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2012.02.03

夏目漱石 『素人と黒人(くろうと)』

20100526201449 「士山の全体は富士を離れた時にのみ判然と眺められるのである」
 今日もまた他人のふんどしです。
 中学高校の仕事をしていますので、小学6年生のために問題を作ったりする一方、大学入試の文章も読まねばなりません。まさに受験シーズンですなあ。この時期は忙しいけれど楽しい。私は普通の国語の先生と言うより受験国語の先生なので。
 今日は昨年の早稲田大学の問題を生徒と一緒に解きました。最近の早稲田の問題は昔に比べると「良問」になっている気がします。単に自分が慣れてきただけかもしれませんが。
 で、その現代文の本文の一つが漱石のエッセイでした。大正13年(1914年)東京朝日新聞に掲載されたものだそうです。
 これがなかなか面白い「漱石節」だったので、思い切って抜粋されていた分すべてを紹介します。
 まあ簡単に言えばいわゆる「玄人」をけちょんけちょんにやっつける文章ですね。こんな口調でここまで言うなんて、いったい漱石に何があったのか、何がこれを書かせたのか、興味のあるところです。
 しかし、ここに書かれていることは、古今東西・硬軟聖俗すべてに普遍的なことであるような気がしますから、単なる個人攻撃、あるいは感情論ではないということですね。そのあたりが漱石らしいところです。
 そして、漱石らしいと言えば、最後の段落でしょうかね。うまいこと逃げているとも言えるし、皮肉がきいているとも言えます。
 なんか、そのあたりは自分の書く文章にも似ているな…いやいや、私が漱石の影響を受けていると感じました。私もよく使う技であります(笑)。
 ところで、どうして漱石は「しろうと」は「白人」ではなく「素人」と書いているのに、「くろうと」は「玄人」ではなく「黒人」としたのでしょうか。
 おかげで、「素人と黒人」でググると大変なことになります(笑)。ぜったいに検索しないようにしましょう。
 漱石のいたずらでしょうかね(苦笑)。
 いや、実際、明治時代には「しろうと」は「素人」という表記しかなく、「くろうと」は「黒人」が一般的であったようです。「玄人」は案外新しい表記らしい。おそらく「黒人」が「黒色人種」の意味として一般化すると同時に、それとの差別化を図って「玄」という字をなんらかの理由で使うようになったのでしょう。
 それまでは「黒人(こくじん)」というと、「しろうと」の反対で「遊女」のことを指しました。
 ちなみに「素人」という漢字は中世から近世にかけて既に一般的でした。
 では縦書きでどうぞ。ルビもつけちゃえ! 面白いのでぜひお読みください。

