いじめ」という言葉で全てを乱暴にくくってしまうことの問題もありますが、中学生にはそこは難しいかなと思い、今回はスルーしました。高校生くらいなら、そこを話し合ってもいいかもしれませんね。というか、大人、特に教員はそこから始めなければならないのに、どうもそれさえもなされていないように感じるのは私だけでしょうか。
 本校の裏スローガンである「死なない力を身につける」という意味でも、今日の討論会は実に有意義であったと思います。地震が来ても、富士山が噴火しても、いじめられても、経済が破綻しても、戦争が起きても、やっぱり死んではいけない。
 「いじめはなくならないが減らすことはできる」…生徒の一人がそう発言しました。これは上記の様々なピンチにも当てはまりますね。
 「生きる力=死なない力」を身につけるべく、今後とも生徒、保護者、教員が一体となり、勉強し、体験し、話し合って行きたいと思います。
 

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2012.09.14

加速する音楽(演奏)

初音ミクの消失

 、学校の弦楽合奏部でヘンデルの合奏協奏曲の練習をしています。作品6の12の2楽章です。
 初心者ばかりにしてはずいぶんと難しい曲ができるようになりました。中学生の伸びというのはすごいものですね。
 さて、生徒たちもそれぞれYouTubeで音源を見つけて家で聴いてはイメージトレーニングをしている…実際には楽譜が読み切れないので、音で曲を覚えようという魂胆らしい…のですが、なにしろいろいろな演奏がありすぎて、逆に迷いが生じるようです。
 違いと言えばやはりテンポでしょうね。モダンとピリオドでもずいぶん違いますが、やはり時代による変化というのはずいぶんと激しい。
 つまり、テンポがどんどん早くなっているんです。
 ポピュラー音楽でもそうですね。ロックもどんどん早くなりました。昔の曲のカバーはほとんど原曲より早くなりますよね。
 最近ではボカロにいかに早口で歌わせるかを競うような傾向もあります。人間の限界に達したので、今度は機械(データ)でということですかね。
 さすがに歌詞は聞き取れないし、カラオケでも歌えない(娘は毎日挑戦してますけど)。
 これは陸上のワールドレコードがどんどん更新されていくようなものです。もうこれくらいが限度だろうと思うと、いとも簡単に(ではないでしょうが)それを超えていく選手が現れる。
 しかし、それにも限度があることはなんとなく予想できますよね。その時代になったらオリンピックとか盛り上がるのかなあ…なんて心配してしまいます。
 その時代はもうすぐそこに来ているのかもしれません。あるいはその極点に達すると世界終わってリセットされるとか…なんて。
 おっとまた話がそれた。ええと、ヘンデルの早い方から聴いてもらいましょうか。オーストラリアの古楽器オーケストラです。演奏時間約10分。これはさすがに早すぎるな。これは行き過ぎでしょう。ヘンデルも苦笑しているのでは。これはスポーツに近い。
 

 続きまして、遅い方。演奏時間15分。つまり5割増し。5割遅いということですね。1947年ブッシュ兄弟による演奏です。こっちはさすがに遅すぎでしょう(笑)。これもまたヘンデルの苦笑が聞こえてきそうです。

 なんでこういうふうにテンポは早くなっていくんでしょうかね。ピッチも上がる傾向があるじゃないですか。
 なんというか、ほら、普通の自然の摂理を考えるなら、年月とともにスピードは落ちていくような気がしますよね。
 そうか、その摂理に抵抗するために、人間には加速系のプログラミングがされているのでしょうか。そんな気もしてきます。
 いずれにせよ、急いては事を仕損ずる、です。あんまりテンポを早くしていくと、世界の終わりがすぐ来ちゃいますよ。
 今さらながらスローライフというのを楽しんでみてもいいかも。音楽においては。スポーツではなかなか難しいでしょうけど。

Amazon Handel: Concerti Grossi, Op. 6

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2012.09.13

kobo Touch (楽天電子ブックリーダー)

