(学校における)紙飛行機について
我が校は、残念ながら日常的に紙飛行機が乱舞したことがなく、よって学校側で「紙飛行機とばし大会」を計画しなければならない、ある意味悲しい状況です(笑)。
知り合いの勤める某県公立中学では、まさに日常的に紙飛行機が乱舞しているとのこと。授業中はもちろん、休み時間ともなると、教室の窓から大量の紙飛行機が校庭に向けて離陸するらしい。
まあ、自分の中学生時代を思い出しましても、そんなことは当然のことであり、また、ある種の伝統文化という感じがしないでもありませんね。
その知り合いの学校では、授業で配布された学習用のプリントは、すぐに飛行機の材料となってしまうために、その数を極力少なくしているそうです。そうなると生徒も面白くないですよね。ルーズリーフやらノートの切れ端やら教科書の切れ端やらを使う使う。しまいには、教室内の掲示物をはがして、巨大な飛行機を作るのだそうです(笑)。なかなかやるな。
紙飛行機、なんで伝統文化になるほどに魅力的なんでしょうね。あるいはウチの学校に欠けているものはなんなのか。ちょっと考えてみました。
中学生にとっての紙飛行機には、とりあえず二つの意味があるように感じます。それも相反するというか、それぞれに補完的な関係にある二つの意味。
一つは、マイナスの心を乗せるものとしての紙飛行機。
まず、先生から配布されたプリント、お手紙類が、その材料になるという点。これは、やはり一種の反抗の現れでありましょう。学校という非常に不自然な強制システム、あるいは勉強という意味のあるのだかないのだか判然としない苦行に対する本能的な反抗でしょうね。
そういういやな情報の載った紙っペラを、飛行機という機能的なものに変形し、そして、自らの手で放り投げる。それは、遠ざける、捨てるという行為でもあるし、また、ある程度自らが操縦することによって主従を逆転させる行為でもあります。
これは反抗期、自立の時期を迎えた中学生にとっては、当然の感情、行動であり、本来とがめられるべきものではないのかもしれません。しかし、たいがいはまた先生に怒られる。禁止される。そこにまた理不尽な大人の壁が立ちふさがるわけですよね。
そうすると、その飛行機自体が戦闘機、いや特攻機、あるいはミサイルとなって、敵である教師に向けて発射されることになるわけです。この前のドラマ「ブラックボード」でもそんなシーンが象徴的に使われていました。
そしてもう一つの側面。それはプラスの心を乗せるものとしての紙飛行機。
「飛翔」「夢」というプラスのイメージですね。自分の夢を乗せてどこまで飛ぶか、あるいは目的地に着地させられるか、そういう自己の未来への期待であるとか、大空に飛び立っていく開放感や解放感であるとか、そういう意味合いもありますよね。
飛行機の発明というのは、これは実に画期的なことでした。大空を自由に飛ぶというのは、ある意味人間の究極の夢であったわけですからね。
あっそうそう、飛行機が発明される前、紙飛行機は「紙飛行機」とは呼ばれていなかったはずですよね。なんて呼ばれていたんでしょう(笑)。
絶対、その「もの」自体はあったはずです。先ほど書いた二つの意味合いからしても、絶対に「もの」や行為としてはあったはずです。それに紙を飛びやすい形に折って飛ばすということは、けっこう自然なことですからね。その辺の歴史について調べてる人もいるだろうなあ。
まあ、いずれにせよ、そういうおそらく歴史的にも文化的にも王道を行っている「紙飛行機」が、学校から排除されているとしたら、それは問題ですし、ウチみたいに元々そういうことが起こらない学校というのも問題です。いかんな。
はたして、今日、日本中の、いや世界中の学校で、何機の紙飛行機が華麗に宙を舞ったのでしょうか。それがリアルタイムで分かるカウンターなんかがほしかったりして。
そして、どうせですから、全国中学校紙飛行機とばし大会とか真剣にやってみたいですね。意外に奥が深い世界ですからね。
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