« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »

2012.02.29

BBC This World 2012『Inside the Meltdown』(メルトダウンの内実)

 撃のドキュメンタリー。必見です。2月23日にイギリスで放映されたものです。
 津波が福島第一原発を襲う瞬間の映像、高台に避難する作業員、原子炉建屋内の生々しい映像、自衛隊、消防隊の命がけの作業、菅さんの現地視察の機内映像…とにかく、我々日本人が見たことがない映像が目白押し。すさまじい映像資料であり、圧倒的な緊迫感です。
 そして、その災害に見舞われた人、危険な作業にあたる人、さらには当時の首相もでしょうか、とにかく個人の内面にまで迫るその制作方針と手法には改めて感心しました。BBCおそるべし。
 逆に言えば、なんで日本でこういう映像やこういう証言が放送されないのか、非常に疑問ですね。やはり報道規制というものがあるのでしょうか。
 もちろん、様々なドキュメンタリーにおいて、外国のメディアの方がその国のそれよりも核心をつく、あるいは本質を表現するということはよくあります。日本がその立場になったことがあることもよく分かっています。しかし、ここまで大切なことが隠蔽されていたとなると、さすがにショックです。
 菅さんにしても、なぜ国民には言わず、外国のメディアにはこうして語るのでしょうか。ある意味残念なことです。菅さんの言葉には、自己弁護も感じられましたが、一方では一国の命運を担わざるを得なくなった一人の人間としての苦悩や覚悟というものも感じなくはありませんでした。
 ただ注意したいのは、これがどこまで「ドキュメンタリー」「ドキュメント」かということです。BBC自身が作った「芸術のわな」にも示されていたように、これはあくまでBBCが構築した「世界」であります。
 実際、どこまでが現場の映像で、どこまでが再現映像なのか、ちょっと微妙なところがあったような気がします。
 しかし、そういう危険性を充分意識しても、この番組の説得力は最上級だと感じました。それはやはり、「世界」の中の「個人」の言葉に重みがあるからでしょう。「世界」は創れても「個人」は最終的には創れませんから。
 危険な作業に向かう人々は、これは喩えが悪いかもしれませんけれども、なにか特攻隊員のようなオーラを出していましたね。男だなと。
 そういう人たち、そして期せずして肉親を亡くしたり、被曝をしてしまったりした人々のことを思うと、我々が感情論、人情論で「福島の野菜を食べよう!」とか言っているのが、実に愚かなことに思えますね。私たちは再び来るであろう地震や津波に無防備ではいけないし、不用意に被曝することも許されないはずです。
 この番組、ぜひNHKで放映してほしいものです。まあ、大変に難しいとは思いますが。

 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.28

『もし富士山が噴火したら』 鎌田浩毅・高世えり子 (東洋経済新報社)

Moshifujisangafunkashitara 日ウチにこの本を持っていったら、下の娘が「あっ!それ知ってる!」と叫びました。えっ、なんで?と思っていると、娘はランドセルから1枚のお便りを取り出しました。
 図書だよりです。そこにちょうどこの本が紹介されていました。さすが富士山頂のある村、鳴沢の小学校ですな。
 そうそう、この本に、我が鳴沢村も登場するんですよ。それもちゃんとクイズで鳴沢の「キャベツ」が出てくる。鳴沢と言えばキャベツ(当地では玉菜という)ですね。
 いやあ、この本(半分マンガ)は、非常にいい。これは村のみならず、東京の人にもぜひ読んでもらいたいですね。
 著者の鎌田さんによるブルーバックス『富士山噴火』については、こちらで紹介しました。あれもいい本で、記事の中にも「ただハザードマップを配るんだったら、この本を配布した方がいい」というようなことを書いていますね。
 それ以上にこちらは一般向けと言えるかもしれません。実際小学校3年生と6年生の娘も食い入るように読んでいました。もちろん、クイズを楽しみながら。
 富士山に住んで、まあ地学も得意ですし、いろいろな知識を人並み以上には持っている自負していたワタクシでも、こうしてイラスト(マンガ)で示されると、より一層リアルなイメージができまして、そういう意味では新たな知見を多くいただいたような気がしています。
 そう、学者さんの役目には、こういう啓蒙活動というのもあると思うんですよね。鎌田さんGJ!です。
 そして、イラストに高世さんを起用したのも大成功。高世さんについては、こちらで『理系クン』と『理系クン結婚できるかな?』を紹介しました。やっぱり理系のマンガを書かせたら、この人の右に出る人はいませんね。
 というわけで、私も大好きで、かつ信頼申し上げているお二人のタッグですから、これはもう傑作に間違いありませんね。
 全体が三部構成、最初は「もし東京出張中に富士山が噴火したら」ということで、出張どうのこうのではなく、普通に東京の人たちに読んでもらいたい内容。ある意味、富士山の地元よりも大変なことになります。
 次は「もし富士登山中に噴火がはじまったら」。これもまた登山している人というのは極端な話であって、まあ、つまり私のように富士山に住んでいる、あるいはその周辺に住んでいる人に向けてのメッセージですね。噴石やら火砕流やら熔岩やらからどう逃げるか。これは大変勉強になりました。なにしろ、ウチは富士山を3分の1登ったところにありますからね。毎日富士登山しているも同然ですので(笑)。
 そして最後は「もっと知りたい、富士山と噴火の基礎知識」。ここに鳴沢村のキャベツが登場します。すなわち、火山の恵みというプラス面の話も出てくるということです。これによって、ここを選んで住んでいる私なんかは救われるわけですよ。
 よく言われます。なんでそんな世界一危険なところに住むのかって。そういう時は、虎穴に入らずんば虎子を得ずだよと答えます。世界一危険なところには世界一美しい自然や世界一の不思議、そして世界一のパワーがあるのです。
 それから、この本でもしっかり確認されているとおり、火山の噴火は、地震とは違って、かなりの確率で予知できます。あらかじめ知ることができるのです。その時はウチを捨てて逃げればいいのですから、そういう意味では世界一危険とは言えないと思います。都会の方が予知できない危険に満ちていると思いますよ。
 とにかく、これは生徒にも読ませたいし、村の各家庭に一冊置いてもらいたいですね。そうして、より一層富士山のことを好きになってもらいたいと思います。
 噴火するとこんなに恐ろしいことになる!という、ある種週刊誌的、ワイドショー的な情報とは一線を画しています。ちゃんと対策が書かれているのです。そういう意味でこの本は、正しい防災意識を促す良書であると言えるのです。おススメします。
 最後に今日の富士山の様子をご覧いただきます。この本を読んだあと見た富士山からは、今までとは全く違ったメッセージを受け取ることができます。

Gedc2816

Gedc2817_2

Gedc2818_2

Gedc2819

Gedc2820

Gedc2821

Gedc2822

Img_4492

Amazon もし富士山が噴火したら


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.27

アイドリングストップ禁止!?

20120228_123055 日のプライムニュースはドナルド・キーンさんが語る日本文学、日本文化。なかなか面白かったけれども、いつもの疑問が…。
 前もこちらに書きましたかね、
 私なんかより、ずっと日本文学を読み、感じ、解釈し、翻訳してきたはずのキーンさん。もう70年くらい日本語の研究をされているのに、なんで日本語が下手でいらっしゃるのでしょう(笑)。
 前の記事にも書いたとおり、それをもってなんとか純日本人としての優越感に浸って安心している自分なわけですけどね、それにしてもこの語彙数にして、このいかにも外人さんが話す日本語は…。
 これってやっぱり、読めれば話せるわけではない、ということの証左なのでしょう。私たち日本人の英語もそうですよね。キーンさんが漢語をバリバリにお話しになるのと同様、我々もラテン語、ギリシャ語語源の小難しい英単語を大学受験やらなんやらで覚えてしまっていますから。それでいて話せない。
 それにしてもなあ、ここまで母語の干渉が見られるというのも珍しいのでは。音韻はもちろん、とにかくピッチアクセント(高低アクセント)が苦手でいらっしゃる。「日本語」という単語自体、頭高のアクセントになってしまっている。ちなみに「英語」も頭高。
 まあ、逆に発音とかアクセントとかはどうでもいいということですかね。私たちが英語は話す際も。
 今日はその話じゃなくて、「アイドル」の話でした。「アイドル」と言ってもAKBとかじゃありません。あれは「IDOL」ですね。偶像。そっちじゃなくて、同じ発音の「Idle」です。てか、同じ発音なんだ。
 これって車のアイドリングのアイドルですね。これを思い出したのは、キーンさんの「英訳徒然草」のタイトルが「Essays in Idleness」だったからです。そっか、つれづれなりが「Idle」か。仕事してないっていう意味ですよね、「idle」って。本来の仕事がない感じ。だから「徒然なり」だ、たしかに。
 「人間失格」は「No Longer Human」か。なるほど。うまい…のだろうか。英語のニュアンスが分からないのでなんとも言えませんな。
 アイドルの話に戻りましょう。最近、というか何年か前から「アイドリングストップ」という言葉をやたら聞くようになりましたよね。皆さんもご存知のとおり、車のアイドリングを止めることです。
 でも、この英語なんか変じゃないですか?「Idling stop」って直訳すると、「アイドルしている停止」ですよね。つまり、私たちが考えている、あるいは求めていることと反対の状態になっちゃうような気がするんですが。
200612011220000 だから、この注意看板は正しいのです。「アイドリングしたまま駐めるなよ!」「エンジンつけっぱなしにすんなよ、うるせえし臭いんだよ、コラ!」ってことですよね、きっと。
 私たちの考えるあの行為だとすると、「Stop idling」だったらいいような気がします。ネイティヴ英語ではなんて言うんだろう…と思ったら、「no idling」または「idle reduction」って言うという情報が。ホントかな。
 ちなみに、いわゆるアイドリングストップをちゃんとすれば燃費は10%以上良くなると言われています。しかし、現実には始動時にたくさんのガソリンや電力を必要とするので、なかなか計算どおりにはいきません。
 5秒以内の停止ではストップしない方がいいとも言われていますね。それを自動的に感知(予知?)するのは現代の技術ではかなり難しいでしょうし、それをいちいち手動でやるのも面倒ですし、余計な神経を使うので、もしかすると危険も伴うかもしれません。
 大渋滞で当分動かないとか分かったとしても、それが夏であれば冷房、冬であれば暖房も必要でしょうし、オーディオなどに電力を消費し続けますので、バッテリーに大きな負担がかかります。
 皆さん、どちらにしても「アイドリングストップやめましょう」(笑)。
 
Amazon Essays in Idleness


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.02.26

(意外!?)水島総「マタイ受難曲」を語る

 日は東京でマタイの練習に参加。本番前日のゲネプロは仕事のためお休みするので、全曲通して演奏するのは本番だけということになります。
 まさに一生に一回の体験ということになりそうです。それほどこの曲は壮大であり、演奏者にとっても大変厳しいものでもあるのです。
 私はその一期一会に全身全霊を注ぐつもりです…と、カッコイイことを言ってしまいましたが、実際のところ、私はキリスト者ではなく(外見的にも内面的にも仏教徒に近い)、またドイツ語にも疎いので、注ぐべき「魂」は残念ながら持ち備えていません。純粋な音楽としてとらえた時も、あのあまりに崇高な構造物の、その細部はもちろん、全体像すら掴みきれていません。
 しかし、「体験」としてのマタイというのもまた重要だと考えています。言語や理屈を超えたところに存在する、すなわち世界的な、いや宇宙的な普遍性があるのだと思います。
 そんなマタイ受難曲がどんなにすごいか言葉で説明するのは非常に困難でありますが、たまたま最近、趣味で(あくまで趣味ですよ…笑)チャンネル桜を見ていたら、社長の水島総さんが、いきなりこのマタイ受難曲について熱く語り始めたからビックリしちゃいました。それがなかなか素晴らしい解説だったんですよ。
 「人類の最高の文化遺産」
 「人類が宇宙に誇れる遺産」
 保守の論客、ある意味反キリスト文明論者であるはずの水島さんが、こんなふうにマタイを、聖書を、キリスト教を語るというのは意外も意外でした。
 しかし、なかなか鋭い指摘をしています。私もなるほど〜と思ってしまいました。ついでに(?)ハシズムについても同感です。
 ちなみに水島さん、私の出身高校の先輩であります。なかなか骨のある先輩ですな(笑)。

 さあ、3月4日本番、皆さんもぜひ「体験」してください。チケットは当日券がわずかに残っているのみです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.25

究極のインタープレイ(アンサンブル)

 度末は忙しいっす。高校の卒業式の準備、中学の入学の準備等、しっちゃかめっちゃかです(「しっちゃかめっちゃか」の語源ってなんだろうか)。そこに自分の趣味もいろいろ加えてしまうので、毎年三学期はあっという間に終わっちゃいます。
 というわけで、今日は手抜きです。しかし手抜きをするということは、人の力を借りるということであって、たいがい私が何かを力説するよりも、読者の皆さんにとっては有益なことが多い。そういうものです。
 で、今日は何を紹介するかというと、昔から宝物のように思っていた演奏です。最近YouTubeに上がっているのを見つけました。キース・ジャレット・トリオの奇跡のライヴ。私はVHSで持っています。
 1986年の東京でのコンサート。その中でも圧巻はこの「Blame It on My Youth」でしょう。これはもう「禅」の境地です。究極のアンサンブルというか「インタープレイ」の本義とはこうこうことでしょう。
 

 もう一つ、その10年後、これも東京での奇跡的なコンサートから、「ALL the Thigs You Are」です。
 音楽を演奏する、というかアンサンブルするには「視覚」は必要ないということでしょうか。私なんかあらゆる意味で視覚に頼りすぎですな。楽譜は見るし、指揮は見るし、楽器は見るし、お客さんを見るし。目をつぶったら何もできません。