S Kindleの上陸が噂され、ソニーのReaderの新製品が発売されるこの時期に、あえて kobo Touch を買う私はやっぱり変わり者ですね。
 いやあ、酷評されまくってるので、どんだけひどいのか気になって買っちゃったというのも事実です。
 私は昔から評判が悪いもの、消えそうな製品を買い揃えるクセがありまして、おかげで我が家の地下室はレア物博物館ができそうなくらいガラクタでいっぱいになっています(笑)。
 ま、ダイヤモンド会員だと3000円分ポイントがバックされるし、たまったポイントもあったので、実質0円で手に入れることができたのも購入の理由の一つですね。
 で、kobo Touch はどうだったのか?やっぱりガラクタになるのか?
 発売以来のドタバタについては、まあネットのまとめかなんか読んでください。私にとってはどうでもいいことです。どちらかと言うと、そのおかげで買う気になったわけですし(笑)。
 いや、今のところけっこう重宝していますし、気に入っていますよ。もう何冊かこいつを使って読みました。
 なんか懐かしいですね。この電子インクのディスプレイ。初期の液晶のような反応の遅さ。全体の挙動自体、なんか黎明期の電子機器、たとえばオアシスポケットみたいなかったるさ(笑)。
 それでも本を読み始めると、それなりに集中できますね。バックライト付きの液晶は正直目が疲れますよね。その点、この E Ink はたしかに紙の本と同じような低刺激です。
 そして、電子インクの弱点とされる残像ですが、これが逆に、裏が透けて見えるリアルペーパーの感じに近くて、私は気に入っていますよ。真っ白地に必要なテキストだけというデシタル的な「紙面」というのは案外疲れるものです。裏透かしや裏映りが不思議と安心感を与えるんですよね。アナログ的じゃないですか。消しても文字の残る黒板のように。
 ただなあ、もうこれはどうしようもないわけですが、紙の本のあのパラパラやる感じというのが再現できないのは致命的だなあ。特に私のような速読、いや即読が得意な人間にとっては、あのページめくりのもたつきは辛い。
 それからパラパラめくりと関連しますが、今本の何割くらいを読み終わったかというのがイメージ的につかみにくいのは個人的にはいやですね。あのしおりやスピンを挟んで本を閉じた時の、しおり・スピン前後の厚さの比で、ああ、まだこれしか読んでないのか、先は長いなとか、おお、ようやく半分来たぞ、頑張ろうとか、あとちょっとでこの退屈な本も終わるとか、そういう感覚ってあるじゃないですか。
 数値で何%既読というのは表示されますが、それじゃあなあ。
 そんなこと言ってると、結局私が7年以上前に提案した極薄液晶の集合体である「ブック」を作るしかないのかな。超軽量のヴァーチャル・ブックを開発すればバカ売れでしょう。
 いや、実際の紙の上に電子インクで文字を出現させられれば最強か。まっさらな「本」に無線でテキストデータを流し込む。
 難しいかなあ。やっぱり紙の質感というモノがあるかぎり、旧来の紙の本はなくならないのでしょうね。
 話が多少それましたけれど、ま、kobo Touch 、しばらく使ってみます。紙の本を買うより少し安く書籍が買えますしね。ちょっと店頭で買うのが恥ずかしい本や、アマゾンでも頼みにくい本も安心して(?)買えちゃいます(たとえば今読んでいる「職業としてのAV女優」。これは実に面白い本ですよ)。
 ストアの蔵書数も徐々に増えています。大量の謎のコード譜なんかも私にはとても有用です。今後に期待しましょうね。

楽天24 koboショップ

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2012.09.12

『約束の日 安倍晋三試論』 小川榮太郎 (幻冬舎)

Book120903 倍晋三さんが自民党総裁選出馬を表明しました。よくぞ今日9月12日を選んで宣言したと思います。そこに安倍さんの志を見た気がしました。
 そう、ちょうど5年前の今日、安倍さんは政権を「投げ出し」ました。あの状況での突然の辞任は、「投げ出し」と見られてもしかたがなかったと思います。実際私もこのブログで相当ひどいことを書いてます(苦笑)。
 あの頃の私の感想や発言は、それはそれで「事実」として残していくつもりです。誰かさんのように(笑)記事を削除したり改変したりはしませんよ。
 日本の状況、自民党の状況、安倍さんの、そして私のあり方は、当時と今とは全く違いますからね。そのそれぞれがこの5年間でどう変化したのか、そしてこれからどう変化していくのかを考える時、たとえばあの記事の私の感覚というものを、ちゃんと復習して、そこから出発していかねばならないと思います。
 だからこそ、安倍さんが今日のこの日に出馬表明をしたことに、大変大きな価値を感じるわけですね。ああ、安倍さんもちゃんと「あの頃」「あの時」と向かい合っているなと。
 正直、今の私は安倍さんにもう一度首相をやってもらいたいと思っています。それは、安倍さんご夫妻と不思議なご縁があり、ちょうど1ヶ月前にウチのスペシャル・ウォーター(?)を飲んでいただいたからとか、そういうレベルでの贔屓ではありませんよ(笑…いや、実際ずいぶん元気になられましたな)。
 あの頃をちゃんと復習してわかった安倍さんの「志」「行動力」「闘魂」というものが、今こそこの日本に必要だと感じるからです。
 もちろん、政治思想的に、あるいは政策的に私は安倍さんの全てに賛成しているわけではありません。しかし、今はそうした各論よりも、もっと本質的な「魂」の部分で、彼に大いに期待したいと思っているわけです。
 その「魂」や「志」の次元がいかに高いものなのか、そして、それほどのものがなぜああいう形で突然消えさってしまったのか、さらにはなぜあの頃の私がああいう「ふざけた」記事を書くことになったのか、それらを知るために、この本は非常に有用でした。
 私たちが知らないところで繰り広げられていた攻防のすさまじさ。朝日新聞を中心とした相手側にもある種の「魂」や「志」がありますからね。これは想像以上に壮絶です。その中で奮闘し、普通の政権の5年分に相当するであろう質と量の重要法案を通した安倍さん。結果として志半ばで戦線離脱を余儀なくされてしまいました。
 実際お会いしてお話をうかがいましたが、本当にあの頃の体調は「闘魂」ではカバーしきれないほど良くなかったということです。そこをはっきり言わなかったところが、それこそ当時の私のような批判者を生んだ原因であったし、逆に今となっては、保身の言い訳を是としなかった「サムライ」として高く評価される根拠であるとも言えます。
Photonews_nsinc_fgntp0201209131016 もう体調は大丈夫ですよ。なにしろ…ですから(笑)。いや冗談抜きで心身ともによい気が漲っています。
 相変わらず「抵抗勢力」による逆風が吹いていますし、総裁選自体の予断を許さない乱戦模様です。しかし、ぜひ安倍さんには持ち前の「闘魂」を発揮していただき、そして結果として日本人の「闘魂」をも奮い立たせてほしいと切に願います。
 1ヶ月前、「機は熟しました」とお伝えしました。ようやく日本が動き出すと思います。この5年間で膿はかなり出ました。私もこの機を逃したくありません。まず自分が動くことから始めます。その動きが、安倍さんご夫妻にもいい影響を与えられればと願っています。
 この本、皆さんもぜひご一読を。

