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2012.07.31

やぶさかでない

20120801_184526 田首相「会うのやぶさかでない」=デモ参加者との面会―菅前首相明かす」…今日こんなニュースがありました。
 「やぶさかでない」ですが、皆さんはこの言葉使ったことがありますか?
 もし使うとしてどういう意味で使っていますでしょうか。
 野田総理は「デモ参加者と会ってもいい、会う用意もある」という意味で使っているようですね。
 「やぶさか」は漢字で書けば「吝か」。吝嗇(りんしょく)の「吝」ですね…と言ってもまだ難しいか。「吝嗇」とは「けち」のことです。けちんぼ。物惜しみすることです。
 「やぶさか(なり)」という形容動詞は、鎌倉時代以降使われるようになったようです。それまでは、「やぶさし」という形容詞と、そこから派生した「やぶさがる」という動詞がよく使われていたようですね。9世紀の文献にも出てきます。
 「やぶさし」も「やぶさがる」も「やぶさかなり」もケチ(ケチる)という意味です。
 だから、「やぶさかでない」というのは「ケチではない」「ケチらない」ということですよね。だから、現代語の辞書的にいうと「…する努力を惜しまない。喜んで…する」というのが正しい意味となります。
 つまり、野田さんはデモ参加者に喜んで面会する、面会する努力を惜しまないということですよね。本当にそういうニュアンスで言ったのでしょうかね。
 最初に書いたように、私たちは「やぶさかでない」をもっと消極的な意味合いで使っています。「会わないって言ってるわけじゃないよ」という感じでしょうか。
 そういう消極性の象徴として、「やぶさかではない」と「は」を入れることが多くあります。この「は」は最近の若者がよく使う「限定による責任回避」の「は」です。「やぶさかでない」よりも「やぶさかではない」の方が「やぶさか(ケチ)」だけを否定している感じがする。それ以上のことは知らないけど、そこだけは否定するよ的な感じ。
 だいいち、本当に(原義的に)「やぶさかでない」のであれば、「会います!」って言えばいいわけすよね。そこにをあえて「やぶさかではない」とか言うと、「実はイヤなんだけどね」という感じがにじみ出てしまう。
 ちなみに本来の用法としては「〜にやぶさかでない」というように「に」から接続するはずですが、最近はだいぶその形も崩れてしまったようですね。
 あっそうそう、山梨の方言で「やぶせったい」というのがあります。最初山梨に来た頃は全く意味が分からなかった。学習していくと「不快だ」「うざい・うざったい」(これらもルーツは山梨の方言です。富士北麓から八王子、そして都心から全国と広がった)という意味だということが分かりました。
 この「やぶせったい(やぶせし)」と「やぶさし」も関係しているかもしれませんね。なんとなく腰が重い感じが共通しています。
 いろいろ話が飛んで申し訳ありませんが、「吝」という漢字もよく見ると不思議ですね。「文」に「口」。「文」というのは「飾る」という意味ですよね。口を飾るのが「ケチ」というのはどういうことか。なんか深い意味がありそうですよね。
 いろいろ言い訳して金出さないとか(笑)。とにかく言葉数が多いのは、実はやる気がないっていうことでしょうかね。やっぱり「不言実行」が良いということでしょう。

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2012.07.30

『君は木村政彦を知っているか』 (テレビ東京)

 という闘魂の持ち主であろう。腕が折れ骨が砕けても闘う。試合には勝ったが、勝負への執念は私の完敗であった…エリオ・グレイシー戦後の木村政彦の言葉。
 毎晩オリンピックの柔道を興味深く観戦しています。私やカミさんの場合は、やはり格闘技として観てしまいます。
 格闘技として観る時、勝敗もさることながら、やはり「闘魂」も重視したいと思います。
 闘魂、闘争心、殺気のようなモノを感じるということで言えば、日本初の金メダルを獲得した松本薫選手は素晴らしかった。
 また、中矢力を破ったロシアのマンスール・イサエフもサンボ流の「怖さ」を体現していましたね。
 というわけで、今日は久しぶりにこれを観たくなったので、どうせですから皆さんと共有したいと思います。
 柔道の本当の強さとは…大作『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読むのはちょっと大変ですけれども、こちらの番組は90分弱で鑑賞することができます。
 木村政彦史としてもよくまとまっていますし、柔道の歴史を通観するのにもなかなか素晴らしい資料であると思います。なんと言っても様々な映像と最近の(10年前の)柔道家たちや、格闘家、そして関係者の貴重な証言が得られるのは貴重です。
 増田俊也さんの「力道山・木村政彦戦」観とは、少しズレがありますが、これもまたこれで一つの物語としては興味深い解釈だと思います。
 これを観てからロンドン五輪の柔道を観ると、また違った印象になると思います。では、どうぞ。

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2012.07.29

判定…

20120730_84111 日はスポーツ観戦三昧でした。
 昼は我が中学生たちの県総体の応援。女子バスケットボールは見事優勝。ちなみに昨日の女子柔道は団体初出場初優勝という快挙をなしとげました。
 バスケでもいろいろとジャッジの難しさを感じるシーンがありました。明らかな不公平はなかったものの、ファウルの見逃しもいくつかあったと思います。
 いや、それが普通だとも思いますよ。観客席から見ているのと、同じフロアで見ているのでは全然違いますし、試合には流れがあります。あくまで審判の判定が絶対というところを原点としなければスポーツを成り立ちません。
 よく言われるように審判、レフェリーが試合を作るということがありますよね。試合をダメにしてしまうレフェリングというのもあるわけです。
 その点、オリンピック柔道の海老沼と曹との準決勝は、まさに前代未聞の事態となってしまいましたね。旗判定のやり直しの結果、全く逆の結果となるなどということは、本来あってはならないことです。
 最初の青3本の時点で、何か特別な意図を感じずにいられませんでした。しかし、もともと柔道の国際大会では日本不利の判定になることが多く、それを乗り越えて圧倒的な勝利を収めないと、日本選手はなかなか優勝できないという事情がありました。だから、私はもう判定は覆られないと思っていました。
 それが、ああやってジュリー(審判委員)の異議申立てと助言によって、全く反対の結果になるなんて…正直驚きであり、純粋には喜べない複雑な感情に襲われました。
20120730_202143 このビデオ判定やジュリー制度が採用されるようになったのは、あのシドニー五輪での「世紀の大誤審」がきっかけとなっています。
 その「被害者」が、篠原信一男子柔道監督です。正直、今回はジュリーが、この篠原の表情に気圧されて判定を変えたのでは…。いや、冗談ではなく、篠原の目の前でまた「誤審」をそのままにしておくことはできなかったと思います。
 シドニーの時は「自分が弱かったから負けた」と潔く引き下がって、ある意味男気を見せた篠原でしたが、今回は監督という立場、逆に引き下がる気はなかったと思います。あの時は山下監督が猛抗議してくれましたからね。
 そんなことを思い出しながら見ているとなんとも言えない因縁を感じました。曹選手が淡々と引き下がったところには、篠原が見せた柔道の精神を見たような気さえしましたね。
 結果としては海老沼も曹も仲良く銅メダルということでした。しかし、なんとなく両選手にとっても、あるいは日韓両国民にとっても、後味の悪い結果となったしまいました。
 あの主審は日本人には絶対に旗を上げないことで有名な人だったとか。そんなこともあるんですね。
 木村政彦的に言えば、そういういろいろな不利なルールや判定であろうと、圧倒的に勝利しなければならないのでしょう。
 今日は中学生の剣道の試合も観戦しましたが、これこそ審判の判定が難しい…見る者にとっても非常に難しい…と感じました。これは絶対にオリンピック競技にならないなと。そういう世界もまたありでしょう。

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2012.07.28

Lynne Me Your Ears - Tribute to Jeff Lynne

Refdp_image_0 ンドンオリンピックが始まりました。ロックファンにはなかなか興味深い開会式でしたね。
 なるほどねえ。イギリスと言えばロックか。ブリティッシュ・ロック。アメリカン・ロックほどブラックの影響は強くなく、どちらかというと近代西洋音楽の系統とケルトなどのフォークソングの系統が強く感じられるロックですね。
 私も多くの日本人の御多分にもれず英ロックに育てられた男ですので、この開会式は格別に感慨深いものがありました。
 各国の入場行進の時にも、いろいろ懐かしい曲がかかっていましたが、ちょうどELOのMr.Blue Skyがかかっていた時に、こちらにELOマスターのTKJさまからタイムリーなコメントがつきました。
 おおっ!ジェフ・リンのニュー・アルバム「Long Wave」!これは楽しみ。今や英ロック界のみならず、世界のロック界の最重要人物と言えるジェフ・リン。このオリンピックイヤー、特にイギリスが注目を浴びるこの年にどんな集大成的な仕事(Long Wave)を聞かせてくれるのか。
 そしてELOのベストも発売されるとか。その名も「Mr.Blue Sky」。全曲再録音って…どういうレベルでの再録音なのでしょうか。選曲も含めてドキドキワクワクですね。
 やっぱり「Mr.Blue Sky」ってELOの代表曲なんだなあ。というか、ブリティッシュ・ポップ・ロックの代表曲なんでしょうね。こういうある意味スウィングしない縦ノリ。日本人もこういうノリが得意です(横ノリできない…笑)。
 いろいろ音楽が分かるようになってから、この曲を分析的に聴くと、本当によくできていることに驚きを覚えます。基本はシンプルな骨組みなんですけどね、コーラスワークやオーケストレーションが見事です。ビートルズの伝統を引き継ぎつつ、あえてコテコテにクラシカルなアレンジを施してロックの幅を拡げることに成功しています。ルイス・クラークの職人芸による部分も大きい。
 あとベース・ラインがいいですねえ。通奏低音という感じ。
 まあ、とにかく聴いてみてください。皆さんもどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。CMや番組のBGMでもけっこう使われていますからね。

 こんな感じでいろいろと懐かしんだり、未来にドキドキしたりしながらオリンピックの開会式を見ていたら、しまいにはポール・マッカートニーが「ヘイ・ジュード」を歌い出してしまった(笑)。ビートルズ…まあ、たしかに人類の遺産です。
 というわけで、久しぶりに聴きたくなったのが、このアルバムです。いろんなイギリスのミュージシャンによるELO(ジェフ・リン)の名曲の演奏。90分ほどでイギリス音楽の時間旅行をした気分です。
 みんななかなか面白く質の高い編曲、そして演奏をしていると思いますよ。正直、あんまりよく知らないアーティストもいますけどね。私はこういうカバー好きなんですよね。改めて原曲の良さを知ることになります。
 バロック風にアレンジしたらどうなるかなあとか、自分がバンドでやるとしたら…などと考えながら聴くのも楽しみの一つです。

Amazon Lynne Me Your Ears

iTunes Lynne Me Your Ears

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2012.07.27

「歌謡曲バンドふじやま」ライヴ@富士山荘納涼祭

Vlcsnap2012072806h54m24s124 日の記事で予告しました歌謡曲バンドのライヴが無事終わりました。
 いやあ、ホントに感動しました。いろいろなジャンルの音楽活動をしておりますが、やっぱりこれが一番だなあ…。
 これ、というのは、老人福祉施設での慰問演奏です。それも家族全員出演してのバンド演奏。こちらはもちろん、お年寄りの方々にも元気になってもらえる。音楽をやっていてこんなに幸せなことはありませんね。
 いや、ホントにですね、会場との一体感が並みじゃないですよ。すごい盛り上がりです。そして、そういう中で施設の方もびっくりするような奇跡が起きるんですよ。
 ふだん声も出さない方が大きな声で歌い出す。感情を表さなかった方が涙を流す。ここ数年完全に車椅子生活だった方が立ち上がって踊りだす…本当なんですよ。
 2年前にも別の施設で演奏し、やはり大きな反響をいただきました。こちらです。この時は、まだ娘たちはなんの楽器もできなかったのですが、今回はベースとアコーディオンで参加。こうして家族で社会に貢献できるのは嬉しいですね。
 今回のプログラムを記録として載せておきます。

1 きよしのズンドコ節
2 リンゴの唄
3 港町十三番地
4 浜辺の歌
5 富士山
6 荒城の月
7 ふるさと
8 お祭りマンボ
アンコール きよしのズンドコ節

 歌謡曲バンドふじやま
唄 山口陽子
ベース 山口紗季
アコーディオン 山口琴
キーボード 高根礼子
ヴァイオリン 山口隆之

 今回は同僚のキーボード奏者にお手伝いを頼みました。ウチのバンドにはたくさんのメンバーがいて、いろいろなパターンでの演奏が可能です。まさに臨機応変。
 ウチのバンドで演奏したいという方がいらっしゃったらぜひ連絡ください。ただし条件があります。練習は基本1回しかしません。練習というか曲決め、段取りや尺、構成の打ち合わせと称する飲み会だな(笑)。それでも「臨機応変に楽しく、細かいことにこだわらず、うるさいことは言わず、アドリブで演奏できる方」を求めます。実はすんごくハードルが高い?ww
 今日もボーカリストがとんでもない調で歌い始めたりするのにその場で合わせなくてはならなかったり、なかなかスリリングでした。これはある意味ジャズだな(笑)。
 今回は動画の撮影に失敗した(盛り上がりすぎて蹴っ飛ばされた?)ので、後半の音だけアップします。いろいろなアクシデントも楽しんでください。音程とか関係ないっすよ。

