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2012.06.30

十勝岳噴火か

Hok201207010001 日(すなわち2012年前半)も終わろうかという時間に、ある人から情報が飛び込んできました。
 「十勝岳が噴火してるよ。見てごらん」
 おおっ、これはたしかに噴火だ。溶岩流れ出してる。
 と思ったら、あとで気象庁は「火山性微動や地震、空振は観測されておらず、噴火ではないと判断。火口付近の硫黄や火山ガスが燃えたとみている」と発表。なるほど、そうとも言えるか。なんだか原発の時の大本営発表に似てるような(苦笑)。
 はっきり言えば、噴火にはいろいろな種類があり、じわじわと溶岩が漏れ出し、微動や空振が観測されないこともあります。
 もちろん、この画像は高感度カメラによるものであり、実際にはこのようには見えていないでしょうから、気象庁の言うとおりだとも考えられます。
 しかし、そうだとしても、硫黄や火山ガスがかなり大量に発生し、それが発火しやすい状況になっているのはたしかです。
 そうすると思い出すのは、十勝岳の大正噴火です。記憶がはっきりしていなかったので調べてみました。
 中央防災会議の報告書から抜粋してみます。

 1926(大正15)年5月24日、十勝岳が噴火を起こし、高温の岩屑なだれが発生し、残雪を溶かし25分あまりで山麓の富良野原野まで泥流が到達した。寒冷地で積雪期に起こる噴火災害の典型的な事例である。
 1923(大正12)年6月、溶融硫黄の沼が出現し硫黄鉱山の硫黄生産量が増加するなど、大噴火前の3年間には火山活動が活発化し、噴火直前にはその頻度が非常に高くなった。5月24日正午過ぎに1回目の爆発、小規模な泥流が発生した。2回目の爆発では、火口から2.4㎞の鉱山事務所に1分未満で、25分余りで火口25㎞の上富良野原野に到達した。

 お読みになって分かるように、最初の兆候は3年前の大正12年6月に確認されました。とにかく硫黄が増加するところがスタートなわけですね。それから微動や地震や噴気ということでしょう。
 今回もまた、そのスタートなのかもしれません。今後数年間、要観察です。
 そして、皆さんお気づきと思いますが、大正12年と言えば、そう関東大震災の年です。関東大地震が発生した3ヶ月前に十勝岳の活動が始まっているのです。
 だからと言って、今年の9月か10月にも関東大地震が起きるとか、そういう単純な話ではありませんが、日本列島全体で考えた時、大地震と火山噴火は互いに影響しあっている、それもかなり遠距離でも関係があるというのは事実です。
 今回の十勝岳の現象も、当然昨年の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の影響と考えられます。あれだけの動きがあったわけですから当然です。自然というのは、私たちの感覚を大きく超えて、ダイナミックな(空間と時間の)スケールで動いているものです。
 そうすると、当然、我が家のある富士山も何らかの動きがあっておかしくありませんね。3.11の震源からの距離で言えば、十勝岳より富士山の方が近いですし。
 富士山は今日山開き前夜祭。そして明日はいよいよ山開きです。今では各種行事は形式的、あるいは観光的なものになってしまっていますが、本来は「山の神」の領域に踏み込む際の禊神事でありました。昔の人は山の怖さを知っていたのでしょう。
 ちなみに十勝岳の山開きは6月17日でした。その時は全く火山活動の兆候などなかったと思います。富士山も今日は静穏ですが、半月後はどうなっているか分かりませんね。そういう覚悟だけはちゃんとしておいた方がいいと思います。そして、無事に登山ができたり、私のように生活ができたりしていることに、普通に感謝しなければいけません。
 十勝岳の神様の動向に注目です。

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2012.06.29

追悼 小野ヤスシさん…昭和の「演芸」

 日は小野ヤスシさん、今日は地井武男さんの訃報が…。
 昭和は遠くなりにけり。
 小野ヤスシさん、いかにも昭和を象徴する「タレント」でしたね。昭和の「笑い」、すなわち「演芸」は、確固たる「才能」に基づいたものでした。「笑い」だけが独立してあるということはなかった。
 「演技」もそうですよね。「芸」の延長線上に「笑い」や「演技」が自然に存在していました。
 今日は、そんな昭和の「演芸」の空気を懐古してみましょう。YouTubeに非常に貴重な映像がありました。このメンバーはすごすぎます。このオープニングだけでも濃厚すぎます。
 個性的すぎます。イマドキの芸人さんは薄いですねえ。みんな顔が変です(笑)。
 ドンキーカルテットも登場します。1970年の番組のようですから、解散直前の彼らですね。
 この個性的な「面々」の中では、小野ヤスシさんはずいぶんとハンサムですね。背も高いし。いい男です。

 う〜ん、すごいなあ。存在感というか、オーラが違う。
 亡くなってしまった方もたくさんいらっしゃいますね。今でもご活躍の方、いつまでもお元気で昭和の「芸」を伝承していただきたいと思います。
 あらためて小野ヤスシさんと地井武男さんのご冥福をお祈りいたします。

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2012.06.28

ワンセグ内蔵カーナビ用アンテナ二種

同乗者に嫌がられる配線の嵐(笑)
20120629_150653 変わらず忙しい上に、ブログを書く…すなわち修行時間とも言える早朝に、なかなか起きられないという状況でして、あんまり深い思考ができません。
 そんな時こそ、このブログの本来の目的「おススメ」に立ち返りましょう。
 最近買ったモノをおススメします。おそらくこれを見て自分も買おうという人はいないでしょうけれども(笑)。
 今、車をいろいろ改造したり整備したりしています。基本は車中泊生活のための作業です。なぜ車中泊かというと、単純に車中泊をよくするという理由もありますが、前も書いたように何か災害が起きた時に、家族でしばらく生活できるようにという意味もあります。富士山に住んでいるんで、もしもの時は車で避難しなくてはなりませんからね。
 あっそうそう、今「富士山噴火ブーム」ですよね。それでよく売れているR大学のK教授のある本があまりにひどいので、その内容を批判する記事を書きたくて書きたくてしかたありません。早く余裕ができないかな。
 さて、話を戻します。今日のおススメはワンセグ付きナビのお話です。ナビ本体については、こちらで紹介しました。韓国製です。大変よくできているので、今でも重宝しています。今でも手に入りますね。
 そんなわけで、しばらくこれを使っていこうかと思っています。今まで使っていてやや不満だったのは、ワンセグの感度とGPSの捕捉の悪さです。
 これはポータブル式ではしかたのないことなので、別にメーカーの責任ではありません。オプションとしてちゃんと外付けのワンセグアンテナとGPSアンテナがありますから、それを使えばいいわけです。しかし、それらもけっこうなお値段がしますので、またまたネットで格安で代替品を見つけようとしたわけです。
 端子の違いなどはこちらで勝手に改造すればいいわけですから、とにかく安ければよい。
 ということで、今回アンテナ二種を購入しまして、双方ともに改造を施して見事使えるようになりました。

 まずはワンセグのアンテナ。これは驚くほど感度がアップしました。ブースターがそこそこ効いています(+20dB)。
 改造箇所としては、やはり端子が違っていたので、ウチに転がっていた古いワンセグアンテナをぶっ壊して組み合わせてました。それから、ブースター用に12Vの電源が必要なのでシガーライター用のプラグを製作。ついでにバッテリーの負担を軽減すべく、それぞれの機器に独立した電源スイッチを付けました。久々にハンダ付けを楽しんだな。
 続きましてGPSのアンテナ。ゴリラ用のものが使えるという情報を得ていたので買ってみましたところ、端子は合っているのですが、その形状に問題があってナビ本体と干渉してしまって接続できません。しかたなく、ナビ本体を削ることに。彫刻刀でいい具合に削って完成。見事接続されました。
 GPSの受信状況も見違えるほどに向上し、なかなか捕捉しないというストレスから完全に解放されました。
 このアンテナのいいところはコードが恐ろしく長いことです。4m以上。一般にはなんでこんなに長いの?邪魔だ!と言われているようですが、私のように車内を這わせて後部のハッチバックから出して屋根に装着するような場合には、逆にこの長さがないとダメです。
 と、そんなわけで、合計3,000円弱でずいぶんと快適になりました。これでドライブも車中泊も更に快適になりました。

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2012.06.27

野田総理が全原発の再稼働を凍結!?

 やあ、さすが野田総理!感動しました。やっぱりプロレスファンは違う。受ける時は受ける、やる時はやる。勝敗でなく生き様を見せる…。

 虚構会見…こういうパロディーを心から笑えないところがなあ、今の日本の寂しさだなあ。
 虚構新聞を笑えないのとはまた違う病理です。
 歴史を顧みるに、こうした二条河原落書のような政治風刺が笑えない時代というのは、かなり重篤な社会状況だと言えます。そして、建武の新政がそうであったように、その時代というのは長続きせず、新たな価値観の新時代への転換を迫られるものです。
 ただどうでしょうね。この虚構会見の内容はなかなか上手にできてはいますが、もしリアルにこういう会見が行われたとしたら、それはそれで大きな不安と反発を生みそうですよね。
 二条河原落書のすごいところは、当時の政府への反発だけでなく、社会全体への批判精神を忘れていないところです。まあ、それとこれとを同列に並べて語ること自体無理がありますけれども、それでもやはりちょっとした物足りなさや虚無感を抱くのは事実ですね。
 そう、政治に対する不満や不安は、たとえば昨日書いた通りですが、それ以上に国民の側ももう少し賢くなっていかねばならないと思います。
 なんていうかなあ…国民もみんなモンスター化しているというか。この前も、原理主義的(利己的)原発反対論者の方と話したんですが、結局自分の権利(利益)ばかり主張していて、私もこうしますから一緒に頑張って行きましょう的な感覚が皆無だなあと感じました。本人は良かれと思ってやっているんでしょうが、なんかあんまりカッコよくないんですよ。彼なんか、この会見を手放しで素晴らしい!とか言っちゃうんだろうな。あっ、ご本人さん読んでたらごめんなさい。
 では自分はどうかと聞かれれば、今のところなんの行動もできていない卑怯者なのかもしれません。だから偉そうなことは言えませんけれど、しかし、この逼塞感を「なんとかしてほしい」ではなく、「なんとかしたい」「なんとかしなくちゃ」という意識だけは持っていたいと思います。方法は慎重に考えていきます。
 その「なんとかしたい」「なんとかしなきゃ」を取りまとめるために、新たな「落書」の場たるインターネットが大きな役割を果たすでしょうね。
 このたびの「紫陽花革命」は革命には程遠いものでしたが、改めてインターネットが民のメディアとして機能することを再確認させてもらう機会にはなりました。そういう意味では、再び言葉(ペン)の時代がやってきているのかも知れません。個々の言葉が大きな「物語」のうねりとなった時、もしかすると革命は本当に起きるのかも。
 だからこそ、我々はもっと言葉を鍛えていかねばならないでしょう。この虚構会見のレベルではまだまだです。二条河原の落書のごとき力を持つ言葉を誰が発するのか。誰が匿名の英雄となるのか。大いに期待しつつ、こちらも準備を整えたいと思います。
 

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2012.06.26

「まつりごと」とは…民主党政権についての予言(?)を復習しつつ

2012062600000591san0002view 税案が可決されたことよりも、造反組が多数出たことによって民主党が分裂するかどうかの方が注目されるという、なんだかよく分からんこの国であります。
 今日はちょっと皆さんとは違った視点で民主党政権について復習してみたいと思います。
 私は、民主党政権誕生の時に、ある種予言めいたことを書いています。こちら「民主党圧勝、政権交代へ…どこかおかしくないですか?」という記事です。この内容にはけっこう批判もいただきましたが、結果として「今の私は、心から天変地異や人間の愚かさが生む事件・事故がないことを願っています」という私の予感は、残念なことですが東日本大震災という形で現実のものとなってしまいました。
 また、1年後の2010年7月にはこんなことも書いています。こちらの記事です。ここでは「夏は天災のシーズン。それらへの対応力にとことん劣る民主党です。しっかりお祈りでもして、神様を敵に回さないようにしていただきたいものです。なんとなくいやな予感がするんだよなあ…」といやな予言をしていますね。結果として夏ではなく年明けの3月だったということでしょうか。
 私は何度も書いているとおり、政治とは「まつりごと」そのままであるべきだと思っています。神を敬い慰撫・鎮魂し、祈願感謝すること、言霊を操り、神を鎮め、民を平穏に導くのが政治の仕事です(特殊な考え方でしょうが)。
 そういう視点で見ますと、民主党には「政事」力はありません。まさに民が主となってしまっていて、それよりも大きな「何か」を感じる気持ちなど毛頭もありませんね。
 そういう意味で、今回の増税への流れには、大変危険な予感を抱きます。
 財源も大事です。それはよく分かります。しかし、民の命はもっと大切です。平成9年、消費税が3%から5%に上がった時のことをご存知ですか。下の図にあるように自殺者数が突然増加したんですね。

