« キース・エマーソン・バンド 『Moscow(DVD)』 | トップページ | 悲観は楽観の母 »

2012.02.07

『下山の思想』 五木寛之 (幻冬舎新書)

20120208_91529 「山」…私は「登山」の反対語ではなく、「上山」や「入山」の反対語の「下山」だと思いました。つまり、修行僧が還俗する話かと…。
 五木寛之さんですから仏教の話だと思ったのです。私は登山家ではなくそちらに近い人間なので(苦笑)。
 なるほどねえ。我々日本人はすでに登頂してしまったのでしょうかね。そしてその山はなんという山だったのでしょう。なぜ、私たちはみんなでその頂を目指してしまったのでしょうか。
 なるほど、「山の醍醐味は『下山』にある」か。ゆとりをもって、周りを見回すことができると。そして頂点に集中していたものが拡散していくという発想も理解できます。もちろん、そこから新しい山を目指すという可能性の行為ととらえるというのも分かります。
 ただ、この本を読んで、私が救われたかというと微妙です。それは私という読者の特殊性のゆえだと思いますから、筆者を責められません。
 一つは、登山家でない私には「下山」が決してゆとりのあるものではなかったということです。私の数少ない「下山」経験からすると、それは苦痛でしかなかったのです。
 まずウチの裏山である「富士山」。こいつの「下山」はいつも最悪です。下山するんだったら、ずっと登っていたいくらい私は嫌いです。なにしろ足が痛い。膝がガクガク。そして、足の先、足の裏に激痛。ま、単にシロウトだからでしょう。でも、いやなものはいや。
 その他の山でも「下り」はどうも好きではありません。なにせ、私のつまらない根性には、「せっかく登ったのに下りちゃうのもったいないな」と感じられるからです。「またあの俗世間に還るのか」という落胆にも似た虚無感があるのも事実です。
 おそらくそれもまた登山のプロからするとなんとも稚拙な精神性の賜物であるのでしょう。残念であります。だから、この本の比喩としての「下山」にいちいち納得できなかったのです。
 理想論としては分かります。うまい発想の転換だなとも思いました。しかし、この先、とりあえず下界に下りなければならないこと、そしてその下界がその後どうなっているか分からないこと、さらに今登った山にはもう登ってはいけないと暗に言われていること、かと言って次に登るべき山の姿すら見えないこと、もっと言えば、次なる山があるのかどうかも分からないことも事実なのです。
 この登山と下山を自己の人生の比喩として読むと、これまた「下山を楽しめ」と言われてもなかなか難しいですよね。もう一山登る元気がないという人もいるでしょう。それから若者はまだ一山すら登っていないのに、いきなり下山かよ!?でしょうしね。
 私はこう思います。やはり下山の苦しみは下山の苦しみであると。また、下山の楽しみに下山の楽しみにすぎないと。下山という行為自体に意味や価値を見出しても、それだけではダメなような気がするんです。
 はたして今登った山の価値はなんだったのか、それをじっくり考え反芻しながらの道筋であるべきとも思います。決して「登った山が間違っていた」ではありません。
 もう次の山には登れないかもしれないのです。いや、山に登る必要もないのかもしれません。ただみんなで一つの山に登ったことは事実なのですから、そこに最大の意味と価値を探すべきでしょう。
 それは、それこそ仏教的な「上山(入山)」と「下山」の関係と同じだと言えるかもしれません。私もたった一泊の修行の真似事を何回かやらせていただいていますが、たったそれだけでも、下山のすがすがしさや達成感と、そこに必ず寄り添う一抹の不安や寂しさを、いつも感じています。その相矛盾する感覚こそが、私は「下山の思想」であると思います。
 すなわち、実際の登山であっても、お寺に関することでも、山に上るというのは「現実から離れる」という意味合いが大きいと思います。そして実際に客観的俯瞰的に自己や社会の現実を再確認し、そして再び下っていくわけじゃないですか。
 ということは、歴史的に私たち日本が果たした「登山」というのもまたそういう意味合いのものだったかもしれないわけです。つまり幻想への逃避であったと。
 そして、今そこを下りて現実に帰還せんとしている。その一種の不安こそが、現代の「うつ」や倦怠感そのものなのではないか。それは「重力に逆らわず落下する」感覚とでも言うのでしょうか。
 無理やり私の仏教的「モノ・コト論」に引き寄せるなら、登山は自然(重力)への反発という意味で「コト」になり、下山は自然(重力)に対する従順という意味で「モノ」になります。そうすると、我々が感じている「下山の憂い」こそが、いわゆる「もののあはれ」であることが分かりますよね。
 そこに気づくことが実は第一であって、そこからさあどうしようかというのが、仏教の、いや我々人類の大きな課題です。
 すなわち、私たちは戦中、戦後と、大変な修行を課せられたのです。ある意味両極端な修行を。さらに総決算とも言えるあの震災や原発事故がありました。それが終わり、今現実に還ろうとしている。
 修行を終えた私たち自身は、明らかに登山(上山)前とは違っています。当然その目には下界は以前と違って見えることでしょう。
 この修行の成果を発揮するのはこれからです。「下山」は未来への覚悟をするステージです。
 結局は五木さんと同じような結論になりますけれども、これが私なりの「下山の思想」ということになるでしょうか。

Amazon 下山の思想


|

« キース・エマーソン・バンド 『Moscow(DVD)』 | トップページ | 悲観は楽観の母 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

歴史・宗教」カテゴリの記事

モノ・コト論」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『下山の思想』 五木寛之 (幻冬舎新書):

« キース・エマーソン・バンド 『Moscow(DVD)』 | トップページ | 悲観は楽観の母 »