後半mp3

 交通費さえ出していただければ全国どこへでも出かけますので、お気軽にオファーくださいね。以下にメールください。

メール

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2012.07.26

手風琴(アコーディオン)登場

20120727_065842 日久々に歌謡曲バンドの活動があります。老人福祉施設でのボランティア演奏です。今回は家族バンド+1。
 同僚の先生にキーボードでお手伝いいただき、カミさんが歌、私がヴァイオリン、上の娘がベース、そして下の娘がアコーディオンという編成であります。
 上の娘は我が中学に入学し、かの有名なジャズバンド部に入ってベースを始めました。あっという間に私よりもうまくなってしまったので、今回初めて歌謡曲バンドでも弾いてもらうことに。
 下の娘は楽器はおろか音楽の訓練は全く受けていません。歌もあんまりうまくないし、じゃあどうしようかということで、結局アコーディオンを持たせることにしました。
 というのは、小学校の音楽会でアコーディオン担当になったと聞いていたからです。なら、ついでにマイアコーディオンを買って練習させようと。歌謡曲(演歌)の流しに手風琴はピッタリですし。
 ところが調べてみてびっくり。アコーディオンってめっちゃ高いんですね!
 昔から小学校で見かけてましたから、けっこう身近な楽器じゃないですか。だからなんとなくそんなに高いイメージがなかった。それが、最低でも10万円近いなんて…。ヴァイオリンより高いぞ。
 で、結局中古品を探して5000円弱で手に入れました。いちおうYAMAHAです。昔学校で使ってたヤツ。ソプラノの25鍵なので、今はもう生産されていないものです。ウン十年前のモノじゃないかな。ベルトの革の質感なんかからして、もしかすると私が小学校時代のモノかもしれません。
 私も持って弾いてみましたが、なんか超ノスタルジーですなあ。よくあるじゃないですか、小さい時よりもモノが小さく感じることって。自分のサイズがでかくなってるので、相対的にモノが小さくなる。
 そう、ほら、子ども時代って時間の過ぎるのも遅いし、モノがでかかった。こんな「事実」をとっても、やっぱり相対性理論は正しいと思うのであります(笑)。
 実際25鍵というのは最小サイズですよね。当時も小学校低学年用だったのでしょう。今では最小27鍵のようです。
 かなりの年代物のようですが、状態は非常によく、動作も発音も全く問題ありませんでした。よかった。
 考えてみると、アコーディオンというのは、携帯できるパイプオルガンそのものですからね。高いのも致し方ないのかもしれません。機械としてはかなり複雑で精巧なものですから。
 で、いきなり歌謡曲を数曲弾かせるというのもすごいですな。下の娘は楽譜とか読めないので、逆にテキトーに弾くのは得意です。ポイントだけ(たとえば「きよしのズンドコ節」のチャチャチャっていうところ)を教えていいにしちゃえ(笑)。
 本人もその気になってやってるので、いいとしましょう。というか、全体のリハも1回だけです。ウチのバンドはいつもこうです。構成と曲順だけ確認して、あとはその場でそれぞれが即興で合わせます(大丈夫か?)。
 上の娘も結局楽譜なしでテキトーにベースラインを作っていました。ジャズに比べれば簡単だとか(いや、実はそんなに甘くないのだぞ)。
 ま、とにかく明日頑張ります。お年寄りの方々に喜んでもらえるよう心をこめて演奏します。できが良かったら動画をアップします。
 

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2012.07.25

明見湖(はす池)

今年も蓮の花が咲き始めています↓
Img_5167 つものことながら(笑)急遽、中学で自然観察会を行いました。
 富士吉田市の明見湖(はす池)でコウモリやホタルの観察です。
 今回は、めだかの学校の校長先生で、明見湖の保護整備に尽力されており、また現在我が校の3年生の「米作り」を指導してくださっている勝俣源一さんと、動物写真家として有名な中川雄三さんにおいでいただき、解説、案内をしていただきました。
 突然のことにも関わらず、たくさんの生徒や保護者の方々に来ていただき、盛況のうちに実施することができましたので一安心。セキレイの飛ぶ姿や、コウモリの鳴き声や活動の様子、そして田んぼに群れるヘイケボタルを観察することができ、私としても大変充実した勉強になるひと時を過ごさせていただきました。
 ボランティアで子どもたちの教育に協力してくださる地域の大人の方々がいらっしゃることにまずは感謝感激ですね。こうして地域の子どもたちは育っていくのです。
 子どもも地域の自然の一部なんですよね。そう、子どもは自然そのものです。そういう意味で、最近特に教育は農業や里山の手入れと似ていると感じるのです。
 さて、この明見湖(はす池)ですが、私にとっては「聖地」なんですよね。今はまさに「蓮池」となっている(なってしまっている)のですが、以前は美しい湧水をたたえる湖だったと言います。
 近くは江戸時代、富士講行者の「水垢離」場として重要な役割を果たしていました。また、富士八湖の一つとして数えられたこともありましたし、伝説では富士高天原の中心に位置するシンボルであったとも言われています。徐福伝説の舞台でもあり、それにまつわる祠などもあり、また近くの山々には南朝伝説の遺跡等も散在しています。
 まさに虚実混交した「なまよみ」の場所なんですよね。
 「黄泉」と言えば…蓮の花も咲き始めていましたね。来週から再来週くらいがピークだと思いますので、ぜひ皆さん、湖一面のピンクの蓮の花をご覧になりにいらしていただきたいと思います。それはそれは幻想的です。極楽浄土ですよ。
 ちなみに午後になると蓮の花は閉じてしまうので、早朝から午前中にかけてがいいと思います。日の出の頃に行くと、花が開く音が聞こえるとか…。私も今年は早起きして行ってみようかと思います。
Img_5171 今日も美しい夕焼けが湖面に映り、なんとも幻想的な光景が目の前に広がっていました。やはりどこかこの世でないような、霊的な空気が漂っています。
 源一さんもいろいろな方面からこの明見湖を研究されています。私は源一さんと今年初めてお会いするご縁をいただいたのですが、ある意味非常に似た仮説を立てていたことを知り、大いに驚き共感することになりました。
 たとえばその一つが「葛飾北斎」に関すること。まさか自分と同じことを考えている人がいるとは夢にも思いませんでした(自分だけが知っている事実だと思っていた)。それについては、最近こちらに紹介されたので、ぜひお読みください。
 今私も、この明見湖(はす池)を舞台として全国的な、いや世界的なムーブメントを起こしたいと真剣に考えています。いろいろな方々の協力を得て実現したい。近いうちにチームを結成しようと思っています。その時はまた報告します。

Amazon 中川雄三「まちのコウモリ (ふしぎいっぱい写真絵本)」

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2012.07.24

イチロー電撃移籍

↓こんな絵を誰が想像したでしょうか。
Hl れこそまさに電撃ですね。こういう移籍すらイチローらしいというか、イチローにしかできない、イチローなら認められる奇跡という感じがしますね。
 それにしてもさすがにビックリしました。シーズン中の移籍ということはまああるとして、その日の対戦相手に移籍して、数時間後には敵チームの選手として古巣と戦うなんて。
 子どもの草野球ならないこともないか。いやむしろよくあること。対戦チームのパワーバランスをとって、試合自体を面白くするためなら、試合中でも1対2のトレードをしたりしますね。
 まあ、つまり大リーグもそういう理論で動いているわけです。ある意味子どもの世界のように、非常に理にかなった、あるいは功利的なビジネスの世界だということです。
 日本のプロ野球では難しいでしょうね。日本の大人の世界はいまだビジネスだけでは片付けられない約束事で動いていますから。義理人情がまだ生きています。
 どちらがいいとかそういうことではなく、イチローのような世界的な能力にはアメリカ的な形の方が向いていたということでしょう。
 プロレスでもありうるかな。プロレスの場合は入場してからの寝返りとかもありますからね。いきなりパートナーに襲いかかるとか(笑)。それとは違うか。でも会場の盛り上がりという意味では、それと同じような感じでしたよ。
 イチローについては、このブログでも何度も取り上げてきました。私は彼のたたずまいや言葉の端々に「禅」を見てきました。茂木健一郎さんを軽く一蹴したトーク・スペシャルなんか最高でしたね(笑)。
 そんなイチローも昨シーズンは連続200安打の記録も止まり、今シーズンも打撃不調。年齢を考えればたしかに動体視力や筋力などが低下してもおかしくない。
 ヤンキースとの契約も基本は今年いっぱいのものでしょうから、松井のように来年は居場所がないかもしれません。それこそアメリカ流ですね。
 

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2012.07.23

5弦ヴァイオリン入手。これはいい!

20120722_212147 要に迫られ5弦ヴァイオリンを買いました。
 必要とは…まず、ヴァイオリンとヴィオラ(&チェロ)の持ち替えが面倒くさいということです(笑)。ダブルケースに二挺持っていくのも重いし…ではなくてですね、こういうことです。
 今、中学の弦楽合奏部の顧問をやってまして、毎日生徒に教えなきゃならないじゃないですか。それもヴァイオリンからヴィオラ、そしてチェロまで。
 で、弾いて聞かせたりするにしても、いちいち楽器を持ち替えるのは実に面倒。だったら一つで済ませられるようにということです(なんという無精者)。
 実際便利ですよ。ヴァイオリンは上の4本で弾いて聞かせればいいし、ヴィオラは下の4本でいい(つまりC線が加わっているわけです)。そして、チェロは1オクターヴ上で弾けばよろしい。
 そう、ヴァイオリンでヴィオラやチェロのパートを弾いて教えるのが難しかったわけです。それが見事に解消されました。素晴らしい(笑)。
 ちなみに普通に5弦のヴァイオリンとしても使えます。どんな時に有用かと言いますと、ポピュラー音楽を演奏する際です。たとえば私、歌謡曲バンドやってるじゃないですか。歌謡曲のストリングスパートって、けっこう音域が広くてヴァイオリンだけではどうしてもカバーしきれないことが多いんです。C線があると、かなり使えます。チェロのパートもオクターヴ上で弾いてもいいし、エフェクターで1オクターヴ下げてもいい。いい感じですよ。
15984 ちなみにこの楽器、中国製ですが、非常によくできています。5万円しないのですが、とてもていねいなハンドメイドです。
 本体の構造自体は普通のヴァイオリンです。ネックはやや太く指板が広い。5弦に対応した作りですね。しかし、駒は普通のヴァイオリンのものと変わりませんから、それぞれの弦の間隔はやや狭くなっています。そのへんが普通のヴァイオリン弾きの方には弾きにくさとして感じられると思います。間隔が狭いと、弓の角度も微妙になりますからね。
 ま、私は7弦のヴィオラ・ダモーレなんかをずいぶんやってきましたので、そのあたりの感覚には自信があります。得意な分野ですね。おかげですぐに対応できました。生徒は苦労してましたが。
 音としては、G線が駒の中央近くにあるためか、やや響きが損なわれている感じがします。そのへんもヴィオラ・ダモーレに近い感じ。そして問題のC線は、これは予想以上によく鳴りました。ヴィオラのような深みは望めませんけれども、充分実用に耐えられる音色だと思います。
 それにしても、こういう楽器がずいぶんと安く手に入れられるようになりました。このような優れた手作りのヴァイオリン族の楽器を格安で提供してくれているのが、バイオリンJPさんというショップです。
 ウチの学校でも、また私自身もいろいろお世話になっております。もともと値段があってないようなものだったヴァイオリンの世界に価格破壊を起こしてくれました。ありがたい。本体はもちろん、弓や弦、その他のパーツやマニアックな道具など、本当に安く提供してくれています。
 安いと自分で手を入れやすいというのもありますね。実際、私はこちらで購入したバロックの弓を自分で削って使っています。高いものだとそうはいきませんからね(笑)。
 勉強熱心な店長さんともいろいろお話をさせていただいています。とにかくこうして無闇に高かったハードルを正常な状態にまで下げるのが、今後の日本のヴァイオリン文化の正常化にもつながると思っています。