産経新聞(ならでは)の書評
 
Amazon 約束の日 安倍晋三試論

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2012.09.11

「顔見知り」と「人見知り」

↓イメージですw
02month10_05_001 さん、「顔見知り」と「人見知り」いう言葉もちろん知ってますよね。この二つの言葉、並べてみると面白いというか変じゃないですか。
 そう、「顔見知り」は人と親しい感じがしますが、「人見知り」は逆に親しくない感じがします。
 「顔」と「人」が入れ替わるだけで、なんで反対のイメージになってしまうのか…いや、実は反対ではないのかも。
 今日は軽くその辺について解説したいと思います。
 まず知っておきたいのは、この二つの言葉は比較的最近使われ出した言葉だということです。つまり、古語の世界では名詞としては用いられていないということです。
 具体的には「人見知り(する)」は江戸時代から、「顔見知り」は明治時代からです。ある意味意外ですね。
 「人見知り」に関しては、最近では「人見知りだ」「人見知りな性格」などのように、形容動詞としても使われ始めています。
 この事実は、「人見知り」が「人+見知り」という意識が薄れ、「ヒトミシリ」全体でのイメージが固定化したことを表しています。
 ということで、「人見知り」の話になってしまったので、そちらから説明しましょう。
 この言葉の語源について、ネット上では「人見(外から見た印象)+知り」だなどというナンセンスな解説がされているところもありますが、これは間違いです。あくまで「人+見知り」です。
 「見知る」という言葉は古くから使われていました。なにしろ古事記にも出てきますから、これは古いですよ。意味は「見て知る」「見て分かる」「面識がある。また、親しくつき合っている。交際してよく知る。その人の性質や性格を知る」です。
 ですから、「人(を)見知る」というと、「人を見て誰かわかる」とか「その人のことをよく知っている」という意味になるわけですね。実際、そういう表現は古語の世界でも見つけることができます。
 では、それがなぜ「親しくない」「親しまない」イメージの名詞になってしまったのでしょうか。
 もうお分かりの方もいらっしゃることでしょう。そう、もともと「人見知り」という名詞は、赤ちゃんに対して使われていたようなんですね。「人見知りが始まる」という表現をするじゃないですか。
 つまり、子どもの生育過程の中で、母親を母親として認識し、その他の人をその他の人として認識するということです。言い方を変えると、「味方と敵を見分ける」ということです。
 人見知りを始めるというのは、人を見て味方か敵か知るということなんですね。「その人のことをよく知っている」からこそ、敵か味方か判断できるわけですから。
 それを大人の世界にまで援用して、さらに結果だけを取り上げて「特定の人とは交われるが特定の人ととは交われない」という意味で使うようになってしまったというわけです。
 そういう意味では、大人が「私、人見知りが激しいんで」と言うのは、「私、(赤ちゃんの時始まった)人見知りがまだ色濃く続いている」ということになりますかな(笑)。ま、間違いではないか。
 一方、「顔見知り」は、これまたよく考えると面白い言葉です。もともと「見知る」自体が「面識がある」という意味を持っていますから、そこに「顔」をつけるとどういうニュアンスになるかというのが問題です。
 私は、この「顔」には限定的な意味合いを感じますね。つまり、「顔見知り」とには「顔は知っているが、そこまで親しくはない」というニュアンスが含まれているような気がするのです。いかがでしょうか。
 「顔見知りの犯行」とか言うじゃないですか。「友人の犯行」とは言いません。だいたいが害を及ぼすような人は友人ではありませんからね。そういうやや冷めた距離感がある。
 こうして考察してみますと、「顔見知り」も「人見知り」も実はそうしたマイナスのニュアンスを内包した言葉だという共通点があると捉えることもできるようになりますね。
 「人見知り」する対象は、ある意味では「顔見知り」であるとも言えます。つまり、顔を見て敵(味方ではない)と判断するわけですから、その相手とは「顔見知り」でしかないとも言えるというわけです。
 うん、面白いな、言葉は。
 と、そんなわけで、私はなるべく「人見知り」をせず、単なる「顔見知り」に終わらないように、その人たちと深くつきあって行きたいと思います。そう、最近多いんですよね。敵だと思っていた人と飲んだら、とってもいい人だったことに気づくだけでなく、共通点もたくさんあったりして、案外意気投合しちゃうことが。

 

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2012.09.10

『めぐみへの遺言』 横田滋・横田早紀江・石高健次 (幻冬舎)

