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2012.06.17

上祐史浩・森達也 「脱」洗脳ナイト

 の言葉たちをどう捉えればいいのか。上祐さんの冷静さと森さんの不機嫌。そして、真木さんの暴走(笑)。いずれも煩悩にとらわれているよう感じられました。それぞれ自己への執着が強いなあと。
 言葉自体が自己への執着の道具なんだなあと痛感。ここでは何も解決していないし、「脱」洗脳どころか、自己洗脳がどんどん進んでいるようにしか見えませんね。
 

 一昨日、昨日とプチ体験した禅の修行にはある意味「マインド・コントロール」という意味合いもありますね。自らが自らの心と体を調整するわけですから。セルフ・マインド・コントロールということでしょうかね。
 そして、ご存知の方も多いと思いますが、禅の修行はある意味暴力的なところがある。徹底した人格否定も行われる。精神的に限界に追い込む。また、肉体的にも限界を体験させる。
 雲水さんも臘八摂心のキツさを語っておりました。やはりそこには非日常的な神秘体験があったりする。
 そういう意味では、オウム真理教の思想や修行方法は正統的であるとも言えます。いや正統かどうかは分かりませんが、充分に伝統的ではありますね。
 問題は、そうした「伝統的」な出家集団が、なぜあの時代にあのような事件を起こしてしまったのか、そこの分析です。ワタクシ的には、それは、仏教やあるいは宗教全体とは本質的な関係はないのではないかとも思ったりします。
 かと言って、麻原個人の異常性格に原因を帰するのもなんとなくしっくり来ない。時代のせいにするのも納得がいかない。
 そういういろいろな意味での「総括」をすべきなのかどうかも、実はよく分かりません。
 今、こうして仏教や他の宗教に、ある意味普通以上に興味を持っている私は、かつて(犯罪集団になる前の)オウムに対しても同様の感覚で接していました。ですから、他人事ではないのです。
 今のこの立場や気持ちに、オウム的な危険が伴っているということも常に意識しています。意識しないと怖い部分もあるんですね。どこか懐疑的でいないととんでもない方向に進んでしまう可能性があると。
 しかし、いわゆる「総括」や「反省」というお題目にも疑いの目や耳を持ってしまいます。たとえば、この番組で語られている言葉、それが上祐さんのものであれ、森さんのものであれ、真木さんのものであれ、妙に納得させられる分、逆に気持ち悪さを感じざるを得ないのですね。
 言葉というのは怖いなと思います。脳内で生み出された「記号」が肉体を通じて発せられる。そして他者の心や体をコントロールしていく。その暴力的な性質にぞっとします。「脱」洗脳を語ると、そこには「洗脳」がどんどん生まれてくる。
 自分の中のモヤモヤが言葉によって輪郭を与えられると、ある部分では安心するのですが、多くの部分では、「そんなに簡単に説明できないだろう」という気持ちになります。
 禅は言葉を否定します。体験から得た実感こそが実体であると説きます。しかし、私たちは言葉を使わないと思考もできないし、他とつながることもできないと体験的に信じています。難しいですね。私もこうして言葉を弄している。
 それにしても、上祐さんにしても、森さんにしても、真木さんにしても、自分の言葉に洗脳されているんじゃないのかというくらい自信に満ちていますね。恐ろしいほどです。
 この番組を視聴したのをきっかけに、その周辺にあるオウムの動画をいろいろ観ました。やはりそこには言葉が乱舞していました。
 言葉には功罪がある。当たり前です。論理力にも功罪がある。論理を作り出すことができるからです。我田引水、牽強付会の論理がどんどん生まれて跋扈していく様子を見ると、それらをぶっ壊したい衝動にさえ駆られてしまいます。コトよりもモノが優勢であってほしいと思うことは暴力的なことなのでしょうか。迷います。教育者としても人間としても。
 いまだに麻原への帰依(上祐流に言えば依存)を続けていたという高橋克也が逮捕されました。これを機に再び「総括」の機運が高まると思いますが、「総括」して納得して終わりにするようなことではないような気もしてきます。
 このワサワサした気持ちからすると、上祐氏のあの落ち着きが「ウソ」に見えて仕方ありません。