JPバイオリン

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2012.07.22

富士山河口湖ジャズバー

(更新遅くなりました)
20120722_162734 期末の仕事を終えて河口湖ステラシアターへ。
 我が富士学苑中学・高等学校のジャズバンド部と昭和音楽大学のビッグバンドの共演です。
 本当なら梅雨明けの炎天下、ジャズにビールという組み合わせの「バー」だったはずなのですが、なにしろここのところの富士北麓は寒い!残念ながらビールはほとんど売れていませんでした。皆さんが飲んでいたら私も…と思ってたのに。
 しかし、演奏の方はそんな寒さを吹っ飛ばす素晴らしい熱さがあり、ノンアルコールビールでもすっかりいい気分にさせてくれました。
 我が校の演奏はいつもどおり中高生らしく楽しく新鮮でした。今のメンバーも順調に技術を向上させているのがよく分かりました。こうした成長を追えるのも学生バンドを聴く楽しみの一つですね。
 そして、相変わらずMCがうまい(笑)。これも上質のエンターテインメントには欠くべからざる要素ですからね。歴代のMCの中でも彼はダントツです。
 さて、今回、非常に期待しており、そしてその期待にたがわず素晴らしい演奏を聞かせてくれたのが、昭和音楽大学のビッグバンド「S.M.S.Lab.BAND」でした。
 彼らは、2009年に同大学に創設されジャズコースのアンサンブル履修者から選抜されたメンバーによって今年生まれたばかりのビッグバンドです。
20120722_180118 いやあ、本当にいい音、いい音楽でしたよ。予想以上、期待以上。なにが良かったって…最近大学生のビッグバンドにうんざりしていたので(失礼)、ホッとしたというか、やっぱりプロにしっかり指導されていると違うな、ジャズの本質、音楽の本質を見失わないでいると、こういうサウンドになるんだなと実感したんですね。
 そう、その逆、「うんざり」の理由は第8回 富士山の森 ジャズフェスタの記事をご覧ください。ずいぶん嫌味なこと書いていますが、あえて書いて良かったと思います。なぜなら、ちゃんとそこをクリアーしている大学生バンドがあったからです。そういう意味では(エセ)批評家としても安心させてもらいました。ありがとう。
 いや、ウチの卒業生がメンバーの中に3人いるからとか、そういうひいき目ではないですよ。実際、この前の富士山の森にも来ていた方数人と話しましたが、みんな私と同じ感想でしたから。昭和音大いいねえ!と。客観的な感想です。というか、普通の感性ならみんなそう思いますよ。
 まず、自分たちが音楽を心から楽しんでいるのが良かった。どこかのように頭でっかちに自己満足になっていない。楽しさ、幸福感を共有しようという姿勢こそ、音楽家の基本ですからね。後半ソロや指揮をなさった彼らの先生の一人トランペット奏者の小林正弘さんもステージでそうおっしゃってましたね。
 細かい技術的なことで言えば、たとえば金管のアンサンブルが絶妙でした。しっかりした音程の弱音で美しい和音を奏でるところなど、ちょっと鳥肌モノでした。よく訓練されているなあと。リズム隊の安定感、一体感も良かったし、サックスの技術も文句なしでした。
 それにしても、トロンボーンの先生、片岡雄三さんの演奏はすごかったなあ…。トロンボーンってすごい楽器だなあと再確認しました。いや、楽器というより、ホンモノのミュージシャンの表現の広大さというか、なんか「自然」なんですよね。不自然と自然の自然ではなくて、富士山とか湖とかの「自然」。風景が目に浮かぶというやつです。
 それから、ボーカルの先生、Minako"Mooki"Obataさんをフィーチャーしたチック・コリアの「Spain」が良かった!かっこよすぎ。アレンジも見事。
 先生たちの「自然」的な演奏を目の当たりにし、それにインスパイアされて「自然」を開拓していく感じの学生たちの音、という幸福な関係も良かったなあ。師弟とはこうあるべきだなあと、教育者のはしくれとして感じました。一緒にやってみせて伝える…これが理想ですね。
 ということで、まだまだ活動を始めたばかりの彼らですが、やや硬直化した感のある大学生ビッグバンド、大学生ジャスの世界に大きな衝撃を与えることでしょう。
 そして、彼らの中から、日本のジャズ界、あるいは世界のジャズ界にムーブメントを起こしていく人材が生まれるのかもしれません。期待しています。
 中高生にとってもとても良い刺激となったに違いありません。先輩たちの成長した姿にも触れられましたしね。先輩後輩、師弟…こうしてつながっていくのも音楽の素晴らしさです。


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2012.07.21

自民党のロゴマークは…

 日、おとといのマークの話が好評だったので、今日もそうしたお話です。
 おとといは民主党のロゴマークの気味悪さの話でしたね。では、対する自民党はどうなのでしょうか。
 まず、ここで「ロゴマーク」の定義を確認しておきましょう。
 「ロゴ(logo)」とはもともと「ロゴタイプ」の略称であります。すなわち、文字の意匠ですね。ロゴマークというのは和製英語のようです。文字を意匠化したもの、あるいは文字も含んだシンボルマーク全体を「ロゴマーク」、さらに縮めて「ロゴ」と呼ぶわけですね。
 もちろん「ロゴ」は「はじめにロゴス(言葉)ありき」の「ロゴス」とつながる言葉です。
 そうそう、昨日おとといも書きましたけど、「コト」が「コト」を招くということでは、昔書いた「はじめに言葉ありき」という記事を思い出しますね。つまり、名付けや抽象の結果現実化してしまうという、ロゴス(言葉やイコン)の暴力性の話です。
 そこでは「SAD」の話から「うつ」や「多動」や「学習障害」や「いじめ」や「ひきこもり」という言葉と現実の話に発展していますが、まああれから4年ほど経って、教育界はさらに「コト化」が進んでいてうんざりしますよ。いろいろな漢語やカタカナ語やアルファベット新語が跋扈して、先生方の思考や体験的実感や責任の請負を妨げています。
 そういう教育界のコト化(マニュアル化・法則化・技術化)の大御所がワタクシの天敵(笑)向山洋一です。
 おっと話が大幅に逸れた。ええと、ロゴマークの話だ。昨日の東電のマークは「T」を内包しているので、これはれっきとしたロゴマークですね。
Liberal_democratic_party_japan では自民党のロゴマークはというと、これでしょうかね。左の「自民党」という字体です。ゴシックをもとに独自の力感を加えたフォントとでも言えましょうか。このロゴタイプが最もメジャーなロゴマークですね。
 右にある「Lib Dems」は最近知りました。なんだかよく分からん、どう読んでいいのかも分からんロゴですね。これを単独で見て「自民党」だとか、「自由と民主主義」だとか誰も思わないでしょう。外国人にもよく分からんのでは。あってもなくてもいいただのカッコつけイメージという感じがしますな。
Ora091115_11 シンボルマークとしては、時々これを見かけますね。とは言え、これもまた、単独で見ると、「あれ?これどっかで見たな。でもなんだっけ」ということになりそうです。
 やはりメッセージ性が弱い。「自民」な感じがしない。どこかの幼稚園のマークみたい(笑)。
 昨日おとといのイコンの話で言えば、こうした自民党のロゴマークたちが、結局は本体の「中身のなさ」を象徴してしまっているとも言えます。あるいは幼稚さとか。
583208 そういう意味においては、私はですね、あえて自民党さんには堂々とこれを使ってほしいのですよ。
 菊花紋に自民の文字。いいじゃないですか。紫の色合いもいい。
 おっとご心配なく。自民党の菊花紋、花弁は14枚です。皇室は16枚。ちゃんと減らしてある。まあ当然ですね。
 ちなみに本当の菊の花はですね、無数に花弁があるように見えますよね。しかし、聞くところによるとキク科の植物の花弁数は全てたったの「5」なんだそうな。なんだかよく分かりませんが、5枚がそれぞれたくさんに割れているということでしょうか。
 菊花紋は古くからそこら中で使われてきました。一説によると後鳥羽上皇が菊花紋を好んでから皇室のシンボルとなったとか。そして明治2年に「十六八重表菊」が公式に皇室の紋となったそうです。
 パスポートの表紙にも菊花紋がありますよね。あれも十六菊ですが、八重ではないので皇室のシンボルとは違います。
 今日はなんだかいろいろ話が飛びましたけれども、まあとにかくロゴマークを考える時は慎重にということですね。ウチの学校も来年創立50周年でして、それに伴いロゴマークを考案中ですが、気をつけないと。

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2012.07.20

やっぱり危ないよな…東京電力のロゴマーク

Tepco2 日の「やっぱり変だよな…民主党のロゴマーク」に続きまして、今日は「やっぱり危ないよな…東京電力のロゴマーク(シンボルマーク)」です。
 最近よく言われるように、なんとなく民主党と東電のマークって関係がありそうに見えますよね。
 そう、東電の大きな赤丸(日の丸?)の中の二つの白い丸に、民主党のあれがはまりそうじゃないですか。実際には東電の方には重なりがないので、ぴったりははまりません。残念でした(何が?w)。
 しかし、今思うとこの東電のマーク、ずいぶんと象徴的ですよね。まさにイコンとして機能している。
 東京電力(TEPCO)のマークも大御所によるデザインです。民主党の浅葉さんに勝るとも劣らぬデザイン界の天才永井一正さんによる1987年の作品。
20120721_155305 それまでの東電のロゴは稲妻をモチーフにしたものでした。ものすごく地味です。キャラクターのピカちゃんは覚えてますよね。とっても懐かしい。
 昔はロゴにせよキャラクターにせよ、「自然エネルギー」の最たるもの「雷」がモチーフだったわけですが、1987年に今のロゴが生まれ、そして「でんこちゃん」も登場しました。
 そうそう、でんこちゃん、原発事故のあおりを受けて今年春リストラされちゃったんですよね(涙)。ちなみにでんこちゃんは人妻です。正式なプロフィールは次のようになっています。
 本名「分電でんこ」。電柱市電線町に住む。夫は技術系のサラリーマンで優しい性格の「分電盤太」。子供はいない。
 四半世紀にわたり節電を呼びかけたりして(つまり東電の利益にならないことをして)世のために頑張ってきたのに…今頃どうしてるのかなあ。
 で、でんこちゃんはたぶん人間で(すなわち自然で)、サイボーグとかロボットじゃないと思いますし、おそらくは何も悪いことをしてないと思うんですけどね、新しいロゴマークの方は、ちょっと因縁めいたエピソードがあるので紹介します。
 もともと永井さんのデザイン意図は次のようなものでした。なんとなく民主党に似てますが。
 「丸は和であり調和や信頼や温かさを象徴する」
 もちろん「T」が内包されていますね。あるいは「日の丸」も意識されていたことでしょう。
 しかし、面白いもので、次のような後付けの意味が加えられていくことになります。誰がどこで言い出したのか分かりませんが、東電社内でも実際にこのような解釈がなされていくわけです。分かりやすい、懐かしのアニCMがあったので御覧ください。

 すなわち、大きな丸はウランを表し、中の白抜きは二つの中性子が飛び出した跡。上の三つの小さな丸は、二つはウランから飛び出した中性子、もう一つはウランに外からやってきてウランに衝突した中性子。それ全体でウランの核分裂反応を象徴しているというわけです。
 1987年と言えば、東電の原発依存体質や原発利権構造も安定化した頃ですね。もともとは原子力をイメージしていなかったと思われますが、全く因果なものでして、いつのまにかこうしてイコンが本体たる東電自体の性格や運命を象徴するようになったわけですね。
 先日、「考える」を考えるという記事を書きましたが、そこに「コト化によってコトを招く」というようなことを書きました。記号化とは「コト化」そのものです。そこに人間の意図以上の「何かの意思」が働くから「コト」は怖いのです。
 イコン(アイコン)は常にそういう性質、つまり神か悪魔かのどちらかを招く性質があるということを私たちは忘れてはいけません(だからこそ、昨日書いたように民主党のロゴは心配なのです)。

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2012.07.19

やっぱり変だよな…民主党のロゴマーク

Logo_solo さらな話題ですみません。でも、やっぱり気持ち悪いのでここに書いておきます。
 3年前のあの政権交代の夏も、なんというか懐かしく思い出されますね。あの夏以来、日本はとんでもない方向に行ってしまったような気がします。
 もちろんそれまでの自民党政権にも大きな非がありました。しかし、なんというか、国の根幹を揺るがすような地殻変動はですね、やっぱり民主党政権になって一気に進んだような気がするんですよ。
 あの選挙の前に、国旗(日の丸)を切り刻んで民主党の党旗を作ったなんていう、まあその後の地殻変動(実際に大震災も起きてしまった)を予言するような馬鹿げた、しかし恐ろしい出来事もありましたっけ。
 その時は気づきませんでした。というか、あのなんちゃって党旗は日の丸のパッチワークでしたから、いちおう真円が二つ重なっていたわけですね。
 しかし、実際の民主党のロゴマークは、御存知の通り、下の円が円ではなく、ガタガタのいびつな図形です。間違いではなく正式にそういうものです。ちなみに上の画像はちゃんと民主党の公式ホームページからダウンロードしました。
 このロゴは、かの浅葉克己さんのデザインです。たしかに奇抜なデザインですよね。彼ならではという感じもしますが、やはり日本人にとって赤い丸は「日の丸」ですから、こんなふうにしてほしくなかった。
 浅葉さん自身はこのロゴについて、次のように説明しています。

 「2つの円。2つの球。それは、『民の力』の結合の象徴です。円は、球は、止まっていない。みなぎる力で動いてゆく。育ってゆく。生命体のように、成長しつつ、融合しつつ、新しい形を生み出していく。円は和でもあります。語り合い、論じ合いながら、一つの力になっていく。その無限大 ∞ の形に、未来への限りない可能性を示しつつ、真紅に、『民の力』は統合されていくのです」