20120911_85858 日の滋さん早紀江さんの講演会の際に購入した本です。
 まずタイトルの「遺言」という言葉が重いですね。そう、時間はどんどんなくなっていくのです。
 1秒でも早く事件が解決する、すなわちめぐみさんを始めとする拉致被害者の方々が、皆無事に帰国して肉親と再会することを祈らずにはいられません。
 皆さんにもぜひこの本を読んでいただきたい。拉致ということの現実を知るという意味でも、また、ご両親の深い愛情と思慮、そして、それに反する政治家やマスコミの情けなさ、さらには私たち日本国民の薄情さ、いや日本人に限らず人間の本質でしょうかね、それらを知るためにとても重要な本だと思います。
 もろちん、全く望まずして不本意な生活を強いられている、しかし強く生きているめぐみさんご本人にも思いを寄せたいところです。
 ただ、難しいのは、お話を聴いたり、こうして本を読んだりして、この事件がいかに重大で残酷で理不尽なものであると知り、被害者家族の心情を共有し、あるいは国家レベルでのやりとりにもどかしさを感じても、なかなか私たちは力をお貸しできないという点です。
 先日、ご両親とお話した中では、私はめぐみさんとご縁があり、その上でこういう仕事をしているので、とにかく子どもたちに語り継ぐことしかできない、と申し上げました。本当にもどかしいし悔しいけれども、それしかできないのです。
 しかし、ご両親は私の言葉に対して「ありがたいです」とおっしゃってくださいました。もうこれは全力で自分のできることを全うするかありませんね。もちろんそうするつもりです。
 最近、この本でも話題になっている(お二人が大いに期待されていた)安倍晋三さんとある意味見えない部分でご縁をいただきましたので、そちらの方面からもできることをしていきたいと思っています。
 近々安倍さんは再び拉致問題に積極的に取り組める立場になることでしょうから、大いに期待したいと思いますし、期待するだけでなく、私なりに強力や働きかけをしていかねば。
 それからこの本で興味深かったのは、滋さんの父性と早紀江さんの母性のコントラストでしょうか。このような異常事態だからこそそれが鮮明になっているのはなんとも因果なものではありますが、本当に印象的な父性と母性でした。
 常に冷静で科学的な滋さん、深い信仰を持ち情感豊かな早紀江さん、こういうご両親に育てられたからこそ、めぐみさんには大きな天の仕事が与えられたのだろうか…こんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、私のこうした印象に近いことが、本の最後の方に「マリアとキリスト」という比喩で語られていたので、あえて書かせていただくこととします。
 そんな私はここのところ、めぐみさんに関する、ある意味前向きな啓示のようなものを受け続けています。お二人に期せずして再会できたのも、そうした仕組みの一部なのかもしれません。そうであることを願いたいですし、毎日祈っていたいと思います。
 めぐみさんは必ず生きて帰ってくる!

Amazon めぐみへの遺言

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2012.09.09

『人間風車・ビル ロビンソン~最強・最後(?)のトークショー』 (UWFスネークピットジャパン)

↓背中にサインをしてもらいました!
Gedc2350 れもまたご縁です。雲の上の人、いや神だと思っていたプロレスラー、ビル・ロビンソンさんのお話を直接うかがう機会を得ました。
 3年9ヶ月ぶりの来日。ロビンソンさんがコーチをしていた高円寺のスネークピットジャパンで、トークショーが行われました。
 本来今日は古典派オケの練習があったはずだったのですが、オケの本番に仕事が入ってしまい、今回は急遽代役を頼むことになりまして、その結果、こちらトークショーには参加できることになったと。
 人間風車ビル・ロビンソンさんも74歳。今日の話にもありましたが、レスラーは50を超えると一般人プラス10〜15歳のペースで体が衰えると言います。そんなこともあって、今回は最後(?)と銘打たれているわけです。
 もちろん、これが最後になってほしくはないわけですが、やはり一期一会、機を逃しては後悔すると思い夫婦で参加しました。
 初めて見るホンモノの人間風車は、本当に強くて優しい男でした。昨日の高倉健さんもそうでしたよね、存在自体がカリスマです。本物はすごい。本物のプロレスリングを極めた男の放つオーラはとんでもなく強力で、また高貴なものでした。
 そう、健さんと同じで、「品格」があるんですよ。この「品格」というのは実に大切だなと思いました。本物の経験が豊かな人間性に醸されると、こういう香華を放つのでしょうね。
 いやあ、予定時間を1時間オーバーして丸々4時間、まさにトークしっぱなしでした。その記憶の確かさと、年齢を重ねてからの思索の深さには、本当に驚嘆しました。
 レスリング、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとの出会い、ヨーロッパや中東での武者修行、本国イギリスでの活躍、そして日本へ。国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレス、アメリカでの活躍と、時間軸に従って、本当に興味深いお話が連続しました。
 司会者の流智美さんでさえ初めて聞くという話がたくさんありましたからね。どれだけマニアックなんだ(笑)。
 あまりに豊かな内容になってしまい、初来日までに3時間近くを費やしてしまったため(笑)、日本のプロレスのことは駆け足になってしまいましたが、ある意味では、最も我々の知らない部分を知ることができたので、非常に有意義であったと言えましょう。
 シロウト同然の私たち夫婦にはもったいない(ついていけない?)ほど深いお話ばかりでした。私たち以外の50名近い参加者の皆さんは筋金入りのプロレスマニアの方々ですから、もっともっと興奮してトークを聞いていたのではないでしょうか。
 私は少し大きな観点で、すなわち教育のあり方や人間の生き様として、ロビンソンさんの言葉をかみしめてみました。
 まずは学び、それを体験、経験で磨く。想定外、未知のモノに挑戦していくうちに、どんどん自分が高まっていく。プロとしての矜持を常に持ち、譲れない部分は絶対に譲らない。叩きのめす、叩きのめされる体験の重要性。痛みといじめの関係。縁や恩を大切にする。伝統の継承と後進の育成。
Img_5549 余韻冷めやらぬまま、ロビンソンさんの名前を背負って高円寺をあとにしました。
 自分自身の仕事や人生にとって、これほどインスパイアされたトークショーはなかった。このような有り難い(めったにない)体験をさせていただいた者として、明日から、いや今日からさらに精進していきたいと思いました。
 家に帰って来てから、カミさんと一緒にあらためてアントニオ猪木 vs ビル・ロビンソン戦を観ました。思わずため息が出ました。
 このような機会を作って下さった宮戸優光さんに心から感謝します。

