「萌え=をかし」論
昨日(5/3)の夜、教え子たちと飲み過ぎて、今朝(5/4)朝起きられず、その後バスケの応援、さらに東京でコンサートの練習と忙しすぎまして、更新が遅れてしまいました。すんません。
というわけで、今日は昨日付けの記事として、昔書いた文を掲載します。不二草紙8周年記念ですね。このブログがきっかけとなって、出版物となった文章です。
一時期この私の原稿が載った「國文學」は定価の10倍の値段がついたりして(今見たらなんと17000円でした)、ずいぶんと評判になりました。
もう3年半前のことですね。こちらで紹介しましたが、本文は掲載できずにおりました。
その後「國文學」は廃刊となりましたし、もうそろそろいいでしょうということで、8周年記念に掲載いたします。
今、自分で読んでもなかなか面白いと思いますよ。この「萌え=をかし」論、おかげさまでWikipediaの「萌え」の項に、外部リンクで紹介していただいております(笑)。ちょっと長いかもしれませんが、はっきり言って楽しいと思いますので、ぜひ最後までお読み下さい。
「萌え=をかし」論 山口隆之
春はあけぼのが萌え〜(?)
三年ほど前のことだ。毎日の雑念を書きなぐっているブログ「不二草紙 本日のおススメ」に何気なく書いた記事が、オタキング岡田斗司夫氏の目に留まり、私の「萌え=をかし」論は思わぬところで(ちょっぴり)評判になってしまった。
もちろん賛否両論あったが、ネット上では比較的「なるほど」という好意的な意見が多かったように思う。
少々気恥ずかしいけれど、まずはその一節を読んでいただこうか。岡田氏がご自身のブログに引用した、私のブログ記事「萌えキャラを書こう」の該当部分である。
たとえば、枕草子における「をかし」。これは明らかに「萌え〜」ですよ。「趣がある」なんて訳すからダメなんだって。その点、橋本治さんが「ステキ」と訳したのは、彼ならではの先見の明と言えます。ただ、その頃は残念ながら「萌え」という言葉がなかった。今の私が『オタク語訳枕草子」を書くとしたら(ってなんじゃそりゃ)、「春はあけぼのが萌え〜」ってしますね。だって、「春はあけぼの」って、かなりマニアックでしょ。「春は宵」がマジョリティーですから。もうかなりオタク文化入ってます。しかも女流のオタクだあ。
ワタクシごとながら、実に軽薄な文体である。このようなまじめな雑誌にこのような駄文が載るとは…いやいや、人のことをあげつらって申し訳ないが、橋本氏が指摘しているように、実は清少納言女史の文章もかなり軽薄なのである。まさに独白日記系ブログのはしりのような文体だ。
だから、ここからは大いに開き直り、平安軽薄体と平成軽薄体とでタッグを組みつつ、「萌え=をかし」という大胆な仮説を証明するべく歩んでいこうと思う。
まずは、あまりに有名な「春はあけぼの」の読み直しから始めようではないか。しばし、自由な思索の旅におつきあい願いたい。
実に巧妙な「春はあけぼの」
はるはあけほのやうやうしろくなりゆくやまきはすこしあかりてむらさきたちたるくものほそくたなひきたる
これが枕草子冒頭の原文である。句読点はもちろん濁点すらない。これをワタクシ流に訳すと次のようになる。
「春と言えばあけぼの。だんだん白くなっていく山際。少し赤みを帯びて紫色っぽくなっている雲が、細くたなびいている…」
なぜこのような解釈になるのか、今ここで説明をしている余裕はない。それこそブログに書き散らしてあるので、興味をお持ちの方は参照されたい。今は先を急ぐ。
この冒頭部分、御存知のように、清少納言女史は「(それが)どうだ」という評価の言葉を記していない。今では「をかし」を補い、「趣深い」とか「よい」とか訳すのが常套だが、原典レベルでは何も言っていない。それは事実である。
というか、実は、女史は巧みに「をかし」を隠蔽しているのである。
当時としては決してメジャーな嗜好対象とは言えない春の明け方をいきなりとりあげ、少し混乱させておいて、上手に読者を引きつけている。私たちは(特に平安貴族は)「春はあけぼの? えっ? どういうこと? 春眠暁を覚えずじゃないの?」と思い、そして、次を読みたいという欲求にかられる。
そして、「夏は夜」のお尻のところで、「をかし」を連発してタネ明かしをするのである。実に巧い。そのへんの文才というか技巧というか演出力について、人があまり語らないのは不思議だし不満でしかたがない。私には、まるでドラマや映画のオープニングのように現代的に感じられるのだが、いかがか。