G01

 もちろん、これを単純に増税のせいだはと言えません。いろいろな要素が複雑に絡み合っていることでしょう。しかし、明らかな「現象」であることは事実です。
 これを歴史的な「まつりごと」の視点から見ますと、正邪、善悪のバランスが崩れたと解釈されます。分かりやすく言えば、「命」が「カネ」に負けたということです。単に消費税増税が家計や経営を圧迫してカネに困って自殺したとか、そういう次元ではないんですね。
 最近は「まつる」の語源を「真釣る」と説明する方が増えてきました。これは国語史的には正しくないのですが、感じとしては当たらずとも遠からずだと思います。正邪、善悪のバランスを取ることが「政事」の責務だということですね。
 正や善のみを認め、邪や悪を排するのは正しくありません。なぜなら、その正邪、善悪の区別は人間の価値判断に過ぎないからです。もちろんそんな二元論では説明できるはずもないですし。
 ですから、グレーも含めて全体のバランスを取らないといけないのです。増税に関して言うなら、同じカネを払うにしても、そこにどういう人間の「心」や「魂」や「気持ち」がこもるかが問題なのです。カネは必要悪の最たるものです。必要である悪の、その悪にどういう善的な価値をこめられるか、どういうプラスの気持ちを乗せられるかというのが、実は政治家の言霊による仕事のポイントなんですね。
 そうした本来の「まつりごと(しごと)」が実行されずに、ただ増税が実行されると、そこには「悪」の相乗効果が生まれます。ただでさえ人間が生み出した必要悪であるはずなのに、そこにリアルタイムな民の悪心も乗っかってしまう。そうすると、邪や悪が増殖する一方になってしまいます。
 なんとなくお分かりになりましたか。今回の増税は最終的には5%の上乗せになるでしょう。そして「奉納」される、いや「搾取」されるカネは数兆円単位になるのでしょう。そこに国民の「恨み」が乗るとすると、これは恐ろしいことになります。
 その「現象」として、今回もまた自ら命を絶つ人の大幅増加という事態が発生しないとは言い切れません。命に関することは決して科学的な事象だけでは片付けられないのですよ。
 と、いささかアブナイ視点からの記事となりましたが、実は我々日本人に欠けてしまったのは、こういう視点や感性なのかもしれません。震災も原発事故もそういう観点からもっと論じるべきだと私は常に思っています。必要悪をどう「まつる」か。これは我々人間の永遠の課題なのですから。

参考 2011.03.17

大地震と「モノ」と「コト」と「マツリゴト」

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2012.06.25

スイフト レンジエクステンダー(理想のハイブリッドカー?)

418161 日は自動車ネタです。
 これからの車はどうあるべきか…趣味としてよく考えます。ちょっと前までは、電気自動車こそ夢の自動車、理想の自動車と考えられていましたね。
 しかし、原発事故以来、その考え方にも少し変化が出てきています。いや、ちょっと考えれば分かるじゃないですか。今、街を走っている自動車の全てが電気自動車になったら、どんだけ電力消費量が増えるのかって。原発じゃんじゃん造らないととても間に合いませんよ。
 エコ、エコって言いますけど、どういう次元でのエコなのか。昔、「エコとは?」という記事で散々ホントのことを書きましたっけ。エコなんていう偽善よりエロの方がずっと上品だって(笑)。そして、人間が左右の手に抱えているのは「エロ」という話にまで発展した。これは今自分で読んでも面白い。
 で、実際のところ、どういう自動車がいいかということで、今、より現実的なハイブリッド・カーが売れているわけですよね。しかし、そのHVの標榜する「エコ」というのも実に怪しい。
 本当にプリウスがエコ(環境&経済)なのか、これは細かいことを書かずともお分かりのとおり、いろいろな矛盾を発見することができますね。
 いや、私はいつも言ってるんです。EVに乗ろうがHVに乗ろうがそれはその人の自由です。しかし、エコを理由に乗るのはやめてもらいたい。私が妙なソーラーカー(?)に乗ったり、ある人がスポーツカーに乗ったりジムニーに乗ったりするのと一緒で、「乗りたいから乗る」と言ってほしいのです。趣味で乗ることに関しては、私はなんの文句もありません。ただ、環境にいいからとか、お財布にやさしいからとか、そういう理由は語ってほしくない。特に男性には(笑)。
 それではお前は、「エコ」的にはいったいどういう車が理想なのかと聞かれたら、私は迷わず「レンジエクステンダー」式ハイブリッドだと言いますね。
 ご存知ですか。どういうハイブリッドなのか。そう、ハイブリッドですから、電気モーターとガソリンエンジンの両方を積んでいます。しかし、プリウスのHVやPHVとは違い、エンジンは走行の駆動力としては使いません。では、いったい何に使うかと言いますと…発電です。
 すなわち、ものすごく乱暴に簡略化するとですね、「火力発電所」を積んだ電気自動車ということです。エンジンでガソリンを燃焼(爆発)させて回転力を得て、それでジェネレーター(発電機)を駆動して発電をする。そして、その電力でモーターを駆動すると。
 このREHVのいいところは、短距離ならエンジンを動かさず(ガソリンを使わず)バッテリーとモーターだけで走行できるという点です。つまり、買い物や通勤などの街乗りの際には、家庭用電源からバッテリーに充電した電力だけで純粋なEVとして走ることができ、バッテリーが空になりそうになったら自動的にエンジン(火力発電所)が稼働して自ら電力を作るわけですね。
 そうしますと、EVや従来のHVのように大型のバッテリー(重いし高いしデカいゴミになる)を積まなくてよろしい。せいぜい30キロくらい走行するだけのバッテリーでいいので、軽く安くすみます(当然劣化した際の交換も安価だし環境にもよい)。
 こういうタイプの車としては、GMのボルトがすでにありますが、ここはスズキさんのスイフトに期待したいところです。ボルトはエコ(両義)的にはデカすぎます。こういうシステムこそ小さい車が理想です。小さい車と言えば日本、特にスズキですよね。
 噂ではエンジンは軽自動車のものを流用し、発電効率と燃費を考えて多少ボアダウンするとのこと。そして、発売は来春とか。価格は…もしかすると150万くらい!?…ま、希望的観測ですが。
 とりあえずプリウスよりはずっと安価でフットワークの軽い車になると思います。通常と同じ40リットルのガソリンタンクがあるとすれば、火力発電所付き電気自動車として1000キロくらい走れる計算になります。
 プラグインとしては電池の容量が小さいので充電にかかる時間も少ない。さらに電池切れで止まってしまう心配がなく、いざという時は今までどおりガソリンがスタンドで手に入るという安心や便利、やはり現時点では理想的なシステムだと思います。
 ついでにぜひソーラーも積んでほしいですね。バッテリー小さいですから、相対的にソーラーの利用効率は高まります。ウチのソーラーカー、なかなか調子いいですよ。けっこう発電してくれています。その電気を普段はあんまり使ってないので、ちょっともったいないような気がしています。

噂の記事
 

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2012.06.24

ジャクリーヌ・デュ・プレ 『ドヴォルザーク チェロ協奏曲』

51fzg8ziftl 日のジャズから打って変わり、ロマン派の音楽を堪能。
 いや、堪能なんていうレベルではありませんでした。私は古楽(バロック音楽)が専門ですから、いきなりロマン派を弾くのはきついのですよ。あまりにジャンル違いでして(笑)。
 しかし、やっぱり経験というのは貴重ですね。ほら、今年生まれて初めてロマン派を人前で弾いたじゃないですか。そう、リストのキリストでした。
 あの経験が生きてますねえ。シャープが五つくらいついても驚きませんよ(笑)。いや、そういう意味じゃなくて、音楽として受容する耳と心と、まあ目もかな、それらがあったので最悪の事態は避けられました。
 来月、地元でドヴォルザークのチェロ協奏曲と弦楽セレナーデをやるんです。その練習に初めて参加しました。
 チェロの独奏の方、いやあ、素晴らしかった。生でこの曲を聴くのは実は初めてです。それがこういう形で目前でこちらに向いて弾いてくださっているわけですから、ついつい見惚れる、いやいや聞き惚れてしまいますよね。モダン・チェロのフル・スロットルを目の前で聴くのは、もしかして高校時代の堤剛さん以来かもしれない。
 ドボコンは嫌いではない作品でした。昔先輩に借りて聴いたデュ・プレのレコードのことを思い出しましたね。あれは衝撃的でした。
 女の情念というか怨念(?)というか、異様な妖気が、ドヴォルザークの(エセ)ソバージュな感じと見事にマッチして、そら恐ろしい感じがしたのを思い出します。これは生霊が演奏している!
 私が聴いたのは有名なバレンボイム指揮シカゴ交響楽団との演奏でしたが、今日YouTubeで探していたら、1967年のライヴ録音があったので聴いてみました。これまた鬼気迫る怪演ですね。ぜひ聴いてみてください。
 ヨーヨー・マやロストロポーヴィチもいいと思いますけどね、やっぱり女性がこの曲をこういうふうに弾いているという事実には勝てません。これは理屈ではなく、趣味の問題かもしれませんが。
 今日はジャズ・ピアニストの方ともお会いしました。昨日のジャズ・フェスの話をしたら、「ああ、それは目で演奏してるんだね。日本の音楽家はみんなそう。日本はまだ音楽の啓蒙時代だから」とおっしゃってました。なるほど、まずは「目を開く」ところから始めて、そして次の段階へということか。
 その点、このデュ・プレの演奏には「目」がありませんね。すごい。ちなみに今日の私は100%目で演奏していました。なにしろ初見だったので(苦笑)。本番までにどれだけ目を殺せるか…。

Amazon デュ・プレ ドヴォルザークチェロ協奏曲

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2012.06.23

第8回 富士山の森 ジャズフェスタ

Img_5033 年もまた恒例となりました学生ジャズの祭典が行われました。本年の参加校は、山中湖中学、笹下中学、横浜市立大、法政大学、明治大学、早稲田大学、慶応義塾大学、東京大学、そして本校富士学苑中高です。
 講師は作編曲家の内堀勝さん、そしてサックスプレイヤーの本田雅人さんでした。
 この魅力的なイベントは、我が校が主催しているんですよ。企画から運営、そしてトリの演奏に至るまで、生徒たちは本当によく働いています。
 生徒たちにとっては非常に勉強になる素晴らしい機会です。音楽的に勉強になるだけでなく、他の中学や一流の大学の生徒学生、そして世界的な音楽家と触れ合うことによって得る体験は、とてもとても教室では求められないものです。
 私事ではありますが、実はウチの娘も本校のジャズバンド部に入部いたしまして、チョコチョコお手伝いなどをしておりました。中学に入学してベースを始めましたが、もちろんまだまだステージに上がるレベルではありません。しかし、最後の合同演奏では、カウベルをカンカン叩いて本田雅人さんと共演していました。なんとも贅沢なことです(とんでもないとも言える)。
 昨年の第7回は、自分の本番(たしかチャイコのピアノ協奏曲)があって行くことができませんでしたから、2年ぶりということになります。
 ただ、今回は事情があって後半だけしか聴くことができなかったので、全体の感想を述べることができません。明治、早稲田、慶應、東大、そして本校の演奏を聴いたり観たりした感想を少し(いや、たくさんか)。
 大学生の演奏については、やはり第4回の感想一昨年第6回の記事に書いたとおりです。頭でっかちになりすぎていて、あまり楽しくない。上手なんだけれども音楽が伝わってこない。
 講師の先生とは違う立場、すなわち聴衆の立場であえて厳しいことを書かせていただきますね。
 ずばり一言で言うならば、「コミュニケーション」が足りないのです。誰のために音を出しているのか。誰と音を出しているのか。
 特にジャズはオーディエンスとのインタラクティブな関係性の中で成立するものです。そういう本質がとても希薄に感じられました。
 これもまた一方に対しての皮肉になりますが(笑)、まるでクラシックのコンサートみたいなのです。一生懸命楽譜を再現しようとする奏者と乗れない聴衆。これではお互いに不幸ですよね。
 山野というコンペに向けての機会という意味合いも分かりますが、せっかくああいうロケーション(富士山麓の野外ステージ)なのですから、もっと純粋に楽しい演奏をしてほしいなあと思いました。
 自分の大学時代を思い出してもよく理解できます。そういう自己満足、崇高なる勘違い(笑)の年頃なんですよね。それはそれで仕方ないとは思いますが、やはり本質を忘れてほしくはありません。
 人間関係は「鏡」です。音楽などのエンターテインメントはその象徴です。奏者がこちらに明るく楽しいオーラを発してくれれば、こちらも自然笑顔でリズムに乗れるのです。そういうメッセージがちょっと足りなかったかなあ。
 いい演奏というのは、目をつぶっていても、その奏者の表情まで分かるものです。そして物語のような風景さえも目に浮かんでくるものなのです。
 そういう演奏をするための基本は、演奏者どうしの表情と風景の共有にあるのは言うまでもありません。結局そこが弱いのかなあという気もしました。
 分かりやすい例で言いますと、今ひとつ乗れないリズム隊の特徴としてですね、それぞれの奏者のカウントの取り方が基本的に違っているというのが散見されました。つまり、ベースはランニングしている四分音符で四拍で足を踏んでいるのに、ピアノは八分で踏んでいたりする。それって結局同じだと思う人もいるかもしれませんが、全く意味が違ってくるんです。
 いや、もっと言うなら、さらに大きなフレーズさえも共有しなくてはいけないのです。まるでお経の一文字一文字をただ合わせて唱えるようではいけません。意味の塊で捉えないと。そうすると最低限「息が合う」はずなのに、実際にはそうなっていませんでした。
 これって重要ですよ。あれだけの人数でコンダクターなしでそれをやるには、相当の意識化と訓練が必要です。いちおう同人数程度のアンサンブル経験豊富な私は、そこはいつも痛感しているところです。
 講師の先生も指摘していたとおり、今日は気温が低くピッチが不安定でした。たしかに東大や本校の演奏でもそれが顕著でしたが、この2校(それから最後の合同演奏)はそういう物理的な問題点を超えて楽しめました(東大はサドメルということもあるかな)。それは、おそらく上に述べた音楽(ジャズ)の本質がそこに現れていたからでしょう。
 ちょっと話が飛びますが、昨日の「真剣な八百長」にこじつけて言えば、ジャズっていうのは、ケツ決めではあるけれども、ライヴな緊張感と臨場感と即興性がないと、単なる野暮な「八百長」になっちゃうんですよ。
 そういう点で衝撃的だったのは、本田雅人さんの演奏でした。会場全体に溜息も漏れていましたね。それほど、上手なアマチュアとプロ中のプロの差は歴然だったということです。突然生きた音楽が富士山麓に充満したのです。
 音色、フレージング、音の選択、リズム感、ダイナミクス、色気…何を取っても次元が数段違っていた。理屈抜きに「うわぁ〜」としか言えませんでしたね。さすがです。やられました。それが当然と言えば当然ですが、こうしてコントラストがはっきりすると、真実を再確認せずにはおられません。
 それから最後に我が家全員の感想。これもまた厳しい言葉になるかと思いますがご容赦を。
 大学生ダラダラしすぎ!先生という職業病からか、イライラしてしまいました。MCもグダグダなのが多いし、集合も遅い。講師の先生に対する敬意や感謝の表現も足りない。イマドキの若者なのかなあ。偏差値は高いけれども…中高の教員として責任を感じました。
 それに比べ…いやいや、身内をほめるのはやめましょう(笑)。

