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2012.07.14

富士風穴

20120714_135217 宅のMacBookの調子が悪く、いつものように記事を書けません(親指シフトのMacでなきゃダメという特殊体質…笑)。
 ということで、昔書いたエッセイを転載します。
 そう、今日栃木からカミさんのいとこ家族が遊びに来ましてね、それでせっかくですから樹海を案内したんです。で、久しぶりに富士風穴に行きました。天然の冷蔵庫にみんなビックリ。
 今日はそれにちなんで若かりし頃書いたエッセイ「暗黒」をお読みいただきます。では、どうぞ。


 「暗黒」

 太古から人間はひたすら暗黒を避けつづけてきた。
 太古…とりあえず夜は寝ていたようである。実に賢明な対策である。
 太古が終わると、人間はいろいろな事情から夜起きていることになった。すると、賢明な人間は、火やら電気やらを使いだした。暗黒は元から絶たなきゃだめ、というわけである。実に勇敢な行為である。
 日本もここ百数十年の間にずいぶんと頑張って、宇宙空間からでも、光の帯によってその輪郭が確認できるほどのライトアップを完成させた。
 実に明るく素晴らしい現代である。
 人間は「暗黒」に対する「明白」を勝ち取ったのである。思えば、いろいろなものが明白になった。謎というものがなくなった。目に見えないものを見るため、あるいは聞こえないものを聞くために、あらゆる発明がなされた。そして、それでも見えないもの、聞こえないものは、即ち存在しないものだと断じた。実に明白である。謎もなくなるはずである。
 私はなぜか幼いころから暗黒に憧れていたところがあった。それは、太古への憧憬なのか、胎内回帰願望なのか、あるいは幼くして現実逃避を画策していたのか、そのへんはさだかではないが、とにかく自分の世界に暗黒という、いわば遊びのジャンルがあったことは確かである。しかし、東京の団地住まいという実に文明的な生活を強いられていた私にとって、それは容易に手に入るものではなかった。物置きに一人入って内側から戸をそっと閉めてみる。母が買い物に出たすきに、押入れに入り込み内側からふすまをそっと閉めてみる。目をぎゅっとつぶってふとんを頭からかぶってみる。両目にフィルムケースのフタをガムテープではりつけてみる。あるいはそれらを複合的に試行してみる…。苦労せど暗黒は容易には得られなかった。
 小学校三年生くらいから、私は夜遅くまで起きていることができる現代人になった。そして、星の世界に興味を持ったのだが、もちろん高度経済成長の真っ只中で、かつ京浜工業地帯に隣接するという環境では、夜と言えども暗黒はとても見つかるものではなかった。ならばと、信州の山奥に父と友人と出かけたこともあったが、そこで見た満天の星空は驚くほど明るく、求めるものは実は田舎にもないのだと気づかされた。
 そんなこんなしているうちに、私はすっかり大人になってしまった。いろいろな経験をして、幼いころ自分を取り巻いていた謎もだいぶ解けてしまった。いや、謎の解明に快感すらおぼえていた。それを自分も人も勉強と呼んだ。そして、その勉強を教える先生という仕事に就くため、大学生になった。暗黒と出会うことは、すなわち死を迎えることなのだと、漠然と思いはじめていた。が…。
 暗黒は忘れたころにやってきた。懐中電灯は私の手からこぼれ落ちると、そのまま氷上を音もなく滑り降りた。そして、十数メートル先の岩に吸い込まれるように激突すると、その灯を忽然と絶った。もう暗黒なんて生きているうちには関係ない、と自信たっぷりだった大学生は生きたまま突然暗黒に包まれた。