さて、そんな現代的な技巧と、韻文から散文へと緩やかに変化していく絶妙な文体とで導かれる「をかし」という形容詞。その意味するところは何なのか。
「をかし」の語源
先ほど、清女の策略によって催された「先を読みたい」という欲求、これは古語では「ゆかし」と表現される。
「ゆかし」は「行く」が形容詞化したものと考えてよいだろう。だから原義は「行きたい」である。メディアや物流の発達していなかった(ほとんどなかった)平安当時としては、「〜たい」と願望したら、基本その場に行くしかなかった。よって「見たい」「聞きたい」「読みたい」「知りたい」全てが「ゆかし」で表現される。
では、「をかし」はどうであろうか。「ゆかし」が「ゆく」という動詞から生まれたように、「をかし」も何かの動詞から生まれたとしよう。すると、当然「をく」という語を想定しなければならない。
そのような動詞があるのかと言えば、実はあるのである。「をく」という動詞は、万葉集などで「招き寄せる」「呼び寄せる」という意味で使われている。
「をく」→「をかし」説は以前からあったようだ。私もその説を支持する。なぜなら、私の知るかぎり、「をかし」という語には、「招き寄せたい」というニュアンスが必ず含まれているからである。
「春はあけぼの」の「をかし」
春はあけぼの。
やうやう白くなりゆく山際。
少し赤りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。
先述したように、非常によく練られた枕草子の冒頭部分には、潜在的に「をかし」が内包されている。つまり、各文の下には「〜いとをかし」あるいは「〜こそをかしけれ」のような表現が巧みに隠されていると言えるのだ。
では、こんな凝ったレトリックで表現された「をかし」には、いったい清女のどのような気持ちがこめられているのであろうか。
もう一度確認する。「をかし」は「招き寄せたい」である。
そう、清少納言女史は、これらの光景を、まさに招き寄せたいと感じたのではないだろうか。
もちろん平安時代の半ばに、そうした語源的な意識が色濃く残っていたかどうかは確かめようがないが、もし「をかし」が「をく」というルーツを持っていたのであれば、「ゆかし」がそうであるように、その痕跡が多少は残っていてもおかしくない。
「招き寄せる」とは、こちらの意志で身近に引き寄せるということである。現在おのれの五感で確認している物や現象を、こちら側に呼び寄せて所有したいという願望を表すと言ってもよい。できれば、その状態のまま自分のものにしたい、手が届くならつかまえてしまいたい、そういう感情なのではないか。
つまり、清女は今見ている「あけぼの」の一瞬一瞬を永遠に心に残しておきたいと思っているのである。今ならすぐにデジカメを引っ張り出してきて、カシャッとやるだろう。そういう感覚が「をかし」だと思うのだ。
そうすると、様々なシーンで様々に訳されてきた「をかし」も、一つのシンプルな心性の表現として捉えなおすことができるのである。
「萌え」に潜む支配願望
さて、いきなり時は千年ジャンプする。現代日本文化を代表する言葉とまで言われる「萌え」とは、いったい何なのだろう。
おそらくこの特集でも多くの解釈が提示されていることだろう。私もいろいろと考えたが、とにかく難しい。だいいち、「萌え」の守備範囲がずいぶんと広くなっていて、その定義はほとんど不可能に近く感じる。
そんな中、私は強力な援軍をお願いした。すなわち清少納言女史である。彼女に一言いただくことにしよう。
「『をかし』といふことを、『萌え』なんどは、みないふめり」(もちろんこんな文、実際にはありません)
なるほど、やはり「萌え=をかし」なのか。よし、この流れに棹さしてどんどん行こう。
定義は難しい。しかし、私の中にも「萌え」の感情があることはたしかである。いわゆる典型的なオタクの好む美少女キャラやメイドさんにはほとんど萌えない(実は少しは萌える)私だが、ある種の音楽や楽器、ある種の自動車、ある種のパソコンなどに、強烈に萌えている自分がいるのは事実である。
その感情を、清女の見解に従って客観的に顧みると、たしかにそこには「招き寄せたい」「所有したい」「失いたくない」という欲求が含まれているような気がしてくる。できることなら、所有して、いつでも好きな時に聴いたり、乗ったり、いじったりしたい。そんな気持ちがたしかにある。
所有と操作によって対象を思い通りにしたい。それはある種の支配願望と言える。
現代文明と「萌え」
