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2012.06.19

太宰治 『六月十九日』

016 日は桜桃忌。太宰治の誕生日にして遺体の上がった日です。
 写真は第1回の桜桃忌の一コマ。禅林寺でファンや関係者が酔いつぶれています。一緒に呑めない太宰のなんとも言えない表情が印象的です(笑)。
 さて、今日は、そんな桜桃忌に因み、太宰自身による「六月十九日」という随筆を紹介しましょう。
 この随筆は「博浪沙」に、昭和15年に投稿されたものです。「博浪沙」は井伏鱒二の師匠にあたる田中貢太郎主宰の同人誌です。
 「博浪沙」という誌名は、漢の張良が秦の始皇帝を襲った地名に因んでおり、つまり体制への反旗、当時の文学的に言うなら、大御所菊池寛に対する反発を含意しているようです。
 文中にある同年同日生まれの無名の詩人とは誰でしょうかね。結局無名で終わったのでしょうか。そうだとしたら分かりようがありません。
 同年同日生まれの文人を調べてみると、俳人の村山古郷という人がいるようですが、詩人と言えるかどうか。あるいは太宰一流の虚実皮膜表現で、俳人をあえて詩人と書いたか。どうなんでしょうね。
 もしかするとそんな手紙はなかったかもしれないし、あるいは本当は飲んだかもしれない。
 正直、大した文章ではありませんが、「自分の平凡な身の上が不滿であつた」というくだりに、彼の小説の胡散臭い魅力の本質が表現されているようにも思えます。


 なんの用意も無しに原稿用紙にむかつた。かういふのを本當の隨筆といふのかも知れない。けふは、六月十九日である。晴天である。私の生れた日は明治四十二年の六月十九日である。私は子供の頃、妙にひがんで、自分を父母のほんたうの子ではないと思ひ込んでゐた事があつた。兄弟中で自分ひとりだけが、のけものにされてゐるやうな氣がしてゐた。容貌がまづかつたので、一家のものから何かとかまはれ、それで次第にひがんだのかも知れない。藏へはひつて、いろいろ書きものを調べてみた事があつた。何も發見出來なかつた。むかしから私の家に出入してゐる人たちに、こつそり聞いて廻つたこともある。その人たちは、大いに笑つた。私がこの家で生れた日の事を、ちやんと皆が知つてゐるのである。夕暮でした。あの、小間で生れたのでした。蚊帳の中で生れました。ひどく安産でした。すぐに生れました。鼻の大きいお子でした。色々の事を、はつきり教へてくれるので、私も私の疑念を放棄せざるを得なかつた。なんだか、がつかりした。自分の平凡な身の上が不滿であつた。

 先日、未知の詩人から手紙をもらつた。その人も明治四十二年六月十九日の生れの由である。これを縁に、一夜、呑まないか、といふ手紙であつた。私は返事を出した。「僕は、つまらない男であるから、逢へばきつとがつかりなさるでせう。どうも、こはいのです。明治四十二年六月十九日生れの宿命を、あなたもご存じの事と思ひます。どうか、あの、小心にめんじて、おゆるし下さい。」割に素直に書けたと思つた。

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コメント

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 職務経歴書の書き方 | 2012.07.03 12:31

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