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2012.09.08

『プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル』 (NHK)

Main2 〜ん、かっこよかったなあ…。
 昔の仁侠映画を観たあとじゃないけれど、なんか高倉健になりたくなっちゃいましたね。
 男っていつまでもそうなんですよ。今日なんか、昼間プロレスを観てプロレスラーになりたくなり、夜はこのスペシャルを観て高倉健に…いや、役者になりたくなり、そしてその後、ドラマ「負けて、勝つ」を観て首相に…いや、古き良き日本人になりたくなっちゃう。男のロマンですよ。
 あっそうそう、仁侠と言えば11月17日公開の草なぎ剛くん主演映画「任侠ヘルパー」に、私、ヤクザ役で出ております(カットされてなければですが)。スキンヘッドのチンピラです。
 ある意味高倉健と同じ映画という土俵に上がった(草なぎくんと共演というのも?)…いやいや、全然違うって(笑)。
 そんな蛇足はいいとして、いやあ言葉になりませんね、高倉健のすごさ。まさにいるだけで映画になってしまう。こんな男になりたいですね。
 しかし、健さんが言っていたように、彼自身も「役」に「男」や「いい人間」を学んだんでしょうね。お金をいただいて教えてもらっていると。
 うん、それは教師にも言えますよね。どの仕事もそうなのでしょう。
 そういう意味でも自分の「ものまね論」を思い出しました。こちらに書いたように、私は「ものまね=モノ(霊)を招く」だと考えています。憑依ですね。花伝書の「物学」もそういうことだと解釈しています。
 健さんが、「同じコトは何度もできない」「よぎるモノがないと」と言ったところに、「モノ・コト論」の本質的なところが現れているなとも思いました。
 日本語の「モノ」は意識の外の存在、「コト」は意識の中の存在を表すというのが、私の「モノ・コト論」の基本解釈です。
 また自分の話になっちゃいますけど、たとえば任侠ヘルパーの撮影の時なんかも、すっかり自分はヤクザの子分になっているわけですね。頭で考えて動いたり喋ったりしてちゃダメだというのは体験的に分かりました。
 「なりきる」ことができるかどうか…なんか言い古された言葉ですけれども、結局それが映画俳優としての「プロフェッショナル」なのではないかと思いました。
 健さんは「プロフェッショナはなりわい」だと言いました。「なりわい(なりはひ)」とは、「なる」という動詞の連用形に「はふ」という動詞の連用形がついた言葉です。「はひ」は「さきはひ(幸い)」や「にぎはひ(賑わい)」などのように、「盛んになる」という意味です。つまり、盛んに何かになるということですね。まさに役になりきるというわけです。
 あさってにはインタビュー特集もあるとのこと。楽しみです。

高倉健スペシャル公式

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2012.09.07

生きる力=死なない力(その2)

Img_5525 然教室(林間学校)から帰って来ました。二日目は飯盒炊爨などを体験。
 昨日の登山も含めて、学校現場としては当たり前な体験ではありますが、その当たり前の体験の中で、どこにポイントを置くか、どういう姿勢で臨ませるか、先生がどういう心構えでいるか、これは非常に重要なことです。
 今回の体験学習のみならず、私がいろいろな教育活動の中で何を考えているのか、子どもたちに何を伝えようとしているのか。これはこのブログをお読みの方には、おそらくなんとなく想像できるのではないかと思います。
 ここ数日のいじめや自殺に関するニュースを見聞きするにつけても、私は自分の考えが間違っていないと確信します。ある意味、そういうことに関して私のような物言いをするのは不謹慎だと言われるかもしれませんが、私は自分の信念は曲げない頑固な人間ですから、あえてここでもしっかり書かせていただきます。

 生きる力とは「死なない力」である。
 どんなことがあっても死んではいけない。
 死なないための力を身につけなければ。

 いじめはいかんとか、自殺に追い込むようなことはいかんとか、そんなことは当たり前の言葉です。しかし、実際には子どもの世界だけでなく、そういうことはなくならないのも事実じゃないですか。
 だから、期せずしてそういう事態に遭遇しても、死なないための強さや方策を持っているべきなのです。
 それは、忍耐力であったり、交渉力であったり、対抗力であったり、他人の力を借りる力であったり、受け流す力であったり、笑い飛ばす力であったり、本当にいろいろな要素が含まれます。
 そして、それは(擬似的なものも含めて)体験をしないと身につかない。スローガンの棒読みでは絶対に自分のものになりません。
 去年の年末に津波避難に関して生きる力=死なない力という記事を書きましたね。この考えは今でも全く変わりがありません。
 普通の学校、普通の先生なら、とにかく「安全」が第一ですよね。当たり前です。しかし、「安全」とは何かという定義は、本当は難しいのです。
 今、学校現場では「事が起きないこと」こそが「安全」だと思われています。そのために「危険」は極力避けるべきで、最初からそういうモノには近づかないというのが基本姿勢となっています。
 今日も施設の方と話しましたが、生徒にナタを持たせないとか、火を扱わせないとか…それでいったいなんの林間学校なんでしょうね。
 山登りしてプチ遭難するくらいがちょうどいいんですよ。怒らないでくださいね。夏の低山での話ですよ。全て計画通り「無事」にすめばいいというものではありません(結局無事でしたけど)。
 学校における「安全」とは、「安心して全うできる」ことだと、私は考えています。
 私が学校説明会などでいつも言わせていただいていることをここにも書きましょうか。
 「子どもが成長するのは、悩み、苦しみ、衝突し、迷い、痛みを感じる時だけである。心地良い楽しいだけの学校生活には実は成長はない。心の成長痛や筋肉痛は歓迎すべきもの。本校は、生徒が安心して悩み、苦しみ、衝突し、迷い、痛みを感じるのできる場を提供する」
 この理想の実現のためには、教師と生徒ととの絶対的な信頼が必要なのは言うまでもありません。そして、教師の「覚悟」。全ての責任を負う覚悟です。手前味噌ですが、ウチの学校にはそれらが当たり前にあると信じています。
 2年生が自然教室で「想定外」や「不随意」と格闘している間に、3年生は田んぼで稲の世話をし、ペットボトルロケット飛ばし大会をしたようです。これまた、「想定外」や「不随意」との戦いですね。自然は全てそういうモノです。
 結局、私たちは自然(人間や物も含む)と体験的に付き合って、「生きる力=死なない力」を学んでいくしかないのですね。教科書に書かれているコトやお題目のコトだけを理解してもダメなのです。
 さて、次はどういう「体験」の機会を作ろうかな…。