平安時代には「をかし」と思っても、それを実際に招き寄せることは非常に難しかった。工業技術もほとんどないに等しかったし、だいいち商業システムが確立していなかったから、「ほしいから買う」という荒技ができなかった。せいぜい和歌などに記録し、固定しようと試みるのが関の山である。
しかし、今はどうだろう。「萌え」と思ったら、デジカメで撮影すればいい、フィギュアを買えばいい、DVDにコピーすればいい、リモコンを操作して何度も繰りかえせばいい…。
つまり、現代は、「をかし」という願望を工業力と経済力によって実現できる時代、あらゆるものごとを記録、収集、所有することができる時代になったとも言えるのである。
あるいは、「をかし」という願望の実現のために人類は「進化」してきたのかもしれない。あらゆる発明や発見はそのためのものだったのか。
考えてみれば、我々は「ゆかし」の感情をもずいぶんと簡単に満足させてしまうまでになっている。
知りたいこと、見たいもの、聞きたいものがあれば、まずはグーグル様にお尋ねするのが今や日常的な光景である。彼に頼めば、行かずとも招くことができる。彼は迅速に正確に、そして無料で私たちの願望のために奉仕する。
ゆかしき対象が、ごていねいに茶の間の液晶の中にやってくるのである。そして、そういう時、我々は「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!」と言うことになっている。魔法によって苦労もなく招くことができた感嘆である。
そこには平安時代のような「諦め」や「もののあはれ」、「無常観」は存在しない。あらゆる現代的魔法によって、我々は挑戦し続けることができる。また、対象の時間的変化(劣化)さえも技術力で超克してしまう。そうした現代の文明力(幻想力)に支えられた飽くなき支配願望の発露が「萌え」なのではないか。
枕草子に見る「マニアック萌え」
再び平安時代に戻ろう。ここからは、いったん「春はあけぼの」から離れて、枕草子に表れる無数の「をかし」の中から面白いものをピックアップしながら、現代の「萌え」に通じる属性を考えてみようと思う。
まずは、次の一節を見てみよう。比較的有名な箇所である。
「九月ばかり(能一三三)」より
…すこし日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに枝のうち動きて、人も手ふれぬに、ふと上ざまへあがりたるも、いみじうをかし、と言ひたることどもの、人の心にはつゆをかしからじと思ふこそ、またをかしけれ。
この段は、一般には清女の優れた感性を象徴するものとしてよく読まれている。しかし、私には非常にオタク的に思えるのだ。わかりやすく意訳してみよう。
「…少し日が高くなったからよね、萩なんかが(前夜の雨で)すごく重くなっているところに、露が落ちたりして枝が少し動いて、人が手を触れたわけでもないのに、ふっと上の方にはねあがるのも超萌えだわ…なんて私が言ってることなんか、ほかの人の心には全然萌えじゃないだろうなあ…なんて思うのもまた萌えなのよねえ!」
この感じである。このマニアックな感じ。人と違うことに萌えている自分に感じる「萌え」。これは「萌え=をかし」を考える際、忘れてはならない重要な要素である。
岡田斗司夫氏は、その著書「オタクはすでに死んでいる」の中で、難しいとしながらも暫定的に「萌え」を定義している。その中の一節を抜粋する。
「単に『美少女っていうのは可愛いなぁ』と思って気持ちが盛り上がるというだけではなく、『こんなものまで好きだといって気持ちが盛り上がるなんて、可愛いなぁ俺は』と『こんなのがわかる、萌えられる俺って素敵で面白いな』という感覚です」
どうだろう。清女と岡田氏と、全く同じ心性のことを言っているように思えないだろうか。こうした、マニアックな思考、嗜好、指向というものが、どうも「をかし」と「萌え」に共通しているように感じられるのである。
枕草子の次の部分など、そういう意味で非常にマニアックで興味深い。
「いみじう暑きころ(能二〇五)」より
…さやうなるは、牛の鞦の香の、なほあやしう、嗅ぎ知らぬものなれど、をかしきこそもの狂ほしけれ。
意訳してみようか。かなり衝撃的である。
「(夏の夕べに、風流な男が乗った牛車が去っていったあと)…牛のお尻から鞍にかけるヒモの匂いね、もちろんそんな下品なもの嗅いだこともないからどんな匂いか知らないけど、萌え〜(近くで嗅いでみたいなあ)なんて思うのは、我ながらなんか危ないわね」
