『私は臓器を提供しない』 近藤誠・宮崎哲弥・中野翠・吉本隆明 (洋泉社新書)
6歳未満脳死判定 15日摘出手術、移植へ 「息子誇りに思う」…衝撃のニュースです。
原子力工学、遺伝子工学、そしてこの臓器移植は、人間が自らの「夢」の実現のために侵すべからざる領域に踏み込んでしまった愚行の代表であると思います。非科学的に言えば「神に対する冒瀆」ということです。
本来制御不可能なモノ(自然)をコントロールしようというのが、近代科学の目的の一つです。原子や分子も制御不能である以前に不可視、不可知な存在でした。それを発見して驚嘆するのはけっこうですが、認知したから次は支配下に置こうというのは、あまりに暴力的な発想です。
生命(特に死)についてはさらにひどい。認知さえしていないのに、制御下、支配下に置いてしまった。それも科学的な基準(それももともと非科学的なモノを対象としているので怪しいのですが)より先に、法的な基準が定められてしまった。すなわち「言葉(コト)」の世界で生命を捕獲したということです。
この本でも仏教的な立場からの発言を読むことができます。お釈迦様は、まさにこうした人間の愚行をお咎めになった。ワタクシの「モノ・コト論」的に言うならば、本来不随意なモノであるこの世界を、随意なコトだと思い込むのが煩悩であって、そこから「苦」が生じるのであると語ったということです。
倫理的な問題は、これは絶対に解決しません。なぜなら、倫理は論理ではないからです。倫理は最終的には感情によって言語化されるものです。もし個人的に解決させるとしたら、宗教を登場させるしかない。しかし、それでも、宗教は一つにはなりませんから、結局総体的には解決されません。
では、感情を凌駕しようとするのが論理であり科学であるとして、時が経てばその目的が達成されるかと言えばそれは無理です。科学(医学ではなく工学ですが)が発達したからと言って、生命に対する人間の感情(倫理)は本来変わらないはずです。
心臓が動き、体温のある人間(それも子ども)に「2時11分、脳死と判定され死亡が確認されました」と言うのは、あまりに暴力的ではないですか。「脳死」という概念、すなわち言葉が生まれたからこその暴力だと感じます。
脳死の概念のなかった昔だったら、当然体温があり、反射運動のある人間に対して、誰も死んだとは思わないでしょうし、あきらめもしないでしょう。工学と法学が発達したからと言って、そこは本当は変わらない。つまり、ここでの工学(医学?)も法学も一種の詐術になってしまっているのです。
「絶対に」回復しないと誰が言えるのだろうか。救命措置は充分だったのか。いや、救命措置がそもそも臓器移植のためだったのではないか。コーディネーター(いやな言葉です、ドナーもレシピエントも含めてカタカナ語にする時点で悪意を感じる)の説明は適切だったのか、いやそれそもそもコーディネーターとは、はじめに臓器移植ありきの存在ではないのか。
今回の親族の皆さんの判断についてはとやかく言える立場ではありませんが、しかし、もし私が当事者であったなら、いや当事者でなくとも、生きた臓器を切り取ることには大きな抵抗を感じます。そう、臓器は生きているのですから。臓器が生きていることが臓器移植の前提なのですから。
あえて非科学的な言葉で反発するなら、科学も倫理も霊的な次元では全く無力というか無意味なのです。いや、霊というのは幽霊とか魂とかいうことではなくて、もっと広い意味、説明するのは難しいのですが、「コト」の補集合たる「モノ」すべてというか、この宇宙や生命の根源にある唯一の真理というか、お釈迦様のお悟りになった境地というか、そんな「感じ」のものです(全然分かりませんね)。
近代科学はその「感じ」を感じなくするように働いて来ました。いわば鎮痛剤や麻酔薬や麻薬のように。私はそこに危険と恐怖を感じるのです。震災や原発事故で我々は少しその「感じ」を思い出したにもかかわらず、1年過ぎればまた忘れてしまう。
この本にもあるとおり、ドナーカードの「私は臓器を提供します」に印をつけると、正しい救急救命治療を受けられなくなる可能性があります。いろいろな立場で臓器移植を実現したい人が想像以上にたくさんいるのですね。私も知り合いの医師から現場の恐ろしい話を聞いたことがあります。事実としてではなく、可能性としての話でしたが、正直ぞっとしました。
学校に「ドナーカード、命のリレー」みたいなパンフレットがしょっちゅう来て、それを生徒に配る時には、その話をします。なぜなら、そういうパンフレットには、そんな話は当然載っていないからです。あまりに一方的な(暴力的な)説明しかない。あなたの意志は自由ですと言いながら、完全に「提供します」へ誘導している。本当に子どもたちの生命を馬鹿にしています。
先日亡くなった吉本隆明さんの貴重な意見も読むことができるこの本、残念ながら絶版になっています。ああ、これって洋泉社新書の第1号なんだ。出版された2000年から比べると、臓器移植の状況はまた随分と変わりました。もちろん、臓器移植実現希望者の思う方向への変化です。
今回の子どもの脳死と臓器移植のニュースを見て、原発再稼働と同じような危険性を感じたのは私だけではないでしょう。人間の暴走はとどまるところを知りません。
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コメント
難しい問題ですよね
神の領域…わかります
でも、もし自分の子供が重篤な病気で、移植を待っているとしたら、移植はNGだと断言できない自分もいます(´・ω・`)ショボーン
投稿: キョンタ | 2012.06.15 17:28
なかなか難しい問題です。
脳死がなかった時代で言えば…と言ってしまえば、
もっと昔は自発呼吸が出来なくなってる時点で死んでしまうわけですから。
戻る可能性を作ったのが人間であれば、それを見切るのも人間なわけです。
結局のところ、中途半端に科学が進化したってのが問題で、しかも基本的に、一番重要なところは最後にならないと判断がつかない。
でも判断がつかなくても、利用が出来てしまう。だからやっちまおう。
そんなところでしょうか。
ただし、それが神への冒涜かどうかは、わかりません。
神はそういうもんだと思って人間を作っているかもしれませんから。
原子力にしろ、脳死にしろ、遺伝子操作にしろ、もっと言えば電気を使うことにしたって本質的にやってることは、変わらない訳ですし。
そういう不完全な人間を観察しているだけなのかもしれません。
神への冒涜と言ってることが、実はそれが人間の傲慢である。
そんな気もします。
投稿: たこたよ | 2012.06.15 17:42
>脳死の概念のなかった昔だったら、当然体温があり、反射運動のある人間に対して、誰も死んだとは思わないでしょうし、あきらめもしないでしょう。
概念が生死観を変えたとは思いません。
脳死の概念が無かった頃には、脳死状態の人間を生かし続ける技術も乏しかったことでしょうし。
テクノロジーのお陰で、死ぬはずだった人間が生かされ、その生かされた人間を巡って様々な問題が起きているというところでしょうか。
回復を信じ、脳死状態の人間を生かし続けることが、当人にとっても家族にとっても幸せなのか、わかりませんよね。事故直後ならいざ知らず、何年も、あるいは何十年もの間「この人は死んでいないのだ。」と、献身的になれるものでしょうか?
無神論者の自分にとっては「神への冒涜」と言う言葉は非常に紛らわしいですね。逃げているのか交わしているのか、そもそもこの場合の神ってなんなのか?
(神の概念も人それぞれで困ります。)
投稿: LUKE | 2012.06.19 03:19