 良寛上人は嫌いなもののうちに詩人の詩と書家の書を平生から数えていた。詩人の詩、書家の書といえば、本職という意味から見て、これほど立派なものはないはずである。それを嫌う上人の見地は、黒人の臭みをにくむ純粋でナイーブな素人の品格から出ている。心の純なるところ、気の精なるあたり、そこにれ枯らしにならない素人の尊さが潜んでいる。腹の空しい癖に腕でき廻している悪辣がない。器用のようでその実は大人らしい雅気に充ちた厭味いやみがない。だから素人は拙を隠す技巧を有しないだけでも黒人よりもしだといわなければならない。自己には真面目に表現の要求があるということが、芸術の本体を構成する第一の資格である。既にこの資格を頭のうちに認めながら、なおかつ黒人の特色をうらやむのは、君子の品性を与えられている癖に、手練手管てれんてくだの修業をしなければ一人前でないと悲観するようなものである。  ここで、更に新しい所から黒人と素人を比較して見ようと思う。あるものを観察する場合に、ず第一にわが眼に入るのはその輪郭である。次にはその局部である。次には局部のまた局部である。観察や研究の時間が長ければ長いほど、段々細かい所が眼に入って来る、ますます小さい点に気が付いて来る。これはすべての物に対する我々の態度であって、ほとんど例外を許さないほど応用の広い自然の順序と見ても差支さしつかえない。だから芸術の研究もまたこの階段を追って進んで行くに違いない。いわゆる黒人というものはこの道を素人より先へ通り越したものである。そうしてそこに彼等の自負が潜んでいるらしい。彼等の素人に対する軽蔑の念も亦そこからいて出るらしい。けれどもそれは彼等が彼等の径路を誤解して評価づけた結果に過ぎないと、自分は断言してはばからない。彼等の径路は単に大から小に移りつつ進んだのである。浅い所から深い所に達しつつあるのでもなければ、上部から内部に立体的に突き込んで行きつつあるのでもない。大通りを見つくしたから裏通りを見る、裏通りを歩き終ったから、横丁や露地を一つ一つのぞいているという順序なら、たとい泥板どろいたの上を一軒一軒数えて廻っても、研究の性質に変化の来るはずがない。それを低い平面から高い平面に移された様に思うのは、いわゆる黒人のイリュージョンで、平凡な黒人は皆このイリュージョンに酔わされているのである。単にこれだけなら彼等の芸術に及ぼす害毒はさほど大したものでないかも知れない。けれども彼等はこの甘いイリュージョンにあざむかれて、大事なものは何処どこかへ振り落して気が付かずにいるのである。  観察が輪郭に始まって漸々ぜんぜん局部に移っていくという意味を別の言葉で現すと、観察が輪郭を離れてしまうという事に帰着する。離れるのは忘れる方面へ一歩近寄るのと同然である。しかもその局部に注ぐ熱心が強ければ強いほど輪郭の観念は頭を去る訳である。だから黒人は局部に明るい癖に大体を眼中に置かない変人に化けて来る。そうして彼等の得意にやってのける改良とか工夫というものはことごとく部分的である。そうしてその部分的の改良なり工夫なりがごうも全体に響いて居ない場合が多い。大きな眼で見ると何の為にあんな所に苦心して喜んでいるのか気が知れない小刀細工をするのである。素人は馬鹿馬鹿しいと思っても、先が黒人だと遠慮して何もいわない。すると黒人はますます増長してただ細かく細かくと切り込んで行く。それで自分は立派に進歩したものと考えるらしい。高い立場から見下すとこれは進歩でなくって、堕落である。根本義を棚へ上げて置いて、末節にばかり齷齪あくせくする自分の態度に気がついたら黒人自身もしか認めなければなるまい。  素人はもとより部分的の研究なり観察に欠けている。その代り大きな輪郭に対しての第一印象は、この輪郭のなかで金魚のようにあぶあぶ浮いている黒人よりは鮮やかに把捉はそく出来る。黒人のように細かい鋭さは得られないかも知れないが、ある芸術全体を一眼に握る力において、糜爛びらんした黒人のひとみよりもたしかに溌剌としている。富士山の全体は富士を離れた時にのみ判然と眺められるのである。  ある芸術の門をもぐる刹那に、この危険は既にその芸術家の頭に落ちかかっている。虚心に門を潜ってさえそうである。与えられた輪郭を是認して、これは破れないものだと観念した以上、彼の仕事の自由は到底毫釐ごうりの間をうろついているにすぎない。だから在来の型や法則を土台にして成立している保守的の芸術になると、個人の自由はほとんど殺されている。その覚悟でなければ這入はいる訳に行かない。能でもおどりでも守旧派の絵画でもみんなそうである。こういう芸術になると、当初から輪郭は神聖にして犯すべからずという約束の下に成立するのだから、その中に活動する芸術家は、たとえ輪郭を忘れないでも、忘れたと同じ結果に陥って、ただ五十歩百歩の間で己の自由をみせようと苦心するだけである。素人の眼は、この方面においても、一目の下に芸術の全景を受け入れるという意味から見て、黒人に優っている。  こうなると俗にいう黒人と素人の位置が自然転倒しなければならない。素人が偉くって黒人が詰まらない。一寸ちょっと聞くと不可解なパラドックスではあるが、そういう見地から一般の歴史を眺めて見ると、これはむしろ当然のようでもある。昔から大きな芸術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、その人は黒人でなくって素人でなければならない。人の立てた門を潜るのでなくって、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである。

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