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2012.06.22

『悪者扱い』 十五代目時津風親方(山本順一) 竹書房

20120623_120033 相撲マニアの生徒が貸してくれました。
 ちなみに著者の元時津風親方は昨年8月に懲役5年の実刑判決が確定しています。あの、時津風部屋力士暴行死事件ですね。
 なんとも後味の悪い本であります。どう好意的に読んでも言い訳にしか感じられません。
 協会やマスコミ、警察、検察、そして弟子たちの問題点もよく分かりますが、ここまで一方的に他方を責める内容になると、ある意味タイトルどおり自分以外を「悪者扱い」しているだけに見えてしまいます。これでは有罪になってもしかたない。
 前半の八百長論には納得しました。いわゆる八百長は昔からあったけれども、今の八百長は軽すぎると。昔はケツ決めがあったとしても、その中身は真剣勝負だった。昔の力士にはそれができる力量があったということで、これはそのまま、プロレス界にも通用すると感じました。
 単なるガチとヤオという二元論では片付けられない、ある種「武士道」的な、すなわちスポーツとは違う精神的世界、あるいは宗教的世界があったわけですね。
 それが内部からも外部からも腐り、崩れてきた。力士やレスラー自身の甘えやおごりもありましたし、我々享受する側が「野暮」になったということもありました。そして、一気に崩れてしまった。
 なんといいますかね、相撲にせよプロレスにせよ、これはホンモノなのかドラマなのかという、まさに虚実皮膜の間に生じる興奮や陶酔…おそらくそれが日本的な宗教の世界なのでしょう…がなくなってしまったんですね。予定調和やマニュアル主義の蔓延です。
 私もこのブログでもずっと語ってきたように、相撲やプロレスは本来神事であり、単なる勝敗を超えた文化的存在です。一方近代スポーツは土俗的なゲームの中から宗教性を排除して成立しました。当然、グローバル資本主義・市場経済のもとでは、スポーツの価値観の方が有効性を持ちます。
 ことは相撲やプロレスに限りません。様々な分野で(たとえば教育でも)同じことが起きています。それが日本の危機の根本的原因であると、私は真剣に思っています。
 そういう意味では出版界も、矜持というか志というか、何か大切なモノを失いつつありますね。こういう本がポンポン出ることもそうですけれども、なにしろ誤字脱字(逆にいらぬ文字が入っていることも)のひどいこと。ざっと見ただけでも、この本の中に5箇所以上誤りがありました。
 一番ひどいのは…「解雇処分」が「蚕処分」になっていました。もう笑うこともできませんでした。がっかりです。
 私のこのブログも誤字脱字や誤変換の嵐で、よく生徒に指摘されたりするんですが(苦笑)、まあ、書き下ろしで読み直しも推敲もしていないブログ記事と、パブリッシュされる(つまりお金を取る)書籍とは、さすがに間違いの「価値」が違うでしょう。

Amazon 悪者扱い

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2012.06.21

C 対 D …永遠の「世代」闘争?

20120622_120919 日録画しておいたプライムニュースを観ました。「ソーシャルメディア世代の働き方(所属しない働き方 インターネットで稼ぐ)」がテーマ。
 しばらく観られますから、ぜひこちらでご覧ください。う〜む、皆さんはどう感じますかね。それこそ「世代」ごとによって感想が全く違うのではないでしょうか。
 まあ、たしかに社会が変化しましてね、終身雇用も年功序列も護送船団方式も消えつつあり、ある種の「弱者」「敗者」を救うセーフティーネットがなくなっていますから、若者はまた別のシステムやらスキームやらを自ら構築しなければならないのも事実でしょう。
 そこで悩むのが、我々教育者です。いったいどういう「生きる力」を身につけさせればいいのか。
 かつての日教組的な教育のもとでは、先ほどの昭和的な社会に適応する人間を育てればよかったわけです。しかし、今は違う。では、この番組に颯爽と登場しているお三人の若者のような能力というか、考え方を育てればいいのか。それも必要な気もするけれども、でも、なんとなく違和感もある。
 私は「生きる力」は「死なない力」だと思っています。こちらにもそう書きました。そういう意味で、たとえば今教育界でもてはやされている、すなわちブームとなっている「フィンランド式教育」「秋田式教育」というものは、なんとも信用できません。両者ともに「自殺大国」だからです。ま、最近は両者とも、教育とは別の取り組みによって、その汚名を払拭せんとしていますがね。
 では、これからの世の中、どうすれば死なないでやっていけるのか。まずは自殺しちゃいけません。自殺しなければ、まあ人間なんとか生きていけると信じています。誰かがなんとかしてくれる。
 もしかすると、彼らが創りだそうとしている新しいコミュニティーというのは、そこを目的にしているのかも知れませんね。すなわち、ダメ人間どうしでもなんとか助け合って励まし合ってやっていこう、とりあえず自殺しようなんて思わないように、実感のある人間同士の紐帯を作ろうということなのかもしれません。
 それが、家族や近所や職場ではない「他人」に求められているところに不安は感じますが。
 ところで、彼らのような世代のことを、ジェネレーションCというのをご存知ですか。
 ジェネレーションC(C世代)とは、簡単に言えば現代のデジタル文化に親しんだ若者という感じでしょうか。デジタルですがDではなくCです。Cは次のキーワードの頭文字です。
Computer(コンピュータ)
Connected(接続)
Change(変革)
Community(共同体)
Create(創造)
Contents(コンテンツ)
Comunication(コミュニケーション)
Collaboration(協力)
Cotribute(貢献)
 高度経済成長をあまり実感していない世代であり、ある意味古い日本に縛られずグローバルな環境に適応している世代ですね。
 だいたい10代、20代を指すことが多い。場合によっては30代、40代でも思考のスタイルが「若い」場合には、その世代をも含めることがある。
 そんな新興勢力に対して、老体にむち打ちながら抵抗しているのが、Dジェネです。
 これは「団塊の世代」です(笑)。(笑)としたのはですね、Dジェネという略し方がなんとも団塊の世代っぽいからです。ジェネレーションDだとかっこ良すぎる(笑)。
 さあ、あなたはどちらに属しますか?
 私はですね、もうすぐ48歳です。あの昭和39年生まれです。高度経済成長、つまり「戦後は終わった」世代の申し子のような立ち位置ですね。
 そう、たしかに中途半端なんですよ。古き良き戦後日本も嫌いではないし、ポストモダン、いやポストポストモダンも嫌いではない。どっちもよく理解していると思うし、どっちの生き方にも憧れたりもする。
 いや、実はこのC対Dの構図というのは、日本の社会、文化、歴史の根底に流れる二項対立であるとも言えますよね。
 縄文と弥生というか、狩猟採集と農耕というか、山の民と野の民というか…そういう日本の底流に流れる大河の相克とも言えるのですね。
 しかし、そのどちらが正しいかということではなく、その相反するものを上手にバランス取ってやってきた、あるいは両刀遣いでやってきた、うまく使い分けてきたのが日本人であるとも思うわけです。
 最後に、全然関係ない、いや関係大有りかもしれませんが、なんだか空虚なカタカナ語が乱舞してますなあ、Cの方には。
 ソーシャルネットワークだの、セルフブランディングだの、コミュニティー型シェアハウスだの…。
 いや、それはまた、D世代が振り回した哲学用語や政治用語などの漢語と同じなのか。ともに「共同幻想」であることには変わりないということでしょうか。

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2012.06.20

「かんなぎ」第10話より…

Imgres 日は軽いネタで。
 いやあ、笑った笑った。こういうの好きなんですよ。日本人っていいなあと思う瞬間です。
 今日、娘たちが録画してあった「かんなぎ」の第10話を観ていたんですよね。カミさんも一緒になってゲラゲラ笑っているんで、つられて観てみたら、まあ面白いこと。
 私、「かんなぎ」というアニメのこと、全く知らないのですが、それでもこれだけ面白いというのは不思議ですね。
 なんでも、この第10話はいわゆる「神回」だったようです。たまにあるじゃないですか、そういうのって。
 スタッフのこだわり、自己満足、暴走、パロディー…そうしたものを公的な番組の中でやらかしてくれる、そしてそれを許してくれる土壌が、この日本にはありますね。
 この回はカラオケをテーマにした回だったのですが、その「あるある感」だけでなく、ネタとキャラをふまえたオリジナル曲たちのレベルの高さ(すなわちパロディーのクオリティーの高さなのですが)には、よく分からないワタクシも思わず吹いてしまいました。
 もちろん、声優さんたちの「歌のうまさ」…ではなく「演技のうまさ」ですね。わざと「上手に」歌ったり、「ヘタ」に歌ったたり、「キモく」歌ったり…すごいですねえ、プロの世界は。
 他にも露骨な『らき☆すた』ネタやキョーダインという実に微妙な選択など、マニアには「ちょっとやりすぎだろっ!」と言われそうなくらいの力の入れようでした。
 カラオケネタということで言えばあのサラリーマンNEO会社の王国〜新人歓迎会2次会カラオケボックス編なみのクオリティーでしたね(笑)。
 シロウトももうそれだけでも充分ごちそうさまだったのに、なんですか!?あのEDは(笑)。あの映像にこの曲っすか。わざわざこの回のためだけに作詞作曲して録音したんですか(笑)。
 しかし、よくできてるわ、この「しりげやのテーマ」。趣味から職人になった作曲家の神前暁さん。これぞ日本の技ですよね。西洋的アカデミックな世界観とは一線を画す、まさに「文化」の継承者ですよ。素晴らしい。
 ニコ動にあったので、ぜひダイジェストでご覧(お聴き)くださいませ。あ〜、笑った。そして、感心した。
 


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2012.06.19

太宰治 『六月十九日』

016 日は桜桃忌。太宰治の誕生日にして遺体の上がった日です。
 写真は第1回の桜桃忌の一コマ。禅林寺でファンや関係者が酔いつぶれています。一緒に呑めない太宰のなんとも言えない表情が印象的です(笑)。
 さて、今日は、そんな桜桃忌に因み、太宰自身による「六月十九日」という随筆を紹介しましょう。
 この随筆は「博浪沙」に、昭和15年に投稿されたものです。「博浪沙」は井伏鱒二の師匠にあたる田中貢太郎主宰の同人誌です。
 「博浪沙」という誌名は、漢の張良が秦の始皇帝を襲った地名に因んでおり、つまり体制への反旗、当時の文学的に言うなら、大御所菊池寛に対する反発を含意しているようです。
 文中にある同年同日生まれの無名の詩人とは誰でしょうかね。結局無名で終わったのでしょうか。そうだとしたら分かりようがありません。
 同年同日生まれの文人を調べてみると、俳人の村山古郷という人がいるようですが、詩人と言えるかどうか。あるいは太宰一流の虚実皮膜表現で、俳人をあえて詩人と書いたか。どうなんでしょうね。
 もしかするとそんな手紙はなかったかもしれないし、あるいは本当は飲んだかもしれない。
 正直、大した文章ではありませんが、「自分の平凡な身の上が不滿であつた」というくだりに、彼の小説の胡散臭い魅力の本質が表現されているようにも思えます。


