嘘も方便(三車火宅の譬え)
写真は柴又帝釈天の胴羽目です。名作「三車火宅の図」。
今日は中学校の一般入試でした。
今回も国語の問題の本文を掲載しましょう。何度も書いているように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。それにはいろいろな理由があるのですが、やはり最大の理由は「入試は一期一会」だということでしょう。
合否とは別に、受験生(小学生)の人生にとって何か意味を残したいからです。
今回は「うそ」をテーマにしてみました。私もこれまで存分嘘をついてきた人間です。偉そうなことは言えないはずですが、いや、だからこそ言えるというのもあるかな、とにかく自分自身の反省や勉強も兼ねて、「嘘も方便」のもとになったと思われる、法華経の中の「三車火宅の譬え」を取りあげてみました。
もちろん実際の問題には、傍線部や空欄などがあるわけですが、ここでは原文のみ紹介します。最後にはこの文章に基づいた作文を書いてもらいました。皆さんそれぞれ素晴らしい文章を書いてくれまして、職員一同感動しました。
では、今日も縦書きでどうぞ。昨日の漱石の文と比較しないでくださいね(笑)。
「うそをついてはいけません」
「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」
みなさんは、大人によくそう言われてきたのではないでしょうか。もしかすると、これからも言われるかもしれませんし、将来は自分がそのように言う立場になるかもしれません。
では、世の中に「うそ」は全くない方がいいのでしょうか。
もし、「うそ」ということばを辞書にあるとおり「事実でないこと」だと定義すると、国語の教科書にのっている物語や、いつも見ているテレビドラマやアニメは「うそ」だということになります。
それからまだ起きていない未来について言うこと、たとえばテレビの朝の占いや天気予報、さらには「君はがんばればきっと総理大臣になれるよ」などという励ましのことばまでもが、正確に言えばみんな「うそ」ということになってしまいます。
そう考えると、すべての「うそ」をなくすのも、なんとなくさびしいような気がしてきます。
では、どうして「うそをついてはいけません」とか「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」とか言ったり言われたりするのでしょう。
ここでヒントになるのは、「うそつきはどろぼうのはじまり」と対照的な意味を持つ、「うそも方便」ということわざです。いったいどんな意味なのでしょう。さっそく辞書をひいてみましょう。
うそも方便=場合によってはうそも手段として必要である意
辞書に「うそは必要」としっかり書いてあるのは驚きですね。しかし、ここで「ああ、なんだ。うそってついてもいいんだ」と思ったとしたら大まちがいです。もう一度よく辞書の説明を読んでみてください。
「場合によっては…」
そう、ここが大切なのです。この「場合によっては…」の「場合」がなんなのか考えなければ、このことわざの本当の意味はわかりません。
この「うそも方便」の「方便」ということばは、実は仏教用語です。簡単に言いますと、「仏様が人間を救う方法」という意味です。つまり、「うそも方便」とは「うそも仏様が人間を救う方法のひとつである」というのがもともとの意味なのです。
えっ? うそが人を救う? 疑問に思いますよね。では、一つのたとえ話をもとにじっくり考えてみましょう。
あるお経のなかに、「
昔々あるところに子だくさんの長者がいました。
ある日長者がでかけている間に、家で火事が起きてしまいました。家の中では子どもたちが留守番をしながら遊んでいます。子どもたちは遊びに夢中で火事に気づいていません。
「早く逃げなさい!」
急いで帰ってきた長者は、子どもたちに大声で呼びかけますが、だれも気づきません。
すっかり困ってしまった長者は、ここで大切なことに気づくと同時に、一つの方法を思いつきます。無理やりこちらに来させようとしてもだめだ、自分の意志で行動させなければ。
「みんな、こっちに君たちがほしがっていた立派な車があるよ」
するとどうでしょう。子どもたちはわれ先にと走ってきました。するとそこには思っていたよりもさらに立派な車が用意されていたのです。子どもたちはそれに乗って無事火事から逃げることができました。
お話は以上です。どうですか。この話の中で、長者は「うそ」を言っていますね。それも二重のうそをついています。
まず、「立派な車があるからこっちに来なさい」というのは、その時思いついたことであり、本当なら「火事だからこっちに逃げなさい」と言うべきところです。本当のことを言っていないのでこれは「うそ」だと言えます。
そして、実際に子どもたちが来てみたら、自分たちがほしがっていたものよりももっと立派な車があったわけですから、やはり本当のことを言っていません。それも正確に言えば「うそ」だということになりますね。
もし、全ての「うそ」をいけないことだとするなら、この話は、子どもをだましたとんでもない悪い長者の話ということになります。しかし、みなさんもそうは思わなかったでしょう。
そうです。これこそが「場合によって」の「場合」なのです。
つまり、「相手のためになる」場合には、「うそ」が必要になることもあるのですね。
では、この「三車火宅の譬え」において、どんなふうに「うそ」が「相手のためになっている」のでしょうか。よく考えてみてください。二重のうそには、二重の「相手のため」があることが分かってくるはずです。
まず最初の意味での「うそ」、つまり「立派な車があるからこっちにに来なさい」というのは、火事から子どもたちの命を救うための「うそ」です。これはまちがいなく「相手のため」のうそですね。「うそ」を言わなかったら、子どもたちは死んでしまったにちがいないからです。
また、もう一つのうそ、実際にはそれ以上の立派な車があるのに、「君たちがほしがっていた立派な車」と言ってしまった部分はどうでしょう。これはちょっと難しいかもしれません。
子どもたちを火事場から離れさせるのに、長者は最初「早く逃げろ!」という強制的なことばを使いました。その時、子どもたちは反応しませんでしたね。しかし、車のことを言うと、自ら喜んで走ってきました。つまり、「うそ」のおかげで、子どもたちは自分から進んで行動することができたのです。
実はそのように自分から行動できた子どもたちを見て、長者(実はお釈迦様なのです)が、ごほうびとしてより立派な車を用意したのです。
分かりましたか。「相手のためになるうそ」が存在することが。
逆に言うと、「相手のためになる」場合以外の「うそ」は許されないということです。
たとえば、相手をだまして自分だけが得をするための「うそ」だとか、相手が傷つく「うそ」だとか、自分を守るためだけの「うそ」は絶対についてはいけないのです。
私たちはついついそういううそをついてしまうものです。方便となる「うそ」をつくのは難しい。お釈迦様レベルなら可能かもしれませんが、私たち凡人にはなかなかできません。だから、つい簡単な方の「うそ」をついてしまうのです。
こう考えてきますと、物語やドラマ、そして励ましのことばなどが、まさに「方便」であって、一般的には「うそ」だと言われない理由も分かってきます。そして、それらを作り出したり、使ったりすることが、いかに難しいか、そして責任重大かということも分かってくるのではないでしょうか。
コメント