 う〜む、キースもすごいけど、やっぱりゲイリー・ピーコックのベース好きだなあ。もちろんジャック・デジョネットも神の領域です。

Amazon LIVE AT OPEN THEATRE EAST 1993 & CONCERT 96

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.24

山梨県立博物館企画展 『おふどうと名乗った家 豪商大木家の350年』

20120225_90918

 日は博物館お隣の建物で某説明会に参加しまして、せっかく山を越えて国中(くになか…甲府盆地地区)に来たので、帰りにちょこっと寄ってみました。
 というか、博物館の年間パスポート持ってるのに、なかなか来る機会がなかったので、これはいかん(もったいない)という気持ちもありました。
 タイトルだけ見た時はなかなか渋い企画展だなと思っていたんですが、実際観てみるとこれが面白い。けっこういろいろなツボにはまりましたね。
 大木家は戦前の甲府を代表するお金持ち。「おふどう」呉服店を営みながら、まさに甲州商人の商魂たくましくお金と権力をほしいままにし…などと書くと勘違いされそうですね、実際には山梨の文化や教育に多大な貢献をした家柄です。
 まあ、そのへんがですね、最近の単なる金持ち、儲け一辺倒の企業とは違うところです。昔の地方の名家にはそういう徳というか、矜持というものがありましたね。
 それにしてもまあずいぶんとぜいたくな生活をしていたようですね。絵画で言えば、歴代の広重やら谷文晁やら富岡鉄斎やら、まあすごいものが普通にある。
 そういう代物はもちろんのこと、マニアックなワタクシの目は、福助人形とかビリケン人形とか、あるいは蓄音機などに釘付け。そうそう、一番びっくりしたのは、ステレオスコープ(活眼写真)ですね。つまり立体写真を観て楽しむ装置が2台あったこと。そして、立体写真自体も何枚か展示されていたことです。東京の風景やら美人の立ち姿やら。いわゆる総天然色写真でしょうか。残念ながら裸眼平行法で見るには左右の写真の幅が広すぎたので、当時大木家で盛り上がったであろう立体感の感動は味わえませんでした。
 まさに最近の3Dブームのはしりですよ。てか、もう100年以上前から流行ってるんですよね。
 さてさて、今回、それなりに楽しめた展示だったわけですが、どうにも解せないというか、個人的に不満に思ったのは、郡内(ぐんない…山梨県東部富士五湖地方)関係の物が一つもなかったことです。もちろん、博物館が意図したことであるとか、そういうことではありませんよ。たぶん、実際にないのです。
 大木家は呉服商。当時の郡内は織物の名産地。なのに、全くつながりがなかったのでしょうか。それが予想外だったわけです。
 実際のところ、展示されていたものを見るかぎりは、当時の大木家は、郡内ではなく、八王子や伊勢崎との取引がメインだったようです。
 私は当時の山梨県内の事情や、織物界の力関係などは全くわかりませんが、どうなんでしょうか、やはり国中の人たちは田舎の郡内よりも都会である八王子の方に興味が向いていたのでしょうか。
 郡内織と言えば江戸時代には国内最高の絹織物の一つであったわけですが、近代になってからは、いろいろと事情も変わったのでしょう。その辺についてはもっと勉強しないといけませんね。
 まあ、そういう商売上の問題よりも、今でも根強く続く、国中・郡内両地域の確執というか、相互嫌悪というか、実情は国中の郡内蔑視、そして郡内の国中敵視ですがね、そういうものが当時も色濃くあったのでしょう。ある意味今よりもそれが強かったかもしれませんね。
 いつも書いているように、まさに山梨の陰と陽です。フジファブリックとレミオロメンの対比ですね(笑)。今日も御坂で暖かすぎて汗かいたと思ったら、若彦路を越えるところで、雪が舞って来ましたからね。こりゃあ、明と暗に分かれるよなあ。
 この敵対のルーツは、戦国時代どころか、古代にまで遡ると、私は考えています。それがまた面白いとも言えるのです。私のように外から来た人間にとっては特に。網野さんなんか、そのあたりどうとらえていたのか。彼も実は郡内には興味なかったとか(苦笑)。
Ofudozuroku それにしても、この「おふどう」ロゴ、なかなかいいフォントデザインですよね。おしゃれです。
 この字体に決定するプロセスを垣間見ることができる「書」もあって、なかなか面白かった。
 当時は大変なブランドであり、このマークが山梨(甲府周辺)では一つの流行のシンボルだったのではないでしょうか。
 ロゴを使った様々なグッズ、「おふどうタイムズ」だったかな、店が発行する「流行通信」もなかなか現代的な内容で、こうしたメディア戦略にも長けていたお店だと思いました。
 しかし、これほどの隆盛を誇った呉服店も、昭和18年あっけなく閉店してしまいます。強力な戦争の負の力を感じるところです。
 この企画展、3月5日までやっているようですから、ぜひ行ってみてください。

山梨県立博物館かいじあむ公式
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.23

富士山の日の富士山と…皇太子さま&桜織ちゃん

 日は223で富士山の日でした。その主役、午前中は大雨で全く見えなかったのですが、午後には雲間から神々しい姿を現しました。陽の光を背に、まさに後光を背負ったようなお姿であります。数枚写真を撮りましたので、ご覧下さい。

Gedc2811

Gedc2812_2

Gedc2813_2

Gedc2814_2

Gedc2815_2

Img_4482

 神々しいお姿と言えば、今日は富士山に縁の深い(?)お二人のお誕生日でしたね。
K10032210711_1202230521_1202230530 まずは、皇太子さま。52歳になられました。皇太子さまとはヴィオラを通じて多少のご縁があります。古楽に関しましては師を同じくしております。バロック・ボウを共有したこともございます。
 皇太子と富士山がなぜ関係深いのか。それはまだお話できません。いずれ明らかになるでしょう。
2012021900000511san0000view もう一人、本日愛称が決定した富士吉田の萌えキャラ「桜織」ちゃんです。
 桜織で「さおり」となると、いわゆる「豚切り名」ですが、萌え文化にはそんな屁理屈は通用しません。かわいければいいのです。
 ただ、富士吉田のキャラかどうか、名前からは全く判断できないのが難点ですね。せめて苗字を「吉田」にするとかしないと。
 それにしても、この子(と言っても23歳)のキャラ設定が面白いですね。23歳という意外な年齢にも、一瞬えっ?と思いつつ、実はニッチな萌えの部分をうまく突いた感があります。その他のキャラ設定について、あるいは関連商品&痛車やラッピングバス(これも痛車の一つだな)は、こちらでご確認ください。微妙すぎてウケます。
 これはプロのプロデューサーの仕業なのか、それともど素人のやらかしなのか、非常に判断が難しいところです(笑)。そのギリギリ感が私には好もしく思われました。
 ちなみに私はお酒を手に入れそこねました。残念。そして姉の存在が気になる(笑)。
 最後に、このようなことを申すのは失礼というか不謹慎ではありますが、将来的には「富士山の日」が「天皇誕生日」になるのですね。案外日本人はそれに気づいていません。

追伸 なんと桜織ちゃんのツイッターの第1号フォロワーになっちゃいました(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.22

折り紙の授業が紹介されました。

この日作った「おとなのカラス」
20120223_105809 日朝日新聞から取材を受けた折り紙の授業の様子がネットで読める記事になりました。こちらです。

 折り紙 その素晴らしき対話力

 そうです。折り紙の魅力は「対話」なんですよね。子どもどうし、親子、先生と生徒、そして人間と物。
 さらに面白いのは「自分自身との対話」です。
 それには二つの意味があります。一つは禅的な意味での自己との対話ですね。能、茶道、折り紙などなど、ウチの学校の総合的な学習の時間は全て「禅」につながっています。ウチは禅宗系の学校ですので。
 記事にもあるとおり、折り紙には個性が現れます。まさに自己と対峙しなければならない。もちろん全ての人間の営為にはその主体が反映するわけですが、非常にシンプルでありながら、明確に個性が現れるという点で、あるいは一つの「型」を極めていくという点において、折り紙は特に「禅的」だと感じます。
 それからですね、私にとっては「昔の自分」との対話でもあります。
 私が折り紙にはまったのは、幼稚園の年長から小学校2年生くらいまで。こちらの笠原さんのおりがみ本に出会ってからです。
 今見てみますと、ずいぶんと難しい作品を作っていたなと思います。今でも難儀するような作品を片っ端から作っていました。さらに、これは自分でも驚くべきことなのですが、自ら作品を創作し折り図まで書いていたんですよね。特に当時はウルトラセブンが好きだったので、いろいろな宇宙人やウルトラホークなんかを作っていましたね。今やれと言われても絶対無理です(笑)。
 その折り図も探せばどっかから出てきそうです。自分で言うのもなんですが、当時の私は天才でしたね。はたち過ぎる前にフツーの人になっちゃいましたが。子どもというのは皆天才なんでしょう。
 まあホントに今の私は少年期の私に助けられていますね。昔取った杵柄、芸は身を助く。
 折り紙やらヴァイオリンやら、短歌もそうかな、みんな学校時代にはまっていたものです。そういう昔の自分と対話する、あるいは昔の自分を尊敬する(?)良い機会となりました。
 生徒たちもこうして授業やクラブで取り組んだことを何十年後かに思い出して、そして自分の子どもと一緒に折り紙や楽器を楽しんだりしてくれるといいなと思います。
 ま、ある意味自分の得意なことしか教えてないとも言えますがね。いや、学校ってそういうところであるべきだと思うんですよ。いろいろな先生がいて、その先生の一番得意なことを教えてもらうのが、生徒にとっても一番幸せなんです。
 文化伝承の場としての学校というのを、これからはもっと見直していかなければならないといつも感じています。
 とりあえずは、単なる優等生で教科書の勉強が得意なだけな先生は必要ありませんね。
 今回の授業の教材に使ったのは、こちら『かわいい!かっこいい!美しい! 動物折り紙BOOK』 笠原邦彦 (朝日出版社)です。皆さんもぜひどうぞ。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.21

獨協医大・永井伸一名誉教授「子供をダメにする」親の研究

Img_a7807982ddd148dcf3d5597e13eacc 日は、私が普段強く感じていることを書いてくれている文章を紹介します。週刊現代のこの記事。

 獨協医大・永井伸一名誉教授「子供をダメにする」親の研究 3000人の親子を聞き取り調査して分かったこと

 私も仕事柄、生徒だけでなく親とじっくり話をする機会がたくさんあります。ある意味では親との対応が本業とも言えます。「対応」の中には、当然「教育」「指導」「カウンセリング」なども含まれています。
 高校での仕事がメインだった時にはそれほど感じなかったのですが、中学を担当するようになって、特に親の存在の大きさを痛感するようになりました。
 私も親であり、私よりも子育てに関してはずっと立派な保護者の方が多い中、偉そうなことは言えないのですが、たしかにこの獨協医大の永井伸一名誉教授の言葉と同様のことを感じたり、話したりすることが多くあります。
 それにしてもいきなりの「『両親とも教師』の家庭は危ない」には思わず苦笑してしまいましたね。ウチはまんま「両親とも教師」ですので(笑)。
 ま、我が夫婦をご存知の方々はお分かりでしょうが、ウチは二人ともかな〜り破格な教師ですからね、逆の意味で心配があるのではないでしょうか(笑)。実際ウチの娘たちときたら…。
 現場で特に感じるのは、母子の関係、そして父親の存在ですね。関係は母親、存在は父親です。それも幼少期から反抗期前までの関係と存在。これが本来の形、あるいは旧来のあり方であれば、ほとんど問題ありません。
 昨日までの戦後洗脳政策の話で言えばですね、私も含めて今の40代の親は、みんな日本的な価値観よりもアメリカ的な価値観を重視して育てられてきましたから、ある意味古来の家庭や家族のスタイルを捨ててきた世代です。
 それがその子どもたちにある種の歪みとして現れている感じはしますね。今の親は自己愛が強い。子どもへの愛と思っているものも、実は自己愛であったり、自己実現欲求であったりすることが多々あります。
 これは「子どもこそ親の喜び、子どもが私の人生」というような感覚をも作り出します。これは実は子どもにとっては大きなお世話なんですよね。
 本来の日本社会では、子どもへの愛情よりも表面的には優先される愛がありました。それは国家への愛であったり、主君への愛であったり、会社への愛であったり、地域への愛であったり。
 そう、子どもへの愛情なんていうのは、これは動物的な本能であり、別に立派なことでも正しいことでもないとも言えるのです。そこに満足している、あるいはそこに生きがいを見ているようではいけないのです。
 親子の愛情は、本当なら自然にそこにあって揺らがないものであるべきです。しかし、戦後世代の親は、そこを意識化、あるいは美化してしまったために、逆に不自然な形の愛情を注ぎ続けてしまいました。その結果が最近の若者のいろいろな問題行動や精神的な疾患なのではないかと思います。
 絶対的な、本能的な愛の存在を信じ、それをベースにつきあっていれば、親子関係はどんな時も盤石です。どんなに怒っても、喧嘩しても、場合によっては体罰を加えても、ぜったいに自然に修復します。それは本来親子だけに与えられたある種の能力です。
 そこで「修復」「自然治癒」の体験をした子どもは、他者に対してもそれを期待しますし、実際に自分がそれを具現化することもできます。それを体験して来ないと、他人との関係の修復ができず、あるいはできないと思い込み、社会不適応になってしまったりする。
 異様に「空気を読む」、すなわち人間関係を崩さないように、軋轢が生じないようにふるまって疲れてしまう若者が多いのもなんとなく分かりますね。彼らは親と仲良くやりすぎたのかもしれません。
 そういう意味で反抗期というのはとても大切です。毎日中学生を見ながらそういうことを強く感じています。
 ま、「偉そうなこと言う前に、まずは自分がまともな親、先生、大人、人間になれよ!」という声が聞こえてきそうですがね(苦笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.20

『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』 櫻井よしこ (小学館文庫)