 なんの用意も無しに原稿用紙にむかつた。かういふのを本當の隨筆といふのかも知れない。けふは、六月十九日である。晴天である。私の生れた日は明治四十二年の六月十九日である。私は子供の頃、妙にひがんで、自分を父母のほんたうの子ではないと思ひ込んでゐた事があつた。兄弟中で自分ひとりだけが、のけものにされてゐるやうな氣がしてゐた。容貌がまづかつたので、一家のものから何かとかまはれ、それで次第にひがんだのかも知れない。藏へはひつて、いろいろ書きものを調べてみた事があつた。何も發見出來なかつた。むかしから私の家に出入してゐる人たちに、こつそり聞いて廻つたこともある。その人たちは、大いに笑つた。私がこの家で生れた日の事を、ちやんと皆が知つてゐるのである。夕暮でした。あの、小間で生れたのでした。蚊帳の中で生れました。ひどく安産でした。すぐに生れました。鼻の大きいお子でした。色々の事を、はつきり教へてくれるので、私も私の疑念を放棄せざるを得なかつた。なんだか、がつかりした。自分の平凡な身の上が不滿であつた。

 先日、未知の詩人から手紙をもらつた。その人も明治四十二年六月十九日の生れの由である。これを縁に、一夜、呑まないか、といふ手紙であつた。私は返事を出した。「僕は、つまらない男であるから、逢へばきつとがつかりなさるでせう。どうも、こはいのです。明治四十二年六月十九日生れの宿命を、あなたもご存じの事と思ひます。どうか、あの、小心にめんじて、おゆるし下さい。」割に素直に書けたと思つた。

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2012.06.18

『赤瀬川原平が読み解く全作品 フェルメールの眼』(講談社)

Refdp_otherviews_1 年は天文イヤーであるとともにフェルメール・イヤーです。「手紙を読む青衣の女」「手紙を書く女」「手紙を書く女と召使い」「真珠の首飾りの少女」「真珠の耳飾りの少女」…なんか悔しい(笑)。私、ブームになるずっとずっと前からフェルメールファンだったんですよ。
 あんまり知られていませんが(?)、私、子どもの頃は美術畑の人間になると思っていたんです。音楽に出会ってしまうまでは、完全に美術人間でした。どこで逆転したのかなあ。高校の時かなあ。
 高校の時、芸術科目の選択は音楽ではなく美術でした。そして、当時その高校の成績は10段階評価だったんですが、唯一ずっと10を取ったのは美術だけでした。次がたぶん地学の9、政経の8とかでしょうか。ちなみに国語はいろいろありましたが平均して7くらいだったような記憶があります。最低は数学と化学の3っていうのがあったな、たしか(笑)。で、今、国語のセンセイ。
Vermeer13 ま、自分の自慢話(?)はいいとして、とにかくそんな高校時代からフェルメールの絵が好きだったんです。それまでは印象派のシスレーの風景画が好きで、何枚か模写したりしていました。それが、あの「デルフトの眺望」を何かで見て、それはそれは衝撃を受けたわけですよ。
 今思うと何に衝撃を受けたのか、あまりよく分からないのですが、とにかく理屈抜きに「これはすごい」と感じてしまったのです。それで、図書館か何かでフェルメールの作品全集を見ましてね、そして、彼が決して風景画家ではなかったことを知ったわけです。
 ちょうどバロック音楽に目覚めた頃でしたし、なんでしょうねえ、やはり「バロック的」な何かに反応したのでしょうか。もちろん、描かれた古楽器群にも萌え萌えでしたけれども、やはりそれ以上に、うん、やっぱり高校生というお年頃だったせいもあってか、女性たちにキュンキュンきてしまったのですね。
 ま、今でもけっこうドキドキします。つまり、バロック的なコントラストですかね。明暗とかじゃなくて、物語と科学とか感情と論理のコントラスト、バランスがいいのだと思います。あとはそのウソ臭さですね。
 そのへんに関しては2008年に初めて生フェルメールに触れた時の記事にも書いてありますね。けっこう厳しいことも書いてるな(笑)。なるほどスヴェーリンクか。
 そんなわけで、今年はちょっとしたフェルメール・ブームが起きていまして、本屋さんに行くとまあたくさんの便乗本(失礼)が並んでいること。悪いことではないのですが、単なるブームになってしまうとしたら、なんとも哀しいですねえ。日本人ってそういうところが多分にありますから。
 もし1冊選ぶとしたら、絶対これです。赤瀬川原平さんの本です。そう、もともと私にフェルメールの見方を教えてくれたのは赤瀬川センセイであります。赤瀬川さんの美術系の本はどれも面白い。ある意味、絵画におけるフィクション性やトンデモ性を楽しんでおられるからだと思います。
 ま、とにかく、今年はなんとしても「真珠の耳飾りの少女」だけにはご対面しておこうかしら。あの瞳に見つめられたいような…。

Amazon 赤瀬川原平が読み解く全作品 フェルメールの眼

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2012.06.17

上祐史浩・森達也 「脱」洗脳ナイト

 の言葉たちをどう捉えればいいのか。上祐さんの冷静さと森さんの不機嫌。そして、真木さんの暴走(笑)。いずれも煩悩にとらわれているよう感じられました。それぞれ自己への執着が強いなあと。
 言葉自体が自己への執着の道具なんだなあと痛感。ここでは何も解決していないし、「脱」洗脳どころか、自己洗脳がどんどん進んでいるようにしか見えませんね。
 

 一昨日、昨日とプチ体験した禅の修行にはある意味「マインド・コントロール」という意味合いもありますね。自らが自らの心と体を調整するわけですから。セルフ・マインド・コントロールということでしょうかね。
 そして、ご存知の方も多いと思いますが、禅の修行はある意味暴力的なところがある。徹底した人格否定も行われる。精神的に限界に追い込む。また、肉体的にも限界を体験させる。
 雲水さんも臘八摂心のキツさを語っておりました。やはりそこには非日常的な神秘体験があったりする。
 そういう意味では、オウム真理教の思想や修行方法は正統的であるとも言えます。いや正統かどうかは分かりませんが、充分に伝統的ではありますね。
 問題は、そうした「伝統的」な出家集団が、なぜあの時代にあのような事件を起こしてしまったのか、そこの分析です。ワタクシ的には、それは、仏教やあるいは宗教全体とは本質的な関係はないのではないかとも思ったりします。
 かと言って、麻原個人の異常性格に原因を帰するのもなんとなくしっくり来ない。時代のせいにするのも納得がいかない。
 そういういろいろな意味での「総括」をすべきなのかどうかも、実はよく分かりません。
 今、こうして仏教や他の宗教に、ある意味普通以上に興味を持っている私は、かつて(犯罪集団になる前の)オウムに対しても同様の感覚で接していました。ですから、他人事ではないのです。
 今のこの立場や気持ちに、オウム的な危険が伴っているということも常に意識しています。意識しないと怖い部分もあるんですね。どこか懐疑的でいないととんでもない方向に進んでしまう可能性があると。
 しかし、いわゆる「総括」や「反省」というお題目にも疑いの目や耳を持ってしまいます。たとえば、この番組で語られている言葉、それが上祐さんのものであれ、森さんのものであれ、真木さんのものであれ、妙に納得させられる分、逆に気持ち悪さを感じざるを得ないのですね。
 言葉というのは怖いなと思います。脳内で生み出された「記号」が肉体を通じて発せられる。そして他者の心や体をコントロールしていく。その暴力的な性質にぞっとします。「脱」洗脳を語ると、そこには「洗脳」がどんどん生まれてくる。
 自分の中のモヤモヤが言葉によって輪郭を与えられると、ある部分では安心するのですが、多くの部分では、「そんなに簡単に説明できないだろう」という気持ちになります。
 禅は言葉を否定します。体験から得た実感こそが実体であると説きます。しかし、私たちは言葉を使わないと思考もできないし、他とつながることもできないと体験的に信じています。難しいですね。私もこうして言葉を弄している。
 それにしても、上祐さんにしても、森さんにしても、真木さんにしても、自分の言葉に洗脳されているんじゃないのかというくらい自信に満ちていますね。恐ろしいほどです。
 この番組を視聴したのをきっかけに、その周辺にあるオウムの動画をいろいろ観ました。やはりそこには言葉が乱舞していました。
 言葉には功罪がある。当たり前です。論理力にも功罪がある。論理を作り出すことができるからです。我田引水、牽強付会の論理がどんどん生まれて跋扈していく様子を見ると、それらをぶっ壊したい衝動にさえ駆られてしまいます。コトよりもモノが優勢であってほしいと思うことは暴力的なことなのでしょうか。迷います。教育者としても人間としても。
 いまだに麻原への帰依(上祐流に言えば依存)を続けていたという高橋克也が逮捕されました。これを機に再び「総括」の機運が高まると思いますが、「総括」して納得して終わりにするようなことではないような気もしてきます。
 このワサワサした気持ちからすると、上祐氏のあの落ち着きが「ウソ」に見えて仕方ありません。

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2012.06.16

師は自らの中にあり

Gedc3700 日に続き、向嶽寺にて座禅研修。朝4時前に起床しますと、目の前には白んでいく庭園が広がっています。古今集にも詠まれている塩の山の南麓をそのまま借景とした、いや斜面自体を庭園とした国の名勝です。なんと贅沢なことでしょう。
 そして、朝課のあと、その庭園に臨みながらの座禅。実に気持ち良く座らせていただきました。前も書きましたとおり、ホンモノの雲水さんと一緒に座りますと、これは脳波がシンクロするからでしょうかね、本当に気持ち良い座禅をすることができるのです。
 そういう意味でも良き「導師」というのは大切だなと改めて感じ入ります。「場」も大切。「師」も大切。つまり、他者のおかげさまで、新しい自分に出会うことができるというわけです。
 休憩の時間には国宝の達磨大師像を拝見したり、また謁見の間に呼んでいただき、管長様より貴重なお話をうかがったり、全くもって実に得難き尊い時間を過ごさせていただきました。
 そして、最後に生徒と一緒にうかがったお話にまた、ある意味大変なショックを受けました。人生観が一変するとはこういうことなのですね。
 それは、法句経にある「己こそ己の寄る辺、己を措きて誰に寄るべぞ、よく整えし己にこそ、得難き寄る辺をぞ獲ん」という言葉についてのお話でした。
 すなわち、「自分こそ自分の頼るべき存在である。自分をおいて誰を頼るというのだ。よく整えた自分の中にこそ、得難い(ありがたい)師を得るのである」ということでしょう。
 先ほど「場」や「導師」の大切さを書きましが、ある意味、今までの私は、そこに過分に期待していたところがあったのだと気づきました。
 たしかに、他者からの影響や導きは大切ですが、最後は他力ではなく、やはり自力に頼るべきだったのです。
Gedc3708 座禅をしている自分というのを、どこか客観視している部分はありました。今どういう座相かなあとか、心の状態がどうなのかなあとか。しかし、それはですね、なんというか、例えば国宝の掛け軸に描かれていた達磨大師さんのように、何か遠い高い所に理想の完成形があって、わけも分からずその真似をしようとしていたということなのだと思います。形だけ真似するとか、理屈で真似するとか、そういう次元ですね。
 実際、生徒や私たちは、「形はある程度整っていたが、心はまだまだ」と管長様にすっかり見抜かれてしまっていました。全くそのとおりだと思います。
 それでは、たとえばそのまま出家して、私も雲水になって、今のまま座禅をひたすら続けていれば、それで心身ともに整うのかというと、たぶんそれは無理でしょう。
 つまり、方法というよりも、本来の目指すべきところが違っていたということです。そう、自分の中に「師」がいるなんて夢にも思っていなかったのです。誰かのように立派に悟りたいと思っていただけだったのです。
 しかし私は、その法句経の言葉を聴いた瞬間に、はたと気づくことができました。なるほど、そうか。そうだったのか。自分の中に実は師はいるのだと。
 その師に出会うために座るのです。いや、あるいは座らなくてもいいのかもしれない。自らの中に師がいると知れば、日常の生活や仕事の中でも、その師と出会おうとすることはできるはずです。格別に修行することのみが禅ではなく、生活、仕事、趣味、生きることが全て禅であるというのは、そういう意味なのですね。
 いやあ、本当にドキッとしました。今まで半世紀近く、自分の中に「師」がいる、あるいは自分の人生自体が「場」であるなんて、夢にも思って来なかったのですから。これに気づかせてもらっただけでも、これからの後半生、とんでもなく面白くなりそうです。それこそ「生き甲斐」があるというものですよ。自分自身が究極の目標でありゴールなのですから。
 灯台下暗し。自分の内面にもっと光を当てて生きればいいのか。自分はダメダメな人間だと思い込んでいましたが、実はそれだけではないと。今はダメダメが表面に現れているかもしれません。しかし、その奥にはもっと立派な自分が隠れているに違いないのです。そう思うと俄然やる気が充実してきますね。
 自分が違って見えると、他人も当然違って見えます。まさに衆生全てに仏性を認めることができるようになるわけですからね。なるほど、自己は自己の補集合たる他者によって縁起しているとするなら、自他不二であるのも公理であって、さすれば、実は師は自己でもあり他者でもあるということですから、今までの私の感覚や考え方も否定しなくてすみますよね。まさに止揚しましたな、これは。
 管長様、本当にありがとうございました。そしてもちろんお釈迦様にも心から感謝いたします。