 なんとなく分かるような分からないような。だいたい下の図形は円でも球でもありません。止まっていない生命体の表現ということなのかもしれませんが、少なくとも私には生命体という感じがしません。どちらかというと死んだ感じがします。
 これを水平線に昇る太陽とその写像だと説明する人もいるでしょう。あるいは抜け殻から真円が脱皮していく様子だと言う人もいるかもしれません。
20120720_110338 しかし、百歩譲ってそういう表現だとしても、せいぜいシンメトリックなデザインにしてほしかった。
 あの下半身(土台)の不安定感には、正直、不快や不安を感じます。これは本能的なものでしょう。
 皆さんもあまりまじまじと見たことがないと思いますので、ちょっと下半身だけ拡大してみましょう。
 どうですか。やっぱり気持ち悪いでしょう。ご覧になって分かるとおり、重なった部分の上の線もわざわざガタガタにしてあります。真円に不気味なモノが食い込んでいる、日の丸に不吉なモノが侵食しているように見えてしまいます。
 別に民主党の党是や主義主張がどうのということではなく、ロゴマークの持つ、すなわち古来あった記号の持つ言語を超えた意味という面で、非常に不安になるのです。
 アイコン(イコン)の持つ「聖性」の観点からして、このようなデザインをそれこそ旗印にすることに、いやな予感がしてなりません。
 実際、下支えしていた小沢一郎さんが、民主党党是の「国民の生活が第一」をそのまま骨抜きして、そのまんまの党名の新党を立ち上げてしまいました。こんなこと、世界史上ありえなかったことですよね。
 「円は和」と言いつつ、土台が「円」ではなかったわけで、つまり「不和」であったという意味では、このロゴは民主党の未来というか本質というものを見事に予言していたとも言えますか。
 このイコンには、ある種の「悪魔性」があったということでしょうかね。
 しっかしやっぱり変だなあ…私の感性がおかしいのかなあ。


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2012.07.18

「考える」について考える

20120719_195811 日も「自分で考えよう」と書きました。この「考える」という言葉、今まで考えたことありませんでしたが、なんだか不思議な言葉ですよね。
 えっ、何が?…ですよね。
 私のような日本語をちょっと勉強した者にとっては、「かんがえる」という音自体に不思議を感じるのです。「ん」が含まれる和語、それも動詞というのは珍しいなと。
 ちょっと似た響きの「かんがみる」は「鑑みる」、すなわち「鑑(かがみ)る」あるいは「鑑見る」、つまり「鏡を見る」、「鏡で見る」というような意味の動詞がなまったものです。「ん」が入っちゃったわけですね。
 それと同じように考えると、「考える」は「かがえる」だったということになります。古語で言うなら「かんがふ」ですから「かがふ」が元ということになる。
 実際に日本書紀には「ん」の脱落した「かがふ」という動詞の用例が見られるようです。
 もしかるすと、「うかがふ(うかがう)」と同源かもしれませんね。「うかがふ」には「考える」に近い意味もありますから、もしかするとこの説はありかもしれません。
 このあたりは研究した人がいないようなので、若い学者さんや学生さん、ぜひどうぞ(自分で調べるのは面倒臭いのでおまかせします…笑)。
 ちなみに古語には「男女が交遊する」という意味の動詞「かがふ」もあります。連用形「かがひ」は名詞としても使用されます。万葉集の東歌に登場し、また常陸風土記に「かがひ」とは「歌垣」のことであると出てきます。
 歌垣というのは、まあ古代の合コンみたいなもんですね(笑)。今も昔も合コンはさりげなく、しかし真剣に様子を「うかがい」、作戦を「考える」場でありますから、どこかで通じているかもしれません。
 妄想をさらに広げましょう。記紀には「かんがふ」ではなく「かむがふ」という表記も見られます。こうなると、単なるなまりでは説明しきれなくなりますね。
 「かん」に変化する「かむ」と言えば、「上」や「神」や「髪」が考えられます。「かんだちめ(上達部)」「かんだ(神田)」「かんざし(髪刺し)」などを想像してみてください。
 もし、「かむがふ」の「かむ」が「神」だとすると、ちょっと面白い解釈ができますね。つまり、「神」につながる「がふ」が何なのかということです。
 「がふ」は単独では「かふ」ですから、まず思い浮かべられるのは「交う」です。古語では「交ふ」。今でも「行き交う」とか「飛び交う」とか言いますよね。
 「神交ふ」で「神と交流する」っていうのはどうでしょう。「考える」という抽象的な行為は、実は神様の意思をおたずねしているのだと。
 ま、「かんがふ」は下二段活用、「かふ」は四段活用なので、無理があるかな。でも、「交ふ」と語源でつながる「違ふ」には四段と下二段二種類の活用があるし、ありえないこともないか。
 下二段にこだわるなら、「肯ふ」はどうでしょう。この「かふ」は文献としては「肯へず」という否定形でしか残っていません。
 「肯(がへ)んぜず」っていうのがあるじゃないですか。なんとなく聞いたことがあるでしょう。これってとっても複雑な生い立ちを持った言葉です。ついでですから説明しましょうか。
 異説もありますが、ここではワタクシの妄想説を紹介しましょう。「肯(か)ふ」に意志を表す「むとす」がついた「かへむとす」が「かへむず」「かへんず」と変化した(これはよくある音韻変化です)。さらに語頭が濁音化して「がへんず」となり、それに打ち消しの「ず」が付いて「がへんぜず」となったと。
 話を元に戻して、「かんがふ」の「がふ」がこの「肯ふ」だとするとどうでしょうか。「神肯ふ」、つまり「神の思し召しを了承する」という意味になりますね。これもまた面白い語源説ではないでしょうか。
 いずれにせよ、「考ふ」は「思ふ」とは違うイメージがありますね。「もの思ひ」という言葉が一般的であるように、ワタクシの「モノ・コト論」的に言えば、「思ふ」は「モノ」を目的語とするのですね。それに対して、「考ふ」は「コト」を対象とします。
 なんとなく思考する「思ふ」と、論理的に思考する「考ふ」も、「モノ・コト論」で「考える」と案外はっきりとした違いを確認することができます。
 神の思し召しは動かざる真理です。「コトワリ」です。それは「考える」対象となります。一方の「物思ひ」は、常に不安定で不確実な「モノノケ」を対象としているわけですね。
 とまあ、こんなコトを考えているワタクシの頭の中の働きはどんな感じかと言いますと、こうして言語化する(コト化する)ことによって、さらに向こうから勝手に「コトの葉」を呼び込んでいる感じなんですね。それこそ自分で考えているわけではない(笑)。自動書記に近い。
 そう、偉人たちが「考え出した」コトというのは、実はご自身の産物ではなく、向こうからやってきた「コト」なのかもしれません。つまり彼らはミーディアム(媒体)であったと。天才作曲家なんかもきっとそんな感じなんでしょうね。
 私もそういう境地に至りたい。いや、まだまだ修行が足りませんな。自我が強すぎます(苦笑)。
 あっ、ちなみに漢字の「考」は「亡き父」という意味なんですよ。やっぱり何かありますね。


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2012.07.17

正直呆れます…木村政昭著「富士山の噴火は始まっている!」のウソとこじつけ

20120718_162458 日の「教科書にのせたい!」に琉球大の木村政昭さんが出ていました。富士山の噴火の兆候を野口健さんと一緒に紹介していましたが、私のような富士山人からすると申し訳ないけれども噴飯モノのレベルでした。
 まあ、民放のバラエティーですから別にいいと言えばいいのですが、大震災以降富士山に特別な変化があったかのように都合のよい事例のみピックアップして報告するのはどうかと思います。
 ちなみに昨年の赤池の出現は地震の影響、噴火の兆候ではなく台風15号による精進湖の増水と連動したものですし、富士風穴の氷筍は昨年から今年にかけて急に小さくなったわけではありません。たしかに20年前と比べると氷の量は減っていますが、それは温暖化に伴うものであり、赤池同様気象性の現象であると思います。
 こうした事例が「都合よく」紹介されているのがこの本ですね。震災前のずいぶん古い事例も引っ張ってきていて、その涙ぐましい(?)努力には恐れ入ります(笑)。
 しかし、こういう内容を、あまり知識のない方が読むと、本当に富士山の噴火が迫っているという恐怖感を抱くでしょう。地元の人でもそうです。ましてや地元に土地勘がない方は必要以上に心配なさるでしょうね。
 もちろん、富士山の噴火が近づいていることは確かです。将来100%噴火するわけですから、それは間違いありません。3.11や3.15の影響が大きいことも承知しています。しかし、ウソやこじつけはいけません。
 ちょっと次の文章を読み図を見てみてください。

20120718_65825

 どうですか。これはこの本の冒頭部分からの抜粋です。国立大学の教授がこういうことを書けば、誰もが「富士山麓の忍野村で今までにない地震が頻発している。富士山自体が揺れ始めているのだ。これは噴火の兆候に違いない」と思うことでしょう。
 実際、そういう事例として紹介された文章です。
 しかし、この文章にはあまりに多くの「ウソ」があります。呆れるほどです。
 まず、「富士山北東麓はこれまでほとんど地震が起きない場所だった」という部分です。どこまでが北東麓と言うか問題ですけれども、次の1月28日の地震に触れていることからすると、道志方面もそのエリアに含めていると考えられます。なぜなら1月28日の地震は道志川断層帯を震源とする地震だったからです。ご存知の方も多いと思いますが、道志川断層帯は比較的活発な活断層です。こちらの記事に書いたとおり、10年から20年に一度M5の中規模地震が起きます。地元の人ならおなじみの地震です。
 今年の道志の地震を取り上げておいて、「ほとんど地震が起きない」はないでしょう。
 続いて「東日本大地震が起きてから急に地震活動が活発化している」という部分です。これはある意味結論的な大嘘なので最後に回します。
 次は「忍野村では、東日本大地震までの10年間、震度1以上の有感地震は一度も起きていなかった」という部分を検証しましょう。
 これもありえないウソですよ。たとえばこちらの甲府気象台発表の資料を御覧ください。2011年2月の月報です。この資料に2011年2月5日の千葉南方沖M5.2による山梨県下の震度一覧がありますが、ご覧のように震度2のところにしっかり「忍野村忍草」とあります。
 つまり、震災の前月にも震度2の地震を観測しているのです。
 いや、木村さんは、忍野村震源の地震のことを言っているのではないか、とおっしゃる読者もいるかもしれませんが、とんでもない。そここそこの文章のウソのツボです。それを確かめるために続く文を読んでみましょう。
 「それが、大地震後に一転。2011年5月に震度2を2回観測したあと、発生回数が急増している(図2)。2012年1月には前述の震度5弱を含め、7回の有感地震を観測した」
 これはひどいですね。たしかにここに示されている図は正しい。たしかに5月以降忍野村では図のような震度の地震を観測しています(ちなみに5月は震度2が3回です)。
 しかし、たとえばこちらの甲府気象台の5月の月報でも分かるとおり、これらの震源はほとんど全て「千葉」「茨城」「福島」などです。忍野村はもちろん、富士山北東麓も、山梨県もありません(たぶん。全部調べるのも馬鹿らしいので)。
 つまり、大地震の余震で忍野村が揺れたに過ぎず、これは忍野村に限らず東京でも全く同じ傾向があるわけですよね。それをまるで忍野村震源の地震が急増したかのように書いているわけです。
 これは詐欺ですよ。本を売るための詐欺とも言えますし、人心を乱す「風説の流布」にも当たりますでしょう。
 というわけで、結論的として後回しにした「東日本大地震が起きてから急に地震活動が活発化している」というのは、「忍野村(あるいは富士山北東麓、または富士山周辺)では」ではなく、「東日本では」ということなのです。
 あまりにひどいと思いませんか?こういうことを国立大学の教授が平気でやってのけるなんて。
 木村さんの業績には見るべき点も多々ありますし、この本自体にもウソではなく本当のこと、あるいは私も賛同できる予測もあります。しかし、ここで取り上げた1ページのみならず、他の部分にも「ウソ」や「こじつけ」があるのも事実です。
 読者の皆さんには、この本はそういう種類の本だということを知って読んでいただきたい。必要以上に恐れないでもらいたいということです。
 そして、情報はしっかり自分で得てほしい。自分で考えて自分で判断してほしい。こういう便利なネット時代になったんですから。エラい人の言葉を鵜呑みにしてると、またエラい目に合っちゃいますよ。
 こうしてツッコミを入れながら読めば、とても良いメディア・リテラシーの教材だと思います。特に富士山麓にお住まいの方にはおススメしておきます。

Amazon 富士山の噴火は始まっている!