20120221_100343 日の続きです。GHQによる洗脳政策(War Guilt Information Program)で、我々「愚民」にとって最も分かりやすい形で残っているのが、この「真相箱」でしょう。
 このプロパガンダラジオ番組の全脚本を復刻したこの本、歴史的な資料としての価値も高いと思います。
 なにしろ一般大衆用のラジオ番組ですから、当時の日本人庶民になりきって読むことができます。そういう追体験をした上で、この「洗脳」の価値(プラスとマイナス両面)を客観的に考えることが大切です。
 そういう意味では、冒頭の「戦後日本は、この言論検閲からはじまった」や、各項目ごとの「解説」はあとで読むのがいいでしょう。純粋にラジオ番組を全部聴いた形をとってから、その前後の自己の心の変化を客観的に分析するところから始めるべきです。
 そうしないと、「保守論客」櫻井よしこに洗脳されちゃいますから(笑)。
 歴史、特に戦史に関しては、少なくとも戦勝国と戦敗国の二つの視点があり、その両者の意見が一致することはほとんどありません。そして、そのどちらかが本当でどちらかがウソあるいは間違いであるとも言い切れません。
 あまりにどちらかにこだわると、それは原理主義になってしまい、再び戦争を招く火種となりかねません。そこのところは常に注意しなければなりませんね。特に私のような教育者は。
 実はそういう視点を失っていたのが、戦後の教育界であったわけです。そういう意味での洗脳はとてもうまく行きました。日本人の思考の骨抜き化ですね。
 原理主義というのは、実は最も何も考えていない状態のことなのです。それは「思いやり」のない状態とも言えます。他者意識がない状態です。そう、「思いやり」というのは感性や情緒の領域ではなく、実は論理的な思考のことを言うのです。「思い」を他者に「遣る」のですから。
 そういう意味で、私は自虐史観よりもなによりも、見事に論理的に思考できなくなった点にこそ、戦後教育の大きな問題点を見ます。いや、自虐史観もウェットな気分にしか過ぎないか。
 この本の中で、GHQと戦後教育について櫻井さんはこう書いています。
「GHQの行った行政のなかで、恐らく最も憎むべきは、この戦後の教育行政であろう」
「…あやまった教育の恐ろしさは、本当の結果は一世代あるいは二世代後になって出でくることだ。現在の日本をみると、GHQが当時目指した、日本を再び米国に立ち向かえないような国にするという目的は、当初の狙いよりも遥かに完璧に達成されたと思う」
 彼女の言う「この戦後の教育行政」「あやまった教育」については言わずもがなでしょう。あるいはこの本を読めばよく分かるはずです。
 私は櫻井さんの言うこと全てに賛意を表せない、すなわちそこまで原理主義になれない…それは「思いやり」があるのということなのか、それとも勇気がないということなのか…立場の人間ですが、たしかにアメリカの想定以上に愚民に成り下がってしまったことは認めます。
 そうそう、私よく言ってますよねえ、学校という現場では、様々な軍国主義の名残と左翼的な教育活動が普通に同居してるって。これだけでもちゃんちゃらおかしいじゃないですか。日教組ってホントお馬鹿ですよ(笑)。軍隊ごっこさせといて戦争反対!とか言ってるようなもんですから。
 しかし、私はそれを心から馬鹿にしているわけじゃないんですよ。自分もまた、そこにどっぷり浸かって気づかないで来たのですから。だから逆にそのシステムやメンタリティーや文化に興味があるんですよね。
 その探求の方法として、自分の専門分野であり職能である「国語教育」の客観視をしている最中なのです。面白いですよ。自分が受けてきた教育、自分が施してきた教育がいかにめちゃくちゃか知るのは(笑)。
 まあ、私はある意味幸福なことに、大村はま先生の授業を受け、また最近では出口汪先生とのご縁をいただきましたから、かなり一般とは違った、あるいは本来の「国語教育体験」をしてきましたから、そういう観点を持つことができたのでしょう。
 この「真相箱」一つとっても、私たち日本人が「言葉」の力によって人生を決定づけられていることが分かります。昨日の「電通」においても、その中心メディアは「言葉」です。
 古来の「言霊」信仰…私は一般的な「言霊」の定義には反対しているのですが…というのは、実はそういう危険性のことでもあったはずです。私たちが道具として使うべき言語に、結果として振り回され、コントロールされてしまう、そういう現実こそが、本来私たちが恐れた「言葉の霊力」だったのではないでしょうか。
 戦後国語教育の犯した大罪は、私たちを言葉の下僕にしてしまったことなのかもしれませんね。

Amazon GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.19

『電通 洗脳広告代理店』 苫米地英人 (サイゾー)

20120220_100543 GHQ(アメリカ)による「日本人愚民化洗脳政策」がここにも。

 『さまざまなことをしたたかに仕掛けてくる権力者たちのやり口に対して、一般市民はあまりにも無知なのだ。権力者にとって一般市民は無知で賢くないほうがいい。
 一般市民に賢くなられては、自分たちのやり口を見抜かれてしまう。ずっとお笑い番組を見続けて、何も考えずに大口を開けて笑い続けてもらうに限る。その合間にサブリミナル的にCMでも入れておけば、思考停止状態の一般市民は喜んで買い物をしてくれることだろう』

 昨日の記事にも実はつながるんですよね。農地改革に始まる農業政策、あるいは農家の愚民化もまたGHQの巧妙な作戦の一つでしたから。
 もちろん私の専門分野である「教育」分野においては言うまでもありません。最近では「国語教育」における「日本人骨抜き化」策に興味があります。いずれまとめあげようと思っています。
 占領政策、あるいは大衆の洗脳術としては、教育とメディアを押さえるのは基本中の基本ですよね。私も洗脳する立場だったら当然そうします。
 ただ、なんと言いますかね、農家の人に象徴されるように、日本人があまりに「お人好し」だったんですよね。それで70年近くアメリカの思い通りにやってきてしまった。巧妙と言えば巧妙ですが、ここまでのべ何億人もの大人がまんまと作戦にひっかかってきたというのは、なんだかなあという気持ちなのです。
 もちろん、全てが間違っていたということではありません。実際にこれだけの経済成長を遂げ、とりあえず70年間戦争に加担せず、核兵器もいちおう持たずにやってきたのは、ある意味ではアメリカのおかげです。
 しかし、一方で、現在の情けない政治状況や、震災や原発事故で露呈した問題点などに象徴されるように、「お人好し」や「深く考えない主義(?)」の行き過ぎは、さすがにいかんと思うのですね。
 つまり、そういう「骨抜き」になりはてた大衆をですね、一部のワルが利用して権力や富を得ていた、いや今も得ているという状況がどうにも許せないのです。
 それがまた、日本国内にとどまらず、いつのまにか外国にまでだまされたり、バカにされたり、カネをふんだくられたりしている。さすがに日本人として、「国家」という我が家の「国益」という食い扶持くらい守らねば。そう思うのが当然でしょう。
 しかし、愚民になりきってしまった身内自体が、ある意味強力な難敵ですよ。洗脳されてますから、ディプログラミングはそう簡単ではありません。
 また、洗脳を解くとなると、洗脳を施している側や、洗脳状態を意図的に利用している者、あるいは無意識的に洗脳状態から恩恵を得ている者から、強烈な攻撃を食らう可能性が出てきます。
 それに対する防衛本能が、それこそ無意識化して、この本で言う「バイオパワー」として世の中に蔓延してしまうと、もう洗脳は完成に近づきます。現在の日本はそういう状況ですね。
 教育界で言うと、我が山梨県の某教職員組合なんか、まさにそういう例です。言語では表せない日常の「空気」が支配していて、全く見事な膠着状態になっている。「中の人」はみんな「お人好し」でまじめ。空気をしっかり読む典型的な日本人です。しかし、結果としては、聖職にあるはずの人々が平気で法令違反をしてしまう。そして、どんどん「愚かな大衆」を作っていってしまう。
 私はどうにもそういうのが許せないのと同時に、どうしてこうもうまくそういうシステムが出来上がるのか、非常に興味があるのですね。そのプロセスを知らねば対抗策も思いつかない。ただ単に反発したり糾弾したりするだけではダメなのです。
 この本は、メディア界のスーパータブーである「電通」の見えざる実態に迫った労作です。苫米地さんとサイゾーというタッグでなくては、とてもこういう所に斬り込んでいけません。お見事です。
 普通に考えれば、東電批判をして干された芸能人と同様に、闇からの圧力によって今後メディアでの仕事の場が奪われるでしょう。
 しかし、今だからこそ、我々愚民も気づくチャンスはあると思いますし、電通の力がそれほど及ばないネットというニューメディア(それもまたアメリカが用意したものだというのはなんとも皮肉なことですが)を味方につけるという方法もあると判断したのでしょう。よくぞ書いてくれました、苫米地さん。
 私、おじがバリバリの電通マンでしたし、現在も同級生や教え子が電通の現場でバリバリに活躍していますので、その見える部分での内情については、けっこう詳しい方だと思っていました。ある部分では私にとって憧れの仕事、憧れの会社でもありましたね。
 しかし、その歴史に、このような「物語」があろうとは、おそらく電通社員の皆さんもあまり知らないのではないでしょうか。
 いや、実際にですね、電通の「中の人」も、我々教員と同じように、「お人好し」であり、ある意味では有能な人種だと思います。結局、我々、人の良いオトナ、賢いオトナが洗脳や思想統制の立派な「メディア」になっていたということですよ。
 そういう自覚や反省や客観視こそが、この異常な状況を打破するきっかけとなるはずです。そういう意味で、この本の価値は非常に高い。こういう無意識的被洗脳状態および無意識的洗脳加害状態は「電通」に限ったことではないからです。私たちの日常にそういう見えない力が働き続けていることを意識することは大変重要なことです。
 この「教育版」あるいはもう少し狭めて「国語教育版」を書きたいですね。そんなことしたら、私も抹殺されてしまうのでしょうか(苦笑)。いったい誰に?
 実はもうその洗脳という行為の主体さえも分からなくなっているのかもしれません。実はそれが一番恐ろしいことですね。

Amazon 電通 洗脳広告代理店

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.02.18

『お米のなみだ』(NHK仙台放送局開局80周年記念ドラマ)

20120219_80342 っと今日観ることができました。観たかったんですよ。評判が良かったものですから。
 「米」をテーマにした2008年制作の地方発ドラマ。「国際ドラマフェスティバル in TOKYO 2009 ~世界に見せたいドラマがある~」で「ローカルドラマ賞」を受賞したとのこと。
 高度経済成長期の東京の団地で育った私は、正直農業とは全く関係ない半生を送ってきましたが、縁あって秋田のコメ農家の娘と結婚することになり、そうして初めてその実態(良いところも悪いところも)を知るところとなりました。
 それもまさに「中山間地域」の農家の娘でした。そして、義父は農協の職員としても長年働いてきた方です。
 実を言うと、最近家内の実家は、その中山間地域を去り、都市部に引っ越してしまいました。田んぼは地域の親戚にまかせ、実質的にはコメ農家もJAの仕事もやめてしまいました。
 その決断の裏には、私の想像を超えた苦悩があったようです。このドラマでも表現されていた、国の農政の問題、借金や自殺の問題、そしてドラマでは描かれていませんでしたが、農協(JA)という巨大組織に伴う暗部…。
 そこの長女として、今故郷を離れて農業とは関係のない生活をしているカミさんにとっては、それこそ他人事ではないドラマであったようです。
 脚本の阿部美佳さんは山形の専業農家の娘さんだそうです。ウチのカミさんと同じ「アベ一族」ですな。阿部さんはこう語っています。
「縁あってこのドラマに参加しましたが、自分の中で一つ決め事を作って臨みました。それは、農家を美化しないこと。農家の娘だからこそ、その苦しさも歯がゆさも無知さも、そしてこの仕事の素晴らしさも、すべてが愛しい」
 ここでも述べられている「無知さ」こそ、実は日本の農業問題の根本にあると感じます。もちろん私も無知も無知だったわけですが、一方で第三者的な立場から見ると、農家の皆さんのある種の「純粋さ」には危機感を感じざるを得ません。
 ドラマの中でも「お人好し」という言葉が発せられています。「もっと賢くなってよ!」とも。
 そこなんですよね。東北の純粋な農家の人たちを喰い物にしてきた目に見えない「権力」、私はそこが気になってしかたありません。ある意味戦後のGHQによる教育(洗脳)の成果とも言えるのです。もちろん、そこには古い自民党や、農協という組織も関わってきています。
 そうそう、主演の奥田恵梨華さん、幼い頃に秋田の湯沢に住んでいたんですよね。多少は秋田のコメ農家の空気というのを感じて育ったのではないでしょうか。ちなみにウチのカミさんは湯沢から峠を二つ越えた山の中の生まれです。どんな所かはこちらからたどってみてください。
 カミさんは、このドラマを観て、もっともっと現実的な農家の暗部を語ってくれました。もっと厳しい現実、秋田の山間部のドキュメンタリーとか作ったら、ちょっと衝撃的すぎますな。とても放送できません。
 まず、実際のところ、鳴子のように「活気」のある農村はそんなにないとのこと。ドヨーンと暗いのがスタンダードだそうです。
 近々また秋田の山村の農業関係者とじっくり話をする機会を作りたいと思います。私が今取り組んでいる壮大なテーマと「米」とは深い関係があるからです。
 ドラマの結末が語ったとおり、「米」すなわち「自然」は単なる商品ではありません。あえて言うなら「神」そのものです。農家の方々が、そういう崇高なお仕事に誇りが持てるように、世の中が変わっていかねばなりません。
 コメかカネか。まずは「カネ」の弱体化を図らねば。私の壮大な計画は着々と進んでいます。
 
お米のなみだ公式

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012.02.17

IGFプロレスリング 『GENOME18』

 日は久しぶりのプロレス生観戦。なんだかんだ言って去年7月以来かあ。
 場所は東京ドームシティホールです。この会場、けっこう好きですね。どの席からも身近にリングを感じることができます。今日は1階バルコニー席での観戦でした。
 7時の試合開始に間に合うか心配だったのですが、中央道の渋滞にもめげずギリギリセーフ。先に会場入りしていたカミさんと無事合流できました。
 カミさんはすでにビールなどを買い込み臨戦態勢(笑)。気合い入ってるな。数名の知り合いの方々とも挨拶をかわし(なぜかその中にはピーター・アーツも!)、いよいよ試合開始となります。
 さて、ここからはそれぞれの試合を写真で振り返ってみましょう(とは言ってもそれぞれ1枚ずつですが)。