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2012.06.15

逆縁もまた縁なり

Gedc3703 日より生徒ともに、臨済宗向嶽寺派大本山である塩山向嶽寺にて接心(座禅研修)をしております。ホンモノの雲水さんしか入ることができない素晴らしい「場」で座禅させていただく幸せを存分に味わわせていただいおります。
 昨年も本当に素晴らしい体験をさせていただきました。生徒たちも奇跡を起こしくれたりしまして、改めて座禅の素晴らしさ、禅宗の奥深さを体験することとなりましたね。
 今年も昨年お世話になった雲水さんに再びお目にかかり(つまりまだ修行は続いているのです)、また、これは説明するのが難しいほどに不思議な不思議な仏縁によって、ある知り合いと再会したりしました。お互いにこんなマニアックなところで二度目の出会いをするなんて…と驚き合いました。
 確率的に有り得ませんよ、本当に。その方と「これはもう地獄まで一緒に…」なんて笑い話をし、近くにいた雲水さんから、「それこそ逆縁だったりして」なんて言われましたが、今日はそんな「逆縁」の話を記しておきたいと思います。
 今回も管長様の有難いお話をお聴きする機会を頂戴したわけですが、その中でも「逆縁もまた縁なり」というお話は、私の心に深く刻まれる内容でした。心に深く刻まれ、そして得心するということは、そういう体験を実はたくさんしてきたという証でもあります。
 ごく簡単に書きますと、このようなお話でした。

 京都のあるお寺のある雲水さんが托鉢に出た。多くの人々は有難く思い、雲水にお布施をしていたのだが、ある呉服屋の主人は、どうもその托鉢というものが好きになれないらしく冷たくあしらっていた。いつもあっち行けとばかりに犬でも追いやるがごとく手でシッシッとやっていた。それでもその雲水は気にせず托鉢を繰り返した。
 あまりにしつこいので、とうとう呉服屋は雑巾を洗った汚れ水をその雲水に思い切りぶちまけた。雲水はびしょびしょになり、衣もすっかり汚れてしまった。しかし、雲水は、それでも全く気にせず、深く合掌礼拝して穏やかに去っていった。
 そして次の托鉢の日にもまたいつもと同じようにその呉服屋を訪れた。呉服屋の主人はいよいよ腹立てて、「どうしてこんなに冷たくあしらっているのに通ってくるのだ」と訊くと、雲水には静かに「逆縁もまた縁なり」と一言残してまた合掌礼拝して穏やかに去っていった。
 呉服屋の主人はその瞬間大切な何かに気づいた。心も行動も一変した。その雲水の身につけるもの一切のお世話をするようになったのである。その後雲水は立派な老師になったが、それまでずっと呉服屋はお世話を続けた。

Gedc3710 「逆縁」とは「仏道修行の妨げとなるような悪い縁」のことを言うそうです。簡単に言えば、敵とか嫌なヤツとか苦手な人とか、そういう人との縁のことですね。
 そういう人との縁を、いやがらずに、それこそ意味のあるものととらえて受け入れるのは、たしかに仏教の教えに適っていますね。自己という存在は、自分が好むと好まざるに関わらず、すべて他者との縁によって成り立っているわけですからね。
 そういう、実は当たり前の事実、いや真実を意識していれば、日常のマイナス感情というのは簡単になくなります。私も最近になって80%くらいそれができるようになってきました。それでずいぶん楽になりました。
 また、これはよくあることですが、他者に対して「いやだなあ」「嫌いだ」「生理的に許せない」と思うことこそ、実は自分自身に巣食っている問題点であったりしますよね。そういう意味でも、拒否するのでなく、受け入れて自分自身の問題とした方が実は根本的な解決になったりしますね。良薬口に苦しというのと一緒かもしれません。
 それから、管長様の御法話を拝聴しながら、こんなことも考えました。ああ、なるほど、悪い因縁から解脱するというのは、身近なところではこういうことなのかもしれないと。
 人間関係とは、案外単純な「鏡」であったりしますよね。こちらが好けば相手も好いてくれる。こちらが嫌いなら相手も自分を嫌う。そういう意味での「鏡」です。
 しかし、嫌い合う関係におょては、そのままだと何も解決しませんね。永遠に敵同士になってしまう。しかし、このお話の雲水さんのように、相手がどんなに不機嫌な顔をしようとも、穏やかなお顔で、すなわち相手の感情を反射しないで、逆に全く違う光を投げ返すと、そこで悪い因縁の循環は絶たれます。
 それが身近なところでの「解脱」、カルマからの脱出なのかなと思いました。「解脱」というと、とんでもなく難しく遠い次元での話だと思っていましたが、実はそうではなく今日から、今からでもできることなのかもしれないと。
 なんか、急に心が軽くなったような気がしました。私自身も、その呉服屋さんの主人のように、心の殻というか壁というか垢というか、そういう何かが落ちたのかもしれませんね。
 本当に有難いお話でした。ある意味単純な話ではありますけれども、それが理屈ではなく体験として迫ってきたところに、厳しい厳しい修行の賜物を見たような気がいたしました。管長様の体験的理解に基づいたお言葉には、格別の重みと深みがあったのでした。ありがたや、ありがたや。


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2012.06.14

『私は臓器を提供しない』 近藤誠・宮崎哲弥・中野翠・吉本隆明 (洋泉社新書)

489691452x 歳未満脳死判定 15日摘出手術、移植へ 「息子誇りに思う」…衝撃のニュースです。
 原子力工学、遺伝子工学、そしてこの臓器移植は、人間が自らの「夢」の実現のために侵すべからざる領域に踏み込んでしまった愚行の代表であると思います。非科学的に言えば「神に対する冒瀆」ということです。
 本来制御不可能なモノ(自然)をコントロールしようというのが、近代科学の目的の一つです。原子や分子も制御不能である以前に不可視、不可知な存在でした。それを発見して驚嘆するのはけっこうですが、認知したから次は支配下に置こうというのは、あまりに暴力的な発想です。
 生命(特に死)についてはさらにひどい。認知さえしていないのに、制御下、支配下に置いてしまった。それも科学的な基準(それももともと非科学的なモノを対象としているので怪しいのですが)より先に、法的な基準が定められてしまった。すなわち「言葉(コト)」の世界で生命を捕獲したということです。
 この本でも仏教的な立場からの発言を読むことができます。お釈迦様は、まさにこうした人間の愚行をお咎めになった。ワタクシの「モノ・コト論」的に言うならば、本来不随意なモノであるこの世界を、随意なコトだと思い込むのが煩悩であって、そこから「苦」が生じるのであると語ったということです。
 倫理的な問題は、これは絶対に解決しません。なぜなら、倫理は論理ではないからです。倫理は最終的には感情によって言語化されるものです。もし個人的に解決させるとしたら、宗教を登場させるしかない。しかし、それでも、宗教は一つにはなりませんから、結局総体的には解決されません。
 では、感情を凌駕しようとするのが論理であり科学であるとして、時が経てばその目的が達成されるかと言えばそれは無理です。科学(医学ではなく工学ですが)が発達したからと言って、生命に対する人間の感情(倫理)は本来変わらないはずです。
 心臓が動き、体温のある人間(それも子ども)に「2時11分、脳死と判定され死亡が確認されました」と言うのは、あまりに暴力的ではないですか。「脳死」という概念、すなわち言葉が生まれたからこその暴力だと感じます。
 脳死の概念のなかった昔だったら、当然体温があり、反射運動のある人間に対して、誰も死んだとは思わないでしょうし、あきらめもしないでしょう。工学と法学が発達したからと言って、そこは本当は変わらない。つまり、ここでの工学(医学?)も法学も一種の詐術になってしまっているのです。
 「絶対に」回復しないと誰が言えるのだろうか。救命措置は充分だったのか。いや、救命措置がそもそも臓器移植のためだったのではないか。コーディネーター(いやな言葉です、ドナーもレシピエントも含めてカタカナ語にする時点で悪意を感じる)の説明は適切だったのか、いやそれそもそもコーディネーターとは、はじめに臓器移植ありきの存在ではないのか。
 今回の親族の皆さんの判断についてはとやかく言える立場ではありませんが、しかし、もし私が当事者であったなら、いや当事者でなくとも、生きた臓器を切り取ることには大きな抵抗を感じます。そう、臓器は生きているのですから。臓器が生きていることが臓器移植の前提なのですから。
 あえて非科学的な言葉で反発するなら、科学も倫理も霊的な次元では全く無力というか無意味なのです。いや、霊というのは幽霊とか魂とかいうことではなくて、もっと広い意味、説明するのは難しいのですが、「コト」の補集合たる「モノ」すべてというか、この宇宙や生命の根源にある唯一の真理というか、お釈迦様のお悟りになった境地というか、そんな「感じ」のものです(全然分かりませんね)。
 近代科学はその「感じ」を感じなくするように働いて来ました。いわば鎮痛剤や麻酔薬や麻薬のように。私はそこに危険と恐怖を感じるのです。震災や原発事故で我々は少しその「感じ」を思い出したにもかかわらず、1年過ぎればまた忘れてしまう。
 この本にもあるとおり、ドナーカードの「私は臓器を提供します」に印をつけると、正しい救急救命治療を受けられなくなる可能性があります。いろいろな立場で臓器移植を実現したい人が想像以上にたくさんいるのですね。私も知り合いの医師から現場の恐ろしい話を聞いたことがあります。事実としてではなく、可能性としての話でしたが、正直ぞっとしました。
 学校に「ドナーカード、命のリレー」みたいなパンフレットがしょっちゅう来て、それを生徒に配る時には、その話をします。なぜなら、そういうパンフレットには、そんな話は当然載っていないからです。あまりに一方的な(暴力的な)説明しかない。あなたの意志は自由ですと言いながら、完全に「提供します」へ誘導している。本当に子どもたちの生命を馬鹿にしています。
 先日亡くなった吉本隆明さんの貴重な意見も読むことができるこの本、残念ながら絶版になっています。ああ、これって洋泉社新書の第1号なんだ。出版された2000年から比べると、臓器移植の状況はまた随分と変わりました。もちろん、臓器移植実現希望者の思う方向への変化です。
 今回の子どもの脳死と臓器移植のニュースを見て、原発再稼働と同じような危険性を感じたのは私だけではないでしょう。人間の暴走はとどまるところを知りません。

Amazon 私は臓器を提供しない

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2012.06.13

「乃木坂浪漫」より太宰治三編

Imgres 和23年の今日、太宰治は山崎富栄と玉川上水に入水しました。遺体の上がったのは19日ですが、おそらく今日が本当の命日でありましょう。
 それにちなんで、今日は2年生の授業でドラマ「グッド・バイ」 私が殺した太宰治の前半を見せ、家に帰ってから、恋の蛍の6月13日周辺を読み直しました。
 何度も書いているとおり、私の職場は太宰と縁の深かった場所に建っています。それも含めて、私は太宰と妙な縁があるように感じています。まあ、勝手な思い過ごしでしょうが(追記…実は夜寝てからいろいろ騒動がありました。たぶん太宰のせいです)。
 私の太宰観はちょっと人とは違っており、それを太宰自身はあまり好もしく思っていないようですね(苦笑)。まあ、しかたない。作家の宿命ですよ。曲解されるのは。我慢してください。
 今日も懲りずに、ちょっと斜めから太宰にまつわる「作品」を紹介します。いやいや、太宰は喜ぶかな。可愛い女の子好きでしょうから。
 テレビ東京の深夜枠「乃木坂浪漫」です。ご存知ですか?
 民放の深夜枠、時々こういう文学を扱うことがありますよね。今でも教材として使わせていただいているフジテレビの文學ト云フコトなんか代表的な例ですね。
 地デジ化のおかげさまで、ウチでは以前観ることができていたテレ東が観られなくなりましたので、この番組はYouTubeで拝見させていただいています。
Imgres1 まあ、乃木坂46と近代文学という、なんともアンバランスな、いやいや、「乃木坂」ですからね、妙にマッチしているのかなあ、AKBじゃダメだもんなあ、いずれにしても、現代のアイドルと近代のある意味アイドルとの化学反応がなかなか面白い。
 私はこういうの好きなんですよね。なぜなら、近代文学という化け物は、当時の近代人と我々現代人が勝手に作り出してしまったそれこそ化け物であって、実体はそれほど大したことない、せいぜい一過性のブーム程度に過ぎないと、まあ勝手に信じているからです。ですから、現代のアイドルが舌っ足らずで朗読しても全然気にならないどころか、おお、これこそ実はあるべき姿なのではないかなどと、本気で思ってしまうわけです。文学少年少女および青年その他の皆さん、ゴメンナサイ。
 おそらくはこういう不遜な態度が太宰の気に入らないところなのでしょう。いやいや、ホントのことを言ってしまうところにイラッと、あるいはビクッとしちゃうんでしょうか(笑)。
 ということで、今まで放映されたものの中から太宰治作品三編をご覧ください。案外いいですよ。やはり、本当にいいものは、どんな料理のされ方をしても動じないものです(…と、太宰自身をまたちょっと刺激してみたりして)。

