残酷で愚かな自分を発見…マタイ受難曲全曲演奏
浜離宮朝日ホールで行われた、東京クラシカルシンガーズ・オーケストラ・オン・ピリオド・トウキョウによるバッハのマタイ受難曲初期稿全曲演奏会、超満員札止めの中、無事そして感動的に終了しました。ご来場くださった皆様、ありがとうございました。
そして、このような素晴らしい機会を与えてくださった指揮者の坂本徹さんやソリストの皆さんをはじめ、演奏者の皆さんにも感謝を申し上げたいと思います。
マタイを、それも初期稿をピリオド楽器で演奏する機会があるなど、それこそ全く夢にも思っておりませんでした。
いつかも言いましたでしょうか、私は本当に幸せ者です。若い頃の夢は実現していませんが、若い頃夢にも思わなかったことはどんどん実現しています。それも全ていろいろな方々のおかげさまによるものです。ありがたいことです。
そんな感動的な体験であったのと同時に、実は非常にショッキングな体験もさせていただきました。今回、私は第2オケのヴィオラを担当したわけですが、本番中何度も愕然としてしまったのです。
それは練習中には、いや、今まで数々の録音を何百回も聴いてきた経験の中では、全く味わったことのないことです。
マタイを演奏することの、ある意味での恐ろしさ、そしてこの曲自体の厳しさの一端を、初めて知ることになりました。ああ、マタイ受難曲とは、イエスの受難の物語ではなく、まさしく人間ドラマなのだと。人間の本質を抉り出した音楽なのだと。
知識としては知っていたんです。しかし、実際にそれを自分の内側が教えてくれた。それは今までに体験したことのない恐ろしい瞬間でした。
細かいことは抜きにして、分かりやすい部分でお話しさせてください。こうして書いてしまわないと、自分の中で消化できないのです。
たとえば、捕縛されたイエスを鞭打ちするシーンがあります。我々弦楽器は鋭い付点と異常にねじれた和声展開によって、その残酷さを表現しなくてはなりません。
練習の時は、「オレ(エセ坊主)には慈悲の心があるから、とても思いっきり鞭打ちなんてできないな…」などと呑気に構えていました。しかし、本番になって、ストーリーが進行し、奏者(演者)の集中力が高まってくると、私も自然と気持ちが音楽の中に入っていき、そしてそれまでの自分とは全く違う自分が立ち現れて、恐ろしく鋭く強く鞭を打ってしまったのです。それはほとんど狂気でした。
特にですね、これはマニアックな話になりますが、あの曲の最後の和音、一般に知られている後期稿では短調のままなのに、初期稿では長調に転調するんですよね。g-mollからG-durへ。それを決定するB→Hを担当するのがヴィオラなのです。
本番までは、なんで最後長調にしちゃったのかなと、その意図が全く分かりませんでした。しかし本番、そのHの音を弾いた瞬間、分かってしまったのです。
自分の手が痛くなるほどの長い鞭打ち(実際演奏していると弓を持つ手がきつくなる)を経て、つまり異常な興奮状態のあと、あの長調の(明るい)和音を醸した瞬間、得も言われぬ達成感というか、「どうだ!」という快感とでも言うような感覚に襲われたのです(オレってそんなにSだったっけ…笑)。
また、「十字架につけろ!」と群集が叫ぶシーン(フーガ)でも、それまでになく(それまでは気が抜けて入るのを忘れたりしてましたから…苦笑)興奮して演奏してしまいました。心は「殺せ!殺せ!」です。
そして、コラールではある意味達観したというか、客観的に自己の罪を反省したり、あるいはイエスの死の後、まこと神の子であった!と手のひらを返すように感嘆したり、どうか安らかにお眠りくださいなどと、懺悔と言うよりも自分に対する慰めとも取れるような言葉を吐いたり…。
ころころ変わる心、感情、気分。どちらかというと、そういう大衆の集団意識ならぬ「集団気分」に対して、自分はずっと批判的な立場をとって来ました。このブログでも何度もそれを指弾しています。
しかし、自分にこんな本質があったのかと、正直愕然としました。そういう音楽なのです。このバッハのマタイ受難曲は。まさに人間ドラマ。
それもこうした個人的なレベルでの視点と、人類に普遍的なレベルでの視点、そして神の視点から、非常に多角的に人間を照射する。私たちは外からも中からも自分が照らし出されるような感じです。恐ろしいレベルの作品であることが、演奏して初めて分かりました。
私のような異教徒であっても、これだけ辛いのです。敬虔なクリスチャンであったバッハにとって、この曲の作曲はどれほど辛いものだったでしょう。バッハ自身も、自らの残酷さと愚かさに対峙しながら、自らを抉るような音楽を作っていったに違いありません。
おそるべき精神力です。その領域にまで踏み込んだ作曲家、芸術家、そして宗教家はそうそういないものと思われます。
そう考えると、初期稿と後期稿の違いもまた興味深く観察されるというものですね。なぜ、先ほどのHをBに書き換えたのか。それは、あまりに恐ろしい自分の本質を覆い隠すためだったのかもしれません。
いずれにせよ、とんでもない体験をしてしまいました。私もバッハと同様に、あるいは敬虔なキリスト者と同様に、そういう自分の現実の姿とつきあっていかねばなりません。
仏教的には「自己を捨てなさい」という方法論で片付けられます。あるいは神道的には「そういう両面があるものだ」と説明することもできます。そういう意味では、キリスト教というのは非常に厳しい教えだなと思いました。
さて、こんなマタイ体験がやっと終わったと思ったら、会場にいらしていた「キリスト」ご自身(キリストを歌う方)から直接楽譜を渡されました。3月31日に行われるリストのオラトリオ「キリスト」全曲演奏会に緊急参戦です。マタイ以上に長大な音楽です。
今年の受難節は私にとっては修行の時となりそうです。
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コメント
マタイ初期稿演奏、それだけでも意欲的で滅多にないことだと
思いましたが、得難い経験をされたようですね。
私もヨハネを弾いた時に、合唱に人間の本質〜同じ口で
イエスへの罵詈雑言と讃美〜を語らせる、
バッハの人間観、信仰観にとても打たれましたが、
楽器パートのその直截さもなかなかスゴいことです。
確かにここまで深い作品というのはそうそうありませんね。
投稿: よこよこ | 2012.03.07 13:48