アレキサンダー・コズロフ○ vs ●定アキラ
Gedc2753 定アキラの闘魂十番勝負第一戦。もうすぐ高校卒業を迎えるアキラに試練が。いやあ、いきなりコズロフはきつい。果敢に突っ込んで行きましたが、さすがにパワーと実績に差がありましたね。
 この体勢からそのまま落とされて半失神、レフェリーストップ。まあしかたないでしょう。普通あんな高さからあの方向に人間が落ちるってことないですからね。我々じゃ死んでます。
 まあ、こういうふうに玉砕するところからプロレスのストーリーは始まります。おおげさでなく未来のプロレス界を担う逸材ですから、こういう経験をステップにどんどん強くなっていってほしいと思います。
 それにしてもコズロフはやっぱり一流のオーラを持っていますね。これから王座戦にも絡んでくるでしょう。楽しみです。


角谷正義○ vs ●パトリック・スコフィールド
Gedc2754 う〜む、なんともグダグダな試合(苦笑)。メインのことを考えると、あまりに見劣りしました。両者の技術もパワーも闘魂もほとんど感じられない。せめて気持ちの強さを見せてほしかった。
 両者とも体は大きいのですが、その体を持て余しているというか…スタミナ不足ですし、まあ練習が足りないのでしょう。せめてKOしてほしかったなあ。
 それにしてもスコフィールドの体のだらしなさと言ったら(苦笑)。

ウルティモ・ドラゴン○ vs ●ブラックタイガー
Gedc2759 両ベテランによるショー的プロレス。まあ安定していると言えば安定していますが、もうこういう予定調和プロレスには食傷気味なのも事実です。
 結局こういうマスクはぎのようなサービスが一番盛り上がる(けっこう今日は顔が露出してましたね)というか、分かりやすい勧善懲悪ドラマもまあ伝統的なプロレスの形ではありますが、だったらもう少しプロレス的ムーブをたくさん見せてもらいたかったかな。

鈴木秀樹○ vs ●タカ・クノウ
Gedc2762 我が家的には本日の最注目カード。ウチはお二人のファンなので、ある意味夢の対決。どちらを応援しようか。
 試合全体としてはタカさんの巧さ強さが目立つ内容となりましたね。結果としては秀樹の勝ちでしたが、負けて輝くのもプロレスの面白さ、難しさ、醍醐味であります。
 タカさんは相変わらず見事な関節技地獄で試合をコントロールしつつ、ドロップキックやラリアット(ジャンボ・ラリアット?)などプロレス技も要所で使い存在感を示していました。さすがジャンボ鶴田を敬愛しているだけのことはある!
 カミさんとよく話すんですが、タカさんと桜庭の試合を観てみたいなあ。面白いと思うんですが。
 鈴木選手は、勝つには勝ちましたが、圧倒的な強さというか、説得力のある勝ち方ではありませんでしたね。これからIGFのエースを目指すには、それを体現できるようになってほしいものです。素材は最高なのですから。

猪木劇場
Gedc2773 相変わらず盛り上がるなあ。このカリスマ性はもうどうしようもない。こういう人はもうしばらく現れないでしょうね。
 すなわち「猪木言語」を持っているんですよね。昭和の偉人の特徴です。意味が分かるとか分からないとか、面白いとか面白くないとか関係ありません。その言葉自体が本人の存在感なのです。
 もうすぐお誕生日ということで、藤原組長、木村健悟さんから祝福された猪木さん。なんと69歳になるのだそうです。まあ元気ですかぁ〜!?というご自身が一番元気というかなんというか。

将軍岡本(元霧の若/岡本将之) ○ vs ●ボブ・サップ
Gedc2778 さて注目のデビュー戦。黒のロングタイツはもちろん力道山を意識してのことでしょう。力士あがりということもあって、体型的にも重心的にもたしかに力道山を彷彿とさせます。なんとなく顔つきも。
 結果はサップを圧倒。まあ、サップの不甲斐なさがいつもどおりだったとは言え、たった120秒の中にパワーやテクニック、そして気持ちも見せてくれましたね。
 八百長疑惑で角界を去ることになった元十両霧の若…実はこの引退劇の裏側にはいろいろなことがあったようです。その証拠に、元師匠である陸奥親方(元霧島関)をはじめ、部屋の皆さんもたくさん応援にいらしていました。もし本当に角界を汚したのなら、こんなことはありえませんよね。
 そういういろいろな事情や思いを、四角いリングで見事に昇華したのではないでしょうか。
 先日お話した時、宮戸さんも岡本選手の才能と真面目さを高く評価していました。期待できますね。応援します。

鈴川真一&澤田敦士○ vs ●ミノワマン&バル・ハーン
Gedc2780 いちおうIGFとDREAMの対抗戦ということですが、バル・ハーンってDREAMなのか?というのは、まあいいとしてですね、結果的には澤田とミノワマンだけしか印象に残りませんでした。
 まず四人ともタッグの技術が全くないですね。タッグの面白さもプロレスの醍醐味の一つであるはずですが、それが全然感じられない。これはもっと勉強してもらいたいですね。
 澤田選手は久しぶりの勝利ということで試合後もご機嫌。今年は大いに期待しましょう。彼のこと、最近けっこう好きになってきました。キャラがはっきりしていてよろしい。プロレスラーですからね。自己プロデュース力も必要です。
 その点、ミノワマンはさすがだと思います。昔は「何がリアル・プロレスラーじゃ!?」と思ってましたが、全体で見ると彼がある意味一番会場を盛り上げますからね、いつも。
 一方、鈴川選手はどうでしょう。いろいろな技やプロレス的世界を覚えつつある現在、どういうわけか、当初の個性や迫力が感じられなくなってきました。いきなりプロレスの壁に突き当たっているのではないでしょうか。ふんばり時ですね。期待しています。

ジェロム・レ・バンナ○ vs ●ピーター・アーツ
Gedc2793 この二人の王座戦をプロレスのリングで観ることになるとは…そして、最後はバンナがグローブを外し、グラウンドでアーツを仕留める。現実は夢よりも面白い。
 たしかにこれぞ本来のプロレスの興奮なのかもしれません。予定調和ではなく、いったいどうなるのだろう、どちらが勝つのだろうではなくて、いったいどうなっちゃうのだろうというドキドキ、ワクワク。
 そういう意味でも、彼らK-1のスーパースターたちがIGFに乗り込んできたことは大きな意味がありますね。プロレス界、格闘技界にとっても。たしかにそんなことを可能にするのは猪木さんしかいません。
 彼らのプロ意識、技術、体、オーラ、それらがレスラーたちにかなり刺激を与えていると宮戸さんもおっしゃっていました。たしかに。ファンにとっても本来の「何か」を思い出させてくれる存在ですね。本物の強さをベースにしたエンテーテインメント。

 以上、なかなか楽しめた興行でした。相変わらずIGFっぽいとも言えますが、逆にそれが新鮮というか、次はどうなるのだろうという期待を持たせる内容だったと思います。
 そうそう、2月29日(水)21時からBS11で今大会が放映されます。誰でも無料で観ることができるいい機会ですから、しばらくプロレス観てないなあという方もぜひ。何かを思い出させてくれる大会だと思いますよ。ぜひ。
Al2ectrceaaq2rd 最後に本日の私の観戦姿をどうぞ。カミさんが休憩中、ウルティモ・ドラゴン選手のマスクを買って来ました(サインしてもらいました)。それを被って応援。マスクってあったかくていいな(笑)。選手は暑いだろうけど。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.16

ヴィヴァルディ 『弦楽のための協奏曲ト短調 RV 157』

Imgres 日、なんでこの曲を紹介するかというと、ひょんなところから思い出したからです。そのひょんとは、最近娘たちやカミさんがさかんに聴いている「東方」の音楽です。
 「東方」と言っても「東方神起」ではありません。「東方Project」です。私はよく分からないのですが、ずいぶん昔からある弾幕系ゲームに付随した各種オタク文化の総称としての「東方」ですね。
 まあ、生徒たちや、あるいはオタク研究家仲間たちから、そういう濃い世界があることは聞いていましたし、私もいちおう「オタク研究家」として論文など書いて、その私の論文の隣に「東方論」みたいなのがあったりしましたから、なんとなく意識はしていましたけど、まさか、自分の家が「東方」一色に染まろうとは…。ちなみに一番熱いのはカミさんです。
 で、彼女たちが歌いまくっている「東方」の曲たちを聴いているとですね、なんというか、たしかに西洋クラシック音楽とは違った系譜を感じるというか、まあ、日本のポップスとしては正統ではあるわけですけど、民族音楽的なものと西洋芸術音楽的なものと、そしてバークリー的な商業音楽と、見事にミックスされているなあと感心しますね。
 で、「東方」の曲に特徴的な、リフレイン、バスの半音進行、そして特徴的な転調からですね、私はヴィヴァルディのこの曲を思い出したというわけです。
 そう、西洋音楽史的に考えれば、やっぱりヴィヴァルディというのは天才であったと。こちらにも書きましたっけね、ヴィヴァルディは小室哲哉だって(笑)。
 好き嫌いは別として、いきなりあの時代にこれが登場したら、さすがにショックでしょう。大バッハが研究しつしたのもよく分かります。バッハの頭ではとても創り得ない世界です。
 それにしても、この曲カッコイイな。特に第3楽章。コテコテに現代的です。ゲーム音楽になってもおかしくないですね。イル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏もすごい。イタリア人だよなあ。ではどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.15

メタンハイドレートは救世主か悪魔か

Kr110330ill21 日、渥美半島沖でメタンハイドレートの採掘試験始まったとのニュースがありました。
 「燃える氷」ことメタンハイドレートは、資源貧国日本にとって救世主となるのではと期待されている物質ですね。
 上の地図をご覧いただくと分かるとおり、日本は世界的でも有数のメタンハイドレート産出地です。原発事故のこともあり、エネルギー問題が取り沙汰されている昨今、国内で産出されるこの資源が実用化すれば、これはたしかに喜ばしいことと言えそうです。
 メタンハイドレートの開発は1990年代に本格化し、国の事業としては現在重要な折り返し地点に来ています。今回の採掘試験も成功すればおそらく世界初となる画期的なものとなるでしょう。
 この試験は当初の計画どおりに行われるもので、震災や原発事故、あるいはそれに伴う原発利権や石油利権の弱体化によるものではありません。
W もちろん、世の中でまことしやかにささやかれている、ちきゅうによる「人工地震説」、「核爆発説」、「メタンハイドレート爆発説」などとは関係ありません。私は、そういう自然を馬鹿にした(つまり人間の力や科学の力を過信した)陰謀説などには与しません(苦笑)。
 しかし、地震とメタンハイドレートが関係ないかということ、そんなことはありませんね。上の地図は世界の震源地図です。メタンハイドレート埋蔵地図とずいぶん似ています。それは当然です。メタンハイドレートが生まれて保存される環境と、地震が発生する環境には共通点があるからです。
 地球の運動の力がかかるところには、恵みと災いの両方が存在するのです。富士山に住んでいると本当にそう思います。
Images 今回採掘が行われる渥美半島沖、すなわち東部南海トラフもまた、思いっきり東海・東南海地震の予測震源域ですよね。南海トラフ全体で考えると、いわゆる東海・東南海・南海三連動巨大地震の震源域そのままです。
 そんなところで採掘をやって大丈夫なのでしょうか。こういう心配は当然あっていいものと思われます。
 それは杞憂だと専門家(国)は言いますね。穴を開けると言っても地球規模からすれば針の穴のようなものだと。
 しかし、東部南海トラフにおけるメタンハイドレートの埋蔵量は、天然ガス「たった14年分」とはいえ、体積にすれば1兆立方メートルを超えます。穴は小さくとも、抜かれるガスの体積がそれだけになれば、これはなんらかの影響があってしかるべきです。100%何もないとは言えませんね。
 現在考えられている抽出法は「減圧法」だそうです。メタンハイドレートは高圧化で安定していますから、その圧力を下げると勝手にわき上がってくるのだとか。
 つまり、地震の発生源であるアスペリティに対してもなんらかの(プラスかマイナスかは分からない)圧力の変化を与えるわけですから、地震のトリガーにならないとは言えません。
 もちろん、当該地域での大地震の発生は、将来的には100%避けられないわけですから、その時期を早めることにメリットがあるという考え方もできるわけですし、場合によっては連動を避けるきっかけになるかもしれない。
 しかし、そうして自分たちの都合で自然のサイクルに手を加えることが、はたして人間には許されのかどうか、これは考え方が分かれるところでしょう。私はあまり積極的に賛成できません。
 冷静に考えてみれば、今回試験が行われる東部南海トラフにおけるその埋蔵量は天然ガス「たった」14年分弱であり、その開発期間や開発費用のことを含めると、はたして本当に今必要な資源なのか疑問に思わざるをえません。
 日本全体で考えると天然ガス100年分近くの埋蔵量があると言われていますが、しょせん100年分とも言えますし、そこにあるものをまた使いきろうとしているとも言えます。
 その場しのぎの積み重ねに終始するよりも、私たちのエネルギー消費のあり方を考えなおすべき時だとも思いますね。大変難しいことなのですが。
 はたして、メタンハイドレートは救世主なのか、はたまたある意味原子力よりも怖い悪魔なのか。私たち人間にはそれを知る術はありません。実際、歴史上の戦争のほとんどは資源エネルギーの取り合いから始まっていますし、エネルギー問題は常に大いなるかけ、ロシアンルーレットなのです。

Amazon メタンハイドレート


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.14

『お蝶夫人のキラキラ美麗系コラーゲン白湯鍋』 (丸大食品)

