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2012.07.18

「考える」について考える

20120719_195811 日も「自分で考えよう」と書きました。この「考える」という言葉、今まで考えたことありませんでしたが、なんだか不思議な言葉ですよね。
 えっ、何が?…ですよね。
 私のような日本語をちょっと勉強した者にとっては、「かんがえる」という音自体に不思議を感じるのです。「ん」が含まれる和語、それも動詞というのは珍しいなと。
 ちょっと似た響きの「かんがみる」は「鑑みる」、すなわち「鑑(かがみ)る」あるいは「鑑見る」、つまり「鏡を見る」、「鏡で見る」というような意味の動詞がなまったものです。「ん」が入っちゃったわけですね。
 それと同じように考えると、「考える」は「かがえる」だったということになります。古語で言うなら「かんがふ」ですから「かがふ」が元ということになる。
 実際に日本書紀には「ん」の脱落した「かがふ」という動詞の用例が見られるようです。
 もしかるすと、「うかがふ(うかがう)」と同源かもしれませんね。「うかがふ」には「考える」に近い意味もありますから、もしかするとこの説はありかもしれません。
 このあたりは研究した人がいないようなので、若い学者さんや学生さん、ぜひどうぞ(自分で調べるのは面倒臭いのでおまかせします…笑)。
 ちなみに古語には「男女が交遊する」という意味の動詞「かがふ」もあります。連用形「かがひ」は名詞としても使用されます。万葉集の東歌に登場し、また常陸風土記に「かがひ」とは「歌垣」のことであると出てきます。
 歌垣というのは、まあ古代の合コンみたいなもんですね(笑)。今も昔も合コンはさりげなく、しかし真剣に様子を「うかがい」、作戦を「考える」場でありますから、どこかで通じているかもしれません。
 妄想をさらに広げましょう。記紀には「かんがふ」ではなく「かむがふ」という表記も見られます。こうなると、単なるなまりでは説明しきれなくなりますね。
 「かん」に変化する「かむ」と言えば、「上」や「神」や「髪」が考えられます。「かんだちめ(上達部)」「かんだ(神田)」「かんざし(髪刺し)」などを想像してみてください。
 もし、「かむがふ」の「かむ」が「神」だとすると、ちょっと面白い解釈ができますね。つまり、「神」につながる「がふ」が何なのかということです。
 「がふ」は単独では「かふ」ですから、まず思い浮かべられるのは「交う」です。古語では「交ふ」。今でも「行き交う」とか「飛び交う」とか言いますよね。
 「神交ふ」で「神と交流する」っていうのはどうでしょう。「考える」という抽象的な行為は、実は神様の意思をおたずねしているのだと。
 ま、「かんがふ」は下二段活用、「かふ」は四段活用なので、無理があるかな。でも、「交ふ」と語源でつながる「違ふ」には四段と下二段二種類の活用があるし、ありえないこともないか。
 下二段にこだわるなら、「肯ふ」はどうでしょう。この「かふ」は文献としては「肯へず」という否定形でしか残っていません。
 「肯(がへ)んぜず」っていうのがあるじゃないですか。なんとなく聞いたことがあるでしょう。これってとっても複雑な生い立ちを持った言葉です。ついでですから説明しましょうか。
 異説もありますが、ここではワタクシの妄想説を紹介しましょう。「肯(か)ふ」に意志を表す「むとす」がついた「かへむとす」が「かへむず」「かへんず」と変化した(これはよくある音韻変化です)。さらに語頭が濁音化して「がへんず」となり、それに打ち消しの「ず」が付いて「がへんぜず」となったと。
 話を元に戻して、「かんがふ」の「がふ」がこの「肯ふ」だとするとどうでしょうか。「神肯ふ」、つまり「神の思し召しを了承する」という意味になりますね。これもまた面白い語源説ではないでしょうか。
 いずれにせよ、「考ふ」は「思ふ」とは違うイメージがありますね。「もの思ひ」という言葉が一般的であるように、ワタクシの「モノ・コト論」的に言えば、「思ふ」は「モノ」を目的語とするのですね。それに対して、「考ふ」は「コト」を対象とします。
 なんとなく思考する「思ふ」と、論理的に思考する「考ふ」も、「モノ・コト論」で「考える」と案外はっきりとした違いを確認することができます。
 神の思し召しは動かざる真理です。「コトワリ」です。それは「考える」対象となります。一方の「物思ひ」は、常に不安定で不確実な「モノノケ」を対象としているわけですね。
 とまあ、こんなコトを考えているワタクシの頭の中の働きはどんな感じかと言いますと、こうして言語化する(コト化する)ことによって、さらに向こうから勝手に「コトの葉」を呼び込んでいる感じなんですね。それこそ自分で考えているわけではない(笑)。自動書記に近い。
 そう、偉人たちが「考え出した」コトというのは、実はご自身の産物ではなく、向こうからやってきた「コト」なのかもしれません。つまり彼らはミーディアム(媒体)であったと。天才作曲家なんかもきっとそんな感じなんでしょうね。
 私もそういう境地に至りたい。いや、まだまだ修行が足りませんな。自我が強すぎます(苦笑)。
 あっ、ちなみに漢字の「考」は「亡き父」という意味なんですよ。やっぱり何かありますね。


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