「女生徒」 桜井玲香

「斜陽」 桜井玲香

「津軽」 生駒里奈

 ここに聴かれる「空虚な近代日本語」は全くの現実であり、しかし不思議と残る「文学」の残り香もまた現実の中に生き続ける「虚構」の魅力そのものなのでした。
 うん、やっぱり、文学は嫌いではない。ただ、決して立派なものではない。どちらかというとダメ萌えですね(笑)。


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2012.06.12

サッカーに見たプロレス魂(闘魂)

201206130001spnavi_2012061300001_v やあ、今日のサッカーW杯予選、日本対オーストラリア、面白かったですねえ。
 タイプが違えど実力の拮抗した者どうしの対戦ですから、ああやって審判(レフェリー)が試合を作るということもありだと思いますし、結果としてドローだったのは、まあある意味では主審のおかげだったとも言えます。おそらく選手たちはお互いに納得する試合だったのではないでしょうか。
 特に、私のようなプロレスファンからしますと、ああいうレフェリングというのは、逆に魅力的にさえ思えます。あれだけ試合を作り、選手を動かし、観客を興奮させることができれば、それこそレフェリー冥利に尽きるのではないでしょうか。
 さて、プロレスと言えば、この試合で活躍した本田選手と栗原選手は、両者ともプロレスの魂、いわば「闘魂」を持った男です。私としてはそこを見られたのも収穫でした。
Middle_1248094463 本田圭佑選手は言わずと知れた五輪一族本田家の一人ですね。大叔父である本田大三郎さんはカヌーで東京オリンピックに出場しています。圭佑選手も実行していたという本田ノートの発案者だそうです。そして、大三郎さんの長男が、あのプロレスラー本田多聞選手です。ノアで小橋建太選手とともにGHCのタッグチャンピオンにもなり、それ以前に五輪にも3大会連続で出場している猛者ですよね。レスリング界の重鎮的存在です。
 圭佑選手のあの勝気な性格や、パフォーマンスを見ていると、いいプロレスラーになるだろうなあと思います(笑)。
201107160001spnavi_2011071600001_v プロレスラーになれそうと言う意味では、今回、本田選手の絶妙すぎるアシストを受けて先制ゴールをあげた栗原勇蔵選手。彼のプロレス好きは有名です。今日の試合でも、あのゴールもそうですが、その前のですね、あのキーパー不在のゴールを体を張って死守したシーンですね、あれこそプロレスラー魂を感じさせる素晴らしいプレーでしたよね。
 栗原選手のプロレスオタクぶりは、こちらの蝶野正洋選手との対談でよ〜く分かります。いいですねえ。
 最近、職場で、教育における「闘魂」論を戦わせることが多いのですが、やはり、どのジャンル、分野、仕事においても、「闘魂」すなわち「怒り」と「覚悟」が大切ですね。それがない人間、特に男が多くて困ります。
 サッカーも教育も最後は「闘魂」がなければ。「闘魂」をもって体当たりで臨めば、結果はどうあれ、必ずその相手との間に信頼や尊敬が生まれます。日本人よ、「闘魂」を取り戻せ!…心からそう叫びたいと思います。

Amazon 本田の男は骨で闘う 本田圭佑、本田多聞を育てたオリンピアンの日本人の心を強くする言葉

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2012.06.11

『富士百景(THE PICTURESQUE MOUNT FUJI)』 今尾掬翠

 ジタル技術の恩恵はいろいろなところに感じられますが、各大学や図書館のデジタル・アーカイヴはその最たるものの一つでしょう。
 私もいろいろな分野で有効利用させていただいています。特に音楽と文学の分野。
 音楽では楽譜ですね。クラシック系の楽譜はほとんどこちらで手に入る。最近200万冊を超えたとの告知がありました。昔、数千円はたいて買っていたようなものが、無料で手に入るのですから、なんだか申し訳ないような気さえしますね。きっと商売上がったりの方もいらっしゃるでしょう。
 前も書いたとおり、こうしたデジタルデータとA3(折りたたんでA4)クラスの大きさのタブレット端末があれば楽譜の管理や持ち運び(ついでに譜めくり)が俄然楽になりますね、たぶん。
 文学や歴史の研究の面でも、様々な貴重書を読むことができる。まあ、もう少し著作権が緩くなって、国会図書館のアーカイヴがもっとネットで閲覧できるようになればいいなあ…。特に古いもの。とっくに著作権が切れているだろうに、法的なプロセスが面倒なのか、見ることができないものが多すぎます。
 まあそれでもずいぶんありがたい時代になったと思いますよ。今日紹介するものも、昔、古本屋さんで3万円出して買おうかと思っていたものです。それが無料で見られる。
 これはちょうど100年前1912年(明治45年・大正元年)に出版された富士山の写真集です。発行月の6月だし、本当にちょうど1世紀前ですね。
 外国人にも見てもらおうということか、あるいは実際に外国での需要が多かったのか、英語の解説なども付されています。
 最も古い富士山の写真集なのかどうかは調べてないので分かりません。たぶん、もっと前からあったと思いますが。どうなんでしょうか。
 ところで最近、富士山の噴火の可能性が注目され、まるで一つのブームのようになっていますね。まあ、そんなに簡単に富士山は噴火しませんよ。富士山に住む者として、自衛の意味でいろいろなデータの計測をしております。国の観測機器のデータもそれこそネットで見られますから、それと個人的な計測データも合わせて、噴火や地震を予測しています。たぶん大丈夫でしょう。ダメな時はダメでしかたないし。
 で、とにかく富士山というのは明治の頃からそんなに大きくデザインを変えていません。ですから、この写真集には、そのへんの変化、つまり富士山の経年変化のデータとしての価値は期待していません。
 それよりもですね、その富士山を背景とした、この富士山周辺の町(村)や自然の様子を見たいんですよね。それは富士山は違って、この1世紀の間に人や街や自然は大きく変化しましたからね。
 1枚見てみましょうか。これは「吉田月光寺附近より見たる富士」と題された写真。ちなみに「月光寺」は間違いで「月江寺」です。ウチの学校の母体となっているお寺ですね。英語表記も間違っている。「Gakkou-Temple」じゃなくて「Gekkou」ですよ。他にもけっこう間違いが目立ちます。「明見湖」が「Akemi-Lake」になってたり。「Asumi」ですよ。ま、両方とも今でもよく間違われるのですが。その他にも新倉山が朝倉山になってたり。
 まあ、とにかく見てみましょう。

20120612_135135

 うむ、これはどの辺かなあ。宮川沿いですから、それこそ今の私の職場の近くでしょうか。こんな風景だったんですね。
 百景とありますが、全部で101枚の写真が収載されています。それぞれどこから撮影したものか、現在の様子と比較しながら比定して歩くのも面白いかもしれませんね。
 101枚の写真のあと、富士山についての概説が付いております。これが私にとってはありがたい。地学的な話はほとんどなく、文学面からの解説になっています。私も知らなかった詩歌が載っていたり、あるいは謡曲「富士」が長々と引用されていたり、徐福伝説に触れられていたり、明治天皇・皇后御製が紹介されていたり、なかなか興味深いものになっています。


国会図書館「富士百景」

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2012.06.10

ボカロの原点は森高千里?

Imgres1 はメレンゲの「ミュージックシーン」を一日聴いていましたが、私以外家族(女性軍)はまたカラオケに行ってきたようです。
 娘たちはもっぱらボカロ(ボーカロイド)の曲を歌い、カミさんは演歌を熱唱してきたようであります。
 ボカロと演歌とはずいぶん対照的です。機械的で無機質なボカロと過剰に人間的で演劇的な演歌。ま、カミさんは演歌も得意ですが、初音ミクのものまねもかなり得意です。あらゆる楽曲を初音ミク風に歌うことができます(笑)。変な特技ですなあ。
 しかし、なんで無機的な機械音を有機的である生きた人間が模するのか。これは不思議です。そして、それがある種の快感であるらしい。ますます不思議です。
 そういう私も、たとえばこちらで紹介したように、初音ミクらの歌うバッハに涙したりするんですから、いったい「歌」の本質とはなんなのか、よく分からなくなりますね。
 ところで、今日もカミさんと話したんですが、そうした、ある意味「無機的な歌」に魅力を感じるのは、これはどういうところにその原点があるのか、実はシンセサイザーなどの電子音が案外美しく、あるいはカッコよく感じられたり、それ以前に均質性の高いピアノなどの「機械楽器」が深く人間に感動を呼び起こすあたりにそのヒントがあるのではないでしょうかね。
Imgres そう考えた時、ボカロブームの原点として、私は森高千里さんの存在を忘れたくないんですね(笑)。
 森高の「非実力派宣言」こそ、すなわち、それまでの「歌手」に要求された様々な「歌心」や「歌唱技術」を否定しつつ「歌手」としての人気を誇るという、一つのパラドックスを実現するきっかけになったエポックメイキングな出来事ではないかと思うのです。
 いや、カミさんに言わせると、それまでも、たとえばユーミンだとか中島みゆきのように、ある意味、それまでの「うまい歌手」のファクターを無視した歌姫…というより歌神のような存在がいらっしゃいましたが、多少はそれまでの芸術的歌唱に対するカウンターの意味もあったとはいえ、やはり本質的な部分では、楽曲勝負という別の武器があったわけじゃないですか。
 また、いわゆるあまり歌がお上手ではないアイドルというのもいましたけど、それはほとんどの場合音程が取れないために「ヘタ」と言われており(浅田美代子とか)、うまく歌おうとしても歌えない可愛らしさを武器にしていたわけです。
 それらに比して、森高はちょっと違った。彼女のお父さんは有名なロカビリー歌手でしたし、自身もドラムスについてはプロ級(というかプロ)、ピアノやリコーダーも達者に操る「音楽家」です。そして、歌も実はうまい。音程なんか完璧ですよ。
 しかし、あえて「表現」(声色も含めて)を無機化というか規格化し、一種の「純粋さ」を全面に押し出して、我々男性(あるいは女性も)の心つかんでしまった。無機化は、彼女の年齢を超えた少女っぽさを見事に演出しました。そこに生活感や人間臭さの見えないアイドル像が完成したわけです。
 というわけで、こじつけはこのへんにして、まずは、彼女の代表作「渡良瀬橋」を聴いてみましょう。これはボカロでしょ、何人もいるし(笑)。

 ここで比較として、つまり、森高がボカロであることの証左として、いちおう同じアイドルに列せられる(列せられていた)松浦亜弥によるカバーを聴いてみましょう。

 どうですか。松浦亜弥は彼女なりにボカロのまねをしていますが、やはり「うますぎる」。そう、彼女の歌のうまさはこちらに書いたとおりです。やはり、そこを捨て切れていない。すなわち人間の歌姫から脱することができていないのです。
 最後に、昔こちらで紹介しました、私の一番好きな森高千里の曲を久々に聴いてみたいと思います。「snow again」です。いいわ〜(涙)。
 初音ミクに歌わせてみたい…と言ったら、さっそくカミさんがやってくれました(笑)。

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2012.06.09

メレンゲ 『ミュージックシーン』

Refdp_image_0 作登場。気持ち良く、そして切なくローテーションしています。
 昨日、今日(ロックの日)と仕事で富士吉田と御坂を往復しました。その間ずっと聴いていました。
 「ミュージックシーン」…音楽の風景ということなのでしょうね。私には富士吉田と御坂の風景が実にこの音楽にマッチしているように感じられました。
 富士吉田と言えばクボケンジくんの親友だった志村正彦くん、御坂と言えばレミオロメンですね(ちなみにその中間の峠にいたのは吉井和哉さん)。
 山梨の陰陽を象徴してなぜか私の中で一体でもあったフジとレミオ。今、志村くん率いるフジファブリックも、レミオも聴くことができなくなっています。
 その理由はやはり志村くんの不在にあります。フジは言うまでもなく、レミオの活動停止の遠因もそこにあると言っていいかもしれません。志村くんと藤巻くんの関係についてはこちらに書きました。
 そんなことを思い、このアルバムを聴きながら御坂峠を越えると、本当に不思議とまた、フジファブリックとレミオロメンが私の中で一つに融合していく気がしたのです。
 そのへんのミュージシャンどうしの葛藤や苦悩、そして互いのインスパイアやインフルエンスについては、今回このアルバムで重要な役割を果たしている皆川真人さんがよくお分かりだと思います。
 そう、単純に、音楽的にも、このメレンゲにはフジとレミオの要素がふんだんに盛り込まれています。それを実現したのは皆川さんの力による部分が大きい。
 クボくんには、言うまでもなく、志村くんの存在が消えず残っています。いや、逆に言えば、志村くんも非常に大きな影響をクボくんから受けていたことに気づきますね。
 まさにそれは「うつし絵」なのかもしれません。志村くんも感動した(あるいは嫉妬した?)圧倒的な名曲「うつし絵」が、やはりこのアルバムの中心にあることに大きな意味があると感じます。日本ロック史に残る1曲ですね。