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2012.07.16

見事な吊るし雲

20120716_190253

 暑の東京から帰ってくると、夕暮れの富士山の東側に見事な吊るし雲が出ていました。
 この写真をツイッターでアップすると、大変な反響がありました。みな驚いています。すごい!こわい!芸術だ!竜の巣だ!などなど。
 私たち富士山の住人にとっては、けっこう見慣れた光景ではありますが、今日は特に夕日に照らされて赤く輝いていたので、地元の人もみんな見上げていました。生徒からもいつくかメールで問い合わせが(笑)。たしかにいつもより大きかったし、異様な光景ではありました。
 今日は南からの強風で非常に強い上昇気流が生じていたようです。東京もとんでもない暑さでしたし、日本海側ではフェーン現象も起きていたようですね。
 富士山に南西から強風がぶつかり、斜面を昇って山頂を越えます。越えた風は波打ちながら北東に抜けていきます。そこに富士山の周囲を回ってきた風や、地表からの上昇気流などが複雑に絡まり合って、このような幻想的な雲を作り出します。
 昨年の4月の記事にはもっと複雑で多様な雲を紹介しました。「風と富士が生み出す雲の芸術」という記事です。ぜひ御覧ください。
 今日の吊るし雲の写真も、せっかくですからもう少し見てもらいましょうか。もう少し早い時間、つまり富士山が赤く輝いている時に撮りたかったんですが、高速道路を運転中でして。
 では、どうぞ。

↓森の間からUFO出現?
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↓富士山と吊るし雲をもう一枚
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↓吊るし雲の全体像
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 あの迫力というか存在感というか立体感は写真では伝わらないものです。ぜひ生で!と言ってもなかなか発生の予想は難しいんですよね。


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2012.07.15

教育プロレス

 (Macの調子が悪いので今日も引用記事です)
 津のいじめ事件等によって注目されている「教育プロレス」。
 私も幸村ケンシロウさんと同じ考えを持っています。これをもっと全国に広めたいと思っています。
 いずれは各団体に参加してもらい、両国国技館で「教育プロレス」祭をやりたいのです。プロレスのスタイルは多様です。それぞれの流儀で「教育」を体現してもらいたい。
 「痛み」、「努力」、「忍耐」、「闘魂」、「正々堂々」、「義侠」、「折れない心」、「たくましい肉体」、「倒れても立ち上がる姿」、「ぶつかりあってこその理解、信頼」、そして「いじめはダメ!」
…今の教育界に欠けているものがプロレスにはあります。
 そして、升席に全国の親子を無料招待する。親にもいろいろ語ってもらいたいのです。
 野田首相もプロレスファンならぜひとも私の計画にお力添えを。
 では、九州の「教育プロレス」を紹介した番組を二本御覧ください。
 まずは地元九州の番組。
 

 続いてNHKの番組。

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2012.07.14

富士風穴

20120714_135217 宅のMacBookの調子が悪く、いつものように記事を書けません(親指シフトのMacでなきゃダメという特殊体質…笑)。
 ということで、昔書いたエッセイを転載します。
 そう、今日栃木からカミさんのいとこ家族が遊びに来ましてね、それでせっかくですから樹海を案内したんです。で、久しぶりに富士風穴に行きました。天然の冷蔵庫にみんなビックリ。
 今日はそれにちなんで若かりし頃書いたエッセイ「暗黒」をお読みいただきます。では、どうぞ。


 「暗黒」

 太古から人間はひたすら暗黒を避けつづけてきた。
 太古…とりあえず夜は寝ていたようである。実に賢明な対策である。
 太古が終わると、人間はいろいろな事情から夜起きていることになった。すると、賢明な人間は、火やら電気やらを使いだした。暗黒は元から絶たなきゃだめ、というわけである。実に勇敢な行為である。
 日本もここ百数十年の間にずいぶんと頑張って、宇宙空間からでも、光の帯によってその輪郭が確認できるほどのライトアップを完成させた。
 実に明るく素晴らしい現代である。
 人間は「暗黒」に対する「明白」を勝ち取ったのである。思えば、いろいろなものが明白になった。謎というものがなくなった。目に見えないものを見るため、あるいは聞こえないものを聞くために、あらゆる発明がなされた。そして、それでも見えないもの、聞こえないものは、即ち存在しないものだと断じた。実に明白である。謎もなくなるはずである。
 私はなぜか幼いころから暗黒に憧れていたところがあった。それは、太古への憧憬なのか、胎内回帰願望なのか、あるいは幼くして現実逃避を画策していたのか、そのへんはさだかではないが、とにかく自分の世界に暗黒という、いわば遊びのジャンルがあったことは確かである。しかし、東京の団地住まいという実に文明的な生活を強いられていた私にとって、それは容易に手に入るものではなかった。物置きに一人入って内側から戸をそっと閉めてみる。母が買い物に出たすきに、押入れに入り込み内側からふすまをそっと閉めてみる。目をぎゅっとつぶってふとんを頭からかぶってみる。両目にフィルムケースのフタをガムテープではりつけてみる。あるいはそれらを複合的に試行してみる…。苦労せど暗黒は容易には得られなかった。
 小学校三年生くらいから、私は夜遅くまで起きていることができる現代人になった。そして、星の世界に興味を持ったのだが、もちろん高度経済成長の真っ只中で、かつ京浜工業地帯に隣接するという環境では、夜と言えども暗黒はとても見つかるものではなかった。ならばと、信州の山奥に父と友人と出かけたこともあったが、そこで見た満天の星空は驚くほど明るく、求めるものは実は田舎にもないのだと気づかされた。
 そんなこんなしているうちに、私はすっかり大人になってしまった。いろいろな経験をして、幼いころ自分を取り巻いていた謎もだいぶ解けてしまった。いや、謎の解明に快感すらおぼえていた。それを自分も人も勉強と呼んだ。そして、その勉強を教える先生という仕事に就くため、大学生になった。暗黒と出会うことは、すなわち死を迎えることなのだと、漠然と思いはじめていた。が…。
 暗黒は忘れたころにやってきた。懐中電灯は私の手からこぼれ落ちると、そのまま氷上を音もなく滑り降りた。そして、十数メートル先の岩に吸い込まれるように激突すると、その灯を忽然と絶った。もう暗黒なんて生きているうちには関係ない、と自信たっぷりだった大学生は生きたまま突然暗黒に包まれた。

 私は大学生になると、高校時代からの相棒と、よく富士山に出かけるようになっていた。富士山といっても、それに登るのではない。もぐりにいくのである。しゃれて言えば、ケービングである。いわば、洞窟探険、穴もぐりである。今はそれほどでもないが、大学二年生から社会人一年生まで、我々はとりつかれたように青木ヶ原樹海に通った。そして、溶岩塊と倒木が行く手を阻む中を、ひたすら穴を求めてさまよった。そして、大小かかわらず見つけた穴全てに潜入を試みた。これも、私の本能のどの部分による行動なのか判断が難しいが、とにかく、穴があったら入りたい、なのである。
 この日は、洞窟初体験という知り合いを連れて、有名な「富士風穴」という穴を目指したのだった。「富士風穴」はかなり大きな穴である。総延長五八二メートル。壮大なスケールである。しかし、ザイルやロープなどの特別な道具も必要なく、また、入口から二〇〇メートルくらいまでは天井が非常に高く、洞窟探険につきものの匍匐前進はもちろん、腰をかがめる必要もない。そして、夏でも床、壁、天井の全てが結氷しており、そこら中に幻想的な氷柱が見られる。そんなところが、初心者を驚かせ、感動させ、また適度に不安にさせるに適しているのであった。我々案内人は、この穴の全てを知り尽くしているつもりだった。数十回の入洞経験があったからである。我々はいつものように、ふだん着に、懐中電灯はたまたま車の中にあった一本、という軽装で潜入を開始した。
 その日もケービングは順調に進行した。初心者の驚嘆の声と悲鳴も予想以上に聞かれ、我々案内人は満足の笑みを浮かべながら氷上に歩を進めた。読者諸氏はスケートリンクの上を普通の靴で歩いたことのおありだろうか。あのように平坦でよく整備された氷の上でさえも、我々は思うままに歩くことができない。それがもし坂道であったなら、いかがであろうか。結果は想像に難くない。「富士風穴」の面白さと怖さはそこにあった。この穴はかなりの斜度を持っている。つまり、歩を進めるということは、まさに地中に潜っていくということになる。途中にはちょっとした小山を下るくらいの急なところもあったりする。その日もそこにさしかかった。そこがこのツアーのクライマックスである。
 ここでちょっと私の足元を確認しておこう。その日、私は通勤用の革靴を履いていた。ああ、これがこれから起こるべきアクシデントの原因なのかとお思いの方、真理というか便利は意外なところにあったりするので、早合点は禁物である。実はこの靴こそが、氷の道をアスファルトの道のごときに変えてしまう、魔法の靴なのであった。読者諸氏も覚えておかれるとよいが、氷上では、一見心強そうな運動靴や登山靴は全くの無力で、どういうわけか、ある種の革靴がまるでスタッドレスタイヤのように氷に食いつき、全く滑らないという不思議を実現するのである(ちなみに学校用の上履きも同様であったと、教え子から報告があった)。その日も魔法の靴が活躍したことは言うまでもない。
 さて、クライマックスである。私は余裕をもってその急坂を下った。そして、坂の下から懐中電灯で初心者の足元を照らし、中腰の体勢をとった。場合によっては滑り落ちてくるであろう初心者を受け止めるためである。
 「さあ、思い切って滑ってこい。ちゃんとキャッチするから」
 「い、い、い、いくぞ〜」
 初心者は予想以上の勇猛さを発揮し、かなりのスピードで滑り落ちてきた。直滑降である。大概は途中でバランスを崩し、転倒してスピードがダウンするものである。そして、私はスポットライトに浮かぶその姿に爆笑しながら彼をキャッチするのである。しかし、その日の初心者は体育会系ということもあってか、妙にバランス感覚に優れており、素晴らしい加速を見せながら私に突進してきたのである。初心者の嬉しそうな顔が迫ってくる。私の表情は爆笑どころか引きつりはじめた。「キャ、キャ、キャ、キャッチできない」…とはいえ、私が私の義務を怠ったら、初心者はあと十数メートルは暗闇のなか加速を続けて、大きくカーブした洞窟の壁面に激突するのである。なにしろ四方が氷なので、どこに爪を立てようと止まることはできない。
 私は結局全身で初心者を受け止めた。が、あまりの衝撃にもろともに転倒してしまった。そして、左手に持っていたカメラは二人の体重を支えるために氷の床に叩きつけられ、あえなく破損した。右手は遅れて着地したが、そこにあった懐中電灯は一瞬フワッと宙に舞い、回転灯のようにきれいな円を描きながら氷上を滑り降りていった。
 おそらく激突のショックで接触が悪くなったのだろう。回転灯はその回転を止めるとともにその灯も失った。そして単なる調子の悪い役立たずの懐中電灯となった。
 私、いや我々は生まれて初めて暗黒を体験した。複雑に曲がりくねった洞窟内には、外界の光は全く入ってこない。そこで懐中電灯という一筋の光も不慮の事故で失った。これこそ全くの暗黒である。
 たしかに最初のうちは例えようのない恐怖が私の鼓動を早く大きくした。しかし、どれくらい時間が経っただろう。私は自分の内側から不思議な平安な気分が沸き上がってくるのを感じ始めていた。
 非常に不思議な感覚である。まず聴覚が異常に研ぎ澄まされてきたのだ。空気の流れとか、水滴の落ちる音が鮮明に聞こえる。その方向感、距離感もかなりの精度と思われる。そして、さらに時間が経つにつれ、私たちはお互いの場所を全くの誤差なくここだと言えるようになっていったのである。しかし、それは聴覚による確信ではない。むろん視覚でもない。肌で感じているのだ。全身がセンサーになって、人の場所、壁の場所、小山の場所、なんでも分かるのだ。それこそ安心である。第三の目というのか、第六感というのか、とにかく、日常では発揮されない潜在能力が一気に開花したような気がした。そして、その能力のおかげで、私は懐中電灯のあるところへ何の迷いもなく歩いていくことができた。今考えると本当に不思議である。謎である。自分の中にもこんな謎があったのか。
 拾い上げた懐中電灯は、幸運にも振ったり叩いたりしているうちに息を吹き返した。そして、その光が我々の網膜に達した時、我々は残念ながらいつもの自分に戻っていたのである。
 もと来た道をはい上がり、洞窟の入口から射す外界の光を見た我々はほっと胸をなでおろした。懐中電灯が見つからなかったら、あるいは見つかっても電球が切れていたら、いろいろ考えてゾッとした。しかし、もしかすると、そういう最悪の状況でも、我々は無事生還できたのではないかとも思った。ふと夏空を見上げると、数匹のコウモリが頭上を旋回したのち、暗黒の中に吸い込まれていった。

 太古、暗黒は人間の能力を引き出す、いわば神のような存在だったのかもしれない。だから、避けていたのではなく、おそれていたのである。しかし、人間は持ち前の傲慢さをもって暗黒を日常から追いやった。暗黒時代は過去のものとなり、暗黒街は一掃された。実に明白な現代となった。暗黒は非日常に幽閉された。日常の私たちにとって非日常は怖い。避けたい。しかし、そんな中に人間が忘れていた人間の謎があった。私の体験した暗黒は、ちょっと魅力的だった。