 私は大学生になると、高校時代からの相棒と、よく富士山に出かけるようになっていた。富士山といっても、それに登るのではない。もぐりにいくのである。しゃれて言えば、ケービングである。いわば、洞窟探険、穴もぐりである。今はそれほどでもないが、大学二年生から社会人一年生まで、我々はとりつかれたように青木ヶ原樹海に通った。そして、溶岩塊と倒木が行く手を阻む中を、ひたすら穴を求めてさまよった。そして、大小かかわらず見つけた穴全てに潜入を試みた。これも、私の本能のどの部分による行動なのか判断が難しいが、とにかく、穴があったら入りたい、なのである。
 この日は、洞窟初体験という知り合いを連れて、有名な「富士風穴」という穴を目指したのだった。「富士風穴」はかなり大きな穴である。総延長五八二メートル。壮大なスケールである。しかし、ザイルやロープなどの特別な道具も必要なく、また、入口から二〇〇メートルくらいまでは天井が非常に高く、洞窟探険につきものの匍匐前進はもちろん、腰をかがめる必要もない。そして、夏でも床、壁、天井の全てが結氷しており、そこら中に幻想的な氷柱が見られる。そんなところが、初心者を驚かせ、感動させ、また適度に不安にさせるに適しているのであった。我々案内人は、この穴の全てを知り尽くしているつもりだった。数十回の入洞経験があったからである。我々はいつものように、ふだん着に、懐中電灯はたまたま車の中にあった一本、という軽装で潜入を開始した。
 その日もケービングは順調に進行した。初心者の驚嘆の声と悲鳴も予想以上に聞かれ、我々案内人は満足の笑みを浮かべながら氷上に歩を進めた。読者諸氏はスケートリンクの上を普通の靴で歩いたことのおありだろうか。あのように平坦でよく整備された氷の上でさえも、我々は思うままに歩くことができない。それがもし坂道であったなら、いかがであろうか。結果は想像に難くない。「富士風穴」の面白さと怖さはそこにあった。この穴はかなりの斜度を持っている。つまり、歩を進めるということは、まさに地中に潜っていくということになる。途中にはちょっとした小山を下るくらいの急なところもあったりする。その日もそこにさしかかった。そこがこのツアーのクライマックスである。
 ここでちょっと私の足元を確認しておこう。その日、私は通勤用の革靴を履いていた。ああ、これがこれから起こるべきアクシデントの原因なのかとお思いの方、真理というか便利は意外なところにあったりするので、早合点は禁物である。実はこの靴こそが、氷の道をアスファルトの道のごときに変えてしまう、魔法の靴なのであった。読者諸氏も覚えておかれるとよいが、氷上では、一見心強そうな運動靴や登山靴は全くの無力で、どういうわけか、ある種の革靴がまるでスタッドレスタイヤのように氷に食いつき、全く滑らないという不思議を実現するのである(ちなみに学校用の上履きも同様であったと、教え子から報告があった)。その日も魔法の靴が活躍したことは言うまでもない。
 さて、クライマックスである。私は余裕をもってその急坂を下った。そして、坂の下から懐中電灯で初心者の足元を照らし、中腰の体勢をとった。場合によっては滑り落ちてくるであろう初心者を受け止めるためである。
 「さあ、思い切って滑ってこい。ちゃんとキャッチするから」
 「い、い、い、いくぞ〜」
 初心者は予想以上の勇猛さを発揮し、かなりのスピードで滑り落ちてきた。直滑降である。大概は途中でバランスを崩し、転倒してスピードがダウンするものである。そして、私はスポットライトに浮かぶその姿に爆笑しながら彼をキャッチするのである。しかし、その日の初心者は体育会系ということもあってか、妙にバランス感覚に優れており、素晴らしい加速を見せながら私に突進してきたのである。初心者の嬉しそうな顔が迫ってくる。私の表情は爆笑どころか引きつりはじめた。「キャ、キャ、キャ、キャッチできない」…とはいえ、私が私の義務を怠ったら、初心者はあと十数メートルは暗闇のなか加速を続けて、大きくカーブした洞窟の壁面に激突するのである。なにしろ四方が氷なので、どこに爪を立てようと止まることはできない。
 私は結局全身で初心者を受け止めた。が、あまりの衝撃にもろともに転倒してしまった。そして、左手に持っていたカメラは二人の体重を支えるために氷の床に叩きつけられ、あえなく破損した。右手は遅れて着地したが、そこにあった懐中電灯は一瞬フワッと宙に舞い、回転灯のようにきれいな円を描きながら氷上を滑り降りていった。
 おそらく激突のショックで接触が悪くなったのだろう。回転灯はその回転を止めるとともにその灯も失った。そして単なる調子の悪い役立たずの懐中電灯となった。
 私、いや我々は生まれて初めて暗黒を体験した。複雑に曲がりくねった洞窟内には、外界の光は全く入ってこない。そこで懐中電灯という一筋の光も不慮の事故で失った。これこそ全くの暗黒である。
 たしかに最初のうちは例えようのない恐怖が私の鼓動を早く大きくした。しかし、どれくらい時間が経っただろう。私は自分の内側から不思議な平安な気分が沸き上がってくるのを感じ始めていた。
 非常に不思議な感覚である。まず聴覚が異常に研ぎ澄まされてきたのだ。空気の流れとか、水滴の落ちる音が鮮明に聞こえる。その方向感、距離感もかなりの精度と思われる。そして、さらに時間が経つにつれ、私たちはお互いの場所を全くの誤差なくここだと言えるようになっていったのである。しかし、それは聴覚による確信ではない。むろん視覚でもない。肌で感じているのだ。全身がセンサーになって、人の場所、壁の場所、小山の場所、なんでも分かるのだ。それこそ安心である。第三の目というのか、第六感というのか、とにかく、日常では発揮されない潜在能力が一気に開花したような気がした。そして、その能力のおかげで、私は懐中電灯のあるところへ何の迷いもなく歩いていくことができた。今考えると本当に不思議である。謎である。自分の中にもこんな謎があったのか。
 拾い上げた懐中電灯は、幸運にも振ったり叩いたりしているうちに息を吹き返した。そして、その光が我々の網膜に達した時、我々は残念ながらいつもの自分に戻っていたのである。
 もと来た道をはい上がり、洞窟の入口から射す外界の光を見た我々はほっと胸をなでおろした。懐中電灯が見つからなかったら、あるいは見つかっても電球が切れていたら、いろいろ考えてゾッとした。しかし、もしかすると、そういう最悪の状況でも、我々は無事生還できたのではないかとも思った。ふと夏空を見上げると、数匹のコウモリが頭上を旋回したのち、暗黒の中に吸い込まれていった。

 太古、暗黒は人間の能力を引き出す、いわば神のような存在だったのかもしれない。だから、避けていたのではなく、おそれていたのである。しかし、人間は持ち前の傲慢さをもって暗黒を日常から追いやった。暗黒時代は過去のものとなり、暗黒街は一掃された。実に明白な現代となった。暗黒は非日常に幽閉された。日常の私たちにとって非日常は怖い。避けたい。しかし、そんな中に人間が忘れていた人間の謎があった。私の体験した暗黒は、ちょっと魅力的だった。

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