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コメント

私が友人を通してみた「オウム」とは、いつまでも続く「サークル活動」といったところでしょうかね。
最近逮捕された女性信者も似たようなことを言っていました。
一見冷徹な彼らには「自己否定出来ない」という共通した特徴があります。非常に意固地です。
あまりにもひ弱な自己は、否定されようものならたちどころに消えてしまうかもしれません。だから自尊心(みたいなもの)で上辺を塗り固めて何とか自己を防衛し支えているのです。結果、意固地にならざるを得ません。
「オウム」に救いを求め、深く係わった人間ほど、それを否定することは難しいでしょうね。青春を捧げ、人生を捧げたものを否定されることは、彼らにとっていたたまれないのです。
彼らにとっては殺人も単なる正当防衛です。居心地の良い自分の拠り所を攻撃するならば、それは当然の行為だったのでしょう。彼らには自己否定が出来ませんから、相手を否定するしかすべが無いのです。

投稿: LUKE | 2012.06.19 04:14

電子文字+画像盤であるネットも、言葉と意匠の、いわば「生け簀」の網(=ネット)ですね・・

なぜかれらは「自己否定が出来ないのか」について考えてみると・・
外から感受し受け取る言葉やイメージがこころにもたらす影響は、その言葉やイメージに恣意性または衝撃性が高ければ高いほど、それらはこころに及ぶ「マインドコントロール」になっていきます。
こういう現象は、実は日常茶飯に(強度は異なれ)(学校、家庭、あらゆるメディアなどにより)過去から絶え間なくも起きています。

しかし受けての側に言葉やイメージを受け止めるだけのなにかが伴わないときは、それはおおむね一過性の影響だけにとどまります。
たとえば流行などがそうですし、熱しやすく冷めやすい熱狂だとか、一時の話題、時代風潮であるとか・・概してそういう「マインドコントロール」は「根の浅いもの」で終わっていきます。

それに対して、言葉の受け手の側の自己自身に、それを受け止めるに足る(受け止められるまでの臨界、その飽和点に達しているといった)自身においての体験的な実感、なかでも体感したこと、共感したことなど、「身体、感情まるごとふくめて」の経験的な事実があった場合は、

それが単に外から得た情報としての言葉、イメージではなく、それ自身がまさに「わがことの」「真に」「そうである」という確信、つまりゆるがぬ肯定=信になるのだろうと思います。

爾来、宗教に収れんされていった「信仰」とは、そういうものだったかと。(ほかにも民族心や理念やあまた・・それが人間の人間たるゆえんというほどに)

オウム信者は、超常体験を自身で体験して、それが仏典や教主の言葉と疑いもなく重なることを実感したということでしょう。
これはミーハー的に一時の気分で流行にとびつくといった「根の浅い」ものでないのは確かで、そんなゆるがぬ確信ならば、それを根こそぎ否定するというのはできるものなのか。
(菊池直子という女性が後年出会った男性を「愛するようになり」その実感と信仰が結びあわないところから、頑とした信仰がゆるみはじまてということはないのか、と想像したりもしますが)

上佑氏はじめ番組で語る識者が確信に満ちているのは、おっしゃるとおり自身の言葉で自身が自己洗脳されてるかもで、
(言葉はまわしていけばどこまでも論理破綻なく回り続けますから、気をつけたいなと思います)、
かれらも自己の現実生活ですでに自他に肯定されているだけの地位や足場を得ているので、そういう「実感」と自分の生み出す「言説」が、ガッチリ否定のしようがなく結ばれてしまい、だから自己否定ができないのかなあ・・と推して見てます。
(30歳以上(の人間は信じるな、と昔聞いたものですが、社会で名実ともに安定すると、自他に開かれている柔軟さ、つまり謙虚さが失われる、ということでしたか。これも自戒しなければ)

農業技術でも、植物の光にむかって育つ性質に着目して、人工灯を日夜つけ成長促進させるとか、そんな技術がありますが、これは植物の「自然の性質」(生命にすでにそなわったもの」に騙しをかけていくものですね。

こういうならいで、人間が人間に騙しをかけていくものが、言語のみならずに薬物、科学技術を用いてのマインドコントロール、洗脳、心理誘導、操作(催眠)であって、こういう技術、技法というものは、いまはずいぶん研究もされ開発されているだろうなと想像します。

人間のこころを不動にして、ゆるぎなくも確信させる、という瞬間をどう生み出せるか、にかけた技術技法は、ふるくは黒魔術や呪術でしたが、オウムの場合はどうだったのか。そしていまの科学技術は、現代メディアは、この人間社会は、どんな現状なのでしょうね。ホラ話でなく、じゅうぶんホラーなはなしになりました。失礼します。

投稿: emieko | 2012.06.21 12:28

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