20120215_110913 っ?そうなの?「鍋好き日本一は山梨県
 意外と言えば意外…いや、たしかに鍋率高いかもな、ウチも。
 山梨って、ほとんど県そのものが「鍋」のように閉鎖的でごった煮な感じでもあります。そして、人間関係も濃くて、ある意味義理人情に厚く、ある意味排他的。一つの鍋を囲み、同じモノをつつきあうというのも、仲間意識の醸成や確認に大切なシステムとなっています。
 そして、基本「寒い」。これです。ウチのあたりなんか、真夏でも夜はヒンヤリですので、鍋が恋しくなります。まじで。
 まあ、主婦的には「楽」というのもあるでしょうね。調理としては非常に単純な作業ですみますから。
 というわけで、ここのところ我が家の台所にこの派手派手しい「鍋用食材」が出番を待ってずっと鎮座しております(なかなか使われない…)。
 てか、もしかして私はこれにはありつけないのかなあ。なぜなら、「オイシイ女子会」って堂々と書いてあるからです。
 そうそう、前も書いたとおり、ここのところのワタクシの人生のテーマは、「いかにして女子会に参加するか」なのであります!w
 いろいろなところでいろいろな人に相談しているのですが、どうも考えれば考えるほど、この夢の実現は難しいようです。
 「男であるワタクシが参加した時点で、すでに女子会ではなくなる」という基本的なパラドックスを乗り越える術が見つからないのです。
 いや、あのタイムマシンのタイムパラドックスを量子力学的なパラレルワールド観によって乗り越えるがごとく、別次元から参加するということは可能かもしれない(笑)。
 まあ、そんなことを考えて人生終わってしまっても、それはそれで悲しいので、このへんであきらめようと思います。
 しっかし、このパッケージ、すごい圧迫感だなあ。お蝶夫人に「がんばれ!女子」と言われて、たじろいでしまう男子がここにいます。
 「美麗系」ということで、なんでもコラーゲンが6000mg入っているとのこと。つまり6gですな。こういうのに「女子」が弱いことはよく分かりますが…本当のことを言ってしまうと、コラーゲンを6g、いや女子3人で食べたとすると一人2gですか、それを胃の中に放り込んだとしても、小腸で吸収される時にはアミノ酸に分解されていますから、そのままお肌のコラーゲンになることはほとんどありませんね。
 ま、女子にはそんな理屈はどうでもいいのです。きっと「女子会」は16次元くらいに存在しているので、男子的なせいぜい3次元か4次元くらいの狭い世界での科学なんて無意味でしょうからね。あちらの次元では6000mgと6gも違うのでしょう。てか、男子の世界もタウリン1000mgじゃんね(笑)。
 とまあ、女子にバカにされそうなセコいことを書いてしまいました。これじゃあ、とてもとても女子会に参加させてもらえそうにありませんね。
 まずは我が家にて黒一点のワタクシがこの白湯鍋にありつけるのか…見もの、いや死活問題であります。

エースをねらえ!お蝶夫人の美麗系コラーゲン白湯鍋 公式


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.13

『寺山修司全歌集』 (講談社学術文庫)

20120214_101222 日は朝日新聞さんの取材を受けました。折り紙に関することです。久しぶりに生徒たちと折り紙の授業を楽しみました。どんな記事になるのでしょうか。
 最近、本当に少年時代の自分に感謝するんですよね。昔取った杵柄というか、昔の自分に救われてばっかり。あの頃、出会ったモノやコト、そしてヒトが、今でも生き続けていて、そうして自分を助けてくれる。仕事のベースがほとんどそこにあります。
 折り紙も音楽も文学も絵画も機械も地学も天文も、ぜ〜んぶ小中学校の時に出会ったものばかり。それらが今の自分の生活や趣味や仕事のベースになっている。
 あれ?つまり、あの頃から全然成長してないってことですかね(笑)。永遠の中二病ってオレのことか。
 というわけで、今日はこれを紹介しましょう。最近再会したものです。そう、再会って本当に楽しいですね。寺山修司との再会。あの頃の自分との再会。
 私が寺山に執心していたのは、高校から大学にかけてでしょうか。姉が演劇をやってましてね、寺山にずいぶんと憧れていて、天井桟敷にも入ってやろうかと画策していたのを記憶しています。
 今思えばビートルズに出会ったのも姉の影響ですし、やっぱり家族というか兄弟の影響というのは大きいですよね。今ウチの娘二人を見ていても、妹が姉から影響を受けているのがよく分かります。というか、ほとんど強制的にも共有させられていますね。まあ、そうやって文化というのは伝承・伝播されていくのでしょう。
 さて、寺山については、ええと、今までどんなことを書いてきたかなあ。あったあった、ええと6年前に「田園に死す」について書いてますね。「寺山修司について語るのはほとんど無意味でしょう」いきなりこれかよ(笑)。
 いやいや、たしかにそうかもしれない。土方巽の言葉もそうなんですよ。王仁三郎の霊界物語もそう。「コト」で「モノ」を語ったところが、彼らのすごいところなんです。だから、一般的な、規格化した、社会化してしまった「意味」から入ると、もうその本質が見えなくなるように仕組まれている。
 この歌集も全く同じ罠が仕掛けられた装置のコレクションとなっていますよ。特に、最近ご縁をいただいて自分自身も「エセ歌人」を気取っていますから、この寺山というその道の鉄人の偉大さが、全く痛いほどによく分かります。
 ずるい。ずるい。このずるさは、やはり青森の太宰治に共通するところがある。同じ東北人であるウチのカミさんなんか、もう寺山を読むと大笑いしてしまう。決してまじめな顔で分かったフリなどしません。
 私は秋田の山奥に異邦人として潜入してしまったあの夜のことを思い出します。つまり、カミさんにいわせると、本当に「ずるい」のだそうです。東北のあの日常のモノガタリを商品にして、都会で、いやいや世界的に評価されるまでになった太宰や寺山や土方は「ずるい」と。なるほどねえ。
 彼らはあえて母語を封印して、「日本語」(標準語あるいは共通語)というフィクションでそれをやらかした。そこが、我々「日本人」(標準語あるいは共通語話者)からすると、実に魅力的に感じるわけです。高度経済成長下の東京で育った若かりし頃の私なんか、すっかりやられてしまった。そして、今でもやっぱりやられてしまう。
 では、太宰風に、寺山風に、土方風に文章を書けるか、歌を創れるかというと、これがまた無理なのです。なんちゃってまではできますが、本格的には無理です。
 こう考えてくると、文学や芸術というものは、すなわち「母語」の共通語への翻訳である、とも言えそうですね。
 私は、「文化」を「その土地の自然が人間の活動を通じて現れたもの」と定義していますが、それとも似ていますね。
 うむ、分かったぞ!そうか、オレが何ごとにも「エセ」で、本物の「芸術家」になれない理由が。「故郷」がないからだ。「母語」を持たいないからだ。そうか…これって今からどうしようもないじゃん!残念すぎます。
 いくら青少年時代に豊かな体験をしても、それ以上にはなれないのか…。

Amazon 寺山修司全歌集

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.12

スペシャルなコンサート終了!

Img_4442 日のコンサートにご来場くださいました皆様、そして演奏者の方々、スタッフの皆様、ホールの皆様、本当にありがとうございました。
 ワタクシ自身、昨日まで熱にうなされていたこともあり、なんとか最後まで演奏に参加することができましたことを、まずは幸いと感じる次第であります。音楽のご縁、音楽の力のおかげ様で、インフルエンザもどきの厄介な病もすっかり良くなりました。
 いや、実際のところ、今日このような演奏会がなければ、いまだに自宅の布団の上で呻吟していたことでしょう。人間、やり甲斐というか責任というか喜びというか趣味というか、そういうものに生かされておるのですね。感謝です。
 さてさて、今日の演奏会の会場は、横浜山手のベーリックホール。このホールやこの街とワタクシとの不思議な因縁については、こちら昨年のコンサートの記事に少し書きました。
Img_4449 そうしたご先祖様とのご縁にも包まれながら、こうしてプロの演奏家の皆さんと一緒に演奏できることは本当に幸せなことですね。こうやって自分や自分の人生は全て他者によって創られていくのであります。ありがたや、ありがたや。
 それなのに、皆さんの足を引っ張るような演奏をしてしまい、本当に私はとんでもないバチあたりです。ごめんなさい。精進します。
 バロックと現代大衆音楽(ロックと歌謡曲)ばかりやってきた私は、いわゆる「クラシック音楽」の体験が少なすぎます。最近ようやく皆様のご縁という強制力、いや矯正力によって、なんとかバランスが取れるようになってきました。しかし、いかんせんまだまだ初心者です。
 特に、和声感と音程の感覚の問題が露呈しましたね。チェンバロが仄かな和声の空気を発してくれていない、あるいは電子機器(あるいは現代ピアノのような近代兵器)が封建的・暴力的な和声を強制してくれていないと不安でしかたない。誰のどの音に自分が合わせればいいのか、それこそ「縁起」してこないのです。
 かといって、自分に無理やり自信を持って発した音程はどうかというと、録音を聴いて愕然とするほど、他と調和していないのです。これは今までと全く違う脳のある部分を使わねばならないのでしょう。う〜む、あまりに道は険しい。この歳からそれは可能なのでしょうか。
Img_4451 と、演奏会終了後、帰宅する車の中ではすっかり反省モードになってしまいましたが、リハと本番の間には、フォルテピアノ調律の梅岡さんに久々に再開し、またまたマニアックな興味深いお話をうかがいました。それについては、また後日調べて紹介します。いやあ、梅岡さんの話はいつも面白いし刺激的ですなあ。
 では最後に今回の演奏会の内容をご覧いただき、音を想像していただきたいと思います。

アンサンブル山手バロッコ第41回演奏会横濱・西洋館de古楽2012…ファイナル・コンサート
『洋館サロンで楽しむ“スペシャルな”協奏曲と交響曲の世界』

モーツァルトの生きた18世紀。ピアノ協奏曲や交響曲が室内楽用に編曲されて上流階級のサロンで楽しまれていました。イギリスの伝統的サロンを持つベーリックホールで18世紀風演奏会を再現します。オーケストラがなくても立派に響く交響曲やピアノ・コンチェルトは品格に満ちた美しさ。古楽器ならではの響きを生かした斬新なプログラムは聴く人の心をとらえて離さないはずです。18世紀サロンコンサートへ私がご案内いたします。(朝岡聡)

曲目

F.J.ハイドン/J.P.ザロモン/ 交響曲 第83番「めんどり」より 第1、第4楽章(室内楽版)
W.A.モーツァルト/ オーボエ四重奏曲 ヘ長調 K.370(368b)
W.A.モーツァルト/ ファゴット協奏曲 変ロ長調  K.191 (186e)
W.A.モーツァルト/ ピアノ協奏曲 第18番 変ロ長調 K.456
アンコール…ハイドン/ ピアノ協奏曲より

出演

ゲスト 崎川晶子(フォルテピアノ)、大山有里子(クラシカル・オーボエ)、永谷陽子(クラシカル・ファゴット)
アンサンブル山手バロッコ(朝岡聡主宰)
朝岡聡(ナビゲーター) 、曽禰寛純(クラシカル・フルート)
角田幹夫、原田純子、山口隆之、小川有沙、伊東ゆき乃(クラシカル・ヴァイオリン、ヴィオラ)
中尾晶子(クラシカル・チェロ) 飯塚正己(コントラバス)

アンサンブル山手バロッコ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.11

『日本人の脳』 角田忠信 (大修館書店)

00483508 音ミクの声(音)はいったいどちらの脳で聴いているのでしょうか。
 昨日、vocaloid版のロ短調ミサを紹介しました。私はなぜか機械である彼女らの歌が心に染みるんです。それも不思議なもので、日本語の歌よりもドイツ語やラテン語など外国語の歌の場合に特に顕著に反応してしまう。
 これはいったいどういうことなのでしょう。
 というわけで、とんでもなく懐かしい本を引っ張り出してきました。大学の時ですよ。これを買って読んだのは。当時の私は真剣に「言語美学」というのをやりたかったんです。小林英夫という人が先駆的な研究をしていた分野ですが、その後は「科学」にはなりえないということでしょうか、すっかり鳴りを潜めてしまいました。
 結局私は尊敬していた教授に若気の至りを指摘され、直接的には言語美学を研究テーマにすることは断念しました。しかし、日本語と音楽の関係を知りたい気持ちは捨てられず、当時やっていた山田流箏曲の秘譜をアクセント史的に解析するという若気の至りを果たしてしまいました(笑)。いやあ、楽しかったなあ。
 で、その時の参考文献の一つが、当時最新画期的の「角田理論」を紹介したこの本だったわけです。
Brain1 世界中でほとんど日本人だけが、「虫の音」や「雨音」などを左脳で言語的にとらえているという、日本人にとっては、非常にショッキングというか、いやいやちょっとうれしいというか、そういう科学的データ満載の本でした。
 あれから30年経って読んでみても、なかなかエキサイティングでしたね。なんでも、今の最新の脳科学でも「角田理論」を否定しきれないようですね。つまりどうもこれは確からしいと。ますます面白いじゃないですか。
 角田さんは、日本人がこのような認知をするのは、遺伝的な要因ではなく後天的の要因、すなわち習得する日本語が母音に特別な意味を蔵しているからである、とします。
 これが日本語や日本人の起源論にもつながっていきますし、東西の音楽の比較にも、またワタクシの「モノ・コト論」や「オタク論」にもつながっていきます。面白いですよ。
 角田さんは、左脳を「心」担当、右脳を「もの」担当としていますが、これはワタクシ的には「コト」と「モノ」そのものになります。意識と無意識、既知と未知、想定内と想定外。
 日本人は左脳に偏っている、すなわち「コト」として自分の箱庭の中で解釈するオタク的な傾向が強い。虫や雨という自然のみならず、アニメのキャラだとか、デジタル化された音声であるとか、そういうものにも感情移入してしまう。
 ウチのカミさんなんかその典型ですね。素晴らしいサンプルです。彼女の認知パターンは超左脳的です。つまり言語的。猫の鳴き声のみならず、すべての事象を「翻訳」できますからね。初音ミクを歌手として真剣に尊敬してますし(笑)。そして反対に、たとえばヴァイオリンなどの西洋楽器音には全く無関心。言語化されないようです。バッハなども勝手な歌詞をつけ(もちろん日本語の変な歌詞)、ようやくメロディーを認知できるとのことです(笑)。それができないと興味のない雑音以下。
 世界一般としては、こういうのは「幼稚」だと言われます。ある意味発達障害。日本人のネオテニーですね。いい年してお人形さんになりきって喋ったりしてるわけですからね。それが日本の貴族文化、いやオタク文化の特徴です。そして、これは決して恥じることではなく、誇るべき特質である…と最近は思いますし、実際世界の評価はそうなりつつありますね。
 私なんか、比較的東西の音楽をバランス良く聴いたり演奏したりしている人間だと思いますけど、たしかに両者は脳の違う領域で認知している感じがしますね。どこどことは言えませんが、違うことはたしかです。
 ちなみに、日本人は右脳を全然使っていないかというと、これがまたそうではないところが面白い。現状の認知が左脳寄りになるということは、右脳には余裕があるということです。そうするとどうなるかというと、現状ではない、過去や未来への「想像力」の場として右脳が活用されるということです。
 それが新たな世界を創造することは、まさに日本のオタク文化が証明していますね。右脳はイメージとクリエイトの場だということです。ま、これもまた私の右脳による勝手な「ゾウゾウ」なわけですが。
 とにかくこの本は今でも十分に刺激的です。特に小泉文夫さんと角田さんの対談は興味深かったなあ。なんていうか、ほんの30年前だけれども、学問の世界も今よりエキサイティングだったような気がしました。
 