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2012.07.13

13日の金曜日

↓海洋堂から発売されているフィギュア
Mono139314_pho01 日は「13日の金曜日」。なんとなく縁起が悪いイメージがある「13日の金曜日」ですが、その起源をご存知ですか。
 巷間に流布している「キリストの磔刑が13日の金曜日だった」というのはどうも間違いのようです。いや、間違いとは言えない部分もあるかな。実際キリスト教圏でもそう信じられているようですから。
 キリストの磔刑が金曜日であるのは記録上(聖書上)たしかです。しかし、その日にちに関しては諸説あります。14日か15日というのが有力なようですが、13日である可能性は低いらしい。
 では、なぜ13日と言われるようになったかというと、たぶん、「13」という凶数が先にあったんでしょうね。
 13がなぜ凶数かというのも難しい問題です。これまたいろいろな説があり、たとえばキリスト教関係では、イスカリオテのユダが13番目の弟子だったからなどとも言われるようですが、彼はれっきとした十二使徒の一人であって、これもまた「13」という凶数に引っ張られた間違いであると思います。
 では、なぜなのか。私は「13」が「12」の次の数字ということで迫害されたんじゃないかと思うんです。推測というか直感にすぎませんがね。
 ご存知のとおり「12」は特別に目をかけられてきた数字です。1,2,3,4,6,12という多数の約数を持つことがまずその理由でしょうか。世界各地に12進法が存在することからも、12が良数、あるいは聖数だということが分かります。
 それに比べて「13」はどうでしょう。ある意味13とは対照的ですね。もちろん約数は1と自分自身しかない素数です。12進法では13からは別世界という感じがあります。ほら、英語やドイツ語では、13から表現法が変わりますよね。
 まあそんなことから12があまりに優等生なので、その隣の13がとばっちりを受けたのではないでしょうか(笑)。
 境界線にいたための不幸というのは、人間界にもありますよね。年号が変わっただけで新人類と言われたり、ギリギリ自分のところでエレベーターに乗れなかったり(笑)。13というのはそういうツイてない奴なんですよ。
 日本では、さらに不運なことに、4(死)と9(苦)を足すと13になっちゃうんですよね。どこまでツイてないのか。
 ところで、「13日の金曜日」はどのくらいの頻度でやってくるのでしょうか。実は「13日の金曜日」が
ない年はないんですよね、理論的に。ただ、その回数は年に1〜3と変化します。ちなみに今年は3回。1月、4月、7月。
 次回は来年の9月。つまり1年以上間が空きます。これは実は珍しいことです。次回は2027年から28年にかけての14ヶ月です。なんとなく気になる人にとっては、明日からしばらくは平穏な日が続くということですね。いや、それ以前に来年は2013年か。13年の金曜日は毎週やってくる(笑)。
 ちなみに、今年の1月13日金曜日には野田内閣が組閣しました。なんとも縁起の悪い内閣ですね(苦笑)。

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2012.07.12

渡辺玉枝さん講演会

599511 む、こういうのを本当の「超能力」と言うのではないか。昨日の話で言えば、ボルトやイチローやキース・ジャレットや羽生名人の次元での「超能力」です。
 今日、本校で、エベレスト女性世界最高齢登頂記録の偉業を成し遂げた渡辺玉枝さんの講演が行われました。女性、それも73歳にして8000メートルを超える世界最高峰に登頂するなんて…。そんな最強の玉枝さんは河口湖の出身です。
 あまりに当たり前に淡々と「偉業」について語る姿、そして、あまりに「普通のおばあちゃん」的なたたずまいに、ある意味では肩透かしを食らったような感さえあります。
 我々シロウト感覚では、「山登り=人生」とか、「そこに山があるから登る」というような目的論とか、そういう話を期待してまっていたのですが、そういう意味ではまるっきり裏切られたと言えるかもしれません。
 いや、それでガッカリしたのではなく、それ以上に大切なことを学んだような気がしたんです。
 そう、「偉業」って「偉業」だと意識していては実現しないんですよね。まるで日常のように淡々とやるべきことをやる、それが「偉業」への唯一の王道なんですね。それを感じました。
 裏山(黒岳)や三ツ峠に登った達成感とエベレスト登頂の達成感は、それほど違わないという。全くの驚きでした。
 「超能力」を持った「天才」は、みんなきっとそうなんでしょうね。日常的な行為と感覚の積み重ねが結果として「偉業」となる。山登りはそんな真実のメタファーなのかも…なんていう、結局ありがちな結論に至ってしまった(笑)。
 まあ、とにかく期待とは違った意味で感動してしまいました。
Ymn12070719180004p1 今日の講演の最初にもありましたとおり、玉枝さんと本校、今年は不思議な縁があったんですよね。
 先日、紹介した高校野球選手宣誓のあと、開幕第1試合の始球式で投手を務めたのが、渡辺玉枝さんなんです。
 我が校の野球部はとりあえず2回戦を突破しました。甲子園出場という「偉業」も、日常的な当たり前なことを積み重ねていくしかないのでしょうね。最初から「偉業」を成し遂げようとするのではなく、一戦一戦コツコツ練習の成果をあげていくしかないのでしょう。
 自分の仕事や趣味もそう。結局、「超能力」って「超・日常的能力」ということでしょうかね。
 
 
 
 

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2012.07.11

『オカルト…現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』 森達也 (角川書店)

20120421_1072556 わぁ、忙しい忙しい…こういう時こそ「超能力」がほしい!「超悩力」は今はいらない(笑)。
 今日、この本にも登場する世界的な超能力者が富士山麓にいらしていたそうでして、私は残念ながらお会いできませんでしたが、知り合いは謁見かなったとのこと。
 その方々によれば、富士山自体が超能力パワーに満ちあふれているのだとか。じゃあ、そこに住んでる私はどんだけパワーをいただいているのか。
 そうそう、先週でしたか、酔っ払ったついでに、その超能力者直伝のスプーン曲げを家族の前でやってしまいました。
 直伝といっても、直接お会いして習ったということではありませんよ。ウン十年前、その方がテレビに出られて、そして電波に乗せて全国にパワーを送って下さったのです。そして、私の手にしたスプーンも見事に曲がったと。それ以来、スプーン曲げは私の特技の一つとなったのでした(笑)。
20120708_91918 先週曲げたスプーンはこちら。
 どうですか。見事に曲がっているでしょう。曲がりすぎ?w
 指先一つでフニャっと曲がってしまったスプーンを見て、家族も最初はビックリしていました。しかし、さすがに家族全員分のスプーンがグニャグニャになる段になると、飽きてきたのか呆れてきたのか、しまいにはスプーンが使えなくなると怒り出しました。
120707_19_39_23 そして、私は自分が曲げてしまったスプーンでカレーを食べることに(笑)。
 そう、スプーンなんか曲げられてもなんの得にもなりません。損です。ちなみに私のスプーン曲げは、おそらくは超能力ではなくて、職人技の領域だと思います。別に念を入れなくてもできるし。
 そういう意味では、私はいわゆる超能力を冷めた目で見ているとも言えます。ちょっとした予知(最近もあった)や、読心術や、プチ霊視みたいなものは、自分と相手がその気になれば、簡単にできますから、別に特殊な能力だと思ってないんですね。
 なんて、こんなことを言うと、とっても怪しまれるし、センセーとして失格だと怒られそうですね。それもよく分かります。戦後の教育によって排除されたのは宗教も含んだ心霊学、つまりオカルトですから。
 そう、戦中までは、まあ驚くほどにオカルトが一般的だったんですよね。教育者のみならず、政治家も科学者も文学者もみんなオカルトをオカルトだと意識せず、日常の中で信じ、利用し、楽しみ、恐れていたんですよね。
 それが正しいとか正しくないとかではなく、事実としてGHQ(アメリカ)はそれを排除しました。あのアメリカが恐れた日本的オカルトの本性を、私は今とっても知りたく思っています。
 もちろん、それは私の「モノ・コト論」の一部です。この本のサブタイトル「現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ」の「モノ」はまさしく私の言う「未知・不随意・外部」などを表す日本語の「モノ」です。「コト」の対義語。
 この本はそうした「モノ」を「コト」化しようと試みた意欲作です。
 戦前戦中までだったら、またちょっと違った感覚でとらえられていたであろう各種オカルト領域の生き残りたちに、森さん自身が実際に会って、その現象や本人の言動を考察したドキュメンタリー。森さん、具体的には「エスパー、心霊研究家、超心理学者、スピリチュアルワーカー、怪異蒐集家、陰陽師、UFO観測家、臨死体験者、メンタリスト」などに会っています。
 はたして、そうした「物の怪」たちの言動や彼らが引き起こす現象の数々を「言葉」で捕獲できたのか。それは読んでみてのお楽しみです。
 私はけっこう楽しく読めました。久しぶりにスプーン曲げやってみようと思ったのもこの本のおかげです(笑)。
 そして、やっぱり、(自分も含めて)オカルトの超能力よりも、ボルトやイチローやキース・ジャレットや羽生名人の「超・能力」の方がずっとすごいなと思ってしまいました。
 そっちの超能力も、実は戦後の学校からは排除されたのかもなあ…。先生自体も凡人(あるいはそれ以下)ばかりになってしまったし(苦笑)。
 さて、もうスプーンなんか曲げてないで仕事仕事。普通の能力&悩力で頑張ります。

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2012.07.10

フジファブリック 『陽炎』

 日は志村正彦くんの32回目の誕生日。たくさんのファンやミュージシャン仲間が、それぞれの形で彼の功績を偲ぶ一日となったようです。
 私の職場のある富士吉田にもたくさんのファンの方々がいらしていたようですね。富士山も皆さんを歓迎していたようで、梅雨時にもかかわらずその美しい姿を惜しげもなく見せてくれていました。
 今日は私もツイッターで彼のことを思い、何度かつぶやきました。最後にツイートした次の言葉が、私の正直な気持ちです。やっぱり悲しいし悔しい、けれども、私たちも前に進まなければならない。彼の遺してくれた作品はいつでも生き生きと前に進んでいるからです。

 『今日は尊敬すべき青年志村正彦の誕生日。彼が永遠の青年になってしまったのは我々人類の損失だったかもしれない。しかし彼の残した作品は時代とともに成長し続ける。そんな財産を遺してくれた彼にあらためて感謝したい』

 彼が遺してくれた財産の中でも、やはりこの曲は特別でしょう。以前陽炎が揺れてるという記事でも紹介しましたね。
 この曲一つだけでも、世界を、そして世界の見方を、私たちの生き方を変えてしまうほどの力を持っています。
 理屈抜きで、いや理屈を寄せつけず、素晴らしい楽曲です。切なく熱く美しい。不安定だけれども安心を与えてくれる。ローカルなのにグローバル。長調のようで短調。バラードのようでロック。あらゆる多様性を持った、まさに普遍性を持った名曲ですね。
 あらためてこの曲を聴きながら、彼と出会えた幸せと、彼のいない虚しさを感じたいと思います。

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2012.07.09

追悼 山田五十鈴…『東京暮色』より

Hl 本文化を支えていらした女性のお一人、山田五十鈴さんがお亡くなりになりました。
 五十鈴さんの経歴や功績を紹介するとなると、東宝の映画群、あるいは新劇の舞台群を挙げなければなりませんが、あえて私はこの小津安二郎作品を紹介したいと思います。
 この「東京暮色」は、当時すでに溝口作品や黒澤作品などを通じて大女優だった五十鈴さんが、唯一出演した小津作品です。
 単にそういう意味でもレアな仕事の一つと言えるかもしれません。しかし、それよりなにしろ、この「東京暮色」での雀荘の女主人喜久子役がなんとも渋いんですよね。ものすごくいい演技をしていると私は思います。
 小津作品の中でも「失敗作」として名高い(?)この「東京暮色」。今観ると、まさに現代を象徴するような暗さに満ちた作品ですね。昨日の超「脳」力の話で言えば、やはり小津安二郎は「予言者」だったわけですね。
 まあそれにしても暗い映画ですなあ。戦後10年やそこらで、もうこんなに現代的になっていたんですね、日本は。ちょっとあらすじを読んでみてくださいよ。wikiから拝借。

 杉山周吉(笠智衆)は銀行の監査役を勤め、男手一つで二人の娘を育ててきた。ところが、姉の孝子(原節子)が夫との折り合いが悪く幼い娘を連れて実家に戻ってくる。妹の明子(有馬稲子)は大学を出たばかりだが、遊び人の川口(高橋貞二)らと付き合ううち、恋人の木村(田浦正巳)の子をみごもってしまう。木村は明子を避けるようになり、明子は木村を捜して街をさまよう。中絶の費用を用立てするため、明子は叔母の重子(杉村春子)に金を借りようとするが断られ、重子からこれを聞いた周吉はいぶかしく思う。
 その頃、明子はとある五反田の雀荘の女主人喜久子(山田五十鈴)が自分のことを尋ねていたことを聞き、実際に話もして、その女性こそ自分の実母ではないかと姉の孝子に質すが、孝子は即座に否定する。しかし、重子の口からやはり喜久子が都内にいると聞いた孝子は自ら喜久子のところへ赴き、明子には母であることを告げないでほしいと強く頼む。喜久子はかつて周吉が京城(ソウル)に赴任していたときに周吉の部下と深い仲になり、夫と幼い娘たちを出奔した過去があったのだ。
 明子は中絶手術を受けた後で、喜久子がやはり自分の母であることを知って喜久子の元に赴き、自分は本当に父の子なのかと母を質す。喜久子は間違いなく明子が周吉の子であるというが、「不義の女性」の血が自分に流れていることがかえって明子を絶望させる。明子は場末の中華料理店で不意に木村と出くわすが、その不誠実な態度にも絶望し、木村を激しく叩いて店を飛び出す。明子は鉄道にはねられ、瀕死の重傷を負う。駆けつけた父と姉の前で明子は「死にたくない」ともらすが、息をひきとる。
 孝子は一人喜久子の元に赴くと明子が死んだことを伝え、すべて母の所為であると言い放つ。「自分の子どもに片親の苦しみを味わわせたくない」と孝子は意を決して夫の元に戻り、喜久子も現在の夫と共に東京を離れて北海道へ赴く決意をする。周吉はひとり日常生活へ戻っていく。

 こんな天才の予言をよりリアルなものにしているのが、山田五十鈴さんの演技であると思います。
 思いがけずYouTubeにその大切なシーンがありましたので、ぜひ御覧ください。