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2012.09.06

AR 山 1000 (iPhoneアプリ)

Gedc4094 梨県立八ヶ岳少年自然の家で行われていた自然教室(林間学校)から帰って来ました。
 2年生の行事でした。まあとにかく楽しくためになる体験をさせていただきました。
 というわけで、1日目の記事を書きましょう。1日目の一番の活動は「飯盛山登山」です。ハイキングと称してますが、それなりの距離と標高差でして、ふだん運動をしない私や文化系の生徒にとってはけっこうきつい体験となりました。
 この前の渡辺玉枝さん講演会でのお話のとおり、特に高い山でなくとも、やはり頂上を極めた時の達成感と爽快感は格別なものですね。
 夜は天体観測をしました。昔取った杵柄で、あれは何座、あの星の名前は何々と教えると、「なんで分かるの?」と言われます。
 興味がない人にとってはどれも同じような光の点にしか見えませんからね。
 それと同じことが、私の場合は山について言えます。山マニアではないので、どの山も同じに見えてしまい、山梨県に住んでいながら、北岳がどれか実はよく分かりません(笑)。
 さすがに富士山は分かりますが、その周辺の山となると、登ったことがある山以外は正直顔(?)と名前が一致しません。
 今回も飯盛山に登り、360度の大パノラマを体験したのはいいとして、そこに並ぶ美しい山々の名前がほとんど分からない。八ヶ岳さえ、大雑把に八ヶ岳と呼んでしまって、個々の峰の名前は正確に出てこないわけですね。
Gedc4093
 そんな私にとって非常にありがたいのが、このアプリです。
 そうそう、星に関しては、以前紹介したStar Walkがピカイチの素晴らしいアプリですね。
 そのStar Walkと全く同じ発想なのが、この「AR 山 1000」です。
120707 つまり、気になる山の方向にiPhoneのカメラを向ければ、その山の名称をこのように表示してくれるのですね。ちなみにこの画面は借り物です。
 2次元の地図と3Dの現実風景を重ね合わせるのって、実はすごく難しいんですよね。それがこのアプリでは見事に解決されています。
 もちろん山マニアの方々にとっては、私がStar Walkをほとんど使わないのと同様に、無用の長物なのかもしれません。しかし、一般人にとっては、マニアになるための第一歩としても有用な長物となりますね。
 Star Walkの時も「夢が現実になった」と書きましたけれども、これもまたiPhoneならではの新しい世界の認識の仕方ですね。
 ちなみに、私の場合はとりあえずこの無料版の1000で十分です。登山家やハイカーのみならず、山が好きな方、近所の山の名前を知りたいという方にもおススメです。

AR 山 1000

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2012.09.05

ノラ猫シロー

 日ツイッターにシローの写真を載せましたところ、評判が良かった(?)ので、こちらでも紹介します。ホント面白い猫です。
 ウチには黒猫しかいません。なんだかウチは柄のある猫には縁がないようですね。最近よく遊びに来るこいつもほぼ全身白。よって名前は「シロー」。
 どこかで飼われていたのか、今でも飼われているのか、妙に人なつこいのです。最初から誰にでも擦り寄ってゴロゴロ言ってました。面白いほど「いい人」です。
 すぐおぶさってくるし(笑)。
 シローはオス。奥さんが二人いるようです。子どもはいろいろな柄のが4匹(ミケ子、クロ子、小サビ、トラヲ)。
 今日はそんなシローの性格が分かる写真を何枚か掲載したいと思います。ではどうぞ。