 今聴くと、志村くんのことを歌った歌のようにさえ感じます(もちろん作られたのは志村くんが亡くなる前ですし、作詞はクボくんではありませんが)。しかし、よく出来た曲ですね。志村くんもそうだけれど、女の人に提供する曲というのは特別な力を持ちます(その仕組みよく分かります…笑)。
 もうフジファブリックファンの方ならよくお分かりになると思いますが、アルバムの中に何曲もいかにも志村くんが書きそうな曲、詩がいくつかありますよね。あるいは歌声や歌い方にも彼を感じる部分がありますでしょう(特にファルセットではぞっとしてしまいました)。また、皆川さんのキーボードが金澤くんのそれに、あるいはギターのフレーズが総くんのそれに似ている瞬間もあったりして。
 クボくんや他のメンバーはこういう聞かれ方を好まないかもしれませんが、私は音楽の本質はまさに「うつし絵」だと信じているので、決して間違った音楽の受け取り方ではないと思います。
 いかなるバンドにもそのベースとなる邂逅、そして模倣(意識的であれ無意識的であれ)があるものです。そういう意味ではここでメレンゲが皆川さんとずっしり仕事をするようになったのも大きな出会いでしょうね。
 そう、いかにもな皆川節、代替コードの使い方、ピアノの音色やストリングスのアレンジ、特にイントロの磨き方ですかね、そういうところにレミオロメンっぽさを感じる人も多いことでしょう。
 たとえばそういう部分に、今までのメレンゲらしさが感じられなくなったと言う人もいるでしょうね。
 しかし、音楽における「うつし絵」的な要素とは、まさにそこに現れる「アナロジー」の魅力であるはずです。つまり、デジタル的なコピーではなく、逆にそこに表れる、あるいは抽出される、それぞれの個性が
結局はオリジナリティーになっていくいうことです。
 そういう意味で、今回のメレンゲのアルバムは今まで以上にメレンゲの、特にクボくんの本質的な魅力が感じられました。メレンゲの新たな境地という言い方もできると思いますが、それ以上に彼らを彼らの目指すべき地点に近づけた作品であると思います。
 決して新しいというか変わったことはしてません。ある意味王道な曲の作り方であり、たとえばコード進行や構成はすべて私の知っている範囲内です。しかし、そうした過去の遺産の上に、あれだけ魅力的な「メロディー」を乗せられる人はそうそういないでしょう。クボくんは志村くんや藤巻くんほど、非和声音は使いません。それなのに既視感なく新鮮に響かせられるのは、彼の持って生まれた才能のなせる業でありましょう。
 これは蛇足かもしれませんけれども、志村くんもこういうポップで(無理にひねらず)切ないアルバムを作りたかったのかなとも感じました。勝手な想像なのですが。なんとなくそういう気がしました。
 70年代後半から80年代にかけてのキーボード(シンセ)文化、あるはストリングスアレンジ文化で育った私という意味でも、このアルバムは耳にしっくりなじみます。これからもたくさん聴きこんで、彼らのアナロジーとオリジナリティーを聴きとっていきたいと思います。
 いずれライヴにも参戦してみようかな。最近ロックのライヴから離れているし。ツアーのスケジュールを確認してみましょう。

Amazon ミュージックシーン

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2012.06.08

大善寺 日光・月光菩薩像 (山梨県立博物館シンボル展)

Daizenji_leaflet_02 晴らしい。お近くの方はぜひ。
 山梨には本当に素晴らしいお寺がたくさんあり、仏像はじめその収蔵物にも見るべきものがたくさんあります。
 6年前、同じく県立博物館で行われた『祈りのかたち−甲斐の信仰−』には本当に驚きました。なぜ、こんな流刑地に(笑)。
 このブログでも何度か書いてきましたが、甲斐という国は非常に興味深い宗教的歴史を持っています。信じられないくらい濃厚で独特な宗教的土壌が形成されています。
 その理由は非常に奥深く、また複雑でありますが、まあ一言で言うのなら、「かい(甲斐・峡・交ひ)」という国自体が、一種のマージナル・ゾーン(生黄泉…半分あの世)であり、それぞれの時代の中央(奈良・京・鎌倉・江戸)などから、ある意味恐れられ畏れられる存在であったということでしょう。
 この勝沼の大善寺の日光・月光菩薩像もすごい。素晴らしい。国の重要文化財に指定されていますが、正直国宝級でしょう。ちなみに大善寺はその本堂が国宝に指定されています。
 これはたしかに「慶派」の造形ですな。左右のシンメトリーとアシンメトリーのバランスが絶妙すぎます。
 とは言え、本来ならこの比較的大きな両像の間には、さらに大きな丈六の薬師如来像が座っており、つまり薬師三尊像であったはずで、そういう意味では実は総体としての魅力は半減以下になっているものと思われます。
 しかし、それでもこの両像の魅力の次元は高い。その微妙に腰をひねって中央に傾いた姿態には、その間に崇高なるモノの存在を想像させるに余りある力学が働いています。まさに空間、空白、虚空の美とはこのことでありましょう。
 解説等では触れられていませんでしたが、両像には明らかに陰陽の対比も施されていると感じました。つまり、日光が男性(陽)、月光が女性(陰)ということです。
 正面からの画像では分かりにくい、というか、両像とも見事なまでにシェイプ(カーブ)されたウエストなのですが、これが側面から見ると、非常に対照的な造形になっていることが分かります。
 日光菩薩はどっしりと分厚い奥行きを持った腰つき、月光菩薩は比較的薄く華奢な腰つきになっているんですね。
 さらに私は胸のふくらみに注目しましたよ。両像とも豊かな胸の盛り上がりを持っているのですが、明らかにそのデザインの意図は違うなと感じました。
 それぞれ右胸が衣から半分こぼれているのですが、日光菩薩の方は、いかにも胸筋といった感じで、衣の圧力を跳ね返す力強さを持っており、月光菩薩の方は、衣に押されて形の崩れた、すなわち柔和な乳房を思わせるデザインになっていました。どちらにもちょっとドキドキさせられます(笑)。
 いや、本当に素晴らしい仏像です。これを常設展とともに500円で拝観できるのですから、これは行かない手はないと思いますよ。
 今回の修復の際に発見された「納入品」(って言うんですね)も興味深かった。仏様のハンコ捺しまくり(笑)。こういう趣味、いや文化、いや信仰の形もあったんですね。なんかカワイイというかなんというか。一生懸命スタンプしている人の姿が目に浮かびました。
 25日まで展示されていますのでぜひ。

山梨県立博物館公式

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2012.06.07

ウィントン・マルサリスの練習12則

412ousg8wol が自分の学校に入学してきまして、毎日一緒に登下校しております(笑)。
 彼女、ジャズバンド部に入りましてベースを始めました。まだ始めて1ヶ月とちょっとですけれども、いつのまにか私よりも弾けるようになっていて、改めて子どもってすごいなあと痛感。
 自分自身としても、あるいは私が顧問をしている弦楽合奏部としても負けてはいられない…かな。ま、相手は日本一ですからね。厳しいか(笑)。
 で、今日彼女がジャズバンド部の6月の予定をもらってきました。さすが本番(ステージ)で鍛えるバンド。相変わらずプロ並みに忙しいですね。
 その予定が載った通信の最初に、「ウィントン・マルサリスの練習12則」が紹介されていました。とってもいい内容なので、引用させてもらいます。

ウィントン・マルサリスの練習12則

1.Seek Private Instruction
 個人的な助言を求める
2.Make a Schedule
 計画を立てる
3.Set Goals
 目標を立てる
4.Concentrate
 気持ちを集中させる
5.Relax Practice Slowly
 あせらず、じっくり練習する
6.Practice Hard Parts Longer
 苦手な部分を反復する
7.Play with Expression
 全ての音を歌わせる
(きちんと真剣に、シラけず、気持ちを込めて行うこと)
8.Learn from Your Mistakes
 失敗から学ぶ
(失敗をいちいち気に病むな)
9.Don't Show Off
 ひけらかさない
(うけを狙った演奏は底が浅い)
10.Think for Yourself
 あなた自身で工夫すること
(フォスベリーの背面跳びだって、すべて試行錯誤のなかから自分で編み出した)
11.Be Optimistic
 楽観的になる
(アート・ブレイキーは「音楽は生活の塵を洗い流す」と言った。演奏家が楽観的でなければ聴く人を楽しませることはできない)
12.Look for Connections
 共通点に注目する

 う〜ん、素晴らしいし、正しい。正しすぎる。そして、自分はできていない(苦笑)。
 これはあらゆるジャンルに共通しますね。音楽のジャンルはもちろん、すべての人間のプラクティスにあてはまると感じます。
 一流は違いますね。特にジャンルを越える一流は。マルサリスはクラシックからジャズ、ロックまで完璧にこなしますから。
 そういう意味でのクロスオーバーとしては、昨年出たマルサリスとクラプトンのブルースアルバムがすごかった。ジャンルとかそういう言葉すら忘れさせる素晴らしいライヴでした。特にDVDの出来が素晴らしい。私は輸入盤で購入したのですが、日本盤の方が良かったなあ。なぜなら、あまりに楽しそうなMCの英語がほとんど分からないからです。

Amazon ウイントン・マルサリス&エリック・クラプトン 『プレイ・ザ・ブルース』

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2012.06.06

6/6のニュースからいろいろと…

 Yahooニュースを見ていたらいろいろと書きたいことが浮かんできました。ありすぎて選びきれないので、どうせなら全部取り上げてしまえ。それぞれ一言ずつコメントいたしましょう。

482419 三笠宮寛仁親王ご逝去…『人間誰も完璧じゃねえよ』とおっしゃり障害者福祉の現場監督として尽力された親王。
 ヒゲの殿下は、幼い頃からなぜか気になる存在でした。皇室という特殊な環境の中においても、しっかり個性を発揮され、人間味を感じさせてくれる稀有な存在でありました。
 お父様より早く亡くなられたのは、ご本人同士にとっても辛いことでありましょうが、しかし、ある意味太く短く生きられた人生が私たちに残してくれたモノは永遠でしょう。
 追記…次の田母神俊雄さんのツイートがなぜか心に残りました。

『寛仁殿下がご逝去されました。残念です。数年前私が天皇陛下の園遊会にご招待を受けたときに、私の隣にいた女性が「助産師の〇〇です」と挨拶をすると、寛仁様は「助産婦」と言いなさいと言われました。女性が「法律が変わりましたので」と言うと「いいから助産婦と言いなさい」と言っておられました』

Img_4950 金星の太陽面通過…悪天候でしたが、昼前から少しずつ晴れ間も現れはじめ、なんとか写真撮影に成功しました。金環日食に続き、こちらの手作り望遠鏡が活躍です。
 金星はほとんど地球と同じ大きさです。なんとなくこの丸い影を見ながら、我らの住む地球をイメージしていました。なんともちっぽけな存在ですなあ。
 次は8月14日早朝の金星食です。手作り望遠鏡を本来の姿に直しました。
2012060500000003maiall0001thumb 続いて地震の話。今朝の房総半島南東沖のM6.3はいやな揺れでしたね。
 あの震源域は、M9に近い巨大地震を起こすポテンシャルを蔵しています。ここのところの各種前兆現象と重ねあわせても、私が最も恐れている房総沖地震の発生が近いことを予感させます。もちろん、それが今日なのか100年後なのかはっきりとは言えないのですが。近づいてるのは、これは100%ですよね。
 いすみ市の大原漁港で大量のイワシの死骸が漂着して大変なことになっています。3.11の前にも太平洋をはさんだアメリカ西海岸で同じようなことがありましたし、関東大震災の当日にもたしか神奈川でそんなことがあったと記憶しています。いちおう注意した方がいいですね。
Hl 次は、なんだかんだ最も盛り上がっていたニュース。AKB総選挙。まあ、AKB自体とか、そういう日本文化は嫌いではないんですけどね、しかし、ニュースでやるべきことではないでしょうが。
 ホンモノの総選挙が不甲斐ないのでしかたないとはいえ、ああやって「選挙」というものが「人気投票」と同義になってしまうのはどうかと思います。子どもが見てるわけですから。まあ、ホンモノの総選挙が不甲斐ないのでしかたないのでしょうか。
 最後はエネルギーに関する三つのニュースをネタにしましょう。
Hl1 まずはソーラー飛行機の話。太陽光発電飛行機「ソーラー・インパルス」が大陸間飛行に成功したとのこと。ソーラー飛行機なんて絶対無理ですよ。石油が枯渇した時、我々や物はどうやって海を越えるようになるんでしょうね。そのことについては、こっちに書きましたっけ。
 ソーラーと言えばウチのソーラーカーは元気に頑張ってますよ。ウチのこの非常用電源搭載車に影響されたのか(笑)、トヨタがプリウスのバッテリーから家庭用電源を取るシステムを開発したとか。
 それから、マツダがロータリーエンジンを発電機にしたレンジ・エクステンダー型のハイブリッド車の開発を発表しました。私はこのような「火力発電所」を搭載したハイブリッド車こそが理想形だと考えているので、とりあえず来年発売と噂されるスズキのスイフト・レンジ・エクステンダーに期待しています。
 