 う〜む、素晴らしい女優さんでしたなあ。私にとっては、まさに「日本の女性」という印象でした。また昭和は遠くなっていきました。いや、五十鈴さんが演じた「日本の女性」はもっともっと遠くの風景、女性像だったのかもしれません。
 ご冥福をお祈りします。


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2012.07.08

『悩む力と我々の生き方 夏目漱石の予言とは…』(BSフジLIVEプライムニース)

20120709_114111_2 日は疲れました。ぐったりです。心地良い疲れとも言えますけど、悩ましいほどに精神がすり減ったとも言えます。
 ドヴォルザークの本番があったのですが、まあ大変でした。単に個人的な練習不足という面もあります。そして、そこにプラスして全体の合奏練習も不足ということで、あの複雑なロマン派の作品がまるで現代音楽のように崩壊しそうでした(苦笑)。
 おかげで一つ大切なことに気づきましたよ。たとえばバロックや古典派の作品が空中分解しても、いわゆる現代音楽やジャズは生まれなかったなと。そう、ロマン派が自己崩壊して近現代の音楽につながっていったことが体感的に分かりました。やっぱり時代の必然だったのか。
 そんな屁理屈で自分を慰めないで反省しろ!という声が聞こえてきそうですね。たしかにそうですが、失敗から学ぶこともたくさんあります。
 今日はそんな話を、私なんかよりずっと立派で、かつ悩みや苦しみをたくさん味わってきた方に語ってもらいましょう。
 先週の金曜日のプライムニュースは、姜尚中さんと島田裕巳さんをゲストに招き、『悩む力と我々の生き方 夏目漱石の予言とは…』というテーマでのお話でした。
 たしかに漱石は予言していますね。おとといのニーチェもそうですけど、やっぱり偉人というのは、時代を超えた発想をし発言をするものです。普遍的なんですよね、言葉が。だから結果として予言になる。
 彼ら含め予言者というのは、決して未来を見る超能力を持っているわけではありません。世界の本質、人間の本質を見極める「超能力」を持っているのです。だから、彼らの思想や言説は、未来だけでなく過去にも敷衍することができるのです。
 で、そういう「超能力」を身に付けるにはどうすればいいかというとですね、つまり「悩む」しかないのです。私の知っている限り、歴史に名を残す聖人君子は、皆一様に「超悩力」を持っている。超能力じゃなくて超「悩」力ですよ(笑)。
 これが姜さんや島田さん言う「悩む力」なのです。世の中の真理や摂理を感得する超能力を得るための唯一の方法。
 私自身は悩みのないおめでたい人間でして、そういう意味では全く「超悩力」のない人間でして、ある意味そこが悩みなのですが、学校では自分のことは棚に上げて(ちなみに教師とは自分のことを棚に上げるプロです)、悩み、苦しみ、葛藤、衝突、反抗のみが成長の種だ、みたいなことを言います。
 でも、それだけは確かですよね。だから、私は学校とは「安心して、悩み、苦しみ、葛藤し、衝突し、反抗できる場所」であるべきだと主張しているのです。
 お釈迦様が語ったのも「超悩力」だと思います。彼の言う「苦」とは思い通りにならないことに対する「悩み」ということですね。それを乗り越えろと。それが「苦諦」ということです。苦諦については、以前こちらに書きましたっけ。
 さて、話を戻しましょう。今回の放送はいつもの通り、こちらでしばらく見ることができます。動画の公開が終わるとテキストになりますから、それを読むのもよいでしょう。
 今回の姜さんの話は、以前紹介した彼のベストセラー「悩む力」と、その続編である「続・悩む力」の内容をベースにしたものです。
 フランクルの言う人間の価値「創造・経験・態度」の解釈は面白かったな。そこからもいろいろと妄想しましたが、それはまたいつか。
 皆さんもぜひ視聴してみてください。そして「超悩力」を身につけるべくお互い存分悩みましょう。「運命は受け入れよ。人為は乗り越えよ(姜)」「ピンチがチャンス(島田)」。

Amazon 続・悩む力
 

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2012.07.07

甲子園を目指して…選手宣誓!2012夏

Ymn12070719110003p1 日から高校野球山梨県大会が始まりました。今年も甲子園に向けて熱い夏になりそうです。
 今まで3回決勝まで勝ち進みながら、なかなか甲子園の切符を手に入れることができなっかた本校。今年本校はノーシードからの挑戦です。
 嬉しかったのは、今日の開会式において、本校の主将が選手宣誓をしたことです。これは本校としては3回目でしょうか。
 この前は6年前2006年でしたね。その時の記事に書いたように、私もいろいろな思い入れを込めた文章を生徒と一緒に作りました。
 今回も頼まれたので主将らとともに文を作りました。前回は富士山を全面に押し出しましたが、今年は本校らしく禅語の請務其本という言葉の内容を盛り込むようにしました。
 「本塁に還ること、それは人間としての基本や本質に還ること」をテーマとして、野球に新たな価値や意味を見出すことができたのではないかと思います。
 私もいちおう野球少年でしたからね。当然甲子園や選手宣誓には憧れを持っていました。そうたをこうして教え子を通して、夢を実現できたり、その過程で感動できたりするのは、本当に幸せなことですね。
 皆さんもご存知のとおり、野球の選手宣誓は最近どんどん長くなっていく傾向があります。また、いろいろと使っていはいけない言葉もあったり、作るとなるとけっこう難しいのですよ。
 基本的には「詩」ですからね。様々なドラマのオープニングという感じですから、感動を催すようなものでなくてはなりません。しかし、コテコテになることも避けなければならない。
 これはもう自分が宣誓するつもりにならないとなかなかいい「詩」ができません。しっかり妄想させていただきました(笑)。
 主将くんは、練習ではなかなか上手に宣誓できていましたが、本番ではどうだったのでしょう。現地に行けない私は、その時間は我がことのようにドキドキしておりました。
 のちにニュースで百点満点だったと知り、ホッとしました。
 あとは試合で宣誓の内容を実現していくことですね。精いっぱい、力いっぱい頑張ってもらいたいものです。

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2012.07.06

『いたこニーチェ』 適菜収 (朝日文庫)

651e6ccce724f5ccdff538c42869a387 日の産経ニュースに適菜収さんの文章が載っていました。こちら「民意に従え」は政治の自殺です。首が疲れるほど(笑)その内容にうなずきました。
 適菜さんは山梨県出身の若手哲学者。ユーモアを交えながら、ニーチェやゲーテを通じて現代を痛烈に批判する方です。私はなんとなくそのライトでヘビーな語り口が好きで(自分もそうありたいと思っているのか)、著書はほとんど全て読んできました。
 もちろん、私の考えとは相容れない部分もありますけれど、難解を装う哲学(の日本的翻訳?)の化けの皮をはがし、その面白さ、先鋭さを大衆に紹介していく姿勢には大いに共感します。
 このブログでは最初のヒット作『キリスト教は邪教です!(現代語訳アンチクリスト)』を紹介しましたね。
 そこに適菜さんご本人がコメントしてくれて紹介してくれたのが、この「小説」。そして、私が、彼の著作の中で特に皆さんに読んでもらいたいと思うのがこの「小説」。
 そう、これは彼自身による「小説」です。その「小説」の体裁としても大変楽しめる良質のエンターテインメントになっている上に、内容はまさにニーチェそのもの、つまり現代(キリスト教文明)批判になっていて痛快です。
 ニーチェと言うと本当に「難解」というイメージで最初から放り投げられてしまいそうな存在ですが、適菜さんの手にかかれば、こんなにシンプルで分かりやすく、そして爽快なものであったのかということが、驚きを伴って明確になります。
 まあ、現代=キリスト教文明=諸悪の根源なんていう単純化された公式は、それこそ昨日の陰謀論に近い「物語」です。しかし、その物語が実は大衆にも大きな影響を与えているし、さらに言えば、「神」という概念自体が「物語」です。
 これも昨日の記事に重ねて言うなら、陰謀論に対置される「神話」「聖書」なども、反対から見れば(たとえはコーランから見れば)全くとんでもない陰謀論でしょうし、結局そうした原理主義的(デジタル的)な思考こそが現代であり、世界であり、人間であるとも言えるわけです。
 その辺を物語ってくれたのがニーチェであって、そういう意味ではまさに「モノをカタる」人=「いたこ」であったということでしょうか。
 それをまた現代の日本語で物語ってくれたのが適菜収さんであり、彼もまた立派な「いたこ」であると言えそうですね。
 政治家も哲学者も「いたこ」であるべきなのです。民意に従うということは、何も物語らないということですから。

Amazon いたこニーチェ

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2012.07.05

『世界の陰謀論を読み解く―ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ』 辻 隆太朗 (講談社現代新書)

20120706_104320 謀論は好きです。もちろん信じているわけではありません。「物語論」として非常に興味深いのです。
 一般的な神話と対称をなしているというか、神話とペアリングして読み解くと世界が見えてくる場合もあります。私の頭の中ではそういう対置がなされているわけです。
 この本はそうしたパラレルワールドとしての陰謀論、特に「ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ」という三位一体に関する概説書としては、なかなかよくできています。実際よい復習用の教材となりました。
 それにしても面白いですね。陰謀とは陰の謀(はかりごと)ですよね。だのに、こんなにおおっぴらになっている。同様に秘密結社も全然秘密じゃない。
 つまり、こうして公になっている陰謀や秘密は、全然陰謀や秘密ではなく単なる物語であるわけです。
 ここでまたワタクシの「モノ・コト論」が登場させましょう。いつも言っているように、「モノ」とは「未知・自然・不随意・想定外・外部」を表す日本語です。それに対し「コト」は「既知・論理・随意・想定内・内部」を表します。「モノ」を「コト」に変える行為を「カタる」と言います。「カタ」と「コト」は同源です。ちなみに「コトの葉」は「カタる」道具です。
 いわゆる陰謀論も、まさに「モノ」を「コトの葉」で「カタる」ことによって「コト」化した産物と言えましょう。未知に対する不安や恐怖を、安心や納得に変える知恵なのです。
 さらに面白いのは、陰謀論が不安や恐怖を払拭するだけでなく、さらに積極的な効果を生むことです。すなわち、その陰謀論に対峙する自分を、陰謀論を退治する自分に変身させる力があるのです。
 自分だけがその陰謀を知っている、そして、この陰謀の主体たる巨大な暗黒組織をぶっ潰すのはもしかして自分なのではないかと、そういう幻想を抱かせるのが陰謀論の特徴ですね。
 この本にもありましたが、これは少年の好むヒーロー物の構造とよく似ている、というか同一のものですね。
 そういう意味では、私は少年時代から今まで、ヒーローの立場に自分を置いて世界を解釈し、自らの生きがいを創造してきたと言えなくもありません。
 うん、そうだな。最近でも某宗教団体や某組合や某運動組織を仮想敵国として、一人ヒーロー気取りで悦に入っているもんな(笑)。
 しかし面白いもので、そういう仮想敵国の国民と胸襟を開いて語り合うとですね、敵どころか異常に仲良くなってしまったりするんですね。そうすると、ずいぶんと自分勝手ではありますが、なんとなくつまらなくもなってしまう。
 その点、「ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ」なんていう大御所になると、いくらその核心に迫ろうとしても全く近づくことができないどころか、その存在すら確信できないんですよね。だから、これほどまでに長く深く世界に根付いているのでしょう。つまり、それほどにフィクション度の高い物語なわけです、陰謀論というのは。
 今、私は、世界の、いや私の「陰謀論好み」が何に起因するのか、とっても興味があるんですね。だから、この本も読んでみたわけです。
 もしかすると、陰謀論に興味を持たせるのもまた誰かの陰謀なのかもしれないし、そんなふうに思うのも誰かの陰謀に乗っかってるのかもしれない…なんて考えていくと、この世の中はまさに陰謀のパラレルワールドということになりそうですね。それはそれで面白いかもしれない…いや、この世の中をそんなふうに解釈するのも誰かの陰謀かも…いや、自分の陰謀なのかもしれませんね(笑)。
 というわけで、私は「陰謀論」を排除しようとは思いません。また全てを楽しもうとも思いません。あくまで「物語」としての質を問いたい。つまり、よくできたお話なのか、どこまでリアルなのか、普遍性があるのか、あるいは時代性があるのか、それを見極めていきたいと思います。
 その点、最近一部ではやった(まだはやっている?)「3.11人工地震説」なんか、全く興味感情移入できません。程度が低すぎます。
 逆に、ヒッグス粒子の発見なんか、なかなかよく出来た物語ですね(笑)。

Amazon 世界の陰謀論を読み解く

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2012.07.04

筒美京平コレクション

23759 しぶりに我が歌謡曲バンドにオファーが来ました。いろいろな音楽活動をしておりますが、最も楽しいのはこれですね。具体的に言うと、老人福祉施設での歌謡曲演奏です。
 娘がジャズバンド部に入ってベースを始めましたので、いよいよ家族バンドの夢が実現しそうです。下の娘はアコーディオンでもやらせるかな。
 で、選曲のためにカミさんとYouTubeでいろいろチェックしていたんです。いろいろああでもないこうでもないと言いつつ、たまたま出てきた「東京ららばい」を久しぶりに聴いたら、あら〜これは良くできた曲だ、作曲は誰だろう、たぶん筒美京平だろう、なんてことになりまして、確認したらやっぱり彼の作品でした。
 さあ、そこから聴くわ聴くわ、スーパー筒美京平ナイトになってしまいました。横で娘が期末テストの勉強してるのに、親は昭和の歌謡曲からJ-POP総復習状態(笑)。
 今さらですけど、まあホントにすごいわ。最強ですね。で、ついついツイしてしまいました。

