ぼっち
ある意味時代の先端を行っている「ぼっち」。一人ぼっちで行動すること、あるいは行動する人のことです。ネットスラングとして使われるようになり、いつのまにか市民権を得た言葉です。
私もけっこう「ぼっち」派です。意外に思われるかもしれませんが、基本「ぼっち」が好きなんです。
実際、高校時代なんか、完全に「ぼっち」でしたね。弁当食べるのも「ぼっち」でしたし。いわゆる「ぼっち飯」「ぼっち弁当」のはしりですな。教室では一緒に食べてくれる人がいなかったので、部室で一人食べたりしてました(笑)。てか、みんなは昼休みまでに全部「早弁」してたんですよ。私はまじめだったので(?)、ちゃんと昼休みに昼ごはん食べてたのです(笑)。
この「ぼっち」、ご存知と思いますが、「法師」がなまったものです。「ひとりぽうし」が「ひとりぼっち」になった。
その他、「だいだぼっち」とか「だいだらぼっち」とか「でーだらぼっち」とか「でーたらぼっち」とか言う、あの巨人も元々は「大太法師」とか「大太郎法師」だったと考えられます。
あとは、さんだらぼっち(桟俵法師)なんていうのもあります。いずれにせよ、「ぼっち」とは元々「法師」すなわち「お坊さん」「僧侶」を表す語です。
「坊主(ぼうず)」が、僧侶のみならず、男の子(や女の子)を指すようになったのと同じく、「ぼっち」の方も、特に僧侶ではなくとも、一人の男性を指すようになり、さらに意味が拡張して一般的に「人」を表すようになりました。
ただし、ただの人ではありませんね。そこには、マイナスのイメージがつきまといます。
僧侶は本来「聖職」ではありますが、敬意の逓減の法則に則ってでしょうか、はたまた実際に破戒僧が増えたからでしょうか、「坊主」も「坊」も「ぼっち」も、どちらかというと蔑みのニュアンスを含むようにもなりました。
だから、今でも、「〜坊主」とか「〜坊」とか「〜ぼっち」は、あまりいい意味に用いられませんね。
一人ぼっちの「ひとりぼうし(独法師)」は、江戸期にはそれこそ「ひとりぼっちの坊さん」というような意味で用いられていましたが、のちには一般的に「たった一人でいる人」を表すようになっていったようです。
そこには、「たった一人でいる」ことに対する卑下や蔑視があるということですね。つまり、日本では「たった一人でいる」ことはいいことだと思われてこなっかったというわけです。
まあ、人間は社会的な動物であり、独りきりでは生きにくいことはたしかであり、なんとなく友達がたくさんいる方が得するような気もしないでもありません。
しかし、一方で、世の中や大衆に迎合せず孤高を貫くことにも価値を認めてあげたいような気もしますね。
今はやっている(?)「ぼっち」という言葉にはどういうニュアンスがあるのでしょうか。やはり、上記の語誌に従って、あまり良いイメージでは使われていませんよね。なんとなく「暗い」「寂しい」という感じです。
しかし、こうして一種の流行語化するということは、単なる他者に対する蔑視や卑下とは違い、自己蔑視、自己卑下による「ギャグ化」という高度な文化的昇華機能もあるように思えます。
ある意味、誰しも抱えている(一見社交的で明るい人も持っている)、人間としての本質的な属性に対する共感というか、社会性に対する違和感の共有というか、そういう意味合いもあるような気がしますね。
実は「ぼっち」でありたいという人もいるでしょうし、私のように「ぼっち」でいる時間が一番くつろげるという人もいるでしょう。「ぼっち」でいられる強さを身につけたい人もいるでしょうし、「ぼっち」にある種のかっこ良さを感じる人もいるかもしれません。
ちなみに「ふた」という意味の「ぼっち」は語源が違いますよ。「鼻ぼっち」とかね。これはたぶん、「帽子」からの変形だと思います。方言で「帽子」のことを「ぼっち」という地域はけっこうあります。帽子も「ふた」みたいなものですからね。
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