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2012.06.05

『これでいいのだ14歳。』 福田淳ほか (講談社)

天才バカボン公認副読本
バカボンパパに学ぶ14歳からの生き方哲学100
20120606_110038 リラジの中田さんと福田萌さんが今日入籍したとのこと。おめでとうございます。
 このお二人の縁をとりもったのは、実はワタクシの家族です…なんて言うと大げさですが、二人が出会った番組の収録に私たちが参加しており、そして、まあいわゆる「ほのぼのした(バカボンな)家族」の姿をお二人に見てもらったのは事実です。
 お二人の名前も出でくる収録の時の記事はこちら、放送の時の記事はこちらです。
001 実際、現場でですね、ウチの夫婦は「あの二人お似合いなんじゃない?高学歴どうしだし。顔の大きさは違いすぎるけど(笑)」とか話してたんですよ。まさか、本当にこんなツーショット写真を見ることになろうとは…正直かなりうれしく思ってます!
 まあ私たちが愛のキューピッドだったかどうかは眉唾ですけど、赤塚先生が二人の中をとりもったのは確かですね。そういう神がかったところがあるのが赤塚不二夫であります。
 で、お二人の幸せそうなご様子を拝見してふと思い出し、久々に赤塚本を読みました。買ったのに読んでなかった。
 中学1年生には「13歳からのシンプルな生き方哲学」を写経…いや書き写させていますが、2年生には何かないかなということで、何冊かの「14歳本」を買ってあったのです。そのうちの一冊がこれだったと。
 ふむ、これ採用かな。なにしろ面白い。破格でよい。学校や学校の先生にたくさんダメ出ししてあってよい。先生らしからぬ先生からすると痛快極まりない。
 この本は対談集です。学校ではおそらく「不良」や「劣等生」だった七人の大人(子どものまま大人になった大人だから子どもとも言える)と福田淳さんの対談です。メンバーとテーマは次のとおり。

01 赤塚りえ子の巻 天才の娘は天才なのだ
02 横山雅子の巻 何もかも話したぞ、思春期の性
03 北村雄一の巻 深海に生まれてもよかった
04 橘川幸夫の巻 ひまつぶしが仕事なのだ
05 如月音流の巻 男と女の両方やってみるのだ
06 松本圭介の巻 バカボンパパは菩薩なのだ
07 安藤哲也の巻 パパになるには資格がいるのだ

 ぶっとび、はっちゃけ、ハチャメチャ、規格外…いいですねえ。学校でいい子でいるなんて一番ダメですよ。こういう大人になってほしい!どうもウチの学校はいい子が多すぎます(笑)。
 いずれも面白かったけれども、ワタクシ的には私淑するメディア王橘川さん、東大出の僧侶松本さんが特にためになったかな。
 全員に読ませたり、写経させたりするのは難しいか。他の14歳本と一緒に教室に置いといてみよう。
 「これでいいのだ」は妥協ではなくて覚悟なんだよなあ。「これがいいのだ」ではなくて「これでいいのだ」は究極の他者受け入れ、他力なのでした。ああ爽快。

Amazon これでいいのだ14歳。

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2012.06.04

ロルフ・リズレヴァント 『天空のスピリチュアル』

Rolf Lislevand 『Nuove Musiche』
Refdp_image_0 「空のスピリチュアル」なんて書くと何ごとかと思われそうですね(笑)。すごい邦題だな。
 これはある意味とっても古い音楽です。そして、たしかに原題の通り新しいのかもしれない。
 原題の『Nuove Musiche(新しい音楽)』は、かの天才作曲家、バロック音楽の父とも言えるカッチーニの曲集にちなんだものでしょう。
 たしかに取り上げられている曲は、16世紀から17世紀にかけての音楽、それもパッサカリアやシャコンヌなど、循環する通奏低音を伴う変奏曲ですから、その当時としてはとても新しいわけですし、今からするととても古い、いわゆる「古楽」に属することになります。
 さらに、この録音の新しさは、現代的な新しさでもあります。なにしろレーベルがECMですから。
 ジャケットともども、古楽というよりは、ジャズやフュージョンに近い…というか、実際に様々な感性がフュージョンした、あるいはクロスオーバーした作品となっています。
 まずはちょっと聴いてみてください。本家Amazonで試聴してみましょう。
 どうですか。かっこいいでしょう。リズレヴァントはオスロ出身のギター、リュート、テオルボ、ビウエラ奏者です。3月に紹介したサヴァール一家ともよく共演していますね。
 YouTubeに1曲目がありました。これもどうぞ。かなり現代的な演奏だと思います。

 おっと最高にカッコイイ「Passacaglia andaluz」があったぞ。コテコテの映像付きだ(笑)。

 サヴァールたちとの共演であるこのライヴもいいですねえ。

 こういうのを聴くと、ああギターやっとけば良かったって思うんです。どこかにも書きましたけど、ヴァイオリンのように音を出してからも勝負できる楽器って、なんか甘いような気がするんですよね。瞬間勝負のあの感じがうらやましいんです(なんちゃって)。

Amazon Rolf Lislevand 『Nuove Musiche』

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2012.06.03

『病気にならない生活のすすめ』 渡部昇一・石原結實 (PHP文庫)

東洋の智恵は健康の智恵
Photo_67 日一食生活丸8年になりました。ほとんど病気もせず元気に生きております。
 この8年間の体の変化ですが、7年前に書いたこの記事の状況をその後ずっとキープしております。
 体重もほとんど変化なく62キロくらい(身長174センチ)です。高校時代のベスト体重ですね。8年前はぷっくり出ていた腹も10センチ以上縮み、今年の健康診断(メタボ診断)では、とうとう76センチに。高校卒業(大学入学)時に作った礼服が普通に履けるようになりました。
 そして、経済的なメリットも大きかった。8年間で抜き続けた食事は、6000食近くになり、一食500円とちょっと高めに計算すると、ななななんと、300万円も浮いたことになります(笑)。
 ちなみに私は朝昼を抜いて夕食は食べたいものを食べたいだけ食べる、飲みたいものを飲みたいだけ飲むというスタイルです。ですから、ストレスは全くたまりません。
 腹は常時減っていますが、それが苦痛や不快感ではありません。逆に空腹時に食べる「食べたいもの」のおいしさときたら…いや、「食べたいもの」ではなくてもおいしく感じるので、逆に幸せいっぱいですよね。
 つまり、私は毎日24時間の断食をしているということです。それを8年間続けたと。
 先ほどリンクした7年前に書いた記事ですが、そこに登場したのが、石原結實先生のご本です。今日紹介する本はその頃文庫化されたものですが、最近コンビニに並んでいるのを見つけて、ふと買って読んでみました。
 私はある意味石原先生のおっしゃる健康法をずっと続けている人間ですので、この本に書かれていることは体験的に信用しています。逆に言うと、西洋医学の「常識」については、知識としては知っているけれども、体験的には全く納得していません。
 この本ではそういう意味での共感というか、ある種の痛快さを存分に感じることができますね。
 いや、私もですね、石原さんや渡部さんと同じく、西洋医学やら科学やらを完全に敵視しているわけではありませんよ。ただ、そちらに偏りすぎるのを嫌うだけです。もちろん、同様に東洋医学や非科学的な世界に偏りすぎるのも危険だと考えています。ようはバランスですね。
 皆さんもとりあえずAmazonの「なか見!検索」で、目次だけでも読んでください。これだけでも私たちの「常識」というものが、(真偽は別として)どれだけ実体験に基づいていないのか、よく分かると思います。
 私はこれからも「発熱」と「食欲不振」を自らの中に宿る名医と信じて、この生活を続けていきます。壮大なる人体実験は9年目に入りました。結果は私自身を見て下さいね(笑)。
 それから…渡部昇一さんの哲学やら生き方も好きですね。石原さんも含めて我々のような人間はですね、世間では変わり者と言われるでしょうし、敵もたくさんできるかもしれません。でも、一回きりの人生。生きたいように生きたいですね。

Amazon 病気にならない生活のすすめ

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2012.06.02

横浜開港記念日(開港153年)

20120603_103739 日は横浜の開港記念日。この記念すべき日に我が校は同地に遠足。そして生徒たちは開港記念会館においてワタクシも出演のコンサートを鑑賞。なかなか充実した一日となりました。
 コンサートの模様はこちらにさっそくまとめていただきましたので御覧ください。
 ワタクシと横浜の因縁はなかなか深いものがあります。こうして毎年開港記念日に関わるようになるとは、ご先祖様もさぞ驚いていらっしゃることでしょう…というより、ご先祖さまのおかげですね、きっと。
 さて、開港記念日にちなみ、みなとみらいでは大規模な横浜開港祭が行われていたようです。開港記念会館にもたくさんの観光客の方がいらしていましたね。
 そして、会館近くの日本大通ではTVK主催の「秋じゃないけど収穫祭2012」が行われていました。そう言えば、去年は松本梨香さんのライヴに遭遇したんだった(笑)。今年は私たちの演奏の時間に彼女のライヴがあったようです。
 今年、生徒の中にはウチの娘もいたわけですが、彼女にとってはバッハよりも松本梨香(ポケモン)だったのでは(笑)。
20120603_105403 で、今年もリハが終了したのち、皆さんがお昼を食べている時間に、生徒を見つけに中華街に行きました。途中、日本大通では、かながわ観光親善大使任命式が行われていました。黒岩知事と河村隆一さんと八木亜希子さんが対談してました。わ〜お、生河村隆一と生八木亜希子だ!どっちもある意味会ってみたかった人ですぞ。
 ところで、開港記念日、すなわち1859年6月2日の横浜開港ということはですね、かの不平等条約、日米修好通商条約を受け入れた日とも言えますよね。当時全く辺鄙だった横浜の地が選ばれたのは、その方がアメリカらにとって都合が良かったからです。
 そう言えば、あれだけ騒がれたTPPの賛否、いつのまにか冷めてしまいましたね。日米修好通商条約とTPPを同列に扱うのは短絡的ですけれども、横浜開港記念日にちなんで、現代の貿易について考えてみるのもいいのではないでしょうか。さっそく生徒に話をしてみましょう。


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2012.06.01

追悼 尾崎紀世彦

 んとまた追悼記事を書かねばならなくなりました。
 圧倒的な歌唱力とダンディズムで私たちを魅了した「和製トム・ジョーンズ」が亡くなりました。
 今日ちょうど古いDVDプレイヤーを引っ張りだしてきて、中に入ったままになっていたウルトラセブンを観ていたところでした。
 で、あっそう言えば、これって尾崎紀世彦が歌ってるんだよな…病気は大丈夫なのかなぁ…と思っていたところだったのです。
 そのすぐあと訃報が…。最近そういうことが多いような。
 尾崎紀世彦さんは、ジ・エコーズの一員として、ウルトラセブンの音楽に参加しています。
 私たち家族の大好きな、このカッコいい英語の歌「ULTRA SEVEN」でも彼の歌唱を聴くことができます。どの声かよく分かりませんが。
 この映像も萌え(燃え)ですね。カッコよすぎます。

 Wikiによれば、オープニングの「セブン、セブン、セブン」の3番目の声が尾崎さんだとか。たしかにそういうふうに聞こえますね。
 今日はせっかくですから、そのオープニングをお聴きいただくとともに、この問題作を御覧ください。皆さんご存知の「再放送禁止」作品、第12話「遊星より愛をこめて」です。
 フルハシ隊員は「ついこなだまで地球もその放射能で大騒ぎをしたもんだ」と言い、それを受けてキリヤマ隊長は「もう地球上ではもうそのの心配はなくなった」と言っています。まさかその45年後このようなことになろうとは…。
 そう考えてみると、「被爆星人」という後付けのネーミングによって、この作品が長いこと封印されていたのは、非常に象徴的です。
 それにしても実相寺昭雄のこの映像は…すごすぎる。

 尾崎紀世彦さんのご冥福をお祈りします。

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