« 想像力 | トップページ | 究極の不安克服法…? »

2012.01.10

「コピー教」に思う…

Copy and Seed.
Kopimi_nietzche_zarathustra_2 日、こんなニュース(ネタ)を見つけて、しばし考え込んでしまいました。

 「ファイルコピーを神聖な行為だとする「コピー教」がスウェーデン公認宗教に

 これは笑い話のようですが、案外鋭いことを指摘しているのではないかと感じます。
 もちろん、「過剰な著作権保護は文化を衰退させる」というまっとうな意味でも鋭いと思いますよ。
 たとえば最近こんなことがありました。
 年末年始に静岡の実家に帰っておりました時、どうしても録画したい番組を見つけたんですね。で、父親に頼んでハードディスクレコーダーで録画してもらい、DVDに焼いてもらいました。
 父所有のレコーダーは、いわゆるコピーワンス時代のものでして、DVDにムーブすると本体からはデータが消えてしまうわ、当然VRモードなのでMacでは認識すらされないわ、バックアップを取ろうとしても一筋縄では行かないわ、学校で見せようとしたらプレーヤーが対応していないわ、まあいいことなんて一つもありませんでした(その辺の事情については、こちらの記事に詳しい)。
 実際のところ、こうした著作権保護のテクノロジーによって、従来認められていた教育の機会が奪われつつあります。このように、文化の創造と伝承の基礎機関である学校が大きなダメージを受けているのを見ても、「コピー教」の主張することは間違いではないとも言えましょう。
 まあ、それを「宗教」にするというのもどうかと思いますけど…しかし、考えてみると、「宗教」や「教育」という、いわゆる「啓蒙」という行為が正当化されている世界は、ある意味「コピー」の大量生産だとも言えますよね。つまり、私のやっている仕事も「コピー」であるとも言えるわけです。
M だいたいが、我々生物の根源的な仕事は、遺伝子をコピーし続けることであり、そういう意味でも、もしかすると、これは宗教としてふさわしいのかもしれない、なんて思われてくるわけです。
 ちなみに、私の「モノ・コト教」(笑)によりますと、コピーは「コト」の権化です。転変し無常である「モノ」世界に対抗する、生命の「意志」です。自然の法則(エントロピー増大則)に対するはかない抵抗です。
 で、私は「コトよりモノの時代」ということをさかんに言っておりますから、ある意味アンチコピー教ということにもなりますよね。「モノのあはれ」です。ま、それはお釈迦様の教え、仏教に近くなるわけですけれども。
 本来ですね、私たちが「神」だとか「仏」だと認識する実在というのは、そうした人知の及ばないモノであったわけで、その、私たちの「コト」の達し得ない「モノ」を一段高いステージに置いて、それでもって、ある種の「絶対性(コト性)」を持たせたものなんですね(だから日本では「ミコト」と言う)。
 ちょっと複雜になりますが、そんなわけで、私の教義(?)は「コトを窮めてモノに至る」なのであります(誰も理解してくださりませんが…苦笑)。
 おっと、自分の話はいいとして、ええと、あと「コピー」で気になるのはですね、前もどこかで書きましたでしょうか、「情報」がどんどんコピーされてですね、世の中に充満してくるとどうなるのかということです。
 つまり、いわゆる物(物質)はどんどん増えるということはないわけじゃないですか。人間が作り出した物(製品)はどんどん地球を埋め尽くしていきますが、その代わりにたとえば石油は枯渇していく。
 基本、モノ世界はエネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則で出来ているわけです。
 しかし、コト世界はどうなんでしょう。情報はエネルギーを持っていないのでしょうか。あるいはエネルギーを生み出したりしないのでしょうか。
 もし、エネルギーを持つとしたら、それが大量に生産され、あるいはコピーされていったら、どうなるのでしょうか。その辺について、実は誰も言及していないような気がするのです。
 先ほど書いたように、モノ世界の法則に対抗するのがコト(情報・データ・思念)世界だとしたら、今後起こることは、私たちが「科学」では知り得ないものになりますよね。なぜなら、科学では、情報もデータも思念も最終的には物理的な現象としてしかとらえられないからです。
 DVDをコピーすれば、メディアとしての円盤はどんどん増えていきます。これは物理的な世界での話です。では、そこに記録されている情報自体は無限に増やすことができるのか、あるいは先ほどの製品と原料の話のように、どこかで消えていく情報というのがあるのでしょうか。
 これだけ人間が増えているわけですから、何億年前よりも人間が認知する情報はどんどん増えています。一方で何かが減っているということを予感することもできるのですが、ではそれは具体的になんなのかというと、よく分かりません。
 このように、コト世界は結局のところモノ世界に、意識は無意識に、想定は想定外に、知は不可知に収斂していくので、この私の問い(悩み)は永遠に解決されないのかもしれませんね。
 それをこうして文字(言語)としてコト化している私自身、いったい何モノなのか…これは「宗教」の世界、霊的な世界、補集合の世界になっていきますね。
 う〜ん、気になる。だから私は出口王仁三郎や仏教の遺した情報に興味があるんだろうなあ。彼とお釈迦様は知っていたような気がするんですよね。彼らこそコトを窮めてモノに至ったと。
 いっそのこと、生きている限り、仕事でもプライベートでもコピーし続けて、その結果を確かめるしかないのか。あるいは「死」によって全てが「無」、いや「空」に還るのか。
 そうか、スティーブ・ジョブズも分かっていたのかもしれないな。

コピー教公式
 


|

« 想像力 | トップページ | 究極の不安克服法…? »

ニュース」カテゴリの記事

モノ・コト論」カテゴリの記事

歴史・宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/55913/53710048

この記事へのトラックバック一覧です: 「コピー教」に思う…:

« 想像力 | トップページ | 究極の不安克服法…? »