 世界の音楽史上最高の作曲家は、バッハでもショパンでもレノン&マッカートニーでもなく、筒美京平だな。カミさんと歌謡曲バンドの曲目を決めていたら、すっかり京平ワールドにはまってしまった。無尽蔵の名曲群…選べない…

 そうしたら、尊敬する知り合い21世紀の宮武外骨さんが、こんな返信をくださいました。

 真夏の出来事によろしく哀愁。京平さんは、伝統的な、邦楽や日本各地の民謡から見れば、明らかに洋楽だと思います。で、京平さんと、バッハやマッカートニーに、差異があるとすると、その「差異」こそが、「日本」なのだと、思います。

 全くそのとおりです。私が言おうとしていたことを上手にまとめてくださいました。筒美さんの楽曲はたしかに西洋音楽の伝統の上に立脚しています。しかし、なぜか日本そのものという感じがする。
 それを、和声の面、旋律の面から、音楽的に分析することも可能ですが、まあそんな理屈をこねるのは野暮というものでしょう。
 まあ簡単に言えば、これこそ「日本版ジャズ」なのですよ。思いっきり西洋の楽器や理論を駆使して、それまでの西洋音楽の歴史をひっくり返す、いやぶっ潰すのがジャズですから。
 それほど世界各国の民族(民俗)音楽、オリジンというのは強烈なのです。
 そのある種の攻撃性、破壊性のおかげでしょうか、彼の曲は驚きに満ちています。予想からはずれて展開することが多い。しかし、自然に耳に残る。これこそ天才的職人技です。
 そう、職人なんですよね。日本的職人。「匿名性をどこまで維持しながら、音楽活動を行なえるか」、これが筒美さんのポリシーです。なんと高尚で野蛮な理念でしょう。まさに芸術音楽への挑戦です。
 匿名性というのは、すなわち「その歌手らしい」ということでもあります。あるいは「その時代らしい」ということ。これらに関しては、筒美さんの曲は間違いなく世界一でしょう。
 いちおう歌に自信のあるウチのヴォーカリスト(カミさん)が、ため息混じりにこう言っていました。
 「う〜ん、難しいなあ。耳になじんだ歌いやすいところに行くまでの階段が変則的で上るのが難しい。そのあとの階段を下るのも…」
 なるほど。なんとなく分かります。全ての曲が「その歌手らしさ」「その時代らしさ」そして「その曲らしさ」を持っているんですから。
 そにれしても、「入り」のうまさは、本当に抜群ですね。彼に限らず昭和の職人的作曲家は、みんな最初の4小節で聞き手の心をつかんでしまいます。つかんだらもう離さない。めくるめくファンタジーの世界へ誘います。イマドキの(あるいは古典の)パターン化した楽曲とは一線を画します。
 全盛期にはひと月に45曲作ったとか。総売上枚数は7,600万枚。その姿なき巨人の名曲の一部を「筒美京平コレクション1〜10」でお聴きください。これは巨人のほんの一部ですが、その偉大さを想像するには充分な内容だと思います。

Amazon the popular music ~筒美京平トリビュート~

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2012.07.03

LogMeIn

20120704_124543 わぁ、助かるなあ。無料でここまでできるなんて。すごい時代になりました。
 今、期末テスト中です。それ以外にもいろいろ仕事が押し寄せていまして、まあ楽しい毎日を過ごさせていただいています。
 そんな中、今日から導入して非常に役に立っているのが、このソフト。これはすごい。こんなに簡単にPCやMacのリモートアクセスができるとは…。
 ちょっと特殊な事情なんですけど、私にとっては職場のWindowsPCに自分の机の上のMacからアクセスできるのが便利。
 というのは、ウチの職場のプリンターが高級すぎて(笑)Macにデフォルトで対応してないんですよ。ドライバ&キットをウン万円出して買わなければならない。だから仕方なく印刷する時はですね、PDFファイルをDropboxでPCに運んで、自分は自分の足で運んで(つまり立って歩いて行って)、やっていたわけです。これが面倒くさい。
 それがこれを使えば座ったままできる!ま、たったそれだけでもとってもうれしいのであります。
 上の画像にあるように、ブラウザの中にPCの画面がそのまま映る。で、こっちのマウスを動かすと向こうのポインターが動く。普通に操作できるわけです。タイムラグやもたつきもほとんどありません。これは感動的ですね。
 しかし、一方で無人のPCの画面が勝手に動くので、近くの事務員は気持ち悪がっています。たしかに(笑)。
20120704_152448 そして、なんともビックリなのは、こうしたリモートアクセスが、iPhoneでもできることです。この画面は職場からiPhoneで自宅のMacにアクセスしているところです。ウチに忘れ物しても大丈夫(笑)。
 画面が小さいけれどもちゃんとマウスの操作ができます。iPhoneからはWi-Fiだけでなく3G回線でもアクセスできるということで、本当にどこからでも、自宅のMac、職場のMac、PCにアクセスできるということですね。
 ちなみにiPadで操作すると非常に快適だそうです。こちらiPhone・iPad用のアプリも無料!なんだか怖いくらいですね。
 設定もほとんど何もしなくてもいい。誰でもすぐに導入できます。逆にセキュリティーは大丈夫なのか心配になってしまいますね。
 まあ、これは安全と危険とか問題ではありませんが、たとえば、私が寝てから娘がMacでYouTubeなんか見てるのを、私が寝室からこっそり盗み見することができるわけです(実際やってみた)。
 で、妨害することもできる(笑)。いきなりマウスが動いて再生止めたり、変な曲選択したり、電源落としちゃったり。
 このLogMeInとDropboxがあれば、いろいろな共有ができ、それこそ場所に縛られなくなるわけで、それはなんとも便利ではありますが、なんだか世の中が全てこうなっていくと考えると、ちょっと怖いような気もしてきますね。
 いずれは、4年前こちらに書いたように、全てがクラウドに吸収され、私たちの手元にはたったインターフェイスのみが残るのでしょうか。そうなると自宅のMacとか職場のPCとか言う概念もなくなりますね。
 手元にない所在無さに我々人類は耐えられるのか…そこに興味があります。さっきの記事に書いたように、もしかすると中央集権的グローバリズムに対抗するローカルでインディヴィジュアルな文化が新たに生まれるのかもしれません。

LogMeIn公式


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2012.07.02

プレゼンテーションとは…

08 日のNHKクローズアップ現代は「アイデアが世界を変える~TED 究極のプレゼン~」というタイトルで、最近注目されているTEDの管理人であるクリス・アンダーソンさんを迎えての放送。プレゼンテーションが世界を変える可能性について、たいへん示唆に富む内容でした。
 私も仕事柄よくプレゼンをします。そして、常に反省しています。私のプレゼンはいわゆる悪いプレゼンの代表みたいな感じかもしれません。だいたい話しすぎ。画面も情報多すぎ。自己主張もしすぎ(笑)。
 いけませんね。いちおう『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』を読んだりして勉強してるんですけどね。
 だいいち、先生なんていう職業は毎日何時間もプレゼンやってるようなもんじゃないですか、本当は。たぶんわかりにくい授業なんだろうな…いや、それ以前に雑談ばかりで演芸会みたいになってるとか(笑)。
 まあ、それはもういいとして(諦め)、今日の番組を見てですね、なんかピンと来たことがあったんですよ。
 つまり、TEDがやっていることというのは、まさに「Technology, Entertainment, Design」ですね。コンピューターやインターネット等のテクノロジーを駆使して、人と人をつなぐというのが原義のエンターテインメントを加速させて、そして世界をデザインする。
 今まさに必要とされているのは、こうして人の心や志や魂を揺さぶり動かすことであって、カネやモノを増殖させるためのいわゆる経済活動ではありません。ここでの経済とは等価交換の経済ですね。
 その点、インターネットの世界は、金儲けにならない、いわば奉仕としての経済活動がほとんどです。このブログだってそうですよ。ちょっとした小遣い稼ぎにはなりますが、これで食ってるわけでもなく、何かのニーズに答えているわけでもない。つまり需要があって供給があるわけではないのです。
 では、たとえば私がなぜこうして「言葉」を発している(プレゼンテーションしている)のかと言えば、やはり誰かの人生に影響を与えたいからです。そして、それが大きな流れになって世の中を変えられたら…なんて大それたことは考えていないのですが、ちょっとした波でも立ってくれればとは思っています(それこそ結果は出てませんが)。
 そうすると、インターネット世界は「贈与経済」のシステムだなと。(ほとんど無償の)贈り物の宝庫だなと。まさにプレゼントです。
 Presentation の語源は当然 Present と結びついています。贈与ですね。表現とか発表というのも基本主体から客体への贈与です。
 だからこそ今、プレゼンテーションが注目されているんでしょうね。それも企業のプレゼンというわけでなく、こうした純粋な贈与としてのプレゼンが。それはとても良いことだと思います。
 まあ、このブログも下手なプレゼンということになりましょうかね。けっこう古典的なやり方ですよね(苦笑)。
 放送の内容はこちらで全てテキストとして読めます。

TED Translations Talks in 日本語
 

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2012.07.01

うるう秒…「閏」とは

Hl しかに今日はなんとなく一日が長かったような(笑)。
 皆さんは午前8時59分60秒をどのように過ごされましたか。私はすっかり忘れていました。
 写真は電波時計の送信所のある福島県田村市のモニュメントです。
 おおたかどや山標準電波送信所がある福島県田村市と川内村は、福島第一原発事故によって最近まで警戒区域となっていました。なんとも皮肉なことです。
 というのは、この標準時間は原子時計によって決められているからです。それもセシウムの遷移の際発する電磁波(放射線)の周期を基準としています。まあ偶然とは言え、よりによって…ですよね。
 ところで、この「うるう秒」とか「うるう年」とか言う時の「うるう」って何だかご存知ですか。
 今日はその話をしましょう。
 まずは漢字の説明から。なぜなら、この「閏」の発想は中国から渡来したものだからです。
 中国でも日本でも、昔は太陰太陽暦を使っていました。すなわち月の満ち欠けで日付を決め、天文時との誤差は閏月を挿入することよって修正するというやり方です。
 つまり、昔は時々1年が13ヶ月になっていたんですね。同じ月を二度繰り返す。たとえば本来の五月の次にもう一度五月を繰り返す、その二度目の五月を「うるう五月」と呼んでいた。
 で、そういうのを中国では「閏」という字で表現していたんですね。日本語の音読みで言うなら「ジュン」ですね。中国でも日本でも「閏月」には王様が門の中にいるので「閏」という字が生まれたという俗説が一般化しています。
20120702_95510 しかし、そのような歴史的な事実は確認されていないということでして、俗説は俗説、やはり怪しいみたいです。
 では、どういうことかというと、どうも本来は「門」の中に「壬」という字だったらしいのですね。音からして「王」ではなく「壬」ではないかと。
 「壬」という字はもともと真ん中の横棒が長く、つまり、中央が豊かに膨らんでいる様子を表した文字でして、それでひと月増えるイメージを「閏」という漢字で表したのだと想像されます。日本でも上の画像のように書く人がけっこういるらしい。
 そこで面白いのは「うるう年には子どもができやすい」という言い伝えがあるということですね。これは日本各地で言われていることです。科学的な根拠はない…一日多いから当然統計的出産数が増えるとも言えますが…のに、そういうことが言われるのは、おそらく「壬」の本来のイメージが潜在的にあるからでしょう。
 そう、「妊娠」の「妊」も「壬」が付きますよね。女の人のお腹が大きくふくらんだイメージです。その辺との関係で、「閏年」には「妊娠」が増えるということになったのではないでしょうか。
 さて、漢字はそれでいいとして、なんで日本で「閏」を「うるう(うるふ)」と読むようになったかということです。
 「うるう(うるふ)」という日本語の語源ですが、なんとなくイメージできるかと思いますよね。そう、この「うるう」は「うるおう」や「ウルウル」と同源なんです。水が満ちている、溢れているという感じですね。
 日本語の「うるふ」という動詞は、「うるほふ」と並行して古くから使われていました。ともに「水分を含む」「豊かになる」「恩恵をこうむる」というような意味です。漢字をあてる場合は「水」をイメージしてか、さんずいを付け「潤」とすることが多かったようでね。
 そんな日常語の影響を受けてでしょうか、「閏」という字にも「うるふ」という訓みを与えたという事情があるようです。ですから「うるう年」というのは「潤う年」、「うるう秒」は「豊かに膨らんだ秒」というような意味合いになるということです。
 ところで、この「うるう秒」、電子機器等にとっていろいろと面倒なことが起きるという理由からか、廃止の方向で検討されているということです。
 まあ、今後地球の自転がどう変化するかは全く予想できないんですがね。たぶん早くなることはないと思いますが、遅くなる程度というのは予想不可能です。昨年の大地震でもほんの少し遅くなったらしいですし、温暖化や寒冷化で、地球表面の気体、液体、固体の割合が変わるだけでも微妙に変化しそうです。
 いずれにしても、これからどんどん時間が「うるう(潤う)」と思えば、なんとなく得するような気もして来ますね。
 
 

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