その他、清女の「匂いフェチ」はかなりのもので、ふとんに残った汗の残り香に萌えるシーンなど、いくつもの「匂い萌え」「香り萌え」の表現がある。こうなってくると、いわゆる「腐女子」のルーツは清少納言にあるかのようにさえ思えてくるではないか。
いずれにせよ、清女はかなりマニアックなもの、マイナーなものに「をかし」という感情を抱いていることはたしかだ。それはもちろん冒頭の「春はあけぼの」にも言えることである。
源氏物語に見る「美少女萌え」
さて、清女には不満かもしれないが、ここで彼女のライバル紫式部に登場してもらおう。
枕草子が「をかし」の文学であるのに対し、源氏物語は「あはれ」の文学だと言われるが、実は源氏にも「をかし」が大量に使われている。ざっと見るところ、自然の風景、楽器の音色、少女、若い男に対する形容として使われることが多いようだ。
そのうち、特に興味深いのは「少女」あるいは「幼女」に対する「をかし」の使い方である。
今までは、そういうシーンでは単に「可愛い」などと訳されることが多かったのだが、よく読んでみると、やはり「招き寄せたい」「自分のものにしたい」という潜在的意味がこめられているようにも思えてくる。
例の「若紫」の巻では、源氏は垣間見た少女に対して「をかしうおぼす」とともに「さても、いとうつくしかりつる児かな。何人ならむ。かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや」、「心のままに教へ生ほし立てて見ばや」と思ってしまう。今なら犯罪心理として分析されてしまうような源氏のこころうちだ。
その名も「少女」の巻には、実際少女たちに対して「をかし」が大量に使われている。そして、それらが「若し」「らうたし」「子めかし」「うつくし」など、幼さの魅力を表す語に近接していることも注目すべき特徴である。
「をかし」自体は実に広い活用範囲を持つが、こうしたいわゆる「美少女萌え」的な使い方も多くされているところを見ると、ちょうど現代の「萌え」の守備範囲とも重なるような気がするのである。
「萌え=をかし」は女性のもの?
ここまで清少納言と紫式部の「をかし」を見てきた。さらに他の有名古典を一望してみると、女性の手による作品に「をかし」が多く使われている事実に気づく。
本来、現前のものに対する反射的な興奮とその表現というのは、女性が得意とする分野なのであろうか。たしかに「ミーハー」的な思考や、「追っかけ」という行動、「カワイイ」という叫びなどは、女性の専売特許のようにも感じられる。
いや、実は男性にもそういう部分は当然あるし、あったのだ。しかし、それを許さない雰囲気が日本の歴史ではずっと続いてきた。「もののあはれ」や「武士道」、近くは「男は黙って○ッ○○ビール」のように、心中萌えていても、それを表現してはいけないとされてきたのだ。
しかし、平成の世になり、ネット社会という新しい匿名社会ができたおかげで、我々男も「萌え=をかし」を気兼ねなく発信することができるようになったのである。
つまり、我々男は、ネット社会において、「名(名誉)」を失うかわりに「萌え」という言葉を得たのである。千年以上幽閉されてきた感情、言語化されなかった感情をついに発することができる時代が到来したのである。
「萌え=をかし」の時代は終わった?
千年の時を飛び越えながら、いろいろと勝手な散策をしてきた。おつきあいくださった方々、楽しんでいただけただろうか。
ひとことで言えば、「萌え」は進化した貴族文化である。現代日本人は一億総貴族化し、ほとんどがヒマとカネをもてあましている。加えて戦争もなく、とりあえずは平穏無事に毎日を過ごせるとなると、人はたいがいオタク的傾向に走る。
あの過剰に絢爛なアキバの風景は、私には爛熟した国風文化そのものに見える。では、次に来るのは新しい民衆宗教の時代、そして乱世であろうか。
人は願望や欲求が達成されると、ある種の「むなしさ」を感じるものだ。時間を微分して疑似的な不変性に酔いしれていたことに気づくと、急に時の流れが意識され、極度に不安になったりする。
もう「萌え=をかし」の時代は終わりつつあるのかもしれない。そして、次はまた「もののあはれ」の時代が来るのだろうか。
それはきっと悪いことではないだろう。我々にとっても、社会にとっても、そして地球にとっても。
加えて言えば「国文学」にとっても。なぜなら、「文学」の主たるテーマは、「時」との、「無常」との、「不随意」との闘いだからである。
17000円也(笑) Amazon 國文學 2008年 11月号
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