Amazon 日本人の脳

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.02.10

ヴォーカロイド版 「ミサ曲ロ短調」

  日は本当に久しぶりに仕事をお休みしました。昨夜から高熱にうなされております…いや、熱はそれなりに高いのですが、そんなにきつくはありません。とにかく今日は寝ました。こんなに自分も寝られるのだと感心したほどです。
 あさって横浜でコンサートなので死んでも治さねばなりません。いや、死んだらダメか。
 というわけで、今日は睡眠のBGMにした音楽を紹介します。なんでこれなんや(笑)。
 そうそう、3月4日に東京の浜離宮朝日ホールにてマタイ受難曲(初期稿)全曲を演奏します。マタイと言えば、こちらで紹介した初音ミク版がいいですねえ。なぜこんなに感動しちゃうのでしょうか(笑)。それは明日にでも種明かしします。
 さて、それで今日はですね、マタイと双璧をなすバッハの名曲ロ短調ミサです。それをヴォーカロイドでやるとどうなるか。こっちは初音ミクに加え、鏡音リンと鏡音レンが歌っております。なかなかラテン語うまいですね。
 これを全曲打ち込んだ作者もすごいですね。時々パソコン上のシーケンス画面が出てきますが、バッハはああいうふうに音を視覚化すると美しいというかかっこいいんですよね。きっと、彼の頭の中では五線譜よりもああいうイメージが浮かんでいたのでしょう。
 抽象性の高いバッハは案外こういう打ち込み系が合ってますよね。というか、抽象性ゆえに堪え得るというか。
 というわけで、私はこれを聴いて深い眠りにつきました。ここには第1曲のみ貼っておきます。ニコ動で視聴すると全曲自動再生されますので、ぜひ皆さんもゆっくり休んで下さい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.09

『ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ』 ケイレブ・メルビー&ジェシー  (集英社インターナショナル)

20120210_164302 日は珍しく体調不良であります。いちおうインフルエンザではないとの診断ですが、いきなり9度近い熱が出たあたりどうも怪しい。
 よって記事も手抜きとなります。ごめんなさい。
 ということで、まだ読んでもいないし、まだ発売されてもいない本を紹介します。
 このブログでも何度か書いてきた、アップルのスティーブ・ジョブズと曹洞禅の関係がよく分かる本になりそうです。
 ちなみに原書の方はアマゾンでも取り扱っております。大した量じゃないし、マンガなので英語で読んでもいいんですけどね。日本語訳の質もわかりませんし。
201110182 ジョブズは、この前IGFの宮戸さんとの会話にも出てきたオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」を、ずいぶん若い頃から読んでいたそうで、その時点で立派な禅マニアだと言えますね。
 ジョブズに曹洞禅を本格的に教えたのは国際布教師の知野(乙川)弘文老師です。アップル社のシンプルで画期的な製品の設計思想に影響を与えたのももちろん、ジョブズの不遇の時代を支えたのも知野老師でした。
 そんな二人の禅問答的交流を紹介したのが、このコミックというわけです。紹介の動画がありましたので、ちょっと見てみてください。

 Amazon ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ The Zen of Steve Jobs

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.08

悲観は楽観の母

0048 「観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」
 昔、小泉さんや麻生さんも使ったこの言葉、フランスの哲学者アラン(すなわちエミール=オーギュスト・シャルティエ)の「幸福論」の中にある言葉です。
 昨日の話で言えば、「下山」は悲観になるのでしょうかね。重力に従うので気分。「登山」は楽観、重力に逆らうので意志と。
 私の「モノ・コト論」から言うと、「ものがなしい」「ものさびしい」「ものおもひ」に代表されるように悲観は「モノ」領域、「しごと」「ことのは」に代表されるように楽観は「コト」領域となりましょうかか。
 人は放っておくと「悲観的」になりがちです。これはおそらく本能でしょうし、種の保存のために絶対必要なプログラミングなのだと思います。全て楽観では人類はとっくに死滅していたでしょう。
 なんとなく「悲観」はマイナスイメージで「楽観」はプラスイメージという感じですが、よく考えるとそうは単純ではないような気もしてきます。
 五木寛之さんが「下山」を思想化し、私が「コトよりモノの時代」と言っているように、ある意味では楽観よりも悲観が重要視されるべき時代なのかもしれません。
 私は根っからの楽天家だと思われがちで。すなわち、アラン流に言えば、私は「意志の人」ということになります。なんだかかっこいいですね(笑)。
 いえいえ、実を言うとそうやってバランスを取っているとも言えるのです。本当はかなりのペシミスト(?)。
 どちらかというと、根っからの楽観主義ではなくて、悲観を受け入れているとでも言いましょうか、ある種の諦念のような感じなんですよね。俗っぽく言えば「なんとかなるさ」。
 悲観主義はウェットな感じがしますよね。それはある意味では同情や共感を欲している姿勢とも言えます。慰めや励ましを求める表現。
 いや、それは悪いことではないのです。それこそ私たち人類はそういうポーズを本能的に取ることによって、他者の力を得て協働してやってきたわけですから。
 そして、その結果として「困ったときには誰か助けてれる」という実感に基づいた「楽観」が生じるのだと思います。だから、私からすれば、「悲観は楽観の母」。
 だから「悲観的」であることを恥じることも卑下することもありません。まずそこがスタートなのですから。自分は悲観的だから「意志」の弱い人間だ、なんて考えるのは大間違いです。
 実はアランの上記の言葉には、次のような文言が続くのです。
 「成り行き任せの人間は、気分が滅入りがちになる」
 そう、本能的な「悲観=気分」にとどまっている、あるいは浸っているだけではだめだということなんです。悲観と悲観する自分をしっかり受け入れて、そして他者に運命を預けることができれば、すなわち「楽観」を手に入れることができるのです。
 そういう発想こそが「意志」なのでしょう。それが仏教的に言えば、まさに「上山」することであり、自己を滅却しようという意志そのものだと思います。
 前もどこかに書きましたよね、自分がダメ人間でも立派な人間でも、宇宙全体にはたぶんなんの影響もありません(笑)。その事実を「悲観的」にとらえるか「楽観的」にとらえるか。答えは一つでしょう。
 そうそう、私の尊敬する稲盛和夫さんが、会社経営についてこういうことを語っていますね。
 「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」
 これは人生にも当てはまるでしょう。妄想は楽観でいいでしょう。しかし現実は悲観。そして先ほど書いた「悲観を受け入れた楽観」で生きる。お釈迦様もそういうことを言ったのではないでしょうか。

Amazon 幸福論

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.07

『下山の思想』 五木寛之 (幻冬舎新書)

20120208_91529 「山」…私は「登山」の反対語ではなく、「上山」や「入山」の反対語の「下山」だと思いました。つまり、修行僧が還俗する話かと…。
 五木寛之さんですから仏教の話だと思ったのです。私は登山家ではなくそちらに近い人間なので(苦笑)。
 なるほどねえ。我々日本人はすでに登頂してしまったのでしょうかね。そしてその山はなんという山だったのでしょう。なぜ、私たちはみんなでその頂を目指してしまったのでしょうか。
 なるほど、「山の醍醐味は『下山』にある」か。ゆとりをもって、周りを見回すことができると。そして頂点に集中していたものが拡散していくという発想も理解できます。もちろん、そこから新しい山を目指すという可能性の行為ととらえるというのも分かります。
 ただ、この本を読んで、私が救われたかというと微妙です。それは私という読者の特殊性のゆえだと思いますから、筆者を責められません。
 一つは、登山家でない私には「下山」が決してゆとりのあるものではなかったということです。私の数少ない「下山」経験からすると、それは苦痛でしかなかったのです。
 まずウチの裏山である「富士山」。こいつの「下山」はいつも最悪です。下山するんだったら、ずっと登っていたいくらい私は嫌いです。なにしろ足が痛い。膝がガクガク。そして、足の先、足の裏に激痛。ま、単にシロウトだからでしょう。でも、いやなものはいや。
 その他の山でも「下り」はどうも好きではありません。なにせ、私のつまらない根性には、「せっかく登ったのに下りちゃうのもったいないな」と感じられるからです。「またあの俗世間に還るのか」という落胆にも似た虚無感があるのも事実です。
 おそらくそれもまた登山のプロからするとなんとも稚拙な精神性の賜物であるのでしょう。残念であります。だから、この本の比喩としての「下山」にいちいち納得できなかったのです。
 理想論としては分かります。うまい発想の転換だなとも思いました。しかし、この先、とりあえず下界に下りなければならないこと、そしてその下界がその後どうなっているか分からないこと、さらに今登った山にはもう登ってはいけないと暗に言われていること、かと言って次に登るべき山の姿すら見えないこと、もっと言えば、次なる山があるのかどうかも分からないことも事実なのです。
 この登山と下山を自己の人生の比喩として読むと、これまた「下山を楽しめ」と言われてもなかなか難しいですよね。もう一山登る元気がないという人もいるでしょう。それから若者はまだ一山すら登っていないのに、いきなり下山かよ!?でしょうしね。
 私はこう思います。やはり下山の苦しみは下山の苦しみであると。また、下山の楽しみに下山の楽しみにすぎないと。下山という行為自体に意味や価値を見出しても、それだけではダメなような気がするんです。
 はたして今登った山の価値はなんだったのか、それをじっくり考え反芻しながらの道筋であるべきとも思います。決して「登った山が間違っていた」ではありません。
 もう次の山には登れないかもしれないのです。いや、山に登る必要もないのかもしれません。ただみんなで一つの山に登ったことは事実なのですから、そこに最大の意味と価値を探すべきでしょう。
 それは、それこそ仏教的な「上山(入山)」と「下山」の関係と同じだと言えるかもしれません。私もたった一泊の修行の真似事を何回かやらせていただいていますが、たったそれだけでも、下山のすがすがしさや達成感と、そこに必ず寄り添う一抹の不安や寂しさを、いつも感じています。その相矛盾する感覚こそが、私は「下山の思想」であると思います。
 すなわち、実際の登山であっても、お寺に関することでも、山に上るというのは「現実から離れる」という意味合いが大きいと思います。そして実際に客観的俯瞰的に自己や社会の現実を再確認し、そして再び下っていくわけじゃないですか。
 ということは、歴史的に私たち日本が果たした「登山」というのもまたそういう意味合いのものだったかもしれないわけです。つまり幻想への逃避であったと。
 そして、今そこを下りて現実に帰還せんとしている。その一種の不安こそが、現代の「うつ」や倦怠感そのものなのではないか。それは「重力に逆らわず落下する」感覚とでも言うのでしょうか。
 無理やり私の仏教的「モノ・コト論」に引き寄せるなら、登山は自然(重力)への反発という意味で「コト」になり、下山は自然(重力)に対する従順という意味で「モノ」になります。そうすると、我々が感じている「下山の憂い」こそが、いわゆる「もののあはれ」であることが分かりますよね。
 そこに気づくことが実は第一であって、そこからさあどうしようかというのが、仏教の、いや我々人類の大きな課題です。
 すなわち、私たちは戦中、戦後と、大変な修行を課せられたのです。ある意味両極端な修行を。さらに総決算とも言えるあの震災や原発事故がありました。それが終わり、今現実に還ろうとしている。
 修行を終えた私たち自身は、明らかに登山(上山)前とは違っています。当然その目には下界は以前と違って見えることでしょう。
 この修行の成果を発揮するのはこれからです。「下山」は未来への覚悟をするステージです。
 結局は五木さんと同じような結論になりますけれども、これが私なりの「下山の思想」ということになるでしょうか。