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2012.09.04

横泳ぎ

20120905_70106 日から本校でも水泳の授業が始まりました。
 体育の先生だけでなく、校長先生、教頭先生自らプールに入って泳ぎを教える学校も珍しいでしょうね(笑)。
 私、いちおうひと通りの泳ぎができます。あえて言えば「潜水」が苦手です。というのは、こちらに書いたように、海面にプカプカ浮かんで何時間も昼寝ができるほど比重が小さく、「浮く」体質なんですよね(笑)。
 で、こういう人はですね、日本泳法(古式泳法)が得意なんです。甲冑を付けていても泳ぎながら戦える。沈まないというのが基本です。あるいは足だけで泳ぐ、片手、片足になっても泳げるということも大切。
 私は基本的なものしかできません。いわゆる「立泳ぎ」と「横泳ぎ」ですね。
 これらは西洋水泳を中心とした学校水泳の中では教えられませんが、本当ならここから入るべきだと思います。
 戦国時代ではないので、甲冑を付けて泳ぐことはないでしょうけれども、いわゆる着衣水泳は現代でも非常に大切です。特に何かの災害に遭った時、あるいは救助の時など、非常事態には大変有効です。
 考えてみると、生活の中で泳ぎが要求されるのは、非常事態のみです。水着を着て、波のないプールで一人で泳ぐというのは状況は、ある意味では特殊すぎますよね。だから、本来なら日本泳法(古式泳法)の基本から入るべきだと思うのです。
 そうそう、ライフセーバーの試験にはそれらがあるんですよね。当然です。クロールや平泳ぎや背泳ぎやバタフライだけでは人は救えません。
 あと、水球やシンクロナイズドスイミングでも「立泳ぎ」や「横泳ぎ」は基本的な動作として重要ですよね。
 で、私は横泳ぎが得意です。平泳ぎも嫌いじゃないけれど、たぶん横泳ぎの方が平泳ぎよりも速いし、持久力もあると思います。海で泳ぐ時も基本は横泳ぎですね。
 この横泳ぎ、どこで覚えたかといいますと、ウチの父親が教えてくれたんです。時代的に日本泳法を習ったんでしょうかね。なんとなく父親のマネをしているうちにできるようになりました。
 常に顔が出ている泳ぎですから、西洋泳法の鬼門である息つぎの必要がありません。学校でも教えたいなあ。でも、なんだか笑われるんだよなあ(笑)。

参考 横泳ぎアニメーション

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2012.09.03

横田滋さん早紀江さん講演会

20120904_062953 45年ぶりの再会。使命を痛感。
 北朝鮮に拉致されいまだ帰国が叶わない横田めぐみさんのご両親の講演会が、私の勤める学校で行われました。
 皆さんもご存知のとおり、最近の横田さん夫妻の忙しさは尋常ではありません。昨日も拉致問題国民大集会が行われたばかり。早紀江さんは「いつ死んでもいいから、とにかくめぐみちゃんたちと一言話ができてから私は死にたいと思っているんです」と訴え、滋さんは900万以上の署名を野田総理に渡したばかりです。
 この講演が決まったのは6月頃だったと思います。その時は日朝協議の再開やめぐみさんの生存情報が舞い込んでくるということは想像していませんでした。ですから、ここへ来ての忙しさを受けて、今回の講演は中止にしてもよいと、学校側としては考えていたようです。しかし、横田さんご夫妻は「約束だから」と、特急でとんぼ返りの過酷なスケジュールにも関わらず、ここ富士山麓まで来てくださいました。
 講演では、滋さんがめぐみさんの拉致を中心とするこの問題の経緯を詳細に説明してくださり、早紀江さんが親としての心情と国に対する怒りと期待を切々と語ってくださいました。
 講演後、さっそく全校生徒に感想を書かせましたが、中学生のものを読むと、「当たり前の生活を幸せだと思うようになった」「横田さんは自分の娘のことだけでなく、他の被害者のことも考えていて立派だと思った」「30年以上解決しないなんて信じられない」「この10年間、首相がコロコロ変わるばかりで大切なことが何も決まらない」「早くめぐみさんが帰ってきますように」など、私たちが感じてほしいことをしっかり受け取ってくれたようで、本当に良かったと思いました。
 横田さんの講演は公立学校では難しいでしょうね。日教組は「拉致はなかった」という立場をずっととり続けてきましたから。
 そういう意味で、輿石東のお膝元山梨県の学校でこの講演会が実現したことは、ある意味画期的なことだとも思います。英断を下した理事長に敬意を表します。
 本校は仏教の慈悲の精神に基づく人間教育を主眼とした学校です。人間教育の基本は「人権と平和」だと思います。その意味でも、本校にとってこの講演会は大きな意味を持ちました。
 個人的な話も書かせてください。実は私は横田夫妻とは45年ぶりの再会でした。
 というのは、私は昭和41年から42年にかけての約1年半、めぐみさんと同じところで過ごしていたからです。
 私とめぐみさんは同い年。父親どうしが同じ職場であり、品川区のある同じ寮に住んでいたのです。おそらくは寮の庭の砂場やブランコで一緒に遊んだこともあったことでしょう(2歳くらいなのでお互い記憶はないと思いますが)。全く不思議なご縁です。
 今日、理事長のはからいで、私と横田さん夫妻でお話をする機会を作っていただきました。私は当時のアルバムを持って行きました。
 早紀江さんは、その思い出の地で遊ぶ私の幼い頃の写真を見て、「ああ、この子いたような気がする…いました、いました。懐かしい…」と言ってくださいました。そして、「この子がこうして立派になって」と感慨深げに私の顔を眺められました。
 同い年ですから、めぐみさんと重ねて見える部分もあったのでしょう…私も涙をこらえることができませんでした。
 その後、共通の知り合いの話をしたり、拉致問題や政局の核心に迫るお話をしたり、また、たまたま寸前に安倍晋三さんの奥様昭恵さんからメールでメッセージを預かっていたので、それを伝えたり、本当にありがたい時間を共有することができました。
 講演には思いがけず、瀬戸龍介さんもいらしてくれており久しぶりに再会。瀬戸さんと昭恵さんも先週富士山麓で会っています。我が家のデバイスを中心としたネットワークの広がりとパワーを感じることができました。
 そして、私は確信しました。めぐみさんは生きて帰ってくる。その日は近い。私も微力ながらその実現に自分のできることをしっかりしていきたいと思います。ご縁のあった者としての使命が何か明確になった一日でした。
 横田滋さん、早紀江さん、お忙しいところ、そして、お疲れのところ本当にありがとうございました。今日の講演をふまえ、今後も生徒たちと「人権と平和」について考える活動を続けていきたいと思います。まずは15日の親子討論会です。

