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2012.06.15

逆縁もまた縁なり

Gedc3703 日より生徒ともに、臨済宗向嶽寺派大本山である塩山向嶽寺にて接心(座禅研修)をしております。ホンモノの雲水さんしか入ることができない素晴らしい「場」で座禅させていただく幸せを存分に味わわせていただいおります。
 昨年も本当に素晴らしい体験をさせていただきました。生徒たちも奇跡を起こしくれたりしまして、改めて座禅の素晴らしさ、禅宗の奥深さを体験することとなりましたね。
 今年も昨年お世話になった雲水さんに再びお目にかかり(つまりまだ修行は続いているのです)、また、これは説明するのが難しいほどに不思議な不思議な仏縁によって、ある知り合いと再会したりしました。お互いにこんなマニアックなところで二度目の出会いをするなんて…と驚き合いました。
 確率的に有り得ませんよ、本当に。その方と「これはもう地獄まで一緒に…」なんて笑い話をし、近くにいた雲水さんから、「それこそ逆縁だったりして」なんて言われましたが、今日はそんな「逆縁」の話を記しておきたいと思います。
 今回も管長様の有難いお話をお聴きする機会を頂戴したわけですが、その中でも「逆縁もまた縁なり」というお話は、私の心に深く刻まれる内容でした。心に深く刻まれ、そして得心するということは、そういう体験を実はたくさんしてきたという証でもあります。
 ごく簡単に書きますと、このようなお話でした。

 京都のあるお寺のある雲水さんが托鉢に出た。多くの人々は有難く思い、雲水にお布施をしていたのだが、ある呉服屋の主人は、どうもその托鉢というものが好きになれないらしく冷たくあしらっていた。いつもあっち行けとばかりに犬でも追いやるがごとく手でシッシッとやっていた。それでもその雲水は気にせず托鉢を繰り返した。
 あまりにしつこいので、とうとう呉服屋は雑巾を洗った汚れ水をその雲水に思い切りぶちまけた。雲水はびしょびしょになり、衣もすっかり汚れてしまった。しかし、雲水は、それでも全く気にせず、深く合掌礼拝して穏やかに去っていった。
 そして次の托鉢の日にもまたいつもと同じようにその呉服屋を訪れた。呉服屋の主人はいよいよ腹立てて、「どうしてこんなに冷たくあしらっているのに通ってくるのだ」と訊くと、雲水には静かに「逆縁もまた縁なり」と一言残してまた合掌礼拝して穏やかに去っていった。
 呉服屋の主人はその瞬間大切な何かに気づいた。心も行動も一変した。その雲水の身につけるもの一切のお世話をするようになったのである。その後雲水は立派な老師になったが、それまでずっと呉服屋はお世話を続けた。

Gedc3710 「逆縁」とは「仏道修行の妨げとなるような悪い縁」のことを言うそうです。簡単に言えば、敵とか嫌なヤツとか苦手な人とか、そういう人との縁のことですね。
 そういう人との縁を、いやがらずに、それこそ意味のあるものととらえて受け入れるのは、たしかに仏教の教えに適っていますね。自己という存在は、自分が好むと好まざるに関わらず、すべて他者との縁によって成り立っているわけですからね。
 そういう、実は当たり前の事実、いや真実を意識していれば、日常のマイナス感情というのは簡単になくなります。私も最近になって80%くらいそれができるようになってきました。それでずいぶん楽になりました。
 また、これはよくあることですが、他者に対して「いやだなあ」「嫌いだ」「生理的に許せない」と思うことこそ、実は自分自身に巣食っている問題点であったりしますよね。そういう意味でも、拒否するのでなく、受け入れて自分自身の問題とした方が実は根本的な解決になったりしますね。良薬口に苦しというのと一緒かもしれません。
 それから、管長様の御法話を拝聴しながら、こんなことも考えました。ああ、なるほど、悪い因縁から解脱するというのは、身近なところではこういうことなのかもしれないと。
 人間関係とは、案外単純な「鏡」であったりしますよね。こちらが好けば相手も好いてくれる。こちらが嫌いなら相手も自分を嫌う。そういう意味での「鏡」です。
 しかし、嫌い合う関係におょては、そのままだと何も解決しませんね。永遠に敵同士になってしまう。しかし、このお話の雲水さんのように、相手がどんなに不機嫌な顔をしようとも、穏やかなお顔で、すなわち相手の感情を反射しないで、逆に全く違う光を投げ返すと、そこで悪い因縁の循環は絶たれます。
 それが身近なところでの「解脱」、カルマからの脱出なのかなと思いました。「解脱」というと、とんでもなく難しく遠い次元での話だと思っていましたが、実はそうではなく今日から、今からでもできることなのかもしれないと。
 なんか、急に心が軽くなったような気がしました。私自身も、その呉服屋さんの主人のように、心の殻というか壁というか垢というか、そういう何かが落ちたのかもしれませんね。
 本当に有難いお話でした。ある意味単純な話ではありますけれども、それが理屈ではなく体験として迫ってきたところに、厳しい厳しい修行の賜物を見たような気がいたしました。管長様の体験的理解に基づいたお言葉には、格別の重みと深みがあったのでした。ありがたや、ありがたや。


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