Amazon 下山の思想


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.06

キース・エマーソン・バンド 『Moscow(DVD)』

Keith Emerson Band
51kxwgjld9l 人から「これを観ないでは死ねない」と言われ購入したDVD。たしかにこれはすごい。これが1000円そこそこで手に入るなんて、まあなんと幸せな時代なのでしょう。
 ちょうどこの前、エマーソン・レイク&パーマー 『 Live in Japan(1972年後楽園球場)』を紹介しましたね。あれはあれで若かりし頃のキース・エマーソンの素晴らしいパフォーマンスだったと思いますが、やはりこちらの方が数段ステージが上ですね。
 昨日の「禅」の話じゃないですけれど、やはり究めて窮めて極めるとこういう「形」になるんだなと。表現ではなくて、本物それ自体なんですよ。誰も真似できない。
 EL&Pでないからこそ、このクオリティーだとも言えましょうか。ヴォーカル&ギターのマーク・ボニーラはじめ周りを固める「職人(弟子)」たちによってより高められたエマーソン老師という風情ですね。
 屹立する(大)Moog様が、そこに鎮座する仏像、いや曼荼羅図のように感じられたの私だけではないでしょう。ここまで来ると、もう無機物であるとか、機械であるとか、電子機器であるとか、そんなことはどうでもよくて、全てが「自然」の造物であるという感じがしてきます。
 それにしても、この「形」はすごいですね。キース・ジャレットやパット・メセニー、そしてイチローについての記事などで書いてきましたよね、「超一流は独自の形になる」と。それは一般的には「変」であり、誰も真似できないと。ここでのエマーソン老師の指使いというか手の形というか、これは「変」ですよ。鍵盤を弾く方ならお分かりになるでしょう。真似のしようがありません。
 この手さばき、指さばきは、「気」を操る領域ですね。もちろん機械を操作しているのではない。昨日の宮戸さんとの話で言えば、「合気道」の植芝盛平という感じですよ。特にテルミンに対峙した時(笑)。
 その他、もろもろのことはぜひともAmazonのレビューをご覧下さい。私なんかより彼らに詳しい方々が皆興奮して表現しています。
 探していたら、ありました!このDVDの中でも圧巻と言えるあの「LUCKY MAN」が!これを観て聴いて鳥肌が立ったなら、すぐにアマゾンでポチッとしてください。家宝になります。ちなみにリージョン・フリーのようです。日本のプレイヤーでちゃんと再生できます。

Amazon Moscow(DVD)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.05

『迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 』 ネルケ無方 (新潮新書)

51fvctgyxll 日の話題「方便」も出てきました。へえ〜、僧堂ではこういうのを「方便」と言うのか。
 今日は東京にてマタイ受難曲の練習。鞭打ちのシーンの付点はもっと鋭く…と言われても、仏の慈悲心からかどうしても甘くなってしまう…いやいや、単に技術がないからです(苦笑)。
 実は練習の合間にこの本を読み進んでいたのですが、まあまたまた驚きの偶然、いや必然がその後起きました。
 練習が終わって、私は高円寺に向かいました。真のプロレスリング伝導者にして、IGFの現場監督(GM)宮戸優光さんに会いに行くためです。
 大晦日の「元気ですか!! 大晦日!! 2011」や2.17の興行のこともいろいろお聞きしたかったし、昨年はいろいろプライベートでもお世話になっていたので、お礼かたがたいろいろお話をしようと思っていました。
 私たち二人が話を始めると、ちょっと不思議な雰囲気になります。おそらく周囲の人たちはついてこられない世界ではないでしょうか(笑)。すなわち、プロレスや教育の話をするのですが、それが非常に「禅」的な内容とスケールになっていくのです。
 そして、なんとも摩訶不思議なことに、私は何も言っていないのに、宮戸さんの方からこの本の話が出たのには驚きました。それ、まさに今日読んでいる本ですよ!もうこれは偶然ではないですよね。あまりにマニアックにピンポイントすぎます。仏縁でしょう。
 いやあ、本当に宮戸さんは私にとって、アントニオ猪木という神(仏?老師?怪物?)の良き右腕としてのみならず、一人間として尊敬すべきプロレスラーであり指導者であり、そして、これはおこがましいかもしれませんが、良き修行仲間という感じがするのです。
 なかなか言葉では説明できませんが、互いに「仕事」や「鍛錬」を通じて、共通する「何か」の存在を予感し、いや確信しているんですね。そこに大きな共感があるんです。
 だから、今日のような不思議なシンクロが生まれるのでしょう。
 正確にいうと、この本が直接出てきたのではなく、この本で紹介されているオイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」の話から、この本の話になったのです。まさに今日のお昼にその「弓と禅」が紹介されているところを読んで、私自身も「ああ、そう言えば『弓と禅』読んでないな」と思った矢先だったので驚いたというわけです。
 さて、そんなわけで、帰宅してからまずはこの本を一気に読み終えました。ものすごいスピードで読めたのは、宮戸さんとの会話のおかげで、この本に書かれている内容の理解が…いや理解ではないな…腑に落ち方が尋常ではなかったからです。
 これぞまさに「師匠」の力であり、「縁起」そのものでありましょう。ありがたいことです。
 そういう意味も含めまして、この本、今まで読んだどんな禅に関する本よりも、すうっと心に、いや体に入って来ましたね。「私が座禅するのではなく、座禅が座禅するのだ」…この境地は予感できます。いや、理屈や言葉によらずに「確信」できます。
 ネルケさん、いや無方禅師の、その境地まで至る過程もまたよく分かるものでした。
 私もかなり徹底した「野狐禅」「野狸禅」の実践者でして、最近ではいろいろな老師様とお話する機会をもいただいております。普通の雲水さんではとてもお話できないような方々ですよ。野にあるからこそ可能なことです。ずうずうしいだけとも言えますがね。また、上司や同僚、教え子や友人に僧堂での経験者が多いこともありまして、日本の仏教そのもののあり方や禅の修行の問題点や奇妙なところをけっこう知っている方だと思います。
 それをドイツ人であるネルケさんが実に客観的に、そしてある意味批判的に包み隠さず書いている点(もちろん仮名が使われたり、寺名は伏せられたりしていますが)、非常に貴重な「資料」だとも言えます。なかなか内部の人、特に日本人にはこうは書けませんね。
 そういう意味では、以前紹介した「食う寝る坐る 永平寺修行記」とも一線を画していると言えます。かの著者は日本人でしたし、僧侶になったわけではありませんから。
 「禅」に興味がある方はもちろん、東西の比較文化論に興味がある人、あるいは「迷える者」たちにもぜひ読んでもらいたい本です。
 最後に道元禅師による「現成公案」の一部を、著者が現代語訳したものを引用させていただきます。ここに禅のエッセンスが表されていると感じました。

 私たちの日常生活も、それをはるかに越えた宇宙全体も、様々な側面がある。しかし、私たちに見えているのはそのほんの一部分でしかない。それぞれの視野に収まる範囲の物事を見聞きし、各々が受けてきた教育や人生体験で処理しているだけだ。物事の本当のあり方が知りたければ、自分のメガネを通して物事に『◯╳』をつける以前に、物事にはこの頭で割り切れない側面のあることを理解しなければならない。周りの人々(山・川)にはまだ気づいていない徳もあろうし、自分が想像してもいない世界が他にもあるということを、よく承知していなければならない。これは他人事ではない、自分の足下の話なのだ。

Amazon 迷える者の禅修行


| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012.02.04

嘘も方便(三車火宅の譬え)

写真は柴又帝釈天の胴羽目です。名作「三車火宅の図」。
Img_1816555_64367758_8 日は中学校の一般入試でした。
 今回も国語の問題の本文を掲載しましょう。何度も書いているように、私は国語の問題の本文を自分で書きます。それにはいろいろな理由があるのですが、やはり最大の理由は「入試は一期一会」だということでしょう。
 合否とは別に、受験生(小学生)の人生にとって何か意味を残したいからです。
 今回は「うそ」をテーマにしてみました。私もこれまで存分嘘をついてきた人間です。偉そうなことは言えないはずですが、いや、だからこそ言えるというのもあるかな、とにかく自分自身の反省や勉強も兼ねて、「嘘も方便」のもとになったと思われる、法華経の中の「三車火宅の譬え」を取りあげてみました。
 もちろん実際の問題には、傍線部や空欄などがあるわけですが、ここでは原文のみ紹介します。最後にはこの文章に基づいた作文を書いてもらいました。皆さんそれぞれ素晴らしい文章を書いてくれまして、職員一同感動しました。
 では、今日も縦書きでどうぞ。昨日の漱石の文と比較しないでくださいね(笑)。


    うそ

 「うそをついてはいけません」
 「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」
 みなさんは、大人によくそう言われてきたのではないでしょうか。もしかすると、これからも言われるかもしれませんし、将来は自分がそのように言う立場になるかもしれません。
 では、世の中に「うそ」は全くない方がいいのでしょうか。
 もし、「うそ」ということばを辞書にあるとおり「事実でないこと」だと定義すると、国語の教科書にのっている物語や、いつも見ているテレビドラマやアニメは「うそ」だということになります。
 それからまだ起きていない未来について言うこと、たとえばテレビの朝の占いや天気予報、さらには「君はがんばればきっと総理大臣になれるよ」などという励ましのことばまでもが、正確に言えばみんな「うそ」ということになってしまいます。
 そう考えると、すべての「うそ」をなくすのも、なんとなくさびしいような気がしてきます。
 では、どうして「うそをついてはいけません」とか「うそつきはどろぼうのはじまりだぞ」とか言ったり言われたりするのでしょう。
 ここでヒントになるのは、「うそつきはどろぼうのはじまり」と対照的な意味を持つ、「うそも方便」ということわざです。いったいどんな意味なのでしょう。さっそく辞書をひいてみましょう。
 うそも方便=場合によってはうそも手段として必要である意
 辞書に「うそは必要」としっかり書いてあるのは驚きですね。しかし、ここで「ああ、なんだ。うそってついてもいいんだ」と思ったとしたら大まちがいです。もう一度よく辞書の説明を読んでみてください。
 「場合によっては…」
 そう、ここが大切なのです。この「場合によっては…」の「場合」がなんなのか考えなければ、このことわざの本当の意味はわかりません。
 この「うそも方便」の「方便」ということばは、実は仏教用語です。簡単に言いますと、「仏様が人間を救う方法」という意味です。つまり、「うそも方便」とは「うそも仏様が人間を救う方法のひとつである」というのがもともとの意味なのです。
 えっ? うそが人を救う? 疑問に思いますよね。では、一つのたとえ話をもとにじっくり考えてみましょう。
 あるお経のなかに、「三車火宅さんしゃかたくたとえ」という話があります。次のような内容です。

 昔々あるところに子だくさんの長者がいました。
 ある日長者がでかけている間に、家で火事が起きてしまいました。家の中では子どもたちが留守番をしながら遊んでいます。子どもたちは遊びに夢中で火事に気づいていません。
 「早く逃げなさい!」
 急いで帰ってきた長者は、子どもたちに大声で呼びかけますが、だれも気づきません。
 すっかり困ってしまった長者は、ここで大切なことに気づくと同時に、一つの方法を思いつきます。無理やりこちらに来させようとしてもだめだ、自分の意志で行動させなければ。
 「みんな、こっちに君たちがほしがっていた立派な車があるよ」
 するとどうでしょう。子どもたちはわれ先にと走ってきました。するとそこには思っていたよりもさらに立派な車が用意されていたのです。子どもたちはそれに乗って無事火事から逃げることができました。

 お話は以上です。どうですか。この話の中で、長者は「うそ」を言っていますね。それも二重のうそをついています。
 まず、「立派な車があるからこっちに来なさい」というのは、その時思いついたことであり、本当なら「火事だからこっちに逃げなさい」と言うべきところです。本当のことを言っていないのでこれは「うそ」だと言えます。
 そして、実際に子どもたちが来てみたら、自分たちがほしがっていたものよりももっと立派な車があったわけですから、やはり本当のことを言っていません。それも正確に言えば「うそ」だということになりますね。
 もし、全ての「うそ」をいけないことだとするなら、この話は、子どもをだましたとんでもない悪い長者の話ということになります。しかし、みなさんもそうは思わなかったでしょう。
 そうです。これこそが「場合によって」の「場合」なのです。
 つまり、「相手のためになる」場合には、「うそ」が必要になることもあるのですね。
 では、この「三車火宅の譬え」において、どんなふうに「うそ」が「相手のためになっている」のでしょうか。よく考えてみてください。二重のうそには、二重の「相手のため」があることが分かってくるはずです。
 まず最初の意味での「うそ」、つまり「立派な車があるからこっちにに来なさい」というのは、火事から子どもたちの命を救うための「うそ」です。これはまちがいなく「相手のため」のうそですね。「うそ」を言わなかったら、子どもたちは死んでしまったにちがいないからです。
 また、もう一つのうそ、実際にはそれ以上の立派な車があるのに、「君たちがほしがっていた立派な車」と言ってしまった部分はどうでしょう。これはちょっと難しいかもしれません。
 子どもたちを火事場から離れさせるのに、長者は最初「早く逃げろ!」という強制的なことばを使いました。その時、子どもたちは反応しませんでしたね。しかし、車のことを言うと、自ら喜んで走ってきました。つまり、「うそ」のおかげで、子どもたちは自分から進んで行動することができたのです。
 実はそのように自分から行動できた子どもたちを見て、長者(実はお釈迦様なのです)が、ごほうびとしてより立派な車を用意したのです。
 分かりましたか。「相手のためになるうそ」が存在することが。
 逆に言うと、「相手のためになる」場合以外の「うそ」は許されないということです。
 たとえば、相手をだまして自分だけが得をするための「うそ」だとか、相手が傷つく「うそ」だとか、自分を守るためだけの「うそ」は絶対についてはいけないのです。
 私たちはついついそういううそをついてしまうものです。方便となる「うそ」をつくのは難しい。お釈迦様レベルなら可能かもしれませんが、私たち凡人にはなかなかできません。だから、つい簡単な方の「うそ」をついてしまうのです。
 こう考えてきますと、物語やドラマ、そして励ましのことばなどが、まさに「方便」であって、一般的には「うそ」だと言われない理由も分かってきます。そして、それらを作り出したり、使ったりすることが、いかに難しいか、そして責任重大かということも分かってくるのではないでしょうか。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.03