 

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2012.09.02

どうなる漢検…

Kanken 々に漢検の話を書きましょう。なにしろ、大げんかしてからというもの、あれほどしつこかったセールスの電話が1本もかかってきません。どんだけブラックなんだ、私は(笑)。
 今日のニュースに地味に出てましたね。

 元理事長父子による背任事件を教訓に、組織改革を進めている財団法人「日本漢字能力検定協会」(京都市)が、新公益法人制度に基づく「公益法人」に移行することを決め、内閣府に申請した。

 へえ〜、「公益法人」になるんだ。そうですか。それはそれは…としか言いようがありません。
 大久保父子が逮捕される前から、私は漢検の問題について吠え続けてきました(たとえばこちら)。
 理事長父子の罪も大きいけれど、もっと罪深いのは「先生」だ!…そう書き続けて、結果として刺客を送り込まれ、しかし、私がそんなものにひるむわけもなく(笑)、しっかり一人で退散させましたよ。
 様々な新宗教を相手に戦ってきた経験が生きました(?)。
 ま、冗談はともかくとして、いや全然冗談ではなく実話だな…教員に対するリベート問題と、そこに付随する先生による生徒に対するウソの体質を根本から改善しないと、問題の解決になりませんね。
 どういうことかと言いますと、たとえばこちらをご覧ください。平成23年度の協会の収支報告書です。
 支出で一番多いのはなんでしょう。分かりやすく予算の方で見ましょうか。一桁違うのがありますよね。「受検運営委託費」です。10億円超えています。
 次に多いのが「検定業務代行費」です。7億円近く。この二つでなんと全支出の3分の1くらいを占めています。
 「検定業務代行費」は、まあアウトソーシングですね。自前でやるより経済的能率が高ければ外部委託するのは、これはビジネスの常道であります。
 問題は相変わらず多い「受検運営委託費」です。問題(不祥事)があって、文科省公認を外されてから、多少(50万人ほど)受検者数が減少したので、この「受検運営委託費」も下がりました。最大時は15億円くらいあったんじゃないですか。
 これはですね、「事務連絡費」と「準会場実施経費」という名目で、学校や塾の先生方に配られるお金です。ある意味使途不明金。なぜなら、そのお金の使い道はそれぞれの学校や塾や先生に任されているからです。
 それが毎年10億円もばら撒かれているんです。いくら公益法人となるべく内部の会計を健全化させてもですね、このばら撒き体質が変わらない限り、全然「公益」じゃないですよ。ま、主たるばら撒き先は公務員たる学校の先生ですから、ある意味「公益」か。
 ちなみに全校生徒1000人の学校が全校受検で全員が2級を受けたりすると、1回の検定で45万円ほど学校にお金が落ちます。それを年に3回やれば…車が買えます。
 これはちょっと極端な例ですけれど、現実にはこうして、生徒から集めたお金を協会と学校とで分けあっているわけです。さすがに教育現場でのリベートとしては多すぎませんかね。
 こんなことを暴露する教員は私だけです。なんでか分かりますよね。こういうことが学校には多すぎます。
 

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2012.09.01

マグナム小林「天国と地獄」・ラブレターズ「西岡中学校」・ドドん「地獄」

 笑いには興味がありありですが、テレビに出ている芸人さんにはやや食傷気味でして、YouTubeやなんかでマニアックなネタを探しています。
 今日はプロレスネタつながり(これ)でバイオリン漫談のマグナム小林さんの芸を盗もうと練習していたんです。めっちゃ難しいぞ(笑)。
 マグナムさんのバイオリン、なかなか味わい深いですな。どちらかと言うとバロック的な奏法ですね。ノンヴィブラートだし開放弦よく使うし。やっぱりプロレスファンはこういう表現になるのかな(?)。

 そしたら、たまたまついていたテレビにラブレターズが出ていました。あの「西岡中学校」です。やっぱり面白いですね。
 キングオブコント2011で有名になったこのネタ。今日のはショートバージョンだったので、フルバージョンを貼っておきましょう。
 

 こういう音楽&ギャップネタというのは、私もよくやりますけど、一発はうまく行くんですよね。次が難しい。
 ま、これが彼らの芸風ではなく、いつもはオーソドックスな芝居コントをやってますから心配ありませんが。
 それにしてもコントというと「学校」ですよね。ドリフを挙げるまでもなく。まじめな空間こそ面白い。
 そういう意味では、今日の番組でもあった坊さんネタ。こちらもドリフ定番でしたよね。
 ホンモノの曹洞宗のお坊さんが登場する「ドドん」の「地獄」フルバージョンをご覧ください。これは面白い。「僧侶必携」ほしいな(笑)。

 というわけで、私はバイオリンを弾く坊さん風な教師なので、これらの面白さを人一倍感じることができます(笑)。秋の文化祭では、ぜひコントをやりたいと思います!

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