夏目漱石 『素人と黒人(くろうと)』

20100526201449 「士山の全体は富士を離れた時にのみ判然と眺められるのである」
 今日もまた他人のふんどしです。
 中学高校の仕事をしていますので、小学6年生のために問題を作ったりする一方、大学入試の文章も読まねばなりません。まさに受験シーズンですなあ。この時期は忙しいけれど楽しい。私は普通の国語の先生と言うより受験国語の先生なので。
 今日は昨年の早稲田大学の問題を生徒と一緒に解きました。最近の早稲田の問題は昔に比べると「良問」になっている気がします。単に自分が慣れてきただけかもしれませんが。
 で、その現代文の本文の一つが漱石のエッセイでした。大正13年(1914年)東京朝日新聞に掲載されたものだそうです。
 これがなかなか面白い「漱石節」だったので、思い切って抜粋されていた分すべてを紹介します。
 まあ簡単に言えばいわゆる「玄人」をけちょんけちょんにやっつける文章ですね。こんな口調でここまで言うなんて、いったい漱石に何があったのか、何がこれを書かせたのか、興味のあるところです。
 しかし、ここに書かれていることは、古今東西・硬軟聖俗すべてに普遍的なことであるような気がしますから、単なる個人攻撃、あるいは感情論ではないということですね。そのあたりが漱石らしいところです。
 そして、漱石らしいと言えば、最後の段落でしょうかね。うまいこと逃げているとも言えるし、皮肉がきいているとも言えます。
 なんか、そのあたりは自分の書く文章にも似ているな…いやいや、私が漱石の影響を受けていると感じました。私もよく使う技であります(笑)。
 ところで、どうして漱石は「しろうと」は「白人」ではなく「素人」と書いているのに、「くろうと」は「玄人」ではなく「黒人」としたのでしょうか。
 おかげで、「素人と黒人」でググると大変なことになります(笑)。ぜったいに検索しないようにしましょう。
 漱石のいたずらでしょうかね(苦笑)。
 いや、実際、明治時代には「しろうと」は「素人」という表記しかなく、「くろうと」は「黒人」が一般的であったようです。「玄人」は案外新しい表記らしい。おそらく「黒人」が「黒色人種」の意味として一般化すると同時に、それとの差別化を図って「玄」という字をなんらかの理由で使うようになったのでしょう。
 それまでは「黒人(こくじん)」というと、「しろうと」の反対で「遊女」のことを指しました。
 ちなみに「素人」という漢字は中世から近世にかけて既に一般的でした。
 では縦書きでどうぞ。ルビもつけちゃえ! 面白いのでぜひお読みください。

 良寛上人は嫌いなもののうちに詩人の詩と書家の書を平生から数えていた。詩人の詩、書家の書といえば、本職という意味から見て、これほど立派なものはないはずである。それを嫌う上人の見地は、黒人の臭みをにくむ純粋でナイーブな素人の品格から出ている。心の純なるところ、気の精なるあたり、そこにれ枯らしにならない素人の尊さが潜んでいる。腹の空しい癖に腕でき廻している悪辣がない。器用のようでその実は大人らしい雅気に充ちた厭味いやみがない。だから素人は拙を隠す技巧を有しないだけでも黒人よりもしだといわなければならない。自己には真面目に表現の要求があるということが、芸術の本体を構成する第一の資格である。既にこの資格を頭のうちに認めながら、なおかつ黒人の特色をうらやむのは、君子の品性を与えられている癖に、手練手管てれんてくだの修業をしなければ一人前でないと悲観するようなものである。  ここで、更に新しい所から黒人と素人を比較して見ようと思う。あるものを観察する場合に、ず第一にわが眼に入るのはその輪郭である。次にはその局部である。次には局部のまた局部である。観察や研究の時間が長ければ長いほど、段々細かい所が眼に入って来る、ますます小さい点に気が付いて来る。これはすべての物に対する我々の態度であって、ほとんど例外を許さないほど応用の広い自然の順序と見ても差支さしつかえない。だから芸術の研究もまたこの階段を追って進んで行くに違いない。いわゆる黒人というものはこの道を素人より先へ通り越したものである。そうしてそこに彼等の自負が潜んでいるらしい。彼等の素人に対する軽蔑の念も亦そこからいて出るらしい。けれどもそれは彼等が彼等の径路を誤解して評価づけた結果に過ぎないと、自分は断言してはばからない。彼等の径路は単に大から小に移りつつ進んだのである。浅い所から深い所に達しつつあるのでもなければ、上部から内部に立体的に突き込んで行きつつあるのでもない。大通りを見つくしたから裏通りを見る、裏通りを歩き終ったから、横丁や露地を一つ一つのぞいているという順序なら、たとい泥板どろいたの上を一軒一軒数えて廻っても、研究の性質に変化の来るはずがない。それを低い平面から高い平面に移された様に思うのは、いわゆる黒人のイリュージョンで、平凡な黒人は皆このイリュージョンに酔わされているのである。単にこれだけなら彼等の芸術に及ぼす害毒はさほど大したものでないかも知れない。けれども彼等はこの甘いイリュージョンにあざむかれて、大事なものは何処どこかへ振り落して気が付かずにいるのである。  観察が輪郭に始まって漸々ぜんぜん局部に移っていくという意味を別の言葉で現すと、観察が輪郭を離れてしまうという事に帰着する。離れるのは忘れる方面へ一歩近寄るのと同然である。しかもその局部に注ぐ熱心が強ければ強いほど輪郭の観念は頭を去る訳である。だから黒人は局部に明るい癖に大体を眼中に置かない変人に化けて来る。そうして彼等の得意にやってのける改良とか工夫というものはことごとく部分的である。そうしてその部分的の改良なり工夫なりがごうも全体に響いて居ない場合が多い。大きな眼で見ると何の為にあんな所に苦心して喜んでいるのか気が知れない小刀細工をするのである。素人は馬鹿馬鹿しいと思っても、先が黒人だと遠慮して何もいわない。すると黒人はますます増長してただ細かく細かくと切り込んで行く。それで自分は立派に進歩したものと考えるらしい。高い立場から見下すとこれは進歩でなくって、堕落である。根本義を棚へ上げて置いて、末節にばかり齷齪あくせくする自分の態度に気がついたら黒人自身もしか認めなければなるまい。  素人はもとより部分的の研究なり観察に欠けている。その代り大きな輪郭に対しての第一印象は、この輪郭のなかで金魚のようにあぶあぶ浮いている黒人よりは鮮やかに把捉はそく出来る。黒人のように細かい鋭さは得られないかも知れないが、ある芸術全体を一眼に握る力において、糜爛びらんした黒人のひとみよりもたしかに溌剌としている。富士山の全体は富士を離れた時にのみ判然と眺められるのである。  ある芸術の門をもぐる刹那に、この危険は既にその芸術家の頭に落ちかかっている。虚心に門を潜ってさえそうである。与えられた輪郭を是認して、これは破れないものだと観念した以上、彼の仕事の自由は到底毫釐ごうりの間をうろついているにすぎない。だから在来の型や法則を土台にして成立している保守的の芸術になると、個人の自由はほとんど殺されている。その覚悟でなければ這入はいる訳に行かない。能でもおどりでも守旧派の絵画でもみんなそうである。こういう芸術になると、当初から輪郭は神聖にして犯すべからずという約束の下に成立するのだから、その中に活動する芸術家は、たとえ輪郭を忘れないでも、忘れたと同じ結果に陥って、ただ五十歩百歩の間で己の自由をみせようと苦心するだけである。素人の眼は、この方面においても、一目の下に芸術の全景を受け入れるという意味から見て、黒人に優っている。  こうなると俗にいう黒人と素人の位置が自然転倒しなければならない。素人が偉くって黒人が詰まらない。一寸ちょっと聞くと不可解なパラドックスではあるが、そういう見地から一般の歴史を眺めて見ると、これはむしろ当然のようでもある。昔から大きな芸術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、その人は黒人でなくって素人でなければならない。人の立てた門を潜るのでなくって、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.02

アンデシュ・ダンマン 『オール・ユー・ニード〜クラヴサン組曲』

Anders Danman 『ALL YOU NEED-LIVRE DE CLAVECIN』
41ahgpqthxl_sl500_aa300_ みません、土曜日に一般入試である上に、再来年度へ向けての大仕事もあって、なかなか時間が取れません。よって、またまた音楽ネタ。YouTube頼みとなります。
 しかし、案外こういう時でないと、こういうものたちを紹介できなかったりするので、これはこれでいいのかもしれません。実際、ここ数日の記事は(一部のマニアの方に)なかなか好評です。
 さて、今日はまたすごいものを紹介しますよ。私、これ大好きなんですよ。素晴らしい。ある意味私の理想です。
 演奏者のアンデシュ・ダンマンはスウェーデン出身のチェンバリストでトン・コープマンの薫陶を受けた人です。古楽奏者として充分に実力を持った人で、彼のデュフリの録音を聴きましたが大変素晴らしい演奏でした。どうもフランスものが得意のようですね。
 そんな彼が、「クープランがビートルズを知っていたらこんな曲を書いただろう」という大胆な仮説をもとに編曲ではなくて「作曲」をし、そして演奏してしまったのがこのCDです(!)。
 その出来がですね、本当に素晴らしいのです。こういう企画というのはたいがい「痛い」ことになってしまい、だからこそ、昨日紹介した完全コピーの方がより好感をもって迎えられたりするわけです。
 ああ、そうそう、今から50年近く前に、このダンマンと同じような発想ですごいことをやらかした人がいましたね。今や古楽界の重鎮の一人となった感のあるジョシュア・リフキンの『バロック・ビートルズ・ブック』です。これにもたまげましたっけ。
 最近YouTubeに一部アップされたので、こちらから聴いてみてください。笑っちゃうほどすごいですよ。
 本題にもどります。バッハになりきったリフキンさんと同じくらいの才能をもって、ビートルズを知っているクープランになりきったのが、このダンマンさんです。この二人のような柔軟なスタンス好きだなあ。
 ダンマンさんも完璧にクープランの作曲技法をマスターしていますね。実に自然です。いや、自然じゃないはずなんですよね。なにしろ、ビートルズが素材ですから。しかし、自然に刺激的なのはなぜなのか。
 たしかにクープラン本人も異国趣味が強く、いろいろな外国の音楽に興味を持ち、刺激を受けて自作の中に取り込んでいますよね。だから、「イギリス」のこういう「俗謡」を聴いたら、たしかにこういう曲書いただろうなと思うんです。
 新発見の和音進行、豊かな旋律、前近代音楽的な音階、ブルーノート…それらのフランスバロックへの配合のさじ加減が絶妙なんですよ。本当にお見事。楽譜が出れば、日本の演奏家たちにとっても新しいレパートリーになると思いますよ。
 解説でダンマンさんが言っていることの中で面白かったのは、クープランは英語が分からなかっただろうし、興味もなかっただろうという話ですね(笑)。だから、歌詞のイメージと与えられた舞曲のイメージは全然重ならないのだとか。
 全曲をテキストで紹介してみましょう。これ読むだけで古楽ファン、ビートルズファンは身悶えしそう。私は両方なので悶死です。

組曲 第1番 ト長調
1. Honey Pie(プレリュード)
2. Hey Jude(アルマンド)
3. All You Need Is Love(クーラント)
4. With A Little Help From My Friends(サラバンド)
5. Ob-La-Di, Ob-La-Da(ジーグ)
6. Yellow Submarine ~ Michelle(ロンド)
7. Help!(メヌエット)
8. When I'm Sixty-Four(リゴードン)
9. Your Mother Should Know(カナリー)
10. Let It Be ~ Strawberry Fields Forever ~ Here Comes The Sun ~ Cry Baby Cry(ロンド)
11. I Want To Hold Your Hand(ルール)
12. Norwegian Wood (This Bird Has Flown) ~ The Fool On The Hill(ミュゼット)
13. Nowhere Man(タンブーラン)
14. Blackbird ~ Sexy Sadie ~ Yesterday(ロンド)
15. Revolution(エール)

組曲 第2番 ニ長調
16. Golden Slumbers(プレリュード)
17. Here, There And Everywhere(アルマンド)
18. Martha My Dear(クーラント)
19. Something(クーラント)
20. I Will(サラバンド)
21. The Continuing Story Of Bungalow Bill(ジーグ)
22. Yellow Submarine ~ Eleanor Rigby(ミュゼット)
23. I'm So Tired(エール)
24. Carry That Weight ~ And I Love Her ~ Mother Nature's Son ~ A Day In The Life(ロンド)
25. From Me To You(ブーレ)
26. All My Loving(ガヴォット)
27. A Hard Day's Night(メヌエット)
28. Strawberry Fields Forever(パスピエ)
29. Happiness Is A Warm Gun (シャコンヌ)

 これはもう聴いていただくしかありませんよね。まず冒頭のプレリュード(なんとハニー・パイ)をこちらでどうぞ。美しいし新しい!
 そして続くアルマンド(ヘイ・ジュード)はYouTubeにあったので、そちらでどうぞ。

 ちなみに使用楽器はクシェとタスカンのコピーです。A=392。調律は名称までは聴き分けられませんが、当然平均率ではなく古典調律です。

Amazon オール・ユー・ニード〜クラヴサン組曲

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012.02.01

古楽版ビートルズ完コピ…Beatles Baroque (Les Boreades de Montreal) ライヴ

 あて、まだまだ忙しいので、またまたYouTubeネタです。
 一昨日のボヘミアン・ラプソディのところで、古楽版完コピの話を書きましたら、さっそく盟友のチェンバリストの方から、ありがたいコメントをいただきました。遠くてもぜひ実現しましょう!
 ということで、古楽版ロック完全コピーとはなんぞや?と思われる方のために、実際の演奏をお聴き(ご覧)いただきましょう。
 このブログでも、こちらこちらに紹介した、カナダの実力派古楽合奏団「Les Boreades」の演奏です。
 記事にも書きましたとおり、彼らは基本古楽器を使って、ビートルズナンバーを完全コピーしています。アレンジはもちろん、ボーカルのニュアンスやメロトロンの揺れなどもちゃんと再現しちゃうこだわりぶりです。
 こうしてみると、本当にビートルズというのは、西洋音楽の総決算と原点回帰的な部分があるんだなと感じます。ライヴも楽しそうですね。来日しないかな。
 で、私もぜひこういうのをやりたいのです。ビートルズだけでなく、クイーンやイエスやELPやELOなんかをね。ぜったい楽しいですよ。モダン楽器じゃダメなんですよ。その理由はかなり深いところにあると思います。
 ではたっぷりどうぞ。我々ピリオド楽器演奏家にとっても、かなり新鮮で刺激的です。

Amazon Beatles Baroque 1 Beatles Baroque 2 Beatles Baroque 3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年1月 | トップページ | 2012年3月 »